生年月日 昭和7年6月5日 大阪生まれ
犬種 シェパード
性別 牝
地域 石川縣金澤市
飼主 中島登美男氏→日本陸軍

 

人命救助、警察への捜査指導、映画出演など数々の功績をもつペッエは、日本犬界に記されるべき名犬でした。しかし戦地へ出征した後は消息が途絶え、そのまま存在を忘れ去られます。

警視庁のベル公、神奈川県警のアヤックス、石川のペッエのように、歴史に名を残せなかった「栄光なき天才たち」は犬の世界にもたくさんいたのです。

 

帝国軍用犬協会北陸支部の登録犬だったペッエ。首輪につけた2つのうち大きい方のメダルは帝犬競技会のものと思われますが、各支部ごとに独自デザインの入賞メダルを作っていたために判別は困難です。

ちなみに帝国軍用犬協会のメダルは民間ペットに授与されるもので、陸軍の軍犬功章とは全くの別物でした(陸軍の軍犬功章はメダルではなく特製首輪です)。

 

小さい方のメダルは帝国軍用犬協会北陸支部の功犬章。競技会の入賞メダルだけかと思ったら、功労犬への授賞制度もあったんですね。こちらはペッエに授与されたときの記念写真ですが、ストラップが同封されたメダルは初めて見ました。

 

石川縣石川郡金石町字相生町小生方の女中、同縣河北郡三谷村字市の瀬山田善次郎の四女、山田アヤ子十九歳は昭和十年九月二十一日午後四時頃濤々園下海岸で洗物中に足をさらはれ波に巻き込まれ流され生死の折り、伴ひし小生の愛犬ペツエに喰へよせられたのであります。

此の日は朝から雨もよひの上に空はどんより重苦しい日ではありましたが、アヤ子は其の様な事には無頓着で只犬を連れ仔犬の洗物に行き、我が物顔にペツエと海に遊ぶを樂しみに、早く洗物をすまそうと海水着一枚と成つて海中に入り洗物を始めましたが、夢中に洗物をするアヤ子には気が付きませんでしたが、最後の 洗物を終ろうとする時は何時しか烈しい風となり、ドス黒い日本海の波は轟々たる音を立て波打ぎはの砂と言はず石ころ木ぎれと言はず、打上又は巻き込み沖に引入れ、北陸の名物嵐となつて参りました。

アヤ子の氣付いた時はすでに遅く、恐怖したアヤ子は洗物を手に陸に上ろうと急ぎましたが、突如襲ひ來たつた波の爲め洗物は手を離れて二尺三尺と波に流されました。我を忘れたアヤ子は無謀にも前後を省みず流れて行く洗物を取り返そうと追ひましたが、其の時無慈悲にも波の爲めに足をさらはれました。
悲しい哉、泳ぎは知らず再び返した山の様なドス黑い激浪はアヤ子を木ぎれ同様二間三間と流し巻き込みました。
此まで「待てツ」をかけられて女主人の仕事の済むを見守て居ましたペツエは立ち上り、長く吠へ立てましたが人家は二丁もへだたり、風音、浪音に打ち消され誰も救ひに來て呉れそうな氣配もありません。
最早人の力を借りれぬと知つたペツエは身を躍らせて飛び込み浪をくぐり、人事不省のアヤ子の肩先を咬へ、激浪に弄ばれながらも苦闘の末、磯にアヤ子のグツタリした身體を引上げました。

以上がペツエの功績の顛末です。蛇足ながらペツエの經歴を録させて戴きます。

 

帝國ノ犬達-ペッテ
人命救助で石川県警本部に表彰されたペッエ(昭和10年)

 

昭和七年六月五日、マツクス・ダハイムの血を受けて大阪の地に生れ、同年の九月十三日金澤に連れて参りました。四ヶ月には山を運動中十二間の谷間に轉び落ちたスポンヂボールを持つて來て主人を驚かせました。
昭和七年十一月頃よりヂステンパー流行し病犬と其の犬舎に住ひ、テンパーを知らずにすみました。
昭和八年三月頃よりはじまり、朝の運動中通にても山にてもお錢、萬年筆、メガネ、ボール等を草の中から見つけ出し、教えへ知らせ又は咥へて來る事が度々ありました。

 

 

昭和八年八月富山縣では土佐ブルの喧嘩が禁止せられた爲め、多數金澤市内に飼はれる事となり、他人の變つた犬を見ると喧嘩をさせる事を自慢とする人が多くありました。此の事から香林坊で人間三人と土佐ブル一頭に待ちうけされましたが、人間の喧嘩と成るとペツエは一年二ヶ月たらずで初めてシエパードの勇猛ぶりを見せ、警官の來た時にはすでに相手の犬に傷をおはせ、人間二人は逃げ、ペツエをムチ打つた男は肩の付根下より喰ひ付かれ大傷致しましたが、警官立會で正當防衛である事が證明されました。
これで耳の立つた犬の強さを知られました。

 

ペッエとパールの仔。彼女は子育てしながら日々の訓練や競技会参加や映画出演をこなしていました。

 

昭和八年十二月十七日第一回の出産。
昭和九年四月山登りに近道する爲めに未知の地にふみ入り迷ひましたが、人道に連れ出され友人と連絡出來ました。
昭和九年六月二十七日第二回出産。
昭和九年八月末頃より山本陽久氏、冨塚敏信氏の御指導の元に訓練に十日通ひ、二十日間にて軍犬候補の課目を學びました。其の折り教へぬ板塀の二米突一〇を冨塚氏の手で飛ぶ事一回で學び驚かされました。
帝犬北支創立と同時の第一回の軍犬候補檢査に合格致しました。
昭和十年六月九日第三回出産。
昭和十年九月より北支宣傳映畫「果せよ天命(原文ママ)」に参加出演し、警察官、俳優達と半ヶ月働く内、石川縣廳、金澤市、玉川警察署、廣坂警察署にて訓練實演を爲し、永井警察部長殿、絹川警務課長殿、山口保安課長殿と共に記念撮影を致しました。尚ほ當時九師團長谷壽夫閣下と撮影を致しました。

 

帝國ノ犬達-ペッツェ
警察犬宣伝映画『果せよ、天職』に出演したペッエ

 

昭和十年九月二十一日、石川縣金石町海岸にて風浪高い中から山田アヤ子を救助致しました事は前述の通りです。
昭和十年十一月三日、金澤市尾山倶樂部にて騎兵會主催軍犬普及大會の舞臺實演に出場。
昭和十年十一月三十日、人命救助證を金石署より贈られました。
昭和十一年九月十三日、帝犬北陸支部競技大會にて成犬一席、師團長賞と特別レコード競技の一席、金石町長賞と獲得致しました。
昭和十一年九月十六日、九師團留守師團長中村馨閣下及び石川縣知事生駒高常閣下に實演を御覧に入れ、記念撮影を致しました。
昭和十一年九月三十日、石川縣小松町蘆城學校グランドに於て訓練實演を公開致しました。
昭和十一年十月、千葉習志野に於て十一年度帝國訓練優勝犬大會に参加、四席に入賞致しました。
昭和十二年五月、富山縣石動女學校運動場にて訓練を實演公開致しました。
扨て、愚犬現況はハウス・ナカジマの仔犬の訓練指導犬として、又團體及び學生達の恥かしながら訓練供覧犬と致し居ります。

中島登美男「貴き人命を救つたペツエ(昭和12年)」より

 

第二次上海事変が始まると、ペッエは陸軍に購買されて戦地へと出征しました。献納時のメモには「9D(Division)」と記されているので、金沢の陸軍第9師団に配属されたのでしょう。

同時期に北陸から出征した第9師団の軍犬には、ヘックセル、リップ、パール、やや遅れてケル―やベヌスらの名前が確認できます。その多くが、上海の激戦で命を落としました。

 

犬
出征するペッエ

 

母親の出征を見送るペッエの仔

 

曩に北陸支部から軍犬二十數頭が陸軍に献納されたその中、中島登美男氏の愛犬ペツエも第一線で華々しい活躍を續けてゐるが、ペツエ號の擔當者である上海派遣米良隊赤座彌平氏から次の如き上陸第一信が北陸支部に齎された。

途中無事上海に上陸、犬共愈々士氣旺盛です。出發の際の御厚情を感謝いたします。
御承知の通り、友軍の飛行機の爆撃のため焼野ケ原となつて居ります。
又随所に死體がさんらんいたし、死人くさいのがたまりません。むしろ敵より死人くさいのが厄介です。上海のクリーク及び川には死體が澤山浮んで目もあてられない状況です。
敵支那兵は日中はさほど後方に射撃いたしませんが、夜間になりますと迫撃砲の猛射をやります。
今〇〇部隊では人見部隊と伊佐部隊とが第一線に出ております。いづれ近日第一線配備になります。兎に角見る物は上海市の焼野ケ原と友軍の飛行機の支那爆撃と人及び軍馬の死體のみであります。
先は上陸地より御通知申上げます。

「ペツエの奮戰(昭和13年)」より

 

上海戦線へ送られる母親のペッエと息子のヘックセル(昭和12年)

 

ペッエとともに出征するヘックセル。親子が同時に戦地へ送られた珍しいケースでした。


第二次上海事変への増援が終ると、陸軍第9師団はそのまま南京侵攻、徐州会戦、武漢作戦と激戦地を転戦。昭和14年に凱旋帰国しました。

しかし、同年に帰国を果した功労軍犬の中にペッエの名前は見当たりません。

犬
ペッエの父親、マックス・ダハイム