生年月日 大正3年 高知縣生れ

犬種 土佐闘犬

性別 牡

地域 高知縣→熊本縣→高知縣→秋田縣

飼主 武田氏→山本隆造氏→京野兵右衛門氏

 

秋田闘犬界への土佐闘犬普及において、その先駆けとなった犬です。雷電をはじめとする土佐闘犬の大量移入により、湯沢闘犬界は大舘闘犬界などに匹敵する勢力へ成長しました。

これにより秋田犬の交雑化は拡大、カウンターとして昭和2年の秋田犬保存会設立へと至ります。

 

 

近年犬界の發達と共に、世界に燦として輝く日本精神と、優秀なる體形を有する國産土佐犬が認識されたが、今回の事變にて更に勇猛果敢なる鬪志が如何に大切なるかゞ痛感され、本種が益々利用發達普及されつゝあるのは國家の爲めにも眞に欣幸にたへざる次第である。

今回犬の研究より土佐犬の名犬に就いて執筆せよとのお話があつたが、調査不十分にて全く自信とて無く、躊躇してゐたところ、先輩京野兵右衛門氏等の御推薦を忝うし、浅學菲才をも省みず、執筆するに至りし次第で、御氣附の點は幾重にも御指導御鞭撻の程を御願ひ致したい。

 

名犬雷電號は大正三年、本場土佐に古今の名犬、近世土佐鬪技犬の先祖とも云ふべき野市館同腹、島瀬號の仔、岩手關號を父として、この世に誕生した。前名岩手關號と稱して七年頃より彗星の如く一躍斯界に頭角を現はし、數多群がる精鋭を薙ぎ倒し、八年春場所(番附三十三回)に大關の榮位を獲得し、直ちに熊本の綱田町の人、武田氏に渇望され、雷電號として、同氏が愛養致す事となつた。

當時熊本は鬪技犬取締嚴なる事と好敵手犬無き爲めに、遺憾名鬪技を演出致す事が出來ず、やむなく十年故郷土佐に歸り、高知市掛川町山本隆造氏飼養、春季番附定大會に小結格として俊英いろは號と鬪爭引分となり、三十七回番附に山本雷電として小結になる。

同年秋場所三十八回番附には舊位置大關に進む。翌十一年春季番附定大會に優勝し、名誉ある横綱の最高位に累進。三十九回、四十回(十一年秋)、四十一回(十二年春)の三場所横綱を張り通し、同年七月廿六日秋田縣湯澤町の京野兵右衛門氏の種犬として懇望され、思ひ出深き墳墓の地土佐を後に、吉良川十郎氏(土佐の人)の附添ひ秋田に移出された。時に年齢九歳。

 

 

當時既に土佐には眞力號(後に横綱となり、雷電號に劣らぬ名犬となつた。稿を改めて執筆する)、橋本號(後に大關となる。後に京野氏購入)、黑岩號、井上號(後に京野氏購入)、廣瀬二號、若杉號、森田號(後に東京にて購入、横綱として活躍す)、久保號等其の他數頭の優秀仔を作出してゐた。

 

 

 

當時秋田縣南は大正七、八年より秋田七分、土佐三分と云つた耳垂れ、又は半立の地犬に等しき體形の犬を鬪技犬大會に使用されてゐたが、どもセリ聲あり、又鬪爭時間が短かき缺點等が多多あつた。

たま〃大正九年舊正月、土佐の人山本市之進氏の妻女が愛犬山本號を引連れて來縣し、當時の秋田代表鬪犬谷響號(秋田七分、土佐三分の半立耳を當時新秋田と稱してゐた)と大曲町にて鬪爭。空前の大激戰を演じ、未曽有の二十分の鬪爭時間記録を作つて引分となつた。

この鬪爭は谷響號下(足又は咽喉下等の下半身)を攻撃し、山本號は上(耳等)を攻撃、旗鼓堂々危氣なく、セリ聲等飛込みより少しくもなく、實に威風堂々たる鬪技振りにて、一般鬪技愛好者が土佐犬ならではの感に打たれ、雷電號の購入の動機となつた。

同時に當時土佐の強豪吉良川號、高陵館號等の名犬を京野氏は購入した。

 

雷電號は赤一枚、二尺二寸、十二貫餘(現在の二尺五寸、十五貫の犬に匹敵す)、得意は耳専門にて、徹頭徹尾英氣颯爽と、微塵の無理もなく押切る堂々たる戰法であつた。東北にては三、四回名鬪技を演出し、直系に雷風號(黑毛、十三貫東北横綱)、宮白號(北海道に移出)、雷電二號(後續犬として期待したれど幼少にして不幸死亡)、安達雷電號其の他數頭の優秀犬を作出、大正十五年七月末老衰にて眠るが如く、數多の名鬪技記録及び直系名犬を遺して十二歳にて大往生をとげた。

現在の東北横綱、福島縣若松市林平藏氏劔二號(前名大雷電號、二尺二寸十二貫、赤一枚)、長崎市西岡保馬氏飼養の小雷電號(赤一枚、十一貫二尺五分)等は有名な雷電系(東北にて作出)の逸物である。

 

中島凱風「土佐犬名犬傳(昭和13年)」より