翁の經歴を問ふに及んで、徐に答て曰く、予の醫官より出でゝ箱館奉行支配組頭となり、其奉行所に赴くや、時は文久二年(1862年)歳四十一の時なり。

北蝦夷唐太(カラフト)の地、魯西亜國と境を接するを以て、事端漸く稠く、時々重役の臨檢を要するに因り、同年七月箱館を發して北渡東西を巡視し、北緯五十度前人未だ見ざる所の使犬部属アイノ人住地の極端タライカ湖に至り、還て久春古丹(クシンコタン)に駐る。

翌年三月任滿るを以て南渡し、北岸を東行して恵戸路府(エトロフ)久奈志利(クナシリ)の二島を巡り、九月箱館に還る。その唐太に在りて冬を渉るや久春古丹に居る、時に狗に橇を牽かしめて、冨内に至れるの日は、積雪皚々天地一色、更に路形無し。及(すなわ)ち崖を攀ぢ氷河を渡り、唯一直線に疾駆すれば、一日三十六里を走る。事に熟せし○人これに騎りて先きに立ち、嚮導をなし暮るれば途に泊り、明るれば出づ。

狗の忠實なる終宵主人の身邊を囲繞して、守護頗る力む。〇人も狗兒を愛育すること、恰も子弟に於けるが如し。冬は橇を牽かしめ、夏は岸に沿ふて舟を牽かしめ、或は獸獵に伴ひ、老ふれば屠りて其肉を食し、皮は衣となして寒威を凌げり。

その狗車(くしゃ)に題する詩及引に

雪深尺、○人及入穴居、干時、少壮調雪車、撃狗牽之、靷端必懸一鐸、其響各異、夷細心心聴別、以指其主、雖百里外人必不誤、到々進也、喈々止也、其調車之號語「海豹 暖穴居初、到々喈々調狗車、可怜于顕閑不得、稜々鐸響遞公書」と。

 

乙羽生『日本戰艦の母(明治28年)』より

 

犬

 

上の画像は樺太アイヌの犬橇(ヌソ)に乗る栗本鋤雲。箱館奉行所組頭であった彼は、文久2年(1862年)の樺太探索でヌソを用いました。

日本で西洋式スキーが始まったのは明治44年ですが、ニヴフや樺太アイヌのスキー板(ストー)は江戸時代に知られており、画像の栗本鋤雲も履いています。

樺太の犬橇文化において、最大勢力であった樺太アイヌ。しかし犬橇のルーツはニヴフ族ですし、カラフト犬という品種や南樺太犬界の説明を優先すべきですし、だったら千島アイヌはどうするんだ?ということで解説は5番目に回しました(白瀬矗の南極探検につなげるための順番なんですけどね)。

 

アムール川流域の犬橇文化がニヴフを介して樺太アイヌへ伝播したのはいつ頃なのか。記録がないゆえハッキリとはしません。

樺太島においては、勢力を拡大するアイヌと元朝の援軍をたのんで反撃するニヴフの攻防が1264年から1308年にかけて繰り返された後、モンゴル帝国の衰退と民族間の住み分けによる平和が訪れます。

北方民族への影響力を失った明朝にかわり和人との交易へ比重を移した北海道アイヌですが、今度は和人の軍事力に直面することとなりました。

いっぽう宗谷海峡を隔てて平穏に暮らしていた樺太アイヌも、やがてロシアと日本の樺太争奪戦に巻き込まれます。樺太島の価値をはかりかねていた日本とロシアは、樺太・千島交換条約、ポーツマス条約を経てロシア領「北サハリン」と日本領「南樺太」の分割統治へ至りました。

 

樺太南部に住む樺太アイヌに対しては、「旧土人」と差別された北海道アイヌと同じく皇民化が進められます。その犬橇文化も鉄道や馬車の普及に呑み込まれてしまい、オタスの杜で隔離・維持されていたニヴフの犬橇文化とは同列で語れません。

 

樺太で用いられていた伝統的な犬橇。ニヴフは「オミゾクン」、樺太アイヌは「ヌソ」と呼称していました。

 

狩猟採集生活の北海道アイヌと違い、漁労生活の樺太アイヌにとって犬橇は冬期輸送に欠かせない存在でした。

しかし夏の間は犬橇で稼ぐことはできず、多頭飼育による犬の餌代はアイヌの家計を圧迫。樺太南部の和人と生活圏が重なったことで皇民化政策が浸透し、アイヌの生活も大きく変化します。

いつしかアイヌの住居には窓ガラスがはめられ、ユーカラのかわりに流行歌を口ずさみ、荷馬車が往来し、若い世代は古い文化やその意味を忘れ、犬の飼育頭数も減っていきました。
彼らの犬橇文化が失われたことを、樺太庁博物館の山本祐弘館長は下記の様に残念がっています。
この樺太犬は橇曳が主なる飼育の目的であるが、冬山へ狩に出る時伴ふこともあつた。因に犬橇(sikeni)は夏は使用しないからその間、食糧倉の下、脚柱の間に紐で縛つてつるしておく。
要するに忘れ去られやうとするこの構築(※犬橇関連設備)も住居に附属してアイヌの生活が深くにじみ出てゐるものの一つである。
 
山本祐弘『建築新書・10 樺太アイヌの住居(昭和18年)』より

 

【樺太アイヌと犬】

 

樺太の犬橇文化はニヴフ族がルーツであり、アイヌの犬橇(ヌソ)はそれを模倣したに過ぎません。
「ヌソ」は犬を含めたユニット全体の名称であり、橇部分は「シケニ(犬用橇)」と「ナリタ(トナカイ用橇)」に区分されます。
ニヴフは宗教的に大型犬を嫌っており、彼らの橇犬は短毛中型が中心。いっぽう樺太アイヌは大型の犬(セタ)も用いていました。
 
橇犬(ヌス・セタ)には牡犬が選ばれ、ケンカを避けるために去勢が施されました。その中で先導犬(イソホ・セタ)だけは、去勢もされず大切に飼われたそうです。
先導犬の頭部にはアザラシ革製の飾り(セタキラウ)を装着しますが、この習慣もアムール川流域の犬橇文化がルーツ。特別仕立ての犬橇の目印として用いられ、常時着用するワケではありません。
 

 

樺太アイヌのノコル集落で撮影された犬(昭和10年夏)

 

ニヴフと樺太アイヌの犬橇文化が共通化した一方で、樺太アイヌ・北海道アイヌ・千島アイヌは同じ民族でありながら全く異なる畜犬文化をもっていました。それぞれが飼育する犬の品種まで異なっていたのです。

狩猟採集生活の北海道アイヌが飼うのは猟犬種のアイヌ犬(北海道犬)、漁労生活の樺太アイヌが飼うのは荷役犬種のカラフト犬。海獣狩りが中心だった千島アイヌに至っては、帝政ロシアによるキリスト教布教と明治政府による色丹島への移住政策で伝統文化が消失してしまい、どのような犬を飼っていたのかすら分かりません

 

樺太エリアにおいても、「アイヌ民族とその他の民族の犬」は区分する必要があります。宗教的に強く犬と結びついていたニヴフと比べ、アイヌと犬の関係はかなり緩やかなものでした。

アイヌが住む樺太南部の犬については、作家の生田花世が目撃談を残しています(彼女は熱烈な愛犬家であり、犬に関するエッセイを幾つも書いていました)。

樺太南部にいたのは大型で長毛タイプの橇犬だったようですね。橇が使えない夏季にはリヤカーを曳いていたことも分ります。

 

東北ひた走り、汽車は驀進して、青森からは聯絡船の松前丸。北海道、まつしぐら。聯絡船は、亜庭丸で、一行無事、大泊へ、午後五時すぎにつき、灯の驛から、豊原(※ユジノサハリンスク)さして夜の樺太入りした。

一夜あけたら、私たちのとまつた宿のまへは、晴天で、北方の光はうつくしかつた。二階の障子をひらいて、下を見ると、居る居る。ここにもかしこにも、犬がゐる。樺太なのだから、まさしく樺太犬だ。

つひに待望の樺太犬を見たとはいふものの、何の事、形といひ、身振りといひ、舌の垂らし方といひ、それは別れて來た帝都のおいぼれ犬「クロ」と同型の犬たちではないか。

「さては、多さんとこの犬樺太犬だつたな……」

私は、あらためて「クロ」の事を考へ直した。道理で、「クロ」は立派だつた。大きかつた。善良であつた。そして、うら若き日には精悍ででもあつたらう……。

クロが、樺太犬の一味であつたといふ事は、私の今回の樺太の旅の大収穫であつた。

私は朝食をすますと、宿の外に出て、この町の犬に近づいて行つた。これらの犬はどれでも巨躯だつた(仔犬は例外として)。そして、その犬のどれもが作業仕度をしてゐるのだつた。どんなのが作業仕度かといふと、太い革具を、頸や、胴に装置されてゐるのである。

頸や胴に装置された革具は、荷車に、橇につながれる。その輓犬としての姿は、時またずやつてくる犬によつて示された。豊原近郊の部落の人らしい。キヤベツを入れた藁のつとを十いくつものせた荷車、この左右に、二頭配置してゐる。それがやつて來たのであつた。

二頭は、トツトコ、トツトコこちらへ來る。

こちらにゐる犬が、少しく寄つてゆく。でも、輓犬の方は、氣をうつさず走る。おしつこもしないで走る。電信柱がいくつあつても(犬といふものは、よく電信柱を見つけ次第、おしつこする動物である)殊勝なのである。ツンと立ててゐるその太い尾は、千本の毛を振りはららかして、波のやうに澎湃と崩れたり立つたりする。大きい顔のその周圍にもくれてゐる深毛は濃くて、まるで、獅子のやうだ。私はこれらの犬の中に獅子を感じた。

世に、可愛らしい獅子といふものがあるだらうか。獅子族の中にはゐない。あの獅子の眼はぢつと見てゐると寒くこちらの心を凍らせる冷徹をもつてゐる。しかしこの樺太の可愛らしい獅子は、その眼つきが、見れば見るほどあたたかい。

私はバケツほどあるその橇犬の顔をなでまくつてやりたかつた。しかし、通りすぎたから、手近にゐる犬の頭を撫でたのである。

「僕らの仲間はすばらしいでせう」といふ風な眼をして、大犬は欠伸をした。

樺太犬たちは、雪が來たなら、本舞臺の生活を始める事が出來る。多分、今は、遊んでるやうなものだらう。白皚々たる雪の野を、七八頭の犬に曳かれて、橇でゆく旅をしてこそ、樺太の旅と云はれる。そして、熊に逢へば……。こわい事だらうとはおもふが、「樺太の生粋」へあこがれる心もわいた。せめて、犬の曳いてくれる荷車にでものりたいなとおもつたが、のぞめない事だつた。

それで、豊原の公園へは、チリン、チリン、チリンと鈴を鳴らして來た空馬車をやとつて、それに、私と、二人の女の友とはのり、肩をそらして、樺太の晴天をたのしんだ。

 

生田花世『樺太犬族(昭和15年)』より

 

北海道アイヌと北海道犬

 

樺太アイヌとカラフト犬

 

いっぽう、北海道アイヌの猟犬がいつ頃から蝦夷地にいたのかは不明。「弥生犬が進出しなかった北海道に残存した縄文犬の末裔」という通説も、北海道に柴犬が存在しなかった理由(柴犬サイズの縄文犬に対し、北海道犬は中型)を説明できません。「鎌倉時代あたりに本州から移入された和犬ではないか」という説もありますし。

その歴史はともかく、「猟犬を求めた北海道アイヌ」と「橇犬を求めた樺太アイヌ」によって、北海道犬とカラフト犬は住み分けてきたのです。

 

しかし戦前の文献では「樺太アイヌはアイヌ犬を飼っていた」という記述も散見されます。当然ながら樺太島へ渡った北海道犬もいた筈ですが、和犬に犬橇を曳く能力があるのかどうか。それとも猟犬を別途に飼育していたの?

……などと思って確認すると、どうやら「樺太アイヌが飼っているカラフト犬=アイヌ犬」と称するケースもあったようです。混乱を避けるため、「南樺太でアイヌ犬と呼ばれる犬=北海道犬」と早合点しないほうがよいでしょう。

 

アイヌが樺太南部へ勢力を拡大する過程において、先住民のニヴフが用いるオミクゾンを冬季の移動手段として採り入れました。よって、狩猟用の北海道犬が樺太アイヌに飼われることはなく、犬橇用のカラフト犬も北海道アイヌの役に立はたず、北海道犬とカラフト犬の縄張りは維持されたのです。

 

明治8年、日露間で樺太・千島交換条約が締結されました。樺太アイヌと千島アイヌには国籍の選択が迫られ、日本国籍を選んだ者は北海道の宗谷へ強制移住となります。

開拓吏の黒田清隆はアイヌを対雁に再移住させ、農業への転向を指導。しかし海の民である樺太アイヌは農業になじめないまま貧困と差別に苦しみ、更に伝染病の蔓延などで多くの犠牲者を出してしまいます。

なかには望郷の念にかられ、先祖の墓参りを口実に樺太へ戻る者もいました。ロシア人からの差別と虐待は和人に負けず劣らずの酷さであり、帰郷した樺太アイヌの境遇は悲惨なままでした。

ロシアにとっては極東の流刑地に過ぎなかったサハリンで、先住民族はヒエラルキーの最底辺へ押し込められます。

 

明治38年の日露戦争において、樺太アイヌは日本軍の樺太侵攻作戦に協力。ロシア人への報復と、和人によるアイヌの地位向上に期待したのでしょう。

ポーツマス条約締結によって南樺太が日本領になると、樺太関連の報道も増加します。やがて、樺太アイヌの犬橇が内地の和人にも知られるようになりました。

 

犬橇は單にアイヌ自身の交通の爲めに用ひられるばかりでなく、邦人の爲めにも亦非常の便宜を與へるので郵便物や旅客の如きも是に因つて僅に通ずる事が出來る。
東海岸の榮濱から一臺の犬橇を仕立てゝ是に旅客一人又は二人が乗り、多少の荷物をも積載する時は、高價な場合には三十圓の運賃を取り、廉い時でも十圓以上である。即ち彼等は、犬橇を以て一個の運送請負を爲すのである。
一方の部落で米噌が欠 乏した場合に他の部落は是れを讓受けるにも雪舟(ノソ)の便を借りなければ如何ともする事が出來ぬ。其處で一俵の米は十圓の物が十五圓若くは二十圓の高價となる。
斯の如く冬期の便を爲すので、彼等は競ふて之を飼つて居る。
随つて冬期中若し熱心に運送の請負をしたならば百圓以上の収入も得られるが、由來アイヌには貯蓄心と云ふ者がないから、彼等は行く先々で其の賃金を飲代にする。随つて其の運送の機會が多くなればなる程、却つて貧乏をする事になる。

犬橇はどんな風に出來て居るかと云ふに、通常十二頭の犬を以て成り、アイヌが御者となりて是に先導犬(※イソホセタ)一疋、曳犬(※ヌスセタ)十餘頭で一隊を組織する。橇(※シケニ)は長さ十尺位、幅は一尺五寸位の者で、是には乗客二、三人と外に多少の荷物も積む事が出來、普通は六、七十貫までの物を運ぶ。
速力は一日十五里乃至二十里で、寒月の夜に多くの犬が言々(※言は口偏)として吠えつゝ走る様は壮快極まる者である。
御者のアイヌは橇の先端に跨り、長き四尺ばかりある二本の棒(※カウレ、またはヌソワク)を橇の下に交差し、堅く之を握つて緩急を計り、時々之を叩いて合圖を取る。
橇を止めやうと思ふ時は此の棒を雪の中に衝き入れ、又兩足には足橇(※ヌソホストー)を穿いて橇の進行の舵を取る。
先導犬は一行の中に最も大切な者で、道先を能く知り又他の多くの犬を監視して先導し、御者の言葉も能く聞き分けて、或は停止し或は疾驅し、東西南北御者の意の如くなるのである。

トー〃 ……並足
ケー〃 ……驅足
プラ〃 ……止れ
カイ〃 ……曲れ

橇犬を疾驅させる爲めに此の場合には成るべく少量の食物を與へる。
犬は目的の地に着けば充分の食を得ると云ふ食慾に對する唯一の希望を以て走るのであるが、何せ空腹ではあり氣が猛しくなつてるので、途中何物か食物に遇へば假令(たとえ)人間であらうと牛馬であらうと直ちに嚙みつく恐れがある。只先導犬は怜悧であるから之を顧みずに進むので、多くは無事に經過する。
又途中大吹雪に遇つて到底進む事が出來ない場合は、犬は進行を止めて客の周圍に輪を作り、晴れるを待つて進む様は沙漠に於て風の起つた時、駱駝が風蓋ひになつて主人を庇ふ様な者である。
先導犬は前記の如く重大な任務を帶ぶるのであるから、餘程熟練した良犬を選ばねばならぬ。
他の普通の犬は十圓位の者で、前年及び今年南極探險隊(※白瀬探検隊)に送つた犬も即ちアイヌが冬期此の犬橇を曳かせる爲めにした者で、寒さには堪え然も柔順であり、殊に雪上の橇の旅行には充分經驗があるから探險地に上陸して長途の旅行を爲す場合には立派に其の任務を果すであらう。
慥(たし)か同隊に送つたのも一頭十圓かで、成るべく良い犬を選んで送つた筈である。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 

西田さんは「アイヌは貯蓄しないから貧しいのだ」などと断じていますが、犬橇を運用するためには十数頭の犬を飼育し続ける必要がありました。当然ながら、犬橇で稼げない夏にも餌を与えなければいけません。

毎日の餌代が家計を圧迫し、それはアイヌやニヴフの貧困問題にも影響していたのです。

 

樺太のアイヌは今灣内には至つて少く、東海岸及び西海岸の各部に散在する者が多い。彼等の大半は殆んど日本化して少しく裕福なる者は皆日本の服を着、日本の言葉を巧みに遣つて居るから一見して夫れと判別する事が出來ない位である。
然しアイヌ特有の風俗をして居る者は、男は前髪を剃つて後を長くし、女は髪を中央から分けて頸まで垂れて居る。今ではメノコの入墨をする者も少くなつたが、中年以上の女子は唇の上下に五分位の幅に入墨する者もまだ方々で見受けられる。

樺太アイヌは犬の爲めに貧乏して居ると云ふても差支ない。彼等は一人で少くとも五、六頭、多きは十二、三頭の犬を飼つて居る。
其の食料は主に鱒の干したのであるが、毎日十二、三頭の犬に腹一杯になるまでの食を與へるのは中々容易な事でない。
即ち彼等は漁期中の収穫物の殆んど大部分を是に費す事にして居る。何故に斯程多くの犬を飼養して居るかと云ふに、樺太の沿岸は夏でさへ道路が完成して居ないので歩行は困難であるが、況して冬期になると積雪數尺に達し一里の路を行くにも中々容易でない。此の場合には馬を用ひた處が何の役にも立たないので、勢ひ驅の輕い犬を用ひるより仕方ない。
其處で冬期の唯一交通機關は即ち、犬橇(又は雪舟とも書す)を使用するのである(西田源蔵)

 
南極探検隊員のヤヨマネクフ(日本名・山邊安之助)は、橇犬をシェアすることで家計への負担を軽減しようと提案しています。

樺太アイヌの地位向上のため尽力した彼にとって、犬橇の伝統と経済的負担の対立は悩みの種であったのでしょう。

 

抑々アイヌといふものは犬(セタ)を使ふことは日本人で馬を使ふのと同様なものである。そしてアイヌは犬を養ふには魚ばつかり食べさしてるもんだから、犬が澤山あると魚が澤山かかる。

だもんだからアイヌ達は自分たちが食ふだけの魚を捕る分には大した苦勞はないのに、越年中に犬どもの食ふ魚を捕るために働いて苦勞をしてゐる。

そして犬を育てゝ冬に犬橇(ヌソ)で以て遠方へ出かける。見すぼらしい犬橇に乘ると、あの犬橇を見ろと笑はれるもんだから、良い輓犬を得るために春から秋まで苦勞をして澤山の犬を飼つてゐる。犬をも少し減じて賣る方の魚を多くした方がよいだらうにと私は思ふから、犬は半數減じて私は半數程しか私は置かない。

けれどもアイヌたちは犬を使ふ時の事を考へるもんだから、犬を出すことをいやがるのであつた。

けれども此度の事(※白瀬矗の南極探険)は國家の競爭の事業であるから、アイヌ達も自分の國の勝つやうにしたいものだから、自分の使う犬を不足にしても、犬を此の事業に寄附しようと考へて、犬を寄附することになつた。

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

【樺太アイヌと南極探険計画】

 

ヤヨマネクフにカラフト犬調達が要請されたのは明治43年のこと。依頼したのは白瀬矗率いる南極探検隊でした。

千島探険で越冬隊が壊滅した悲劇を経てなお、北極探検の夢を捨てきれずにいた白瀬矗。あれだけ嫌っていた米国ラッコ密猟船に自ら乗組んで北海での経験を積みますが、日露戦争の勃発により計画を中断して戦場へ向かいました。

中尉に昇進した彼は、戦場で再会した児玉源太郎将軍から「戦争が終ったら北極へ挑め」との言葉をかけられます。しかし支援者であった児玉将軍は明治39年に死去。

絶望の中、追い討ちをかけるように「ロバート・ピアリーが北極点へ到達した」というニュース(現在では真偽不明)が報じられます。

 

明治四十二年であつた。―アメリカのペアリーが北極を踏破し、前人未到の境を探檢したといふ報道が齎された。この報道は、わたしの耳を穿ち心臓を氷らせた。思ひに思つたわたしの計畫が、他人に依て先鞭をつけられたのだ。失意とそれに伴ふ數々の煩悶が、わたしの心をさいなんだ。

わたしは、遂に北極探檢を斷念した。そして北極とは正反對の南極に突進しようと欲した。―これがそも〃、わたしが南極探檢の決意をした發端である(白瀬矗)

 

目標を南極へ変更した白瀬中尉は、国家事業として探検予算の計上を訴えます。しかし帝国議会は一銭も渡してくれず、大蔵省は「学術調査が目的なら文部省へ行け」、文部省は「金の話は大蔵省にしろ」と門前払い。成功雑誌社から東京朝日新聞社への後援を頼むも承諾を得られず、南極探険は私的事業にせざるを得ませんでした。

幸いにも、新たな支援者として大隈重信伯爵(当時)が南極探検後援会会長に就任。熱狂した国民からも多くの寄付金が寄せられます。

同時期にはイギリスのスコット隊とノルウェーのアムンセン隊が南極点到達計画を発表、三ヶ国による競争が始まりました。

 

アムンセン隊と同じく、白瀬探検隊が選んだのも犬橇でした。その犬橇に用いるカラフト犬の調達と輸送にあたったのが、樺太アイヌのヤヨマネクフとシシラトカ。

白瀬中尉だけが脚光を浴びていますが、和人が扱えないヌソの馭者として、二人のアイヌは南極探検の立役者となったのです。

 

ヤヨマネフク

南極探検隊に参加したヤヨマネクフ(制帽の人物)とシシラトカ。彼らの橇犬が立耳、垂れ耳、斑模様とさまざまな姿をしているとおり、「カラフト犬」とは多種多様な樺太在来犬種の総称でした。

 

計画はスタートしたものの、南極探険船の確保は難航。海軍省に用廃軍艦(磐城)のレンタルを依頼しても「同艦を貸下げてもいゝが、直接海軍省から貸下げる事は法規上いけないので、いろ〃手續が必要である」と断られ、逓信省や文部省も政府事業になるのが面倒で協力してくれません。

そこで白瀬中尉は漁獲物運搬船「第二報效丸」を改造し、全長33メートルの木造帆船で南極を目指すことを提案。かつての千島列島探検において「殊にわたしの印象に深く殘つてゐるのは、嘗て五十噸内外の密獵船を目撃したことである。それは、山のやうな波の上を巧みに操縦して少しの不安もなく作業してゐた。それを思へば、南極を探檢するのに、どうして特に巨船を必要としよう。船のみ巨大であつても、艱難にめげ、危險におびえるやうな乘組員であれば、却つて寶の持腐れだ。二百噸で結構である」と確信していたのです(実際は多数のラッコ密猟船が遭難・沈没していました)。

ここで問題となったのは、第二報効丸の持ち主が郡司成忠だったこと。郡司大尉は船の売却を断り、再び白瀬中尉と対立します。

白瀬も千島探検時の恨みを忘れていませんでしたが、寄附金頼りの探検ゆえ背に腹はかえられなかったのでしょう。

それからも引續き船舶の購入については、あらゆる方面に向かつて奔走したが、最後にわたしは、村上幹事と共に郡司大尉を訪ひ、第二報効丸の購入方を交渉した。

一度は拒絶されたが、村上幹事が再度面會の上、眞情を披瀝して再考を促し、さらに大隈伯の盡力により、結局契約が成立して、第二報効丸を南極探檢の航海船として手に入れることが出來た(白瀬矗)

 

帆船の第二報効丸は石川島造船所で汽船に改造、流氷対策のため船体に鉄板・フェルト・厚板の積層装甲を施されたうえで東郷元帥により「開南丸」と命名されました(南極探険の志願者は多かったものの、小さな開南丸を見て辞退者が続出したとか何とか)。極地輸送手段として予定されていた馬橇も、「南極には牧草が生えていない」として犬橇に変更されます。

しかし東京には、犬橇を使える者も、南極の酷寒に耐えられる犬種も存在しません。

そこで注目されたのが南樺太エリア。樺太アイヌの犬橇と、それを曳くカラフト犬ならば南極にも適応できる可能性があったのです。

 

帝國ノ犬達-樺太犬
白瀬探検隊のカラフト犬
 
【樺太アイヌと南極探検】
 
南極探検隊の犬橇係として雇われたのが、樺太アイヌのヤヨマネクフとシシラトカ。
白瀬矗は探検隊の雇員的に扱っていましたが、少なくともヤヨマネクフは「どうかして、同族の此のみじめな境涯は救わねばならぬ。せめて平民並みの生活に引上げてやりたい」とアイヌの立場を向上させるために南極探検を志願した人物でした(そもそも彼は日雇い人夫ではなく、四つの村をまとめる総代です)。
南極探検に用いるカラフト犬の購入は樺太日日新聞を介して樺太庁へ依頼され、地域の代表者だったヤヨマネクフは自らの愛犬5頭を含めた20頭を集めます。
 

樺太アイヌにとっては生活の糧である犬を、かんたんに手放すワケにはいきません。その辺の内情は、金田一京助がヤヨマネクフに取材した『あいぬ物語(大正2年)』で知ることができます。

※ヤヨマネクフは日本語に堪能でしたが、「アイヌが著した南極探検記」にこだわる金田一の要望でアイヌ語口述、日本語翻訳という構成となっています(引用文中、差別的な表現を一部修正)。

 

明治四十三年の夏の頃、南極探檢の噂が聞えた。樺太では日々新聞(※樺太日日新聞)社長財部某氏が主唱となつて、義捐金の募集をし、樺太産の犬(セタ)を探檢隊員へ寄附して、探檢の事業に手傳せんと圖り、まづ最初には方々の村へ云つてやつたが、方々の村のアイヌ達は探檢の事業なんどはわからなかつたから、犬の價を安くしてやる事を氣がつかなかつたらしい。

其の月の十日頃、富内村の警察から私共一同の方へ警官が云つて來た。「犬三十頭にアイヌ一人附添うて、東京の南極探檢隊へ送つてやれ」と命ぜられた。

そこで私はアイヌ達に意見を聞いてみた。

然るにアイヌ達一同は「併しどうも、犬とても目今の處は自分等が使ふに不足な程しかないんだものなあ!」と云つて、「役所からそう云ひ付かつたのなんだから、出すことにはしよう」と云つた。

そこで翌日、早速各々の家々から犬どもを役所の前へ引つ張つて行つて、役人の見る前で良い犬を私が選り抜いて差出した。

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

樺太の獸獵に於いて最も主要なる者は貂獵なり。之に次ぐ者を狐獵とす。勘察加の土人は年々數十の貂を得て多くの須要なる者と交換す。而して之を得る者一に犬の力なり。

冬季交通の重寶物として、或は貂獵の唯一機關として、又或は死して皮を留むるに於て薩哈口連(サガレン)の犬は多くアイヌに飼はれたり。カムチャダールは往々にして一戸に二十餘頭を飼ひ、樺太のアイヌにも往々にして十餘頭を飼ふ。而して各々アイヌの財産たるに於て、彼等は其の多きを以て誇りとす。

アイヌ犬の上々なる者は一頭五十圓餘に値す。勘察加に於て貂獵の巧みなる犬の如きは貂皮五枚にても尚且つ交換し難しと云ふ。貂は小なり、然も一枚の値三十圓を超ゆ。

冨内の犬は南極探險隊に送られたり。其の値より言ふ時は必ずしも廉なる者に非ず。然も愛奴の純朴なる尚ほ名譽てふ事を解して極めて廉價に其の精鋭なる者を送りたりき。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 

アイヌの生活を豊かにしようとしていたヤヨマネクフにとって、南極探険への協力は犬の飼育頭数削減・共有経済化を促進させる機会だったのでしょう。

 

此度の事は國家の競爭の事業であるから、アイヌ達も自分の國の勝つやうにしたいものだから、自分の使う犬を不足にしても、犬の仕事に寄附しようと考へて、犬を寄附することになつた。

富内村を除いて外の村の人々に於ては、犬の價高くアイヌ達が云ふといふ噂があつた。先導犬(イサオ・セタ)が一匹で五十圓だの、輓犬は一匹で十圓と云ふ噂があつた。それを私達の村の人々が聞いてゐるから、そんな様な値に勘定してゐた。

けれども私は斯う云つた。

「今度の事は吾々自身の國と思つてゐる此日本の國の事であり、此仕事は外の諸國の人々に對し競爭にやる事でもあるんだから、犬は價を貪らずに廉價にして、半分はたゞの様にしてやるもんだ!」と勸めた。

アイヌ達は、それぢや餘り値が安いと思つたんだらうけれども、役所からもそう云つて來たもんだから、始めて了解してそれではと、價は安くつてもよいからと申出て差出した。さて、犬の値段は先導犬一頭に就き十五圓づゝ、唯だの輓犬は三圓と云ふことにして差出した。

そうしてそれから、其翌日、則ち十二日の日に兼太郎、嘉一郎、由松、オートツクと私とすべて五人で以て廿頭の犬を引張つて大泊へと出掛けた。此の時、二十頭の犬を連れて林の中を通りかゝると、色々の獸(カムイ)の匂ひを嗅ぎつけて、追つ掛けたがつてあつち、こつちへ引張り廻されるもんだから、アイヌ達も皆草臥(くたび)れて、途中で一泊をして翌日大泊へ到着した(ヤヨマネクフ)

 

しかし大泊で「犬の東京輸送は延期」と知らされ、嘉一郎、由松、オートックは村へ引き返します。大泊で待機のまま8月が過ぎ、「9月には東京へ出発できる予定」と聞いたヤヨマネクフと兼一郎は一時帰宅、家族や知人に別れを告げました(ヤヨマネクフは息子の彌代吉と甥の富次郎に遺言を託しました)。

帰郷前、彼は樺太日日新聞の財部熊次郎社長を訪問。南極探検に同行したいと伝えます。

 

それでも尚待つてゐると、八月の月も暮れ九月の月にはひつた。そして尚待つて暮してゐた。その中に私はつく〃考へたのには、一旦どうせ東京迄犬を連れて行くことなら一層の事、南極までも行つて、そして犬を使つてやる方がいゝだらうなと、そう思つたから日日新聞社長、財部氏の許へ行つて斯う云つた。

「今度どうせ一旦、良い犬(ピリカ・セタ)ばつかり選り抜いて、南極へやるとしても、犬を使ふことを知つてる人達がゐなくつちや、いくら良い犬をやつても駄目だらうと思ふから、自ら南極まで行つて犬を私が使つてやつたらいゝだらうと思ふから、そう考へたんだが、前に露西亜との戰の時にでも死んだものと思うつて、軍人達と一所に丸(タマ)の中をもくぐつた時などは、天祐にも死にはしなかつた(※ヤヨマネクフは日露戦争に従軍しています)。

お蔭で拾つた此の體です。其の上、其後段々村の事も萬事緒に就き、それから又、小供等の學校さへも建つて了つたし、今では私の一身は死んでも、餘り惜しいと思ふ事も無くなつた。

それに今又、諸外國と競爭して、日本の國が始めてやる事業だといふ此南極探檢の事だから、一旦拾つた私の體を以て、今一度國家の事業に働いて死んでも本望だと思ふから、どうしても南極まで、皆と一緒に行きたい」

そう云つたら、其時財部氏は「ほんとうに行く氣なのか」

「そうです。本當に行く氣です」と私は云つた。

それから、財部氏の云ふには「その氣なら樺太廳へ私が話して、お前が南極探檢に行くやう私から云つて置かう」と云はれた。

そこで其沙汰を待つてゐると、財部氏から「愈行くやうに許可なつたから、南極迄お前行かれるよ」と話された(〃)

 

その後も東京側の受け入れ準備が進まないまま9月の出発予定も再延期。それに嫌気がさした兼太郎は、家族の生活が心配になって東京行きを辞退します。

 

富内村から若い者が一人、兼太郎の代りに大泊へ來て犬の世話を私と一所にやつた。暫くして此アイヌが歸つて兼太郎が又やつて來た。そしていふ話には斯うだ。

「(南極)探檢隊はずつと前から出發する話であつたから、それで今迄も待つて居たのに、餘り遅くなるし、且つ私は乳飲子を控へてゐる婦一人と小供と殘して置いて遠方まで旅立ちするのもよく無いと思ふから、その上、色々しなきやならない事も閊へてるから、此度の旅立ちは、私には出來なくなつたがな」と云ひ出した。

私の考へるのに、それもその通りに違ひない。小供と嬬だけ殘して置いても、色々な事があるにしても愈々都合惡からうと思つたから、「そう云ふ事なら、お前の云ふ通り、お前は行かんでも宜しからう」と私は答へた。

それから兼太郎は自分のコタンへ歸つてしまつた。あとで役人たちに私が聞いてみた。

「外の村から犬だの、それから今一人のアイヌが來るといふ噂がありますが、どうですか?」と問うた。

すると、役人達が云ふ。

「外の村から犬は來やしない。アイヌも誰一人行くといふものが無い。アイヌ達がいやがるからなあ!」

 

山邊安之助『あいぬ物語』より

 

結局、独りになったヤヨマネクフが大泊を出航したのは10月25日のことでした。さらに海路輸送も時間を要し、小樽経由で横浜へ到着したのは11月5日。白瀬の計画は遅れに遅れていたのです。

 

さて、十月の月二十有五日の日に大泊を立つた。小樽に翌日上陸し、それから小樽に六日暮らして、小樽から横濱までやつて來た。横濱へ上陸したのは、十一月の月の五日の日であつた。

翌日芝浦に來た。其の日、錦輝館へ犬を引張つて、南極探檢の事業の演説を聴きに出かけて行つた。其の時立派な人方の演説を聞いたら、私までも雄々しい心を振り興させられ、どんな事があつても此事業に邁進しようと思つた(ヤヨマネクフ)

 

ヤヨマネクフとは別に、敷香支庁よりカラフト犬の移送を託されたのが支庁職員のシシラトカ(花守信吉)でした。支庁長が集めたカラフト犬5頭の横浜輸送を任された彼は、そのままヤヨマネクフと共に白瀬探検隊の一員となって開南丸へ乗船。南極を目指すこととなります(カラフト犬以外には、ペットの猫「玉太郎」と食肉用の豚も乗っていました)。

 

さてその中に聞く所に據ると、樺太の敷香から花守信吉といふアイヌがやつて來るといふことだつた。

それから又、そうしてゐると、凾舘新聞の人々からもう五頭の犬を探檢隊の人々へ寄送して來た犬が新橋停車場へ來た。其犬どもを受取りに行つて、芝浦の月見亭へ連れて來た。

此の五頭の犬と、花守信吉が連れて來た五頭と、それから私が連れて來た二十頭の犬とで總數三十頭の犬がゐる。

さて、それからも尚南極探檢に出發するまで待つて暮す間には、方々の人達が探檢隊へ義捐金募集の演説を開いた(ヤヨマネクフ)

 

明治43年11月29日、ヤヨマネクフの20頭、シシラトカの5頭、函館新聞の5頭、計30頭の橇犬を乗せた開南丸は芝浦埠頭を出航。その日は船上壮行会が深夜へ及んだため館山沖へ投錨し、翌日から南下を開始します。

荒天、酷暑、真水不足、そして硫化水素の発生(開南丸はかつて千島火山帯の硫黄も運搬しており、船内に硫黄成分が染み込んでいました)に苦しみながら海上を進む白瀬隊でしたが、更なる災難に見舞われました。

出航から一週間もたたずに、カラフト犬たちが次々と命を落としていったのです。

熱中症だったのか、栄養不良だったのか、何かの感染症だったのか。昨日まで元気だった犬が突然死する異常事態に白瀬隊長も困惑しますが、解剖しても死因は不明でした(後に寄生虫感染と結論)。

その経緯と隊員の心境を、『開南丸航海日誌(南極探検隊付書記長・多田恵一)』『私の南極探檢記(白瀬矗)』『あいぬ物語(山邊安之助)』より抜粋してみましょう。

※多田書記長は白瀬隊長への反感を募らせており、「南極探検中に公開された航海日誌」と「後年になって書籍化された航海日誌」は細部が異なります。

 

十二月三日。晴。帆走。

起床同時から天候恢復して風波穏かになつた。

一天拭つたやうに晴れ渡つて險惡な雲も見えぬ。一行もぼつ〃蘇がへつたやうに甲板上に出て來る。元氣がつくと食氣がつく。

青白かつた顔色に紅を帶びて來る。皆晝食からは顔が揃ふやうになつた。

今日も犬群を甲板上に引出して手當をしてやる。愛猫玉公もいつの間にやら出て居る。皆まづはお互に御無事でと壽き合つた。

航程百十二浬(多田)

 

「船は滿帆に怒風を孕み、狂瀾怒涛を蹴つて矢の如く一路南へ進む。痛快だ。怒涛が山のやうに押し寄せて來る。船は笹の葉のやうに翻弄され、危ふく海底の藻屑にならふとしたことは幾回か知れない。

南極氷原を踏破する際に使ふために連れ込んだ樺太犬は、物凄く吠えたてる。わたし達は船倉へ坐つてゐたが、動揺のため轉々として室内を轉がされるので、ひもで身體を柱に結びつける者もあつた(白瀬矗)」

 

十二月五日。晴。帆走。

今日も海上平穏であるが、不圖(はからず)も一の悲劇が起つた。

そは輓犬(※橇の輓曳犬)三頭が朝より續いて斃死した事である。犬奉行山邊、花守、兩先生狼狽して御注進と士官室にやつて來る。三井所衛生掛は職掌柄馳せつけて見たが、命數最早如何ともすべからず。

こゝ東經百四十二度廿分、北緯廿九度四十七分の海上!あゝこの可憐なる三忠犬は未だ些の功勲も奏せず、所謂犬死に畢(おわ)つたのである。

午後三時隊長以下全員集合して、南無阿彌陀佛のお念佛裡に嚴かなる水葬に附した。

諡(おくりな)は樺水、南進、北來。アゝ、可憐なる魂魄は今し遠く北海の空に向つて飛びつゝあるのであらう!

航程八十一浬(多田恵一)

 

「晴天が幾日も續き、隊員一同はみな愉快な航海を祝福し合つた。ただ一つ小悲劇があつた。それは樺太犬が三頭も前後してたふれたことだ。花守、山邊といふ二人のアイヌ人が狼狽してこれを報告して來た。三井所衛生部長が駈けつけた時には、犬はすでに死んでゐた。わたし達は三頭の犬を、念佛しながら水葬した。この花守君は、樺太のタライカといふ所の産で、妻君の名はナイロといふ。琴瑟頗る相和し、すでに愛子新太郎君と、はな子さんとがある。天性無邪氣で、一行中の愛嬌者である。

もう一人の山邊君も、花守君に劣らず、夫婦仲がいゝ。この二人は樺太犬の世話係として一行に加はつて貰つたのである(白瀬矗)」

 

「段々行くにつれて暑さが烈しくなつて、三頭の犬が一度に死んだ。私どもは非常に不感に思つたから、隊長(サバネ・ニシパ)を始としそこに居る隊員達一同南無阿彌陀佛を唱へて首へ札を結付けて水中へ葬つた。

其時隊長以下人々一同、斯う云つた。「再び生れ返る時は、立派な人間に生れて來る様に!」そう云つた(ヤヨマネクフ)」

 

十二月十日。晴。汽走。

今日は更に風がないので、午前六時から汽走することになつた。朝から熾熱は酷烈である。

正午晝食して居ると、突然船首で鮪が釣れたと叫ぶ。鮪狂の余は二杯目の飯を食ひ掛けにして行つて見ると、高川水夫が今し丁度、最後の四尾目をつり上げる處だ。ひら〃と太陽を映じながらフホルマストを掠めて、ドツトと計り甲板の上に落ちる。

早速料理して試味する。

皆久しぶりのおさしみでうまいうまいの連發である。玉猫もニヤア〃と敬意を表しながら、傍らで頂戴する。皆で一、二椀の飯を過した。

折から鹽湯風呂に沐浴して居つた武田君は鼻うごめかして、「ドウダ今日おれが鮪の腸で餌を拵えて置いたから一つうまくかゝつたのだ」と得意然となる。二井君は早速撮影するや一時はなか〃の騒ぎである。

この騒ぎが少したつとまた一騒ぎが續發した。そは船首に鮪先生以前にも倍加して來襲して來たのだ。釣のチヤンピオン高川水夫は一氣呵成十二、三疋續けざまに釣り上げる。花守アイノ先生も手際よく釣り上げる。

忽ちにして前甲板は魚河岸同様に鮪の小山が築かれる。西川や三浦の先生は一生懸命に落ち込むのを中甲板に運ぶ。釣る程に釣れる程に午後三時過ぎには五十餘尾の鮪が獲れた。

渡邊コツクは、福島ボーイや酒井島兩先生を相手に前の鮪と共に料理やら貯造法に忙殺されて居る。

犬連も頭や骨を頂戴して意氣日頃に倍して揚々として居る。玉猫も欣然として食して居る。「今日は何て間がイーンデシヤウ」と例の滑稽隊長渡邊水夫は叫ぶ。皆一様にドツト計り哄笑する(多田恵一)

 

「幾日か帆走してゐるうちに、だん〃暑くなつて來た。暑さに耐へ兼ね、甲板上に露營する者が一日増しにふえた。甲板上の露營はちよつと洒落てゐるけれども、驟雨に見舞はれるのは閉口だ。

そのうち、再び犬が一頭病死したといつて來た。まだ三分の一も來ないうちに、かう續々たふれられては心細い。この犬も水葬した。緯經度を計つて見ると、東經百四十九度、北緯十二度であつた(白瀬矗)」

 

※12月28日に赤道通過。

「二十九日は輕風が吹いてゐた。船が赤道に近づくにつれて、一同は「赤道はどの邊だ」などといつて騒ぎ出した。一行中の惡戯者が、望遠鏡の鏡面に赤い横線を引いて「赤道が見えるぞ」といつて見せて廻つた(白瀬矗)」

 

十二月卅一日。曇。雨。帆走。

今日も朝から空が曇る。天も四十三年に別れるのがつらいので、不機嫌なのか知ら。

おまけにけふは午前七時、輓犬一頭また失ふた。赤南號と諡して水葬した。

今夜は除夜だからとて夕食にはなか〃の御馳走が出た(多田恵一)

 

年は明けて明治44年、船上の犬や猫は死に続けます。

一月十一日。晴。帆走。

午後隊長は船長と前途の事に就て色々打合せした結果、本船は探險終了まで本國に歸國せぬ事とした。航路の都合であるとか。亦糧食の補充などに付議した。又隊長と船長と熟議の上、渡邊近三郎と林松進とを陸上隊に加入する事にした。これで陸上隊十一名、海上隊十三名となつた。

午後三時、先日來弱つて居た犬一頭斃死した。南海號として水葬した。

航程九十浬(多田恵一)

 

「午後三時、また〃犬がたふれた。これは南海號とおくり名して水葬した。どうしてこんなに引續いてたふれるのだらうか。極地に到着する頃には一頭も生殘るものがなくなりはしないかと、非常に心配になつた。山邊、花守の二人に懇々とその保護を申し渡した(白瀬矗)」

 

「段々赤道の暑さの烈しい海へ差し掛つて來た。此處へ來た時には隊員たちも非常に暑氣に苦まされ、犬も暑氣の爲に病に罹つてゐるのが段々死んで行く。此時こそは本當に暑さのひどい海であつたから、段々犬どもが斃れた。それを見た時には何とも胸も張裂けるやうな氣もちがして行つた(ヤヨマネクフ)」

 

一月十九日。晴。汽走。

昨夜は風があつたが、曉には又凪いだので午前五時から汽走した。けふ午前に輓犬一頭頓死したり。原因も不明である。これで七頭目である。

南白號とす。水葬した。

南無阿彌陀佛はあまり唱へやすいのでかう度々死ぬるのかも知れぬと云ふ處から、南無妙法蓮華經にしたのだ。

夜は一時帆走したが又凪いで汽走。

航程百十五浬(多田恵一)

 

一月廿一日。曇。帆走。

今日は朝からシヨボ〃雨が降る。何となく氣持の惡い日であつた。

朝食の時に愛猫玉太郎は余の手から誤つて潮流中に落ちた。あつと思ふけれど詮方がない。

逆まく波は悠忽(たちまち)彼を生ながら葬つてしまつた。

一部の船員からは舵機室に脱糞したと云つて、いたく忌まれて居たけれど、我等隊員には大に寵愛されて居たのだが……。かねて極地に伴ひ行かんと、かれも又一同の慰藉者であつたが……。

之も所謂天命であらう。生者必滅會者定離の理は人も獸もおなじで、生きとし生けるものゝ上には一度は來るべき神佛の掟である。余嘗て日露の戰時、遼陽城外の斥候戰に愛馬が重傷したのを其儘打すてゝ進軍した當時を追想して、終日無限の感慨往來して何とも云ふ可からざるものがあつた。

が、玉猫冥せよ。余幸に歸國の曉には懇ろに汝が菩提を弔つてやらう(多田恵一)

 

一月廿二日。曇。帆走。

夜來の風波不相で、船は好速力を續けて居る。

午前七時、先日より病臥して居る輓犬一頭斃死した。之で都合八頭目である。南黑號として水葬した。この様子では極地に上陸する犬は先づ五、六頭位になるであらう。

夜は頗る涼しくなつた。緯度の進んだからではあるが、一つは天候の激變の然らしむる所である(多田恵一)

 

一月廿五日。曇。帆走。

起床して見ると又一頭の輓犬、而も昨日まで頗る丈夫なのが斃死した。こゝで九頭目であるが、病名はまあ腦充血とも云ふべきか。近極號と諡して水葬した。續々犬が死ぬので甲板上の拾頭入れの犬箱は不用になつたので、朝食後隊員總掛取壊しにかゝつた。

凡て空房と云ふものは氣體の惡いものである、犬箱でもこの内に居たのが斃死したのだと思へばそゞろ惡感を催はされる。

午後も依然風向がよくない。然し大變波は穏かになつた。

午後は故國への通信などを皆書き始めた。夕食前久しぶりに淡水の湯が沸いたので沐浴して垢を去る。

航程五十八浬(多田恵一)

 

一月廿六日 晴

午前中又一頭の輓犬を失つた。三井所君が解剖して見ると胃と、腸とが非常に傷むで居る。人間なら盲腸炎とでもいふべきか。何にしろかう毎日續いて輓犬に祟りがあつては叶はぬ。今日のは南潮號として水葬した(多田恵一)

 

一月廿七日。晴。帆走、汽走。

又犬が死んだと隊長に話されて行つて見ると、果然昨日まで丈夫なのが又斃れた。三井所君が解剖して見ると死因は昨日のと同じ事だ。南水號として水葬した。

「これでは人一人に犬一頭位の割に生きてくれれば結構だが」と隊長は心配顔である。「斯くて無暗に犬死されては困る」と誰やらが駄ジヤレルが全くシヤレ處ではない(多田恵一)

 

「翌日は再び暴風雨となつた。夜に至り波はます〃荒れ狂ひ、船は揉みに揉まれた。その夜が明けると、平静にはなつたが、波はをさまらない。二、三日してやつと風浪がやはらいて來た。

このあひだにまた數頭の犬がたふれた。全體で十二頭を失つたことになる(白瀬矗)」

 

一月卅日。晴。帆走。

昨夜は夜半頃から帆の方向を變じたので、船房内に空氣の流通がわるくなり、例の惡臭(※硫化水素)鼻を衝き、腸に染むので早く起き出て見ると、先日來久しく弱つて居た輓犬が一頭又斃れて居る。是で十二頭目である。

隊長はさりとは佐々木、田中兩幹事の許に飼養されつゝある二頭こそ幸運兒なりと云ひけり。こんなことと知れば今少し後援會に預けて來たらなぞと嘆た。

今日の(諡は)南帶號として水葬した。

午後は最早新西蘭(ニュージーランド)の北島が見えるだらうと待ち暮らしたけれど見えなかつた。

航程三十浬(多田恵一)

 

一月卅一日。晴、少雨。帆走、汽走。

島が見えた見えたと叫ぶ。果然左舷一浬計距てゝ長蛇の如き島影は濤間(なみま)に聳えて居る。陸地近くなつたので、バカ鳥(※アホウドリ)も無數に來た。

彼處は新西蘭の北島であるのだ。

隊長も莞爾として出て來る。武田君始め隊員一同も嬉々然として居る。新西蘭は恰も我行の喜望峰である。

双眼鏡で凝視すれば、丁度馬關から宇品かけての沿岸を見る様な心地がする。山麓に立登る一帶の白煙さへ明瞭に見える。

船は此所から船首を西南に變じた。そして汽走することゝなつた。なつかしき島影はいつしか左舷の後方になりつゝ遠ざかり行くのである。

午前中隊員は總體で犬箱の空になつて居るのを片づけたり、犬箱の移轉など力(つと)めた。

午後になると又一頭の赤犬が斃れた。

これで愈々半數斃死、半數生殘りである。生者必滅とは云へ實に憐むべきである。

南の字を冠らせて諡してやつたが、だん〃増すのでこんどはなんとしてよいやらと隊長と相談して南赫號として水葬した(多田恵一)

 

二月八日。曇後晴。

いよ〃今日は入港と云ふので朝早くから起き出て見ると、昨日迄行きつ戻りつして居たキヤピト島も後方遥かになつた。空は少し曇つたけれども、風波は平穏である。

朝食後イルカの來訪續々。先生等も我船を歡迎すると見へる。例の銛で十尾許りつくことはついたが、道具がだめなので皆逃がしてしまつた。

朝來流石に港へ近いので、幾多の汽船や帆船は往來して居る。

午前十時、輓犬一頭斃死した。南新號として水葬した。

正午いよ〃ウエリントン(ニュージーランドの首都)港外に達した。對岸の彼方には二、三の荷物があり〃と見える。何となくなつかしい。

港と燈臺附近の邊には蓄牛が放飼してある。と見ると燈臺から二、三人出て來る。衛士にやあらん、我船を見て居る。

折から檣頭には船名旗が掲げられる。隊員船員は何れもニコ〃しながら服装を改める。

いつしか空も笑むらん漸次晴れて來る。

午後一時過ぎ、ウエリントン港内に入る(多田恵一)

 

「暑さが烈しくなつて實に我慢出來ない程であつたけれど、どうとも仕方がないまゝに段々と南へ南へ進んで行くと共に、毎日、毎日犬どもが死んだ。終にニユージーランドと云ふ島が見えるまでに、犬は殆んど死んで了つた。殘つた犬は十頭足らずで、ニユージーランドのウエルリントンと云ふ鄕へ四十四年の二月の八日に到着をした(ヤヨマネクフ)」

 

ニュージーランドで物資を補充した開南丸は、2月11日にウェリントン市民の盛大な見送りをうけながら南極へ出発。白瀬隊長が「犬が頻りと死んだ」と記すように、以降もカラフト犬は斃れ続けました。

 

二月十一日 晴

今日は又、先日入港以來斃死した、南蘭、南植、南林、南頓、四犬の水葬を行ふた。憐れなる哉、數多かりし輓犬も最早、殘り尠くなつてしまつた(多田恵一)

 

二月十三日 晴

午後一頭の輓犬が斃死した。南西號として水葬した。遂に又一個の犬箱も、不用となつたので、その中には、アルコールや、石油罐等を入れることゝした(多田恵一)

 

二月十四日 晴

朝食後、又一頭の輓犬が斃死した。南静號として水葬した。我等は輓犬の運命に對しては、最早絶望せざるを得ざる、不幸に接したのである。殘りの數頭も、意氣揚らぬ事夥しい(多田恵一)

 
二月十七日 曇
朝食後、犬が死んだとの注進に、船首に往て見ると、腰が抜けて居つた一頭が、遂に斃れた。南望號として水葬したが、これでいよ〃、貳拾壹頭目である。餘す所ヤツト五頭とはなつた。
輓犬の水葬を終つた時、拂曉から船の周圍を巡つて居た、一羽の奇鳥を、三井所君と杉崎水夫とが、小網でもつて生捕つた。捕獲する時、水中を泳ぐ處を見ると、魚同様であるが、頭部は全くの鳥で、ハテ何だらうかと、皆判定に苦しむだが、甲板上に引揚げて見ると、豈圖らんや、其名も高き南極の特産物、片吟鳥(ペンギン)であつた(多田恵一)
 

三月二日 曇雪

今日午前中、二頭の輓犬枕を並べて、斃死した。

隊長は「昨夜村井弦斎氏(※ジャーナリスト)の玄米説を見て思ひ出したが、本隊で多くの輓犬を失ふたのも、恐らくは米飯中毒に、起因するのではあるまいか。今日迄これに深く留意しなかつたのは、遺憾千萬である」と嘆ぜられたが、樺太犬は其平素の食料とする、鰊の干物計り與へた方が、よかつたかも知れぬ。彼等の好むに任せて、殘飯を與へたのが、遂に彼等の生命を短縮するに、至つたのかも知れぬ。今は何しろ後の祭りで及ばぬ事である。

是に於て輓犬の殘るもの僅に三頭。併し彼等は、元來主働家と頼みたる馬匹の、積載不可能になつては、多く自己の努力によつて、糧食を運搬する覺悟であつたから、敢て落膽はせぬが、兎角極地突進の、一侶伴たる犬群の、全滅に近きことは、我事業の一の打撃たるに相違はない。

されど困苦欠乏に堪ゆるは、我隊の本領である。我等は將來更に、健鬪せん覺悟である。

今日の犬は一は南氷號、一は南雪號として、水葬に附した。殆ど南極圏内にまで來て、死んだのはせめてもの、彼等が本懐とする處であらう。水葬の際山邊、花守は、記念の爲めとて一頭の方の皮は剥いで、殘骸丈け葬つた。山邊、花守兩犬係の胸中は、左こそと推しやらるゝのである(多田恵一)

 

ようやく南極圏に到達した開南丸ですが、季節は結氷期へ移っていました。分厚い氷に阻まれて前進できず、何とか方向転換して上陸地点をさがすうちに天候も悪化。

流氷に閉じ込められるか、暴風雨で転覆するか。これ以上無理はできないと判断した白瀬隊長はオーストラリアへの撤退を決断。明治44年3月15日、南極大陸を目の前に開南丸は転進します。その撤退中にも犬たちは死んでいきました。

 

三月十五日 曇雪

今朝輓犬一頭斃死。南涛號として水葬する。殘るは愈々僅に、太郎と次郎との、二頭のみとなつた。

今迄は皆氣が張つた爲めに、無聊の苦も忘れて居たが、今は些の功勲も、奏さなくての歸航の途に就いたかと思ふと、何をするにも手がつかず、又之の無聊に、攻めらるゝようになつた。一行の意氣は、頓に消沈してしまつた(多田恵一)

 

三月二十六日 半晴

朝から輓犬二郎が非常に、苦悶しながら泡を澤山吹き出す。何か中毒したものらしい。種々手當をしてやつたが、寸効もない。

彼もやがて鬼籍に入るのかしら。

近頃船員中にも、二三不快の者が出來た。航海も長くなると、皆衰弱するのは是非もない(多田恵一)

 

そして二郎も死亡。樺太を出発した犬たちのうち、生き残りは太郎のみとなりました。

 

三月二十七日 曇

今朝輓犬二郎は遂に斃れた。豫て勇猛を以て、傲りし彼も、運命全くこゝに盡きて、殘軀はあえなくも、南溟怒涛の水屑と消えた。今は只一頭の、太郎がある丈けとなつた(多田恵一)

 

隊員の失望と鬱憤は何かと口うるさい白瀬隊長へ向けられ、探検隊の人間関係は崩壊し始めました。

船内は白瀬隊長・船長派と多田書記長・船員派、そして仲裁役の武田部長らに分裂。人間たちがイガミ合う中、生き残った太郎だけは元気でした。

 

「歸港の航海の無事であることは喜びに堪へないが、これに馴れてしまつて勇氣を失ふことがあつてはならん。平素の修養が根本なりと知るべきである」

頗る簡單ではあるが、要を得たつもりであつた。……折柄、輓犬が尾を振りながら甲板上を飛び廻つてゐたので、わたしはまた一句作つた。

暴風雨歇んで輓犬人に馴れてゐる(白瀬矗)

 

こうして第一次南極探険は上陸目前で敗退。

5月1日、南極圏から戻った開南丸はシドニーへ入港します。そこではじめて、白瀬矗はイギリス隊が1月2日、ノルウェー隊が1月14日に南極へ上陸したこと、そして探険隊後援会の櫻井熊太郎幹事が逝去したことを報らされました。

しかしオーストラリアから動けない以上はどうすることもできません。翌年の解氷期に向け、白瀬隊は第二次南極探険の準備に取りかかりました。

 

(南極探険編へ続く)