彼は私の船がいるのを聞いて、ひそかに村を出、丘を越えて船にやってきた。彼は日本語を相当上手に話せたし、英語も多少話した。
彼は私に彼らの深い悲しみと、みんながどんなに昔の家に戻ることを望んでいるかを訴え、悲痛な次の言葉で話を終えた。
「シコタン(※色丹島)よくない。ウシシル(※宇志知島)よい。トドたくさん、ラッコたくさん、オットセイたくさん、鳥たくさん、シコタン何もない、シコタン何もない」
彼が来船後、しばらくして五、六人の乗った小船が湾に入って来るのが見えた。彼は一行を見て、探しにやってきたのに違いないから、立ち去るまで隠してくれと頼んだので前甲板の水夫室に入れた。
小船に乗った人々は来船したが、短かい時間いただけで、私たちの友人、千島アイヌのことはたずねも探しもせずに去った。

 

H・J・スノー著 馬場侑・大久保義昭訳『千島列島黎明記』より

 

【千島アイヌの犬たち】

 

さて、謎多き「北海道犬の歴史」「カラフト犬の歴史」には更なる謎のエリアが存在します。それが、カムチャツカ半島から北海道を結ぶ千島列島。

厳しい気候ながら豊かな海の幸を得られる千島列島には、まずオホーツク文化人が定住。15世紀頃からアイヌが進出し、「千島アイヌ」として独自の文化を構築しました。

 

いっぽう北海道に近い北方四島は道北アイヌの文化圏であり、犬橇の記録は見られません。明治25年の『千島探檢實紀』では、多羅尾忠郎が「冬季旅行具」として鮭皮製のケリ(雪靴)とテシマ(かんじき)を記している程度です。

北海道アイヌの猟犬、樺太アイヌの橇犬に対し、千島アイヌはどんな犬を飼っていたのでしょうか?少なくとも、カムチャツカ半島の犬橇文化は北方四島の北海道アイヌに広まらなかったようです。

 

アイヌの北方起源説を人に納得させるものは、ほとんどあるいはまったくと言っていいほど存在しない。
実際、かなり多くの否定的証拠があり、彼らが北方民族でなかったことを示すに足るものと私は思う。アイヌは北方民族特有の風習、器具、武器、ボートその他を持っていない。
酷しい気候に住む原始民族の特徴としては、全部とは言えないが―例えばなまの食物や油や鯨の脂肪への嗜好、犬橇の使用、雪靴、皮製のボートやカヌー、セイウチの牙製の装飾具や武器、それにもっとも共通のものとしての皮や毛の衣服への利用、防寒のために造られた家屋がある。
ところがアイヌは常に食物を料理する。彼らは非常な肉食家ではあるが、油や鯨の脂肪は好まない。アイヌは犬を持っていて、冬期間は蝦夷やエトロフ島では犬橇の利用に適しているにもかかわらず犬橇を使用しない。
竹槍を現在も、少なくとも以前は使っていた。セイウチやマンモスの牙製の武器や装飾品は持っていない。もし、アイヌの起源が北方であるなら、当然これらの幾つかが保存されているか、伝えられているはずである(H.J.スノー)

 

北海道アイヌや樺太アイヌの犬については大量の記録があるのに、択捉島から北、千島アイヌの犬だけが歴史の空白となっています。占守島にはイテメリン族も移住していたので、彼らの犬橇が用いられていたのでしょうか?

千島と同じくカムチャツカ半島から延びるアリューシャン列島で、犬橇が用いられていたのは確かです。ベーリング島を訪れたスノーは、アレウト族の犬橇について記していました。

 

十五日になってようやく群棲地に戻れたが、オットセイは、ほとんど残っていなかった。私たちは原住民から皮を二三五枚入手しただけであった。”賓客”の首長は、上陸するやいなや教会への誓約を果たすため、一団の犬に引き具をつけた。教会は、四〇キロメートルも離れた村ニコルスキーにあった。私たちは、アレウトの友人たちに分けてやれるだけの衣類、食糧を与えた。彼らは金は信用できない、として受け取ろうとしなかった(H.J.スノー)

 

カムチャツカ半島と択捉島の間で、千島アイヌはどのような犬を飼っていたのでしょうか?

千島列島にはクリルアイランド・ボブテイルのような猫もいたことですし、「北海道犬界」「樺太犬界」から独立した「千島犬界」が存在したのかもしれません。

しかしロシアや日本の介入によって、千島アイヌの文化は失われてしまいました。日本領になった時点で千島列島の在来犬は姿を消し、その後は島外から持ち込まれた洋犬やカラフト犬が定着していきます。

だから、千島の犬を調べても見つかるのはラッコ密猟船のペットばかり。更に検索したらソ連KGBの国境警備犬などへ時代が走り幅跳びして、とても困っています。

 

帝國ノ犬達-PV
パトロール中のKGB国境警備隊員。制帽や肩章の緑色は国境警備軍の兵科色です(スパイ組織のKGBにとって、北方領土の国境線監視も任務のひとつでした)

 

【千島探検のはじまり】

 

酷寒ゆえ農業には適せず、農業がダメなので畜産も小規模、林業は船の運搬費だけで赤字、鉱業としては硫黄が採掘される程度。千島列島の主要産業は漁業であり、海鳥、海獣(ラッコやオットセイ)、陸生動物(ヒグマや狐)などの毛皮が高値で売買されていました。
その毛皮を入手するため、帝政ロシアが千島列島へ進出したのは1700年代のことです。

1711年、千島に上陸したアンツィフェーロフはアイヌとイテリメンに毛皮税を課そうとして失敗。1741年、二度目の挑戦でアラスカへ到達したヴィトゥス・ベーリングも、千島の測量を計画していました。

そして1799年には露米会社が設立されると、千島列島でも大規模なラッコ狩りが始まります。

ロシアは千島アイヌを帰属させるため正教を広め、毛皮交易をおこない、アリューシャン列島のアレウト族を労働力として入植させていきました。

「ロシア化」の結果として、千島アイヌ古来の文化は失われてしまいます。

 

不潔さと強烈な酒への渇望と日本人への恐怖と言語以外は、南の同族(※北海道アイヌ)とは共通していなかったし、衣類、住居、武器その他はまったく異なっていたが、これは手に入る原材料が南部のアイヌのそれと異なる事実によるものであった。
彼らの古いアイヌの風習も、キリスト教に帰依した時にロシア僧侶の教唆によって、廃棄された。私は今日まで彫刻したマキリ(小刀)の木鞘や家庭用道具や、南のアイヌによって使われてる独特の鮭を突く槍(マレック)や魚三叉を見たこともなかったし、南では一般的な熊祭りや踊り、あるいは飲酒の際、箸をもってひげを上げる風習も目撃しなかった(H.J.スノー)

 

明治8年に樺太・千島交換条約が締結されると、千島列島は日本領となります。新たな支配者である日本も、和人への同化策をとりました。

千島アイヌは国籍選択を迫られ、ロシア国籍を選んだ者は千島から退去。日本国籍を選んだ者も明治政府にとって親ロシア勢力(政治的ではなく宗教的な)と見做されました。監視の目が行き届かない国境で、ロシア側から隔離するため「アイヌの保護」を口実にした色丹島への移住が実施されます。

 

シュムシュ島の酋長にお茶に招かれたが、これはウシシル島、ラショワ島、その他の島では、聞いたこともない贅沢なことであった。

酋長の家は、部屋が三室あり、盆と茶碗と皿があった。同島のいい家々には、粗雑な作りだが、テーブル、椅子、棚が備えつけられ、どの家にも小さな聖壇のようなものがあった。

その上にはキリストや聖母マリアのあざやかな色彩画が置いてあり、いくつかの家にはロシア皇帝の絵があった。

彼らの財産は非常に限られていて、二、三の鍋や平鍋、多少の工具、一、二の小刀や古い先ごめ銃に多少のガラクタで全部だった。ある者は犬を飼っていたし、各部落は大概二隻あるいはそれ以上の木造船を持っている。これはごく普通の財産のようであった。これらの貧しい人々の間にさえも階層があって、ある家庭は他の家庭よりも裕福であった(H.J.スノー)

 

色丹島への移住の際、千島の在来犬たちは殺処分されてしまいました。こうして千島犬界の歴史は失われ、それを調べる手段もなくなります。

 

日本領土になった後も北千島に留っていた住民は数年間古い部落に住みついていたが、大いに悲しむべきことは、日本政府の命令でシコタン島に移動させられたことであった(一八八四年=明治十七年)。
犬は全部殺され、船は置き去りにされた。彼らは北海道に近いシコタン島の北側の小さな湾のシャコタンに移住した。村が造られ、働かされ、小さな土地を開墾するよう奨励された。飼育用に家畜や羊も提供された(H.J.スノー)

 

明治25年に千島列島を探検した笹森儀助は、国策・国益の面から千島開拓の推進を主張。
南方探検では沖縄県民の窮状を救おうとした彼ですが、北方探検では千島アイヌに対して「色丹土人は實に日本政府の厄介者なり」と断じています。「それゆえにアイヌへの支援強化で懐柔をはかり、ロシアから離反させるべきである」と。

彼らに必要だったのは、故郷の島で漁業に従事し、キリスト教を信仰することでした。しかし、これに逆行したことで明治政府の千島アイヌ支援策はことごとく失敗。

明治17年に占守島から色丹島へ移住した97名の千島アイヌは、異なる風土や農業への適応ができずに健康を害し、出生率も低下したことで人口が激減します(色丹に移し以來の減少とすれば重に風土の異なる異なると、其職業の彼等に適せざるとは原因の主なるものと斷定せざるを得ず。夫れ陸生動物を海洋に移さば其生命を全ふせざると同じく、其境偶總て其身心に適せざればなり)。

 

笹森儀助は、色丹島移住の失敗がバレたらアイヌの反乱を招きかねないとし(死亡出生の比例に據り推測すれば、向ふ十年の后には、彼等種族悉皆斷絶して遺類なきに至らんのみ。假へ小數の人種とはいへ内外非望を抱くの惡漢をして之を知らしめば立どころに一反旗を建るの口實となるや必せり)、不満分子とロシア側との内通を懸念し(毎年東京ニコライへの通信あると、時々根室希臘宣教師小松韜蔵等の穏に誘導するの内實ある)、千島列島へ役所や病院を建設したり、莫大な補助金を投じることへの是非を問うています。

 

【英国人がみた千島列島】

 

日本統治時代の千島列島で活動していたのが、イギリス人のH・J・スノー。鉄道技術者として来日した彼は、あるアメリカ人船長と出会ったことでラッコ猟の世界に足を踏み入れます。

日本とロシアの巡視船から逃げ回りつつラッコを密猟していた彼は、和人にもアイヌ民族にもロシア人にも肩入れしない、第三者的視点で千島列島の事象を観察できる人物でした。

単なる密猟者かと思いきや、あのブラキストンの鳥類研究に協力したり、自身も鳥獣の標本を収集したり(ロシアに拿捕された際、すべて海洋投棄させられましたが)、千島列島の地図を作製したりと、自然科学や測量の知識もあったようです。

そしてイギリスへ帰国した彼は、千島列島における活動記録『IN FORBIDDEN SEA(日本語タイトルは千島列島黎明記)』を上梓。

 

国権や国益で千島を探検していた日本人の記録と比べ、冒険心で行動していたスノーの千島列島談はとても参考になります。

惜しむらくは、彼にとって大事なのは愛犬ネルだけであり、「和人やアイヌの犬がどうなろうと知った事では無い」という態度。ネルを自慢するその半分でもいい、千島の犬についてもう少し詳しく書いてくれていたら、貴重な資料になった筈なのですが。

これはスノーだけではなく、明治時代に来日した欧米人は似たり寄ったりの思考でした(彼の友人であるブラキストンも、函館の犬がジステンパーで倒れていくのを見て「邪魔な犬を日本人が毒殺してくれた」と勘違いしています)。
動物愛護の対象は洋犬に限られ、日本の在来犬は絶滅させるべき駄犬扱いだったのでしょう。
スノーの同僚もイロイロとやらかした結果、択捉島の犬が大量殺処分されてしまいました。
 

私の船長Tは元気な男で、大変いたずら好きであった。村には飼主のある犬や野良犬がたくさんうろつき廻っていた。
ある老齢のアイヌの女は五、六匹も飼っていたが、船長はその犬たちを私たちの宿舎におびき寄せるのを何よりの楽しみにしていた。
二匹を荒繩で縛りつけて、尾に古いブリキ罐を結びつけ、大声を出したり、かんじきを振り廻して追いかけ村中を疾走させた。村中の犬が加わって大変な騒ぎだった。
アイヌの老女も家から駆け出て犬を離し古罐をとり、かん高い声で船長をどなりつけた。
長官は二匹の手頃の大きさの豚を飼っていた。ある時、Tは豚の檻に二匹の犬を放り込んだ。犬は豚に咬みついて振り廻しはじめた。
一匹は非常にひどく咬みつかれたので、アイルランド人の諺のように「その命を救うためにそれは殺されねばならない」ことになった(安楽死のこと)。
長官は私たちの所に使いを寄越し、村の犬が豚の檻に乱入して一匹がひどく咬まれたので、誰かに殺して調理してもらいたいが、料理人か給仕のどちらかが屠殺の方法を知っているかと聞いてきた。
同時に長官は部下に鉄砲を持たせ、飼主のない犬を全部殺せと命令して、多数の犬を射殺させた。幸いにもこの長官はこのいたずらが船長の仕業とは全然気がつかなかった(H.J.スノー)

 

……ひどいなあ。

このT船長、調子にのって択捉島のアイヌ女性にセクハラしまくったあげく、ブチ切れた被害者からボコボコに殴られております。

 

【郡司大尉の千島探検】

 

スノーが千島列島のラッコを乱獲していた頃、ある陸軍軍人が千島探検に赴いています。

彼こそが白瀬矗。日本最初の南極探検隊を率いた人物です。

もともと白瀬が夢見ていたのは北極探検でした。しかし「北極の前に樺太や千島を探検してみろ」という児玉源太郎のすすめにより、明治26年の報効義会千島探検隊(郡司成忠指揮)に参加します。

この千島探検は、スタート時点から運に見放されていました。出航後に八戸沖で輸送船鼎浦丸とカッターが遭難、計19名が死亡したのをはじめ、輸送船泰洋丸でも水腫病(脚気)で乗員一名が病死。さらに途中立ち寄った択捉島でのヒグマ狩りでは、アイヌ人ガイドが熊の逆襲をうけて死亡しています。

 

ようやく千島列島に到着後、報効義会メンバーは複数の島に分散上陸します。

幌筵島で越冬したのは和田平八。「彼はニコライ大僧正の門弟で強烈な希臘教(ギリシャ正教)信者で、其の隆盛を計らんとし、千島アイヌを再び舊北千島に移して、彼等に斯教を弘めんとする抱負の下に一行の勸告も退け孤獨赴いた」とあるとおり、たった独りで上陸しました。

捨子古丹島越冬隊は、田中留吉(医学生)、高橋傳五郎(キリスト教宣教師)、鶴島久次郎、島村金一、中村重吉(いずれも海軍兵)、堀江彪(壮士)、木村佐吉、目黑廣吉、井上儀三(いずれも陸軍兵)で編成。

郡司大尉、坂本吉五郎、加戸乙平、上田幾之助、森音蔵、小野龜二郎(いずれも海軍兵)、白瀬矗(陸軍兵)ら探検隊の主力は占守島へ上陸します。

 

千島列島の多くは、日本の漁業関係者や外国のラッコ密猟船が立ち寄る程度の無人エリアと化していました。アイヌと犬が消えた島々に、再び犬を持ち込んだのが郡司探検隊だったのです。

彼らの犬は択捉島から連れてきており、犬種は北海道犬でした。占守島越冬隊は「ジョン」「白」「タマ」(ジョンは死亡、二年目の越冬で「白」「タマ」は「熊」と交代)、捨子古丹島越冬隊も犬を連れていました。

占守島のジョンと白は島内踏査につきしたがい、猟犬や番犬として用いられています。

 

越年者(※捨子古丹島)の爲一日一人三合の割にて米を與へ、小屋材料、天幕、カッター、銃器等を分けた。堀江が擇捉(えとろふ)より連れて來た大きなアイヌ犬も殘す事にした。

 

中尉(白瀬矗)は擇捉より連れ來つた飼犬ジヨンを供に狩獵に出掛けた。吹散らしに依つて雪は盛んに移動し、窪地は深い堆積をなして居たので風當りは激しかつたが、雪の堅い尾根筋を選んで歩いた。

 

前路を眺望すれば雪山は漠々として際涯なく續き、唯強烈な日光が積雪に赫々と反映して眼を眩ませるだけであつた。

郡司大尉は幌筵の一嶺を測定し、磁針方位を確かめ、東南さして行進を開始した。白、ヂヨンの二犬は前後になつて盛んに飛びまはつて居る。

(中略)

此の時雪上に假寝して居る赤狐を發見し、二、三百米に接近したが唯首を擡げたのみで逃げる氣配がない。丁度一行より半里も前方に先驅して居た二犬が突然歸來して飛掛つて嚙殺して了つた。中尉は狐の死體を縄で結び引ずる事にした。丘を下り、澤に沿ふと雪は軟かく陥沒して脛部迄潜り疲勞したが、二十丁にして海岸に出た。

すると先驅して居た二犬が又海濱に群遊して赤狐を襲ひ、奮戰二匹を嚙伏せた。

 

いずれも木村義昌・谷口善也『白瀬中尉探檢記(昭和17年)』より

 

択捉島のアイヌが北海道犬を飼っていたことは、遭難して同島に上陸していたスノーも記しています。おそらく択捉島が北海道犬の北限だったのでしょう。

 

この頃、家の近くの新しく降った雪に獣の足跡を発見した。これは犬の足跡よりももっと大きいように見えた。土地の人々は夜、丘から降りて来た狼の足跡(※千島列島にもエゾオオカミが棲息していました)だと断言した。
朝食後、私は銃を持って足跡を追い数キロメートルも追跡したが、雪の中で足を取られながら歩くので疲れ果てて帰って来た。
二等航海士のRは私の銃を借りて狼をさがしに出掛け、夕刻疲れ果てて帰って来た。彼の話によると狼追跡の模様は次のようだった。
彼は何キロメートルも丘を越えて足跡について行って遂に谷に降り、木の間に狼の姿を見つけ忍び寄って撃った。それは見事な獣で、毛の色は淡い灰色で二〇~三〇キログラムの重さがあった。
彼は両肩にこれを背負って村に持ってくるつもりでいたが、雪の中を運ぶには重く、何度も捨てようかと思った。
途中二、三人のアイヌに会った。彼らは彼を見て大笑いをした。彼が撃ったのは狼ではなく、数キロメートル離れたアイヌ部落の大きなアイヌ犬であることがわかった。
私は後でこの死んだ獣を見た。私は彼が狼と見誤ったことは責めるべきではないと思った。それは美しい獣で、肥っていて素晴らしい毛をしていた。犬を殺したことでのトラブルはなかった。
これは本当のお笑い草と見なされたからである。島の住人は犬を実用的には利用していなかった(H.J.スノー)

 

上陸当初の郡司探検隊は精力的に島内を調査し、フレップ(コケモモ)などの収穫でビタミンも補給できていました。しかしすぐに、想像を絶する千島の冬がやってきます。

占守島越冬隊は暴風雨に遭遇、郡司大尉らは低体温症で遭難しかけました。

さらに、捨子古丹島の9名は越冬中に全滅(一酸化炭素中毒で4名が死亡・出漁した5名が行方不明)、幌筵島の和田平八も病死します。猛吹雪で越冬小屋に閉じ込められた和田兵八は栄養不良、酷寒、日照不足などで衰弱。捨子古丹島越冬隊も、暖をとろうと密閉空閑で焚火をしたことが悲劇を招きました。

越冬を終えた5月10日、幌筵島に和田を訪ねた郡司大尉らは彼の遺体を発見。和田の日記は3月22日で終わっており、両脚が腫れて歩けない(脚気の症状)ことが記してありました。捨子古丹島隊は更なる惨状を呈しており、戸外へ逃れようとして力尽き、扉へ寄り掛かったまま亡くなっている隊員もいました。

 

小屋の入口には荒蓆を垂れて戸扉の代りとし、脇にはこちこちになつた山女(ヤマメ)が二匹吊してあつた。

吹溜つて居た雪が厚く戸口を鎖して居たので、四名は代わる〃雪を發掘すると、雪中には未だ青々とした二本の門松が現れ、多分元旦の祝松に相違ないと思はれた。戸口の雪を掻拂つてから、最初に大尉が内に入つて一應檢査したが、和田は居ないと云つて出て來た。中尉も不審に堪へず、入つて見ると、眞暗で成程さつぱり見えない。そこで屋根を破り光を取入れて檢すると、果して和田は小屋の片隅に仰向に臥褥の儘、中尉が前年與へた布團を掛け無惨にも死んで居るのを發見した(和田平八の捜索状況)

 

その島に着いて先づ屯田小屋を發見した。なかに這入らうと思ひ、閉まつた戸を押すと、開くには開くが手を引くと、すぐまた押返すやうに閉まつてしまふ。

二度開けると、二度閉まる。あまりの不思議さに、少し氣味が惡くなつたが、ドンと一つ強く押してみた。さうしたらバタリと音がした。薄暗い部屋のなかに、氣を配りながら這入つてゆくと、眞中の邊に置いた鍋を圍んで、食事をしたまゝ、みんな死んでゐて、ちやうどミイラのやうになつてゐた。そして、今バタリと倒れたのは、やはり乘組員の一人で、まさに戸を開けておもてに出ようとしたその瞬間、死んでしまつたことが判つた。わたし達は暫く茫然としてこの光景を眺めてゐた(捨子古丹島越冬隊の捜索状況)

 

6月に幌筵島へ上陸した際、和田平八の遺体を発見したスノーらは占守島の郡司大尉へ通報。密猟船リッチリバー号を日本船千島丸と勘違いした郡司大尉や白瀬矗はこれを出迎えます。

 

甲板上には獵虎(ラッコ)や膃肭臍(オットセイ)の貴重な生皮が數百枚堆積してあり、其他魚類や鳥が散亂し惡臭は鼻を衝き不潔を極めて居た。

密獵船は全てコマンドルスキーより來た旨語るが、此れは千島に於ける暴虐振りを明らかに示して居た。密獵船は全てコマンドルスキーより來た旨語るが、此れは千島密獵を秘す彼等全ての用ゆる遁辭である。

密獵船には船長スノー以下十九名が乘組み、其内二名の日本人が雜つて居たのは意外であつた。

中尉に依ると、船長スノーは頭髪顎髭共銀白で、顔色は永年の北洋生活に塩燒して赤銅色に化し、最早相當の老齢者であつたが、彼はなんとなく威容備はり、他の多くの密獵船長に比し最も印象の深い奴であつたと語つて居る。船内には北海道から露領に至る海圖や航海暦、磁針器、セキスタント、セオドライト、バロメーター、精巧な散彈銃とがあり、中でも中尉は彼が千島列島の精密な海圖を所持して居るのに驚き、郡司大尉は羨ましがつた。

彼は明治十一年以來禁制の海千島領海の密獵に遠征し來り、其の元祖とも稱す可き者で、明治十七、八年頃から千島全島の沿海を精密に測量し、殆んど十年の歳月を費やし、二十七年完成の上、英國女王陛下に捧呈した由で、彼は其の功に依り英國第三等勲章を授與され、中尉も彼の勲章や勲記を見せられた。

一同は濫獲された無數の海獸に血涙を渺ぐ思ひをして引揚げた。

 

郡司大尉から和田平八の死亡を確認済みであると知らされ、スノーは占守島を退去。

その際、日本隊が食糧不足に陥った理由も判明しました。驚くことに、軍人中心で編成された郡司探検隊には漁業の知識がなかったのです(郡司大尉らが得たのは川を遡上するサケやマスくらいで、各島を調査する際「魚が一匹もいない」と記しています)。

 

当時、郡司大尉の一行は島に来て約十五カ月たっていた。彼のボートが岸に横付けになっている間、乘員はそこに魚がいないのに網を投げていた。

私たちは、前日ちょうど海峡の外で捕えたたくさんのタラやヒラメを持っていた。これを見て郡司は、どこで捕えたのかと尋ねた。一行は一匹も魚がとれず食糧に困っていると語った。この島の周囲の海域は、オヒョウやタラが一杯いるのに、一行の進取の気性の欠如とまったく無気力なのを見て私は驚いた。もっとも肝心なのは冬や春には、もっと深い海に出掛けることであった。

私は彼に魚の居場所を教え、二、三ダースのタラと多少の食糧を贈って別れた。それからわれわれも出航した。

その時以来、タラ漁業は日本人移住者の主要な産業になったと、私は信じている(H.J.スノー)

 

越冬中に何度もラッコ密猟船を目撃した白瀬矗は「あのような小型船でも北の荒海に耐えられる」と確信。それが後年の南極探検計画へとつながるのです。

※スノーの密猟を非難していた白瀬矗ですが、後年に自身もラッコ密猟船の乗組員として二度目の探検に挑戦しています。

 

自活手段に欠けたまま、6月28日には越冬隊を迎えに軍艦「磐城」が来航。しかし、磐城には郡司大尉の父・幸田成延が5名の部下を率いて乗船しており、越冬の交代を申し出る騒ぎを起こします。

 

磐城艦も日清の風雲急を告げる際、猶豫を許されないので、郡司大尉以下海軍豫備役たる他の五名を伴ひ匇々歸國するに決し、七月一日霖雨蕭條と煙る中を午後三時抜錨、出帆して了つた。

其の日同艦は柏原灣に立寄り、和田平八の死體を火葬に附して行つた。

磐城よりは米、米粉、豆、砂糖類を讓り受け、又大尉の父が熊と云ふ逞しい犬を一頭遺して行つたが、大尉は白、タマの二犬を連れて行つた(ヂヨンは死亡した)。


年老いた父を厳寒の孤島に置き去りにするワケにもいかず、郡司父子は白瀬らに越冬延長を依頼して占守島から去ります。一年で撤収する筈が、二度目の越冬をすることになった隊員のうち3名が壊血病で死亡。占守島の状況は酸鼻を極めました。

 

彼は「あゝ切ない。僕は死ぬよ」と眼をつぶり、わたしに凭れかゝつた。

「君―、死に給へ、安心して死に給へ。いづれ一緒にならう。僕も君のところへきつとゆくからね」と耳の中に突込むやうにいふと、彼は淋しく笑つて、わたしに凭れたまゝ死んでしまつた。

なんといふ悲惨な最期であらう。わたしは、握つてゐる彼の指が、一刻一刻冷えてゆくのが判つた。そして、あとでわたしの手を彼から離すのに困つたくらゐであつた。

かうして、同じやうな症状で死んだ同僚が三名に達した。しかもその死骸は動かすことが出來ない。あちらに一人、こちらに一人……と轉がつたまゝである。數日後にはそれが腐つて爛れ、膿がはみ出さうであつた。けれども、どうしようもない。

わたしはそのまゝ二ヶ月のあひだ死骸と同居して暮した。

 

白瀬矗『私の南極探檢記』より

 

生き残った白瀬らは愛犬クマまで食料にせざるを得ない飢餓地獄を乗り切り、明治28年に来航した八雲丸に救助されました。

 

殘る三名も病症未だ癒へず、氣息奄々唯餓死を待つばかりであつた處、食物は缺乏して了つたので五月十五日無惨ながら涙を振つて飼犬熊公を銃殺。其の肉で養分濃き羹物(あつもの)を作り、中尉等三名の命を繋ぐ事を得た。

犬は野鼠を捕食して居たので案外太つて居た。中尉も此の後漸く元氣を増し、渡り來つた鴨や海鳥を撃つたり、漂着した海藻を拾つては盛んに攝取した。

中尉は犬の冥福を祈つて、片岡灣に塔婆を建て、次の碑銘を記した。

 

法名釋報忠俗名熊犬行年三歳

明治二十八年五月十五日滋養品の爲に銃殺せり(『白瀬中尉探檢記』)

 

日清戦争から帰還した郡司大尉は第二次報效義会を結成、再び占守島へ上陸しました。二度目の千島開拓は成功し、缶詰工場の操業に至っています。

いっぽう白瀬矗は郡司大尉を恨み、私的事業ではなく国家事業としての千島開拓を主張。さらには外国のラッコ密猟船でアラスカへ赴いて北洋での経験を積みました。

 

【千島への渡来犬たち】

 

占守島から白瀬矗が救出された翌年、スノーは幌筵島を再訪。奇しくも、同島で和田平八の遺体を発見したのと同じ6月25日のことでした。

その際、彼の愛犬だったコッカースパニエルも上陸しています。どこで入手したのかは分かりませんが、明治20年代にコッカーが来日していた貴重な記録ですね(このコッカースパニエルは横浜へ帰港直後に死亡したとのこと)。

 

あの土室の跡(※和田平八の越冬小屋)は、なくなっていた。残雪があり、相変らず不毛の荒地であった。水をくむために湾に注ぐ小川へ三隻のボートが行った。三人の射手も私のコッカー・スパニエル犬を連れて、丘で狩りをするために同行した。一行は前に土室のあった場所の方へ岸沿いに歩いていた。土室跡は彼らの上陸した地点から八〇〇メートルほどのところにあって、二〇〇メートルほど手前で一行は止まった。そこは奥地の山脈につながる高い崖に向かって傾斜している土地で、犬はその間ずっと一行と離れずについてきた。

ライチョウを撃とうと思って私も銃を持って自分で漕ぎ、土室のあった付近に上陸した。ボートをあげた後で振り返って見ると、犬が私の方に気が狂ったように突進して来た。犬は真っしぐらに駆け私にも気づかないかのように通りすぎ、呼んでも口笛を吹いても、とまろうとしなかった。尾を両脚の間に入れ、両眼が飛び出し首を左右に振り恐ろしいものに追いかけられていて、今にも追いつかれるのをやっと逃げているような恐怖状態にあった。

犬はボートが着いた浜辺まで走ると海に入って船の方へ泳ぎ出した。私は犬がけいれんで溺死するのが心配になって再びボートを降ろし犬の後を追い、四〇〇メートルほど泳いだところでボートに引きあげた。犬はボートの仲でも私の両脚の間でひどく震えながら怖がり、吠えるというよりうなっていて、すさまじい恐怖の表情を帯びていた。乗船してから船室に連れて行き、できるだけ楽にしようとしたが効果はなく、天窓に映る影にさえ新しい恐怖を示していた。

私は、この原因をつきとめようとした。誰かが犬をなぐったかマッチをつけたか、そんなことだろうと思って、また島に行った時に射手たちになぜ犬をこんな恐怖状態にしたのかと尋ねた。彼らも私同様驚き当惑した。
彼らの話によると「犬はずっとそばにいたし、彼らがとまった時にも一緒にいたが何か非常に恐ろしいものを見たらしく、まるで悪魔に追い駆けられているように突然海岸の方に逃げた」ということであった。

 

同じ日、幌筵島には他のアメリカ船からも猟犬が上陸していました。そしてこの犬も原因不明のパニック状態へ陥ります。

一人のヨーロッパ人がポインターくらいの大きさの犬を連れ、高い断崖を越えて、砂丘に降りてくるのが見えた。三時間ほどたって彼がまた岸に現われ、本船を呼んだので私はボートをやって船に連れてこさせた。
彼は五キロメートルほど離れた小湾内に停泊しているスクーナーのアメリカ人射手で、この湾の南側の沼沢地へ高い丘を越えて鴨をとりに来たのであった。
歓待して猟の情報を交換した後で、彼は近道になるので、湾の北側に送ってもらいたいと頼んだ。
彼はボートに乗ろうとした時に「私の犬がどこかへ行ってしまった。もし犬を岸で見たら船に乗せてくるようお願いします。ベーリング海で私たちが会う際に犬を引き取れます」といった。
私は彼にどうしてどこで見失ったかと尋ねると、彼は「いやもう、これが、実に奇妙なことでした。私があそこの砂丘へ降りた時」と、私の犬が怖がり出した場所の方を指して「犬は私と並んでおとなしく早足で歩いていました。このいまいましい犬は突然何か恐ろしい物を見たらしく、まるでたくさんの悪魔に追い駆けられているかのように猛烈に駆け出して、あの谷を上って行きました。私は口笛を吹いて犬の跡を追い駆けて走りましたが、犬はどんどん走り続け、とうとう見失ってしまいました」と話した。
それで私も自分の犬に起こったことを彼に話したが、彼にもこのミステリーはどう解釈していいかわからなかった。私たちは翌朝までいたが彼の犬の気配はなかった。

 

航海中に上空で発光する謎の飛行物体と遭遇したり、仔を撃ち殺された母ラッコに執念深く追跡されたり、ノースは数々のオカルトじみた体験をしています。そんな話はどうでもいいとして。

このように、明治時代の千島列島に洋犬が持ち込まれていたのは事実。中には、主人とはぐれて野生化した犬もいたのでしょう。

それらの外来犬が、島内の犬にどのような影響を与えたのかは分かりません。

明治40年代になると漁業関連施設が進出し、開拓者とともに多くの犬が移入されていきました。

断絶してしまった千島列島の犬界史は、和人が中心となって再スタートしたのです。