学者犬マリー、はじめてのお使い(スパルタ)編

 

翌朝主人が目を覺ますのを待ち兼ねて、早速、訓練の方法の始めの方だけでもと、お願い致しましたけれ共教へて呉れません。
私は氣が氣で有ません。一時でも早く犬にお豆腐が買わせて見たい一念で四日間は何も手につかず、只茫然として居りました處、主人は毎日〃何をぼんやりして居るかと申します。
使犬の訓練がして見たいので、其訓練方法を毎日考ている爲め一寸も仕事何も手に付かないと申しましたところが笑つて、其位の事が解らない様では訓練が出來ますと大きな事は云はれぬと、笑われました。
でも解らないのですから習ふより外に道が有りませんので、是非お願ひ致しますと頭を下げましたら、それではマリーは運搬は出來て居るから籠を喰へさせて、毎日赤峯豆腐屋に連れて行き、其の時こちらより少し肉を持て行き、向ふの主人に肉を渡してマリーの口より籠を受け取つて貰ふと同時に、肉をマリーに輿へて貰ふ様すべてを良く主人に連絡を取つて、歸りは主人にマリーの口に籠を喰わへさせて貰ひ連れ歸り、それを毎日繰返させ、そして一週間もたてば豆腐屋の近所まで行けば必ずマリーは豆腐屋まで先に行く様になるから、自分は其場に立止まり、マリーの來るまで待つ。
豆腐屋の人はマリーより籠を受取り肉を輿へ、籠に豆腐を入れてくわへさせ、そして歸して貰ふ。必ずマリーはお前の立止つた場所まで歸つて來る。
來たなれば心より賞讃愛撫してやる。是れでだん〃距離を延ばせば、それで完全に出來上る。
それとも一つ大事な事は、途中他の犬が居つた時、其犬の方に行けばいつも繋鎖を持つて居り、自分の犬に命中する様投げかける。
如何なる方法でも他の犬の方に行かぬ様強制し、犬を見ても決して見向きもせぬ様になるまでの訓練が必要だ。又口より如何なる事が有る共、籠を落さない事と、是れだけを、根氣強くやれば屹度出來ると教へて呉れました。其日より早速訓練に取りかゝりました。
ところが行く途中、犬が一匹居り、其犬を見るなり籠を口より落して犬の方に行きましたので、習つた通り鎖を丸めて犬に接近し、力一杯投げつけました。
運良く命中しましてマリーは私の方にとんで來ましたので、又籠を喰わへさせて、お豆腐屋に行きお豆腐を買つて來ました。
又歸る途中犬が居りましたので、犬を追ひ鎖を持て追かけましたが今度は他の犬とジヤレ合つてなか〃傍に寄せません。
私も必死の思ひで追駈け廻り、約二十分間も目的を達する事出來ず、其内通行人は足を止めると云ふ有様で、随分恥かしい思ひをしつゝ追駈け、漸く鎖を打ちつける事が出來、マリーを捕へました。
そして豆腐はと見れば籠より飛び出て泥まみれになつて居ります。それを又籠中へ入れ喰へさせて歸りました。
歸ると直ぐ主人に其事を申しますと、それでは今度は豆腐買ひは後廻しにして、外の犬に絶對行かぬ様になるまで、籠を口より放さぬ様になるまでの訓練を先にせよ。
そして今度は長い紐を付けて其端を手に持ち、若し犬の方に行かうとした時は紐を延ばし、右に鎖を持ち、紐一杯行つた時鎖を打ちつける。
そして側に引き寄せ愛撫する。又籠を放せば強制してでも喰へさせ、絶對落さぬ様になるまでこの訓練をする。
此の方法でせよと申しますので、そんな事をするのは余り可愛想だと申しますと、僕には其方法より仕方がない。人間と違ひお前は犬の方に行つてはいけない。
又籠を口より放してはいけない。又お豆腐を買ひに行けと只言つただけでは、とても聞くものではないからそこが訓練だ。
賞罰の如何に依つて犬に無理の行かない程度にすれば、決して犬も無理と思はないから、其方法で訓練して見よと申ますので、言われた様に犬の方に行かない訓致を致しました。
三日にして決して犬が居つても見向きもしない様になり、非常に素直になりましたので四日目より前通りお豆腐買ひの訓練にかゝりました。
それからはめき〃上達して参りまして、一ヶ月にして私の家より約四丁位の所の赤峯と云ふお豆腐屋まで立派に買ひに行き、買つて歸る様になりました。時にはお豆腐が粉微塵になつて居つた事も有りましたが、怒つた事は有りません。
必ず歸りましたら何かマリーの好きな物を必ずやる様にして居りました。此の訓練は思つたより早く出來上りました。
 

田村しげ「軍用犬訓練の體驗(康徳11年)」より

(次回に続く)