遊牧の民は牛羊と居を同じうす。彼等は是と共に生き、是と共に死す。

寒帶國の住民は其の生活、亦獸類に近し。樺太の土人、勘察加(カムチャツカ)の異人等は自己が一尾の乾魚に因りて越年生活を爲すと共に、畜犬にも亦一尾の乾魚を與ふ。

糧食の貯蔵には一疋の犬を家族の一人と看做して、時には其の費の人間以上に上るあり。

蠻勇の廃れてより鬪犬を見ざる事久し。文明は智力の競爭にして勇力の競爭に非ず。

人賢くして獸類に及ぶ、近時犬喧嘩の少き聊か物足らざる感なき能はず。

不毛極致の地に於て尚能く安住するを得る者、一には馴鹿(トナカイ)の賜なり。而して他は犬の地からに因らずんばあらず。

駱駝は沙漠の舟なりと云へば、犬は氷原の橇なりと云ふべし。荊棘未だ拓かれずして、夏尚人道を絶つ靺鞨に於ては、滿日の光景只皚々たる時、何を以て交通するを得んや。此の時來往の具となる者は僅に犬橇あるのみ。

雪舟は掉して行るべからず。牛馬を以て曳かしむべからず。樺太に於て之を曳かしむる者、此方には馴鹿あり、南方にはアイヌ犬(※北海道犬ではなくカラフト犬のこと)あるのみ。

 

西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より

 
上野の国立科学博物館にはカラフト犬・ジロの剥製が展示されています。南極へ置き去りにされるも、兄弟のタロとともに一年間生き延びた奇跡の犬。
カラフト犬が消滅した現在、目にすることができる貴重な「実物」でもあります。

科博で忠犬ハチ公や甲斐犬と並ぶジロは、例えるなら黒いタヌキみたいな姿で、初めて見た時は驚きました。ハスキーみたいに精悍な犬かと思っていたんですけど。

 

●忠犬ハチ公の剥製。ジロは足の先だけ写っています。

 

しかも、タロとジロは北海道へ渡り、荷役用に和人が淘汰した「長毛型カラフト犬」の子孫です。いっぽう原産地の樺太で撮影された樺太アイヌやニヴフの橇犬たちは、長毛、短毛、立耳、垂れ耳、体格もガッシリ型から細身まで、体毛の色もさまざま。一体どれが標準的なカラフト犬なのでしょうか?

 

混乱する原因は、「カラフト犬は単一の犬種である」という思い込みです。

たとえば「日本犬」は実在しますが、それは柴犬、北海道犬、秋田犬、甲斐犬、紀州犬、四国犬などを総称したもの。

カラフト犬も同じケースで、多種多様な樺太在来犬を分類するのが面倒くさかった和人は、それらをひと纏めに「カラフト犬」と総称したのです。

樺太がロシア領となった現在、いつしか「漠然としたカラフト犬のイメージ」だけが独り歩きしてしまいました。まずは樺太南部が日本領だった時代の記録から、イニシエのカラフト犬の姿を探ってみましょう。

 

●戦前の樺太で橇を曳くカラフト犬たち。南極観測隊が用いた長毛タイプとは違い、短毛で毛色もさまざまです。

 

【カラフト犬のルーツ】

 

現代のカラフト犬解説は「北海道に渡ったカラフト犬」「南極のタロとジロ」が中心で、樺太地域に関する記述はごく僅か。

犬橇文化をもたない和人にとって、カラフト犬は無価値な存在だったのでしょう。

いっぽう、樺太アイヌやニヴフにとってのカラフト犬は自家用車であり、宗教的な存在であり、貴重な財産でもありました。

彼らはどこから樺太島へやって来て、どのように定着したのか。

かつて南樺太が日本領だった以上、樺太犬界史は日本人が編纂すべきなのです。

それを怠って北海道や南極で思考停止した結果、「カラフト犬とは何か?」の定義すらできなくなってしまいました。

 

もともと樺太は多民族が混在する島です。樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタ、ウリチ、エヴェンキ、ヤクートの六民族はそれぞれ別タイプの在来犬を飼っていました。

さらに樺太は北緯50度線を境に日本とソビエト連邦が分割統治しており、鉄のカーテンに閉ざされたソ連側については詳しい調査も不可能。日本犬保存会では無理な標準化を避け、それらを「A群:短直枝毛種(大型・中型)」「B群:長直枝毛種(最長毛系・エスキモー系・サモエド系)」に区分しています。

 

一口に樺太犬と云つても、如何なるものを指すか、俄かに之を定義することは恐らく困難であらう。何故なら現在、樺太に古くからゐる土着の犬はその體型、性能、用途何れも近似してゐながら、具さにこれを點檢するときは、明かにその系統、體型、性能等を異にしてゐて、何れを原種とも判別し難いからである。

それ故、ここでは唯、姑く一般の呼稱に倣つて、古くから彼地に飼育されてゐる體高五五糎乃至七〇糎前後迄のサイズの長毛、短毛種で、何れも立耳、主として冬期の輓曳用に使用してゐる犬を總稱することにする。

しかもこれらは互ひに交雜し合ひ、體型も次第に崩れて來てゐる上に、近年は交通が便利になるにつれて、内地から様々な犬が入り込むやうになり、益々端倪を許さぬものがある。

 

日本犬保存会 秦一郎「樺太犬私見(昭和11年)」より

 

マンモスや鹿を追って、当時は大陸と地続きだった樺太島や北海道に人類が渡ったのは旧石器時代のこと。

シベリアからオホーツク海沿岸、さらにアリューシャン列島からアラスカへ至るエリアでは、さまざまな先住民族が犬橇を用いてきました。そして北方の寒さに耐え、橇を曳くのに適した犬が作出されます。

 

●樺太の遺跡で出土した犬の下顎骨(直良信夫・昭和14年)

 

犬橇文化は次第に南下し、やがて樺太島へ到達。

もともと複数ルートで異なる犬種が渡来したのか、単一犬種が樺太島で多様化を遂げたのか。さまざまなタイプのカラフト犬が混在していた理由は不明です。

それではこれら(※A群・B群)のうち、古くからこの島にゐた土着犬は果してどれであらうか。これは日本犬の祖先探求と等しく面倒な問題でなければならぬ。

昭和九年五月十四日から十八日迄の間に發掘された鈴谷貝塚中には、やはり人骨や様々の遺留品と一緒に、たしかに犬骨らしいものも發掘されてゐるが、果してそれが今日のどれに該當するものやら、俄かに斷定は下されない。唯、この島に南下した民族移住の跡を考へ、また、その犬學上の分類から推して、前記のうちAの中型に属するものと、Bの第二型(エスキモー系)、第三型(サモエド系)に属するものとは明らかに西比利亜のレナ川の流域を中心とし、後貝加爾(ザバイカル)からカムチヤツカまで廣く西比利亜の東半部に分布してゐるツングース族、サモイエド族及び黑龍江の沿岸に棲息してゐたギリヤーク族等の次第に南下した時、連れて來た犬で、所謂シベリヤのライカ系統に属する犬であることは明白である。

而してAの大型に属するものとBの第一型(最長毛系)に属するものとは、その體型から推して、如何なる系統に属するものか、私には全く判別がつかぬのである。

前者に對しては秋田犬が北海道を經て、この島へ渡來したものだとの尤もらしい説を爲すものもあるが、唯、體型の類似以外、何等の必然性も大した根據もない。所詮、揣摩憶測に止まるであらう。唯臆測序に被毛が他の長毛種に較べて著しく長く、顔貌、體型等前記の四種とは自ら一別派を爲してゐるかの觀ある。

Bの第一型の犬こそ、古來の土着犬ではあるまいかとも考へ、比較的犬の事に詳しい各地に散在する古老の意見をも徴して見たが、矢張り前記Aの大型に属するものを支持するものと、後者を支持するものとの二派に分れて、これ亦歸趨するところを知らぬ有様である。從つて、これらは何れ識者の研究を俟つほかはないと思ふ(樺太犬私見)

 

国粋主義華やかな時代には、「カラフト犬の先祖は秋田犬」などという珍説も唱えられていたんですね。中間地点の北海道に秋田犬がいない段階で無理筋すぎますけど。

カラフト犬誕生に関与したのはアムール川流域やオホーツク沿岸部の犬橇文化であり、縄文犬や弥生犬の影響は無視してよいでしょう。

氷結した間宮海峡を犬橇が行き来していたことは、樺太探索にあたった最上徳内も記しています。

 

ナヨロ(※名寄:ペンゼンスカヤ)より此ヲツチシ(※落石:アレクサンドロフスク・サハリンスキー )迄、其間凡百里ばかり。此所より西北に一日路隔て、ナツカウ(※拉喀:間宮海峡のラッカ岬)といふ所あり。此所山丹国人(※アムール川下流域の民族)の渡場にて、海上凡十里ばかりの瀬戸間なり。冬中に至て氷張り、海上陸地の如になれバ、犬に橇を引かせて通行すといへり。

シラヌシ(※白主:クレポスチ・シラクシ)より此辺迄を西カラフトといふ。

 

最上徳内『蝦夷草紙後編(寛政12年)』より

 

樺太アイヌは「セタ」、ニヴフは「ガヌグ(成犬)」「ガスグエルハシ(仔犬)」、ウィルタは「ゲンダ」などと呼称していたカラフト犬。

その大まかな特徴は、幅広い胸部をもつ橇犬としての適性、そして分厚いダブルコートのうえ足の裏にまで被毛がある耐寒性の高さ。長い年月をかけ、寒冷な樺太島に適応した犬でした。

次に新西比利亜族であるツングースの諸族が樺太に侵入して來てからは、犬界も益々賑やかになつて來たと見るべきで、キーリンやサンダーに依つて、エスキモー犬、サモエド犬等の長毛種が持ち來らされたもののやうである。

殊にサンダーは北滿の物資を犬橇や舟に積んで毎年幾十人となく渡來し、貂皮、狐皮などゝ物々交換をしたのである。夏期舟で來た状態は徳川時代の探檢家の目撃した通りであるが、冬期交易の状態を云へば結氷を待つて來り、犬橇にて携帶せる交易品を、順次希望者に貸し賣し、自分も山に入りて狩獵に從ひ、融雪期に至り、狩獵擧れば、皮類を集めて歸り去つたのであるが、連行せる數多き犬、何の準備もなき他地に於て、永い冬中飼養すると云ふことは艱難で、希望者があれば賣り散らしたものと思ふ。

歸去に當つて必要數の犬だけ新に買ひ求めたと云ふことは、衆口一致の事實である。

サンダーの連來せる犬は長毛系多く、特にマグブー・ギンダ(サンダーの犬)と云つて、大變毛の長い犬もあつたと云て居るけれども、之は餘り確ではない。或は秦氏の最長毛種として擧げられたものか、後日の問題として殘すことにする。

この長毛系の移入は又壓倒的事實であつて、かくして長毛犬が樺太の隅々まで行き亘つたものである。之れ理由の第二である(樺太犬雑爼

 

犬

●ニヴフの高床倉庫「ニヨ」で飼われるカラフト犬たち。屋根には大型の犬橇が立てかけてあります(明治38年)

 

第三には、長毛種は狩獵性能に於ても、輓曳成績に於ても、短毛大小の二種に比し遥かに劣るのであるが、積雪深き仲を追ふ無理をしなかつたり、十五、六里内の短距離を追ふ分には差したる優劣もなく、性質溫順で制馭容易なると、其毛皮を利用して防寒具を製作する關係から、アイヌに歡迎せられた。

以上のような譯で、アイヌ犬は淘汰されるか、又は陸續として入り來る北方犬の多量なる新血液の爲めに全く壊滅させられて、深く北方犬の中に没入し去つたものと推定する。

サモエド犬、エスキモー犬等の長毛種の移入は、主にサンダー族の仲介に據ること前述の通りであるけれども、それ等が黑竜江流域にまで進出した經路は、サモエド地方やベーリング方面の中間に居住するヤクート、キーリン等を通過したものではないか。

然かし大陸のことは全くの憶測で、或は甚だしい誤謬であるかも知れない。

憶測序に、狼又は山犬の混血説に就いては、西比利亜や樺太に、山犬の現存するのは事實であるから、其混血も推測されない譯はないけれども、レナ川以東コリマ川邊の沖合に散在する新シベリヤ群島に住む亜細亜エスキモーと稱される種族の中に、狼の子を捕へて人乳を以て哺育し、曳犬に仕立てる土俗ありと聞くから、それ等の狼犬又は其血を引く犬が對岸の大陸に傳はり、キーリン、ヤクートを通して樺太に入つたものと考へられない事もなからうと思ふが、之も蛇足の一つで、自分は狼混血説を主張する者ではない。

北蝦夷圖説などを見ると、垂耳の犬の繪が掲げられてあるから、樺太に垂耳犬の入つたのも、間宮林蔵以前と推せられるが、それが何種で、如何なる經路を以て入來したものか、今は推斷する由もない。

更に進んで露領時代に名入り、邦領の今日に到つては、各種各様の犬種渡來せられて、犬界混沌壊亂、將に樺太犬潰滅に歸せんとする状態にて、既に南方には樺太犬殆どなしと云はれるまでに立ち到つて居る。

我々の樺太犬と呼ぶものは、正しく云へば、會つて秦氏の述べられた西比利亜ライカ犬に属するものだらうが、樺太在住の北方民族を樺太土人と總稱する如く、それ等民族の随伴した犬も樺太犬と總稱するのである。

細密の區分發表を要する場合は何々系樺太犬とか何々型(大、中、長毛等)樺太犬と呼んでも差支無からうと思ふ(樺太犬雑爼

 

【和人とカラフト犬】

 

樺太島の「北方犬」たちが勢力を拡大するのはオホーツク文化時代(3世紀~13世紀)のこと。漁業を中心とし、熊への信仰や犬の飼育といった特徴をもつオホーツク文化とともに北海道北部へ上陸したのは、縄文犬や弥生犬とは異なる骨格(突出した下顎と幅広い胸部)をもつ犬でした。オホーツク文化やトビニタイ文化時代の犬骨は、解体跡が刻まれた若犬ばかり。つまり、食肉や毛皮として利用されていたワケですね。

対する続縄文時代の遺跡からは犬骨の出土例が少なく、全く違う畜犬文化だったことがわかります。

 

●千島列島と北海道で出土した犬の下顎骨(直良信夫・昭和14年)

 

オホーツク文化の勢力範囲が拡大するにつれて犬の姿にも差異が生じました。地域ごとに縄文犬と近いもの、北方犬と縄文犬の交雜犬など、様々なタイプの犬骨が出土しています。

また、千島列島には縄文犬や北方犬とは異なるカムチャツカ系の犬がいました。こちらもカラフト犬や北海道犬が移入されると共に、勢力範囲が変わっていったのでしょう。

つまりオホーツク犬界のルーツは和犬と異なり、モチロン北海道犬の祖先でもありません。

 

此の地で飼養せられてゐた家犬は、私の見て來た範圍内では大體現棲の樺太犬程大型のものではない。頭骨は中庸大、頭頂縱畝は一體に高いが、中には可成り低目なものも見受けられる。下顎骨に於ては、體の後臼齒位から枝骨底にかけての下底邊の下方膨張が著しく、齒牙にあつては、齒冠巾が廣くして、全體的に齒はずんぐりしてゐる。他の一種は頭頂縱畝が殆どなく、下顎骨體は體高が低目であつて、體の下方膨出は鈍い。後者のこの型の家犬は現在でも樺太地方に少數見られるものであるが、その系統については猶ほ研究すべきものがある。

 

直良信夫「オホーツク海沿岸の史前家犬について(昭和14年)」より

 

オホーツク文化が樺太へ撤退すると、蝦夷地の北方犬も消滅。

樺太でオホーツク文化を引き継いだのがニヴフ族(ロシア語の呼称はギリヤーク)で、彼らはアムール川流域から伝来した犬橇文化を発展させます。

家畜の去勢術をもつニヴフは、犬橇に適した資質や宗教的に好む姿を求めてカラフト犬を品種改良したのでしょう。

 

犬の毛色に對しては、ギリヤークはどういふものか赤を喜ばぬ風習がある。病氣平癒に犬を殺すにはシヤーマンの神のお告によつて毛色をも選ぶが、白い犬もあまり好まぬ。最も喜ぶのは黑やブチ等である。先導犬には不思議に黑い犬が多いやうである。土地の人々は黑が一番利口だと言つてゐる

 

日本犬保存会・秦一郎『樺太犬私見』より

 

唐や明といった大陸勢力への朝貢、元朝・ニヴフ連合とアイヌによる民族間抗争、山丹貿易の拡大、さらにロシア人や和人の樺太進出により、樺太先住民の文化は混じり合っていきました。

その過程で、ニヴフの犬橇文化を樺太アイヌも導入したと思われます。

 

【近代のカラフト犬】

 

近代日本において、洋犬との交雑化で消滅しかけていた日本犬は文部省や日本犬保存会によって保護されます。しかし和犬でも洋犬でもなく、日露国境にすむカラフト犬は放置状態のまま消滅してしまいました。

ニホンオオカミのように、生態調査がされないまま絶滅した動物の実態を知るのはとても困難なのです。

 

幸いにも、南樺太にはカラフト犬の研究者が住んでいました。それが先住民族集住地「オタスの杜」でギリヤーク教育所に勤務していた川村秀彌教諭です。

彼はオタスの先住民族が飼う犬に興味をもち、さらに日本犬保存会と連携して内地犬界へ向けたレポートを発表します。

いわゆる「皇民化の先兵」でありながら、川村秀彌・ナヲ夫妻は現地の文化を尊重する人物でした。オタスの児童にとっても良き教師であったそうです(しかし秀弥先生はカラフト犬の研究に熱中し過ぎ、「ナヲ先生に勤務の負担がかかっていた」との証言もあります)。

 

川村先生は子どもたちに勉強を教えていただけではない。毎日子どもたちと遊んだり、親たちとも交際し、同時にウイルタとニブフの言葉や伝統を入念に勉強していて、土地の人たちの愛情と信頼をかち得ていた。
1937年に、この学校では20名の男子と17名の女子生徒が学んでいた。

 

ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より

 

観光客によるレポートが大部分を占めるなか、オタス在住者が記したカラフト犬の研究史料はとても貴重です。

以下、川村先生のカラフト犬レポートを紹介しましょう。

 

アイヌ族は犬を愛育する故に、アイヌと呼ぶのではないかと云ふ俗説まで生ずる程の愛犬民族で、其の飼育する犬も大方の知悉せらるゝ通りの有名なものである。ギリヤーク(ニヴフ)も亦、古來使犬族として定評を得て居る程に縁故の深い民族で、其犬は先年、日本犬保存會理事、秦一郎氏が、親しく當地を視察し、精密な調査に基づいて、詳細發表せられた。一尺八寸の極めて機敏な、狩獵に輓曳によく働く、引締つた犬である。

尚ギリヤークには、體軀の大きい二尺一、二寸程の一寸風貌秋田犬に類する犬もある。秦氏の短毛大型と呼ばれたそれである。秋田犬の血を引くものでないかと云ふ人もあるけれど、交通不便の時代に極北の北樺太まで秋田犬が移入せられたとは思へないし、よく調べるとやはり黑竜江系の犬で、ハバロフスク下流でよく見る犬であると、其地に居住した目撃者の話である。

彼等民族の手に銃の入らない以前、猛獸狩に使はれた獵犬で、熊と犬とを戰はせて置いて、後方から槍で突いた等の話も殘つて居る。

オロツコ(ウィルタ)は馴鹿族で、犬は馴鹿の敵であるから、犬の肉を喰はず、犬の皮を用ひず、本來は犬は飼はないのであるけれども、一面、山から山へと天幕生活を續けて移動する狩獵民であるから、僅かながら獵犬は昔から飼ひ、大型犬をギルー・ギンダ(ギリヤークの犬)と呼んで珍重したのである。之は又頗る輓曳能力強く、一日六十里を突破すると云ふのも此犬で、一部の人々に狼の血液を混じて居るものではないかと疑はれて居る。

因にギリヤークはサモエド犬、エスキモー犬などの長毛種は侮蔑して滅多に飼はない。又オロツコは今日殆ど馴鹿を失つて犬を飼ふやうになつて居る。大型犬は殆ど滅亡して、ギリヤークには既に一頭もなく、此地方を探索しても十指を屈する程かと思ふが、筆者は幸じてそれらしいものを二頭所有して居る。

日本人、露西亜人は省き、樺太居住各種族の中で古來最も多いのはアイヌとギリヤークで、古い地名は南半はアイヌ語、北半はギリヤーク語より成立つ程の勢力である。之等愛犬二民族が、或は異族の壓迫から免れ、或は生活の窮塞から、安住樂土の地を求めて移行するに當り、如何に波風荒くとも、家族の一員である愛犬を運航しない筈はない。

必ずや彼等に伴はれた相當數の犬が樺太に入つたものと推察する。

文學を有せざる民、元より殘せる文献とてなく、僅かに他國の史書の餘白に、彼等の古い消息を朧氣に傳へられるばかりであるから、今日實證を殘さないことは、あり得る事實を想像して推斷するより仕方がない。

必ずや、彼等に伴はれた相當數の犬が樺太に入つたものと推察する。

 

川村秀彌『樺太犬雑爼(昭和13年)』より

 
●漁労生活のニヴフや樺太アイヌは海産物を餌にできる犬、遊牧民のウィルタは草食のトナカイを橇に用いました。
 
同じアイヌ民族の中で北海道犬とカラフト犬が住み分けていた理由は、狩猟採集文化の北海道アイヌは猟犬を飼い、漁労文化の樺太アイヌは橇犬を飼っていたから。とてもシンプルです。
しかし何故、犬橇にも狩猟にも使えるハイブリッド犬種が作出されなかったのでしょう?北海道へ渡ったカラフト犬も、樺太へ渡った北海道犬も、宗谷海峡を越えて勢力を拡大できなかったのです。
 
北海道犬の解説者はその究明を意図的に避けているのか、不自然なほどにカラフト犬を無視。アイヌ文化を前面に掲げながらも「樺太アイヌ」というキーワードは用いようとしません。
北海道アイヌの猟犬文化を北方ルーツであるとしながら、その北方に住むカラフト犬を「北海道犬の血を脅かす特定外来種」のように扱う向きまでありました。
北方由来を重視したいのか、それとも軽視したいのか。
 

川村先生は、そのように矛盾した北海道犬愛好家の気分を害さぬように配慮しつつ「北海道犬は樺太に適応できなかったのだ」と断じました。

つまり北方ルーツの犬はカラフト犬であり、北海道犬は別ルート(本州経由)で蝦夷地へ渡来した犬ということです。

 

降つて我が徳川時代の中葉、文化文政以後に至つては、我が探檢隊に依つて殘された舊記に犬に關する記事も少なからず殘つて居る。

中に黑竜江の犬を樺太に購入したり(東韃紀行)、宗谷の犬を樺太に殘したり(邊要分界図考)等のことも散見するが、それ等は近來のことでもあるし、九牛の一毛にも等しい事で、アイヌ犬の樺太に入つた事實は考へられるのである。

されば、樺太犬はアイヌ犬とライカ犬の混血ではないかと云ふ結論になるやうで、實際その様な意見を持つて居る人もあるやうであるが、今日では實際に觸れぬ空論になつてしまつて居る。

樺太犬の現状調査に於て、或る小區域の例外を除いて、全島何處にもアイヌ犬の片影、痕跡を認めることは出來ない。之には依つて來る處の理由がある。之が樺太の犬界の歴史を語るものであるから、諄言淳くても少し愚見を述べさせて貰ひたい。

アイヌもギリヤークも樺太に移住したのは、一國一族擧げての移動ではなく、同族の大部分は故地に殘り、一部の者のみ永い年數の間に三三五五移入し、尚對岸の故地には始終往復して交渉を絶たなかつたものである。之は彼等の現在移動の状態よりするも、文献に依るも明らかな事實である。

只故地との交渉の量に於ては、僅かに三浬の間宮海峡の狭部と、十八里の海上、而も急潮流を挿む宗谷海峡とでは、地理的關係の上著しき相違のあるのは當然のことである。

故に北方より移入のギリヤーク犬の數と、南方より入るアイヌ犬との數には比較にならない筈である。尚使役價値に於て甚だしき軒輊ありとすれば、アイヌ犬の壓倒されるのは止むを得ないことである。

かく云へば北海道の愛犬家達のお氣に觸れるかも知れんけれども、之は樺太に於てのことで、北海道に於ての事ではないから諒とせられたい。

此の壓迫の事態を急速に展開せしめた進行係は、犬橇使用の土俗の推移である。樺太アイヌには當初北海道アイヌ同様、犬橇使用の土俗はなかつた筈であるが、ギリヤークが十數頭を連結した犬橇で、間宮海峡の氷上をカイ、カイ、トウ、トウと一瞬に乗り越す颯爽たる容姿を見ては、眞似ずに居られなかつた事と思ふ。

今日樺太で日本人も一般に犬橇を追ふ言葉として、トウ(進め)、プレー(止れ)、チヨイ(左へ曲れ)、カイ(右へ曲れ)等の號令を用ひ、多くの人はアイヌ語と思ふて居るけれど、之は完全にギリヤークが橇犬を驅使する號令で、少しは訛つて居るが、割に正しく傳はつて居る言葉である。樺太アイヌに熊祭、シヤ―マン、埋葬様式其他北方民族の土俗を傳へて居るものが少なくないが、永い冬期の交通機關の何物も無い時、犬橇の傳播普及が彼等の生活を助けること尠なかつたと思ふ。

犬橇用法を傳へ、犬橇用語を傳へた者が、それに適する原動力である犬を傳へない筈はない。

かくしてギリヤークの大小二犬が樺太に行き亘り、アイヌ犬が滅亡した。之れ前掲理由の第一である(樺太犬雑爼

 

●ニヴフが好む中型や和人が好む長毛型など、カラフト犬の分布も異なりました。

 

【カラフト犬の多様性】

 

カラフト犬については、戦時中に本格的な調査がされています。樺太庁の支援をうけて昭和14年と18年にカラフト犬の現地調査にあたったのが、北海道帝国大学の犬飼哲夫教授(この実績により、彼は戦後の南極観測隊犬橇チームの編成にも関わります)。

犬飼教授による「カラフトイヌの定義」は下記のようなものでした。

 

カラフトイヌが各方面から着眼されだしたのは南カラフト北部での冬季間の労役のためであったが、そのころには北海道や本州方面からシェパードをはじめとし、いろいろな犬種が移入され各地に分散していて、在来のソリ犬との雑種も多くなってきた。

ところが幸いにも一九三九年ころはまだ実際に犬を労役に使っていた人々の手によって、経験上から能率のいい在来のカラフトイヌが多く保存されていることが確認された。敷香地方には同年三月にはこういった犬が一三〇〇頭もいた。そのなかで比較的に純粋とみとめられる犬について計測した結果は表のとおりであり、この犬の特徴としては胸囲が非常に大きく、これをほかの犬種とくらべると体高一〇〇にたいする胸囲はシェパードでは平均して一一九・二であるのに、カラフトイヌでは一二六・五ではるかに胸囲が発達していて、ソリひきに適した体形を具えていることがわかる。

またその特長の一つは四足の趾(指)の間に密毛があることで、これによって雪の上を歩く時、足の沈下を防ぐことができるし、鋭い氷片などで傷を負うこともふせがれ、また防寒の作用をもする。

このような趾の密毛はほかの犬種には見られないもので、実際にカラフトの厳寒期にはシェパードが屋外に置かれ足の寒さにたえかねて、雪の上に転倒して、足の裏を口にあてて呼吸の温度で暖めていたことがあった。しかしカラフトイヌは足に凍傷をおこすようなことはほとんどなかった。

 

犬飼哲夫「カラフト犬の起源と習俗」より

 

犬飼教授や川村教諭に共通する見解は、「カラフト犬は長毛型と短毛型、その他に分類される」ということ。カラフト犬共通の先祖からさまざまなタイプへ派生したのか、そもそも違うルーツの犬たちが樺太島内で棲み分けていたのか、多様化の理由は不明です。

 

カラフトイヌの毛は特別に長く、一見してほかの犬と識別できるが、敷香方面の犬には毛の長さから見て二種類あった。一つは俗に長毛種といわれて、毛の長さが一四cmに達するものと、もう一つは短毛種といって、毛の長さが五cmくらいのものであるが、どの種類も綿毛がきわめて豊富で、短毛種といっても実際は外見だけで、ほかの犬種には見られない長い綿毛の密毛がある。

このほかにこの両種の中間の毛の長さの犬もある。このため耐寒力はきわめて強く、かつてわが北部軍の番兵が零下四〇度にちかい厳寒の夜に、完全防寒の装備で立ったままで凍死していたことがあったが、カラフトイヌはどこの家でも屋外につないであったのに凍死した犬は一頭もなかった(「カラフト犬の起源と習俗」)

 

 

さらに犬飼教授より四年も前、日本犬保存会の秦理事はカラフト犬を現地調査。短毛種と長毛種に大別し、更に短毛種を「大型」「中型」、長毛種を「最長毛系」「エスキモー系」「サモエド系」に分類しました。

 

・系統と分類

 

先づ被毛の關係から見て、毛質的に分類すると

A 短直枝毛種

B 長直枝毛種

の二つに大別することが出來る。

このうち、Aに属するものには大型と中型の二種類あつて、毛の長さは大がい三―四糎位、大型のものは體高七〇糎以上に達するものもあるが、中型の方は精々六〇糎前後である。

Bに属するものには一見セター種の如き非常に長い毛を持つてゐるものと、やはり長い事は長いが、前者ほどではないのと二通りあり、後者は更に型が二つに分れてゐる。毛の長さは大概五―一〇糎位まではある。

 

 

次に之を形態の方面から類別して見ると、短直枝毛種中には一見大型秋田犬に頭骨の類似した體高、體重共に最大のものと、耳小さく、三角形を爲し、頬骨張つて體高一尺八寸以内、動作も敏捷で、一寸中型秋田マタギ系に酷似した外貌を持つたものとの二つがあり、長直枝毛種中には被毛飽くまで長く、ストツプが深くて吻短かく、眼の色は比較的淡く、顔形並びに耳の尖端圓味を帶び、毛色は黑か、黑褐色のものが多く、まるで羆熊の仔みたいな感じを與へるもの。

それから等しく長毛種ではあるが、前者ほどには長くなく、毛質も密で比較的軟かく、吻はやゝ長目で従つてストツプも浅い、耳の先はやゝ尖り、虹彩は褐色もしくは淡黄色を呈し、顔面角張り、尾は緊張した時は背上に巻上げる。毛色は黑褐、ゴマ、斑、枯草色多く、殊に眼の廻りに隈(眼鏡)をつけたもの、所謂四ツ目のもの等もこの種に多い。體型、風貌共にエスキモオ犬に酷似してゐる。
最後にやはり長毛種で第二型よりももつと房々としてをり、殊に尾端の房状を爲した毛は、恰度ハタキを眞倒(まっさかさま)にでもしたやうに背上に垂れかゝり、顔型稍々長く、吻尖り、サモイエド種そつくりの犬がある。
毛色はやはり白かクリームだが、顔面其他に斑を散らしたものも見かける。

これらの長毛種は何れも體高六五糎前後で、體重も大抵三五瓩内外の、前記二つの型の短毛種の中間に位する。
以上、短長毛併せて五種別の他に、明らかに是等が互に交雑して出來たと思へる中間雑種もかなり見かけるが、それらは大概左のどれかに還元されるやうである。
(A) 短毛枝毛種 大型・中型
(B) 長毛枝毛種 第一型・最長毛系、第二型・エスキモオ系、第三型・サモイエド系

 
秦一郎「樺太犬私見(昭和11年)」より

 

・大型

 

これは今、説明したやうに系統は不明だが、この種の雜種らしいものはかなり見かける。島内のみならず、北海道の宗谷岬附近でも二三見かけた。

今日、南樺太で犬が最も多いと謂はれる奥地敷香の町でも、昨夏オタス教育所の川村先生の案内で見に行つた時には、わづかに二頭しかゐなかつたが、最近同氏からの報告によると純粋なものは一頭しか殘つてゐないらしい。

何れも體高二尺一寸以上はある。輓曳力が強く、忍耐力に富み、多期犬橇で一日飲まず、食はずで優に二十里位の行程を疾驅しても、數日間の休養後翌日は再び同じ距離の行程で平氣で疾驅出來る(樺太犬私見)

 

・中型

 

使犬族ギリヤークが黑龍江の沿岸から南下するとき同行して來た犬で、耳先尖り、頬骨張り、體高は六〇糎前後、他の犬種中比較的小さい方だが、やや敏活である。冬期は犬橇を曳かせる以外に、獵にも使つてゐる。

ギリヤークの習慣として、牡は生後二、三ヶ月のうちに尾根三、四寸のところから斷尾し、又去勢する。これは冬期橇を曳かせる時、先導犬として尾が邪魔になるのと、さうする事によつて力が出ると信じられてゐるからである。

私はオタスの森ギリヤーク部落でこの犬を一目見たとき、すぐ西比利亜のライカ系の犬かなと思つた。因みにライカ(Laika)とは露語のLaiat(吠える)といふ動詞から來たもので、「吠えるもの」の謂(樺太犬私見)

 

 

・最長毛系(長直枝毛種)

 

この犬は、その房々として地上を舐めんばかりの見事な長毛と、一県ベアーデツド・コリーを思はせる獨特な風貌と、古くからゐたといふ一部古老の言などにより、前にも書いたやうに土着の犬と思はれる節が濃厚なのにも拘らず、純粋種と見做されるものは實に寥々たる有様で、完全な體型のものは今日殆ど見當らない。

その癖、明らかにこの系統に属すると思はれる犬はかなりある。豊原や小沼、榮濱等の比較的人口の稠密してゐる都市、北海道の小樽や凾舘あたりにも、此犬の交雑したらしいものならチヨイチヨイ見かけた。就中、南新問(ニヒトヒ)附近のアイヌ部落から海岸線に沿ふて更に奥地へ、西多來加(タライカ)、東多來加方面への巡歴の途次、明らかにこの種の系統と覺しきものを見かけたが、他種との交雑の結果、體型が概ね崩れかけてゐて、純粋種のみが持つあの獨自な風格は失はれかけてはゐたが、夏季に於てさへ優に七、八吋に達する見事な長毛は、體型の相違と相俟つて、他種類からは自然區別されるべき一系統なるを思はせるに充分である(樺太犬私見)

 

・エスキモー系

 

ギリヤークの犬に亜いで、樺太では現在この種の系統が一番多い。後述するサモイエド系に較べて一、二吋大きく、毛色も狼灰色、白黑斑、茶胡麻、黑胡麻、枯草色等様々である。

東海岸白濱から南新問、東多來加及び野頃(ノコル)の方まで分布してゐる。又、落帆アイヌ部落や遠淵附近にも見かける。國境附近の町、千輪街(チリンガイ)から氣頓(ケトン)あたりによちよいちよいゐるやうだ。

一體、エスキモオ犬と云ふと、名稱が頗る漠然としてゐるため、他の北極犬と常に混同され易いやうであるが、この犬種の分布状態は非常に廣汎なのである(樺太犬私見)

 

 

さまざまな樺太在来犬の中には、ルーツがよく分からないタイプも存在しました。それが「サモエド型カラフト犬」です。

サモエドは、民族抗争に敗れてロシア北極海沿岸へ追いやられたサモエード族が飼っていた犬でした。それが北極探検隊の橇犬として提供された結果、ヨーロッパへ持ち帰られた個体群を純白タイプへ交配淘汰した「サモエド」として人気品種となります。

いっぽう、ロシアと国境を接する南樺太の敷香には「サモエド型カラフト犬」が定着していました。帝政ロシア統治時代に移入されたペットだったのか、カラフト犬の白化個体だったのか、それとも長い年月をかけて樺太まで南下した原種に近い犬だったのでしょうか?
 
サモエド系

犬

 

明らかにこの種の犬の系統と思はれるもの―否、純粋のサモイエド種と思しきものを私が樺太で見たのは、川村氏の案内で敷香町の鈴木氏の愛犬二頭ぐらゐのものであつたが、この系統の雑種らしいものなら、やはりかなり多く散在してゐた。

 

犬

 

敷香町の犬は全身やゝクリーム色で、頭部に黑の斑があつたが、これは今日でも原産のものは多くさうであり、現に英吉利のケヌル・クラブでもこの毛色は認めてゐる位だから、立派にサモイエド種として通るであらう。
實際、何處から見ても立派なサモイエド種なので、初めてこの犬を引見した時は、一寸奇異な感じに打たれた事を白状する。樺太にサモイエドがゐるなんてことは、内地では一寸想像もしなかつたからである。

 

犬

 

しかし、これもエスキモオ種と同じく、その犬の分布區域及び民族南下の跡を辿つて見れば、決して不思議な事もないので、さう云へば、私が樺太に渡る直前、薄暮、北海道の最北端宗谷岬の燈臺から稚内への歸途、長い海岸線を村長初め、案内役の人々と一緒にハイヤアを驅つて馳走してゆくと、巨大な眞白なサモイエド種そつくりの犬が、半哩も私の車の後を追つかけて來た。
私はその純白な、房々した見事な被毛と、堂々たる體躯にまぎれもないサモイエド種を見出し、どうしてこんな過僻な寒村にこんな見事な犬がゐるのか、近處に西洋人でも住んでゐるのかと一瞬間、不思議に思つたが、今日考へれば、これは樺太から渡つて來たものであらう(〃)

 
サモエド自体は大正時代に来日していましたが、いずれもヨーロッパから輸入されたもの。北海道の隣にいたサモエド型カラフト犬たちは、日本のサモエド愛好家から無視されたまま姿を消します。
彼らの正体は何だったのか。昭和20年のソ連軍侵攻によって敷香が焦土と化したため、今となっては調べる術もありません。
 
●大正時代のサモエド・ブリーダーであった秋月種犬部 。日本人にとってのサモエドは「南樺太で国境を接するロシアの犬」ではなく「ヨーロッパからやってくる舶来の犬」でした。
 
所謂、樺太犬として現在南樺太各地に分布してゐる犬を類別し、その沿革を辿つて見ると、略々以上の五種類に分けられるやうに私は思ふ。
これらは其體型、大きさ、習性等に多少變化はあるにしても、何れも冬期輓曳用として馴鹿(トナカイ)と共に橇を曳かせるに役立つてゐる。その輓曳力は、蓋し天性のもので、生れ落ちてわづか三四十日しか經たぬ可憐な仔犬でも、一本の綱を首にくつつけてさへやれば、後をも見ずにグイ〃面白いやうに引張るのである。まことに不思議な本能といふほかはない。從つてその力は非常に强く、强大な成犬になると、優に二〇〇瓩近くを牽くのである。
しかし、夏は長毛の爲め、その力も半減乃至三分の一に減じるので、冬期犬橇を曳かせる以外にはあまり用ひてはゐない。尤もバチといつて、恰度リヤカアのやうなものに材木などを滿載して一頭曳きで運搬させることもあるが、これとても多くは冬である。
夏は大概戸外に繋留してをく。これはさうすることによつて、犬が氣が荒くなり、冬期の活動に備へさせる爲めでもあるが、もう一つは盗難を怖れるためでもある。
 
秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より
 
昭和10年頃までは多様性を維持していたカラフト犬たちも、地域間の交雑が進んだことで「長毛・短毛」という大雑把な区分となります。交雑化しても橇犬としての能力は充分だったので、そのことを憂う人もいませんでした。
 
●同じ母犬から長毛と短毛の同胎犬が生まれたりして、さらに混乱を招いております。
 

ロシアと日本に分割統治された樺太島。その結果カラフト犬の研究も分断されてしまい、保護活動もままならずに消滅へと至ります。

シベリアン・ハスキーが大好きな日本人は、なぜか「樺太のハスキー」に興味を示しません。「映画に出てくる犬」くらいの感覚なのでしょうか?

次回より、カラフト犬と日本人の関係を取り上げます。