「残された犬のことを思うと、ニュースを聞くのも恐ろしく、新聞を見るのもこわく、ご飯ものどを通らない有様です。人命はもちろんたいせつですが、戦時ならともかく、平和の今日のことですし、何としてでも犬も助けてくれるようお願いします」

このところ連日、こんな手紙が朝日新聞南極学術探検事務局にも、百通以上送られてくる。

子犬八匹と母親のシロは救出されたが、なお昭和基地には十五匹のオスの樺太犬がクサリにつながれて残されている。

 

『週刊朝日』昭和33年3月2日号掲載「社会時評・今日の焦点 昭和基地のカラフト犬」より

 

「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言した昭和31年。忘れられていたカラフト犬が再び脚光を浴びました。

第一次南極観測隊が犬橇を採用し、かつての白瀬探検隊と同じくカラフト犬を連れて行くこととなったのです。

敗戦によって樺太全土がソ連領(現在のロシア)となったため、今回はカラフト犬を国内調達するしかありません。急いで調査したところ、北海道には1000頭ほどのカラフト犬がいると判明。

いつの間にか宗谷海峡、そして津軽海峡を渡っていた彼らは、新たな土地でどのように暮らしていたのでしょうか。

 


大正14年、皇孫生誕記念こども博(東京と京都で開催)で展示された樺太の犬橇。車輪がついているとおりイベント用であり、伝統的なヌソとは別物でした。

 

【カラフト犬、北海道へ】


隣り合う樺太・北海道・本州では、動物相(特定地域の全動物の種類)が異なります。その境界線は津軽海峡で隔てられた「ブラキストン線」、宗谷海峡で隔てられた「八田線」として区分されてきました。

哺乳類でいうとヒグマとツキノワグマはブラキストン線で生息域が分かれ、ジャコウジカやクズリは八田線が南限という構図が解りやすいでしょうか(樺太のキタサンショウウオが釧路湿原で発見されたり、樺太と北海道が地続きだった時代の動物相はもっと複雑だったようです)。

 

これは在来犬においても同じで、カラフト犬、北海道犬、秋田犬はそれぞれ宗谷海峡と津軽海峡を挟んで棲み分けてきました。もちろん家畜である犬の分布には、地理的条件だけではなく民族文化が大きく影響しています。

同じアイヌ民族の飼犬でありながら、カラフト犬と北海道犬が交雑化しなかった理由。それは、樺太アイヌの橇犬文化と北海道アイヌの猟犬文化が異なっていたからです。

 

東北帝国大学農科大学勤務時代の八田三郎博士と近所の飼犬・佐々木玉吉(札幌にて)

 

樺太南部が日本領となった明治38年以降、「犬の世界の八田線」が崩れ始めました。犬橇文化のことなど知った事ではない和人は、ペットを好き勝手に移入。北海道沿岸部で普及した洋犬は、さらに南樺太へと進出していきます。

ただし、この流れは一方通行であり、拓務省は南樺太から北海道への犬の持ち出しを禁止していました。

 

樺太は植民地で拓務省の管轄に属し、拓務省の規則に依つて樺太の動植物は、檢疫を受けなければ他へ移出(※日本領内の移動なので輸出ではなく移出)することが出來ないことになつて居るのであります。

それで檢疫を受ければよいのでありますが、現在樺太に檢疫所は設けられて居ませんので、輸送の手續が立ちません。

つまり移出禁止の状態です。

公獸醫の健康證明書を添へて願出ても鐵道では受け付けて呉れません。内地から樺太へは獸類でも鳥類でも、どしどし送られて來ますが、樺太からは送られないと云ふ一方的な施設です。

樺太には元來狂犬病始め犬の恐ろしい疫病は無いのです。テンパーの如きも當地方には五、六年前までは無くて、仔犬を育てるに何の心配もありませんでしたが、シエパードなどの新流行犬が移入せられるやうになつてから傳播しました。

以上のやうな譯で、外地の惡疫を内地へ入れまいとして定められた政府の制度は、樺太の犬に關する限り反對の現象を呈して居るのであります。

樺太犬は多量に内地へ迎へられると云ふ傾向があるのであれば、地方經濟の何とかと運動の方法もあると思ひますけれども、樺太の飼育者は、樺太犬を内地へ移入して果して健康を維持し得るや、又使役の用途ありやを懸念するので、誰れも移出に就いて積極的態度に出ないで居るやうに見受けられます。

以上のような次第でありまして、樺太犬の内地移入の途は今の處開かれてをりませんから、もし樺太犬御希望の方が居られましても、直接移入はお諦めをお勸めするより外ありません。

 

オタス教育所・川村秀彌教諭(昭和13年)

 

移入は許可されていなかったのに、たくさんのカラフト犬が北海道にいた不思議。モチロン何百頭ものカラフト犬が宗谷海峡を泳いで渡ったワケではなく、彼らは堂々と(?)船で密航していました。

北海道へカラフト犬が移入された経緯は下記のとおり。

 

しかし樺太犬は内地に移入せられて居る數も相當あるやうに思はれますが、其れ等の多くは購入者が直接樺太に渡られ、汽船を利用して持つて行かれたものと思ひます。

汽船を利用すると無難のやうです。

今一つ御参考までに申上げます。汽船や發動機船を利用して北海道には多數の樺太犬は移入されて居ります。殊に小樽市中では五十集屋衆は荷車の先曳をさせて随分使用して居ります。

先年私が旅行した時尋ねましたら、百頭位はあるだらうと云ふことでした。今は尚多くなつて居るでせう。

これで樺太犬御希望のお方は小樽札幌あたりをお探しになるのも一方法と思ひます。但し優秀犬の保證は致し兼ねますが、體軀大きく毛が長く、誰が見ても、今日賣出しのあの有名なアイヌ犬とは一見區別が付きます。

尚、樺太の短毛種大型、同小型、長毛種等の説明に就きましては、日本犬保存會理事秦一郎氏の詳細なる記述が連載されてありますから、疑問の方は御閲讀下さる様御願ひします。

樺太犬の標準は未だ設定されて居りません。樺太廳中央試驗場では近い内に、被毛の顕微鏡檢査、血液檢査、其他科學的檢査に依つて樺太犬の標準を設定するやに聞いて居ります(川村秀彌)

 

カラフト犬が北海道へ現れたのは明治20年代のことです。ただし生きた個体ではなく、防寒毛皮として流通する程度でした。

南樺太が日本領となった明治38年以降も、北海道における犬橇輸送の需要はありません。札幌あたりでは見よう見まねで犬橇が作られたものの、あくまで遊戯用でした。

 

帝國ノ犬達-犬橇
札幌で撮影された遊戯用の犬橇

 

そのような状況だったのに、わざわざ北海道へカラフト犬が持ち込まれた理由。それは、リヤカーを曳く荷役犬として必要だったからです。

オートバイや軽自動車が普及していなかった当時、馬車を使う程ではない量の荷役にはリヤカーや大八車が用いられていました。その荷車牽引をサポートするのが荷役犬。現代風にいうと、宅配トラックに対するバイク便みたいな存在でしょうか。

人力車や大八車を曳く荷役犬は関西~中部地方にかけて多くみられたもの。林業が盛んな九州などでは材木運搬用トロッコを曳かせる「犬トロリー」が普及していました。

そして北海道においては厳寒に耐えうる荷役犬が求められ、本州ではなく樺太の犬が連れてこられたのです。

 

一九一八~一九年ころは倶知安・小樽・札幌に番犬として飼養されるカラフトイヌが五~六頭いた程度で、旭川附近では一九三〇~三一年(昭和五~六年)ころになって、はじめて一~二頭がかわれるようになった(芳賀恒太郎・三上秀逸談)。

また北海道でもっとも犬ソリのさかんな利尻島では、一九三二年の大凶漁年に、カラフトに出かせぎに行った人たちがつれかえった犬がふえたものといわれている(小林実義談)。

 

芳賀良一「南極用犬ソリの編成と訓練」より

 

昭和5年前後に北海道へ持ち込まれたカラフト犬は、それからの数年間で急増します。しかし北海道は広いので、普及には地域差もありました。南樺太と北海道を結ぶ航路だった小樽、樺太への出稼ぎ者が往来していた利尻島などでは早期からカラフト犬が上陸していたようです。

しかし意外にも、小樽において南樺太生れのカラフト犬は少数派でした。「小樽生れのカラフト犬」は昭和7年頃から増え始めているので、その親世代はもっと前から北海道に移住していたのでしょう。

 

帝國ノ犬達-次郎

八百屋さんのリヤカーを曳く、小樽生れのカラフト犬「次郎」。彼のデータは下記のとおり。
 

【生年月日】 昭和7年 小樽地方生
【犬種】 樺太犬
【性別】 牡
【體高】 67㎝
【體長】 73㎝
【體重(試みに量りしことありと云ふ飼育者の言に依る)】 41kg
【被毛】 直長毛 黑褐色
【食餌】 魚類、野菜一日三回
【牽引力】 約187.50kg
これは冬季橇に依るもので、大體の見當であるが、冬期を選んだのは、前述の如く夏期は主人のハンドルするリーアーカーを曳く爲め、實力は計られず、かつ夏期に於ては暑熱を受け減力衰弱して殆んど冬期の三分の一の力も出せぬことは、各飼育者の口を揃へて云ふところである。
冬期は主人が後方で叱咤元氣づける程度で、不完全乍ら舵棒のついた橇を牽引する故、やゝ實力を發揮出來るのである。
【外貌】寫眞に見る如く一見チヤウチヤウの如き外貌にして、胸部の發育も良好、均整のとれた犬である。四脚も良好である。但し凹背、長毛、暑氣に弱く夏季は役に立たぬも同様の由。
【主人】 八百屋

 

唯是日出彦「小樽地方の輓曳犬(昭和10年)」より

 

上記には「暑氣に弱く夏季は役に立たぬ」とありますが、北海道の夏ですらカラフト犬には暑すぎたんですね。

新天地で頑張る彼らが大切に育てられたのかといいますと、実際は粗末な扱いを受けるケースも多かったようです。北海道で取材にあたった唯是日出彦氏も、アラカス症や骨軟化症に罹ったまま治療もされず、病身で日々の荷役にあたる犬たちについて記しています。

一部の荷主には「病気の犬を治療する」という考えすらなかったそうで、使い捨ての労働力に過ぎなかったのでしょう。

 

ベルギーなどを除く当時のヨーロッパ各国では、「動物虐待にあたる」として荷車犬を禁止していました。

それに倣ったワケでもないのでしょうが、北海道庁でも運搬犬の規制に乗り出しています。しかし、そのルールを守る荷役主はいませんでした。

 

大正末期から昭和のはじめにかけて行なわれていた畜犬取締条例を見ると、畜犬にソリをひかせることは禁じられており、またカラフトでは旧土人の犬を移出することを禁じていた。

そんなわけで犬ソリの利用は制約をうける事情にあった。しかし、純粋のカラフトイヌとみとめられて、営業上必要なものには警察署で特に性能試験を行い、犬ソリ使用許可証(木鑑)を発行していた。

しかしその許可証をとっていたのはきわめてすくなかったようである。

そののち条例が改正されたり、カラフトとの交流がさかんになるにしたがって、小樽・留萌・稚内などの港町や利尻島などの漁村に長毛種がもちこまれ、夏は荷車ひき、冬は手押ソリの補助ひきにつかわれるようになった。

 

芳賀良一「南極用犬ソリの編成と訓練」より

 

こうして、北海道のカラフト犬は急速に普及します。たくさんのお金と設備と労力が必要な駄馬や輓馬と違い、リヤカー犬なら自宅で飼えますからね。

北海道生まれのカラフト犬が増えるいっぽうで、樺太からの不法移入も続いていました。

 

帝國ノ犬達-マル
ソ連領北サハリンからやって来た荷役犬「マル」。北海道では珍しいニヴフ族の短毛型カラフト犬だったようです(唯是日出彦氏撮影・昭和10年)

 

北海道のカラフト犬がリヤカーを曳いていた頃、南樺太の犬橇文化は次第に衰退。先住民族の集住地であるオタスにおいても、鉄道輸送やトナカイ橇・馬橇へ転換されていきました。

伝統的なヌソは、戦前の段階で骨董品的扱いとなっていたのです。

そのような時代、樺太の犬橇を入手した北海道の愛犬家がいました。まさに、樺太の犬橇文化が北海道へ伝播した歴史的瞬間です(実用ではなく趣味の範疇でしたが)。
ニヴフの犬橇が樺太アイヌ、そして和人へ伝播していった過程は、このような興味本位から始まったのかもしれませんね。
 
帝國ノ犬達-橇
石野さんが所有していた樺太アイヌのヌソ。アイヌの橇を曳くドーベルマンという妙な取り合わせとなっています。
 
樺太と云ふと犬の好きな諸君は、直ちに犬橇と想起し、無限の雪原を疾驅する犬の群を眼底の映像とするであらう。現在の樺太は交通諸機關が整つて居るが、冬季は雪になやむ。
これ等の機關に代つて樺太特有の犬橇(これをノソと呼ぶ)が、かなり巾を利かすのである。この橇は長さ約三米、巾約六六糎で、人を二、三人と其他荷物を積むことが出來る。普通三〇〇キロ位まで、無理をすると三八〇キロ近くのものを曳いて雪中を快走する。
これに使用する犬は勿論樺太犬種で、大概十二頭を約十米餘のガイドロープにつけるのである。トツプにはガイド犬(ジヤツク・ロンドンの野生の叫びや白牙にでるバツクやキチ、あれです)をつけ、ロープの左右に千鳥がけに他の犬を繋ぐ。時速は十五キロ乃至十六キロ位のものであらう。

この犬橇はもとギリヤーク族も樺太アイヌと同様に用ひて居たけれども、ギリヤークはオロツコ族が使用して居る馴鹿橇の方が、便利であると云ふので、今では主としてトナカイ橇を用ふるやうになつて、現今樺太の使犬民族は樺太アイヌだけであると云つてもよくなつたさうである。

以上はノソの説明……。
サテこれからが大變なのである。
我が北海道支部に於ける犬狂メンバーの一人、今や北海道の石野で、犬通間に通る小樽の石野榮治君。

彼は「北海道の軍犬は、その犬種の如何によらず輓曳作業、就中曳橇作業だけは訓練して置かなければならん」と云ふ持論である。そしてそれがシエパードであらうが、エアデールであらうが、ドーベルマンであらうが、お構ひなしに橇を曳かせるのである。

ところが昨年の夏、彼は樺太犬橇を入手した。マサに珍品である。
而して彼、雪を待つことや切、恋人を待つ若人の感があつた。秋?來たりなば……冬遠からじです。遂に雪が來ました。雪も雪、物凄い雪が降つて汽車はとまる、家はつぶれる、人は死ぬ、近年にない大雪。
彼の念願がとゞき過ぎたのですネ。
彼の愛犬はノソにつけられました。薪の運搬、米俵の運搬、街の中を走るのです。細長いノソ、それを曳く軍用犬種を見る町の眼、眼、「ヤア、凄げえな」と感歎の聲を聴いた時、彼の顔はニヤリツとノソの上でホゝ笑むのである。彼は昨年、ドーベルマン種のカール(奥野氏)を中央展で入賞させた。あの物凄い筋骨が、この輓曳作業で獲たものであるとは知る人ぞ知る。
彼は今年の中央展を狙つて、ノソの上に口笛を吹くのである。
 
安達一彦『ノソと彼の愛犬群(昭和11年)』より

 

残念ながら、石野さんのヌソが北海道犬界へ普及することはありませんでした。

戦前の北海道において盛んだったのは、伝統的なヌソではなく近代的な犬橇レースです。昭和7年に軍犬報国運動が始まると、北海道でもシェパードの飼育ブームが到来。

シェパード飼育者が増えたことで、訓練の一環として犬橇レースが始まったのです。

全国各地のシェパード団体では持久走大会を開催していましたが、北海道犬界ならではの独自色を出したかったのでしょう。
もちろん公営ドッグレースが許可されていたのは満州国のみで、北海道の犬橇レースは民間のイベントに過ぎません。犬橇目的で高価なシェパードを多頭飼いするような物好きもおらず、一人乗りの橇でスピードや走行距離を競うレースが主流でした。


帝國ノ犬達-犬橇
昭和13年2月27日、札幌市総合グラウンドで開催された第一回馬スキー及び犬橇競走に出場した30余頭の橇犬たち(札幌馬スキー倶楽部主催)。

 

帝國ノ犬達-犬橇

 

札幌・小樽地方に於ける犬橇競走の歴史は相當古いもので、昭和十年頃から札幌市綜合運動場で毎年行はれてゐた馬スキー競走に参加したので、從つて帝犬會員の参加が多く、その他に樺太犬も参加していた。

當時は四百米コースを二頭づゝ、それも二百米の間隔を置いて走らせたので興味は甚だ薄く、且橇も規格がなく、競走としては極めて不完全なものであつた。

 

高松孝清「ドツグスレツドレースに就いて(昭和22年)」より

 

帝國ノ犬達-犬橇
午前11時、レース開始。シェパード橇と競り合うカラフト犬橇の吉田末蔵氏(大会ルールにより、鞭の使用は禁止)。

 

北海道の犬橇はシェパードの独壇場でした。カラフト犬はレースの対抗馬として駆り出される程度で、あくまで「リヤカーを曳くための犬」に過ぎなかったのです。

そして昭和12年、日中戦争が勃発。呑気にレースを楽しめた時代は終り、北海道犬界も戦時体制下へ突入していきます。

 
【本州のカラフト犬たち】

 

樺太の犬橇文化と本州の荷役犬文化は北海道でまじり合い、リヤカー運搬犬に進化します。この「北国のリヤカー犬」は、津軽海峡を渡って東北へ上陸しました。

※たとえば青函連絡船メモリアルシップ「八甲田丸」の船内にジオラマ展示されている、昭和30年代の青森駅商店街。その一角にはリヤカーに繋がれた大型犬が寝転んでいますけど、あれが青森の荷役犬です。

 

大正時代になると、カラフト犬は本州各地でも飼われるようになりました。確実なものとしては、大正10年度から千葉県の陸軍歩兵学校に配備されたカラフト犬「四郎」と「九郎」の記録があります。

前述のとおり、北海道でカラフト犬が普及したのは昭和5年以降のこと。しかしその10年前から本州にカラフト犬がいたワケです。

なぜこの時期に、カラフト犬は北海道を飛び越えて本州へ上陸したのでしょうか?

大正10年前後に樺太方面でナニがあったのかというと、シベリア出兵ですね。

 

サガレン州派遣軍チャイウォ守備隊無線通信所にて、カラフト犬の仔と戯れる日本兵。凱旋帰国の際、このような現地のペットが日本に持ち帰られました(大正9年11月26日撮影)

 

日本軍主力が上陸したのはウラジオストクでしたが、サガレン州派遣軍は大正9年から北サハリンに進駐。その際「シベリア出兵の帰還兵が犬を連れ帰った」という噂話は幾つもあります。

中でも有名だったのが歩兵第42連隊第1大隊長の今田荘一少佐で、ボルゾイを探して(軍務ではなく個人的趣味で)サバイカル軍団を訪問したあげくエアデールテリアを貰って帰国、その魅力にとりつかれて後にエアデールの専門家となっています。

大隊長クラスがこの有様でしたから、愛犬家の兵士たちも現地の犬をペットにし、帰国の際に連れ帰りました。

下記は警視庁がペット業界へ狂犬病対策を依頼した際の記録。シベリア出兵時に持ち込まれた犬の話が出てきます。

 

犬の普及につきましては、何としても皆さんの活動に俟たねばなりませんし、又狂犬病豫防については滿蒙を我が國の勢力範圍に入れた今日、これ又皆さんの力を少なからず必要とする實状にあります。

それは彼地には狂犬が澤山をり、過去に於きましても、日清、日露、シベリア出兵といふ彼地との交渉がある毎に、彼地から犬が這入り、その都度狂犬病が流行する有様で、かういふ點から考へてみますと、滿蒙との交通が頻繁になると共に狂犬病が渡つて來る危險に瀕してゐるのであります。勿論税關での檢疫が厳重で、狂犬病の這入つて來ることはあるまいとは思ふのですが、何分從來の例もあることですから、その邊も御注意願はれゝば結構と思ひます。

 

警視廳獸醫課技師 柴内保次

東京府畜犬商組合創立總會講演「狂犬病豫防に就て(昭和12年)」より

 

シベリア出兵中の大正10年、千葉県の陸軍歩兵学校でテスト中の輓曳運搬犬。先頭がカラフト犬の「四郎」です(後ろの犬は九郎?)。

 

大正時代のシベリア出兵がカラフト犬の本州進出を促した、というのは考え過ぎでしょうか?

しかし実際に、シベリア帰還兵が本州に連れてきたカラフト犬の記録は存在します。その犬を飼っていたのは、警視庁で狂犬病対策にあたっていた荒木芳蔵獣医でした。

 

この樺太犬は、私の友人がシベリヤ警備の際飼つてゐた犬で、歸京後、庭の狭いのと、その犬があまり大きいのと、飼ひ馴れないのとの爲め、是非貰つて呉れとのことで、讓受けて飼養したのだつた。
御承知の通り樺太犬は現在のシエパードの體型に似てゐるが、胴は特に長く、背の低い如何にも橇をひくに適當した體型で、目方は既に十貫位あつた。
何せよ、シベリヤの方で生れて育つた犬であるので、日本の氣候に適してゐない。殊に夏の如きは飼養上非常に困難を増した。
狭い庭の眞中に、六、七尺の横穴を掘り俵を敷き、穴の傍には大きな犬箱を置き、その箱の中に一貫目位の氷を時々入れて置くといふ始末。
犬とは言へ、常に穴の中に入つてをり、時々出て來ては氷を嚙るといふ、恰も猛獸でも飼つてゐる様な氣分でゐた。
然し性質はごく柔順で、人間に對しても頗る素直で何等不安な様子はなかつた。運動に連れ出す時には太い鎖をつけ、連れ出すといふよりは、引張り廻されてゐたが、偶々大きな犬がとび出して來ると、それに挑戰的態度をとることもあつたが、中型の様な犬にいくら吠えられようと、側見もせずに悠々と通り過す雄大さを持つてゐた。
只困るのは坂道の時で、登る際は樂であるが、下り坂になると、殊に氷等張つてゐる様な時は苦手であつた。すべり轉んで怪我をすることも何十回とあつた。
或る時四谷見附から赤坂の濠の端を通ると、濠に張つた氷を破つて泳ぎ出すといふ始末。又その水泳ぎの達者なこと、水の中から、子供達が遊戯の際落したであらう毬を一つや二つを持つて來た様なこともあつた。

 

荒木芳蔵『愛犬漫談(昭和13年)』より

 

氷で冷やしたり穴を掘ったり水浴びさせたり、渓流魚なみに飼育の手間がかかる犬だったようですね。坂道で滑って転びやすかったというのは、足の裏に防寒用の毛が生えていたからでしょう。

 

四谷見附傍の公園にスベリ臺があつたが、これに登るのがよほど面白いと見え、必ずその方向へひかれて行き、到頭スベリ臺まで犬にお供をして行く様な譯で、スベリ臺に登らなければ承知しなかつた。
この犬の名前を、産地であるサガレン(※薩哈嗹:サハリンの別称)からとつて、其産地を記念したが億劫なのでサガと呼ぶのを常とした。
六頭も一緒に飼つてゐたが、このサガは身體も大きく目方もあり一番強くて、一番柔順で、他の犬のいたづらにも平然と構へてゐた。そのいたづらが過ぎてサガに嚙みつく様なことがあつても、一喝してをどかす様は、我が家の動物小屋の王者といつた氣勢を示してゐた。
シベリヤの守備に飼はれてゐた譯だから、軍人が頗る好きで、運動中でも、軍服の人を見かけると、必ずその傍まで御相伴させられる始末だつた。
ある時の如きは、軍人が七八十人程も、ラツパを吹いて行進して來る所を見たサガは、昔の樂しかつたのを思ひ出したか大喜びでその兵隊の傍に行き、如何にも嬉しさうにラツパ手の傍について共に行進するのだつた。
そしてこのサガは、ラツパの眞似をするのが得意で、ラツパ手と共にオーオーと咆へ乍ら行つて、どうしてもそれをひきとめることが出來なかつた。とう〃九段の近衛聯隊まで行つてしまつた様なこともあつた。
又ある時は、夜間ラツパの音を聞いて、その方向へ、塀を破つて跳び出し、士官學校や麻布聯隊等の兵舎を訪れるのには全く閉口した。
時には子供がアコーデイオンを持つてサガにサガ〃と犬を呼んではアコーデイオンを振つて「ラツパだよ、ラツパだよ」と叫ぶと、サガはその眞似をする。
滿四年程飼つてをつたが、鎖を離して運動したのがもとで遠走りし、大森の駐在所から知らされたこともあり、その後杳として行方知れずになつた。今でも思ひ出してはサガの話をすることがある。

 

荒木芳蔵『愛犬漫談(昭和13年)』より

 

意外なことに、カラフト犬は愛嬌のあるペットだったようです。「ネコみたいな性格」「不愛想」などと評されることが多いものの、実際に飼ってみた人の感想は違うのかも。

どちらにせよ本州での飼育は難しく、昭和11年に東京府で飼育登録されたカラフト犬は僅か25頭です(他に登録された橇犬種はサモエドが96頭、エスキモー犬が5頭)。

 

昭和2年、三重県の宇治山田市(現在の伊勢市)で飼われていたカラフト犬。交配用とのことですが、こんな西の方で繁殖されていたんですかね?

 

【戦後のカラフト犬】

 

戦時体制下へ移行すると、商工省は皮革配給統制規則によって犬の毛皮を国家の統制下におきます。皮革不足が深刻化した昭和19年末、軍需省と厚生省はペットの毛皮献納を全国の知事へ通達。夥しい数の犬猫が殺戮され、日本犬界は敗戦をまたずに崩壊しました。
続いて20年夏にはソ連軍が南樺太へ侵攻。樺太全土がソ連領となってしまいます。
 
いっぽう戦時中の北海道は比較的食糧事情がよく、たくさんのペットが残存していました。北海道犬の毛皮供出計画は地元愛犬家の団結によって阻止され、商工省の羊毛統制に貢献する牧羊犬や物流を支えたカラフト犬たちも毛皮供出を免れました。
それらをもとに北海道犬界の戦後復興がスタートします。

 

まず北海道大学の内田教授を中心としてNKC(日本ケネルクラブ。現在のジャパンケネルクラブとは別の団体)が結成され、そこにJSV(日本シェパード犬協会)とKV(帝国軍用犬協会)の北海道支部登録犬を集結。

さらにNKCがHSA(北海道シェパード犬協会)へ再編された後、JSA(日本シェパード犬登録協会)との連携をはかりつつ全国の愛犬家へシェパードを供給していきます。

北海道犬界の戦後復興はシェパードと北海道犬が最優先。荷役作業に従事するカラフト犬はペット界から顧みられることなく、犬橇レース以外では忘れられた存在となりつつありました。

下の記録によるとNKCはシェパードだけではなくカラフト犬も登録していたんですね。初めて知りました。

 

之が眞に競走らしい形感を備へたのは日本ケネルクラブ(NKC)札幌支部が主催した昭和二十二年二月に行はれたレースからである。即ち橇に規格をもうけ、出場犬はNKC登録犬に限り専用のコースを作り、六七臺の橇を一擧に走らすので、ゴール目ざして數臺が一糎一粍を爭ひながら殺到する時のスリルは競馬のそれと少しも變る所はない。

第一回、第二回共にコースは五百米で出場犬でシエパード犬及樺太犬の二種、共にNKCの登録犬で犬種別に競走せしめた。叉橇は一頭曳と二頭曳の二方法を用いて各々を競走せしめた。

コースは大體楕圓形で一二ヶ所ゆるい勾配を設け、又一二ヶ所稲妻形の走路があつたが、之は地形の關係であつた(「ドツグスレツドレースに就いて」より)

 

敗戦直後の昭和22年より、NKCは札幌犬橇レースを再開します。第一回の参加はシェパード48頭、カラフト犬11頭。第二回はシェパード42頭、カラフト犬13頭でした(昭和24年)

 

犬橇レースはNKCがHSAへ再編されるまで続きますが、シェパードとカラフト犬で評価が二分されています。また、戦後の北海道に犬橇文化を継承したという意味でもNKCの功績は大きなものがありました。

 

スポーツとして犬と共に樂しむ程度に止むべきで、實用一點張に橇を曳かす事はシエパード犬の様な智能犬には行過ぎであろうと思ふ。

一方樺太犬では積極的に實用面に利用すべきであると思ふ。之は樺太犬の性質、性能から言つても斯く言へると思ふ。この犬の場合は五百米程度の競走では物足りない。又距離を増すばかりでなく重量レース等も課し叉札幌小樽間(四十粁)走破レース(例へばリレー式或は十頭曳で走破)等を行い、能力上の品種改良に資するべきである。日本ケネルクラブではこの犬種の品種改良は右の點に重點を置いている(「ドツグスレツドレースに就いて」より)

 

【南極観測隊とカラフト犬】

 

敗戦から10年が過ぎ、復興を終えた北海道犬界に大ニュースが持ち込まれました。国家的事業のため、カラフト犬が購買されることになったのです。

国際地球観測年である昭和32年を前に、朝日新聞社では観測事業への参加を提案。各国が南極を目指していることを知り、白瀬矗に続く南極観測を企画します。

 

日本もそろそろこの辺で、敗戦気分を一掃せねばならない。この南極事業は、それがどんなものであるか、現時点では具体的な見当がつかないにしても、そうした国民の気分を一新する機会を与えるものになる。

 

北村泰一『南極第一次越冬隊とカラフト犬』より

 

朝日新聞社の提案に賛同する官僚や研究者は多かったものの、すぐさま敗戦国の悲哀に直面します。

日本の国際社会復帰に猛反対するオーストラリアやイギリス、白瀬探検隊の時と同じく「そんなことに多額の予算はつけられない」と門前払いする大蔵省。民間の出資者も集まらず、苦難のスタートとなりました。

幸いにも、若き日に白瀬探検隊の出発を見送った経験のある文部大臣・松村謙三が協力を表明。アメリカとソ連も支援を約束してくれました。

こうして永田武東大教授を隊長とする「南極観測隊」が結成され、計画も越冬を前提とした観測基地設営へ拡大します。

雪上車による機械化を中心とする永田隊長の計画に対し、副隊長の西堀栄三郎と学術会議の加納一郎は、設営地調査と物資運搬のため航空機と犬橇の併用を主張。

雪上車を主力としつつ、支援手段として軽量かつメンテナンスも容易な犬橇の採用が決定します。
 

いかに極地探検が機械化されようとも、今日の段階ではまだ極地隊は、文化にとりのこされた北方民族がつかっている原始的な輸送方法である犬ソリを忘れてはならないと私は思うのである。

目的は学術上の観測事業であっても南極へ出かけて行く以上は、そのきぎしい自然条件にたいする特有のロジスティックな仕事が先行しなければ危険であることを私は日本学術会議に進言した。また朝日新聞社には、かつてデスクをならべて仕事をした旧知の連中が首脳部にすわっていたのをよいことにして、ずいぶんとさし出がましい申入れをした。さいわいなことに、学生時代から山や雪や極地のことについて話しあってきたグループの一人である西堀栄三郎博士が、われわれの希望どおり南極の副隊長にえらばれたので、犬ソリの起用が自然ときまり、越冬論が次第にひろがっていった。

 

学術会議南極特別委員会 加納一郎「犬ソリはなぜ用いられたか」より

 

昭和31年1月に犬橇の投入は決まったものの、すでに樺太はソ連領。カラフト犬は国内で調達するしかありません。

涛沸湖における耐寒訓練の帰路、西堀副隊長は札幌へ立ち寄ります。カラフト犬について相談を受けた加納一郎氏は、西堀副隊長に北海道大学の犬飼哲夫教授を紹介。犬飼教授は犬の研究にも熱心で、戦前にはカラフト犬を現地調査した経験もありました。

犬飼教授が天然記念物北海道犬保存会の相談役に就任するのは昭和35年ですから、犬に関してはちょうど手が空いていたのでしょう。西堀副隊長から渡された5万円の購入資金をもとに、助手の芳賀良一氏らと道内のカラフト犬調達に着手します。

調査の結果、北海道衛生部を通じて保健所に飼育登録されているカラフト犬491頭の存在が判明。他に稚内のカラフト犬保存会、NKCなどの畜犬団体を手がかりにした犬籍簿調査や北海道各地の現地調査によって、利尻島では約500頭がみつかります。

しかしその大部分は雑化しており、犬橇に使えそうな個体はごく一部でした。

 

その結果わかったことは、約一〇〇〇頭のうち一〇〇頭前後が比較的良好な系統を保存しているだけで、他は雑種化がはなはだしいということ、また短毛種は旭川近郊に二〇頭ほどいるが(※陸軍第七師団が軍事目的で移入した個体の子孫です)、そのほかはすべて長毛種ということであった。分布的にみると、北海道でも中央部と北部の多雪地帯におおく、とくに馬ソリのすくない利尻島には利尻犬とでもいえるくらいに雑種化したひき犬が多数みうけられた。

雑種化の傾向としては、短毛種では土佐犬、秋田犬、北海道犬との雑種がおおく、一般に体長がつまり脚がほそい。長毛種は外形的にそれほど著しい雑種化はないが、大半は垂耳となり、体形全体に小さくなっているのがみとめられる。

しかし長毛種にはまだ大型犬がわずかに残っていて、これが今回の南極用ソリ犬の主力となったのである。

 

芳賀良一「南極用犬ソリの編成と訓練」より

 

札幌で撮影されたレース用犬橇(高松孝清・昭和23年)

 

調査期間に余裕はなく、雪が残っている間に犬を集め、犬橇の訓練を完了し、11月の出発に間に合わせる必要がありました。乏しい調達予算をやりくりしつつ、犬飼教授らは北海道各地で犬の購買をすすめます。

しかし飼主側は優秀な荷役犬を手放したがらず、地域ごとの購買價格調整(利尻島の一頭3千円・札幌の5千円から旭川の1万2千円・稚内の1万5千円まで)も大変でした。いっぽうで「国際事業への貢献」として無償譲渡を申し出てくれる人もいたそうです。

こうして調達した38頭のカラフト犬は、稚内に開設した「南極學術探検隊樺太犬訓練所」へ送り込まれます。

稚内の犬舎には床も壁もなく、屋根といえば横木に板をたてかけただけ。南極の寒さに適応させるための措置でしたが、カラフト犬にとって北海道の冬は苦にもなりませんでした。

 

北海道の稚内では、南極探検日本隊の今秋十一月に出発する予備観測隊用のカラフト犬の訓練が始まっている。予備観測には二チーム十八頭が必要なのだが、極地到着前の障害、特に赤道を通過する時の暑さに対する犬の弱さを考えて、今は二十三頭が訓練をうけ、更に利尻島から十五頭が参加する。

訓練は統率、牽引が主で、北大の犬飼教授以下七人の山岳部員、樺太出身の後藤直太郎調教師らが調教にあたり、飼料その他全般を研究しているが、犬は寄付された四頭以外はいずれも四、五千円から最高一万五千円のもの。

大体ソリ犬としては、シベリア西北部のサモエード犬、グリーンランドのエスキモー犬(ハスキー)が優秀なものとして定評があるが、カラフト犬も、強靭さ、耐寒性とも劣らぬ資質を示しており、ソリやソリの装具なども、各国の先例を参考に研究し五月中には揃う予定である。

 

『アサヒグラフ’(1956年4月22日号掲載記事)』より

 

稚内での訓練は北海道大学極地研究グループの学生が担当し、厳しい寒さの中で寝泊まりしながら犬の世話にあたります。とはいっても彼らに犬橇のノウハウはなく、犬たちも単独でリヤカーを曳いていた個体ばかり。

さっそくケンカをはじめた犬たちの性格を見極め、チームワークを教えることから訓練がはじまります。また、陸軍犬橇部隊出身の草皆氏と樺太出身の後藤氏を専任訓練士として招聘し、犬橇経験者による実技指導が可能となりました。
 

樺太アイヌのヌソをそのまま南極へ持ち込んだ白瀬探検隊と違い、今回は北海道大学極地研究グループがノルウェー・イギリス・スウェーデン共同隊の橇を改良。犬への号令はニヴフ式の声符が用いられる東西折衷型となります。

やがて先導犬に向いた個体が選び出されると、それぞれ自分勝手に走り回っていた犬の集団は「牽引訓練は朝六時出発 稚内市の裏山を六キロ―十五キロ走破、探検隊が必要とする三五〇キログラムの重量牽引には十分可能なことが示された(アサヒグラフ)」とあるように、統率のとれた犬橇チームへと変身していきました。

春がきて雪がとけ、夏になっても稚内での訓練は続けられ、長距離走行は未完ながらも何とか基本は整います。稚内到着時は生後四か月の仔犬だった「タロ」「ジロ」「サブロ」兄弟も秋から訓練に参加しますが、途中でサブロが病死しました。

 

昭和31年11月8日、南極観測船「宗谷」は晴海埠頭を出航。

「この三十頭が無事昭和三十四年春に再び東京湾に姿を現わすように万全の策をおしまないものであることを、申しそえたいと思います(菊地徹『樺太犬南極に行(昭和31年)』より)」と宣言し、訓練を終えたカラフト犬22頭も南極へと旅立ちます。
 
航海中にカラフト犬を失った白瀬隊の教訓を踏まえ、宗谷のカラフト犬飼育区画には熱中症対策の冷房が供給される計画でした。

しかし乗船してみると、宗谷の空調設備は出力不足であることが判明。涼しい夜中は犬を後部甲板へ出し、暑い日中のみ冷房を使うという努力が続けられます。

赤道越えの暑熱と凄まじい暴風圏を突破し、宗谷のカラフト犬たちは無事に南極へ到着。しかし航海中に負傷した「ミネ」、病弱だった「札幌のモク」、老犬の「トム」には帰国の措置がとられます(札幌のモクは帰国途中に病死)。

昭和32年1月24日、リュツォ・ホルム湾上で停泊した宗谷は流氷上で犬橇訓練を実施しますが、長い船旅から開放されて「風連のクマ」が逃走するアクシデントも発生しました。

 

1月29日、越冬基地建設候補地の東オングル島偵察へ向けて、宗谷から二台の犬橇が出発します。しかし、南極の氷原は北海道の稚内訓練所とは全く違っていました。

皆の期待を一身に受けて出発した犬橇隊は、なかなか前進できません。その年の南極は比較的暖かく、氷原上は大きなパドル(水溜まり)と氷片に覆われた「湿原」と化してたのです。しかも初の南極探査とあって余計な物資まで携行したため、橇の積載量も犬の輓曳能力を超えていました。

パドルから脱出するのに四苦八苦、しかも過積載によるノロノロ運転。続いて出動した雪上車もパドルに突っ込んで横転しかけ、散々なデビューとなります。

宗谷から東オングル島まで片道二十キロ、数時間程度と見積もられた行程に四日も費やし、「犬橇は役立たず」という声もあがりはじめました。

初回の失敗により、犬橇は放置状態となります。基地建設の輸送作業で走り回る雪上車を横目に、犬たちは繋がれたままでした。

 
越冬基地の建設が進む中、さっそく極地観測もスタートします。
ここでようやく犬橇チームの再投入が決定。大量の物資輸送とデポ設置は雪上車が担当、犬橇は行程計画ごとに積載量を調整する方式により、作業は大幅に効率化されました。

まずはペンギンの集団繁殖地を調査するため、近隣の島々への犬橇旅行を実施。また、燃料凍結により雪上車の故障が相次いだことで、本命のボツンヌーテン(昭和基地から170km南に位置する標高1500mの岩山)調査旅行も犬橇に託されました。

壊れても簡単に修理できる橇は人跡未踏の雪原で威力を発揮し、北海道生まれのカラフト犬たちも南極の寒さに順応。越冬期間中、犬橇チームの走破距離は合計1600kmに達しました。

 

いくら寒さに強いカラフト犬であっても南極の環境は苛酷であり、目標物がない広大な雪原、地形や気象条件、アザラシやペンギンとの遭遇、海中への転落、携行飼料の制限、配置する先導犬の優劣などで混乱が生じました。多くの犬が足の凍傷に悩まされ、白瀬隊と同じく犬靴を履かせることになります。

凍傷予防の犬靴は四タイプ(前足・後足用)が用意されていたものの、調査旅行中は隊員の靴下を流用。荷物軽減なのか何なのか、せっかく作った犬靴を調査チームが携行していなかった理由は不明です。

 

帰路に雪上車と会合できた場合、橇の牽引は車両に任せて犬たちは橇から解き放たれました。殆んどの犬は昭和基地へ帰ってきましたが、ボツンヌーテン探査の前哨戦として実施されたパッダ島旅行の帰路において、「アンコ」と「比布のクマ」が行方不明となります。

捜索の結果、迷子になったアンコを発見。しかし比布のクマについては、南極大陸へと向かう足跡が発見されただけでした。

昭和基地の近くまで帰ってきたクマが、とつぜん大陸へ方向を転じた理由はだれにも分かりません。

他に「ベック」が腎臓炎で死亡、オラフ海岸調査旅行から仲間が戻って来たのを待つように「テツ」も老衰死します。

南極へ上陸した19頭中3頭の犬を失ったものの、第一次南極観測は順調に進捗。第二次観測隊と交代の日を迎えました。

 

翌年、第二次越冬隊を乗せた宗谷が南氷洋へ到着します。

帰国中の改修で砕氷能力が向上した宗谷ですが、今回も厚い流氷に阻まれて一旦退却。アメリカ海軍砕氷船「バートン・アイランド」の支援を受けながら再突入を試みます。

東オングル島へ接近した宗谷は第一次観測隊員11名を輸送機で収容し、更に3名の第二次越冬隊員を昭和基地へ送り込みますが、気象条件は急速に悪化。二隻とも流氷に閉じ込められかねないとして、バートン・アイランドは宗谷に対し「第二次越冬隊員の撤収と外洋への即時脱出」を通告しました。

第二次越冬隊員は昭和基地残留を希望しますが、アメリカに救助される立場の宗谷は命令通りに撤収作業を進めました。

犬の重量分だけ輸送機の燃料を捨てるという危険を冒して母犬のシロ子と8頭の仔犬たちは救助できたものの、他の15頭は昭和基地に残置されます。気象条件が良くなればすぐ戻ってくる予定で、繋がれたままのカラフト犬たちには二ヶ月分の食糧(干し魚やペミカン)が与えられました。

その後も流氷への再突入を繰り返した宗谷でしたが、悪天候に阻まれたまま帰国期限の2月24日を迎えてしまいます。

 

犬の救出に難航しているという報道は日本国内でも過熱。文部省や観測隊には「南極に残されたカラフト犬を救え」「犬を助けるまで帰って来るな」と抗議や脅迫や助命嘆願が殺到し、南極観測を企画した朝日新聞社も「何としてでも犬を救出しろ」との論陣を張りました。

 

南極観測は何も、犬の救出が最大の目的ではあるまいが、樺太犬への関心が日本国内にとどまらなかったことも、また事実である。第二次越冬隊が、もし残らぬとなれば、犬は見すてられてしまうのだろうか?

「犬をつれてこなかったら、宗谷を爆破してやる」といった○○○じみた投書や、隊員への留守宅へ、「犬を絶対に救出しなければ承知しないぞ」と脅迫めいた電話をかける“愛犬圧力団体”の言行は、強く非難されなければならない。

が、昭和三十一年一月八日、南極へ向け出発する宗谷の犬の船倉の壁に、見送りの誰が書いたのか、「ワンワンがんばれ。君らの手柄を待っているぞ。みんな元気で必ず帰って来るんだぞ」と、太々と白ボクで記されていたその言葉は、現在そのまま、大方の日本国民の祈りに似た感情に通ずるのではあるまいか。

 

『週刊朝日』昭和33年3月2日号掲載「社会時評・今日の焦点 昭和基地のカラフト犬」より


犬の置き去りが決定されると、激怒した大衆は関係者へすさまじいバッシングを浴びせました。カラフト犬集めに協力した犬飼教授も、心ない個人攻撃に晒された一人です。

 

かつて樺太犬が南極に置き去りにされた時、全国から数十通の手紙を頂き、或は同情され、或は非難され、世情をしみじみ感じたが、多くの人は住所姓名を明記されたので、全部に返事を出し、詳細を御報告した。

事情が判ってから、非難をした方々から、更めて同情ある返事を頂いた。しかもなかなかの達筆名文で相当な教養人と思われる方で、無名でひどく私を責めたものも二、三通あって、なぜ姓名を明かにしてくれないのかと恨めしく思った。

ひどく非難をした人で、事情を知ってからいまだに文通して下さっている人もあるから、話せば人間同志、悪人でないかぎり相通ずるところが必ずあると思われる。

 

犬飼哲夫「道犬保十周年に際し(昭和35年)」より

 

【タロとジロの生存】

 

同年秋、第三次観測隊を送り込むために宗谷は再び南極へ向かいます。外国砕氷船に救助され、そして輸送機の離発着ができずに犬を置き去りにした苦い教訓をもとに、今回からヘリコプターによる空輸方式が採用されました。

第一次観測隊の犬は全滅と判定されたため、第三次観測隊が犬橇を運用するには新たなカラフト犬が必要となります。世論の反発を懸念した文部省はカラフト犬の乗船禁止を通告したものの、第三次観測隊は犬飼教授に依頼して3頭の仔犬を東京へ空輸。箱詰めしたうえ、秘かに宗谷へ乗船させました。

かつてカラフト犬を現地調査した犬飼教授は「寒さに強いカラフト犬の何頭かは南極で生き延びているのではないか?」という推測を昭和33年9月18日の学術会議で発表しており、3頭の仔犬は「補充の橇犬」としての意味もあったそうです。

※航海途中で仔犬の存在を文部省に申告した結果、ケープタウン寄港の際にペットとしての携行が正式許可されました。

 

「宗谷にカラフトイヌの子犬を三頭のせました。生後三〇日のオス二頭、名前はアクとトチ。生後四〇日のメス犬一頭、これはミヤといいます。御承知のように、第二次隊はやむをえず一五頭のカラフトイヌを基地にのこして来たのですが、これにたいして一部の人はきびしい批判をしています。このために第三次はソリ犬はつかわない。犬は連れて行ってはいかんということになっています。

しかし基地で越冬する私たちは、やはり犬がほしい。そこであちこちに当ってみました。もちろん正面から文部省におうかがいをたてたら、禁止されるにきまってる。北海道大学の犬飼さんたちの努力があって、出港の前夜、テレビの部品だ、といってひそかにのせました―」

みんなが笑いだした。

「とんでもないテレビだ―」

「越冬隊がほしいというのなら、なんとか運んでやろうじゃないか―」

村田副隊長は、山本隊員と私の二人の報道隊員にとくに頼みこんだ。

「黙っていて下さい。あんたたちに書かれると、途中寄港するシンガポールやケープタウンでうるさいことになるかもしれん。願います」

 

深瀬和巳「生きていたタロとジロ」より

 

昭和34年1月14日、流氷に行く手を阻まれた宗谷はその場で投錨し、東オングル島への空輸を開始。飛び立ったヘリコプターが「昭和基地周辺で二頭の犬を目撃した」と無線連絡してきたことで、艦内は大騒ぎとなりました。

 

午後四時ごろ、もう先発の二機のヘリコプターが基地を離れて、宗谷に向いはじめたことだろうと思い、通信室に行ってみた。ヘリコプターと通信室は無線電話で連絡をっているので、基地の模様がわかるからである。

「深瀬さん、犬が生きていましたよ」

と、とんでもないことを大橋通信長がいい出した。はじめはなんのことをいっているのかと、とまどった。

そして

―かつぐのもいいかげんにしろ。

と思った。

「モクとクマだといってますよ。信じられないことだが、よかったですねえ」

通信長は語りながら細い目が見えなくなるほどの笑顔である。そして真面目な笑顔である。

「ええッ、ほんとですか。二頭だけ?ええッ、まちがいないですよね!」

私は、よかったとか、どうして生きていたんだろうという感情が湧いて来るまでには、かなりの時間がかかった。ただ、

―えらいことだ、大変なことだ。

そんな感じでポカンとしていたように思う。

日本をたつまえから、一度はカラフトイヌのことを書かねばならないハメになることは覚悟していた。「人命か、犬か」というギリギリまで追いこめられて、やむをえず残して来た一五頭のことはどうみても生きているとはかんがえられなかった。

「死んだ犬の記事」―、まったく気の重い仕事である。

 

深瀬和巳「生きていたタロとジロ」より

 

犬の生存は確認できたものの、「人間を忘れて狂暴化しているのでは?」という不安でだれも近寄れません。第一次越冬隊に参加した北村泰一隊員が現地へ向かい、ようやく二頭がタロ・ジロ兄弟であることを確認します。

 

「アッ!犬だ。犬が走ってる!」

同乗していた村山越冬隊長らが、地上に眼をはしらせた。

黒点が二つ、氷上に躍っている―。

「アザラシか、ペンギンじゃないか」

半信半疑の面持は、しかし、基地に降り立ったとき、パッと明るくなった。

二〇二号機よりひと足先に着陸した二〇一号機から、地上に降りた機長・飯島主席飛行士を迎えたのは、まぎれもない二頭の犬であったのだ。小牛ほどもあろう。房々とした黒い毛に覆われた大きな体を身もだえし、千切れるようにシッ尾を振りながら飯島飛行士にとびついてきたのである。

薄日を浴びて静まり返る基地と、はしゃぎまわる二頭の犬―。

 

『週刊東京』昭和34年1月31日号掲載「南極犬は生きていた タローとジローの”生存”記録」より

 

……などと、マスコミは感動の再会であったかのように報道しましたが、実際はお互いに警戒しあったまま対峙。徐々に距離を縮めていきました。

 

彼らは首を下げ、上目でじっと疑うように見上げる。あきらかに警戒している。

犬たちが前に進むと、今度は北村があとずさる。一年前に彼らを置き去りにしたという、スネにキズを持つ身には、ひょっとしたら自分を恨んでいるのでゃないかという気持ちがチラッと頭の中をよぎったからだ。

なんとか通じ合えないものか……。北村は手マネ足マネで話しかけ、号令もかけてみた。それでやっと近づくことができたが、頭をなでても容易にしっぽを動かさない。

「なあ、おれだよ。一年前のおれだよ……」

北村は、一生懸命に呼びかけた。

「なあ、お前はクマか?」

反応がない。

「それではモク?」

北村はこうして黒い犬たちの名を片っぱしから呼んでみた。最後に

「タロ?」

と呼んだとき、しっぽがピクッと動いたような気がした。

「タロ……?」ともう一度呼んだとき、今度ははっきりしっぽが動いた。アッ!反応があった!

「おまえはタロ!するとおまえはジロか?」

今度は、もう一頭の犬がマネキネコのように右前足をひょいと上げた。これはジロの癖であった。

その目で見ると、ジロらしい白い毛がまじっていた。これはジロの外見上の特徴であった。もう間違いはない!

犬たちも北村を思い出したらしい。しっぽを振り出した。

 

北村泰一『南極第一次越冬隊とカラフト犬』より

 

第一報では「タロ・ジロ以外の13頭は行方不明」「どこかで他の犬も生きているのでは?」と報道されましたが、置き去りにされた15頭を調査した結果、「クロ」「アカ」「深川のモク」「ゴロ」「紋別のクマ」「ペス」「ポチ」は鎖に繋がれたまま餓死。首輪から抜け出した8頭のうち、タロ・ジロ兄弟以外の「ジャック」「デリー」「シロ」「アンコ」「風連のクマ」「リキ」が行方不明と判明しました。

※昭和43年には第四次越冬中に遭難した福島隊員の遺体、そしてリキと思われる犬の遺骸が相次いで発見されます。昭和基地は福島隊員への対応で手いっぱいであり、犬の遺骸は詳しい調査もないままオングル海峡へ水葬されました。

 

再会したタロとジロは丸々と肥っていましたが、犬たちが共食いした形跡はなく、置いてあった飼料にも口をつけていませんでした。彼らが越冬中に何を食べていたのかは不明ですが、「ペンギンやアザラシを襲っていたのではないか」「鯨の漂着遺骸や第一次観測隊の廃棄食糧を漁っていたのでは」と推測されています。

タロ、ジロ生存のニュースは大々的に報道され、忠犬ハチ公に匹敵するほどの熱狂をまきおこします。それまで袋叩きにされていた文部省や観測隊関係者にも、報道を機に祝電が届きはじめました。

 

さらに心を明るくしたのは、犬を送り出すのに主役を演じた犬飼さんを、置去りにした当時、「冷血動物」「鬼」「犬殺しの片棒かつぎ」とバリザンボウをきわめた愛犬家諸氏、諸女史の手紙が、たちまち「オメデトウ」「カンシャニタエヌ」などの祝電に変ったことだった。

もっとも、中には、「オキサッタアルジニモオヲフル、イジラシサニナキマシタ」などと、皮肉をこめたものもないではなかったが……。

 

『週刊朝日』昭和34年2月1日号掲載「タロとジロは生きていた それは奇跡ではなかった」より

 

南極で犠牲となった犬たちのため、日本国内では「カラフト犬を見守る会」などいくつもの団体が追悼を表明。特に有名なのは東京タワーのカラフト犬慰霊像(現在は移設)ですが、これは動物愛護会が解散前に建立したものです。

白瀬探検隊の時代は問題視されなかったカラフト犬の置き去りも、南極観測隊では国家的な大問題へ発展しました。日本の動物愛護史においても、南極観測隊の一件は大きな転換点となったのです。

 

置き去り時のバッシングに続き、二頭の生存確認後は「タロとジロを故郷の日本に連れ戻せ」という声が高まります。

実際のところ南極に適応した兄弟を暑い日本へ戻すのも酷な話であり、何よりも第三次越冬隊が連れてきた仔犬たちを橇犬として訓育するため、経験を積んだタロとジロを帰国させるわけにはいかなかったのです。

そのままタロ・ジロ兄弟は第三次越冬へ移行しますが、昭和35年1月にミヤが病死したのに続き、同年7月にはジロも病死。翌年5月にトチを残し、タロとアクは帰国します。

タロは北海道大学植物園で余生を送り、昭和45年に天寿を全うしました。

 

朗報を機に復活するかと思われた南極観測隊の犬橇チームですが、以降は縮小へ向かいます。

第三次越冬隊が残したトチに加え、第四次越冬隊からは「ハチ」「ゴン」「ロク」「タケ」「ライ」「ヒデ」「ボト」「ユキ」「ヤス」「クロ」「トク」、そしてベルギー南極観測隊から譲られたハスキー犬「ベルジカ」が参加。そのうちロクが行方不明となり、ヒデ、ヤス、クロが病死。トチ、ハチ、ゴン以外は第四次越冬隊と共に帰国しました。

第三~第六次まで越冬したトチ、第四次~第六次まで越冬したハチとゴンもやがて帰国し、南極へ上陸した犬は第七次越冬隊の「ブル(ベルジカの仔。昭和44年、第十次越冬時に死亡)」と「ホセ(ブルの兄弟犬の仔。昭和51年、第十七次越冬時に老衰死)」が最後となります。

タロの死から20年後の平成3年には、南極への動植物の持ち込み禁止が決定。しかしその頃すでに、日本国内のカラフト犬は姿を消していました。

 

【カラフト犬の最期】

 

タロ・ジロの報道から二十数年後、昭和58年に映画『南極物語(昭和58年公開)』が公開されます。この映画に出演したのはカラフト犬ではなく、カナディアン・エスキモードッグでした。

撮影時に国内のカラフト犬は消滅しかけており、撮影地のカナダで現地調達した犬を「カラフト犬の代役」として出演させたのです。

続いて平成23年のTBSドラマ『南極大陸』では、カラフト犬役としてニューファンドランドをはじめ様々な犬種が集められました。仕方ない話ではありますが、カラフト犬を描いた映画やドラマに本物のカラフト犬は登場しなかったのです。

 

このように何度か注目を浴びたものの、北海道のカラフト犬は消滅しました。ペットには適さず、人気品種の洋犬でも保護対象の和犬でもない彼らは、南極観測での役割を終えたことで用済みとなったのです。
舶来のシベリアン・ハスキーが大流行する一方で、「樺太産ハスキー」は無価値な存在だったのでしょう。
続いてロシア領サハリンのカラフト犬も絶滅しますが、日本人もロシア人もそんなニュースには興味なし。「国境地帯の犬」ゆえに、日露両国は保護活動を共有できませんでした。
 
日本犬界の多様性を考える上で重要な存在だったカラフト犬。彼らが消えると共に「北方ルートの日本犬界史」も俯瞰できなくなり、樺太犬界と北海道犬界の繋がりは忘れ去られたのです。