犬は私のうちに十六ぴきゐます。犬がながい毛をしてゐます。冬になつて風が吹くと犬がうちの中へはいつてねてゐます。又"かんこあば"へ二人の人をのせて行きます。又"あさせ"の方へのそ(※ヌソ:犬橇)で行きます。氷がながれると氷の上で小犬があそんでゐるうちにながれて、"すしか"の方へゆくことがあります。又澤山ながれて丸木舟もながれて行くことがあります。又なつになると犬がたべものがなくなります。そしたら海へ行つてあざらしをとつてきて、あぶらを犬にやります。オタスの杜・ギリヤーク教育所5年生 上村ケサ子(本名:ケルウイック)『犬(昭和11年)』より
【ゴールデンカムイの犬橇】
樺太の犬橇を調べる場合、最良の入門書となるのが野田サトル先生の『ゴールデンカムイ』です。
あの作品の主人公は北海道アイヌのアシリパさん(と杉元佐一)ですが、第141話から樺太アイヌの犬橇「ヌソ」が登場。橇犬への掛け声、カウレ(舵棒)やヌソホストー(スキー状の足板)による橇の制御、橇犬の繋留方法、過積載による橇犬への負荷(谷垣ニシパが蹴落とされてましたけど)、橇犬の飼育費が経済的負担になっていたことなど、クズリの襲撃シーンを利用しながら犬橇文化が描かれていました。
いきなり下記のような資料をあたるより、漫画で楽しく犬橇を学ぶのもよいでしょう。児童書としてはオススメできませんけど。
犬橇のことを、アイヌ語では「ノソ(ヌソ)」、オロツコ語では「オクソ」、ギリヤーク語では「オミゾクン」と謂ふ。長さ二米半乃至三米、幅三六糎、高さ三〇糎位。樺やスケニポーニ、鯨骨、海豹の皮等でつくる。これに七八十貫の荷物を載せて、七八頭から十數頭の犬が一日の行動平均十四五里宛を疾驅しながら、數時間の休養と少量の食物によつて翌日は又、同じぐらゐの行程を繼續して、毫も疲勞を見せないのである。急を要する時は一日二十五里から三十里近くも疾走することも亦罕ではない。宿泊所一つない結氷海上の長距離を行くには、食物を求めてチユンドラ地帶から次のチユンドラ地帶まで、死物狂ひで疾駆する馴鹿(トナカイ)橇と共に、北國にはなくてはならぬ大切な交通機關であらう。橇犬の使ひ盛りは十二歳から八歳位までゞ、老衰して役に立たなくなると、撲殺して毛皮や肉を利用する。橇犬としての訓練を施すのは、大がい五六ヶ月頃からで、その中の成績の良好なものをやがて先導犬に仕立てる。先導犬は必ずしも强大なものとは限らぬが、一群中最も利口なもので、よく主人の命令を聞き分け、萬一、列を紊したり、言ふことを利かぬものがあつたりすると、威嚇して主命に從はしめる。それ故、何處の家でも先導犬を仕立てるには、非常な苦心を要し、どんなに所望されてもよき代りが出來るまでは、絶對に他人には譲らないのである。日本犬保存会 秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より
『ゴールデンカムイ』で特筆すべきなのが、樺太南部に上陸した鯉登少尉たちは樺太アイヌの犬橇を、ロシア国境の北緯50度線を突破するキロランケたちはウィルタ族のトナカイ橇を用いていたこと。各地域の民族ごとに犬橇文化とトナカイ橇文化に分かれていた事実を、きちんと表現していたワケです。
樺太先住民の橇は冬期の生活手段であり、その動力となる犬やトナカイは貴重な財産でした。スチェンカの代償に先導犬(イソホ・セタ)を盗まれてエノノカが狼狽していたのは、優秀な橇犬がとても高価だったからです。
北海道へ帰還する前、尾形と月島軍曹を治療するため立ち寄ったのがニヴフ族の集落。漫画ではひとコマだけニヴフの犬が登場していましたが、もともと樺太の犬橇文化はニヴフ族をルーツとしています。
北海道アイヌには存在しない犬橇文化や犬への宗教観を樺太アイヌがもっているのは、樺太進出の過程でニヴフの文化を採り入れたたため。
つまり、樺太の犬橇文化はアイヌではなくニヴフを軸に語るべきでしょう。
産業また漁獵を勤め交易を事とす。且亦犬を伴ふ事南方のごとくにて尤甚し(ヲロツコ夷に異り)。貧富の者に論なく、家〃是を飼ざる者なく、其恵養の厚き事亦南方に倍せり。一家の内男女の論なく各犬を養ひ、是ハ家翁の犬、彼は老嫗の狗、嫡子の犬、二男の狗など称して、各三頭、五頭を養ふ故に一家の養ふところといへども、其數許多なり。その用ゆる所は初島の所用に異なることなし。(現代語訳)樺太東海岸のニヴフの主要産業は漁獲物の交易である。ウィルタと違い、樺太南部のアイヌ以上に犬を活用している。貧富の差にかかわらず犬を飼わない家はなく、それを大切にすることも樺太南部以上である。一家は男女の区別なくそれぞれ犬を飼い、「これは祖父の犬」「これは祖母の犬」「長男の犬」「次男の犬」などと言って各人が3~5頭の犬を飼うため、家庭での飼育頭数も多くなる。その用途は樺太アイヌと同じである。間宮林蔵『北蝦夷圖説巻之四 スメレンクル夷の部』より
カラフト犬とともに船で移住する樺太先住民
一、此島の夷生産の第一事となすものは犬なり。貧賎の夷は其失費に堪ざれば是を養ふことあたはざれども、富貴の者ハ家に是を置きざるものなし。一、一家養ふところの犬、大抵五、六頭より十二、三頭に至る(是其用をなす者此他牡犬児犬の類絆養せざるもの猶多し)。其平生飼置所ハ圖のごとく庭砌に木を建て横木を結び一犬毎に是を繋ぎ漫行せざらしむ。
若其犬大病するか又は精氣の虚脱せしものは繩を解て随意ならしむ。厳冬積雪の時に至といへども皆かくの如く別に窂を設くることを見ず。一、犬をして食飼せしむる事詳なることを知らずといへども、大抵一日中一、二度なるべし。生魚の肉を食せしめず。煮熟志てニマムと称せる木器に盛り、二、三犬をして同食せしむ。然れども犬を放つて自ら食せしむることなし。其時ハ夷自ら絆繩を解き、是を曳て食物の所に至り、食し終るの間杖を以て其後に立、其奪食咬嚙する者は撻(むちうつ)て、忘陵のことならかしむ。一、犬児を養ふ事繩を以て繋ぐこと初のごとく、食餌も又同じといへども、魚骨を去り、肉のみ小く裂て、是を食せしむ。一、此他大犬、小犬に限らず、撫育の懇至なること枚擧すべからず。實に小児を養育するが如し。故に犬の夷を慕ふことも亦嬰児の母を慕ふがごとく、晝夜其側を離るゝことなく、夷等出行する時は、其前後必兩三頭を從へ、夜は夷等の側に伏し、椀中の物を分て是を喰しめなどする様は、實に禽獸と同居するものと云べし。児夷の嬉戯多く犬を弄し、圖の如く人の児を負ふごとく衣中に入れて是を負ふ。犬児も亦晏然として衣中にあり。是亦愛育の状を察するに足れり。一、児犬漸に長じて後其猾猛なる者を撰て家狗となし、其懦弱(じゅじゃく)にして用に堪ざるもの、或は牝犬の小懦にして乳せしむべからざるものは、悉く縊り殺て其皮を取り肉を喰ふ。
樺太アイヌはサハ・チセ(夏の家)の南側、日當りの良いところに一般に犬を繋ぐ竿を設けた。白濱、多蘭泊共に設置したことを古老は謂つてゐる。昔は犬橇を物持ちの家では大抵所有してゐて、この橇を曳くため數頭の樺太犬を日頃飼育してゐた。白雪中に埋れて過ぎる半年は犬橇を利用して交通、運輸の具とした。この役犬(※荷役犬のこと)として、樺太犬は最も適したものである。樺太の酷寒や雪中に易し粗食に耐へ、然も橇曳犬としての體形、性能を具備してゐる。この犬を飼育するため犬繋竿が設けられた。北海道にはこの設備は稀である。智來、新問はこの竿を設けず玄關内に飼育した。一般にこの設備は犬橇と相俟つて樺太の住居に附属した特有の構築である。これを白濱ではセタ・クマ(seta kuma「犬・竿」)といひ、多蘭泊ではセタ・コホ・ニ seta-kox-ni(<seta kot ni「犬・繋がる・木」)といつてゐる。構棒を兩端で土中に掘立てた又木によつて受けた簡單なものである。圖35は白濱で故老よりの聴き書である。竿の大小は犬の頭數によつて色々ある。又木の一方を稍々長くし、それに各々幣(inau)をつけるのが慣しである。普通橇曳用のため犬は十數頭要する。それ故に犬を多く繋ぐ場合には横木を長くし、この又木の横木受を三木にすることもある。山本祐弘『建築新書・10 樺太アイヌの住居(昭和18年)』より
一、犬児漸に長じて後甚しき淫犬は、悉く陰嚢を破りてその陰卵を取去る。是其妄淫を禁じ、其筋骨を強くせしむると云ふ。一、陰卵を去るの方圖の如く、犬の四足を木に束縛し、又縄を以て其口喙を巻き、兩三の夷是を擁して、動揺跋躍せざらしめ、一夷刀を以て陰嚢を裂き其陰卵を取出して是を去り、直に縄を解きて是を放つに、犬痛傷の趣なく、暫時其刀痕を嘗め、忽然として走り去る。其後常に異ることなし。然れども妄りに是を去るにあらず。天時を考へ、其狗の生質を按じて是をなす。若其裁割の術拙なる時ハ即死する者あり。故に此事に熟練せざるの夷は是をなすことを得ず。林藏其詳なることを聞ざれば、其方を陳ぶることを得ず。
其用ふるところは艝(そり)を挽しむるを第一とし、又舟を牽しめ、山獵を助く。艝船ともに其馭法大に巧拙ありて、拙なるものは漸く四、五疋(ひき)の犬を用ひ、巧なるものは八、九疋十餘疋といへども是を馭す。此島の犬を見るに其性本邦の犬と異るが如くにして、物を挽くことを悦ぶの情ありと云。艝舟に限らず、挽しめむと欲する時は、圖の如く先犬を連繋して立木に繋ぎ置き(牝牡に論なく綱をつくる時は忽ち前行して挽曳す。故に三、四頭を連繋する時ハ一、二人の力を以て留べからず。故に木に絆す)装するの内既に連挽すること頻りにして、聲を發し跋躍す。装成て植木の繩を解を待ずして馳出すこと矢の如く、一艝七、八頭をして挽しむる時ハ一日中十七、八里を馳すべし。
一、馭術は圖の如く、兩手に木杖を持して艝(そり)の上に跨居し、犬差(やや)馳傍行する時は、トウ〃と云聲を發し、艝觸るゝ處ある時は、杖を地中に刺して是を留む。地勢中に云し如くなる海岸の冰(こおり)を馳驅することなるに、碎氷また其上に磊々とし轉びたれば艝常に動揺すること甚し。故に暫時の間も目を放ち、心を安ずるのひまなし。一度其馳を誤る時ハ、艝忽ちに轉覆して其身雪中に投じ、冰上に傷るゝのみならず、艝は何地へか引行き、幸に木の根岩角などありて、其艝轉滯して、如何程に引といへども、行くべからざることあるにあらざれバ、留ることなし。其幸にして留りたるも艝は悉くやぶれ、積むところの物は總て破却し、縄は衆犬の足にまとひ、漸にして追付、其處に至り得るとはいへども、是を修理すること容易のことにあらず、林藏時々犬を馭してみづから此艱苦を知ると云。一、舟を挽しむるも亦、大抵斯如といへども、其心を勞すること頗少しといふ。一、多力猾猛なるものにして、能挽曳のことに馴れたる犬を連頭に置て挽しむ。是を名付て前導犬(イシヲセタ)と称す。島夷此犬を撰むことを専務とす。此犬あしき時は、衆犬情逸して其用をなさず。故に是を交易することあるに、其價大抵斧一、二頭より、高價の者は五、六梃に至る。一、島夷は近所に行といへども、もたらすところの雜器ある時は、悉く艝に積て犬をして是を挽しむ。其道近き時は児犬牝犬に論なく、更に犬を撰むことなし。犬弱く路難ふして挽得ざる所は、夷等助け引て其所に至る。一、山獵に用ゆる時は、能猛獸と戰ひ、深山幽谷に入て諸獸を追出し、夷等の助となること枚擧するに遑あらず。一、家狗の病みて死するものは、只其皮を取のみにして其肉をくらはず。
他に類似の民族なく、全然孤立した言語等を構成してゐるギリヤークは、黒龍江の下流に住んでゐる南方ツングース族ゴリドと共に由來使役犬族と謂はれ、常に犬と起居を與にしてゐる特異な民族で、犬を操縦することがアイヌと同じやうに先天的に巧妙である。そして恰度アイヌが神の使者(アペフチカムイ)として可愛いがつてゐる熊の仔を殺して之を祭るやうに、萬一家族の者に重病人があると、彼等の信奉するシヤーマンの神のお告によつて、その身代りに自分達の一番可愛いがつてゐる犬を殺し、その頭骨を木の枝に曝らして祭る習慣がある。これは犬を自分達よりはるかに傑れた能力あるもの、神通力さへ持つてゐるものとして崇める精神から出たもの(秦一郎)
南カラフトのわが領土に住んでいたギリヤークのなかでも、敷香附近の者は、死者があると火葬にしないで埋葬していたが、そのときは死体のそばに犬を殺して副葬した。
この犬は死者の家族でない他人が撲殺することになっていた。また家人が重い病気になると、その平癒のまじないとして犬を殺すことがあった。
ギリヤークは北方の諸民族と同様に熊祭りをする。これはアイヌとおなじく生けどった子熊を飼育しておき、明け三歳になって盛大な祭をしてこれを殺す。
殺した熊には神の国へ帰る土産物として犬を殺して供える。このとき熊に対して祈りの言葉をささげる。
「今までに行届いた飼い方もしなかったがいよいよお前を神様のもとに送りかえすのだ。この後もギリヤークのところに熊を沢山つかわしてもらいたい。
お前には贈り物として犬を持たせてやる。神様のもとに行ったら、この犬は自分たちからもらってきたと伝え�てほしい」というのである。この贈り物にする犬は多くは黒犬を用いるが、熊祭りをする主家の犬ではなくて、隣人の飼った犬か、あるいは来客がくれる犬に限られている。
この犬を殺すのには、熊祭りで熊を殺してからその熊の頭を東に向けて寝かせ、そこで皮ひもで犬を絞殺する習慣になっている。
殺した犬には柳で作った削りかけの幣(ナウ)をつけてていねいに取扱い、熊祭りの後に神々に満足をあたえるため一定の方式にしたがって解体する。犬飼哲夫『カラフト犬の起源と習俗(昭和57年)』より
何かにつけて犬を生贄に捧げるのは、犬に特別な力があると信じられていたためです。手当たり次第に犬を犠牲にしていたのではなく、「この犬の肉は神の供物として皆で食い、骨は全部あつめて庭に作った一メートル四方ほどの木の枝の囲(ナフ)の中におさめる(犬飼哲夫)」とあるように、すべて厳格な儀式にのっとっていました。
魔除けこれは犬を殺してその新血をもつて新家の桁内側に各々三ヶ所宛塗ることである。これに就いては本文中に一言觸れて置いた。その方法は殺した犬の血をニパポ nipapo「木の食椀」に受ける。別に気を削つて作つた木屑を束ね、これをニパポの血に浸して圖2の如き形を桁上に描く。圖2のロの如く三ヶ所へ塗るから、家を圍む四桁で十二の眞赤な模様が新しい木肌の上に生々しく描かれる。圖2のイは血の形象を白川氏が自ら畫き私に示したものである。この模様そのものゝ意義、呼稱は同氏及コタンの古老も既に忘れてしまつてゐる。アイヌは犬の血を斯様に塗ることによつて家の魔除けとなるのだと云ふ。犬は牡、牝何れでもよく、屠殺後にはその頭骨を、家裏の幣のそばへ突き建てた先が叉になつてゐる木の一方の叉にかけておく。これは犬の靈がこゝから天の神の國へ歸つて行くとアイヌは考へてゐるからである。この木をケヨッニ(kejoxni)と云ひ、上部の叉の部分が一方長く、他方が短い。この長い方へ幣をつける。その際、殺した犬が牡であればこの木を蝦夷松で作り、牝の場合は椴松で作る。アイヌは蝦夷松を男、椴松を女の木としてゐるからである。尚その日の行事がすべて終ればこの殺した犬の肉を煮て村人に御馳走するのが習はしである。山本祐弘『樺太アイヌの住居(昭和18年)』より
臺灣ツオウ族フルト社蕃の迷信に、犬が屋内で遠吠えすると家族が病死する兆だとて、首をしめて殺し、之を棄てると云ふ極端なのがあるそうだ。
しかし、文明の風は此の蕃界にも及んで、今日では一日だけ外へ追ひ出すに止め、首を締めることはやらぬと云ふ。
岡田謙(昭和11年)
近代化の影響を受けつつ、長い年月をかけて完成されたニヴフの犬橇文化は昭和期まで維持されました。
後期にあたる昭和11年の運用法は下記のとおり。
犬橇の編成法は、個人や土俗によつて異なるが、普通一列縦隊もしくは二列縦隊に竝べるのが最も有効であるらしい。之を曳くには馴鹿や海豹の皮で作つた革紐で犬の頸に繋ぎ、之を一々背中に通して橇に結びつける。別にその順序には犬の性別や年齢等は關係しないが、自らそこに整然たる順序があつて、一番利口な奴が先頭に立ち、後はその利口さ、訓練の程度によつてきまる。先頭から橇までの距離は大がい十八尺から二十尺ぐらゐであり、最後の犬との距離は九尺から十尺ぐらゐのところにあるので、十頭あまりの犬が一つのチームを作つてゐる時には、犬と犬とは殆どくつつき合ふので、時には犬同士嚙み合ひを始めることもあるが、操縦者は一本の長い鞭で巧みに之を捌くのである。熟練の結果はこれと思ふ犬の背中に鞭を加へて懲戒することも困難ではない(秦一郎)
一般的なニヴフの犬橇(大正8年)
樺太に於けるギリヤークの命令語は次のやうである。TooToo! 走レ!Kai! 右ヘ!Choi! 左ヘ!PeraPera! 止レ!これが更に轉訛して同じ島内でも多少の相違を來してゐるやうである。進メ=ドウドウ(もしくはトト)右へ=カイ左へ=チヨイ止レ=ラ(もしくはプレプレ)單純な命令語ではあるが、それらの言葉を先導犬はよく聞き分けて、絶對に誤ることはない。若し前方に何か氷の割目とか、危險物があると先導犬は鼻を下にすりつけて嗅ぎ分け、危險を知らせる。スピードを出してゐる時は、操縦者は二本の棹で巧みに左右の調子をとりながら進む。さうしないと轉覆する虞れがあるからだ(秦一郎)
此入江より枝流有りてテツカ(川名)と云。此川筋にヲロツコ人住居。風俗はスメレングル(ニヴフ)に同じ。所業大いに替る事多。スメレングルは犬を養ひ、ヲロツコ人はトナカイと云獸を仕ひ、いづ方へ往返するにも此獸に荷物を附け、乘行也。大い成る事本邦の馬のごとし。兩角有りて其形ちおそろしく見へ、角は鹿の通のごとくにて、猶小俣有り。飼置く處至て柔和にして無事也。傳十郎是に乘りて通行してこゝろ見し事也。松田傳十郎『北夷談』より
一、生産の事。漁獵の態、総て南方初島に異ることなし。只犬を養はずしてトナカイ獣をつかふ。是初島に異るところなり。貧者によつて其數多少有のみにして、大抵家毎に此獣を養はざる者なし。富貴なる者は凡拾二、三頭を養ふ。初夏より秋末に至るの間は、野間に放養し、冬月に至り草葉枯盡す時は、山に入つて松蘿を食せしむ。一、夷遷移するごとに、諸雜器或ハ漁獵の皆具悉く此獣に約して、至る所に運送す。故に終歳此獣なかるべからず。是を以て恵養惰(おこた)ることなし。一、此獸性軟柔にして、犬を恐る。故に使犬の夷落に入て、居を同うすることを得ず。間宮林蔵『北蝦夷圖説 ヲロツコ夷の部』より
此夕、土人等は弓箭を持て出で、程なく馴鹿一頭を荷ひ歸り、直ちに屠りて振舞ふ。鹿肉より硬き様に覺ゆ。ニクブン人は好みて喰けるも、ヲロツコ人は喰はず。
其故を問へば、彼等は常に馴鹿を使役するが故に誓つて喰はずと(嘉永7年 鈴木重尚)
オロチヨン人は馴鹿の飼養が大主眼であるから、其の住所の如きも常に馴鹿の便宜に因つて一定しない。
元來馴鹿はツンドラ帶に生ずる苔を以て重なる食料として居るから、彼等も亦自然此の濕潤なツンドラの附近に遊牧する。然るに夏期になると馴鹿には猛烈なる蚊群が集るので、若し此の蚊群に着かれると馴鹿の困難は云ふまでもなく、是が爲めに馴鹿の皮に孔が出來て之を種々の製作物にするにも非常に不便である。
随つて彼等は夏期になると越年中に住居して居た部落を去つて海岸に移ると云ふ様な事になる。
だから彼等の家屋は永久的の者ではなく、柳又は松の木を骨にして之に樹皮又は獸皮を巻く天幕式の者である。オロチヨン人の器具と云ふが如きも至つて簡單な者で、銛、獨木舟(まるきぶね)、橇及び鐵砲や槍は其の重なる者である。
馴鹿はオロチヨン人に取つては最も必要な家畜で、彼等は冬季之に乗り、又は橇を曳かせ、皮は衣服や靴や其の他の物を作り、肉は之を食ひ、丁度露人に於ける牛、アイヌに於ける犬よりも大切な者である。
だから彼等の財産とも云ふべき者は馴鹿の數と馴鹿の皮で拵えた革箱の數に因つて定められるのである。
西田源蔵『樺太風土記(大正元年)』より
長根(※建築技師の長根助八)は1925年にウイルタの人口を全部で81戸、670人と記述している。ニブフは、彼が数えたところでは当時100人以下であった。
オタスのニブフとウイルタの食べ物も違っていた。ニブフは日本人同様、大量のお米を消費したが、ウイルタの場合、基本的な食物は、トナカイとアザラシの肉だった。また、ニブフは農業を行った。しかし、それにもかかわらず食物は野菜を用いない単調なものだった。夏には大量にギョウジャニンニク(ラムソン)を食べた。ビタミン不足はしばしば結核罹病者を増大させ、幼児の死亡率を高めた。出生率は高かったが、集落住民の数は伸びなかった(1941年にオタスには92家族、全部で425人が住んでいた)。
どの家でも独特のサハリン種の犬を飼っていた。この種の犬は酷寒も平気だった。人の食べ残しやトナカイの骨、魚、アザラシなどを与えた。
冬期には橇につけ、引かせた。犬たちは自力で行き来し、荷を運んだ。住民の中にはトナカイを飼育している者もいた。猟に使ったり、商品として売ったり、物々交換のためである(例えば、数頭のトナカイで銀の耳飾りと交換した)。もし若い男が誰かの娘に結婚を申し込んだら、必ず家の娘に橇をつけてトナカイか犬を贈らなければならないのだった。
ニコライ・ヴィシネフスキー著 小山内道子訳『オタス サハリン北方少数民族の近代史』より
ニヴフの犬橇文化は次第に変化し、大正期にはウィルタのトナカイ橇文化と交じり合うようになりました。トナカイ橇にも適応していったニヴフですが、オタス移住後の昭和期は使い慣れた犬橇へ回帰したそうです。
ギリヤーク人の衣服は、冷えて、湿めつぽく、それに非常に變り易い氣候によく合つてゐる。夏は青い支邦木綿か、綿布で作つたシャツに、同じ半ズボンをはき、肩にはいつも萬一の用意に、膃肭獸(オットセイ)か犬の皮でこしらへた短い外套か、ジャケツを投げかけてゐる。
足には毛皮の長靴をはき、冬は毛皮のズボンをはく。一ばん暖かい服でさへも、狩獵の時や犬を連れて乗り廻す際の敏捷な行動を妨げないやうに、裁たれ、縫はれてゐる。
クルゼンシュタインは、八五年前に、はでな絹の「澤山花模様の刺繍のある」服を着たギリヤーク人を見かけてゐるが、今では、そんな伊達男は、サハリン中を提燈さげて探しても、恐らく見つからないであらう。
ギリヤーク人は一般に顴骨(けんこつ)高く、顔は多骨形で鬚は多く、一見してオロチヨン人とは區別する事が出來る。彼等は髪を中央に於て分け、後の方に短い辮髪を垂れる。而して婦人は後の方で髪を結んで居る。
家屋はオロチヨン人とは稍々趣きを異にして永久的の建物を作り、即ち丸太又は木の皮を用ひて居る。
然し其の他の習慣は此の頃になつて餘程オロチヨン人に接近し、彼等が以前飼はなかつた馴鹿の如き者も今は頻りに飼ふ様になつて居る(西田源蔵)
「ニヴフとウィルタの文化が混在していった」とある一方で、戦時中になっても民族ごとにカラフト犬が棲み分けていたという証言もあります。
先住民をコントロールするための「オタスの杜」は次第に観光地化し、ニヴフやウィルタの文化も観光資源化することで保存されました。良くも悪くも、当時はそのような状況だったのです。
オタス観光を旅行記として発表したのが、作家の生田花世。
昭和15年に南樺太を訪れた彼女は、豊原の「バケツ位の顔をした大犬」、元泊郡の「毛の長く深い、獅子のような犬」、オタスの「キツネのような犬」を目撃しました。「川一つ隔てただけで、犬の族まで事変わっていた」とあるように、同じ地域でも全く違う犬種が分布していたのでしょう。
東京の小説家にカラフト犬が識別できるのか?と思われるかもしれませんが、四国出身の彼女は土佐闘犬を愛育し、ペット雑誌にも犬のエッセイを寄稿するほどの愛犬家でした。その視点で現地のカラフト犬を見聞した記録は、とても貴重なのです。
樺太の次の町、落合といふところ、そこで驛から宿泊する王子製紙の甲倶樂部まで乗つた馬車は快走だつた。同好の歌人、北見志保子さんは叫んだ。
「あの馬、よろこんでゐる!」
私たちをつれてゆくのがうれしいと、馬が喜んでいるといふのだが、随分、自己中心の事ながら、さうも見られた。もし、これが、犬であつても、同じ事だつたらうとおもふ。北では、犬でも、馬でも、いぢけた點がなかつた。
オホツク海を東に、車走すること十何里、眞縫山道(昔、間宮林蔵も、岡本監輔も、十八年まへ、私の先輩の詩人、三石勝五郎もこの道をこえた)へ入る地點の白浦を見、突阻山の山麓をすぎ、有名な小沼の養狐場町を左に、知取につき、私たちは、又、ここの犬を見た。
何れも毛の長く深い、獅子のやうな犬たちであつた。
氷下魚のすむ幌内川の濁流を見て私たちはソ聯カラフトの空をのぞんだ。何と近い事であらう。そこなので、飛行機を要しない。それなのに、ソ聯でも、飛行機が居るらしい。
オタスの森は皇恩に浴するギリヤーク族、オロツコ族のすみどころである。そこが、平らかな河水の上に、はるかに眺められた。私たちは、河を渡つた。ソ聯に、水源のあるこの幌内川と、隣りのチヨロナイ川とは、馴鹿が水をのむのだ。
オタスの森の人たちの飼つてゐる犬は、狐のやうな犬であつた。私は、これを意外に思つた。もはや、川一つへだてただけで、犬の族まで事かはつてゐたのである。バケツ位の顔をした大犬は、一頭もゐなかつたのである。
狐のやうなオタスの森の犬たちは可愛げでなかつたので、○人の子の頭はなでたが、犬の頭をなでる氣がしなかつた。これらの犬は、木の下につながれてゐる馴鹿たちの番犬の役をしてゐるのであつた。
生田花世『樺太犬族(昭和15年)』より