もともと同志でありながら、日本犬保存運動の方針を巡って袂を分かつた日本犬保存会の斎藤弘と日本犬協会の高久兵四郎。

関東の日保と関西の日協が抗争を演じていた頃、北海道・東北犬界でも日本犬保存会との衝突が生じていました。日保が全国規模へ拡大するとともに地方犬界との軋轢が生れ、和犬界は一丸となるどころか混迷・分裂していきます。

 

戦前の段階で、北海道犬の交雑化は深刻な状況に陥ります(アキタランドケネル・宮本翠夢庵撮影)
 
【アイヌ犬保存会との対立】
 
北海道の在来犬といえば、アイヌ民族の猟犬だった北海道犬(当時の呼称はアイヌ犬)ですね。
明治~大正時代の北海道には、本土からの移住者と共に洋犬が普及。南樺太割譲後は宗谷海峡を渡ってカラフト犬も流入し、沿岸部のアイヌ犬は壊滅状態となります。
昭和12年に文部省が北海道犬を天然記念物指定すると、交雑化を免れた山間部の個体をもとに保護活動が展開されました。その際、「アイヌ犬の名称は差別的である」として「北海道犬」へ改称されています。
 
現地におけるアイヌ犬の保存運動は、天然記念物指定よりも先にスタートしていました。
中心となったのが北海タイムスの傳法貫一記者。昭和初期からアイヌ猟師と行動を共にし、北海道在来犬の調査に取り組んだ人物です。
その頃すでに千歳系アイヌ犬はもちろん、日高系および阿寒系のアイヌ犬(現在は絶滅)は消滅の危機にありました。貴重な北海道在来犬を護るため、傳法記者は昭和8年11月に「アイヌ犬保存会(後の天然記念物北海道犬保存会)」を設立します。

アイヌ人は犬を神の使ひ、即ちアペプチカムイの使者として信じ、家族の一員として愛し、山に入るにも川に獵するにも、影の如くつきまとふ彼等の護身犬である。

單純なる過去の生活は、山に獵し川に漁し、春夏秋冬の食糧は凡べて人里離れた山岳森林に求め、從つて犬を伴つて身の安全を期したものであるが、文明は生活を複雑化し、かゝる生活方法のみでは生きて行けないと同時に、犬の必要が省かれ、一方畜犬税の負擔、又は野犬狩り等時代の變遷が、彼等から犬を急速に引き離して了つたのである。

 

アイヌ犬保存會 傳法貫一(昭和11年)

 
地域密着で活動していたアイヌ犬保存会の前に、日本犬保存会北海道支部という「外部勢力」が現れます。北海道に東京のルールが持ち込まれた結果、札幌犬界では激しい拒絶反応が起きました。
騒動のはじまりは昭和12年、日本犬保存会の講演がきっかけとなります。
 
本年日本犬保存會北海道支部發會式の座談會席上で、本部より派遣になつた先輩斎藤弘氏の説に曰く「昔は斑犬がなかつた。今日殘る古い繪草紙などの斑犬は文献として取るに足らず、白い犬を描いてはバランスをとるため、點々と斑紋を置いたものなり」と説明されたが、大家・斎藤氏の御説だが之には首肯出來ない。
次は私の考察に過ぎないが……。
アイヌ人の生活に相當古くから交渉あつた筈の「馬」「猫」この二つの家畜を、何れの地方のアイヌ語にも、之を現す言葉がないが、此の「斑」や「虎毛」は判然と言い現はされて居る。即ち斑をケソと言ひ、又虎毛をルウと言ふ。
アイヌ語の語源と發生の時代を確證し得ない現代ではあるが、人間と馬や猫との交渉の深かつたことゝ、斑や虎毛の古き存在を明かにしてる一事とも言へる。
 
(中略)
 
尚この懇親會の席上で、齊藤弘氏により「左巻と右巻とどちらを尊ぶか」との質問に對して、私は左の意を答へた。
「吾々子供の頃、頭の巻目が中心を外れてゐると根性が惡いとか二つもあると意地がどうとか良く言い合つたものだが、之は成人して嫁をもらうとか又くれるに際しても、誰か相手方の巻目を檢べたり之を條件とするが如き事があらうか。
犬の尾も之と同様で、左巻が強いとか右巻が弱いとか云ふ事は單なる傳統的習慣に他ならず。若し左右何れにも傾かぬ差尾の場合、又は短尾の場合、此の犬の性質と能力を如何にして決めようぞ。左巻を交配したとて決して左巻のみ出來るに非ず」と一笑にふしたことである。
 
傳法貫一『近く天然記念物となるアイヌ犬の全貌(昭和12年)』より
 
アイヌ文化を基礎に研究を重ねてきたアイヌ犬保存会。その努力を東京から来たヨソモノが全否定してくるワケです。ムキになって批判する傳法記者に対し、日本犬保存会の斎藤弘は「傳法氏の過剰反応や曲解である」と反論しました。
まずは傳法記者が批判する「昔は斑犬がいなかった」問題について。
(傳法記者の主張は)とんでもないことで、私はそんなことは一度も今日まで云つた事がない。
斑が昔からあるか否かと云ふ質問に對して「昔からある。繪巻(繪草紙に非ず)等には非常に多い。然しながら繪巻等に出て來る、斑犬の數の率程、斑犬が全國一般に多かつたか否かは疑問である。
繪巻は大體當時の世態の寫生ではあるが、都會を題材にした都會の生活を冩したものが多いことと、執筆者が、畫面の平調を破るために畫中の犬に斑を用ひると云ふこと等想像されるからである」と答へた。
此の同じ質問は全國各地の座談會で必ず出される問題であり、其の際の私の答へは何處でも右の様に答へて居る。
札幌だけの事ではない。
以前私の書いた、日本犬標準解説の毛色の處にも「斑は昔より繪巻等に出て、古來より存在する毛色である。然しながら今後日本犬を固定さす上に於て毛色を整理す可きであつて」と發表して居る。
犬を研究する上に於て繪巻を如何に重要視して居るかは、私の「日本犬、耳の説」を参照せられたい。
畫面の平調を破る上に斑が有利であることは、自分で、犬を四五頭描いて見ても(※斉藤弘は美術学校出身)、あるひは日本畫家にだまつて、四五頭の群を描かせても判ることであり、又、帝展、文展の日本畫の中に出て來る犬を注視して見らるれば判明することと考へる。
 
齋藤弘「アイヌ犬の全貌を讀んで(昭和12年)」より
 
北海道犬の多様性を重視する傳法記者に対し、「斑模様の和犬は存在するが、淘汰すべきである」「帝展で勉強したら?」などと火に油を注ぐようなことを言い放っております。
続いて「尻尾の左巻と右巻とどちらを尊ぶか」問題について。
 
これには驚いてしまつた。事實は次の如くである。
座談會の私の講話が終つた後で質疑應答の座談の際、私から「北海道犬では左巻がよいとか右巻が惡いとか言はれて居りますか」と質問したのに對して、傳法君の説明は大略自ら記せられた右の如くであつた。
これには實は私も心中苦笑を禁じ得ず、正に、参つた形であつた。と云ふのは、私の質問の意味は、内地では各地とも左巻が強いと云ふことが傳へられて居るので、この様な所謂傳承がアイヌ犬にも、則ちアイヌ人にもあるか否かと云ふ、全く土俗的な意味の質問であつたのである。
今頃、眞面白くさつて、日本犬の鑑定に尾がどちらに巻いてゐた方がよいか等と問ふ人もあるまい。
特に私は傳説は傳説として、土俗は土俗として研究して、犬の鑑別にはその様な非科學的なことは、例へば毛色によつて鬪爭力に强弱あるとか、後頭骨の出張つたものは忠義であるなど云ふ論者とは反對的な立場にある者である。
私は傳法君にからかつて質問を發する程人が惡くはない。全くの私が各地から蒐集して居る犬に關する土俗的意味の質問だつたのだが、眞面白に應答されたには参つた形であつた。
切角の御説明を中途で腰を折るのも氣の毒と考へて、御説が終了すると直に私の質問の主意が全く異なつて「アイヌ人の間にその様な鑑別の云ひ傳へがあるかとの土俗的な質問だ」と説明したのに對して君の答へは「アイヌ人にはなし」であつた(齋藤弘)
 
「質疑の内容を理解してる?」などと札幌側の神経を逆撫でしたことで、双方は決裂。
そこへ「北海道犬は和犬ではない。朝鮮北部かロシア沿海地方からの渡来犬だ」と主張する大阪の日本犬協会が参戦し、三つ巴のカオスへ突入しております。また日協ですか。面倒くさいですねえ。
同情されるべきは、騒動の巻き添えを喰った北海道庁でした。
 
非常時局を反映して軍用犬熱が昂まつた折柄、純粋日本犬保存の趣旨から北海道にては舊土着に飼育されて居たアイヌ犬を、北海道犬と命名して本年一月天然記念物として指定、種族保存に努めることゝなつたが、日本犬保存會北海道支部(北大新庄教授主催)とアイヌ犬保存會(傳法貫一氏主催)の二團體が互に張合つて指定犬臺帳製作その他で抗爭、關係當局では手を燒き、近く兩團體を解消、新に北海道犬協會として統一的團體を設立せしめようとして居るが、右につき當局は語る。

「―同一目的の團體が二つあつて、互に主張を固持することは困つたことです。道廳では取敢ず二百五十五頭を指定したが、その記念物の性質上、臺帳を作らねばならぬのに、兩團體で互に其の所属犬の指定を主張して譲らず、非常に迷惑を感じるので、これを一團體に統一出來ぬものかと思つてをります。

と、斯う東京日日の北海道樺太版に載つて居ます」

 

札幌・十八公子『犬界の動向・日本犬(昭和13年)』より

 
「非常に迷惑」というコメントからも北海道庁の怒りが伝わってきます。結局、どのように落着したんですかね?
北海道犬の地域性を護ろうとするアイヌ犬保存会。日本犬全体を護るために北海道犬の平準化もめざす日本犬保存会。
両者の主張が相容れる筈もないのですが。
 
日本犬の尾が飛節に達するや否やの問題について、
アイヌ犬の後肢の發達、特に飛節の發達如何に就いての山嶽地、積雪地の自然適應の現象説は、君以外もある様であるが、犬族中最も自然な生活をして居る狼、積雪地の狼と平野の狼、山嶽の狼、例へばアラスカの狼、メキシコの草原狼、アルプス狼等の後肢の飛節は果して異ふや否や。
早い話が北海道狼の剥製は、札幌博物館にあること故研究されては如何。
積雪地、山嶽地の狼が飛節の角度が立つてる等は、私は見たことがも聞いたこともない。
一歩讓つて若し積雪山嶽地の犬の飛節は立つた方がよろしいとの君の説に假に同意するとしても、君自身の書かれた「アイヌ犬よ何處へ行く。山嶽地帶より平面地帶に下ろされた彼等は、常に實社會に役立つ作業犬であらねばならぬ」のアイヌ犬の直面しての問題に就て一考されんことを望む。
日保の審査は局限された、積雪、山嶽地に於けるアイヌ犬としての審査でなく、廣い意味での日本犬、將來の日本犬、と云ふ立場からの審査であり意見であることを了解されたい(齋藤弘)。
 
温厚な斎藤弘がここまで傳法記者を貶めるのは意外ですね。
最初から札幌側を敵対勢力と見做していたかは不明ですが、アイヌ犬保存会と日本犬協会の交流が不愉快だったのは確かでしょう。その点についてもケンカ腰で批判しています。
 
日本犬の尾が飛節に達するや否やの問題に就いて、御自分の勤務してる北海タイムス紙上、肘を飛節と取つ違へて、わざわざ尾を肘にひつぱつて、この通りアイヌ犬は達しない等と圖まで描いて公表される傳法君に、私は別に犬の鑑別について教へを乞ふ等とは考へてもなかつた。
事實を曲げて筋違ひの私を攻撃されるより、アイヌ犬保存會第一の種犬「阿久號」の仔「第二世阿久號」日保籍中二五七が君の手から大阪の諏訪君の手に入り、日保本部展で推奬犬になると間もなく、日保の審査はなつてないと攻撃する日協に買はれて、日本犬の代表として日協長駒井徳三氏が連行。
滿洲皇帝に献上、その後間もなく、日協理事長氏(※高久兵四郎のこと)によつて、アイヌ犬はサモエド犬なりの論が公表されてる事實について、研究されたら如何(齋藤弘)
 
 
帝國ノ犬達-アキタランド

アイヌ犬保存会と共同戦線を張り、日本犬保存会と抗争を繰り広げた猟犬系秋田犬協会の宮本翠夢庵。秋田犬保存協会(大舘の秋田犬保存会とは別に、秋田県全域を対象とした団体)の指導者でもあります。

 
【アキタランドケネルとの抗争】
 
秋田県でも、アイヌ犬保存会と親交のある猟犬系秋田犬協会と日保のハデな罵倒合戦が演じられました。
そもそもの発端は、日保の京野兵右衛門氏有する「東北第一の獸獵犬・親白號」に秋協の大石・宮本両氏が実猟競技を申し込んだことによります。
試合拒否を表明する京野氏に対し、宮本氏は「東北第一と自稱するメイ犬を犬界に持出し、其の實證を求めらえて是に應じ得ざる者がインチキに非ずとして、實證を求むる者がインチキである如き車夫馬丁式の雑言を匿名で登載するのが畜犬正道であるならば、ウエルズの名著『盲人國』にすらもない東洋の奇蹟である」と挑発。
これに日保側が品性を疑うような人格攻撃(あまりに酷いので引用は控えます)でアンサーを返したため、秋協側もヒートアップ。文学部で培った罵詈雑言を齊藤弘へ浴びせかけます。
 
齋藤、京野兩人は、名士を籠絡利用し、あらゆる術策を弄して、犬界中最も新興層に属し、從つて最も批判力に缺如してゐる。日本犬界の純眞なる愛犬家を瞞着することに於ては天才的な手腕を有し乍ら、畜犬的には作出、訓練、鑑識に於ては、日本畜犬界始つて以來の低劣無比なる能力を以て、日本犬界を堕落せしめつつある巨頭である。
競獵の目的は、この厚顔無智なる豪論を吐く彼等兩人を實獵に引ずり出して、彼等の邪悪なる根性骨をたゝき直してやるのが其の含むところの目的であつた筈である。彼等兩人の惡策は到底、過去の日本畜犬界には見るを得ないものであつたために、洋犬界の人々は洞察を缺いてゐる人々も少くない。
畜犬界中最も淺い歴史の日本犬の世界の人々が、洞察し得ざるも無理がない。他の洋犬種の畜犬界の如き平常なる手段を以ては到底、廓清出來ぬ位の百鬼晝行の蒙昧時代は現代日本犬界である。
馬鹿犬と一緒に獵野をブラ付いて『實に名犬で御座る』などと對手を讃むるのが畜犬紳士道であり、インチキ論説宣傳の灯提を持つのが畜犬ジヤーナリズムであるならば、吾人は亦何事をも云はない。含むところあるなしに不拘、競獵をせしめよ。
而して其の結果に嚴正是が日本犬界を眞に是正する人々の態度であらねばならぬ筈である。
 
宮本翠夢庵『競獵に關して日本犬界人に告ぐ(昭和12年)』より
 
宮本翠夢庵の正体は秋田県史蹟名勝天然記念物調査委員・宮本彰一郎その人であります。秋田県庁の後ろ盾があった彼だからこそ、巨大な日保とケンカできたのでしょう。
しかし、一介の秋田犬ブリーダーがアレだけ執念深く日保を攻撃した理由は何だったのか。
山形出身の斎藤氏、秋田出身の京野氏ら日保幹部に対し、同じ東北人としてのライバル意識があったのかも知れません。
教養と狩猟経験を兼ね備えた宮本氏は、日保にとって日協よりタチが悪い相手でした。第三者を意識しながら論戦を挑んでくるので、うかつな返答をすると外野席にジャッジを下されるのですから。
東北で起きた騒動に対し、齊藤弘は東京から下記のように反論しております。
 
「獵犬系秋田犬保存協會大石某の名を以て、日保宛に京野氏の親白號に對して獵仕合を申し込んで來た。先方の立會人は宮本彰一郎。京野氏側は齊藤(※日本犬保存会)で、審査員は高久兵四郎(※日本犬協会)。場所は秋田山中の宮本所有の山小屋」。競技方法かくかくと云ふ仕合状が來た。
期日はなんと、この書簡の着いた翌日、則ち次の日となつて居る。直に、此の仕合状の發送の責任者は何人なるやと問ひ合せを出したら返事もない。
一切かまはんで置いたら「期日に山小屋で待つて居たら來ないから向ふ一ヶ月延す。親白が死んでたら仔の犬でもよろしい」と再度仕合状が來た。世間には「返事はあつたが遂に現れなかつた」と發表。
私の考へるに、仕合と云ふものは、申込者側の立會人と、相手方の立會人と協議の上、期日、場所、方法、審判者を定む可きものでない。第一に審判者と云ふ高久君さへ當日、その山中、いや秋田角館にさへ、行つて居らなかつたではないか。
且又同君が山中を跋渉したり審判したり出來る日とかないか事實を考へて見よ。
然も此の申込みは、宮本君が私乃至京野氏に對して遺恨があるからであると云ふ。
そんならなぜ宮本君本人が直接の仕合者になつて、申込まないのか。遺恨あつて仕合申込む當人が單なる立會人となつて、仕合者には大石某をあてると云ふのは既に卑怯である。
前年東京日日紙の乞ひに應じ、私が京野氏の親白號が東北第一の名犬と推薦したことに對する遺恨であると云ふ。それなら親白存命中になぜ、仕合を申込まなかつたのか。十歳餘で死亡したのを知つて、其の後に申込むは卑怯の第二である。
親白の仔を以て相手とせよと申込んだ處で京野氏は熊獵師ではない。
親白は獵師の元で育つた犬にしろ、京野氏は之を以て日本犬の作出に用ひ、日本犬中型の優良蕃殖のため使用してゐるものであつて、熊獵に使用してゐるものでもない。
若し宮本君が、私又は京野氏に對し遺恨があり、仕合を望むならば本人直接申込まれよ(斎藤弘・昭和12年)。
 
まさに泥仕合ですねえ。
宮本氏は、この年に秋田県庁の要請を受けて「秋田犬保存協会」を設立。大舘を拠点とする「秋田犬保存会」とは別に、県内全域を対象とした保護活動を展開します(昭和28年、秋田犬保存会と秋田犬保存協会は統合)。
日保との戦いを経た宮本氏は昭和15年にも吉村九一氏の非科学的かつ国粋主義的な和犬論をこき下ろし(まあ、洋犬蔑視とインテリへの僻みにまみれた叩かれて当然の内容でしたが)、再び罵倒合戦を繰り広げております。
「(吉村九一)氏の説は全然デタラメである」
「イゝ氣持ちの罵倒をやつてゐるが、その夫子自身、内地で何頭の熊を狩り獲り、何頭の何々系統の日本犬を飼育、作出、訓練、使用したか」
「素人威しのテキヤの如き口を弄してゐるが、凡そ大狩獵家は斯様な放言を爲す筈はない」
「氏は、種々なる日本的なもの、日本刀などを引例してチンピラ日本犬の禮讃に有効に利用してゐる」
「吉村氏は口を極めてシエパードを罵倒してゐる。(中略)氏がイクラ一人でガンバつてもシエパードはそれとしてドシ〃人類に採用發達して行くであろう」
その過程で彼が呈した苦言は、現代にも通じるものがあるでしょう。
……宮本氏自身も同じ穴のムジナだったワケですが。
 
日本和犬界は扇動―センセーシヨナリズムの濫用を以て、畜犬大衆を判斷力の獨立性を失へるモツブと化す事に依りて、或種の目的を果しつつあつた。故に正しい畜犬論の執筆者、掲載誌は陋劣な匿名の投書や、裏面外交運動等に依りて、威嚇壓迫を受けて來た。洋種獵犬界の到底想像も出來ぬ世界だ。
 
宮本翠夢庵『國犬太平記 併而、素人は讀む勿れ(昭和15年)』より
 
狭い日本国内で起きた地域犬界紛争。
「郷土愛の喚起を地域在来犬の保存運動に結び付ける」という文部省の方針は、世界犬界の序列に加わろうとする日保との軋轢を生んでしまいました。
そう。
日本犬保存会によって、「NIPPON INU」の存在は海外でも知られるようになったのです。


(続く)