生年月日 昭和9年生れ

犬種 ワイヤーヘアードフォックステリア

性別 

地域 大阪府→東京府

飼主 佐野甚七氏→初代・水谷八重子氏

 

女優の水谷八重子(初代)が熱心な愛犬家で、日本シェパード倶楽部のマチネーなどに出演していたことは以前から取り上げてきました。

今回は、彼女の愛犬だったワイヤーを御紹介します。

 

チャンキーと戯れる水谷八重子。サインから、義兄の水谷竹紫が昭和9年(亡くなる前年)に撮影した写真だと分かります。
 
水谷八重子さんが、ワイヤーを手に入れたと聞いたので、早速訪問することにする。
電話をかけると「今、非常に忙がしいから、一寸ならお目にかゝる」と云ふ返事。
自動車を飛ばして、紀尾井町の閑靜なお宅を訪れる。
格子のベルがヤケに大きい音を立てる。
「スピード・インタビユウに出ました」
「お待ち致してをりました……」
取次の方に從つて、玄關の一室へ上る。
スピードが頭にあるので、記者、慌てゝ帽子掛けに帽子を掛け損ふ。立派な帽子が落ちたので、蹲踞んで取らうとした拍子に、衝立の蔭にゐる、何やら恐ろしい怪物の鼻と危く衝突する所だった。
如何なる怪物が隠れてゐるのかと目を据えて眺めると、これは高さ四尺に餘る厖大な招き猫。右手を掲げて、トンキヨな顔で記者を、招いてゐた―。
出鼻をクジかれた形で、まづ猫に敬意を表する。
犬の訪問に出掛けて、猫に驚かされのも不思議な因縁だ。
通されたお座敷には、澁い床の間。バラの投げ入れに木彫の置物、あつさりした軸が一本。が、このお座敷の氣分は澁さだけではない。朱塗りの大火鉢、朱塗りの置戸棚、大火鉢を圍んで、緋ドンスの大きな坐蒲團。違ひ棚には豆人形の行列……。これは正に絢爛たる澁さである。
緋の坐蒲團の上に坐はらせられて、置物になつた左様な氣になる。チヨコナンと坐つてゐると襖が靜かに開いて「お待たせ致しました」と八重子さんが、はいつて來る。
可愛いゝワイヤーがチヨコ〃とついて來た。
「あつちへ行つてらつしやい」
「イヤ、愛犬にもお目見得しときたいのです」
「どういふお話で?」
「ワイヤー中心のスピード・インタビユウ……、お忙しいさうで」
「はあ、有難うございます」
「大分犬をお殺りになつたさうですね(※死なせてしまったの意味)」
「えゝ、犬殺しの異名があります」
八重子さん平然たるもの。この質問には大分慣れてゐるらしい。
「綺麗な犬殺しもあつたものですね」
咽喉まで出かかつたが、これは呑込んでしまふ。
「何頭殺りました」
「去年三頭」
物騒なお嬢さんだ、と愛犬の耳がピクリと動く。
「種類は?」
「シエパード」
「懲々しましたか」
「淋しくなりました」
「ワイヤーをお飼ひになつた動機……」
「テンパーが少ないから」
「身許は?」
「大阪の佐野(甚七)さん」
「何歳です?」
「三ヶ月半」
「して犬の名は?」
「チヤンキー」
「由來は?」
「まあ、せわしい。下手な安宅の關……」
「こちらは機關銃のつもり……」
「スローでいきませう……」
明るい微笑が洩れる。
チヤンキーがストーブを嗅ぐので
「コレ、火傷するよ」
やさしくチヤンキーを愛撫して
「チヤンキーは血統書の名ですけど、家ではチイちやんと呼んでゐます。藝は別に仕込みませんが、人間の言葉を覺えて、自然と色々のことをやります。スタンド・アツプだのダウンだの、ノーも分ります。
けれど、ノーは私でなければ駄目。女中や子供ですと、馬鹿にして、云ふ事をきかないのです。憎らしい、なんて云はれます。
前にゐたボストン・テリアはとてもよく言葉が分つて、「おバアちやんは?」と云ふと母を探しに行くし、「煙草」と云ふと煙草を咥へて來て、後からマツチを持つて來たりして―、私のことを「お姉チヤン」と覺えてゐて、「お姉チヤン、起ツき」と云ふと、私を起しに來たりしましたわ。
こんなだから、私、犬が大好きなのです。
芝居から遅く歸つても、犬の顔を見れば元氣になりますし、氣分が惡くても、尾を振つて、やつて來るのを見ると、朗らかになつてしまつて……。そこへ行くと、猫は陰險で、犬の様に明るくないので」
記者、玄關で驚かされた猫のことを思ひ出して
「猫は驚かしますからな」
「何ですの」
八重子さんは、こつちのことなど素より御存じなく
「ワイヤーは骨を丈夫にしなくてはならないので、朝、庭で日向の散歩を少しさせます。骨のビスケツトなどもやつてゐますが……。散歩と云へば、上海のグレー・ハウンドを手に入れた時は大變でした。
えゝ、一昨年のことです。競犬なので、散歩のために自轉車を買う始末で、書生が自轉車に乗つて、犬を駈けさせるんです。外苑まで出掛けて行つて、汗ダクになる騒ぎ。そのうち書生が参つてしまつて、自轉車では迚ても犬の散歩は勤まらないとあつて、自動車に代えて、犬を駈けさせましたが、手數がかゝりましたわ」
「その犬も到頭?」
「失禮な……」と目で云つて
「いゝえ、ヒラリアに罹つて、郊外へ預けましたの。日當りがよくなければならないので―」
「お行儀の方はどうです」
「ちよい〃お座敷へオシツコ―、壁を嚙む様な惡戯もします」
「名犬主義ですか?」
「いゝえ、別に名犬に仕立て上げ様とは思つてゐませんけど。佐野さんのワイヤーは名犬で、チイちやんも名犬になる素質を持つてゐます。
大體チヤンキーはシカゴか何處かの名犬の名で、それにあやかる様につけた名です。去年殺ろしたシエパードの一頭も生きてゐれば、井上正夫先生のフミ子よりも名犬になる筈だつたのですけど、惜しいことをしました。殺ろすと後が淋しいので、もう犬は止めやうかと思つたのですけど、やはり魅力があつて、あと月から飼ふことになりました」
 

帝國ノ犬達-散歩

野球選手とレスキュー犬のコスプレをする井上正夫&井上フミ子(昭和10年、水谷さんと井上さんは一緒に公演していました)。

そこへ來客の訪ふ聲―。
「では、問答もこれまで。有難たうございました。おせわしい思ひをさせて申譯ありません」
「どう致しまして」
八重子さんが立つと、チイちやん心得たもので、先に立つてお座敷から出て行く。
往來へ立ち出ると、灰色の冬空が、一つぱいに擴がつてゐる。花の溫室から荒野へ立つた様な感じだつた―。
 
 
「犬殺しの名人・容易に死なぬワイヤーに轉向・水谷八重子嬢(昭和10年)」より