私は聖戰下の新春に於ける絶好の讀物として、愛犬家の爲めに犬の生活を研究した、實に興味ある翻譯小説を讀者の前に御紹介したいと思ふ。
それは
一、E.T.シートンの「動物記」
二、M.K.ロオリングの「一年仔」
三、S.P.ライトの「橇犬」
の三者である。
私は此處で、科學としての動物生態學とか、動物の生態研究から文學への推移とか、或は又文學的の價値、などゝいふことに就ては、何も意見を述べやうと思はない。
だが、最近著しく動物の生態―殊に犬に關した生態―の研究物が目につくやうになつたことは、吾々にとつては嬉しい氣がする。
嘗て述べたジヤツク・ロンドンの「野生の叫び」や「白牙(ホワイト・ファング)」、キツプリングの「ジヤングル物語」なども當然此處にお仲間入りする性質のものである。

 

重川正敏『翻譯物三篇(昭和15年2月記)』より

 

これを書いた重川さんは昭和18年に台湾方面へ出征。半年後に北朝鮮の羅津へ移動し、元山で終戦の日を迎えました。

それから一週間後、武装解除のためにソ連軍がやって来ます。場違いなダックスフントを連れて。

 

 

留学帰朝者の土産話なら立派かも知れないが、抑留者の話では大したことではないと思ふけれど、座談的に一つ二つを御紹介しよう。

停戦年の八月二十三日八時。元山港の埠頭で朝礼式を終り、煙草をくゆらしながら静かに湾口の方を見て居ると、一隻二隻……、白塗りの小型巡洋艦が続いて全速で岸壁へ乗りこんで来た。

いはずと知れたソ聯の魚雷艇隊で岸壁に横付けするや、間髪を入れず陸戦隊がどんどん上陸をし、右へ左へ配備をして戦闘隊形をとつた。此の日丁度日本向け最終船を出帆さすため、乗客は集合中でもあり相当な混乱を呈した。

私は他の十五、六名の将校と共に巡洋艦に連れこまれて下士官室の中に閉ぢこめられた。

港の責務者であるから早速艦長室に呼ばれ、港内に落された機雷の位置とか危険水域とかを根掘り葉掘り聴かされたのであつた。

通訳なしのへたなロシア語で話をするのであるから仲々の骨折で、此の時は実に冷や汗を流して困つたが、夕方になつて漸く一段落をつけ艦長室から解放せられた。

扉を開けて一歩外へ出ると、出会いがしらに一少佐が目の前に来た。思はず私は軽く頭を下げたのだが、ふと少佐の足許に一匹の犬が居るのに気が附いた。

ブラツクターンのダツクスである。

戦闘を覚悟して来た軍艦上に犬!たつた今迄精神上の苦闘をして来たことも一躍忘れた形で、あの短い脚の日本では稀にしか見られぬ犬を、私は見とれて足が止まつた。

「珍しい、いゝ犬ですね!」という意味で、例の拙な単語羅列のロシア語で「クラシーウイ、サバーカ」と口から出た。

少佐はロシア人特有の無表情な顔付きで「之は何犬だか解りますか」と聞き返へした。

「ダツクスフンドでせう!」

「なんですか」

「ダツクスフンド」

私は繰り返へした。

「いや、之はテツケル種です」と少佐はいう。

「そうです。独逸語では之はテツケル種といつていますが、一般にはダツクスといゝます」

「成る程、貴君は……」と、少佐が云いかけた時「早く来い!」と之は又つつけんどんに歩哨が横口を出した。少佐も口をつぐめば私もハツとして再度軽く頭を下げて敬愛を表し、ダツクスにも別れの一瞥を投げてすごすご歩哨の後に随つた。

之は恐らく独軍の将校が愛玩していたものを捕虜になる際譲り受けたものであろうと、私は想像をめぐらした。それにしても、軍艦の張りつめたあの戦闘態勢の中で、特種の犬が悠々と主人の後に附き従つていたシーンは、いつ迄も私の記憶から消え去ることが無い。

 

重川正敏『ソ連で見た犬の話・一つ二つ(昭和26年)』より

 

【シベリア抑留と犬】

 

日本の降伏により、共通の敵を失った中国やソ連軍が撤収した満州エリアでは国共内戦が再燃。国民党軍や共産軍に接収された日本軍犬たちは、混乱の中で姿を消しました。

彼らがどのような最期を遂げたのかは、誰にも分かりません。中国軍と行動を共にしていた特務機関員が飼い殺し状態で衰弱し切った日本軍犬と遭遇、「せめて同胞の手で」と安楽死措置を施したエピソードなどがポツポツと残されているだけです。

 

過酷な運命を辿ったのは人間も同じでした。ソ連軍に武装解除された57万の日本軍人たちには、シベリアでの強制労働が待っていたのです。

スターリンが日本軍捕虜の強制労働を命じたのは、重川氏がソ連海軍のダックスフントと出会った昭和20年8月23日のことでした。元山からウラジオストク方面へ移送された重川氏らは、同年末にポシェト港の駅を出発。シベリアを通り、ウラル山脈を越えて、遥か遠くタタール自治国へと送り込まれました。

こうして、酷寒と飢餓と重労働の二年間が始まります。

 

其の日私は二千余名の最後尾部隊に居たのであるが、午後の三時頃もう太陽は西に沈みかけて、一入寒さが強くなりかけた頃、百戸許りの一農村部落で十分間の小憩をとつた。どこでも同じやうに、部落の人々は「日本人が来た」と許りに老幼男女を問はず道路の両側に飛び出していろいろの批評をしておる。

一日二日の行軍で早くも要領を会得した若い将校は、休憩の声が掛かるや否や、手つ取り早く背中から大切な服を出したり、毛布を携げて村民とパンとの交換を手まねで交渉するのであつた。

そこへ現はれたのが貧弱なシエパードを連れた捕虜監視のソ軍歩哨である。

到底一人や二人の歩哨では制止が出来ないと見て、いきなり犬に号令を掛けたのである。私には其の号令の意味は全くわからなかつたのであるが、歩哨の動作や、犬の吠えながら向つて行く所を見ると、日本人に近づかうとするロシア人追払いが目的であることが判断せられた。

タイプは貧弱なるに似ず中々元気に飛び廻つて、主人の激励の声がすると、徹底的に家の中へ押しこめる迄追及し、そば杖をくらつた附近の小供はわけ解らずに逃げまどふ等、何の交換品も持たない私には面白ろい場面に感ぜられた。

ほんの十分か十五分の短時間の平凡な場面ではあるが、ソ連兵が犬を使用する、という実際を眼の前で初めて見たことゝて、之も私の印象に刻みつけられたものの一つである(重川氏)

 

捕虜や囚人の監視にあたるソ連軍用犬は、牧羊犬の運用法に近かったような話もあります。日本軍も捕虜護送に軍犬を活用していましたが、両国の運用思想に違いはあったのでしょうか。

 

バイカル湖に近いイルクーツク駅の待機線上の囚人貨車内で三日間を暮した―、その間のことである。

朝は三十分間線路上に出て体操をするだけは許され、鉄格子の扉は開かれるのである。第一日の午後体操を勝手気儘にやつて居ると、百四五十メーター離れておる本屋の方から百人許りの露人の一団がこちらへ向つて来るのに気が附いた。

もう此の頃では「之は囚人の一組だな」位は直感的にわかつた。

前にも後にも自動小銃を持つた兵隊が附いておる。その一団は私共の傍を静かに黙々として通つて行くのであつたが、最後の兵隊の左側には一匹のシエパード犬が連れられておつた。

やがて吾々の所を通り過ぎると、兵隊は犬から紐を脱づした。すると犬は一寸離れた所にある転轍標識に小便をひつかけてから囚人団に追い付き、前へ飛んでゆき或は後ろへ、或は右へと中々に活溌にその周囲を駆けづり廻りながらついて行くのであつた。

私は手を挙げたり足を伸ばしたり形式的に体を動かしてはおるものの、実は眼の玉は犬の方許りに向ておつたのである。

牧羊犬が羊を監視するのと何んの変りもなく、忠実に囚人を護送するやう巧みに訓練せられていると思つた。

五十人の囚人団はあちらこちらに幾組となく移動しておるが、余り離れておる所では犬の姿は明瞭に見ることが出来ない(重川氏)

 

捕虜を監視するのも犬ならば、辛い抑留生活を慰めるのも犬でした。

 

私が収容所におる時、偶然に一頭の野良犬が鉄条網をくゞつて迷いこんで来た。折よく食い残しの黒パンを少し持つていたものだから之を放つてやると、余程飢えていたものとみえて、またゝく間に平げてしまつた。

私も徒然なるまゝに暫く黙つて見ていたが、もう何も貰へんと思つたのか、のろのろ去つてしまうた。

其の後誰が与へることもなく種々な食べ残りをやるので、遂に食糧安全地帯を確保したつもりで皆に馴れてしまつたし、私共も亦馴れて来ればタマには頭の一つでも撫でゝやる位の気晴し気分はあるから、自然に居付いて私共が入浴の為めに四百メーター位離れた浴場に行く際も喜んでついて来、帰る迄チヤンと入口に踞座して待つておる位迄になつた。

面白いことには、外へついて出た時には一向吠えはしないが、一歩収容所におる時妙な風采をした露人が来ると飛び出していつて吠えつくことであつた。

「ロシア生れのロシア犬が捕虜に味方してロシア人に吠えつくとは面白ろいぢやないか」と皆が腹をかゝへて笑つたことである。

此の野良犬に対して誰も名前一つ附けなかつた。只オイオイ位の呼び方で一年許りすんでしまつたが、その内私は他の収容所へ移されたので其の後どうなつたかは知る由もない。

日本の諺に「生みの親より育ての親」ということがあるが、此の犬の心理解剖が出来たら中々興味深いものがあると思はれる(重川氏)

 

昭和18年の台湾出征から7年を経て、重川氏は昭和25年に日本帰国を果します。

当時の日本犬界は、戦災からの復興を遂げつつありました。シェパード界は北海道に残存していた個体群をもとに全国の支部を復活。ダックスフント、ポメラニアン、ブルドッグの輸入もチラホラと再開されます。

勘違いされやすいのですが、昭和20年の敗戦を機に「全く新たな戦後犬界」がスタートした訳ではありません。戦時中に崩壊した戦前犬界が再構築されただけのこと。

戦前・戦中・戦後は地続きなのです。

重川氏も、そんな感慨を抱いていたようですね。

 

此の七年間のことを省みれば、面白いことも苦しいことも腹立たしいことも人一倍に多く、中々談り尽せないが、そんなことは別として、全く七年間犬の世界から隔絶して居たので様子がすつかり変つており、今昔の感にたえず感慨深いものがる。

しかし変つておることを聴いたり見たりしても、所謂今昔の感であつて少しも喜ぶやうな驚きは一つもない。一歩進んだ何物をも見附け出せない。

只部屋の中の造作が少し変つたり、白壁が灰色の壁に塗り変つた程度にしか感受せられないのは一寸寂しい。

私の予期し期待が大きかつたのかも知れないが、そうでなくとも何かもつと犬界から発展向上の刺戟を欲しかつたのであるが、残念ながらそれは得られなかつた。

私は之から犬界在野党の一闘士として更に老骨に鞭打ち研究もし斯界のために努力したいと思つておる。旧知の先輩は元より、新進気鋭の各位の御教導をお願いする(重川氏)

 

ソ連抑留中の死者は34万人以上。共産主義運動への参加と引き換えに早期帰国を許された者、抑留生活が10年間に及んだ者、現地への帰化を選んだ者など、生き延びた者の運命も様々でした。

 

捕虜と共に復員船に乗った犬は、たった一頭のみでした。

日ソの国交が回復した昭和31年12月のこと。長い抑留生活を送っていた日本兵に、待ち望んだダモイの日がやってきました。
彼らは貨物船興安丸で復員する事となり、ナホトカ港へ移送されます。
その中の一人、ハバロフスクの捕虜収容所にいた川口市三郎氏は、現地で拾ったシベリア生まれの雌犬「クマ(当時3歳)」を育てていました。
帰国の日、港までクマを連れてきた川口氏ですが、規則によって犬の乗船は認められません。可哀想ですが、クマはソ連に置き去りにする他ありませんでした。
 

帰国者を収容した興安丸が出港しようとした時、岸壁に残されたクマは後を追って海に飛び込みます。

冷たい冬の海を泳ぐその姿は、船上の人々の心を打ちました。玉置船長は興安丸を停止させ、特別措置としてボートで犬を収容します。
異国日本へ渡ったクマは舞鶴市の長木寅市氏宅に預けられ、昭和32年度の動物愛護週間には忠犬として表彰もされたそうです。
ちょうど戦時中に生れた犬たちが寿命を迎えつつあった時期。日本犬界も次世代へ移行しており、高度成長期へ向かう中で戦時犬界の思い出は忘れ去られていきました。

 

【帰ってきた軍犬たち】

 

敗戦時、戦地から戻れなかった軍犬とは別に、国内に残留していた軍犬もいました。
彼らが幸運であったのかというと、そうではありません。主人である日本軍が消滅してしまった以上、犬を飼育してくれる者はいなくなります。その多くは市場へ放出されたり近隣住民に譲られたりしていますが、殺処分されてしまった軍犬も少なくありませんでした。

シェパード専門家の有坂光威騎兵大尉によると、下記のような混乱状態だったとか。

 

有坂光威

ぼくも、戦後、調べて、ふたをあけてびっくりしたんですよ。日本にいた犬が、ドイツではその前(来日前)に使われていて、現代の主要系統の基幹犬になっているので、びっくりしたんです。ドイツでは戦争になってから、ある軍の関係者の意見具申がいれられて種犬認定に通った犬は、軍用犬として使われないことにされたので、種犬のいいものはみんな残ったとのことです。

日本では、戦争のとき、多少は軍でも考慮したらしいけども、なんかありましたか、そういうことは。

藤島彦夫

軍用雄犬として飼われたんじゃないですか。

有坂

なるほど軍種犬として買い上げられたが、それをあまり利用しなかったんじゃないかしら。再び民間へ返した犬もありますね。

藤島

けっこう役に立ったんじゃないですか。戦争末期に行方不明になった犬もいるでしょうし。

有坂

そうですね。それから戦後も、食糧事情などひどかったから。

藤島

阿部さんみたいに引き取ってきた人もいますね。

※阿部さんの愛犬ボドーについては後述

有坂

なるほど多少は軍雄犬として考慮したけれども、ドイツほどは徹底しなかったというので、良い毛のがあまり生き残らなかったといっても差しつかえないんじゃないでしょうか。

 

「現代のシェパード犬に影響を与えた犬たち(昭和51年)」より

 

優秀な血統の育成所犬(軍用種犬)は救済されたいっぽう、一般の部隊犬や予備犬は悲惨な運命を辿りました。

日本シェパード犬協会(JSV)の中島理事は、当時の状況について怒りを込めた文を記しています。

 

終戦當時その多くの犬は殆どが病死、餓死、撲殺、銃殺、水葬(※ケージごと海に沈めて殺処分したという意味です)されたが、今思い出しても涙と癪の種である。

當時軍のお先棒をかついで虎の威を借りて横暴を極め、終戦當時の醜態を演じ、現在では軍犬報国の看板を今度は警察犬に塗り替えた人々は、大慰霊祭でも行って、犬に詫びることだ(中島基熊)

 

戦時中には陸軍とKVから合併を強要されながら筑波藤麿会長のもと犬籍簿を守り通したJSV。

陸軍の威を借りて各団体を併呑し、敗戦となるや久邇宮朝融王総裁のサポートや社団法人の解散手続きの一切を放棄し、貴重な犬籍簿を廃棄して雲散霧消したKV。

憲兵隊に連行までされた中島理事にとっては、こうでも書かなければ腹の虫がおさまらなかったのでしょう。

戦後のJSVは日本シェパード犬登録協会(JSA)となり、KV出身者も日本警察犬協会(NPD)を設立して再出発をはかりました。

しかし戦時の恨みを忘れていないJSAはNPDとの協同路線を拒否。過去を蒸し返されたNPD側もJSAとの絶縁を宣言、険悪な対立関係に逆戻りしてしまいました。

日本警備犬協会の仲裁で両者が和解したのは昭和32年のこと。

日本シェパード犬界の安定は、自衛隊犬の誕生へとつながってゆくのです。

 

帝國ノ犬達-エノケン

『エノケンのワンワン大將』に出演した榎本健一とボドー・フォン・ハウスクヂャクソウ(昭和15年)。


敗戦により無残な最期を遂げていった日本の軍用犬ですが、ボドー号(『エノケンのワンワン大將』に出演した俳優犬)やアルボ号などの幸運な犬もいました。

敗戦時に国内残留していた軍犬たちは、日本軍解体とともに管理放棄。その多くは譲渡・転売・殺処分という運命を辿り、戦後犬界の復興に寄与することなく姿を消します(米軍上陸に備えて軍犬が集中配備されていた九州にはペット商が押しかけ、犬を買い漁ったという証言も残されています)。

 

霊山犬舎(八王子)生れの軍犬ダギロ。昭和19年秋に旭川第7師団で脱走騒ぎを起こした彼は、幌都軍用犬訓練所(ホロトイガラシ犬舎)の五十嵐信次郎氏へ預けられます。翌年に五十嵐氏から旭川師団へ返納されるも、敗戦によって永山町郵便局長宅へ再譲渡されました。

 

ホクソウ犬舎(千葉)生れの軍犬ベロ。軍用種牡犬として旭川第7師団の管理下へおかれた後、帝国軍用犬協会札幌支部の伊地知季雄幹事長(那智・フォン・ハツネの飼主)へ飼育委託となります。敗戦まで旭川師団へ戻ることなく、戦後は神戸のペット商・日南商会へ譲渡されました。

 

特異なものとして、陸軍第7師団所属だったダギロ・フォン・霊山やベロ・フォン・ホクソウのように「軍部から民間へ飼育委託されている最中に敗戦を迎え、そのまま民間で飼育されるようになったケース」があります。

これは、敗戦の混乱でなし崩し的に実施されたもの。

帰る家がない軍犬と違い、民間人から購買された軍犬たちには元の飼主宅へ戻るチャンスがありました。

購買軍犬制度により犬の所有者は日本軍へ移っていたワケですが、その所有者が消えてしまった以上は奪回に動く飼主もいたのです。

 

一胎仔中の一番ビリッ仔かと見られた牡を育てあげて四年、いよ〃これからというまでに仕上げて、色々計画も出来上つた矢先、我がボドー・クジャクソーは、種牡犬として○部に召され○○○隊に起臥する事となつた。突如夢にもしらぬ事であつただけに、哀別苦難の情は一家あげて堪え難きものがあり、如何にも手放しがたい思いに悩む一方、国家の為とあらば、進んでお役に立てる事は、我々国民としては義務であり権利であり、名誉である。国民としてこれ程の喜ばしきはめつたにない筈である……。
此の点に思いをめぐらせばボドーの使命も達せられる筈で、自ら慰さめる事が出来るというものだ。四年七ヶ月目でボドーの健在が如何と思つて終戦直後の○部に尋ねに行つてみました処が、行方はしれぬとの事であつた。
私は真剣にボドーの健在を四人の家族で祈りました。○部へ出発日より戦争爆撃中でも、ボドーの肖像に妻は一日も忘れずに食事を与え通しましたのですから、私達家族四人でボドーを尋ねるべく○部に度々交渉したあげく、○○部へ上陸していることがわかりました。
時は二十年九月十九日でした。其の晩東北の○部へ行き、ボドーと会いました時は、その姿は見る影もなく、左の眼はつぶれ胴より後方は赤むくれになつてうじ虫は澤山ついている。その地の旅館に引取つて第一風呂に入れ、うじ虫を落し二泊して三日目、九月ニ十二日ボドーの出生阿部家へ帰宅しました。其の節にボドーの姿をみて親子四人で泣き伏しました。
(中略)
その後昨年九月二十三日迄、家族四人で真剣にボドーにつくしました。ボドーも○○部で重傷したものですから、遂に私の膝の上であの世の犬となりました。子孫は残つて居りますから、ウツヅ系のボドー系として日本で有名なる犬を作出する様希望しています。


阿部幸也『私は犬(昭和25年)』より

 

戦後、家族との再会を果たした軍犬。その数は、あまりにも少ないのです。

 

【敗戦国の軍犬慰霊】

 

敗戦から47年後の平成4年。靖国神社と新潟護国神社に軍犬慰霊碑が建立されます。

靖国神社を巡る論争はさて置き、犬の犠牲を悼むならば、慰霊碑の前で静かに手を合わせましょう。

そして戦地へ犬を置き去りにした過去を振り返り、将来の教訓とするためには日本軍犬史を知る必要があるのです。

もしも日本が戦勝国であったならば、靖国軍犬像は軍犬報国に利用されるかもしれません。しかし敗戦国の軍犬慰霊は、悲劇を繰り返さないために存在するのです。

 

靖国神社軍犬慰霊祭風景(2007年3月20日撮影)

 

この陸軍軍用犬史では、当然ながら「陸軍の犬」を取り上げてきました。ただし、「戦争の犠牲となった犬」は陸軍に限りません。

日本海軍、満洲国軍、南満州鉄道株式会社や華北鐵道、満洲国税関、満洲国警察などの警備犬も、日満の国益のため働き、犠牲となりました。日本列島だけではなく、南樺太や朝鮮半島や台湾や満州国から出征した日本軍犬もたくさんいました。

「日本が慰霊する対象は内地から出征した陸軍の犬だけ」などと犬を差別するのならば、我が国の責任として海軍や満州国の犬達を別途慰霊しなければなりません。それをやるとキリがないので、「漠然とした軍犬慰霊のシンボル」たる靖国軍犬像で誤魔化すしかないのです。

犬たちの犠牲を悼み、静かに手を合わせるならばソレで充分なのでしょう。

 

問題は、声高に靖国軍犬像を語る人々までもが「漠然としたイメージ」に終始していることです。

「地域犬界」への視点が欠けているので「日本犬界」を俯瞰できず、「外地犬界」や「満州国犬界」に至っては認識すらできない。軍犬の調達・管理・運用に関する体系的な知識がない。戦前の日本に大量のジャーマン・シェパードが存在した理由や、靖国軍犬像が設立された経緯すら知らない。

戦時犬界について説明できないため、軍犬武勇伝や戦時批判という幼稚な感想文を垂れ流しているワケです。

 

この記事のタイトルを「陸軍軍用犬発達史」としたのは、海軍や満洲国の軍犬史も別途取り上げる必要があったからです。

日本軍犬の美化や批判も結構ですが、まずは対象について知ることから始めましょう。陸軍軍犬史のみならず、海軍軍犬史や外地犬界史や満洲国犬界史にも未知の部分はたくさんあります。

これまで私が書いてきたことも、巨大な近代日本犬界の断片に過ぎません。

 

次回は戦後の軍用犬史。警察予備隊や保安隊や自衛隊の警備犬を取り上げます。

 

(続く)