「まんつ、先生。お出って(おいで)くださいでば。なべさ一つ、イヌの肉にてたがら。」
ある日も、かれは、ごちそうの招待にきてくれました。
「イヌ?イヌの肉ですか?」
「そだす。イヌはしぐさだべす(食物(汁の実)でしょう)。」
「いいや、きみ。イヌを食べるとは、聞いたことがない。イヌは、イヌは人の気持ちをわかってくれる。か、かわいい動物ではないか。」
「まんつ、そんなかたいことはいわねえで……」
「あの、家で飼っていたクロを殺したのかね。あのクロを……」
「そだす(そうです)。こえでいましたったでば……。先生さもあげもうしたいでば」
かれはつぶらなひとみをしばたたきました。わたしは胸がつまりました。なんということでしょうか。
毎日、炭がまへ、あとになり先になりしてついていった飼い犬をにてしまうとは……。
しかし、まもなくわたしは、イヌを食べることはホロベではふつうであることを知りました。どの子も、女の子さえ、イヌを食べることを、なんでわたしがかなしがるのかわからないらしいのです。
〈イヌやネコは、人間の食物ではない。〉
わたしは、教室の黒板のはしに大きく書いておきました。

 

遠藤公男『原生林のコウモリ(昭和48年版)』より

 
上記は、遠藤先生が昭和30年に赴任先で体験したお話。
経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたのは翌31年のことですね。食糧難に苦しむ戦後復興が終った頃も、犬肉食の習慣は一部の地域で残っていました。
それも、高度経済成長期で完全に廃れます。狂犬病の根絶・テレビの普及などで「犬=ペット」のイメージが再び定着したことも一因でしょう。

近代日本において、犬肉は最初から最後まで日陰の存在でした。
野犬駆除という「犬肉生産手段」はあったものの、衛生面から見ても法律面から見ても、野犬肉は公に販売すべき食品ではありません。そもそも、我が国では「公的機関の許可を受けた食用犬の養殖場や犬肉流通ルート」すらなかったのです。
市場に量産供給される家畜肉ではなく、個人レベルで嗜好するジビエ(狩猟肉)かゲテ物あつかい。
戦前の警察は、狂犬病感染の可能性がある犬肉流通を非常に警戒していました。
 

そして時代は流れ、現代日本で犬を食べる必要性はなくなります。守るべき和食文化でもなく、食文化の多様性という問題ですらありません。日本人は犬を食べることを止めたのです。

「海外旅行で犬肉料理を食べてきた!」などと自慢げに語る人がいたら、へえすごいですねえとかテキトーに誉めておきましょう。おだてれば、次は宴会芸でダンゴムシとかを喰ってくれるかもしれませんよ。
結局、そいつの小さな武勇伝のためにイヌ一頭が犠牲になっただけの話です。

犬
犬が代用食という意味ではありませんよ(昭和15年のヒトコマ漫画より)

日本国内でウシやブタやウマやクジラを食べても「あっそう」で済んで、イヌやネコを食べたら眉をしかめられる違いは、実にアヤフヤな基準なのでしょう。
海外の獣肉に目を向けますと、イヌやネコを食用とする文化があって、ウシやブタを食べてはいけない宗教もあれば、牛はいいけどクジラは食べるなという価値観もあります。
中国の知人は和牛を食べに(かの国では防疫上の理由で禁輸品なのだとか)来日する程の肉好きですが、歓迎ついでに馬刺しを御馳走したら「日本人はウマ食べるの?ナマで?」と驚いていました。寺山修司か。

日本だけでも北海道のジンギスカン料理から沖縄のヒージャー汁まで、多様な食肉文化があります。

その評価とは、地域性や各家庭の味や個人の好き嫌いまで含めると、複雑かつ面倒極まりないモノなのです。

 
まあ、その手の贅沢を云えるのは、飽食の時代だからこそ。食糧が不足していた戦争末期や敗戦直後は配給だけでは生きていけず、闇市の食糧や野草まで口にしていたそうです。

「夕食を抜いてダイエット」程度の空腹ならともかく、慢性的な飢餓状態に陥った場合、食慾という本能はコントロールできません。胃袋と理性は別系統で稼働していることを、イヤという程思い知らされます(貧乏学生時代の体験談)。

そのような状況下、得体のしれない肉を入手できたら、出処など考えずとにかく食べるのが先でした。
食糧難に追い込まれた、戦争下の日本で何が起きたのか。その辺の記録をどうぞ。
※前置きを長くしたので、苦手な人はここで引き返してね。

【犬肉食の日本史】

前回までは犬皮リサイクルの話をしてきましたが、駆除された野犬は他にもイロイロと利用されていました。
誰も語りたがらないのが、戦時食糧難における犬肉食。
いきなり非常時の話をしてもピンとこないでしょう。予備知識として、日本の犬肉食史からカンタンに説明しておきますね。

大昔より、日本人は犬を食べてきました。薩摩の犬料理「えのころ飯」は有名ですし、江戸の料理本には犬肉の調理法も掲載されています。
「あれは一部地域の食習慣」「日本人はそんなことしない」などと現実逃避する向きもありますが、実際は江戸町民を含めて全国各地で食していました。「貧困層の話だろ」と現実逃避する向きもありますが、武家でも食用や鷹の餌として犬肉を消費していました。

猟犬や橇犬を大切にしていた蝦夷や樺太の民族も、その遺骸は毛皮や食肉として利用したのです。
西洋文化が流入した明治時代になっても同じこと。
食肉文化史や皮革史や狂犬病史や報道記録などを繙くと、近代日本の犬肉食に関するさまざまな事例が見つかります。

平時に見られる犬肉食
・滋養強壮の薬喰い(土用のウナギみたいな感じ)
・犬肉食文化をもつ在留外国人の食材
・極貧層や僻地の蛋白源
・怪我や老衰で用廃になった猟犬の処分方法
・若気の至り(バンカラ気取りの学生・書生のゲテモノ喰い自慢とか)
・詐欺行為(犬猫の肉で増量した偽装牛肉)

非常時に見られる犬肉食
・異常気象などを原因とする食糧難によるもの
・戦時および戦後の食糧難によるもの
・猟師が雪中遭難した際の非常食(猟犬)

我が国の食肉史は、日本人のメンツがどうたらとかいうハナシではなく(その手の感情論が歴史歪曲の原因なのですが)、そういう食習慣があったことを前提に上記のアレコレを論じるのが基本です。
犬肉食の記録を調べたところで「どうにもこうにも犬や猫を喰いたくてたまらない!」というケースは稀なんですけどね。「滋養強壮のため」とか「食料不足で仕方なく口にした」とか「毛皮を剥いだ後の駆除野犬の処理に困って」とか、そちらの方が中心でした。
仏教的な殺生観が薄まり、肉食が普及した明治時代には畜産界が成長。牛肉、豚肉、鶏肉などが大規模流通するようになります。日本人にとって執着するほどの食材でなかった犬肉は、誰からも惜しまれることなくサッサと廃れました。
だから、古来の犬肉食に宗教観や近代化がどう影響して現状へ至ったのか、その程度の理解で十分なのです。

帝國ノ犬達-頭書増補訓蒙圖彙大成
江戸時代の『頭書増補訓蒙圖彙大成』で描かれた唐犬・ムク犬・和犬。

外国の犬がペットとして珍重されたのに対し、和犬の解説は食用獣としての薬効が強調されています。

縄文時代、犬は猟の友として大切に飼われていました。
既に農耕は始まっていたものの、狩猟採集生活では猟犬に頼る部分も大きかったのでしょう。縄文遺跡からは、重度の骨折の治癒跡(重傷を負った猟犬も飼育放棄されなかった証拠)があったり、人間の墓域へ丁寧に葬られた犬の骨が発掘されています。
日本における犬肉食は、稲作が拡大した弥生時代から顕著化しました。
収穫量が多く保存がきいて栄養価も高いコメを得たことで、犬は「狩猟のパートナー」から「晩ゴハンのオカズ」へ格下げ。弥生遺跡からは、肉や皮を切り離した解体跡が刻まれ、バラバラの状態で貝塚(ゴミ捨て場)へ廃棄された犬骨が発掘されるようになります。

同じ時代、樺太から北海道へ南下したオホーツク文化圏の犬たちも食用でした。北海道沿岸部から出土する犬骨はいずれも若く、バラバラに解体されたものばかり。寿命を全うする前に食べられていたのです。

オホーツク文化時代の終焉と共に蝦夷地の北方犬も姿を消しますが、サハリン方面の犬肉食文化は近代まで継続されました。

 

古墳時代以降の犬は、猟犬や屯倉(みやけ)の番犬といった使役犬と、在野の犬へと区分されていきました。

大切に飼われた権力者の犬と違い、在野の犬は人の亡骸を食い荒らし、いっぽうで人間の食糧や皮革資源として利用されます。

仏教の渡来や支配層の指導により犬肉食が禁止された記録もありますが、逆を云えばそれ以外の時は普通に食べていた訳ですね。犬という動物は、鹿や猪のように野山で追いかけ回す苦労もなく、人里で容易に入手できる食用獣でした。

食料の安定供給や冷凍保存など望むべくも無かった時代。

繰返される戦乱・疫病・飢饉のたび、人々は日々の糧として犬も食べたのです。

 

戦乱の世が終っても、日本人と犬との関係はあまり変わりませんでした。

江戸時代の図譜を見ても、特権階級のペットとして珍重されたのは唐犬・南蛮犬・狆ばかり。和犬に関しては、食用・薬喰いとしての効能だけが解説されています。
身分に関係なく犬を食べていた江戸っ子ですが、その習慣は次第に廃れました。江戸後期には「飢饉の際に犬を食うことを知らない人が多くなった」という状況となります。

このような「江戸の歴史」は関東の地域史に過ぎないので、「上方の歴史」へ目を向けてみましょう。
関東地方と違って関西地方には愛犬家が多く、一般庶民も犬を飼育していました。確認できるだけで、庶民向けのペット飼育マニュアルが2種類も発刊されています。

しかし三味線ブームが訪れた江戸時代後期は状況が一変、大坂では犬泥棒が跋扈するようになりました。

 

帝國ノ犬達-狗賊

大阪の絵師、暁鐘成が描いた「犬拾い」の姿(嘉永7年)。犬を虎に変えるなど、中国風にアレンジしてあります。

「犬拾い」が「狗賊」へ変化した時期、鐘成さんは大坂の愛犬家へ下記のような警告を発しました。

 

都(すべ)て主なき犬ハ、終夜路頭に臥すゆゑ、夜気風寒に冒され、時候の外邪に感じ、病を発することあり。
且狗賊の為に悉く害せらるれバ、若主なくして臥所定めぬ狗あらバ、慈悲を加へて夜は晩刻より内に入れて、庭の隅にも臥しめ、朝ハ心をつけて遅く出して、狗賊の難を救ふべし(暁鐘成『犬の草紙』より)

 

この絵を描いた暁鐘成は、もともと犬の死骸だけを回収していた「犬拾い」が、数十年後には手当たり次第に生きた犬を狩る「狗賊」へと変貌していった様を記しています。その原因が三味線ブームにあったとしても、地域による野犬駆除の変遷は興味深いですね。
狩られた犬の皮は三味線や太鼓に、脂肪は蝋燭に、肉は山鯨なんかと一緒にももんじ屋にでも並んだのでしょうか。

……ももんじ屋って関西にもあったの?

【近代日本における犬肉食】

続いて開国後、近代の犬肉食について解説しておきましょう。
牛鍋が流行し、飢饉対策に養豚が奨励され、畜産業が振興し、ビフテキやカツレツが洋食屋のメニューに載る明治時代になっても、世間の隅では犬肉食が続けられました。
近現代においても「飽食の時代」なんて高度経済成長期以降の話ですし、広域・高速の物流・冷蔵システムも発展途上の時代。明治時代にコンビニや電子レンジが存在する筈もなく、食料の生産や加工や流通や販売や調理も重労働でした。

山間部の暮らしは依然として自給自足でしたし、荒天続きで出漁できない漁村や凶作で困窮した農村が深刻な食糧難に陥るケースもあったのです。
その状況下、近所をうろついているイヌを「愛玩動物」とみなすか「食肉獣」とみなすかは、人それぞれであったのでしょう。

近代日本の犬肉食については、興味深い記録が幾つも残されています。明治時代に新聞紙面を賑わしたのが、偽装牛肉事件。
牛肉に馬・犬・猫の肉を「増量剤」として混ぜ込む偽装牛肉事件は、当時から問題化していました。
文明開化で牛鍋が流行したものの、当時の日本に居たのは農耕牛ばかり。農家側は家族同然の牛が喰われるのを全力で拒否しましたから、業者は「牛の養老院をつくるのだ」と騙して食用牛を買い集めては都市部へ送り出していました。
しかし、それだけではとても足りません。肉牛の蕃殖・供給システムが整うまで、「増量剤」を加えた牛肉で不足分を補う悪徳業者が跳梁していたのです。
混入されていたのは、一般的な食用と見做されていなかった馬や犬の肉でした。

 

若し屠場の廃肉を得ざれば、犬馬の肉を混ずる者ありと云ふ。余、餓鬼と雖も、看す〃その毒を喰ふに忍びず。もし誤つて犬肉を喰はゞ、即ち(文明)開化も忽ち野蛮と變じ、恐らくは文明の人を咬まん。

 

服部撫松『東京新繁昌記(明治7年)』より

 
明治中期からは警察側も食肉の抜き打ち検査を実施し、犬肉を混ぜていた悪徳業者が次々と摘発されました。しかし、当局の眼を潜って偽装牛肉の流通は続きます。
明治~大正にかけて「犬釣り」「猫釣り」と呼ばれたペットの大量盗難事件もたびたび発生していますので、それら犬皮と犬肉の裏流通ルートも維持されていたのでしょう。
わざわざ「三味線皮の供給ルートは?」と問う人もいなかった時代です。
大正時代の取材レポートによると、犬泥棒と猫泥棒は兼業していたものの、それぞれ盗難・解体ルートが別だったとのこと。盗んだ犬は自宅まで連れ帰って撲殺・解体し、毛皮と肉を売却していました。
肉量が少ない猫は公衆トイレ内で毛皮を剥いだあと便槽へ廃棄していましたが(ペット泥棒は公衆トイレの個室を「手術室」と呼んでいました)、犬は肉まで利用できたのです。
警察による食肉業者への規制が厳しくなると、犬肉の卸し先は屋台へと移行。得体のしれない安物肉が、世間で普及し始めた焼き鳥へ混入されるようになりました。
この悪習は明治、大正、昭和にかけて継続されます。
 
所謂新平民の徒は多く雪駄及靴の修繕等を生業とする者なるが、各地を徘徊して良家の畜犬を毒殺し去るもの鮮(すく)なからず、客冬以來市中の愛犬及び獵犬の此の奇禍に斃れたるもの數十頭に達し、其他一般畜犬の撲殺又は毒殺に遭ひしもの頗る多く、二三の加害者は其筋の檢擧に依り處罰されたるも、數片の肉片又は一塊の毒剤を投じて斃し得る犬族の肉は總て不正奸商の手に依り牛肉と混じて販賣せられ、皮革は種々の用に供せられて少なからざる利得あれば彼の新平民流に在りては容易に濫殺を止めず、滔々として法網を潜りつゝあるため、愛犬家の危惧最も太甚しとす。
 
津田萬里『岐阜雑信(明治32年)』より
 

犬殺しの目には犬種の良不良は問はぬので、眼中只大小あるのみ。五圓位の首輪が附いて居ても、皆便所か川へ捨てゝ仕舞ふ。

夫れは賣ると足が附くからである。だから三百圓もする洋犬を皮にして、二、三圓で賣ると云ふ有様である。

併し近頃の犬殺しの中には皮にしないで生きたまゝ賣るものもある。之れは非常に危險だが儲が多いので、此の冒險を敢て爲して居るのもある。

皮に就ては前に述べた通り三味線屋に行くのであるが、然らばどの位の値段で賣られるかと云ふに、本職が問屋に持ち込むには猫では皮を剥いで行けば八十錢、丸では五十五錢、犬は大小の差が餘程違ふので從つて値段も異つてゐる。平均五六十錢より九十五錢位まで、もぐりが本職に渡すのは二割引位で取引きをする。

猫の皮はさかりがつくと安くなる。それは爪の痕があるので延してると其處から裂ける爲めである。又犬猫の皮は生の四倍位に擴がるので、猫では一匹で三味線の裏表になり、犬では二梃張る事が出來る。犬の皮の惡いのは麻裏屋に廻すさうである。

肉の始末に就ては猫は量が少ないし、又食へたものでないから大抵捨てゝ仕舞ふが、犬の肉はなか〃捨てた物でない好い味を持つてゐる。犬殺しの中には常食にして居る者もあるが、大抵は皆焼き鳥屋と牛飯屋の方へ賣られる。相場は一匹の肉が三十錢内外である。

 

川浪幸一『犬と犬殺し 珍敷い秘密を探つて(大正4年)』より

 

『どうも犬が盗まれて困る』と愛犬家達から警視廳へ毎日の様に投書が頻繁と來るので、警視廳では捨て置けず、犬醫課(※狂犬病対策チーム)と遺失物係で協力して内偵してゐた處、犬屋が怪しいと云ふ見込が立つたので、管内の犬屋を徹底的に調べた結果、中村某外一味七名を檢擧した。

中村は主犯で惡い犬屋と組んで犬狩人夫を使ひ一匹三十錢で取引。これを一貫目二、三圓で肉屋に賣り付け、犬の骨や性器は黑焼にして淋病の藥だとかそれを飲むとホレられるとか稱して高價に賣りつけてゐたものである。

昨年中は三百十二頭を盗んで賣り、今年は既に三百頭も盗んでゐた事を自白したが、犬の無届け賣買交換違反、斃獸取扱營業違反並に詐欺として送局することになつた。

 

犬界往來『盗んだ犬を肉屋へ(昭和11年)』より

 

当時の犬肉は悪徳業者の詐欺行為に用いられ、人々は牛鍋や焼き鳥だと騙されて犬を食っていたワケです。

大っぴらな犬肉食が消えた後もゲテモノ話には一定の需要があったらしく、地方在住者や大陸への渡航者などからは、食用犬が殺処分・解体され、食卓へあがるまでを記した見聞録が興味本位で伝えられていました。

夜中になると得体の知れない「けい肉」を売り歩く者も各地に出没しており、「あれは鶏肉(けいにく)なのか犬肉(けんにく)なのか」と都市伝説のように噂されたこともあります。

こっそり犬が食われているという事は、公然の秘密だったのでしょう。

 

茶「あたいの國に行くと犬の肉を賣つて歩いてよ」
真「へえ、まさか犬の肉は要りませんかと触れて歩くわけにも行かないだらうが、どう言ふんだい」
茶「けんにく、けんにくと触れて歩くのよ。そしたら東京から來たお役人が鶏肉と聞き違えて買つたんだつて」
真「それで、そのお役人食べたのかい」
茶「えゝ、こんなに安くておいしい鶏は初めてだと云つたんですつて」
真「そりやあ大出來だね。僕の國では毛色で味がわかると云ふよ」
茶「え、どう云ふの」
真「一白、二赤、三黒、四胡麻、極の結まりは斑でも良いとちやんと順序があるんだよ」
茶「あゝらいやだ、それでわかつたわよ。保存會の標準委員はみんな犬肉常食者ね」
真「そんな馬鹿なことがあるもんか」
茶「だつて日本犬標準の毛色の處を見て御覧なさいよ。斑は減點……」

 

比陀利真紀雄・波奈黒茶目子『新作萬歳けんにくの味(昭和11年)』より

 

明治中期までに畜産と物流の発展で食肉生産システムが確立すると、犬肉食への忌避はますます強まっていきます。日露戦争以降、仏教的殺生観からの脱却と西洋的なペット観が浸透しつつあったのも一因でしょう。

愛玩犬の普及と行政の畜犬登録制度は、「飼育登録された畜犬」と「飼主をもたない野犬」という区分を明確化しました。

しかし畜犬取締規則には繋留飼育義務が無かったため、捨て犬や放し飼いの横行により野犬の数は激増。警察は野犬駆除に着手し(戦後は狂犬病予防法により保健所へ業務移管)、その遺骸は皮革や肥料の原料としてリサイクルされるようになります。

野犬対策の中には、治安当局の逆鱗に触れるような迷案も現れました。

 

赤字つゞきの東京市では、經費節約に苦慮の末、この程目をつけたのが、上野動物園の猛獸類の食餌である。生きた兎などを喰べるとは贅澤(?)な沙汰、いつそ此際、兎を野犬に替えたら安上がりだらう、どうせ野犬ならどの道殺される運命にあるのだから、と天晴れ名案を得て、話を化製所(家畜の遺骸処理施設)へ持ち込んだ。

化製所は警視廳監督下にあるので、同所の主人公、警視廳へお伺ひを立てると、それは絶對罷りならぬ、犬肉を食用に供することは今日まで許してをらぬ。

犬にはヒラリアもゐれば、恐るべき狂犬病もあり、萬一ライオンや虎が狂犬病にでもなつたら、それこそどんなことになるか、當局としては許すこと相成らん、といふキツイ返事で、折角の名案もポツキリ腰が折れてしまつた。

 

葛精一『名案お流れ(昭和11年)』より

 

狂犬病対策に奔走する警察側としては、不衛生な野犬肉の横流しなど言語道断。まさに藪蛇で、畜犬業界も取締り対象となってしまいました。

 

警視廳でこの程畜犬業者及び訓練所を一斉調査の結果、商犬業者綜數二百七十二軒、訓練所綜數三十六軒、犬の頭數にして二千二百三十六頭を算えたが、これ等の中無届の者が三軒、犬肉を賣つた者五名、犬舎の不潔が三十五名、設備不完全で逸走の虞れあるもの十一軒、汚物が汚物溜めから溢れてゐたもの八軒、取扱ひ名簿に記載のないものが實に八十一軒の多數に上つた。

 

『東京府下の業者數(昭和11年)』より

 

捜査の結果、まさかの犬肉生産・販売ルート発覚ですよ。しかもペット業界の一部がグルとなってのやりたい放題。

犬界の健全化が進んだのは、当局の取締りや畜犬団体・動物愛護団体の監視という圧力があったからです。

このような違法行為だけではなく、食習慣としての犬肉食も根強く残っていました。
 
過去に於ける日本犬熱、といつても日本犬の多い地方では普通の犬熱に過ぎないけれど、それでも随分消長と變化のあつたことは、當然だとして、私の祖父の話では郷里について云ふならば、(日本犬は)明治廿二、三年頃に非常に多く、里猪の別名を付けられて犬の肉を賣り歩く〇〇夫が群をなしてゐたといふ。

尤も私達小學校時分にも、二、三人さうした肉賣があつて、私も父母に内密にしてあつたが、友人のうちで、一箸ぐらゐつゝかせられた記憶がある。
明治三十年前後には日清戰爭の關係から、また盛になり、明治卅八年には私は小學校に這入つた頃で、それから後の土地の犬の消長は大概記憶してゐるつもりだ。日露戰爭の戰勝氣分と犬が結びついて、實に發展したことは確かである。
あまり犬が仔を産むので、牝犬は誰にも嫌はれ、仔の貰手がないので、産まれると米俵へつめて、夜になつてから、川へ放り込みに出掛ける人達がざらにあつたものである。

 

日本犬作出研究會 高橋誠一郎『日本犬作出の心得(昭和9年12月7日)』より

 

今日でも田舎へ行けばかなり犬を食べる様であるけれど、此頃では日本犬流行の御蔭で犬は賣つて金にして、牛肉を買ふ様になり、山の人ならぬ都會人迄犬の御蔭を被むつている。幸か不幸か、私はまだ犬の肉を食べた事は無いが、別に食べたいとも思はない。

 

小松眞一『犬を食べる(昭和11年)』より


このような犯罪行為や食習慣の外、「若気の至り」による犬肉食も存在しました。

バンカラ気取りの学生による、悪質なイタズラとしての事例をどうぞ。日本にクロール泳法が導入された時代、水泳選手たちの合宿場でのお話です。
 
「私も其水泳に關係して居つたので、幹部として働いて居たんぢや。其準備中の話ぢや。
若い者大勢が合宿して一生懸命事務に忙殺されて居る時に、當時(※大正10年)札幌農大の林といふのが、私に、あんた犬が好きださうだが一匹やり度いといふ人があるんだが、貰つてやつてくれぬか、といふんぢや。
どんな犬かといふと、大變可愛いゝ犬で、或別荘のお嬢さんの愛犬だが、兄嫁さんが犬が嫌いなので、お嬢さんは布團の中に迄入れて寝るといふ可愛がり方、又それが、兄嫁さんにとつては益々嫌な事で、何とかお嬢さんの留守中に人にやつて了ひ度い、さういふ惡い心をもつてゐるとは神ならぬ身の知るよしもなきお嬢さんは、明日から四五日不在になる。
其の留守中に兄嫁さんは早く其犬をやつて了ひ度いといふのぢや。そこで兄嫁さんが林君に依頼したものぢや。
林君は林君で胸に一物あるんぢや。宜しいとばかり引受けて、私に其犬の貰ひ手になつてくれと云ふのぢや。さて其後合宿の一同に、明日は牛肉を御馳走するから晩御飯はその積りでゐてくれ、と前ぶれしておいたから、一同喜ぶまいとか大喜び。翌朝腹を更めて袴をつけ、如何にも用事あるものゝ如く合宿を出たものぢや。そして其の犬の貰い人になつて行つたんぢや。
犬といふものはよく知つてゐるもので、早や己が身に危險が迫つてゐると感じてか、床の下に潜り込んで出て來ない。
漸くにして捕へた。必ず大事にして育てますとか云つて、其の犬を連れて人氣の少ない海岸に出た」
「その犬の種類は何です?」
「なーに、テリヤと狆の雑種さ。そして林君曰く、此の犬を殺して肉をとり、それを合宿に届けて皆んなに食べさしてやらう。
そこで可愛相に此の狆テリヤはとう〃皮を剥がれ、手足を別々にされて、豫め準備された刃物できれいに料理されて、竹の皮に幾並べかに並べられた。竹の皮は大きいのが三枚程で足りたが、兎に角澤山の肉がとれたんぢや」
「罪な事をしたものですね。そして其肉を持つて歸つたんですか」
「いや持つて歸れば私達も食べなければならん。とても食べられるものではない。そこで此肉を紙に包んで或料理屋の女中に合宿へ届けさせたんぢや」
「随分いたづらも烈しいですね。それで合宿の人達は知らずに食べたんですか」
「そこで私達は夕方迄時を過して夕食の済んだ頃を見計ひ、事實食べたかどうかを知りたくて、合宿へ歸つて行つた。歸ると一同飛んで出て、やあ御馳走さんでした、やけに固かつたが美味かつたですよ、有難う〃と禮を云はれたんで、してやつたり腹の中では北叟笑んでゐたが、あまりいゝ氣持ちしない。
其の内誰やらが貴方達の爲に少しばかり殘してありますからどうぞ食べて下さいと出されたのには困つたね。二人顔を見合せてムーンとばかり唸つて了つたよ。然しそこはうまく云ひ逃れをして食べずに済んだが、さあ其後が心配で、あんなものを選手一同に食べさせて腹でも惡くしないか、競泳は二三日の後だし、心配したのしないのつてなかつたよ。
然しまあ腹を惡くした人もなかつたとみて苦情云ふ人もなく、競泳は無事に終つた」
 
犬犬房主人『犬野腕八撫切帖(昭和9年)』より
 
何というか、義姉さん含めて犯行側がクズ野郎ばっかりですね。犬を食わされた側と食わせた側の仲が悪かったワケではなく、水泳選手とスタッフという学生同士の関係。ただ純粋に「イタズラで楽しもう」というのが犬を殺した理由でした。
後で犬肉だったとバラされた学生たちの反応がこちら。
 
此の事件には之だけでなく後日談があるのぢや。慰安會を松月といふ旅館の二階の大廣間で盛大に行れた。會する者約五拾名程で、飲む程に珍藝百出、抱腹絶倒の最中、私はやおら立上つて、さて諸君、先日諸君に食べて頂きまして大變御禮を申された牛肉は、あれは牛肉に非ずして犬である。然も林君との手料理である。どうも諸君から余り禮を云れたので心苦しく丁度よい折であるから此席で懺悔をする、と述べると、今迄の亂痴氣騒ぎは何處へやら、中にはそれは嘘だ、あゝ云つて氣持惡がらせるんだと云ふ者もある。
中にはもう氣持ち惡くなつて箸が手につかぬ者もある。いやどうも大變な騒ぎになつて了つた。
面白いの面白くないのつて、あんな面白かつた事はなかつたよ。日頃豪傑ぶつてゐた奴が急に元氣がなくなつて、腹を押へて閉口たれる者が出來ると云ふ始末。全く愉快じやつた。
後に聞いた話ぢやが、わざ〃殺した現場を調べに行つた者さへあつたさうぢや。
今日の水泳の隆盛になる礎石となつた過去には、犬と關聯してこんな面白いエピソードがあるんぢや。誰も知つてゐるものはあるまい(〃)
 
面白くも何ともないですが、当時のバンカラ学生気質とはこんなものだったんですかね。 「粗にして野だが卑ではない」という明治のバンカラは、大正時代になると「ただの単なる粗暴」へと変質していたのでしょう。
※ちなみにバンカラとはハイカラの対義語です。
 
 
愛犬家自身による犬肉食の記録は、当然ながら殆んどありません。希少な事例として、実際に犬肉食の文化で育った犬界関係者の証言を取り上げましょう。
猟犬系秋田犬協会(秋田犬保存会や秋田犬保存協会とは別団体)を率いた秋田犬ブリーダーの宮本翠夢庵は、若かりし頃をこのように回顧しています。
 
古來秋田山村は、食犬の盛な處であつた。これは、犬の毛皮は防寒用として有用であつたこと。犬の肉と云ふものは非常な體温を保つに効果のあること。現に冬期、寝小便癖の子供に、犬の肉を食すときはピツタリと止る。冷性の婦人、子供、營養不良者に効果あることは非常なもので、猿、穴熊と比敵するものである。

亦犬種中、其の肉の美味なることは日本犬は總らく他犬種に劣らない。斯く云へば、私は非常な野蛮な犬飼ひであり、和犬の美味などはグロな自慢であると思はるゝかもしれない。が、私は下手に上品振る前に、現實のことを其儘記して諸君の御研究に資し度い。一言附記したいことは十五六年前の少年時代は、私も喜んで和犬肉の美味を賞玩したものである。
然し、獵道に入り、犬を飼つて以來は、犬肉は喰ふ氣分となり得ない。
本誌の拙文「或る山村の獵師の日記」中の食肉の風は、あの如く、山村人は、食犬を少しも恥ぢとも、惡とも考てゐない徒輩が多い。人生の「善惡」の標準や、恥や誇りは、要するに「必要」と「習慣」によつて時々變るものであるまいか。
鐵道支線のマツチ箱を降りて、山中十里二十里の嶮路。冬期中はこの鐵道さへ立往生し、電話線は切斷され、連日の吹雪は隣村への交通をさへ十日も二十日も絶つことさへある。
獵果以外の肉食と云へば、犬肉の外ないこと當然であろう。虎は死して皮を止むと古人は云つてゐる。
然るに、主家を守り、外敵を防ぐの外、死して肉を提供し、毛皮に人を温むる、と云ふ犬は實に吾人の祖先にとつて大切なものであつたろう。さすが獵師は犬肉を喰ふ者はゐない(昔も獵師は一般に食はないのが習慣であつた)。然し、大山嶽の羚羊狩に登山して、十餘日の大吹雪に閉ざされて、食料に窮して犬を食つた昔譚はあつた。犬の肉の味は「一シロ」「ニアカ」「三クロ」「四ブチ」と稱して、白犬の肉は最も美味と稱してゐた。

 

秋田縣天然記念物調査委員 宮本翠夢庵『獵犬系秋田犬(昭和7年)』より
 
近代日本で犬肉食が続いた理由には、味がどうこうより地理・気候件や経済・食料事情などが関係していた様ですね。

昭和15年、ハンターの吉村九一氏と宮本翠夢庵氏が和犬のスタンダードを巡って論争した際、その幼稚かつ非科学的な自説をケチョンケチョンに貶された名猟師(自称)の吉村さんは激怒。

この一文をネタに「宮本氏の本業は犬屋と犬殺しである」「同氏は一見して其飼犬たるエスキモー犬に似て居ない犬は即時撲殺してしまい、其皮を剥いで庭内へ山と積まれて居る。また肉は食つてしまふのである。同氏の郷里の人に同氏の評判を聞いて見るに、同氏は氣が少し變な人として、郷里の人からは對手にされないさうである。事實愛犬家と自稱しながら、犬殺しをやつて居る者は他郷では聞いた事が無い」と人格攻撃に走っています。

犬肉食が悪口になる位は嫌悪されていたんですねえ。

 

しかし日本犬保存会との抗争を経験してきた宮本氏にとって、吉村氏の誹謗中傷など可愛いもの。「同君の私への攻撃に到つては、庭に犬の皮の山積(あらゆる毛皮は最も濕氣を嫌ふもので、東北の秋の多濕に毛皮を積む馬鹿ありや)、犬の皮二十圓也で宮本は儲けてゐる(現在、マミの毛皮が二圓だ。どうして犬の皮が二十圓する筈があるか。毛皮の價のバランスも知らぬ獵師ありや)」「君の論を綜合的に批判するならば、所謂原始人のトーテム崇拝の心理だ」「ヘボ猟師め(意訳)」などとアンサーを返し、楽しそうに銃後のバトルを繰り広げておりました。

 

以上はペット業界の暗部や地域の食糧事情として語るべきものなのでしょう。

日本の近代化は、人と犬の関係を大きく変えました。飢饉でも訪れない限り、犬を食べる理由もなくなったのです。

そして幕末の開国から70年が経ち、戦時下という「飢饉の時代」が訪れました。

「犬を食べない」という理由がなくなったのです。

【戦時の犬肉食】

昭和12年に日中戦争が始まると、商工省は軍需物資の統制に着手。物資不足は次第に深刻化し、日用品の配給が始まります。
農家や漁村は働き手を兵隊に取られ、食糧生産も減少していきました。

商工省の皮革統制は食肉処理にも及びます。

特に制限されたのが豚肉。西日本では豚皮も食肉の一部であったのですが、商工省は「屠肉ニ附着シタル儘販賣スルコトヲ得ズ(皮革配給統制規則第二條)」と豚皮の剥離を強制します。

自家製のハムやベーコンは皮付きが許可されていたものの、商工省では更に規制を強化していきました。

 

自家の食用に供する目的を以て屠殺した場合には本條の適用なはいこととなるのである。この點は原料皮増産の見地より觀れば不徹底の嫌はあるが、自家食用に屠殺する者にまで直にかゝる義務を負擔せしむるは苛酷であるから、相當期間は指導に依り可及的に剥皮を爲さしめ、然る後これを強制することとする意向なのである。

從つて全掲通牒にも「自家用ニ屠殺スル豚ニ付テモ剥皮スル様指導スルコト」なる旨の方針を指示して居る(商工省物價局 昭和15年)

 

お上から要らぬ強制をされた場合、抜け道を探し出す者が必ず現れます。

開戦直後の昭和13年、食肉不足に目をつけた長野県の業者が犬猫の肉を混ぜたハムやソーセージの密売に手を染めました。東京・神奈川の業者もグルになって、犬肉ソーセージを都内ホテルや料理店へ納入します。
被害者側は全く気付かなかったらしく、3年間に亘ってこの商品を客に提供していたのだとか(昭和14年の節米運動は戦時食料難に対する人々の不安をかきたてました。そんなご時世、ソーセージを安定供給してくれる業者は有り難い存在であったことでしょう)。

いっぽう、不審な情報を掴んだ警視庁衛生課獣医係内田警部らは、同時期から犬肉密売ルートの内偵を開始。結果、昭和16年に宮原・木藤を首謀者とする80名が芋ヅル式に逮捕されます。
ソーセージ事件以降も違法な犬肉流通の噂は絶えませんでした。下記はその一例。

 

宮澤賢治と肉食の一篇は島津博士のお弟子であり私の弟子でもあつた市村宏君の筆に成るもので、是れ亦なか〃面白き文章である。因に云ふ。故宮澤氏は「風の又三郎」の作者で、上映された風の又三郎は私の娘もこれを觀て、非常にいゝ映畫であつたと云つてゐた。
犬のソーセージが一時問題になり、それ以來私はソーセージと絶縁した。私とは初手から何んの交渉も持たないものではあるが、近頃不斗犬の焼鳥がひろく騒がれてゐると云ふことを訊いて驚いた。公認の犬捕でない奸商が捕獲指定日以外に盗難密殺した犬肉が犬の焼鳥となつて登場するのだ。切に當局の取締を望む。

 

動物愛護會 廣井辰太郎(昭和18年5月)

 

このような非合法の犬肉流通に対し、駆除野犬肉の市場流通が公認されていた地域もあります。
下記は昭和15年の愛知県における事例(節米運動の影響も記されています)。

 

事變以來馬匹の不足から馬に代つて犬が重寶がられ、馬さんの留守中はワン公が引受けました。國の事は心配せずにと、雄々しく産業戰線にシツポを振り〃立ち働いてゐる。
それと又都會人では一寸思ひも及ばぬ犬公の肉が食用に供ぜられてゐるといふグロ味たつぷりな話がある。關西地方では往年動物愛護の爲の、犬の勞役を禁止し、人力車や荷車の先曳から解放し、街から勞役犬の姿を消したが、愛知縣下では今もなほ舊習は解放されず、却つて牛馬以上に使役され、現在ではなくてはならぬ大事の存在となつてゐる。
(中略)
殊にこの地方には野犬の多いことは驚くばかりで、節米報國が叫ばれ出した當時は、野犬も節米運動の一役、肉は食用に皮は毛皮にと一石二鳥を狙つてどし〃捕獲されたもので、この事を傳へ聞いた都會人は眼を丸くして吃驚したものであつた。これも土地柄、地元では別に怪しむものもない始末で、それではどうして犬の肉が賣買を許されるのか、野外魚獸肉として公然許可されてゐるのを知つてゐる人は極めて少數である。他地方の人達にはどうしても信ぜられない事實である。

 

大阪毎日新聞『犬の働く町訪問(昭和15年)』より
 
愛知県との関係は不明ですが、同年には隣の静岡県が犬肉の販売要請を却下しています。「犬肉を公認するか否か」の判断は、地域による差があったのでしょう。
 
静岡縣濱松署衛生係では、食糧品の緩和策として犬肉の販賣許可方に關し、縣衛生課の意見を求めたところ、廿二日次の四項目の理由で不許可の旨通達があつた。
一、各家庭で愛玩してゐるものを殺して食するは風教上よろしくない。
一、犬は路上を歩き塵埃箱をあさる故、傳染病媒介の虞れがある。
一、犬は内臓疾患多く衛生上危險である。
一、野犬狩りの際毒殺するので危險が多い。
 
『犬の販賣不許可』より
 
この年を最後に、海外からのペット輸入ルートは途絶。翌年から太平洋戦争へ突入し、戦況はいよいよ激化していきました。

体制に組したマスコミは「畜犬撲滅」を唱え、一部地域ではペットの毛皮供出も始まります。

制海権の喪失で資源の輸入が途絶え、空襲で生産・加工・流通ルートがズタズタに寸断されていった戦争末期になると、物資不足や食糧難は更に深刻化。何とかやり繰りできた畜産・農業・漁業関係者はともかく、都市部では日々の食料を確保するのが精一杯でした。
そのような状況下では、犬や猫も食料と見做されたのでしょう。

「日本だけではない。戦時下では、他の国の状況も同じだったではないか!」という反論もあります。
モチロン仰る通り。第一次大戦末期、食糧難に見舞われた銃後ドイツでは殺処分されたペットの肉が流通していました。第二次大戦時、ドイツ軍に包囲されたレニングラードでは、飢餓状態に陥った市民たちがペットまで食べざるを得ませんでした。
非常時の犬肉食は、日本特有の話ではありません。

ただし、この記事は「戦時下の日本犬界」がテーマです。総力戦へと突き進んだ銃後日本で、犬たちがどのような状況に置かれたのか。
日本人であるならば、自国の歴史を調べるのが当り前でしょう?外国の話はヨソでどうぞ。


【敗戦と犬肉食】

ごく少数ですが、早くから戦時犬界の崩壊を予測していた人もいました。その一人が、日本シェパード倶楽部創設者の中根榮です。
電通重役として欧州各国を視察した彼は、第一次世界大戦中の銃後ドイツ犬界で起きた殺戮を知りました。
ロシア取材中には革命後の困窮に喘ぐ民衆に出遭い、食糧難で捨てられたボルゾイやグレートデーンが街を徘徊する姿に心を痛めました(拾ったグレートデーンをホテルの室内で飼育し、ロシア官憲の強制捜査を撃退したこともあったとか)。
そして、戦時日本でも「それ」が再現されることを確信。あれだけ愛していた犬達を手離し、食糧自給のため農業へと専念します。

 

私は嘗て愛犬家として、人も許し自分も許して居つた。之れは娯楽趣味一方ではなく多少國家に貢献せんとする微衷においてゞあつた。が、それにしても趣味が無くては犬を五匹も七匹も飼えるものでない。

併し恰度時局が勃發し長期戰であることを痛切に感じて來た。前の欧洲大戰の時にも獨逸と英國も犬の食糧難に困つて、愛犬をどし〃屠殺した事實を僕は知つて居る。
日本でも事變が長きに亘つて人間の食糧に不便を感ずるようになると、犬の食糧は確保することが出來ない。その時になつて彼れ是れ焦慮することは結局犬を苦しめることになる。寧ろ今の中に萬全の策を講ずるに如かずと思つて、飼つて居る犬を凡て處分してしまつた。

昨今人の飯米が切符制となると共に、犬の食糧が亦問題になつて來たとのこと。併しちやんと軍部の公認して居る軍用犬に限り、米の割當てがあるとのことである。それは當然過ぎる位當然のことである。それにしても街にゴロついて居る雑犬は、此の際早く一掃してしまふがいゝ。そうしてその食糧でもつて軍用犬を肥やすべしだ。

 

中根榮『随筆空地開墾(昭和16年)』より

 

この予想は不幸にも的中します。
しかし、彼が日本犬界の崩壊を見ることはありませんでした。昭和17年3月25日、腸閉塞手術の衰弱から回復できぬまま、「犬のおぢさん」と慕われた中根榮は世を去ったのです。
全国規模でペットが殺戮されたのは、それから3年後のことでした。

本土空襲が本格化した昭和19年秋になると、「犬肉を 喰ふにも慣れて 山村の 警備勤務は 楽しくもあるか(田中冨雄)」などと新聞に投書されるようになります。犬肉食が大っぴらに語られるほど、食糧事情は逼迫していました。
同年12月、厚生省と軍需省の通達を受けた全国の都道府県でペット毛皮献納運動がスタート。これは従来の野犬駆除システムを拡大して実施されました。

戦争末期の混乱状態ゆえ、毛皮や肉がどのように消費されたのかはハッキリしません。

噂話レベルの証言が多い中、ペット献納運動期間中における犬肉食が幾つか記録されていました。

 

隣接町會の防空指導係と書くと鹿爪らしいが、實はいつも私の頭を刈つてくれる懇意な床屋さんで、この人、任務に忠実なうへ頓智のある人だ。ある晩近くに焼夷彈が落ちた時、彼は防空班に大聲で怒鳴つた。
「焼夷彈を一人で五つ以上消止めた人には何の配給だらうと、いくら遅く來ても行列の先頭にしてあげます。うちへ來たら何十人待つてようと眞つ先に頭を刈つてあげます。ようがせう町會長さん」
で、側にゐた町會長も即座に「ようしツ」と怒鳴りかへしたさうだ。
その町會に防空關係の慰勞會があつて、私も呼ばれたが生憎行けなかつた。翌日私の町會に同様の會が催された時、招かれてきた彼は私の顔を見ると笑ひながら「昨日は殘念でござんしたな。變つた闇汁が出ましたのに」といつた。その場について、御馳走になつて來た一人が「何しろ結構な牛肉が食べ切れないほど出たには驚きました」
ここで聲を落とすと「闇なら千圓以上でせう」とつけ加へた。
四、五日すると、問題の牛肉は、實は隣町で野犬狩をした肉とわかり、有難がつて食べて來た者まで、さういへば少し苦かつたなどと變な顔をした。私はこの犬肉即苦肉の策に苦笑した。

 

澁澤秀雄『慰勞には狗肉の宴(東京朝日新聞・昭和20年2月)』より

 

長野縣當局では決戰食として犬肉も公認することにし、このほど犬肉利用通牒を發した。食用のため屠殺に際しては十分の檢査を行ひ、販賣は食肉業者に限定、事業場等に優先配給する。お値段は正肉百匁一円二十錢。

 

『週間に拾ふ 犬肉も食膳へ(昭和20年3月)』より

 

長野犬界史には「戦時中に川上犬が軍用毛皮目的で殺処分された」というお話があります。

長野県による犬肉利用通牒は、信州柴犬や川上犬への打撃になったのかも知れません。

しかし在来の信州柴犬は戦前の時点で消滅、戦時中に存在したものの多くは移入された島根産柴犬などです。川上犬も、警察当局の取締りで戦争前から激減していました(飼育登録を怠ったペットは狂犬病予防注射や畜犬税納付もしていないため、野犬扱いとして駆除されていたのです)。

従来の畜犬行政と戦時の畜犬献納運動や犬肉利用などが混同された結果、戦時下の川上犬については一次史料ではなく根拠不明の口伝のみが残されています。

因みに地元紙による戦前の記録は下記のようなもの。

 

日本犬が品切れになつたやうに云はれてゐる長野縣南佐久郡川上村では、まだ戸毎に數頭づゝ飼つてゐるのが、先頃無届け畜犬で殆んど同村梓山區中がゾロリと告發され、大弱りだと十月廿六日の信濃毎日は書いてゐる(昭和8年)

 

長野県の柴犬ブリーダー(昭和18年の広告より)

 

一般庶民だけではなく、皇族のペットも犬肉食から逃れられなかったのだとか。
当時の明仁皇太子は「シロ」というテリア雑種を飼っていたのですが、「皇太子殿下にはもっと良い犬を」という周囲の忖度で柴犬と交換されてしまいました。

 

皇太子様にテリアの雑種を最初おつきの方が差上げたんですね。(皇太子が)十六の時です。ところがこれが雌鶏に突つかれて逃げるんですね。それでこれはオミツトしてしまうというので坂本に下げ渡してやるということになつて頂いたんです。テリアの一代雑種なんです。
それで日本芝犬を差上げたわけですが、それが居なくなつてしまつて、戦争中配給の時ですから、いま時分はどこかで小間切れにされてしまつているだろうというようなことが新聞にも出ましたよ。

 

『昔の犬界・今の犬界を語る』より JKC坂本保理事の証言
 
盗んだ側も、まさか後に天皇となる人物の愛犬だとは知らなかったのでしょう。
いっぽう栃木県へ疎開したシロは無事でしたが、皇太子は戦後になってもその身を案じていました。栄木忠常侍従からその話を伝えられた坂本氏は、千葉県の自宅を再会の場として用意します(千葉県庁や千葉県警から厳重な身辺調査が入ったとか)。しかし残念ながら、再会直前にシロは死亡してしまいました。

再度の忖度により「シロの代わりになるペットを」と秋田犬の多摩号がプレゼントされる運びとなったのですが、これに家庭教師のヴァイニング夫人が激怒。
「あなたは欲しいと思うものは栄木さんや総務課長に言えば何でも皇太子だから手に入る。それかと言って犬までも飽きたから他人にやり、また次のをというようなことはやっちゃいけない。生きものは飼つたら終生飼い通さなければいけない。それが帝王学の一つだ」と皇太子や侍従を前にキツく説教したそうです。
うなだれる栄木侍従に「外貨獲得のため日本犬を増産したい。そのシンボルとして、皇太子には是非とも秋田犬を飼っていただかなければ」などと坂本さんらが言い含め、何とか多摩号の献上に成功したとか。
皇室の柴犬が食べられてしまった話には、こんな後日談もあったのです。

そして昭和20年8月、日本は敗北。
食料難は、敗戦によって解消されるどころか更に悪化します。生産・流通システムが壊滅状態のところへ海外から690万近い軍人や移住者が引き揚げてきたため、敗戦後の2年間は食糧不足が加速されてしまったのです。
配給だけではとても足りず、ヤミ市場の流通は増大していきました。何かの拍子に得体のしれない食肉が出回ったりしましたが、勿論その正体を突き止めようとする人などいません。
とにかく空腹を満たすのが先だったのです。

それは愛犬家だろうと同じでした。
日本犬保存会の斎藤弘理事が、敗戦直後のエピソードを書き遺しています。

 

知人が北海道の某地に赴任した時「けい肉は要りませんか」と売りに来たので鶏肉と思ったら「けん肉」の聞き違いだったとの実話がある。東北のような寒いところでは、うっかりすると、愛犬が一晩のうちに村の若い衆のお腹に収められてしまうことが多い。「一白、二赤、三黒、四胡麻、極の詰は斑でもよい」等の俚言が今でも残っていて、白が効くの赤がうまいのと言っている。
「私は犬好きで幾頭も飼い、また研究のため死体の解剖やら標本を作るために、骨格を処理したりはするが、ついぞ今まで食べたことはない。先年友人の某洋画家に犬肉の味噌漬がありますが、といわれても食べる気にはなれなかった」とある愛犬家の集まりで話したら、某獣医学博士に、あなたは牛缶を食べられたことありませんかと反問されて呆然としたことがあった。

 

餓死者すら出る中で、食べられるものは何でも食べねばならなかった時代。愛犬家であろうと「出処不明の肉」を口にしていたのです。
長く続いた戦時食糧難と苦難の戦後復興期。そこから高度経済成長期へと移行する過程で、狂犬病の恐怖も、細々と残っていた犬肉食の風習も消え去りました。
ララ物資などの支援を受けつつ食糧事情は急速に回復し、生産・物流システムの発展で飽食の時代を迎えました。
昭和25年以降のペットブームにより、動物愛護運動も復活しました。
日本人にとって、犬は愛すべき友に戻ったのです。

近代日本が経験した、犬まで食べざるを得ない時代。個人のペットを資源として利用した歴史の暗部。その辛い過去を覚えておく必要はありません。むしろ、さっさと忘れてしまうべきです。
現代日本とは一切関係のない話ですから。


ただし、喰われた犬への供養として犬を食べた時代の記録だけは残しておきましょう。

その歴史を「無かった事」にしたがる、食への感謝を忘れた人もいますので。

 

 (次回に続く)