變轉の極まりはげしき世にありて 

犬飼ふことをとがめ我が云ふ。
非常時の氣配身近かにひた感じ 

犬減らさむを今朝も我が云ふ。
手放さむ犬はあらずと云ふに我も 

正にしかくと宜ひつれど。
想ふことしきりに多し仔等にさへ 

ほゝえみかけぬ身の疲れなる。
牛肉を鯨に代へしさばかりを 

翼賛なりとつゆも思はず。
あさましき女心とかへりみて 

仔等をやさしく呼びて愛しむ。
仔犬を抱きてふとつきあがる泪あり 

高ぶる感傷何の故なる。
疑はず伸びやかなれと仔を抱きて 

我がこの頃をかへりみ想ふ。

 

つかはらいそこ『雑詠(昭和16年)』より

 

日中戦争勃発の前年、愛犬と戯れる長谷川夫妻(昭和11年)

 

【軍部と犬皮】
 

「贅沢は敵だ!」というスローガンが叫ばれた戦時体制下で、人々は鬱憤のはけ口を犬へと向けました。

「この非常時にペットを飼うのは贅沢だ」という同調圧力は、誰が強制した訳でもないのに全国へ広がっていきます。本当に、何をどう調べても、日中戦争がはじまった昭和12年の夏から絶対国防圏を突破された昭和19年の夏まで、国策としてペットの飼育禁止を命じた中央省庁が存在しないのです。

 

だったら、銃後社会で犬を迫害した犯人は誰だったのでしょうか?

たとえば映画『硫黄島からの手紙』では、陸軍の憲兵隊がペットを駆除していたような演出もみられますよね(あくまで映画の演出であり、拳銃の使用は「憲兵令」によって厳しく制限されていました)。

だったら軍部がペットの飼育を禁止したのでしょうか?しかし畜犬行政を管轄したのは内務省および傘下の警察で、陸軍省にそのような権限はありません。

陸軍省が管轄したのは「軍犬報国運動(軍犬調達資源母体としてのシェパード繁殖普及活動)」であり、民間ペット界もそれに倣っていました。

 

帝國ノ犬達-戦時下の犬

こちらは太平洋戦争へ突入した昭和16年における民間ペット界の方針。

「野犬は絶滅すべき」としながらも「有能の犬(軍用犬、警察犬、猟犬)」や「純粋犬種(天然記念物指定の日本犬)」を保護し、飼料の節約を前提にペットの飼育も認められていますね。

「野良犬類似犬」とは飼育登録されていないペットのことで、当然ながら狂犬病予防注射も受けていないために野犬扱いとして駆除対象となっていました。

「陸軍省へ犬の廃毛を献納」とあるのは、生皮ではなく脱毛のことです。陸軍省で軍犬調達業務にあたる馬政課は、換毛期に発生する大量の脱毛を帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会のメンバーから収集。 陸軍製絨廠四日市製造所で軍需品へのリサイクルを試みていました(戦争末期には軍馬の脱毛収集へ拡大)。

いっぽう戦争末期に警察が殺処分したペットの毛皮は、野犬駆除業者を介して地域の化成所で解体処理され、皮革業界が製革・集荷・流通し、商工省の皮革配給統制株式会社によって配給されています。

 

同じ昭和16年に「ペットも毛皮にすべきでは」と農林省が主張した際、軍部は消極的な意見に終始しています。民間ペット界が滅んでしまっては、陸軍が戦地へ配備するシェパードも調達不可能になりますから。

実際、陸軍省のトップや大物軍人は公の場でペット駆逐論に反対していました。

第75回帝国議会予算委員会(昭和15年)で、民政党の北昤吉代議士から「陸軍を動員して国民のペットを毛皮にすべきでは」と迫られた畑俊六陸軍大臣は「愛犬家の気持ちを思うと……」と、やんわり拒否。

皇道派の重鎮・荒木貞夫陸軍大将も、「近頃新聞などに犬の肉をどうの、犬の皮をどうのと云つて居るが、あゝいふ風に量見が狭い様では駄目ですね (『逝けるシトー號を語る』昭和16年1月16日) 」とこき下ろしています。

 

帝國ノ犬達-シトー 

昭和14年、東日主催小国民大会を訪れた荒木貞夫陸軍大将と愛犬シトー・フォン・ニシガハラ。シトーは映画や展覧会への出演で軍用犬の宣伝活動に従事していました(その他、山岳遭難事故のレスキュー活動などにも参加)。

 

軍部は戦争遂行の主体であったものの、畜犬行政に関しては「シェパードの飼育頭数拡大」「軍犬の購買調達」という傍流的立場に過ぎませんでした。

「軍用犬調達維持のため、国民はシェパードやドーベルマンを飼ってくれ」というのが軍部の方針。そもそも畜犬行政を担うのは内務省傘下の警察であり、不勉強な政治家からペットの駆除を陸軍省へ要請されても対応できないワケです。

だったら軍部はペットの庇護者だったのか?といいますと、戦争を泥沼化させてペットへの敵視を生み出した張本人でした。シェパードの飼育を推進した軍部は、いっぽうでシェパード以外の犬を「無能犬」と切り捨て、軍需省(商工省のこと)への影響を強めて犬革の資源化も推進しています。

このように軍部が「主犯」なのは間違いないとして、「共犯者」たる他の中央省庁はどうだったのでしょうか?

軍用シェパードの調達業務をおこなった陸軍省以外に、犬と関わった公的機関は下記のとおり。

 

・日本犬の天然記念物指定と保護にあたった文部省

・狂犬病対策と畜犬行政を担当した内務省

・皮革統制の一環として犬革の資源化をはかった商工省(後の軍需省)

・狩猟法の管轄省庁として猟犬を保護しつつ、家畜衛生として野犬毛皮の統制も併行した農林省

・商工省と組んで、ペットの毛皮献納を指導した厚生省

 

これらの中で、戦時を通して犬皮の統制を主導したのが商工省です。

昭和14年の「皮革配給統制規則」改正で犬革(加工革)を対象とし、さらに犬皮(原料皮)への統制拡大を目論んだ商工省でしたが、内務省の管轄になる畜犬行政や野犬駆除に介入することは困難でした。

狩猟法を介して警察や猟友会との繋がりがあった農林省も、野生鳥獣の毛皮献納に貢献する猟犬を保護しています。

お役所の縄張り争いによって、結果的にペットが護られていたワケですね。

 

戦時体制をコントロールしたい中央省庁、軍部、警察には、頼もしい協力者が存在しました。

それこそが犬を敵視した最大勢力、「善良な一般市民」だったのです。

 

昭和14年に撮影されたボルゾイ。日米開戦前までは戦時ペット界も賑わっていました。

 

【犬を敵視した日本国民】

 

いくら役人のお達しがあろうと、したたかな一般庶民はおとなしく従いません。そこで統治側が考え付いたシステムこそ、民衆同士の相互監視システム。

江戸幕府の五人組から銃後社会の隣組まで、この種の組織は地域社会の同調圧力を生み出すために絶大な効果を発揮しました。

大きな転機となったのは、節米運動、皮革配給統制規則改正、国民精神総動員運動、隣組強化法などが重なった昭和14~16年にかけてのこと。

節米運動を機に、民衆の鬱憤は「食料危機の中で無駄飯を食むペット」へと向けられました。

 

農林省では、駄犬を駆逐するため「贅沢は敵だ!」を標語に掲げる「国民精神総動員運動」の利用を提言しています。耐乏生活を強いられた一般市民の間には「国民が一丸となるべき総力戦において、ペットを飼うような個人の贅沢は許されない」という自粛活動が広まりました。

そのような時流を読んだマスコミも「畜犬を撲滅せよ」と唱え始め、大衆を扇動。

「ペットを飼うな」と命じられたワケでもないのに、戦時下の日本国民は自発的にペットを迫害したのです。

世の流れに抗いながら犬を飼い続けた人々もいましたが、やがて米軍の本土空襲に晒されるか、畜犬献納運動で愛犬を殺処分されるか、本土決戦に備えた民間義勇部隊「国防犬隊」へ加入(シェパード、ドーベルマン、エアデールテリアの飼主のみ)するしか選択肢がありませんでした。

 

昭和20年の敗戦によって、戦時犬界や軍部は消滅。たいへん都合がよいことに、戦時を総括する主体がいなくなったのです。

戦後復興期のドサクサに紛れ、黒歴史の抹消が始まりました。

かつて軍犬報国運動を推進していた畜犬団体は「あれは軍部の強制で仕方なくやったことだ」と態度を一変。「ペットを飼う者は非国民」と叫んでいた一般市民も「私たちは犬を奪われた被害者だった」と主張し、めでたくソレに成功しました。

戦後復興期のペット雑誌に目を通すと、見事な手の平返しを観察することができます。

世の流れに便乗したマスコミも「犬を奪われた被害者」の報道に走りました。この件に関する報道は「(当時の事情を理解できない)子供時代の思い出話」が中心であり、「実行者側への取材」は皆無でしょう?

犬の毛皮の話をしているのに皮革業界を無視し、皮革業界の戦時統制にあたった省庁を無視し、犬革統制が全国津々浦々で実施できた仕組みを無視することで、「犬革の消費者たる軍部」へ全責任を押し付けたのです。

 

銃後犬界の記憶が忘却された結果、戦争による教訓は得られなかったのかもしれません。

これから大規模災害の発生や社会状況が悪化するたび、「この災害時にペットなんか連れて避難しやがって」「皆んなが困っている時にペットを飼う贅沢などケシカラン」という同調圧力が生み出されていくのでしょう。

 

犬への敵視が始まる昭和14年、愛犬との団欒風景(照井勝榮氏撮影)


しかし、戦時中の事例だけ取り上げて「何と野蛮な!」などと憤慨するのも滑稽な話ですよね。
元々、地方行政による野犬駆除が始まったのは明治初期のこと。野犬や捨て犬、放し飼いによる社会への被害は、この頃既に無視できないものとなっていたのです。

各府県の行政当局も「犬は繋いで飼うように」と飼育マナーの順守を呼び掛けますが、そんなものを守る人はいませんでした。犬による咬傷頻発、更には狂犬病の感染阻止という安全衛生の面から、当局が介入したのは当然といえます。

 

警察が担当(戦後は保健所へ移管)する畜犬行政は、もともと「獣疫の豫防・良犬の保護」が目的でした。
飼育犬の登録、狂犬病豫防注射の実施、畜犬税の徴収、飼育マナーや動物愛護の啓蒙、不要犬の買上げ。そして野犬駆除も警察が担当し、駆除業者に委託しておこなわれていました。不要犬の買上げ(警視廳の場合だと成犬四十銭、小犬十銭)及び野犬狩りに遭った犬達は、まず収容施設に送られて三日間を過ごします。
これは、誤って捕獲された犬を飼い主が捜し出す為の猶予期間。三日の内に飼主が所轄署へ届け出、発行された「犬返還通知書」を貰って収容所へ駆け付ければ、命を救われた犬もいたのです。
しかし、そうやって助かるのは全体の五分の一程度。残りの犬達には「救い主」など現れませんでした。
捕獲から四日目、犬は化成所へ移送のうえ殺処分されます。中には、狂犬病感染の有無をチェックされた上で研究機関や病院の実験動物となるケースもありました。
実験動物の亡骸は規則上焼却処理できず(なぜか猫の遺骸だけは焼却OK)、結局は化成所へ返送のうえ資源化されていました。
この処分猶予期間も、戦争後期にはたった1日に短縮されてしまいます。飼主が救済する時間すら与えられず、殺処分されてしまった迷い犬も少なくないのでしょう。

 

帝國ノ犬達-紫式部 

野犬駆除の改善を警察当局へ働きかけ、不要犬の保護施設を運営していた日本人道会のバーネット大佐夫人。

在日外国人や宗教家が先導してきた戦前の動物愛護運動は、東京オリンピック誘致活動などの国際化も手伝って順調に進捗しつつありました。

 

これらの畜犬行政は、当然ながら税金を使っておこなわれていました。

要するに、畜犬取締りの強化は愛犬家が招いた自業自得。犬を愛している筈の人達が、結果として犬を死に追いやっていたのです。

殺処分される「不要犬」が多かったゆえに、犬の資源化は成立しました。商工省の戦時皮革統制はそのシステムを流用しただけ。

「貴方の犬も、御國の為に」と言われれば、断れない空気がいつの間にか出来上がっていました。

殺処分の方法ですが、当初は撲殺が主流でした。炭酸ガスによる窒息方式がテストされたのは昭和8年になってからのことです。
「せめて安楽死させてやってほしい」と日本人道会のバーネット大佐夫人らが警視庁へ寄贈した炭酸ガスチャンバーも、運用コストの問題で結局は稼働していません。


【皮革統制からペット供出へ】

昭和15年、北代議士が陸軍大臣へ呼びかけた犬の撲殺論は、大きなバッシングを惹き起しました。
発言を聞いた世の愛犬家は一斉に反発、中には「そんな事したら、犬が化けて出るぞ」なんて憤る人もいました。

 

帝国軍用犬協会、日本シェパード犬協会、全日本狩猟犬倶楽部といった大型団体も、軒並み北代議士への反対で一致していたようです。このとき、愛犬家や畜犬団体、狩猟団体、動物愛護団体が一丸となって抗議運動でもしていたら、その後の状況は変わったかもしれません。
しかし、人々は「自分の犬だけは守ろう」と各個バラバラに行動しただけ。軍用犬や猟犬関係者の中には、野犬や愛玩犬に攻撃の矛先を向けることで保身を図ろうとする動きさえあったのです。

 

我國では「犬の仔は只で貰ふものなり」と云ふ先入観や、或は「犬も歩けば棒にあたる」とかの諺等から、一般人は総てに犬を見る眼が皮相的であつて、中に は實物に比すべき優良な獵犬にまで、自粛の履き違えから圧迫を加へやうとして居るが、これは明かに國家的の損失を招くものを云ふべきである。
即ち戰時下食糧問題に籍口して、畜犬絶滅論を唱へるものが名士?と稱するものゝ中にあるのがその類であつて、斯る論は皮相の見に基く愚論でしかあり得ない。

しかもそれに依つてゞはあるまいが、穂洲先生の謂はれる如く、近頃モグリ犬殺しの横行は實に慨歎に堪へない。或る友人は白晝寸時の間に愛犬を盗まれ、或る友人は夜間運動に出して、一寸の油斷からこれも犬泥棒に盗まれて憤慨して居る。

諸兄よ、宜しく犬泥棒と犬殺撃退の自衛手段を、各自に於て講ずべきである。


嘗つて神聖なる議会で、畜犬撲殺論なる暴言を臆面もなく吐いて、世の真の愛犬家からノツク・アウトを喰つた政治家があつた。
これは自身では名論と思つて居るかは知らないが、それは自らが犬の眞價を知らぬものであつて、犬の中には徒食して居る人間様よりも、はるかに有要な働きをしつゝあるものがある。

だから一概に犬と云つてもピンからキリまであり、獵犬や眞の軍用犬の如く、有要な働きを爲しつゝある犬と、單なる愛玩的の犬や野良犬と混同すべからずである。随つて名を軍用犬にかりてその能力なきもの、或は野良犬等は、片端から眠らせて貰つて一向に差支へはないのである。

 

長谷川三葉亭 『獵界漫筆(昭和15年)』より

 

幸いにも、犬の撲殺論は一旦終息したかのように見えました。安堵した愛犬家たちは、くだらぬ縄張り争いや内ゲバへ熱中する日々へと戻っていきます。

そして同じ頃、商工省の犬革統制に追随する動きが始まっていました。

 

太平洋戦争前の段階では「畜犬撲滅絶対反対の愛犬家」「飼育者減少によるシェパード調達業務への影響を懸念する軍部」「狂犬病対策から検討の余地ありとする警察」「犬皮統制推進派の商工省・農林省と一部の政治家」「体制側に組したスコミ」が、互いに腹を探り合っている状態だった様です。

軍・警察・畜犬団体関係者を集めた会合にて、農林省畜産課技師が「無能犬を駆逐すべき」と主張したのも、北代議士が駄犬撲殺論を唱えた同じ年のこと。

 

以降の犬革統制は、物資統制にあたる商工省と家畜衛生にあたる農林省が牽引しました。あとは狂犬病対策にあたる警察が合流すれば、加工革だけではなく原料皮も掌握できる仕組みが整います。

併行して、円滑に犬を資源化するための「犬を敵視する世論の醸成」も必要でした。こちらは、頼まれもしないのに一般市民が自発的に取り組んでくれました。

 

昭和16年12月、日本は連合国へ宣戦布告。泥沼の中国戦線に加え、太平洋の戦いも始まりました。
最前線へ投入される軍用犬が増えるとともに、その犠牲も増えていきます。

それは内地も同じこと。

戦況激化と共に、飼育放棄されるペットが増加していったのです。

 

警視廳獸醫課で調べた今年六月現在の東京府下の畜犬數と昨年末とを比較すると次の通りで、飼犬に於て約二千頭を減じ、飼主も二千人以上減つて居り、反對に野犬捕獲數は約千頭の増加となつてゐる。飼料難から飼犬を斷念する人が増え、野犬がそれだけ多くなつたと思はれる。


『東京の畜犬減少』より 昭和16年

 

戦況が暗転するとともに、国内の物資不足も急速に悪化。人々は、ささいなキッカケで「犬は毛皮にしてしまえ」と叫びはじめます。

その一因として、飼育マナー違反や戦時下の飼育放棄による野犬の増加という問題も影響していました。

犬が敵視されたのは、無責任な飼主が招いた自業自得の一面もあったのです。

 

昭和18年

 

心なき犬猫が、折角耕し、種を播いた直後を、ときには芽を擡げ始めたその上を悠々闊歩したり、糞をするために、ひどく引掻きまはされて、全くやりばのないくらゐ殘念な目を味ははされます。
可愛い犬であり、猫であるなら、他人からも可愛い犬であり猫であるやう、もう少し面倒を見るわけにはいかないものでせうか。
東京都 丘村

『通風塔(昭和19年)』より 

 

ペットのトラブルで多いのが、「鳴き声がうるさい」という騒音問題。

そういえば、映画『硫黄島からの手紙』で、吠えている飼犬を憲兵が射殺してしまうシーンがありましたね。実話と勘違いしている観客もいましたが、あれは加藤亮演じる清水上等兵を硫黄島へ送り込むための映画的な演出です。
いくら横暴を極めた憲兵であっても、あのような理由での発砲は許可されていません。「憲兵令」において武器を使用できる状況は下記に限定されていました。

 

憲兵ハ左二記載スル場合ニ非サレハ兵器ヲ用フルコトヲ得ス

其一 暴行ヲ受クルトキ

其二 其占守スル所ノ土地又ハ委託セラレタル場所、若クハ人ヲ防衛スルニ兵力ヲ用フル外他二手段ナキトキ、又ハ兵力ヲ以テセサレハ其抵抗二勝ツ能ハサルトキ

 
そもそも、戦時下で犬の鳴き声を取締まっていたのは警察です。
たとえば警視庁においては「高音取締規則」が法的根拠となっており、しかも「防犯上の理由から犬の鳴き声は大目に見る」という見解だったのだとか。意外ですねえ。
警視庁で「犬の相談所」を担当していた荒木芳蔵獣医師の解説をどうぞ(何で警察に獣医さんがいるのかというと、当時は警察が飼育登録や狂犬病対策の窓口だったからです)。
 

高音(雑音)防止の聲は、都下にいよいよ漲つて來ましたが、この際、深夜の安眠を妨げることのある犬の咆哮は、如何に取締るべきでありませうか。

私はここで、犬の啼き聲と、高音防止との關係に就いて述べたいと思ひます。

 

現施行の高音取締り規定

犬の啼き聲を詮索するに先立ちまして、現在施行されてゐる取締り規則を振返つてみませう。

元來高音としての取締りを行ふや否やといふことは、現場を審に臨檢して後に定るのであります。即ち時間とか場所、それに附近の状況を考慮して、それが他人に迷惑を及ぼすと斷定されたとき、初めて高音取締り規定を發動して、高音を防止し、公共の静謐を計らんとするのであります。

昭和十二年十二月、警視廳令第二五號の高音取締規則第一條に「ラヂオ、蓄音器、太鼓、拍子木その他の樂器等に依り、附近の迷惑となるべき高音を發せしめざるべからず。但し祭典その他公益上已むを得ざる場合はこの限りにあらず」とあり、なほ第五條には「第一條の規定に違反したるものは、拘留又は科料に處す」と制定されてゐます。

近來科學工業の發達に伴ひ、必然的に作業上から起る騒音が伴つて來るのでありますが、これには工場法に依つて、取締りが行はれてをります。

一方、夜間營業の内で、料理屋等の飲食店も時間に制限を受け、殊に戰時體制下に於ける現状取締りのため、以前と違つて乱痴氣騒ぎもぐつと尠くなつたのでありますが、未だ不徹底の嫌を免れないのが現状であります。

 

吠え聲と高音防止

さて、このやうに一般の高音防止に對する觀念は養はれつつありますが、この時にあたつて、愛犬の咆聲に對しても、私達は善處して行かなければならないと思ひます。かと言つて、犬の啼き聲にも、それぞれ自ら異る目的があるのでありまして、それを理解してやることが愛犬家と否とを問はず先決問題となるのであります。

尤も注意深い愛犬家は、私がここに喋喋するまでもなく、既に、犬の啼き聲に依つて、躊躇なく犬の言はんとすることを判斷されることと思ひます。ですから、私は極く初歩の人達、或は犬に全然無關心の人達に對し、一つの示唆ともなるべく、啼き聲と高音防止の關係を述べるのであります。

 

吠え聲苦情激増の因

近時、警視廳の犬の相談所、或は保安部の安寧係に、犬の高音取締りの申出が頻りに参ります。何故かと言ひますと、それは他でもなく、數年來の飼養者の増加と、殊に支那事變以後、軍用適種犬―、シエパード、エアデール、ドーベルマンが數千頭も増加して來たことから、必然起り易い問題なのであります。

この事は、一面犬を飼ふには良種を、そして國のためになるやうな、即ち軍犬報國精神の向上と考へられ、まことに喜ばしい次第であります。

ところが、またその半面より見ますならば、前記した如く、高音取締りの申出の形ともなつて現れるのであります。

軍用適種犬は、他犬に比して殊更に元氣もよく、鋭敏であり、精悍である關係上、咬傷その他の弊害も起り易く、從つて取締り申出の激増といふ風に考へられるのであります。

 

犬の吠え聲の檢討

それには訓練を入れて弊害を尠くすることも勿論必要でありますが、それは一般に望めるものでもありませんし、話を前に戻して、犬の啼き聲は如何なる意味を持つてゐるか、といふ問題に触れてみませう。

元來、犬の啼き聲は周囲の事情を鋭敏に物語つてゐるものであります。換言しますと、犬は智能の發達した動物でありまして、自己の受けた感情を率直に、啼き聲に依り表明するのであります。

その表明に依つては、深夜の安眠妨害の譏を當然受けなければならないこともあり、また感謝されねばならぬ咆え聲もあるのであります。

例へば、仔犬が初めて他家に貰はれて行つて、悲しさと寂しさのあまり啼いたり、犬を常に繋留して運動不足のまま放任して啼かせたり、或は神經性疾病のため、昂奮して間断なく啼き續ける等は、これは當然、安眠妨害と言へるのであります。

反對に、不審な者の侵入に對する咆え聲は喜ばねばならないのであります。

次に、犬の啼き聲が機微に亘るものであるといふ例を擧げますならば、食餌を欲する啼き聲、來訪者でも見憶へのある人と、さうでない人とに對する啼き聲、主人の外出する時の啼き聲と、共に散歩に出る啼き聲、或はまた犬舎の近くに犬か或は猫の來た時の啼き聲等々、自ら啼き聲は異るのであります。

 

吠え聲の取締範囲

以上述べて來ましたやうに、犬の啼き聲にはそれぞれ意味があるのでありまして、それを畜主が如何に判斷するかといふことに依つて、咆え聲が安眠妨害ともなり、また歓迎されるのであります。

先年、四谷の某家が強盗に襲はれました。

その強盗は同夜、再び二丁と離れぬ家に忍び入らうとしたのですが、その家では番犬に咆えたてられ、近所の人々に騒がれて一物も得ずに逃走しました。この場合は、安眠を妨害してこそ番犬としての價値があり、大いに感謝されてよいのです。

また或る家では、犬の咆え聲を聞き乍ら、深夜のこととて放置して、貴金属類その他を盗まれた例もあります。ですから、畜主は、假りに愛犬が咆え續けるやうなことがあれば深夜と言へ、一應犬舎やその周囲を調べる心がけがなければならないのであります。

ではどんな咆え聲に對して、私達は取締りを嚴にしなければならないかといひますと、前に述べました、畜主の怠惰乃至無關心から、犬を繋留のまま放置し、運動不足の結果、啼き續けるとか、疾病―而も畜主が何の手當も施さない犬の啼き聲等であります。

これは道義的に見ましても、近所の迷惑を顧みないことでもあり、犬に對しては無慈悲、無責任もその極みでありまして、動物虐待の上からも見通すことは出來ないのであります。

犬といふより寧ろ畜主に對して、高音取締りの必要を痛感するのであります。

ひとり犬の咆え聲のみでなく、人類社會の安寧秩序といふものは、各自の道義觀念に待つのでありまして、各自が自己本位な氣持を棄て去り、相互の和を計るところに、安寧は維持されて行くのであります。

眞の愛犬家といふものは、無慈悲な、而も世間に迷惑をかける飼育をしない許りでなく、今まで述べましたやうに、啼き聲を詮索判斷し、犬の心理を理解し、益々犬の性能の發展を目指さなければならぬと思ふのであります。

戰時體制下の今日、國民は一致自粛しなければならない秋に當り、私は、愛犬家の注意を喚起すると同時に、敢て御批判を乞ふ次第であります。

 

警視廳犬の相談所主任 荒木芳蔵獸醫『犬聲と高音防止 この際愛犬家も一般人も正しい認識と理解を望む』より

 
帝國ノ犬達-クロヒョウ脱走事件 
昭和11年6月14日、帝国軍用犬協会の嗅覚作業訓練競技会を視察する警視庁職員。
警視庁から参加したのは制服姿の伊東壽警部と中央の荒木芳蔵獣医。もう一人は帝国軍用犬協会副会長の坂本健吉陸軍少将です。
翌月に上野動物園クロヒョウ脱走事件が発生し、この視察は警視庁の直轄警察犬制度復活へ繋がりました。
 
軍部や警察が「犬を飼ってもよい(できればシェパードをね)」と言っているのに、一般市民はアサッテの方向へ暴走していきます。
何年たっても日中戦争は終わらず、銃後社会の鬱憤は「無駄飯を食む駄犬」へと向けられました。

太平洋戦争が始まると、一般市民による犬への敵視は過熱。隣近所の愛犬家へ陰口をたたく位ならマシな方で、中には暴力沙汰へ及ぶ者も現れました。

大政翼賛会が「進め一億火の玉だ」と叫び始めた昭和17年、下記のような出來事が記録されています。

 

みぞれでも降りそうな寒い春の夜、淡い電燈の光の下に印半纏を着た四十がらみのいやしげな男が警部補の机を挟んで告訴状について説明してゐる。
大工だといふその男は相當まわつた酒氣に兎もすればよろめきかけるのを机のはしで支へて、魚屋のフオツクステリアに咬まれたといふ診斷書には咬傷十日間の治療と書いてあるが、咬まれたといふきたない足には五分位の擦り傷が微かにある程度である。
逃げるために眼鏡を壊されたといつて外したセルロイドの眼鏡には、それらしい所もない。
警部補は診斷書を気にしながら告訴状字體を見つめて「これはお前が書いたのか」と聞いた。
大工はその聲を待つてゐたかのようにどんぶりの中から〇〇工學校機械科の卒業證書を取り出して、そんじよそこらの大工とたちが違ひ白紙の令状で御奉公出來る秀才であると説いた。
警部補は黙つて聞いてゐた。

「治療代でも欲しいのか」
「冗談ぢやないですよ旦那、こう見えても日に五圓から十圓稼ぐんですから治療代など問題ぢやないですよ」
「どうすればいゝんだ」
「目下非常時で人も米が不足してゐる時、犬などを飼ふ奴の氣がしれねえから皮にして貰ひたいんです」
「畜犬として届けてあるものはそういふわけには行かん。咬まぬようにしばつて置くようにしてやる」
「旦那ちよ、ちよつと……」

警部補はそれに耳を貸さずに控えにゐた飼主の魚屋を招いた。
魚屋は子供はなく二人暮しで犬が何よりも可愛いゝらしいかつた。
「どうもこの人は毎晩酔つてはうちの前で大聲を立て戸障子を叩くので犬が吠えるんです。それがいけないと家の中に入つて來ては器物を壊して乱暴を働らくので全く困つてゐる次第です。
咬みついたことはお詫びしますが、わざと大聲を立てたり戸障子を叩かぬように願ひたいのです」
と負けてはゐない。

警部補を前にお互ひに張り合つたが大工の方はほとんど出鱈目である。
然し咬まれた診斷書が物を言つたのだらう、治療代とこわれたか否かすこぶる疑問な眼鏡の代を併せて十圓ばかり警部補の前で支拂つてゐた。
十二時近く揃つて歸宅した後、警部補は
「俺は犬を飼つた事がないからわからんが、可愛いのかナ。米も喰ふだらうな。勿體ない話だ」
と言つてゐた。

神奈川縣 吉成敬太郎『こんな話がある(昭和17年)』より

 

「聖戦遂行へ邁進する正義の一般市民」に対し、「非国民」たる愛犬家が反論できる余地などありません。

しかし動物愛護団体や欧州滞在経験者だけは、ペットを敵視する銃後社会へ真っ向から反論しました。

「戦争を理由にペットを弾圧するような国家は、戦後に国際社会から断罪されるぞ」「国際プロパガンダに長けた中国側を利するだけだ」「愛犬家が非国民なら、愛犬家の皇族も非国民呼ばわりするのかこの非国民め!」などと論陣を張り、「戦時下で野犬の安楽死措置が疎かになっている」と、警視総監に直談判までしています。

 

明治天皇が、犬と猫をあはれませ賜ふた御製は已に奉戴したが、大國民らしからぬ戰時生活の焦燥から、昨今、東京都下十萬頭の野犬の撲殺と並行して、この際畜犬も序に處置せよとホザク不心得者があり、日本一億の民草中には、この種の新聞投書にふら〃と釣り込まれる無分別な手合も若干是れ有るべしと信ずるが故に、この輩を戒筋してその妄を啓かんが爲に、億兆の雄弁より荘厳深遠にして、且つ力強き御製を、茲に再び奉戴することにした。

此輩須く襟を正しうして是れを拝誦し、御製に含蓄される哲學と、詩と、八紘一宇の觀念と、固有日本精神と、大慈大悲の大東亜精神とを把握せよ。
 

動物愛護會 廣井辰太郎『聖訓を拝して・迷へる人々に告す(昭和18年)』より

 

野犬もペットも撲殺してしまえ!という暴論が、当たり前のように新聞へ掲載されるようになった時代。
「飼糧さえ確保できれば何の問題もないし、それには愛犬家と国家が一致協力して取り組まねばならない」。そのような愛犬家の願望を置き去りにして、銃後日本は一億玉砕へと突き進んでいきました。

国家の存亡をかけた総力戦において、犬の都合なんか二の次です。

 

 

昭和18年の広告より、太平洋戦争中のペットショップ。この年を最後に銃後ペット界は崩壊しました。

 

戦争指導層にとっても、銃後社会に充満する不安と鬱憤の捌け口が必要でした。その生け贄にペットが選ばれた時、愛犬家は組織的抵抗の術を失っていました。
一部で勇気ある人々が声を上げたものの、状況は悪化の一途をたどります。

 

二月二十三日、毎日夕刊「建設」欄に出た「犬と人間」の投書は私も讀みました。欄は建設だが論は破壊ですね。

日本人は概して聡明ですが、それでも一億もの中に愚物や馬鹿が相當あるのは免れますまい。貴下の御書面中、私に一矢を酬いて貰いたいとありますが、夫れは貴下の御慫應がなくとも、ムズムズしてしやうがないのが私の性分です。しかしこれを反駁して果して利ありや否や疑問です。

私の考へでは、この種の便乗的僻論は凡そこれを黙殺し一括しこれを墓穴に葬るに限るのです。何んとなれば、浮つかり其手に乗つて反駁なぞすると投書家の思ふ壺にハマルと云ふものです。
苛烈な戰局下、常識を喪失した人間は多少現はれませう。没法子(メーファーズ、しかたがないの意)。彼等は狂犬と同様に憐むべき人々ですよ。
「獨り野犬ばかりでなく此際畜犬も處置せよ」とは投書家は言つて居りますが、この種の議論は非日本的な、利敵行爲に属する、低調にして、嫌忌すべき僻説です。私に暫く時を借して下さい。萬一こんな馬鹿氣た議論が反響を呼んで、誤つて取上げられでもすれば、其時こそ私は猛然として起ちます。それ迄は沈黙します。

 

動物愛護會員・犬儒學士『某氏に答ふる書(昭和18年)』より

 

戦争は人々の心を荒ませ、追い詰めました。犬を愛してほしいという意見すら、戦争末期の日本では悪とされました。

 
帝國ノ犬達-軍犬報国

 

【生贄にされた犬たち】

 

昭和18年、東京都の大達茂雄長官は上野動物園の猛獣殺処分を強行します。「空襲下で猛獣が脱走したら大変なことになる」という名目でしたが、まだ本土空襲が無かった当時、「危機感に欠けた都民への啓発」程度の意味しかありませんでした。

上野の猛獣殺処分には、当時から批判もなされています。

 

朝起きて直ぐ、外出から戻つて來た時も喜んでとびついて來る小動物が、自分の身邊から全然姿を消す事は耐へられない寂しさである。畜犬供出の噂が方々から耳に入つて來る昨今、上野動物園長の行はれたあの猛獸致死の御心には涙で御同情申上げる。

飼ひ馴れたものは何に依らず、身邊からはなし度くないものである。殊に犬は猛獸とは異なり、食物の點でもまだそれ程人間の迷惑になつては居ないので、殊に畜犬供出が事實行はれたとすれば、どれ丈け澤山の人の心からなる反對が出た事で有らうと思はれる。

番犬不要の説も見える。而し都下に住む者には一匹の番犬は一人の人間より役に立つ。此れは大きな事實である。

盟邦獨逸、殊に愛犬家ヒツトラー總統が畜犬供出を國民に申出る様な場合が有つたとしたらば、其時こそ獨逸自身の死を覺悟した場合であらう。食糧問題が畜犬供出に及んだなどゝ云ふ事が敵米英に知られたならば、其れこそ良き宣傳の種となり、真にそれ程でない問題で却つて我國を惡宣傳の犠牲とすると同様の事になる。

左に動物共が國家に依つてどれ丈け保護されて居るか、少し述べさせて頂かう。私の獨逸滞在は長くはなくとも十年に近い。其間動物が國家に依つて保護されて居る羨ましい例を私は澤山見た。

 

在ベルリン 加藤せつ子『獨逸の犬(昭和18年)』より

 

「欧米が忌み嫌う動物虐待行為は、日本の国際的地位を貶めるだけだ」という加藤さんの訴えは、しかし軍国主義者の耳には届きませんでした。勇敢と野蛮を取り違えた彼らにとって、動物の命は戦争遂行のための道具に過ぎなかったのです。

上野動物園の猛獣殺処分が終った頃から、銃後社会の空気は次第に狂気を帯び始めました。

遂には「覚悟の程を見せろ」とばかりに、血のイニシエーションを実行してしまう連中が出現。この手の軍国主義者がイケニエに選んだのも、抗議の言葉を持たない動物でした。

実際、このような市井の話が記録されています。

 

近頃、國分寺の何んとかと云ふ婦人會の支部で、血を恐れぬ鍛錬とかゞ行はれたさうだが、學人はその愚劣なる催しがあつたことを信頼すべき人から聞いて愕然たらざるを得なかつた。

血を恐れぬ練習は、血を見ることであると考へた所に、淺墓な凡夫を肯かしめるものがあるかも知れぬが、是れは識者を俟たずとも、馬鹿氣切つた迷妄だ。

血を恐れぬ練習に一頭の犬を捕へ來つて、優しかるべき多くの婦人の面前で斬殺したと云ふのだから驚かざるを得ないではないか。犬を斬殺して養い得る程度の安直低劣な膽力では、大空襲時には何の役にもたゝぬ。無智な人間は、どうもすれば殘虐と勇氣とを混同するが、殘忍と勇氣とは全然その質を異にするものである。

由來殘虐は臆病者の特性で、真の勇者は必ず慈悲深き性格を持つ。

衆人環視裡、然かも婦人大衆の目の前で犬を斬り殺し、鮮血の迸る様を見せて泰然自若、空襲の惨劇に處する婦人を造らむとは、何んたるタワケた思惑ぞや。凡そ利己的怯懦者は、私利私慾を擁護する爲めには甚だ勇敢に戰ひ、時として死を賭して格闘することさへある。されど一度正義の戰ひに面すると、彼は尾を垂れて一目散に遁走する。

「たゞ怯懦者のみが、不正不義に拝跪する」と云ふ言葉が獨逸にあるが、正しくその通りだ。人の妻たり、母たる可き尊貴な使命を持つ婦人に血を見て快しとする訓練を施すが如きは言語道斷、沙汰の限りだ。形式教育に對して精神教育が云々されるが、その精神教育なるのも亦結局形式主義に堕してゐるからお話にならない。

 

動物愛護會『血を恐れぬ練習!?( 昭和18年12月)』より

 

虫酸の走る話ですが、この時点までは良識も残されていました。活動を継続していた動物愛護会では、「動物愛護の哲學と情操を持たない者は、斷じて大東亜民族の指導者たるを獲ず」と世間に訴えました。

しかし半年後にはサイパンが陥落。負け戦の中で理性を求める声はかき消され、パイロットごと敵艦へ体当たりする特攻作戦が始動します。

日本は、破れかぶれの一億玉砕へ突き進んで行きました。

 

犬
「夫君より犬が大事と防毒面を被せて颯爽と闊歩する御婦人連。だがそれも今は昔―」
ドイツに占領される前のフランス街頭にて、空襲対策のガスマスクを装着したペットたち。

 

苛烈なる戰時下、畜犬を廃せと主張する國があるかと思ふと、畜犬にまで防毒面を配給する國もある。蓋し、東洋の君子國、大東亜の指導國に於ては、敵國に顔負けするが如き言動の存在を許さず。

國乱忠臣、家貧孝子、國家非常時の秋には自ら指導者が現はれる。而し、又誤導者も往々にして輩出する。冀はくば、後者をして乗ずるの間隙なからしめよ。

 

動物愛護會『犬儒學人白す(昭和19年)』より

 

残念ながら、「大東亜の指導国」においては「誤導者」が幅を利かせていたんですけどね。

犬への敵意が高まる中、昭和19年12月には軍需省(旧商工省)と厚生省がペットの毛皮献納を全国の知事へ通達。翌年3月までに、全国の市町村で膨大な数のペットが殺処分されました。

米軍の本土空襲に加え、日本人までもが一丸となってペットを殺戮しました。

犬の逃げ場所など、どこにも無かったのです。

 

 

大正12年の関東大震災下でも受診を続けた犬猫病院では、昭和19年5月16日に来院したチビを最後に診察記録が途絶えています( 平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より )

 

「東京オリムピツクまでに東京を世界で最も動物を愛する國にしませう」といふモツトーで、動物愛護の運動をする事になつた日本人道會は、その最初の仕事として、野犬収容所設立の計畫をすすめてゐる。

これは現在東京で最も非文化的とされてゐる野犬狩りの對策で、現在野犬狩りで捕獲された犬は野犬捕獲業者の手によつて三日間一日一錢の食料で三河島、板橋の野犬収容所に飼養され、その後撲殺される運命にあるものを、日本人道會の収容所に引とり、もつと文化的に適當な處分をしようといふのである。

豫算は六萬圓で、内四萬圓を一般の寄付に仰ぎ、二萬圓を日本人道會で調達、郊外に千坪位の土地を物色し、五、六十頭の収容所を建設、収容される犬は野犬狩で捕獲された犬の中、病氣、怪我、衰弱、老衰等の肉體的故障のないもので、適當なる飼養者のあるまで同収容所で飼育する。

 

『野犬収容所の計畫』より 昭和12年

 
東京オリンピックによって華々しい国際化へ踏み出し、「世界で最も動物を愛する国」になる筈だった日本。
しかし戦争によって東京オリンピックは中止となり、「東京オリムピツクまでに世界で最も動物を愛する国」になるどころか、ペットを敵視し、毛皮目的で殺戮する三流国へと落ちぶれました。

動物を愛するのも虐げるのも、「誰かのせい」ではありません。

 

そして敗戦をまたずに、近代日本犬界と満州国犬界は崩壊します。纏まった数の犬が残存していたのは戦災が少なかった北海道と、本州内陸部と、米軍上陸作戦に備えて軍用犬が集中配備されていた九州南部のみ。

天然記念物として保護されるべき日本犬も、焼け野原となった都市部では姿を消してしまいました。

 

いっぽう、戦時下の田舎町はどうだったのでしょうか?

愛犬を地方へ疎開させていた飼主も少なくなかったので、官憲の目が行き届かない安全地帯が存在したのかもしれません。

そういえば私が小学生だった頃「おじいちゃんやおばあちゃんに戦時中の思い出を聞く」という宿題がありました。「鉄砲は持って帰ったの?」などと阿呆な質問をする孫に対し、傷痍軍人の祖父は「銃はルソンのジャングルに置いてきた。私は片眼を失くしただけで済んだな」と言葉少なで、祖母は「私の町にはB29とか飛んで来なかったし、ひい爺ちゃんは犬ボーイを雇って白い日本犬(紀州犬?)を飼っていた」とのこと。

さらに「実家は網元だったから戦時中も海の幸には困らず、同級生の中で私だけ肥っていて恥ずかしかった」などと言い出すので、悲惨な戦中生活について知りたかった孫としては全く参考になりませんでした。

人生イロイロ。「戦時中で一括りにはできないんだな」と思った在りし日の歌。

 

……何でこんな自分語りを追加したのかといいますと、「俺は共犯者ではありません」というアリバイ作りのためです。この記事を書くにあたり、事実かどうかも検証できない祖母の話を免罪符にしたかっただけ。

さんざん戦時下の人々を非難していますが、「自分が当時の日本に暮らしていたら、犬を迫害する側だったんだろうな」と容易に想像できてしまうのです。

そうやってオノレの立ち位置を確認しつつ、次回から更にロクでもない犬革統制のお話へ突入。

 

太平洋戦争突入前年に撮影された阿部幸一氏の愛犬ボドー・フォン・ハウスクヂャクソウ。軍部の種牡犬として購買されたボドーですが、国内に残留していたため敗戦後は阿部氏宅へ戻ることができました。