中国大陸の大型犬として有名なのが、チベタン・マスティフ。
昭和初期の文献で大小さまざまなチベット産犬種が紹介されると、狆のルーツ探究がスタートします。いっぽう大型犬に関しては調査が進まず、チベタン・マスティフの知名度もそれほどではありませんでした。
寺院や富豪の門内には小牛大の番犬が一、二頭、ヤクの尾毛を編んだ紅染めのクビワを嵌め、紅染めのヤクの毛で飾り付をした同じ動物の尾毛で黑い太綱で繋がれてゐるが、此犬の多くは黑色長毛で、房々とした尾が背までかぶさり、歐米人がチベツトイヌとして珍重するもの、隊商旅行中、よく守護の任を果すのは彼等である。
從來、歐米の探檢家が再三持ち歸ろうとしたが、中國本土内や、インド、太平洋の航海中にたをれ、本國に着いたのは殆んどないらしい。
明治年間、成田安輝氏と云ふ人が、今迄失敗したのは成犬であつたからといふので、未成犬を三頭携行し西金を過ぎ、カルカツタ、シンガポールを經由し歸國の途についたが、結論を先にいうと一頭は航海中、他の一頭は歸朝後間もなくたをれ、最後の一頭が比較的長く生存した。
『チベットイヌ』より
明治時代には、チベタン・マスティフと共にチベタン・スパニエルも来日しています。
KM生『犬いろいろ』より 昭和9年
古代・中近世から唐土より渡来していた大型犬の記録はあるものの、それら「唐犬」の品種についてはハッキリとしません。子孫を残した地域もあったらしく、江戸時代の文献にも大型犬の記述は度々登場しています。
明治初期までは「獒犬(大きくて強い犬)」という唐犬が残存していたそうですが、その姿は下記のようなものでした。
江戸時代の日本で、唐土にすむと信じられていた犬たちの想像図。
『唐土訓蒙圖彙十三 禽獣』より
『繪本寫寳袋(享保5年)』 より
近代に入ると、西洋の書籍を介して外国犬種の知識が広まります。「唐犬」や「南蛮犬」で一括りされていた犬たちも、ポインターやセッターやテリアやチャウチャウという品種名で呼ばれるようになりました。
そしてチベタン・マスティフが来日したのは明治時代のこと。恩賜上野動物園で飼育されていた記録があります。
上野動物園は明治十五年三月の開設で、其間珍らしい犬の種類が二、三入園したことがあるので、動物園犬史の一斷面として紹介しよう。
一、元名チントウ(譯名獅)
明治三十五年春、約四歳、首府拉薩産。
陛下に献上しようと富豪から強いて割愛を受けたものだが、全身黄金色の美毛で、背から三段に波を打つて長く下腹へ垂れ下り、房々とした尾は背を覆ひ、其歩く姿は雄大そのもので、現地でも稀有の名犬といわれ、インドに着き市中を散歩中も、行人が一斉に振り向いたり、本人を取り囲んで大いに歡稱したので、恐縮するやら悦に入るやら、色々のエピソードが生れたが、シンガポール沖を航行中、一夜暴風雨に遭ひたをれた。長さ二尺二、三寸の庭犬として代表的なものであつた。
二、元名レシ(譯名熊)
明治三十五年一月、チベツト仁進岡産。全身黑くノド下に雪白の部分があり、柔軟な長毛の持主で、垂耳、牧場で飼養するいわゆるチベツト番犬で、無事内地へ着いたが同年秋皮膚病にかかりたをれた。
上野動物園在勤・福田信正『動物園のアジア犬』より 昭和23年
上野動物園にチベタン・マスティフが到着した年、大陸へ渡った日本人たちが現地の大型犬と遭遇しています。
当時の満州一帯には、玄洋社から派遣された多数の軍事探偵(スパイ)が潜入。来るべきロシアとの戦争に備え、現地の情勢を偵察していました。
その一人であった中村三郎少年は、一頭の犬と行動を共にしています。
蒙古犬の生後八ヶ月許りのを私の親友の橋爪君から貰ひ受けて來て、今日から連れて行かうと云ふことになりました。
名前は最初蒙古名があつたのでせうが、この蒙古犬は恰度狛犬のやうに如何にもトボケタ顔で愛嬌があるので、友達の橋爪と『トボケ〃』と呼んで居りましたところ、自分の名が『トボケ』と云ふのだと思つてしまひまして『トボケ』と云つてもすぐとんで來る。
この犬のお蔭で夜の世界に安心して眠ることが出來ました。犬が居なかったら安心して眠ることは出來ない世界であります(中村三郎)
このトボについて、中村三郎は「西蔵蒙古犬」であると説明しています。チベットとモンゴルでは在来犬種も全く違いますが、一体どちらなんですかね?
2年後に日露戦争が始まると、ロシア軍の掃討作戦によって軍事探偵の犠牲は続出。派遣された113名のうち、生き残ったのは9名のみでした。
中村少年はトボのおかげで敵の待ち伏せを察知し、危機を回避しながら日露戦争を生き延びます。
潘家台の鹵獲物資集積所にて、満州の大型犬と戯れる日本兵。 明治38年撮影
当時も「西蔵犬」と「滿蒙犬」は明確に区分されていたので、「西蔵蒙古犬」が何を指すのかは不明。
後に 統一哲医学会 (現在の天風会)をひらき、「中村天風」と名乗るようになってからも、彼は犬を愛し続けました。
「書生を雇ふ時でも、夜番を雇ふときでも、第一番に犬が好きか嫌ひかと云ふことを訊きます。どんな人でも犬の好きでないひとは置きたくない」と公言する彼は、若き日に苦楽を共にしたトボを偲び、大陸へ渡る知人にチベット犬を連れ帰るよう求めていたそうです。
昭和11年
戦前におけるチベタン・マスティフの記録はこの程度。当時のペット商カタログに登場することもなく、品評会に出陳された記録もありません。
それだけ珍しい犬種だったのでしょう。