生年月日 不明
犬種 日本テリア
性別 牡
地域 大阪府
飼主 田村菊次郎氏
日本テリアの権威、田村さんの愛犬です。

昭和9年の広告より
氣の利いた新年のトピツクでは御座ゐませんけれど、一つジヤツク(日本テリア種)の手柄話を聴いてやつて下さいませ。
御承知の通り私の宅の方は大阪の歌舞伎座の裏手で櫛比した料理屋の間に挟まれた家なので御座ゐます。賑やかな戎橋筋は數歩の距離、交番は眼と鼻の先といつた位置で御座ゐます。
十二月十日の深夜。通りは歳末賣出しの旗も下され、近隣の料理屋も板場を仕舞ひ、一番遅くまで起きてゐる眞向のスタンドも三時の時計が鳴ると扉を閉めました。大阪第一等の繁華街の眞夜中と申しますものは、又別に不氣味なもので御座ゐます。
突然、ジヤツクがハウスの中でウゝゝゝゝと含み聲で唸りました。その聲で不圖私も眼覚めましたが、ジヤツクはハウスの中で立上つたやうです。と、今度は幾分聲を强めてウワンと二聲ほど鳴いて、ぢつと耳を傾けてゐます。主人も眼を覚しました。
と、ジヤツクは、今度はいかにも自信に滿たされた許すまじき聲で、戸を掻きながらしきりに鳴き續けましたので、私は素破とばかり直ぐ寝床から飛出してハウスの戸を開けますと、ジヤツクは一散に玄關に駈け出しました。
私は電燈のスヰツチを捻りました。パツと入口に光りがさしますと、ジヤツクは玄關の敷居を踏まへて、入口の戸の方を睨みながらワン〃と吠え立てました。
乍併、入口の硝子戸には一向人の影もありませんし、窓を開けて外を物色しましても一向何の物音も致しませんでした。
「何んだつしやろ、妙だんなア」と私も呟きました。
大體ジヤツクと云ふ犬は滅多に吠えないので御座ゐます。他の牝犬は鼠が天井裏をゴト〃させても直ぐ鳴きますのに、ジヤツクはいつも黙つてゐます。その沈黙屋さんが他の牝犬が黙つてゐますのに、今夜に限つて吠えたてたので御座ゐます。
「野良犬でも通つたのやないか」と主人。
それにしては少し吠え方が違ふやうです。軈てジヤツクをハウスへ入れまして床へ入りましたが、何だか氣味が惡く暫く寝られませんでした。
枕時計を見ますと丁度四時過ぎで御座ゐます。間もなく乳屋の車や新聞配達が通るといつた鹽梅で、ポツポツ人の氣配がしてきましたので安心して寝ました。
所が、朝起きて玄關へ出てみますと、見慣れぬ薄い物尺の様な鋸が入口の敷居の際に落ちてゐました。
金物を切る鋸でした。そして入口の敷居の溝には真鍮の粉が散つてゐるので御座ゐます。多分硝子戸の中栓を外から鋸で引いたのかと思ひます。そしてジヤツクに吠え立てられたので、賊は吃驚して鋸を取落して逃げたらしいのです。
早速交番へ届けましたが、巡査も直ぐ検證に來て下さいました。
「別に被害はありませんか」
「御座ゐまへん、犬が鳴いてくれましたので逃げたらしう御座ゐます。私の方の犬は無暗に吠えまへんのですけど、昨夜は随分吠えましたさかい」
「普段吠えないで必要の時に吠える―、本當の番犬ですなア」
この巡査はなか〃味なことを仰言るのです。
「歳末は殊に物騒ですが、結構でした。犬の大手柄です。矢張り犬を飼ふて置くものですなア」
斯ういつて巡査は歸つて行かれました。
お蔭で賊の侵入を未然に防いだ事は、何と申してもジヤツクの大手柄で御座ゐます。
「ジヤツクちやん。あんたを本當の番犬や云ふて巡査が讃めてゐやはりましたで……」
私はジヤツクを抱き上げました。其日の御褒美は大好物のお芋とビフテキで御座ゐます。
田村まさ子『ジヤツクの御手柄』より 昭和12年