帝国陸海軍 17 〈軍用犬=主として満洲事変〉(『Gun』誌連載記事・1974年)

寺田近雄著

1974年

 

哀れ軍犬は満洲の地に ―『満洲軍犬』とその時代(『彷書月刊』掲載記事・2008年)

原山煌著

2008年

 

世の中には「犬の日本史解説」があふれていますけど、軍用犬の歴史はどうでしょう?

その解説に関しては、2つの見解に区分されます。
ひとつが「軍事分野における犬の用法」で、ミリタリー限定の視点。
もうひとつが「近代日本犬界における軍事分野」を俯瞰する視点。
 

犬 

昭和12年の軍犬購買会広告より。民間ペット界という基盤なくして、日本軍犬界は成立し得ませんでした。

 

では本題に入ります。

そもそも犬界関係者が編纂すべきだった日本の軍犬史は、不幸にもミリタリー界やジャーナリストが解説役を担ってきました。

「それで何が悪い」と言われてもですね。飛行機の歴史を知らない者にゼロ戦の解説をされたら「基礎から勉強し直せ」と思うでしょう?

犬の歴史も同じことですよ。


日本の軍犬は、資源母体である民間犬界との共生関係にありました。犬を調達したい軍部と、ペットを売りたい民間人が、帝国軍用犬協会を仲介として犬を売買する。その三者で成り立つ供給システムを知らないと、「ミリタリー視点の軍犬史」へ陥るのです。
いっぽうの犬界側も、奥歯にモノが挟まったような話しかしません。彼らは「犬の軍事分野」を黒歴史扱いし、テキストの編纂も放棄したままです。

消極姿勢の理由は、日本犬界が戦時体制に協力した過去(軍犬報国運動や猟犬報国運動や畜犬献納運動など)を今更ほじくり返したくないからでしょう。せっかく全責任を軍部へ押し付けたのに、被害者の立場を返上するメリットなどありませんし。
国粋主義の時流に乗って和犬復興を図った日本犬関係者や、「畜犬撲滅」を新聞ラジオで煽っていたマスコミも、同じ意味で過去は総括したくない筈。
そういったアレコレが重なり、軍・民犬界の結びつきは「無かったこと」にされてしまいました。歴史考証が放棄された結果、批判や美化という感想文で軍用犬史が語られる惨状へ至ったワケです。


この「ミリタリー視点の軍犬史」を時系列で遡ってゆくと、ひとつのレポートへ辿り着きます。
それが、1974年に月刊『Gun』誌上に掲載された『帝国陸海軍』連載17回〈軍用犬=主として満洲事変〉』。日本軍装研究会の寺田近雄氏が解説しただけあって、とても優れた内容です。
その影響力がどれ位かといいますと、次世代のライターたちによる軍犬解説の内容、構成、見解までもが寺田氏のコピーなんですよね。
お手本とする「寺田レポート」の内容が満州事変中心なので、フォロワーたちも満州事変で思考停止。「満州事変以降の軍犬史」を自力で探究しようとしません。

第一次上海事変から始まる海軍犬史、外地(南樺太・台湾・朝鮮半島など)に確立された軍犬界、戦後に禍根を残した帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会の対立といった戦時犬界史は、1974年時点で調べる者すらいなくなってしまいました。


満州事変を中心とした寺田氏のレポートについては、もう一つの掘り下げ方もできたのです。

それが「満州国の犬界史」。日本犬界の双生児でありながら、全く異質だった世界です。

満州事変で誕生した満洲国には、どのような犬界が構築されていたのか。満洲軍用犬協会(MK)をハブとする満洲国・大連・青島の犬界ネットワーク、関東軍軍犬育成所の活動、満鉄警戒犬や税関監視犬の活動、賽犬事業などなど、新たな視点も生まれた筈なのです。

しかし、満州国犬界をマトモに取り上げた書籍は『犬の現代史(今川勲著 1996年)』だけでした。それも僅か数ページの分量に過ぎず、ひとつの国の犬界史を解説するにはとても足りません。
寺田氏や今川氏の仕事を尊敬はすれど、私の指針にはなり得なかったのです。両者の中間に位置する教科書はないものか。

勢い込んで「帝国の犬たち」というブログ(「帝國ノ犬達」の前身)を開設したものの、方向性が定まらず悶々としていた2008年夏のある日。いつものように神保町で犬の本を漁った後、ふらりと立ち寄った三省堂書店の書棚に『彷書月刊』をみつけました。

おお、今月号は満州国特集じゃないですか。手に取ってパラパラめくったら、何と、犬に関する記事が掲載されています。
タイトルは『哀れ軍犬は満洲の地に―『満洲軍犬』とその時代』。著者は満蒙史を研究されている原山煌氏です。
期待もせずにナナメ読みした後、そのままレジへ直行。

……これはすごい。もしかしたら、俺にとっての新たな教科書となるかもしれない。

僅か4ページの文章を、帰りの電車で繰り返し読みました。
『彷書月刊』だから古書の話が中心なんですけど、原山氏が提示される「古書」は満洲軍用犬協会報『軍用犬讀本』。

つまりは、満州国における軍・民犬界のハブとなる組織の史料だったのです。

 

原山氏がとりあげている『軍犬讀本』は、後に『滿洲軍犬』へタイトル変更されました。


内地の軍犬報国運動は「絶対的不足しがちの軍犬を日本内地から持ちこんで、大陸での諸任務にあてようとする動きの一環(原山氏)」、満州国のソレについては「民間もまきこんで、優秀な軍用犬を効率的に供給する方向性に沿ったものであった(〃)」という解説に、内容の破綻や矛盾はありません。

これだよコレ、俺が求めていたのは。
やっぱり関東軍ではなくMKを中心にすべきかー。原山先生が苦心されたように、資料が少なすぎて満鉄より難しい分野だなあ。先が思いやられるけれど、何とか調べてみよう。
……などと決意して10年間ほどアレコレ漁り続けた結果、少しずつ滿洲関係の情報も蓄積されつつあります。

もしもあの夏に『彷書月刊』で指針を示されなければ、私は満州国犬界の入口に辿り着くことすら不可能だったでしょう。

以上のように、お手本となるテキストの存在は大変ありがたいのです。しかしそれに依存している限り、一歩も前進できません。
「ミリタリー視点の軍犬史」はどうあるべきなのか、寺田氏と原山氏のレポート内容を検証してみましょう。

 

2 

昭和9年、ベルリンを訪れた長坂春雄画伯とマックス・フォン・シュテファニッツSV総裁の記念撮影。

戦前の軍用犬関係者にとって、シュ翁はまさに「犬聖」でした。

 

それでは、お手許にある『Gun』誌1974年12月号の70ページをお開きください。……とか言われても、そんな大昔の雑誌は図書館にもないですよね。
出版された1974年当時は私も赤ん坊でしたし、神保町の古書店でこの記事に出会ったのは学生になってから。イロイロと無理のある展開ですが、その辺はご了承ください。

 

【“戦利品でスタート”および“犬種と用法”の部分について】

教科書掲載の『犬のてがら』等によって、「血に飢えた戦闘犬」みたいなイメージを広められた日本軍犬。寺田氏のレポートでは、その運用法を「警戒犬」「伝令犬」「衛生犬(レスキュー犬のこと)」にきちんと分類しています。
しかし、伝令犬が陣地間を往復するための「補助臭気線」の仕組みが解説されていなかったり、衛生犬も「負傷兵を引きずって運搬」とかいう事実誤認もありまして、細部の記述は不正確。

ちなみに軍用レスキュー犬は負傷兵捜索と救護兵誘導任務に特化しており、搬送は担架兵の役目でした。

もともとは「負傷兵を乗せた荷車を曳く欧州の軍用犬」の報道が日本の雑誌に紹介されまして、それが転載を繰り返すうちに「負傷兵を引きずって運ぶ軍用犬」へ変化していった経緯があります(寺田氏は誤った情報を拾ってしまったのでしょう)。

元ネタは下記のとおり。

 

欧州における負傷兵捜索犬と、負傷兵搬送方法のイラスト。ご覧の通り、荷車運搬が基本です。
負傷者を運搬するも此犬を使用するを得るなり。
即ち犬に車を付し、之を輓かせ、其車臺には、二人の負傷者を臥さしめ、且つ彈力強き構造にして、凸凹不整(たかひく)の道路と雖も、負傷者に痛苦を覺はしめざるべし。此載車運搬は、此れまでの擔荷卒(かつぎをとこ)の運搬よりも、負傷者は痛苦を感ずること少し。
此車は、犬一匹にて輓くを得るを以て、只之を宰領する者二人あれば可なり。
此れ迄の担荷卒にて二人の負傷者を運搬するには、四人を要するを以て見れば、實に半分の人數にて足れり。若し此軍用犬の需要益増加する時は、衛生隊の利益に於て大なる滿足を見るべし。
 
絵と文・在獨逸 拙誠居士譯送『軍用の犬(明治26年)』より

 

日本陸軍もこれに倣い、衛生犬が負傷兵を捜索発見、担架兵が搬送する人犬連繋方式を採用しました。

 

犬 

赤倉山麓の雪中演習における陸軍歩兵学校のレスキュー犬。一人の負傷兵に一頭の犬が付き添うのではなく、犬が次々と負傷兵を発見し、救助隊がどんどん搬送する方が何万倍も救命率が高いのです。その辺のノウハウは、大正時代に完成されていました。

 

日本犬界とミリタリー界を決定的に分離させてしまったのが、寺田氏によるシェパードの解説。

間違いだらけの内容を鵜呑みにした人は多かったらしく、50年経った現在も氏の主張が拡散され続けています。

もともとドイツ人は狩猟民族であり伝統的に平時から犬の優性化に努力しており、全く軍犬のために生れついたようなドーベルマン、シェパードといった民族犬を有していたために戦力化できた(寺田氏)

……「民族犬」って何なの?19世紀末に登場したジャーマン・シェパードは、「新しい使役犬種」という扱いだったのですが。

しかも作出者のシュテファニッツは「シェパードの任務は畜群監視、最重要なのは牧羊勤務」と明記しているワケで、要するにドイツ牧羊犬の最高峰を目指した犬です。

そもそもドイツは狩猟採集文化ではなく、農耕牧畜文化ですから。牧畜を支えるために牧羊犬文化が発展したドイツと、緬羊事業の拡大に失敗した日本では、「牧羊犬史」への視点が違い過ぎるのでしょう。

牧羊業界だけでは勢力を広げられないため、シュテファニッツ率いる独逸シェパード犬協会は「警察犬へ!」のスローガンを掲げて治安分野へ進出。更には調子に乗ってドイツ軍への売り込みを図りますが、バイエルン猟兵連隊が数頭を買ってくれただけ。

つまり、軍用犬としてのシェパードは悲惨なスタートを切ったワケです。

 

帝國ノ犬達-ホーランド 

ジャーマン・シェパードの祖犬、ホーランド・フォン・グラフラートSZ1。シュテファニッツが「理想的な牧羊犬」であるホーランドと出会ったのは、彼が軍を退役してから10年後(1899年)のことでした。ドイツ軍のシェパード配備へ至るには、それから更に15年間を要することとなります。

 

シェパードが軍用犬として普及したのは、第一次大戦勃発でシュテファニッツらが愛犬を大量献納したのがきっかけです。戦争終結によって各国軍人がシェパードを連れ帰ったことで、世界的な人気品種となりました。

牧羊犬から警察犬へ、警察犬から軍用犬へと守備範囲を広げて行ったワケですね。

しかし牧羊業界が小規模で直轄警察犬制度も廃止された日本での「シェパードの大手就職先」は陸軍だけ。日本人が目にするシェパードの報道も、軍事分野での活躍が中心でした。

帝国軍用犬協会や日本シェパード犬協会は「牧羊犬としてのシェパード活用」を模索するも、各地の種畜場はコリーとケルピーが独占状態。

羊群を追うシェパードの姿を知らない日本人は、「シェパード=軍用犬」のイメージを定着させてしまいました。
「ジャーマン・シェパード・ドッグ(「ドイツの羊飼いの犬」の意味)」の意味すら知らない軍事オタクが量産された原因は、この辺にあるのでしょう。

 

帝國ノ犬達-アルグス 

大正11年の演習にも参加した陸軍歩兵学校のドーベルマン。もちろん野良犬ではありません。

 

吉田中佐が地方の野良犬を集めて小型車の牽引用に訓練し(大正)11年の陸軍特別大演習にも出場させている(寺田氏)

 

寺田氏がアッサリ流している歩兵学校の記述は、本来重要な意味を持ちます。
格闘戦ではなく荷車運搬任務からスタートしたということは、日本軍が「近代的軍用犬」の用法を正しく理解していた証拠。火力中心の近代戦において、犬の格闘能力など無用の長物であると知っていたのです。

 

帝國ノ犬達-運搬犬 

歩兵学校で研究されていた荷車運搬犬。「大陸の戦場で撮影されたもの」とする解説もありますが、実際は大正時代に千葉県の陸軍歩兵学校で撮影された写真です。

この時点では犬橇で有名なカラフト犬が高い評価を受けていましたが、暑さに弱いという致命的欠点が発覚して失格となりました。

 

帝國ノ犬達-運搬犬 

研究内容が伝令任務へ移行した段階で、シェパードの恵須と恵智がズバ抜けた能力を発揮し始めます。この伝令任務を応用したのが駄載運搬犬。

やがて兵士の補助が必要な「荷車輓曳犬」の研究は縮小され、単独行動が可能な駄載運搬犬が主流となりました。

 

大正8年に小型車牽引(輓曳運搬)レベルだった歩兵学校の軍用犬も、大正11年の陸軍大演習では伝令任務をこなすまでに成長しました。
モチロン、野良犬の集団でコレを成し遂げるのは不可能。実際は篤志家の寄贈による獨逸番羊犬(シェパードのこと)やエアデールテリア(第一次世界大戦でイギリス軍が実戦投入)やポインター(データ収集用)やカラフト犬(高評価)や秋田犬(失格)や土佐犬(失格)が揃っていました。
大正10年には北白川宮成久王の遺志でドーベルマン3頭も寄贈され、大正時代の東京朝日新聞には「陸軍特別大演習に出場」したドーベルマンが写真付きで載っています。

 

犬 

青島のドイツ人警察官と青島系シェパード(通称は青犬)。この写真でわかるとおり、警察犬として山東省へ移入された系統です。

 

歩兵学校の軍用犬研究が大正時代の数年間で完成できたのは、第一次大戦における各国軍犬レポートを入手できたことと、青島系シェパードの「恵須」「恵智」が高度な研究内容に対応してくれたおかげでした。よって、日本軍犬史の揺籃期においてはドイツ本国産シェパードよりも青島系シェパードを重視する必要があります。

ドイツ租借地の山東省青島には、警察官アントショヴィッツによって警察犬が移入されていました。それらは繁殖を繰り返し、「青島系シェパード(青犬)」という一族を形成します。

それら青犬が日本へ渡ったのは大正3年のこと。

 

日本軍が優秀な軍犬を手に入れたのは青島攻略戦で、それがドイツ種のシェパードであった(寺田氏)

 

ページ数やテーマの都合上、寺田氏は軍部と民間犬界の交流部分を削ぎ落していますが、これでは青島犬界の成り立ちやドイツ直輸入個体への移行といった過程が分かりません。
参考までに、日本陸軍屈指のシェパード専門家・有坂光威騎兵大尉の証言を取り上げましょう。

 

私は一九一四年頃第一次世界大戦が勃発し、日本も連合国の一員として対独宣戦を布告し、青島を攻略したころ、日本に来たドイツの捕虜が、いわゆる青島犬と称せられる旧型のドイツ・シェパード犬をつれているのを見たことがあり、これらのうち少数のものが当時の日本軍人や一部の民間人に飼われたようです。

 

日本シェパード犬登録協会・有坂光威『シェパード犬の歴史的展開(1970年)』より

 

目撃者本人が「あれは青犬だった」と断言している以上、大正3年の青島攻略戦を機に始まった青島犬界と日本犬界の交流を明らかにする必要があります。

青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)と日本シェパード倶楽部(NSC)の果した役割が、ここでようやく満州事変へと繋がるのです。

 

 帝國ノ犬達-遺骨

奉天の獨立守備隊から神奈川県逗子延命寺へ届けられた那智・金剛の遺骨。後年になって奉天加茂小学校でも那智・金剛の遺骨なるものが発掘されており、軍犬2頭の遺骨が奉天と神奈川に4頭分存在する異常事態となりました(誰も気にしなかった様ですが)。

 

【“満州事変における軍犬の活躍”の部分】

レポートの冒頭で寺田氏が取り上げている那智・金剛・メリー。教科書にも載った那智・金剛姉弟は、青島在住の浅野浩利氏(TSC会員)が関東軍の板倉至中尉へ寄贈した青島系シェパード(青犬)でした。

ドイツ直輸入個体が高額・希少だった時代、揺籃期の日本シェパード界を支えたのが青犬だったのです。

NSCとTSCの交流は、日本シェパード界の発展に大きく貢献。歩兵学校軍用犬研究班メンバーだった板倉至中尉もNSCに加入し、最新知識の習得に努めました。

軍用犬専門家として関東軍に招聘された板倉中尉へ、TSCから寄贈された青犬が那智・金剛姉弟。

二頭が満州事変で戦死した後、その遺骨は奉天から神奈川県の逗子へ送られ、僚犬ジュリー號(メリー號とは別の犬)の慰霊碑「忠犬之碑」へ改葬されたのです。

「お国に命を捧げた犬たち」を宣伝材料に、日本軍は軍犬の配備を拡大。大量調達窓口として帝国軍用犬協会を設立し、民間犬籍簿の獲得を狙ってNSCとTSCを併呑してしまいます。関東軍にとっての青島は、シェパードの一大調達エリアと化しました。

 

このように、揺籃期のシェパード界と軍犬界は青犬のお世話になりつつヨチヨチ歩きを始めました。

しかしドイツ直輸入個体が増えると共に日本人は態度を一変。「青犬は山東省の雑種犬だった」「野獸だ」「タヌキだ」などと恩を仇で返す行為に走りました。

小学国語読本の教材となり、日本軍犬の象徴と讃えられる那智・金剛を雑種犬呼ばわりですよ。

日本軍犬のシンボルである那智と金剛。そのルーツすら忘れ去られた以上、満州事変における軍犬の評価が正しい筈もありません。


 

満州事変において「大いに実績をあげる(寺田氏)」と評された日本軍犬。しかし当の関東軍は満州事変を振り返り、「当時の軍犬運用は失敗だった」と総括しています。

將來北支方面軍に活躍すべき軍犬幹部を養成するにあらずんば其の將來は懸念すべき事情多し。先に關東軍が滿洲事變後鐵道警戒及討伐のため獨立守備隊に軍犬を配備したるも、軍犬兵及幹部の軍犬教育之れに伴はざりしため、軍犬の認識を誤りたるのみならず、利用不十分にして一時其の聲價を失墜せしめたることあり。

事變尚鎮まらざる方面軍の現状に於て軍犬幹部の養成、軍犬兵の教育及軍犬の訓練補充は目下不可能なる實情ありと雖も、將來教育訓練、補充の圓滑なる實施の如何は直接方面軍軍犬の盛衰に関係する所極めて大なるものあるべし。

關東軍は此の間に立ち、北支方面軍に對し再び失敗を繰り返さしめざる如く教育、訓練、補充等に對し大乗的立場より之れを援助するは両軍共同作戰の見地より關東軍の一使命なりと信ず。

 

『北支方面軍ニ於ケル鐵道及沿線警備状況ト軍犬ノ利用價値並ニ所感』より『其ノ三 關東軍トシテ北支方面軍ニ對スル態度ニ關スル所感』抜粋。

 

「大いに実績をあげる」どころかダメダメだったみたいですね。

那智・金剛・メリーの宣伝には成功したものの、満州事変では管理不足で戦病死する軍犬が続出しています。組織的な教育訓練、ハンドラーの昇進制度、大量調達システムの一切が確立されず、全てが中途半端。

属人化もひどく、指導者の貴志重光大尉が転属後は後継者もおらず、獨立守備隊は軍犬の運用を縮小してしまいました。

この反省を踏まえ、ハンドラー育成機関としての歩兵学校軍犬育成所および関東軍軍犬育成所の設立、調達窓口としての帝国軍用犬協会・満洲軍用犬協会の強化が図られたのです。

 

帝國ノ犬達-誘導犬記 

陸軍省醫務局 山縣軍醫少佐編輯『戰盲勇士の誘導犬記』より、日本シェパード犬協会から東京第一陸軍病院へ寄贈された盲導犬

 

【誘導犬の部分】

戦盲軍人誘導犬を取り上げた功績はすばらしいのひと言。70年代に『戰盲勇士の誘導犬記』を知っていた寺田氏の博識には驚嘆するばかりです。

しかし、陸軍盲導犬事業を支援した日本シェパード犬協会(JSV)に一切触れない理由は何なのでしょうか?

 

東京第一陸軍病院第二外科の山県軍医少佐が指導し、テストケースとして輸入盲導犬を与え人犬一体の訓練を行わせた(寺田氏)

 

このような解説では、陸軍省に委託されてポツダム盲導犬学校との輸入交渉および導入訓練を担当したJSVの奮闘努力が伝わりません。

「盲導犬は欲しいがドイツ犬界との人脈も予算もない。輸入を代行してくれ」と民間丸投げをはかる陸軍省医務局に拝み倒され、メンバーが私費を投じて輸入した盲導犬を軍部へ寄附し、ハンドラーを病院へ派遣し、失明軍人への訓練指導までアフターケアしてくれたJSV。その功労者に対し、何という仕打ちでしょう。

ただ、この分野に関しては救いがあります。

東京第一陸軍病院の盲導犬事業を再発掘したのが、『日本最初の盲導犬(葉上太郎著 2009年)』。これによって、日本盲導犬界の悪癖である陸軍盲導犬の黒歴史扱いや(日本盲導犬史のルーツが軍事用途という史実は都合が悪いのでしょうか?)、ミリタリー視点での誘導犬解説などは覆されることとなりました。

忘れ去られた戦時盲導犬へ、再び光をあてることができたのはうれしい限りです。

 

【軍犬解説の変質について】

もともと軍犬の解説はミリタリー界中心だったのでは?寺田氏はそれを踏襲しただけだろう?と思われるかもしれません。

しかし実際は違うんですよ。

戦時中は、民間シェパードの調達窓口であった社団法人帝国軍用犬協会などが解説役を担っていました。調達目的ゆえ、「資源母体たる民間犬界」と「調達運用側の軍部」の関係を強調した「軍犬報国運動」視点の内容だったのです。

読者へ伝えるべきは、日本軍犬の大部分が民間のペットを購買調達した個体であり、民間に支えられて成長し、その将来は根幹たる民間犬界の発展に左右されること。枝葉の軍犬武勇伝を報じるのは、マスコミや出版社の役割でした。

つまり、寺田氏の軍事視点ではなく原山氏の民間視点こそが「本来の軍犬史解説」なのです。

 

日本の軍犬解説は、戦前と戦後で全く異質なものとなってしまいました。

もちろん寺田氏の責任ではなく、フォロワーが道を切り拓けばよかっただけ。しかしそれは為されることなく、1974年以降は思考停止の40年間が続きました。

保守派に到っては擬人化された軍犬武勇伝を喧伝し、大和魂とやらを犬へ押し付ける幼稚な思考回路を披露しております。まさか、ジャーマン・シェパードが日本犬だと思ってんですかね?

いっぽうのリベラル系からは『犬たちも戦争にいった 戦時下大阪の軍用犬(森田敏彦著)』といった優れたテキストも登場しましたが、「教科書の妄信」にかけてはこちらの読者も同レベル。戦前批判の道具として犬界史を利用し、挙句の果ては現代の政治批判をオチに持ってくるという謎の儀式を繰返すばかりです。

マスコミの報道もセンセーショナルな部分にのみ焦点を当て、「血に飢えた日本軍犬」のイメージを捏造してきました。

犬界側も内輪の昔話に興じるばかりで、戦時への総括をしようとしませんでした。

 

こうして、日本犬界は自ら記憶喪失に陥ります。

歴史を探究する寺田近雄氏の姿勢に学ぶことなく、フォロワーたちは寺田氏の劣化コピーに終始しました。

あげく「自分が住む地域の戦時犬界」も知らない癖に、ご大層な「国家と犬」論を語り出したりするワケです。

そもそも彼らが連呼する「国家」って何なの?

漠然としたイメージではなく、どの中央省庁の何という施策が軍犬史と関係していたのかを語るべきでしょう。そして日本国は地域の集合体なので、国の施策と地域犬界がどうリンクしていたのかも説明してください。

歴史の教科書は自力で前進するための指針に過ぎず、絶対的な聖典ではありません。誤りや新発見があれば改訂し、余白にメモを書き加えていけばよいのです。

右や左ではない、ニュートラルな思考回路で日本畜犬史を語れる者はおらんのか。そもそもイヌは思想ごっこの道具ではないのだ。……という〆へとコジツケたかったんですよ。

原山氏と寺田氏には失礼な内容となってしまいました。