柴犬の一種とされる、長野県南佐久郡川上村で飼育されてきた小型日本犬。「梓山犬」や「信州狼犬」などとも呼ばれていました。
現代の書籍では「川上犬は戦時中に絶滅しかけた」と伝えられていますが、戦前の史料では違います。
地元新聞や日本犬団体の記録によると、川上犬は日中開戦前から減少していました。昭和初期の日本犬ブームでペット商に買い漁られて県外へ流出、川上村に残った個体も警察の畜犬税取締りで殺処分されてしまいます。
ようやく昭和9年に保護活動がスタートしたものの、昭和12年には日中戦争が勃発。軍需原皮の確保に走る商工省や農林省による犬皮統制を経て、戦争末期の食糧難やペット毛皮献納運動でトドメを刺されたのが事実の様です。

信濃川上流域、梓川一帯にいた川上犬(昭和8年)
日中戦争以前の川上犬について、幾つかの記録を見つけました。登山家と日本犬保存会の合同座談会では川上犬の買い漁りが証言されており、昭和8年の段階からナカナカ厳しい状況にあったようですね。
登山家・北村勝成
今度は長野縣を。
白木正光記者
いよ〃アルプスですね。
齋藤弘日本犬保存会理事南アルプス赤石連峰でつい近頃五六十の部落が發見されたが、そこなど有望でせう。もとは南佐久郡の梓川上流にいゝ犬がゐた。かつてその甲州境ひの川上村最後の部落で生れた柴犬を持つて來たが、評判がよく、川上村へ川上村へと押掛けたので、一ぺんに犬價が高くなつたことがある。天龍川奥には熊獵の名犬がゐたし、木曽福島の柴犬を見たこともある。古い話では山案内人の開祖とも云はれる嘉門次の犬は有名でした。
登山家・中元銀弘
上高地には熊、羚羊、眞鹿などがゐて、昔は獵が盛んに行はれた。
登山家・伊東彌六
嘉門次は大正六年十一月に死んだ。私が行つたとき、これも有名な山案内人の類蔵が一世一代のおつとめといつてついて來て呉れたが、その時嘉門次の小屋を訪づれると嘉門次は死病の腎臓で熊の皮をひいて寝てゐたが、特に頼んで二人を橋の上に立たせて撮つた。嘉門爺は百頭の熊を取りたい念願で、既に九十九頭とつたがもうとれぬと悲觀してゐた。
齋藤
今は甲州境よりかへつて長野から西の水内地方に柴犬がゐます。
白木正光『山に日本犬を探る座談會(昭和8年)』より
昭和3年の日本犬保存会設立を機に、無価値な地犬と見做されていた日本犬が再評価され始めます。
この日本犬ブームの到来によって、日本犬の消滅は避けられました。しかしその反面、ペット商が山間部に押しかけて猟犬を買い漁る問題も発生。
川上犬も村外へ流出し、深刻な「採集圧」に晒されます。
辛うじて残った個体も、警察署の畜犬税未納取締りで駆除されてしまいました(畜犬行政が警察から保健所へ移管されたのは昭和25年の狂犬病予防法制定後)。
未納税の場合は飼育登録もできないため、多くの川上犬が「畜犬(飼い犬)」ではなく「野犬」と見做されたのです。
日本犬が品切れになつたやうに云はれてゐる長野縣南佐久郡川上村では、まだ戸毎に數頭づゝ飼つてゐるのが、先頃無届け畜犬で殆んど同村梓山區中がゾロリと告發され、大弱りだと十月廿六日の信濃毎日は書いてゐる(昭和8年)
日本犬の再評価後、川上犬は一転して保護対象となりました。上の絵葉書では「珍重川上特産純日本犬」と紹介されています。
一連の打撃から回復するため、繁殖団体の設立が計画されました。昭和10年には「長野縣下の柴犬特産地、南佐久郡川上村の篠原武重氏等が中心となつて川上犬保存會の設立を奔走中(『よもやま』掲載)」との報道がなされています。
しかし、川上犬保存運動が本格化する前に日中戦争が勃発します。
皮革の最大輸出国であった中国と戦争を始めたことで、仏教的殺生観から皮革業界が小規模だった日本は皮革資源不足に直面します。
軍需皮革の確保を急ぐ商工省は、昭和13年に「皮革配給統制規則」を制定。それまで自由経済下で流通していた皮革を国家の管理下におきました。翌14年の規則改正により、三味線用だった駆除野犬の革(加工革のみ)も統制対象に指定されます。
戦時食糧難の到来を予測した農林省も商工省に追随。「ペットに回す飼料はない。駄犬は毛皮にすべき」として犬革統制に着手しました(反対に、農林省の管轄下にある猟友会所有の猟犬は保護対象でした)。
同年には「贅沢は敵だ」を標語に掲げる国民精神総動員運動もスタート。「戦時下においてペットの飼育は贅沢だ」という同調圧力が高まり、一般市民は隣近所の愛犬家を非国民呼ばわりするようになりました。
昭和16年の太平洋戦争突入以降、この同調圧力は更に高まります。
都市部ではペットの飼育放棄が相次ぎ、野犬の急増によって行政の狂犬病対策もパンクしつつありました。
戦況が悪化した昭和18年を最後に、ほとんどの畜犬団体は活動を休止。愛犬家は組織的防衛手段を失ってしまったのです。
軍部が要求する皮革の需要に供給は追い付かず、ついには野犬だけでなく個人所有のペットまで毛皮資源として狙われました。
そして敗色濃厚となった昭和19年末、軍需省(旧商工省)と厚生省は全国の知事宛にペットの毛皮供出を通達。これに従った各都道府県の警察署では、地域のペット殺処分を実施しました。
「陸軍省が管理する軍用犬」「内務省の治安維持にあたる警察犬」「農林省の野生獣毛皮献納に貢献する猟犬」「文部省が天然記念物指定した日本犬」は殺処分の対象外でしたが、集団ヒステリー状態の戦争末期にそんな理屈は通用しません。近隣住民の白眼視に耐えかね、保護対象であった筈の日本犬も毛皮として供出されてしまいました。
軍部から命令されずとも、日本国民は自発的に、上から下まで一致団結して犬を迫害したのです。
昭和20年の敗戦を待たず、近代日本犬界は崩壊。幸いなことに、戦時を総括すべき主体が消滅してしまいました。
進んで戦時体制に加担した国民は、敗戦と同時に「あれは軍部の責任だ」「自分は仕方なく協力したのだ」と主張し、「犬を奪われたカワイソウな被害者」へ変身。「駄犬を撲滅せよ」と煽り立てたマスコミも、いつの間にか戦時を断罪する側へと回ります。
せっせと黒歴史抹消に励んだ結果、日本犬界は記憶喪失へと陥ってしまいました。
特に、川上犬の解説については出典不明のアヤフヤな伝聞や時系列無視が多くみられます。
「戦時中、軍の命令で川上犬が殺処分された」という話もそのひとつ。色々調べましたが、アレは事実なのでしょうか?
前述のとおり、戦前の段階で川上犬は激減していました。そこへ日中戦争が始まり、犬皮統制や飼料不足で再び打撃を受けたというのが正確だと思われます。
犬皮統制や狂犬病対策を管轄する中央省庁は、商工省(後の軍需省)、農林省、厚生省、内務省のみ。陸軍省が民間ペットの殺処分令を出したことはありません。
犬に関する陸軍省の担当範囲は「軍犬報国運動(軍犬調達母体としての民間シェパード普及活動)」でした。
戦時下の畜犬行政については、「日本国」ではなく「地域性」を考慮する必要があります。
戦争後期の長野犬界の実情はどうだったのでしょうか?川上村エリアにおける畜犬行政の内容は?
川上犬の駆除に関与した公的機関はどこですか?陸軍省なの?それとも長野県庁?もしかして川上村役場?
陸軍省が「川上犬を駆除せよ」と命じた公文書は存在するの?
まあ、軍部が戦争を始めなければペットが毛皮にされることもなかったのですが。
行政機関による毛皮献納は、信濃毎日新聞をはじめとする地元メディアにも記録が残っている筈です。川上犬の毛皮献納を命じた公的機関はどこだったのかを知る上で、その辺の一次史料も発掘できればよいのですが。
