生年月日 明治時代

犬種 不明

性別 不明

地域 東京府

飼主 高橋天啓氏

 

 

前回、大正時代に存在した犬のメンタルクリニックを御紹介いたしました。

一体どのような治療を施していたのかは謎ですが、今回は経営者の高橋天啓氏が飼っていた犬のお話を。

 

https://ameblo.jp/wa500/entry-12387098402.html

 

私は精神治療と信仰心理及食養療法に就き已に二十年間聊か研究と實験を経ました。感應の傳通と、思想の移転によりて、感應を精神作用か、肉體上に種々なる變化を及ぼすと共に、周囲の凡てのものに感應共通して、變化極りなく、殊に高騰の動物と共通すること顕著にして、無情の動植物までも、感應することを實験しました。

 

凡そ動物に、霊氣霊動あることは、恰かも物質に電氣ある如くであります。特に高等動物としての、家畜犬猫牛馬の如き、常に人類の交感作用間断なきものに於ては、永久馴れ親むのあまり、人間と同様なる遺傳性を具存して居る。

此の結果として、犬族が人類に向つて、永久馴れ親み、多大なる犠牲を拂ふのは、即ち感應共通して、彼の忠實なる同族の、特性を證明する所です。之れ私が二十年間に於ける實験と、抑も犬を飼ひ始めた起源であります。

 

私が犬を飼ひ始めましたのは、實に偶然の事からで、病妻の看護に遑なかりし折り、青山南町一丁目の自宅縁下に、野犬が四疋ほどの子を生みました。

其内で、赤毛で前額に白毛の筋の通つたのを拾ろい上げて玉と名づけて、育てたのが犬の飼ひ始めでありました。

至極怜悧に見受けました。それが或る時本所の宅迄、附て参りましたが、私が通勤して居る役所まで、一里餘の處を朝夕送迎をいたしました。

當時犬に付ての私の感想は、犬と云ふものは一般に番犬猟犬として吠、又は使ひする物として知り、其性質の監定及扱方等は全く不案内でありまして、感情の傳通は素より、思想の移転など、氣が附筈もなく、犬に言葉をかくるものあれば、ヒステリーか、ヒポコンデスの神経質病人かとしか思ひませんでした。犬の真似事をするのを見ても時に些かの神経感應より馴致するものとのみ心得て居たので、此の小犬にして時間を違ゑず、毎日役所の送迎を致す事さへ、不思議に存じました。

處が其犬が毛が脱けて如何にも穢いので庭の箱中に起臥させたのですが、毎夜私が目を醒して見ると何時しか、枕頭に來て伏して居るのには驚かされました。摘み出してもつまみ出しても、立ち去らず付纏ふたのには弱はつたのです。

 

又下女が飼育を面倒がりて、折々犬の頭に拳骨をふるまうと直ぐ其下婢の下駄を噛へて汚物場へ捨てに参り、遂に下女を閉口せしめました。夫れから又奈何なる肴の大きな骨でも、喰ひ残したる事がない。夫れが不思議さに、注意致して見ると、縁の下に深い穴を掘り、喰ひ残りの骨を其穴に入れ、土をかぶせて埋めて居たのです。或る時隣家の犬と喧嘩して、頸輪鈴守札とも紛失したのでこつぴどく叱責した處、不思議にも其晩より姿が見へなかつた。然るに三日目の夜中頃鈴の音がするので出て見ると、紛失した頸輪鈴守札とも噛へて帰つて來たのに實に驚きました。

 

病氣に罹り食物を喰はず薬も呑まず、只盥中に打伏せしまゝ、夫れからは役所の送迎をする力もなく、痩せ衰えて、瀕死の境であつたのです。

金澤へ転勤の辞令を受取つて役所の門を出ると、病み衰へて居る犬が迎に來て、傍を離れず附纏ひ寸時も離れなかつた。扨ては離別を惜むのかと不愍に思ひ、初めて犬に言語を交へて、此家敷は汝の生れし處だが私が行つた後は土地も家も主人が變るのだが、止むを得ない。私が去つた後は、我れに代りて此處を護れと私語した、翌日新橋迄夫婦の出發を見送りたり。

途中大津驛を離れ草津に於て腕車にて急ぎしに、車の後に家犬同様寸分違はざる犬尾行し來り。餘り氣懸りにて態々車夫を止めて小用を命じ、笑はれながらよくよく視るに、不思議他犬なれども寸分違はず。

 

愛犬玉のことは常に心頭にかゝつて居たが、父よりの書状に無事のことは度々知らせが來ましたのです。家屋は人手に渡したが、依然床下に深く大穴を掘つて棲家を製らへ、犬殺が來ても穴中に避けて、難を遁れた。三年後の暮れに帰京して青山御所前に來ると、如何して知つたのか出迎へて尾をふり夫れからと云ふものは傍を離れず、犬嫌ひの叔母も、玉の忠義にして云ひ付けられた通り永い間舊家を去らなかつたのには、何れも感じ入り何日も話頭に上つて居た。唯不思議なほど怜悧の畜犬でありました。

 

私は犬を愛育したと云ふよりも、却つて犬より保護せられたるの感があるのです。忠勇親義なる玉が斯く我が一家に向ひ其天職を盡したかと思ふと、汚ないとか又氣味が悪るいと云つて摘み出した以前のことを追想し、無告の動物に對して、實に慚愧の至りに堪へない次第ですが、之れ私が多年経験した、感應共通の實験であります。

 

感化教養心身健全社々長 高橋天啓『人畜と犬族の感應』より 大正4年