明治己己二年
香林女轉性慈福霊
十月二十一日

藩知事島津公母夫人嘗有所畜小狆( 藩知事島津公母夫人、嘗て畜う所の小狆有り)
本武州糀街生世也 (本武州糀街の生れなり)
自従地召育側馴致異他也 (自ら地に行きて召し、側に育み、馴致すること他に異れり)
然彼狆漸六歳而具日州佐土原日月鍾愛尤篤 (然して彼の狆、漸く六歳にして日州佐土原に具し、日月鍾愛すること尤も篤し)
焉平日抱襟懐臥衣裾夜則護寝室 (平日は襟懐に抱き、衣裾臥せしめ、夜は則ち寝室に護る)
凡見異色人雖白昼吠之 (凡そ異色の人に見ゆ、白昼と雖も之に吠ゆ)
曩致鹿府此時亦具乗輿須臾不去 (曩に江戸に到る、此の時も亦具して輿に乗り、僅かの間も去らず)
我側馴致浴恩爲日久矣 (我が側に馴致し、恩に浴すること為に日久し)
明治二年自己初夏老躬漸痺麻鼈躄 (明治二年自己初夏、老体漸く痺麻し、鼈躄たり)   
医薬無験如睡十月廿一日終歿 (医薬験無く、睡るが如く十月二十一日終に没す )
我囲鳴乎痛哉 (我狆の檻に鳴けり、痛ましいかな)
享年十有二也 (享年十有二なり)
是以追慕之情乞僧埋葬大池山 (是に追慕の情を以て僧に乞い、大池山に埋葬す)
嘗聴昔仲尼之畜狆歿(嘗て聴く、昔、孔子の畜狆没す)
使門人子貢埋之曰(門人子貢をして之を埋めしめて曰く)
吾聞之弊旧帷不棄爲埋馬 (吾之を聞く、破れて古くなった帷を棄てざるは、馬を埋めんが為なり)
弊古蓋不棄爲埋犬也 (古くなった馬車の屋根を棄てざるは、犬を埋めんが為なりと)
夫人亦慣之託佛子受経馬蓋 (夫人も亦之に慣い、仏門の人に託し、経を受け、馬蓋して埋葬す)
十二年間以馴致吾側 (十二年間、以に吾が側に馴致す)
故欲使後人建一小碑(故に後世の人をして一小碑を建て)
以傳無躬而己矣 (以て永遠に傳えしめんと欲するのみ)

 

「香林女轉性慈福霊」の碑文より(訳文は高橋論氏によるもの)

 

犬

「香林女轉性慈福霊」の文字が刻まれた福の墓。

犬でありながら藩主の墓域に葬られた特異なケースでした。

 

航空自衛隊新田原基地のF-15戦闘機が爆音を轟かせて離発着する傍ら、一ツ瀬川を挟んだ佐土原町に古い犬の墓があります。

このペット慰霊碑を建立したのは、佐土原藩主・島津忠徹夫人である島津随(随姫・後の随真院)でした。

天保10年に夫を亡くした彼女は、20年後に「福」という牝の狆(安政5年頃生れ)を飼い始めます。

文久3年、随真院は領地である日向の佐土原(現在の宮崎市佐土原町)へ移住。6年後の明治2年、福はその生涯を終えます。

愛犬の死を悲しんだ随真院は、佐土原の地に福の墓を建立しました。

 

関東から九州へ赴く63歳の主人に付き従い、12歳の長寿を全うし、孔子の故事にならって埋葬された福。当時の犬としても別格の扱いだったのでしょう。

愛犬の生涯とその死を悼む島津随の碑文は、当時のペット観や動物慰霊を知る上でも貴重なものです。

 

ちなみに、佐土原藩となる前の佐土原領主は妖怪首おいてけでした(画像は佐土原で開催されたドリフターズの原画展)。

 

江戸時代の犬の墓碑は、出土品を含めて幾つも確認されています。多くは特権階級の愛犬ですが、大阪の暁鐘成が建てた「犬墳の碑」のような、一般庶民のペット慰霊碑・義犬塚も現存します。

その当時、特に愛玩されたペットが狆(ちん)でした。いわゆる「和犬」とは異なる姿の、おそらくはチベットあたりをルーツとする日本古来の座敷犬。

その狆を筆頭に、我が国で作出された「広義の日本犬」たちがいます。

今回は和犬でも洋犬でもない、国際交流のはざまで誕生した日本の犬について取り上げましょう。

 

 

現代においては、「日本犬界のエリア=日本列島」とイメージするのが当たり前。
しかし近代日本では違いました。あの時代、南樺太、朝鮮半島、台湾、関東州、そして南洋の島々も日本領だったのです。ついでに傀儡国家の満州国も誕生し、「日本犬界のエリア」は相当にアヤフヤなものとなっていました。

だからといって、21世紀に「カラフト犬(南樺太)や珍島犬(朝鮮半島)や高山犬(台湾)も広義の日本犬だ」と主張しても通用はしません。

 


近代日本の犬のブログとしては、その辺をどう線引きしたものやら。勿論、島国視点が基本なんですけどね。

混乱を避けるため、「日本の洋犬史」「日本犬の歴史」「外地(南樺太、台湾、朝鮮半島)の犬界史」「満州国の犬界史」に記事を区分しました。

それらから除外された「広義の日本犬」、つまり狆や日本テリアや日本スピッツや土佐闘犬はどうなるのか?

洋犬でも和犬でもない彼らは、「日本の洋犬史・番外編」として扱うしかないのです。

 

浮世絵1

 

【狆と日本人】

 

「日本の国犬」である狆は、古くから愛されてきた品種でした。私も幼稚園生の頃、隣家の住人が飼っていた狆と遊んだ記憶があります。

しかし近年はチワワやダックスに押され、その姿を見かけることも少なくなりました。

永らく上流階級の愛玩犬であり、当時存在した和犬、唐犬、ムク犬とは別格の扱いだったとのこと。

狆が一般庶民のペットとなったのは近代に入ってからです。

 

犬

海外書籍でチベット原産の犬種が紹介されると、日本犬界では狆のルーツ探究が進みました。

KM生『犬いろいろ(昭和9年)』より

 

有名な割に、狆の詳しいルーツは現在に至るも不明。

古い時代に渡来したチベタン・スパニエルなのか、中・近世に持ち込まれたペキニーズなのかすらもハッキリしません。小型の座敷犬に関しては、「奈良時代あたりから、大陸の犬が天皇へ献上されていた」との記録があるだけです。

明治35年にはチベタン・スパニエルが来日したものの、上野動物園に収容される珍獣扱い。日本の狆と比較研究されることもありませんでした。

この個体は成田安輝氏が輸入したもので、明治34年にチベタン・マスティフの「チントウ」「レシ」と共にチベットを出発。航海途中でチントウが死亡するも、残る2頭は無事到着しています。

 

元名チユアツアイ(呼名赤)、明治三十四年十二月チベツト春碑産で、チンの様な黑白のブチがある。チベツト座敷犬の母犬と、赤褐色のチベツト庭犬との交雑種で、普通みられるものより耳が少し長く直立してゐるが、(※明治35年)無事内地へ到着。翌三十六年九月入國し一般に公開したが、當時の覺え書を見ると、評價二十五圓の牝で、體矮小、肢は短く全體の地色は黄褐色に黑い虎斑があり、顔面黑褐色、胸前から腹、四肢、爪の附根は白い。

本犬は爾來約六年八ヶ月飼はれ、四十三年五月二十三日たをれた。

 

上野動物園・福田信正『動物園のアジア犬(昭和23年)』より

 

浮世絵2

 

 

この狆と思はれる犬の渡來は、文献では古く一千二三百年前、渤海國或は新羅の貢物の中に、蜀狗或は矮狗と記してありますが、之等はしばらく置き、盛んに輸入されたのはやはり徳川時代と考へるのでありまして、阿蘭陀人之を持ち來るとか、紅毛人より傳はる等と記されて居ります。

この狆と云ふ意味は、小さい犬は皆狆と呼んだものでありまして、古くは小犬と書いてチイサイヌと讀み、それより転じてチイヌ、チヌ、チンと變化致して居ります。

今日の日本テリア等と云ひます様な、短毛の四肢の細いすつきりとして日の丸斑の犬も狆の中の一種。鹿立ちと稱へられて居ります。

當時狆に關することは舊幕府時代麹町に住して居つた狆醫者の著と云はれる「狆飼育書」にその種類、系統、由來、飼育、蕃殖、治療法等が書かれてありまして、遂には江戸の狆は、渡り即ち輸入ものよりも、長崎・京・大阪のものよりも、その交配によつてはるかに小さく、はるかに釣合のとれた、品良いものを作り上げたと記述してあります。

此の狆は主として諸大名に愛育されたものであつて、天明元年酒井雅楽頭が將軍家の使として、上洛のときに、その愛育の狆がどうしても側を離れず、遂に御供して京都まで参つたことが天聴に達し、畜類ながら主をしたふ心あはれなりと六位の位を賜り、當時「喰ひつく犬とは豫て知りながら、みな世の人うらやまんわん〃」と云ふ様な狂歌が殘つて居ります。

又、福岡の藩主黒田候の著述に、ちぬの考と題し、狆の故事來歴、種類、系統等を詳しく書いたものが残つて居りますが、大名の犬の書は珍しいものであります。

又、私の知人のある考古學者が、先年東京の某寺の過去帳を調べて居りますと、畜女、即ち女性の畜と女と云ふ字のついた戒名が盛んに出るので、不思議に思つて、墓をそつと掘つて見ました所が、狆の骨が出て來たので、畜女の謎がとけたと云ふことを聞きました。之等は如何に大名、奥方、女房等が狆を愛育したかと云ふことを物語るものでせう。

 

齋藤弘『ラヂオ犬談の夕べ(昭和12年)』より

 

江戸時代の図譜では小型犬=狆と解説されており、日本テリアのような短毛種も含めた呼称だった様です。

和犬の仔犬(えのころ)と小型犬を比較するように描かれていますね。

 

眉毛がステキ。

 

徳川家の大奥に狆を納めた出入商人として二人の名を擧げませう。一人は櫻田伏見町の濱松屋善蔵。他は本郷一丁目の越前屋四郎で、この二軒が三百年間を通じて將軍家へ狆を供給したのでした。この二軒は出入商人と云へ、所謂るお止め商賣の様なもので、普通の人へは狆を賣らず、専ら柳營にのみ納めたものです。

文献がないので瞭りしたことは判りませんが、恐らく立派な狆が納められたものでせうし、又優れた狆が柳營で飼育されたことだらうと思はれます。將軍家で盛んに狆が飼はれる一方、六十餘大名その他豪商名家の家庭でも狆が流行しましたが、大名達は銘々出入の鳥屋や狆屋その他から供給を仰いだものらしく、その狆屋の代表的なものは浅草の狆屋で、今日では牛肉のちんやとしてその名を止めてゐます。徳川末期から明治にかけて狆屋を開き、よく知られてゐるやうですから、書くまでもありますまい。柳營の狆の様子はよく判らないのですが、恐らく二○頭位はいつも飼はれてゐたと思はれる節があります。といふのは、徳川の末期柳營の奥醫で、自身の愛玩趣味で狆の病氣にたづさわつたと言ふ堀本法印(※医者の官名)と云ふ人が、徳川期を越えて明治に至るまで、麻布に居を構えてゐましたが、この醫者の口から直に話されたことを綜合すると、どうも二十頭位は常に居たらしく思はれるのです。そして實に手厚く飼育せられた事は想像以上と思ひます。

かうして一時狆は上も下も隆盛を極めたものですが、狆が日本獨特の愛玩犬として初めて外國へ紹介されたのは、私の推定によると、およそ次のやうな譯合からではあるまいかと考へられます。長崎に和蘭船が貿易に來た頃、狆が船中の慰藉として船へ持ち込まれ、これが或は一頭、或は二頭と歐洲へ紹介された。

 

須永政三『狆談(昭和12年)』より

 

嘉永7年にペリーが来航した際、日本で入手した二頭の狆。分厚いうえに古い本なので、スキャン作業も大変なんですよ。
アメリカ海軍編『Perry's Expedition to Japan(1854年)』より
 

狆は海外でも人気が高く、黒船で来航したペリーも二頭の狆を持帰り、一頭はヴィクトリア女王へ献上しています。明治28年にはイギリスで「ジャパニーズ・チン・クラブ」が発足。フランクフルトの展覧会でも狆が入賞しました。

江戸~明治にかけて品種として固定され、やがて庶民のペットとなった狆。しかし、ブームが去った大正以降は飼育頭数も減少してしまいました。

昭和10年の東京エリアで、警視庁が飼育登録した狆は377頭のみ(※当時の畜犬行政は保健所ではなく警察の管轄でした)。単純に47倍する訳にもいかないのですが、全国規模ではどうだったのでしょうか?

昭和10年頃から愛好団体も発足しますが、直後に戦時体制へ突入。結局、その勢いを盛り返すことはありませんでした。

海外流出や品種改良によって、その姿も大きく変貌していた様です。

 

お姐さんたちと狆。彩色写真なので、この毛色が正しいかどうかは不明。

 

さて、狆は現在一體どうなつてゐるか、現状を大略申し上げますと、徳川時代から明治中期にかけて被毛の長い、殆ど畳に垂れなんとするものがありましたが、これ等は皆種犬を外國に持ち去られ、今日根絶に歸したのは誠に殘念な次第です。現在偶々残つてをりますのは、尾と耳の被毛の長いもので、これを改良して被毛も長いものにしたいと努力中であります。

又、被毛は短くとも、愛くるしい表情の狆―これの作出が近來好んで行はれて來、同時に狆の習癖も著しく改善されて來ました。狆は昔は意地の惡い犬とされ、愛玩用としてある意味で飼育しにくい犬とされてゐたのですが、今ではそんなことは絶對になく、極めて飼ひやすい犬となつてゐるのです。大きさも漸次小型となつて來ました。三、四十年前には二貫目以上もある狆が幾らもあつたのですが、今では膝に乗せても重味を感ぜぬ程度のものがよく、これは將來に亘つても缺くことの出來ない條件ではないかと思ひます。恐らく外國人にも好まれる條件の一つではないでせうか。

最近私共で三百匁内外の狆を四頭も作出しましたが、狆は將來確かに小さく出來るといふ自信を益々固めることが出來ました。被毛は今の所で四、五寸見當で、現在狆としてこれ以上の長さは望まれますまい。もしそれ以上のものが皆さんのお手許にあれば、良血統として是非保護して頂きたく、やがては明治初中期に見えたやうな長毛の狆も、これが元になつて作出されることになりませう(須永政三)

犬 

「徳川時代から明治中期にかけて被毛の長い、殆ど畳に垂れなんとするもの」とある絶滅品種は、このムク犬のことでしょうか?

しかし江戸期の図譜では、狆とムク犬は別種の犬として記載されています。

『繪本寫寳袋(享保5年)』より

 

淘汰が進むまでは、多様なタイプの狆が存在したのでしょう。

江戸期の絵画にも、絵師の腕なのか写実なのかは分かりませんが、さまざまな姿の狆が描かれています。それだけ身近な取り合わせだったのですね。

花街の女性たちも狆を愛しました。辛い日々をおくる彼女たちにとって、ペットは心の慰めであったのでしょう。愛犬・愛猫が死んだ後、動物霊園(戦前から存在しました)へ熱心に墓参する人も多かったそうです。

 

帝國ノ犬達-大泉霊園 

夥しい数の卒塔婆が並ぶ、昭和11年頃の大泉動物霊園。東京市の都市計画法と土地面積の問題により、同園が土葬から火葬へと移行した時期です。

牛馬、犬猫はもちろん、金魚や爬虫類まで受け入れる霊園もありました。

 

 

狆

 

狆

 

好んで描かれ、写真にとられてきたのが「女性と狆」。

もちろん男性の愛好家もいたのですが、「オッサンと狆」の組み合わせ写真はナカナカ見つかりません。

 

小田大佐

「海軍大佐小田喜代蔵君、特種の重要任務を奉じて旅順丸に在り。常に其の二愛犬を船中に畜ふ」
『日露戰爭實記(明治38年)』より

 

ハナ

こちらは宮内省飼養のやんごとなき狆ですが、どの皇族の愛犬かは不明(大正2年撮影)

 

高嶺の花だった狆が一般のペットとして普及する過程には、ブリーダーも貢献しました。

 

狆

関西地方の狆ブリーダー・下川いね子氏。これらの狆は、アメリカの展覧会まで遠征していました(昭和10年撮影)

 

戦前の日本で、狆の国際化に尽力したのが下川いね子氏(ボストンテリアを日本へ輸入した人物でもあります)。上の画像でスプラッツ社製ドッグフードが写っているとおり、狆の食餌にも気を配っていたことが分かりますね。

「舶来品を入手してでも愛犬の健康を保ちたい」という愛犬家心理を理解できない人が、「日本初のドッグフードは戦後に進駐軍が持ち込んだ」などというウソを垂れ流すワケです。

幕末から昭和20年8月15日までの90年間、日本ペット界だけは鎖国を続けていたとでも思っているのでしょうか?

 

狆のイラストを描いた下川さんは、長いアメリカ暮らしの経験を狆の国際化へ役立てました。

 

狆の海外進出も、昭和12年の日中戦争勃発で急ブレーキがかかります。高額な犬の輸出入も制限がかけられるようになり、国際関係の悪化もそれに拍車をかけました。

下の画像は、昭和14年に来航した米重巡洋艦「アストリア」のケリー・ターナー艦長が夫人へのプレゼントとして購入した狆。狆による日米和解……とはいかず、2年後に始まった太平洋戦争で、‟テリブル”ターナーは対日戦の指揮をとりました(アストリアは昭和17年の第一次ソロモン海戦で日本艦隊と交戦、沈没しています)。

 

一旦頓挫した狆の国際化は、戦後に再スタートを切ることとなります。しかしその頃すでに、戦争で打撃を受けた国内の狆は衰退しつつありました。

 

ターナー

 

【日本テリア】

 

日本で生れたもうひとつの座敷犬が日本テリアです。

「江戸時代に渡来したフォックステリアが源流」とも言われていますが、詳細は不明。品種として固定化されたのは意外と新しく、大正時代になってからです。

昭和10年度に東京エリアで飼育登録された狆377頭に対し、日本テリアは5316頭。実際、大人しめの狆愛好家とくらべて日テリ愛好家は極めてアグレッシブでした。

各地で展覧会や研究会を開催し、座敷の外へ飛び出していったのです。

 

犬

 

犬

 

犬

 

inu

個人的に「鏡餅」と呼んでいる日本テリア。お姐さんがたからモテモテ王国です。

 

神戸は短毛種テリアの原種犬クロの出た土地であるが、この血統は神戸よりも寧ろ大阪で培養され、大阪の人の血と汗によつて遂に現代の日本テリアを作出するに至つた。
従つて神戸に於ける日本テリアは、大阪の太郎系チエリーが逆輸入されて、漸次發展の道程を通り、丸直仔ピーによつて今日の基礎を築き上げたことになつてゐる。此外にチー系のボーヤとかキング系のヒーロー(日聯大阪第ニ四六號)なども移入されたが、併し何といつても神戸の日本テリアの大部分はピー系に属して居る。
由來、神戸は開港地だけに、氣風も荒く、個人主義的なところがあり、又唯我獨尊的なところもあつて、日本テリアの團體などもなかなか出來なかつた。
昭和十年になつて、漸やく神戸テリア協會といふのが組織されたが、神戸や大阪で催される總合展などにニ三回會としてのベンチを借受けて所属會員の犬を出陳しただけで、大阪あたりの優秀系統の種を引くでもなく、組織的な改良蕃殖の共同研究なども餘りやらなかつたやうだ。こんなことでは、折角會が出來ても犬作上の進歩がない。だから神戸の日本テリアは舊態依然としてピー系の鋳型を脱する譯にはいかないのは遺憾である。

狆を凌駕するほど全国各地に熱心な愛好家がいたことで、日本テリヤ協会・日本テリア研究会・日本テリヤ倶樂部をはじめとする愛好団体も結成されました。

品種として固定された後も、関東・中部・関西それぞれの独自勢力が強すぎて全国標準化は難航した模様です。

 

名古屋方面は、京都や他の地方と較べると、それよりも一歩も二歩も早く日本テリアが普及されていつた。之は前回にも述べたが、名古屋市蒲焼町廣林健三氏の賜である。
廣林氏は昭和八年、自ら中部日本テリア協會を組織したり、或は日本テリアの展覧會を開いて大阪の有名な種牡犬を招待出陳させたり、名古屋方面のテリアの發達に必死となつて努めたものだ。
又大阪から夥多の種犬を移入して資質の改善を圖つたが、併し其間改良目標の理想に缺けるやうな點がないではなかつた。
假令へば、昭和六・七年頃単に利益を目的とする大阪の一部の人で作出されたスムーズ・フオツクス・テリアと日本テリアの合引になる有害無益な一代雑種犬をも無選擇に移入したことだ。之は確かに東海地方の一部の短毛種テリアの健全なる發達を阻止した。
第一に日本テリア特有の眼張りのよさを失ひ、第三に毛質の洗練を害した。こうした結果を見たことは遺憾であつた。とは云へ又名古屋地方で作出された短毛種が東上して、豊橋や静岡、東京方面へ続々移出され、關東の日本テリア改善の素地を作つたことは一つの功績と云はねばならぬ。

 

田村菊次郎『日本テリアの系統研究(昭和15年)』より

 

犬

「日協」の略称が紛らわしいのですが、あの日本犬協會ではなく日本テリヤ協會の登録犬です。

 

【日本スピッツ】

 

戦後へ至る人気品種だった割に、日本スピッツの記録もなかなか見つかりません。

この犬については、「大正時代に原種が来日した」という記録がある程度。輸入した白毛のジャーマン・スピッツあたりを小型化、品種として固定したのでしょう。

大正期にスピッツのような犬の写真も撮られているのですが、キャプションはいずれも「ポメラニアン」。……ポメラニアンには見えなのですが、その辺はどうしようもありません。

 

スピッツ

昭和12年の広告より

 

スピッツ

戦時中のスピッツ・ブリーダーの記録(昭和15年)

 

日本スピッツにサモエドが交配されたかどうか、という部分に関しても詳細は不明です(こればっか)。

サモエドも戦前から愛好団体が結成されるほどの人気犬種でした。白いフワフワの犬同士を掛け合わせれば……と考えた人がいたのかもしれませんね。わざわざロシア→欧州→上海→日本の輸入経路をとらなくても、北海道の真上にある南樺太には「サモエド型カラフト犬」がいましたし。

 

スピッツの輸入は昭和15年で途絶え、以降は国内蕃殖個体のみが流通します。ペット商のカタログでスピッツの販売が確認されるのは昭和18年まで。

同年には愛好団体「日本スピッツ協會」が大阪で発足したものの、既に戦況は悪化していました。以降は戦時食料難とペット毛皮献納運動で数を減らし、愛好家が細々と飼育を続ける状態に陥ります。

 

犬

戦時下の日本スピッツは、過酷な畜犬献納運動や空襲に晒されます。画像は戦争末期(ペット毛皮供出運動は終了していた時期)、空襲の焼け跡でスピッツと暮らす女性。

 

帝國ノ犬達-スピッツ 

戦争を生き延びた日本スピッツは、高度経済成長期に大人気の品種となりました。

画像は高校時代の私の父とメリーさん(昭和40年代)。

 

近代日本に現れたのは、このような小型愛玩犬ばかりではありません。

狩猟界や闘犬界では和犬と洋犬が盛んに交配され、より優れた猟犬や闘犬の作出が試みられます。その中から、日本独自の品種が誕生していきました。

 

【薩摩ビーグル】

 

ビーグル

 

明治に渡来したビーグル史はこちらにて解説します。

関西地方や九州北部とならび、西日本で洋犬の一大勢力を誇っていたのが、意外にも南端にある鹿児島県。国産コリー界も、東日本の「子安農園系コリー」と西日本の「鹿児島鴨池動物園系コリー」が主流となっていました。

ウサギ狩りが盛んだった同県では、九州各地へ移入されたビーグルをもとに「サツマビーグル(昭和30年代までは九州ビーグルと呼ばれていました)」という猟犬も作出。諸説あるようですが、「ビーグル型」「ハーリア型」「バセットハウンド型」など、幾つかの系統が存在していました。

これはバセットハウンドの来日記録にもなり得るのですが、残念なことに真偽はアヤフヤです。

確実な記録があるのは「樺山系ビーグル」と呼ばれる系統。海軍大将樺山資紀がヨーロッパから連れ帰った個体を、彼の故郷・鹿児島の愛犬家たちが繁殖したと伝えられるものです。

樺山伯爵のビーグルについては写真も残されており、忠犬ハチ公像を制作した安藤照(鹿児島県出身)もその来歴について証言しています。

 

明治34年に撮影された樺山資紀のビーグル

 

南洲翁が兎獵を好まれたのは、兎を追ふことが主であつたか、或は想を練ることが主目的であつたかと言ひますと、私の考へでは恐らく想を練ることが眼目であつたらうと思ひます。

鹿兒島では青年の間に兎獵が奬勵されて、青年が團體を作つて一日を兎獵に樂しむことを慰安としてゐます。

南洲翁の後輩だつた人達も兎獵を覺へて、東京方面でも、鹿兒島から兎犬を取り寄せて兎獵、猪獵が盛んなものでした。

その後樺山大將等が外遊の途次ビーグル種を持ち歸られた。

獸獵に良いと言ふので、この犬に追はして見ると、非常に良い成績を擧げます。これは西洋の兎専門の犬で現在鹿兒島でも、鹿兒島ビーグル(※後のサツマビーグル)と言はれる迄に持囃されてゐます。

 

安藤照『兎獵と兎獵犬(昭和13年)』より

 

もちろん樺山伯爵だけではなく、九州南部には様々なルートでビーグルが持ち込まれていたのでしょう。サツマビーグル自体が幾つもの系統に分かれていることで、そのルーツも複雑化してしまいました。

 

現在ビーグルは、九州地方に多く蕃殖されて居るが、これは昔から九州地方は兎が多く、兎獵が盛んだからである。九州地方のビーグル種に就て、安部氏の通信に依れば「九州地方でビーグルと云へば、殆ど鹿兒島から來たものゝみであります。鹿兒島と云へば御承知の如く、名士が澤山その土地から出た所で、それ等の方が洋行されて持歸られ、それがまた名士に贈られなどしたものでありまして、「西郷系」とか「樺山系」、或は「東郷系」と云ふ風に、土地のものが出鱈目に、その系統名を申して居ます。
以上の系統の外に、「松方系」とか、「外人系」と云ふものがあります。この外人系と称するものは、鹿兒島舊本線に八獄トンネルと云ふがあり、それがとても大難工事で、當時外人技師が、その工事の技師として來ました。その技師が、牡牝二頭のビーグルを連れて來て居たと申しますが、その犬はビーグルと申すよりも、バセツト・ハウンド型の犬であつた様に、土地の者は申して居ります。その二頭の犬は、兎獵の名犬であつたと土地の者が申して居ますが、これの系統が段々鹿兒島付近に廣まつて、鹿兒島のビーグルと云ふ様になつたらしいのであります。
鹿兒島のビーグルに就ては、鹿兒島市内の者、或は田舎の好者も、一般にバセツト・ハウンド型の、耳附きの低いものを賞美した様で、以前鹿兒島で毎年犬の品評會がありまして、その都度澤山ビーグル種が出陳されましたが、殆どバセツト・ハウンド型のものが多かつた様に見受けました。
しかし近年は、英國の雑誌などで見る小型の耳附きの餘り低くなく、胴の長くない、尾のなる丈け立つたものを好む様になりました。鹿兒島縣薩摩郡には、樺島さんの近親者が居住され、昔からの直流を飼養されて居る由で、その系統はバセツト・ハウンド型でなく、小型のものであります」以上は九州産のビーグル種を識る上に参考となるので、茲に安部氏の通信を紹介する次第である。

 

黒頭巾生『九州系のビーグルに就て(昭和15年)』より

 

近年は鹿児島のブリーダーが減少したため、四国方面で繁殖が続けられているそうです。私の知人も九州南部でサツマビーグルを用いた狩猟をしているのですが、わざわざ四国のブリーダーから猟犬を購入しているのだとか。

犬の産地も、時代とともに変遷するのでしょう。

 

 


和犬と洋犬の狭間で生まれた日本の犬たち。
和洋折衷の国際化を遂げた近代日本犬界の産物であり、そこに関わった人々の思惑や努力を知る上でも、興味深い存在であります。

(次回に続く)