私がまだ子供の時分に横濱市本牧町にあつた別荘のすぐ前に拂蘭西人の家があつて、其處に常にコリーが居た。本牧はまだ町ではなく村と呼ばれた時分で家の數も極く少く、私の家とその家の他は皆な農夫であつた關係上、自然親しくする様になり、犬好きであつた私は、先方が日本語を話せるのを幸に犬の話を聞くのを樂しみにしては能く遊びに行つたものである。
今でこそ犬の種名は一般に知られてゐるが、明治三十四、五年の頃はポインター、セツター、スパニエル、フオツクステリアの他は殆んど皆名の知れない種類であつた。私は幸ひに叔父と兄が愛犬家であつたので、二、三冊犬の本もあり、それによつて新たに見付けた犬の種類名を研究する事が出來たが、それも中々の苦心であつた。
其時分に最も役立つた本は、今のドツグ・ウワールドと同じ様な雑誌でケネル・ニユースと云ふのがあつて、犬の寫眞が澤山あつた。それで居留地で見た犬に似たものを本の中から捜し出して種類名を判斷するのであるが、讀み方には實に困つたもので、いよ〃わからなくなると拂蘭西人の家へ行つて確かな讀み方を聞くのである。

 

伊藤治郎『コリーと私(昭和12年)』より

 

東南アジアを旅行していると、観光名所より地域の動植物へ目が行ってしまう悲しい性。しかし林の中をウロウロしたり濁った川をのぞき込んでも、せいぜいキノボリトカゲやミズオオトカゲに出会えればよい方です。

熱帯の強烈な太陽が照りつける昼間には犬すら見かけません。たまに川岸で魚の死骸を漁っている野犬群や、木陰で寝ているバーンケーオとかに遭遇するくらいですか。

しかし夕暮れになって暑さが和らいでくると、あちらこちらから夥しい数の犬が姿を現します。食堂へ向かう飼主の後をトコトコついていく犬。のんびりと道端でくつろぐ犬。コンビニの前でたむろする犬。

リードで繋がれているのは小型室内犬や在留外国人のペットだけで、大部分は放し飼い状態です(狂犬病が蔓延するワケですわ)。

 

かつての近代日本犬界はこのような感じだったのでしょう。お金持ちが大事に飼育する舶来の洋犬たち、街角にたむろする野犬や放し飼いの雑種犬たち、山間部で猟に従事する和犬たち。不衛生で不安全で、それでも人と犬の距離が近かった時代。

その中で、海外から渡来した異分子たる洋犬たちは、どうやって「日本」へ溶け込んで行ったのでしょうか?

「明治の日本犬史」にも多大な影響を与えた「明治の洋犬史」について解説します。

 

『本邦舶來』より、来日の挨拶をする洋服のカメ(洋犬)と歓迎する和服の日本犬。

下では洋靴と雪駄が言い争っています。

 

愛犬団体が存在しなかった明治時代、洋犬渡来に関する統計的な記録は残されていません。各犬種ごとに、断片的な証言を集めるしかないのです。

昭和になって日本犬界が成熟すると、「これまでの洋犬渡来史を整理しよう」という活動がスタート。しかし既に、明治・大正のペット業界談は昔話と化していました。

犬界の古老や重鎮による証言をもってしても、戦前の段階で「日本の洋犬史」は編纂不可能。直後に戦時体制下へ突入し、記録係を担う日本犬界自体が壊滅してしまいます。

その取り組みがもう少し早ければ、近代日本畜犬史における貴重なテキストとなった筈なのですが。

今回から、可能な範囲で「洋犬の日本史」を辿ってみましょう。

 

洋犬を紹介した明治初期の書籍。一番下は人を襲っているのではなく、「巨獒 善泅(泳ぎが上手い大きな犬) 」というニューファンドランドによる水難救助の解説です(『博物新編(明治3年)』より)

 

【カメの渡来と普及】

邦人、洋犬を呼びてカメとなすは、洋人の、犬を呼ぶにカムイン〃といへるを聞きて、犬のことゝなし、轉化して終に其の名となしゝなりといふ。面白き語源なり

 

『明治事物起原(明治41年)』より

 

横濱、神戸さては長崎などがまだ居留地と呼ばれた時代、朝な夕なの逍遥を海岸通りに試みた外人の多くは、はるばる故國から伴つた愛犬を引き連れて居て、渠等(かれら)は身邊から遠く逸する愛犬を叱る場合、言葉を強めて來れ〃(カムヒヤー)と連呼するのを聴耳立てゝ居た或る早合點の日本人が、西洋では犬のことをカメと謂ふんだと語り傳へたのが、其まゝ語源となつて洋犬は遂にカメと稱することになつた。

爾後四十餘年、條約改正となり内地雑居が實現され、外人の來朝居住者が多きを加ふるに及んで、之に附随したカメ公もどし〃輸入されて來た。其結果都會に於ける犬種は悉くカメの血液を混じた雑種となつて仕舞つたのである。

 

大毎『獵犬の歴史と其訓練(大正5年)』より

 

明治時代の日本では、洋犬のことをを「カメ」と呼んでいました。愛犬に「カムヒアー(こっちへ来い)」と呼びかける外国人を見て「come=洋犬の名称=カム」と誤解し、それが「カメ」へと変化した。というのが一般のカメ語源説。
しかし開国前より、一部地域では和犬や狼を「カメ(「咬む犬」「咬まない犬」が語源)」と呼んでいたそうです。そういった方言と「カム」が偶然一致し、「カメ」の呼称が全国的に定着したのかもしれません。

 

開国当初の洋犬渡来に関する史料、菊苑老人著『横濱奇談』(題簽では『横濱奇潭』となっています)

 

洋犬を「カメ」と呼ぶようになった経緯とともに、外国人とペットの関係も物珍し気に記されていますね。

 

旧体制の崩壊と西洋文化の導入は、日本社会を大きく変化させました。それぞれの領地で分断されていた「地域犬界」も、廃藩置県・交通網の発達・カメの登場によって激変します。


洋犬渡来は各地の国際港から同時多発的に始まり、明治~昭和期を通して無軌道に続きました。在日外国人のペット、外国航路船員の小遣い稼ぎ、ペット商による直輸入など、輸入の目的や手段もさまざまです。

長崎、神戸、横浜、函館などから上陸した洋犬たちは、明治中期から整備が進んだ鉄路や海路を介して急速に拡散。舶来品が大好きな国民性と相俟って、洋犬は行く先々で地犬たちと交わり、地域犬界の中心は和犬から洋犬へと置換されていきました。

外國犬種が初めて我國へ輸入せられたのは、多くが海外へ旅行された人々が、趣味のまゝに持歸つたのが始りで、犬の賣買とか、採算とか蕃殖とか云ふ上からの考慮は全然無かつたので、從つて各種が輸入せられても、各自が嗜好に適した牝なり牡なりを輸入されたので、其種の改良と可保存とか増殖とか云ふ様な事の望み難きは當然です。そして多くは其犬一代で雑種となつてしまつたのであります。

狩獵界でも西洋犬は能く主人の云ふ事を聞くとか、耳が垂れて珍らしいとか云ふ様な事で、地犬に其れ等の犬を配したと云ふ様な事が進歩の始まりとも云へば云へ様と思ひます。

 

華蔵界能智『私の見た帝國畜犬發達史(昭和9年)』より

 

日露戦争前のペット商カタログ

 

洋犬の勢力拡大を支えたのが、犬を扱うペット商。いわゆる「畜犬商」でした。

輸入した洋犬を販売する商人が現れたのは明治も初期の頃。猟師の生業だった狩猟が、庶民のスポーツハンティングへと移行した時期と重なります。西洋式の狩猟法とともに、高性能の猟銃と鳥猟犬(ガンドッグ)が来日したのです。

それを知った綾井、芹沢、時田といった商人が、ハンターからの注文に応じてポインターやセッターの取扱いを開始。

洋犬は欲しいが、直輸入では手間もかかって面倒くさい。そのような顧客の要望をビジネスチャンスに結び付けたのです。

 

猟犬の入荷ルートは直輸入だけではありません。中には「ポインターの飼主宅に通って仔犬を売ってもらう」「ポインターの飼主宅へ牝犬を放り込み、妊娠したところを回収」などの手段もあったとか。

そうやって入手した仔犬を、今度はペット商の店員がこっそり繁殖させて裏ルートで販売するなど、カメの普及はナカナカの黒歴史っぷりでした。

 

東京養犬場のカタログより。「地方遠隔の御注文」とある通り、鉄路や海路が発達した明治時代にはペットの通信販売もスタートしました。

 

明治27年(日清戦争当時)には、上田辰太郎氏(後の関東畜犬組合長)が本格的なペットショップを出店。猟犬の繁殖や飼育用具の販売を拡大します。続く明治30年代には、東京養犬場や田中友輔・淺六父子による大日本猟犬商(後の日本畜犬商会)なども設立されました。

 

供給体制が確立されたことで、猟犬界や闘犬界はそれぞれのネットワークを構築していきます。勿論インターネットなどは存在しないので、ペット商が主催する畜犬展覧会や会報などを介した繋がりでした。

明治20年代には出版社を中心とした猟犬団体の設立が試みられたものの、主催誌の消滅で失敗。

「ペット商傘下の畜犬団体(商売目的の顧客囲い込み)」が出現するのは大正時代となり、「日本畜犬協會(大正6年発足)」が知られています。対して「愛犬家による畜犬団体」が主流となるのは、昭和に入るまで遅れました。

 

明治39年の広告より

 

この時代、西洋式獣医学を学んだ新世代の獣医師が各地で開業し始めます。当初は旧世代の馬医と衝突したものの、畜産家が頼りにしたのは最新知識を持つ若き獣医たちでした。

やがて家畜病院にペットが持ち込まれるようになり、都市開発で畜産施設が郊外へ移転していった明治20年代、牛馬ではなく犬猫を専門に診る獣医師も現れます。

明治28年の長崎県狂犬病大流行ではパスツール式豫防注射が導入され、地域の犬猫病院は狂犬病対策の防波堤として警察からも頼りにされました(当時の畜犬行政は、保健所ではなく警察の管轄)。

 

個々の愛犬家を組織化し、情報共有の場となる愛犬団体。

犬や飼育具を供給するペット商。

健康管理を担う家畜病院。

地域の飼育ルールと防疫を管轄する畜犬行政。

 

こうして犬界発展の基盤は整います。

明治最後の年、国民新聞主催による畜犬展覧会には300頭あまりが出陳される盛況ぶりだったとか。

 

愛犬家のネットワーク構築と共に、地域を越えた犬の流通や飼育訓練知識の共有化がはかられていきました。

 

【公的機関と洋犬】


ペット文化が発展し、「愛犬家」という日本語も現れた明治中期。

いっぽうで放し飼い、捨て犬、街頭での闘犬など、飼主たちのマナー違反も問題化します。

地域住民に咬傷被害などが出始めると、狂犬病対策に苦慮する行政側は相次いで畜犬取締規則を制定。飼育届と畜犬税を制度化することで、犬の飼育を警察のコントロール下へ置きました。

 

その辺の犬をテキトーに養っていた江戸時代と違い、明治の犬は「飼育届で警察に登録し、畜犬税を納め、狂犬病予防注射をした上で飼育が許可される畜犬(ペット)」と「それ以外の野犬」に区分されました。

未登録(つまり未納税)の飼犬も、野犬扱いとして容赦なく駆除されます。犬税取締りにより、地域の和犬は急速に消滅していきました。

反対に、「対価を払って購入するステータスシンボル」であった舶来の洋犬は勢力を急拡大していきます。

 

 

行政機関と犬との関係は、これだけにとどまりません。洋犬の訓練知識が広まったことは、「公的機関の犬」が誕生する基盤となります。

つまり、軍用犬と警察犬ですね。

 

セントベルナルドは昔はアルプス山の寺に飼つてあつて、雪嵐の起る度毎に山中諸方に派遣せられ、雪に苦んで凍死せんとする旅人を救助した犬である。それであるから、此の犬は體も大きいし、力も甚だ強いのである。

又歐米の警察では近頃多く犬を使用して盗賊や殺人犯などを探偵させて居るが、これは大層結果が好いと云ふ。間諜のことを犬と云ふのは、これ等から出た言葉であるか?!

 

『犬の話・諸君と仲好しの動物(明治42年)』より

 

……などと動物学者の石川千代松が記しているように、外国文献や欧州視察を通してレスキュー犬や警察犬の情報が伝えられました。

公的機関による犬の利用が始まったのも明治時代です。

明治35年の八甲田山遭難事件では日本軍がレスキュー犬を投入、明治43年には台湾総督府が山岳ゲリラ戦用の警察犬を配備しました。

これは誰かが計画的に推進したものではなく、それぞれが試行錯誤する中から生まれたもの。基盤と環境が整ったことで、日本犬界は模倣から応用の段階へ移行していったのです。

それでは、明治時代に来日した洋犬たちを見ていきましょう。

 

【ポインター】

 

宮内省

宮内省新宿御苑猟犬舎で飼育されていたポインター(明治43年撮影)

 

近代狩猟界の主役とあって、ポインターの記録は大量に残っています。

日本にイングリッシュ・ポインターが輸入されたのは幕末から明治にかけてのこと。「エス」というポインターが土佐へ持ち込まれ、一部は闘犬と交配された話もあります。横浜あたりでは「在日外国人や資産家の飼う舶来の狩猟犬」として盛んに輸入・繁殖されるようになりました。

同時期から一般庶民の娯楽として西洋式スポーツハンティングが流行。欧州製の高性能散弾銃とポインターの組合せは、従来の火縄銃と和犬に比べて猟果も段違いでした。

ハンター達はポインターの能力に目を見張り、和犬は鳥猟の分野から駆逐されてしまいます。以降のポインターは、敗戦時までシェパード、各種テリア総合に次ぐ飼育登録数第三位を堅持しました。

 

ポインター来日の経緯は下記のとおり。

洋犬が我が國に初めて渡來せるは今より約八十年前(幕末)、某和蘭醫の下僕チヤーレーなるものが本國より輸入した一頭が最初であり、次いで明治の初年英人のベルタン氏が英ポインターを横濱に舶來し、尚本國より輸入した十數頭が漸次蕃殖を遂げ、その内の一頭を明治七年故河村伯が譲り受けたのが邦人で洋犬飼育の開祖であるとの事である。

 

宮城猟友會『洋犬のはじまり(昭和6年)』より

 

我國に英ポインターの始めて輸入せられましたのは、明治の初年に横濱の八十一番館で貿易に從事して居りました英國人ベルタなる人が、其本國より取寄せたものでありまして、明治三十四年六十四歳で病死する迄、絶へず十數頭を飼養して居つたそうで御座います。

明治七年頃、故河村伯が傳手を求めて、ベルタと交際し日曜毎に獵場に東道の主人となり苦心の末、其手により漸くポインターの犬兒を割譲せられて、飼育したのが日本人としては初めてだ相で御座います。

 

伊藤卓蔵『英ポインター種に就て(昭和7年)』より


m27

ジャーマン・ポインターの解説図(明治27年)

 

そして、独ポを輸入したのが神戸の猟犬商・田丸亭之助なのだとか。

獨逸ポインターでは神戸の鈴木商店主が犬の研究に獨逸に行かれて居つた田丸亭之助氏に依頼して、牝牡を歸朝の節に輸入せられた。之れ等が牝牡揃つて輸入せられた最初の様に思ひます。
 

華蔵界能智『私の見た帝國畜犬發達史(昭和9年)』より

 

日本の英ポと独ポは交互に流行期を迎え、結果として英ポが主流で落ち着いたそうです。

 

【セッター】

 

ライオン

大正2年撮影のセッター

 

セッターも、明治時代のハンターから熱烈に受け入れられた鳥猟犬です。長毛ゆえ日本の気候と合わなかったか、勢力としてはポインターの半分程度。

しかし、昭和に至っても飼育登録数は日本犬と同率4位という人気犬種であり続けました。

今から四十餘年前に、其當時の茨城縣知事が英吉利セツターの黒二毛斑の牝牡を持歸られて、其れが病氣となつたのを同地農學校長をして居た義兄が一時預つて居り、全快の御禮として其仔を一頭贈られたので飼育して居つた事がありました。

 

華蔵界能智『私の見た帝國畜犬發達史(昭和9年)』より

 

セッターとポインターの長所を併せ持つミックス猟犬・ドロッパーも登場する一方、明治時代から無軌道な交配への批判もなされています。

セツタとポインタの〇〇〇〇(即ちドロツパ)は随分役に立つものあれど、馬鹿ものも多し。又決して數代蕃殖するものに非ず。故に此相の子を絶やさぬ様せんには先づ別にセツタとポインタを絶やさぬ様せざる可からず。

扨て〇〇〇〇は永續せぬと云ふ患あるが我國の獵士兎角犬の純血と云ふとに不熱心にして勝手氣儘に雑ぜ物を造らんとするの傾きあれど、自然は容易に左様な急激なる變化を許すものに非ず。異種混合も有害なれど、又同種中餘り親近のもの絶へず混合するも宜しからず。
犬にては經驗上血族婚姻をさせた強ち悪るきにあらねど、餘り數代続けては有害なり。成るべく他血を混ずるとなすべし。雌犬は二年に一度位は子を産ますべし。毎年一度でも宜し。孕ますには二回雄を掛ければ充分なり。雄は盛りの付きたる雌さへ見れば氣が立つものなれど、餘り制限を加へずとも宜し。

 

獵友『廣島のOM生君に答ふ(明治25年)』より

 

【レトリバー】

 

明治34年に撮影された「リトリーヴアー」。

 

日本人がレトリバーを知ったのは明治15年のことで、フランス軍獣医アウギュスト・アンゴーが著した『獵犬訓練説』にて紹介されました。

明治後期から輸入が始まったものの、昭和11年の段階でも東京エリアの飼育登録数は僅かに3頭という希少犬でした。

 

レトリヴァー
足立美堅著『いぬ(明治42年)』より、フラットコーテッドレトリバーでしょうか?

大正時代には輸入が拡大、長谷部純孝氏愛犬の「カラー」号や岩崎男爵が飼育していた「ボス」号などの写真が残されています。

ペット雑誌を通して存在が知られていたゴールデンやラブラドールが、戦前の段階で来日したかは不明。在日外国人のペットにそれっぽい写真が見受けられるものの、確実な記録はありません。

 

カラー

大正2年に撮影された長谷部純孝氏の愛犬「カラー」

 

【コッカースパニエル】

 

フリース

大正2年に撮影されたコッカー「フリース」。

コツカースパニエルは三十餘年前に相馬子爵が黒二毛の牝牡を輸入せられて、其仔を一頭飼育致しましたが、不幸にして成犬とならぬ内に失いました。

 

華蔵界能智『私の見た帝國畜犬發達史』より 昭和9年

 

明治期に来日したコッカーは、大正時代から昭和初期にかけて人気の品種となりました。愛玩目的だけではなく、本来の猟犬として使用した日本人もいます。

あの性格と体力で、猟の役に立ったのかしら?

 

【ダックスフント】

 

横濱賑町を歩く謎の短足犬(撮影年不明)

 

日本のダックスフントは、在留ドイツ人のペットとして明治時代に渡来しました。当時は国際港の長崎、神戸、横浜あたりで飼育されており、その辺の証言も残されています。

 

私がダツクスの好きになつた動機といふのは、あの有名なカイザー・ウイルヘルム陛下がダツクスの寵愛一方ならず、いつも御膝下からダツクスを離されなかつた事實に發してゐるのです。
陛下が寵愛されたから私も好き……、理由はたゞこれだけなのです。陛下の眞似をすると云つては恐れ多いが、さういふ譯で飼ひ出したのが今だに止められず、ダツクス黨になつて今年で四十年。
その間しばしもダツクスを手放したことがなく、ダツクス党としては、日本にあつてはさう人後に落ちない心算です。
しかしダツクスの飼ひ方その他について詳しいことは知りません。たゞ今までの經驗で、自己流に飼つて來たばかりで、あゝした方がよい、かうした方がよいと、人様に教へる何物も持つてゐないのは殘念です。
四十年の間には随分色々のダツクスを飼ひました。何分年限が長いので、一々覺えてはゐませんが、時に触れ、折りにつけ、亡くなつたり、譲つたりしたあのダツクス、このダツクスの面影を描くことがあります。同時に私はこの急激な發展を見せた日本の歴史を、昔のダツクスを思ふにつけ、驚異の目を持つて眺めてゐるのです。

私の生れたのは今から七十年前、慶應三年のことで、生れた場所は横濱でした。それから神戸に移つて、日露戰爭の頃に又横濱へ戻り、七十年の間に故國獨逸へ歸つたのは二回で、あとはずつと日本にゐたのですから、この驚くべき日本の大發展を、繪巻物を繰りひろげる様に知つてゐるのは當り前のことでせう。
幾度も推移を重ねた日本風俗―チヨンマゲ時代から明治中葉風俗、そして大正昭和の近代風俗、この明治風俗の世界から私のダツクスは登場するのですが、ダツクスを思ふにつけ、いや、見事に急發達を見せた日本文化です。
話しただけでは歐米人にこの發展の急階程が分らず、寫眞や繪を見せて、やつと納得させるといふ譯で、この説明には相當骨が折れます。
犬の世界も随分進歩したと思ひます。かうなるのは他の文化の發達から見て、當然のこととは思ひますが、昔とは雲泥の相違と見てよろしいのです。

 

ウエー・フエーリング『我がダツクス譜(昭和12年)』より

 

もともと外国人のペットであったダックスフントですが、明治中期以降には日本人も飼育するようになりました。

愛玩用だけではなく、本来のアナグマ猟に用いられていた記録もあります。

 

ダックス1

此獵に最も適するしはダツクスフンドと云へる犬種なるが、此種は疾くより我國に渡り、雑種と成りて殘りあるもの東京市中などには中々多く見掛くるなり。又、在留の外人中其純粋に近きを飼養するもの尠からざれば是又得難きには非ざるべし。
偖、ダツクスフントは圖に示したるが如き格好の小犬にて胴の長き割には四足甚だ短く、前足二本は屈曲して(屈曲せざる者もあり)モグラモチの如く、又此足にて能く地を掘るの性を有す。
顔長く耳大にして下に垂る。毛色は眞黑にして腹部と足先だけ茶色なるが普通なれど總身茶色なるものもあり。毛も短きと長きと兩様あるが、今圖に出したるは短毛のものなり。性怜悧にして体格矮小と雖も極めて活溌且根性骨の太き犬なり。
素と獨逸國の犬なれど、殆ど全世界に行き渡りて能く繁殖す。其用は第一獸類の穴中に匐ひ込まするにあれど、地上の兎狩にも用ゆべし。但し、鳥獵には餘り適せずとなり。又歐洲の料理人が鳥を焼くとこ此犬にて回はさしむることありと、いつぞや動物居士が本誌上にて鳥焼犬と云ふとを言はれたのは即ち此犬のことぞ。

 

丸山獵士「『犬を使用して穴中の狐狸を捕ふる法(明治25年)』より

 

意外や意外、明治初期に来日していたダックスフント。

この他にも「其頃(※明治時代)佛國大使館員がダツクスフンドの茶色の牝牡を飼つて居りましたが、其牡を貰ひ受けて飼養致した事がありました(華蔵界能智 昭和9年) 」や「ダツクス・フンドも優秀なものが、明治時代の大都市には澤山居たものである(高久兵四郎 昭和11年)」という幾つもの証言が残されています。

明治時代に流行したダックスフントは、なぜか大正時代に激減してしまいました。このダックス衰退に関し、「第一次世界大戦が影響していた」という面白い説があります。

 

明治の末葉から大正の初年にかけて、横濱、神戸、長崎と云つたやうな開港場の街路にあの足の短かい、背の長くたるんだ犬を見かけた人達には、彼ダツクスフントが如何に日本の處女犬を冒したか、如何にあの根強い獨逸人の氣性を我邦に植つけようとしたかを、明に認めて居ることであらう。
由來獨逸人の時間を超越しての努力振は我が日本の國民が粒々刻苦の作業振と大に似通つた所がある。それだけ我國の人達は當時この獨逸の國犬ダツクスフントに同情を持つたのであらうことが想像される。
だが併し、日英同盟以降、前に述べた英ブルが我が犬界を風靡し、而もその結果でもあるまいが、世界大戰には獨逸を向ふに廻して戰爭した日本は(※青島攻略戦のこと)漸次このダツクスフントの影を薄くした。
現在我が日本で最も優れた―と云ふよりは、混じり氣のない純正ダツクスフントを、多數に飼育されて居るのは、神戸のボルコフスキー氏であることは、何人も認める所であらう。
 
淺黄頭巾『昭和八年の犬界を顧みる』より  
 
青島攻略戦で敵国ドイツのダックスフントが敬遠されたのならば、その青島攻略戦を機に来日したジャーマン・シェパードが大流行した理由を説明できないと思うのですが。

いずれにせよお金持ちが飼う希少犬扱いで、大正以降もダックスの飼育頭数は回復していません。昭和10年になっても東京エリアにおける飼育登録数は15頭のみ。

愛好団体すら結成されないまま戦時体制下へ突入し、近代日本のダックスフントは再び姿を消しました。

 

【ブルドッグ】

 

ジョーカー

大正2年撮影のブルドッグ

 

昭和2年撮影

 

イングリッシュ・ブルドッグの来日時期は比較的早く、明治初期といわれています。

対してフレンチ・ブルドッグの来日時期や輸入規模は不明。一部では「英ブル」と「フレンチブル」という呼称の区分が提唱されたものの、フレンチブルの輸入数があまりにも少なかったために一般化はしていません。

よって、日本ではイングリッシュ・ブルドッグ=ブルドッグで定着しました。

 

白木
ともかく今の犬界人はブルドツクの智識に乏しいと思ひますから、まづ日本で流行した歴史から始めていたゞきませう。
鶴見孝太郎
それは伊藤さんの領分だ。
伊藤治郎
それでは私から簡單に日本にブルドツクの流行した歴史を申上げますと、相當古いもので、彼のセツターやポインターが人気を博したのは歐洲大戰後(※第一次世界大戦)ですが、それ以前に既にブルドツクは全盛を極めてゐて、セツターやポインターが下火になつてからも、なほブルドツク丈けは騒がれたものです。當時は雑種でもブルのかゝつたものと云ふと喜んで買つたもので、犬の話となると、大抵ブルと決つてゐました。
此の犬が何時頃日本に渡つたか、明確な記録はありませんが、關東で純粋のブルドツクの最初のものと思はれるのは、明治三十六、七年の頃、有名な鬪犬師で、横濱の小林八十八氏の飼つてゐたフエーモスと云ふ牝犬です。これは白地にレモン班があり耳も尾も切つてありました。
このフエーモスの他に、神戸から来た總虎毛の小型な犬も居ました。これをフレンチ・ブルドツグといつてゐましたが、後に私が廿圓で買ひ取りました。これが私のブルを飼ひ出した最初です。
その頃、横濱山下町の英國海軍病院に、當時としては優秀なブルドツクが數頭飼はれてゐました。
この仔犬が各方面に散つて、明治四十年頃、山手百五番にはドクターといひ、ボストンテリアのやうな斑のある立派な牡が居り、終始馬車の後に従いて走り歩いてゐました。ドクターの名は海軍病院から出たからだと云ふことでした。
又山手ニ百十六番のライジングサン社長デビス氏邸にも、白地に黒斑の牡が居て、ドクターに次ぎ立派なものでした。尚この地に總虎毛の牝が一頭居ました。
一方京濱間に初めて汽車が開通した時、その運轉をしたといはれる人で、俗にサツマと稱された太つた爺さんが大の愛犬家で、ゴールドン・セツター、プードルなどを飼つてゐたが、この人がドクターの仔の總虎毛の牡を飼ひ、その牡と、當時鎌倉方面で唯一のブルドツクと称された車夫で犬好きの猪俣伊三郎氏の牝タケ……この犬は一見グレートデーンの雑種といつた白地に黑斑のある犬でしたが……と、その頃廿歳位の私や、横濱で犬では最も古顔の入江隆平氏が肝煎りでコツクやボーイに話して交配させ、その結果數頭の仔を得ました。
これ等が鎌倉に擴がり、私も横濱へ二頭持つて歸りました。日本人の間にブルドツクが擴がつたのは主にこれの系統です。
それから明治四十五年頃にはブルも相當の數になり、外人の持つて来た立派なものが日本人の手に入つたりして東京へも連れて来られ、當時羽振りのよかつた堤の婆さんや益田太郎氏(※劇作家の益田太郎冠者)等が、ブルを買ひに入江の處へ出入りしたのもその頃です。

 

白木正光『ブルドッグの華やかなりし流行のあとを語る(昭和9年)』より

 

大正時代のフレンチブルの記録もみつけたのですが、ロクでもない内容です。

 

外國人の中には極端なる動物愛護の結果、別れを惜んで愛犬を毒殺するといふ話がある。

青山學院の講師コーキンド氏は先般都合上急に米國へ歸らねばならぬ事となつたが、永の年月可愛いがつて居たフレンチブルと云ふ愛犬を伴れて歸る譯にはゆかぬと云つて、急に人手に渡しても自分の宅で可愛がつて育てたほどにして呉れるやら什麼(どう)やら夫れも解らぬ。寧ろ毒殺した方が安心であると、日本人には到底考へ得ざる了見から麻布獸醫學校へ頼んで毒殺したといふ。

 

『犬を抱て眠る(大正5年)』より

 

まず神戸を中心に西日本へ広まったブルドッグは、やがて東日本にも拡散。明治~大正期の日本で大ブームとなったものの、やがて流行も去り、戦時中には飼育頭数も激減してしまいます。

温和な愛玩犬に改良されていたブルドッグですが、日本では不幸な扱いを受けるケースもありました。

「闘犬として作出された品種」という情報だけが独り歩きしたため、日本の闘犬家はブルドッグを闘犬種と勘違い。戦いを忘れたブルドッグは、散歩中にケンカを吹っ掛けられたり、闘犬場へ引っ張り出されてしまったのです。


 

【ラフコリー】

 

スカ

大正2年に撮影された、西尾忠方子爵の愛犬「スカ」

 

牧羊犬

『下総御料牧場事業報告』による牧羊犬のリスト(明治37年) 

 

コリーの来日は比較的早く、明治初期には輸入されていました。

きっかけは殖産興業による綿羊事業の拡大で、オーストラリアやカナダから輸入される羊とともに来日。下総御料牧場をはじめとする種畜場で使われており、各種牧羊犬(短毛種含む)も明治後期の横濱に上陸していたそうです。

大正時代の日豪通商紛争を機に「緬羊百万頭計画」が始まると、北海道の牧場ではケルピーが勢力を拡大。コリーとケルピーの活躍は、シェパードが日本牧羊界へ入り込めなかった一因ともなりました。

大正期には「外国系」「種畜場系」に加えて東日本の「子安農園系(神奈川)」、西日本の「鴨池動物園系(鹿児島)」といった国産コリーが登場。愛好家の増加に伴い、日本コリー犬協会、日本コリー倶楽部(現在の日本コリークラブとは別団体)、鹿児島コリー倶楽部などの発足へ至っています。

ペットとしては高価な希少犬であり、獣医師ですら目にする機会が少なかったとか。

先日新聞にコリーのことが出て居た。其説に同種は大正年間子安農園で始めて輸入したと出て居たけれど、實はコリーは明治の中葉から輸入されたもので、栃木縣の那須野原の松方さんの牧場には、明治十八、九年の頃からコリーを使つて牧羊をやり、其血統は今でも現に殘つて居るし、横濱の外人屋敷や愛犬家間でもコリーは珍らしい犬ではなかつたのである。
伊藤治郎氏なども子安農園で輸入する以前に耳の立つたのを飼つてゐた事がある。元來以前は今の如く、發表の機關が整つて居なかつたので、何種が何年に初めて輸入されたと云ふ様な事は、よく判らない。

 

高久兵四郎『明治から昭和へ 犬種今昔物語(昭和12年)』より

 

【セントバーナード】

 

犬

大宮季貞『感ず可き犬の實話(明治43年)』で紹介されたアルプスのセントバーナード。

 

大正9年に大日本猟犬商会が輸入したセントバーナード。

 

セントバーナードは戦前の日本でも有名であり、明治初期の書籍で「アルプスの救助犬」として紹介されていました。これを受け、明治35年の八甲田山遭難事件では救助活動にも出動しています。

自二月二日 至二月九日

二月七日
本日は特に東京の人小林善兵衛が特志を以て死體捜索に使用せんが爲、店員岡部某をして携行せしめたる「セントバーナート」種獵犬を監澤捜索(※監澤義夫大尉指揮の第2捜索隊)に附して之を試みしも、犬は未だ其目的を解せざる者の如く効果を収むる能はざりき。
八日
捜索諸隊は午前八時より捜索に從事し小林氏の飼犬は更に種々なる方法を以て捜索に試みしも、遂に効果を得ずして歸還せしむるに至れり。

 

陸軍歩兵第五聯隊『遭難始末』より

 

捜索に失敗したセントバーナードに続き、2月9日~18日にかけての第3期捜索では新たなレスキュー犬が投入されます。この時北海道から招聘されたのが、雪山での狩猟経験豊富なアイヌの民とその猟犬たちでした。

セントバーナード自体の輸入は大正・昭和期も続けられますが、日中戦争突入以降は姿を消しました。

 

【ブラッドハウンド】

 

PH2

台湾総督府が配備した警察犬リスト(明治44年時点)

 

明治43年、山岳民族の抗日蜂起に苦慮する台湾総督府は神奈川県から11頭の警察犬を購入。まだシェパードは来日前ですので、内地からやって来たのはポインターとブラッドハウンドでした(画像のリストにも「ブロート種」の名がみえますね)。

翌年、台中庁警察隊は訓練を完了したジョン、ベル、ポチ(画像の「ポケ」は誤植)を眉原社討伐作戦へ投入。警察犬により動きを察知され、得意のゲリラ戦を封じられた山岳民族は潰走へと追い込まれました。

内地では昭和に至るまで飼育頭数が増えず、繁殖しようにも交配相手を見つけられない程の希少犬だったとか。

 

【スカイテリア】

 

スカイテリア

大正2年に撮影されたスカイテリア

 

明治初期に渡来した洋犬には、多数のテリア種が含まれていたと思われます。しかし、室内犬ゆえに日本人が目にすることも少なかったのでしょう。

明治11年に日本各地を旅行したイザベラ・バードは、東京で出会ったスカイ・テリアについて記しています。

召使いは誰もが、全くしゃくにさわる波止場英語しかしゃべれないが、利口で忠実に仕えてくれるので、そのめちゃくちゃな英語を補って余りあるものだ。彼らは、玄関の近辺から姿の見えぬことはめったにないし、来客名簿の受付や、すべての伝言や書信を引き受ける。
二人の英国人の子供がいる。六歳と七歳で、子供部屋や庭園の中で子どもらしい遊びを充分に楽しんでいる。
その他に邸内に住んでいるのは、美しくてかわいらしいテリア犬である。
これは、名をラッグズといって、スカイ種であり、家庭のふところに抱かれるとうちとけるが、ふだんは堂々たる態度で、大英帝国の威厳を代表しているのは彼の主人ではなく彼自身であるかのようである

 

イザベラ・バード『日本奥地紀行』より

 

【エアデールテリア】

 

 

上の画像は、大正初期に警視庁が採用した警察犬たち。当時の警邏犬(警備犬)や探偵犬(捜索犬)は、エアデール、コリー、ブルテリア、グレートデーンなどでした(この時点で、まだシェパードは渡来していません)。

 

同伴某氏はこれより先困循となり居りしが、茲に至りて彼は相當の時間までに余を司令部に送り届くべく約したれば、「今より歸路に就かざれば迷惑なり」と主張して止まず。奈如ともせん術なければ、厭々ながらも戰ひの半を見殘して歸途に就く。
馬上歸途に向ふ間もなく、大なる滿洲のドラ犬に追はれて困しめる英國種のテリヤー犬に出會ふ。

支那人が今石を投げてドラ犬を追ひ遣り、テリヤー犬は咽喉を噛まれて出血し居りしも健氣にドラ犬を追ひ行くところなり。されどドラ犬は機會さへあれば再び噛み傷つけんことは明かなり。
余はこの光景を見て口笛を吹きしに、憫むべし四方八方亜細亜人のみの間に己れと同族の歐人を見て嬉しかりしと見え、悦び勇みて余に付随へり。支那人は何か余に請求せん模様なりしかば、馬の脚を進めしに犬は後れず續き來れり。
斯て一二哩も進みしと覺しき頃、何事か惡しき事の心に浮びしと見え、突然路傍に坐して余が生來未だ聞きしことなき哀れの調子にて一聲の悲鳴を揚げたり。余は殆どその哀れさに堪へざらんとせしも、暫くして余の心寛げり。彼は相變らず機嫌よく踊り進み來りたればなり。

 

英国陸軍中将イアン・ハミルトン著『日露觀戰雑記』より 

 

上記は、日露戦争に従軍していた英軍観戦武官イアン・ハミルトンの手記。イギリスの軍人とイギリス産のテリアが、祖国から遠く離れた満州の戦場で出会ったのです。

対日戦に備えるロシア軍は、イギリスから軍用犬専門家のリチャードソン少佐を招聘。最新の軍用犬部隊を編成しています(英軍上層部に冷遇されていた少佐は、日英同盟を無視してロシア側へ協力)。リチャードソンがロシアへ送った数十頭のコリーやエアデールは、日本軍との戦いで捜索警戒や鉄道警備任務などに就きました。ハミルトンが出会ったのも、ロシア軍からはぐれたエアデールだったのでしょう。

以降の状況は下記のとおり。

 

警察犬の應用は逐次發展せんとし、朝鮮總督府飼養の獨逸種(※イギリス産です)エーデール、テリヤは其後繁殖増加し、同府警務總監部は内地警察よりの懇請を容れ、長野縣竝に宮城縣に各牡牝一頭宛を分與せられたり。
而して曩きに北海道廳に於ても一頭のテリヤを飼養訓練し、警視廳も亦たコリヤ種、プードル種各一統を飼養し、斯道に經驗を有する萩原警部補之れが訓練に従事せらる。
然るに傳聞する處によれば、更に某氏が米國産ブラツト種(※ブラッドハウンド)警察犬を寄贈したるものありと、同廳が斯界に一大飛躍を試みんとする蓋し遠きあらざる可し。
 
仙台地方裁判所判事 設樂勇雄『警察犬の試驗(大正3年)』より

 

エアデールは以前から時々日本に入つたことを聞いてゐますが、歴史の判つてゐるのは大正の初に、横濱あたりに居留する外人や、外交官とか、それに付随する武官等が連れて來たのが始まりで、日本人が興味を持つてやり始めたのは、震災後のことです。文献や中元(銀弘)さんのお話を總合すると、アメリカでは、(第一次)大戰前から戰後にかけて非常に流行し、その間、本家のイギリスからは非常に澤山の頭數が輸入されてゐました。その頃、現在マニラ領事をしてゐる本協會員の笠原さんが、天津から外人の持つてゐたのを連れて來ました。

その後次第にエアデールの愛好者が増え、有志の間にクラブを作る話が出て、笹間、許斐、川副、中元、原、大森、森田、鶴見の諸氏や進藤などで、日本エアデールテリア協會が出來ました。これが昭和四年の暮です。

 

進藤光之助『萬能犬の誉れ高いエアデールテリア(昭和9年)』より

 

【ブルテリア】

 

帝國ノ犬達-ペシ

明治41生まれのブルテリア「ペシ」。尾形春吉氏の愛犬でした。

 

イギリスの闘犬「ブル・アンド・テリア」を元に愛玩犬へ改良されたブルテリア。畜犬展覧会でも多く見られた犬種でした。

日本へ渡ったブルテリアは闘犬と勘違いされ、土佐テリなどの闘犬種作出に利用されています。

 

【ポメラニアン】

 

ポメラニアン

大正2年、奥田謙次氏が飼っていたポメラニアン「リカ」

 

ポメラニアン

昭和14年の広告より

 

大演習後の賜宴で、上原師團長以下の労を犒はせられた席上に於て、偶々犬が御話題に上つた際、上原師團長は近くに着席してゐた横地長幹聯隊長を一瞥して、大正天皇に、犬ならばそこの横地が二頭の名犬を持つて居りますると申上げたとのことである。
此時聡明な横地聯隊長は、殿下は屹度自分の犬を御所望に相成るに相違ないと直感したので、大急ぎで立派な箱を二個誂へて恩命の下るのを待つた。
而し、翌日は何んのこともなくて過ぎ、其翌々日に成つてから横地聯隊長に出頭せよとの御下命があつたので、聯隊長の横地は早速二頭の名犬を用意の二つの箱に入れて参殿の上賜謁の光榮を有したが、殿下は果してお前は非常に良い犬を持つてゐるさうだが夫れを見せろと仰せられたのである。
御申付けの犬ならば只今持参して居りますると申上げると、横地の氣轉を大層御嘉賞に相成り、それでは直ぐその犬をこゝに伴れて來いとの御言葉があつたから、横地聯隊長は待たしておいた犬を聖覧に供した所が、一目御覧になった殿下は痛くその犬が御氣に入つたと見えて、一頭を譲受けたいとの仰せであつた。
仍て、聯隊長横地は是れを無上の光榮として、實は二頭共に献上申上げる積りで二個の箱を拵へて参殿致した次第で御座りますると申上げた。

殿下は、二頭共献上すると云ふお前の言葉は喜ばしく思ふが、二頭共貰つてはお前の子供達に済まぬとの畏れ多き言葉を拝聞して、横地は電氣に撃たれたやうな感激を覺え、御言葉は恐懼に堪えませぬが、二頭共に御嘉納賜はる様に御願申上ますと御答へ申上ぐると殿下は大變御悦びに相成り、お前が夫程云ふならば二頭共に申受けて、一頭は御母君に差上げる事にしやうとの御言葉であつたとのことだ。
「お前の子供達に済まぬ」と云ふ御言葉は何んと有難き思召しではあるまいか。蓋し是れは歴代天皇の民草に對する一貫共通の大御心である。

 

廣井辰太郎『大正天皇の御逸話を拝聞して(昭和18年)』より

 

上記は、ロシア~樺太経由で旭川に「ポーランド産の狆」が来日した記録(この犬が、ポメラニアンだったかどうかは不明)。

大正時代あたりから、川崎甲子五郎氏の愛犬「ビーアン」や奥田氏の愛犬「リカ」などの記録をチラホラ見かけるようになります。ジャーマン・スピッツではなかろうか?みたいな写真も多いのですが、キャプションは「ポメラニアン」なので仕方がありません。

 

 

戦争後期の昭和18年11月15日、東京亀戸の犬猫病院で狂犬病予防注射をうけたポメラニアンたち

 

座敷犬として愛育されたポメラニアンですが、昭和10年の東京エリアにおける登録数は20頭のみ。昭和18年まで飼育記録が確認されるものの、戦況悪化と畜犬献納運動で姿を消しました。

戦前・戦中・戦後復興期のポメラニアンは存在を忘れ去られ、現在では「ポメラニアンの初来日は昭和31年」説が一般化しています。


【スタッグハウンド】

犬

帝國ノ犬達-スタッグハウンド
大日本獵犬商會カタログより(大正6年)

 

數年前、予が大磯別荘にスタツグハウンド種属番犬牡一頭牝二頭を飼養しつゝありしに、或夏の夜二時頃其愛犬の内フリート、予が寝間の雨戸を破らんばかりに飛びかゝり、頻りに吠へ何にかを告ぐる如くをなすを以て、不審に思ひ、雨戸を開き見しに、庭内の一隅に盗賊悲鳴を揚げつゝ愛犬ヒーロー及ジヤキと鬪爭の最中にて、ヒーローは肩部に嚙み付き、ジヤキ袖を銜へ居りたり。
予は直ちに戸棚より護身用のピストルを取り出し空砲一發を見舞ひたり。盗賊は實彈と思ひてか狼狽、取るも取りあえず逃げ去れり。翌朝其場所を檢せしに、鮮血の斑點地上所々に印せられ、殊に裏門の扉にも多く印せるを發見せり。其場所の傍に二尺余の抜刀と片袖落ちあるを見出せり。
予が是迄多年經驗せる番犬の盗賊に對する行動、此時より大なるはなし。愛犬の内ジヤキは過般故伊藤公爵の御懇望により譲り渡したり。
怜悧なる番犬は番人五人前位の働きをなすを以て、經濟上得策なるのみならず、平常愛玩用の道具となるを以て歐米各國にては中流以上の家には必ず二頭飼養せざるはなし。我國にても年々飼養者増加しつゝあり。

 

大日本猟犬商会・田中友輔『番犬飼養法の注意(明治44年)』より


この「スタッグハウンド」が、絶滅してしまったイングリッシュ・スタッグハウンドなのかアメリカン・スタッグハウンドなのかは不明。
明治時代の日本に輸入され、ペット店で流通していたことだけは事実です。

 

【ウィペット】

帝國ノ犬達-ウィペット
樋口金三郎氏が飼育していたホイペット「グレー」號(明治44年生れ)

 

ウィペットの来日時期も例によって詳細不明。記録としては、明治生まれのウィペット「グレー」の写真があるだけです。
下の詩を読むと、昭和になっても希少犬のままだった様ですね。

立ち止れば 二頭の狆の涼しげな眼が いとしくも我を凝むる
雪白のマルテイスの毛に 抱くひとの指のダイアに 燃ゆる入陽よ
そのテリア 曳える博多の姐さんの その襟あしといづれが白き
「まあ可愛い」「ワイヤーもいゝね」「有名なベンスキンの仔よ」「高價だらうな」
日本に未だ四頭しか 居ぬと云ふホイペツト その犬も抱けば頬を舐めにき
吠えくるひ ベンチの柱ぬけむとす グレートデーンよ何を怒るや
芝犬は良し 我が曳けば尾を巻かず 抱けど馴染まず…… そを愛ほしむ

 

中村榮一『犬展のぞ記(昭和10年)』より

 

【グレート・デーン】

 

帝國ノ犬達-グレートデン

昭和18年の広告より

 

グレート・デーンは戦前の日本でも大人気の品種であり、愛好団体も結成されていました。人目を惹く巨体ゆえ、お金持ちのステイタスシンボルにもなったのでしょう。

来日時期は不明ですが、明治時代に渡来したとの証言があります。

上田辰次郎

「昔の大型犬は非常に大きかつた。赤星さんのマスチフなどはつないでおいた自動電話を引き倒すした程力が強く、これは土佐の血が少し混つてゐましたが十七貫以上でした」

三木犬心

「明治何年かわすれたが、その當時人力車に乗つてゐて、頭のさすれるほど大きなグレートデンがゐた」

西村和介

「そう〃、鼻のさきから尾までが六尺餘りあった」

鈴木仙之助

「昔も何でもゐましたよ」

 

華蔵界能智『私の見た帝國畜犬發達史(昭和9年)』より

 

でかい犬や強そうな洋犬は、闘犬家にとって格好の交配相手です。もちろんグレートデーンもその対象となり、「土佐デン」なる闘犬が作出されました。

 

日本にデーンが始めて來たのは何時の事であるか、正確な事は私は知らないし、その当初のデーンの事も実は何も知らない。只、大正の末期、既に屢々見かけた事は確かである。
当時は、闘犬が殆んど全国的に流行した為に大型種では土佐犬が圧倒的な人気を保つて居た様に思ふ。
処で、此の余波によつて、グレートデンがポツポツ入る様になり、所謂「土佐デン(デーンと土佐犬の混血種)が、トテツもなく大きな犬と言ふことで一部愛好家の趣味に投じたものゝ様である。
随つて、グレートデンと称するものは、次第に増加はしたものゝ、純血種は極めて稀であつた事も、斯様な経緯から見て、当然の事であろう。
然し乍ら、此の犬種の、独特な、端麗優美さは、やがて次第に注目を惹き、外来頭数も年と共に増加して、昭和十三、四年頃からの食糧事情の悪化が漸く犬界をおびやかし始めるまでの数年間が恐らくデーンの最盛期と言へるであろう。
 
椿鷹江『グレートデンの話(昭和26年)』より

 

【グレイハウンド】

 

犬 

江戸時代に帰化していた唐犬は、西洋のグレイハウンドだったのでしょうか。

『頭書増補訓蒙圖彙(寛政元年)』より

 

グレイハウンドらしき犬は中・近世から渡来していたものの、南蛮犬なのか唐犬なのかは不明。外貌が酷似した洋犬のグレイハウンドと満洲犬の細狗(シーゴー)が混在したことで、識別ができないのです。

明治生まれのグレイハウンドは、意外にも宮内省で記録されていました。

 

 

グレーハウンド「ハマ」號は牝三歳にして、全身銀灰色を帯び、四肢の爪先だけ白く、容姿の優美なることグレーハウンド中稀れに見る所なり。

滿鐵總裁中村是公男の献納せるものなりとか。献納當時は未だよく人に馴れざりしかども、御苑内獵犬舎に収容せられてよりは追々に馴れ、現今は真に柔順愛すべきものあり。これ獵犬舎主任溝口幹治君と増岡獵丁との訓練宜しき結果なるべし。

グレーハウンドGreyhoundのグレーは灰色の義、ハウンドは猟犬の義にて、即ちグレーハウンドとは灰色獵犬との字義なり。さすれば灰色が此犬の被毛の本態なるべきか、されど茶褐色もあり、また白黑の斑もあり。

一説には希臘の原産なるが故に斯く名づけらるものなりと言へど如何にや、此犬の起源は確かに判然せざれども、既に上古時代に飼育せられ、獵用軍用に使役せられたるは事實なるが如し。現今歐米にて鹿狩に用ゐらる。本邦には其數未だ多からず。

此犬は頭より鼻にかけて極めて細長く、眼は敏捷の相を備へ、耳は小にして垂るれども、物に注意する時は直立す。頸は長く馬のそれに似たり。胸は比較的狭く、腰高くして胴引締まり、肋骨の數明らかに算ふべし。四肢は筋肉よく發達して長く、後肢殊に長くして發達せり。されば駛走する時は其速力迅速にして、一時間優に廿四哩以上に達すといふ(大正2年)

 

大正2年当時のハマ號が三歳ということは、明治末期の生れですね。以降も数は増えず、ペット商のカタログでも見かけません。

ドッグレースが公認されなかった日本で、グレイハウンドを飼育する人はごく僅かだったのでしょう。

ドッグレース事業は満洲国で花開き、「滿洲賽犬」として大々的に開催されています。

 

犬 

昭和12年、宝塚の毎日フェアランドで開催されたドッグレースに上海から参加したグレイハウンド。行政側の許可がおりなかったため、国内ではこれ一回のみの開催となりました。

出場したグレイハウンド50頭は上海に帰らず、日本の愛犬家に分譲されています(直後に第二次上海事変が勃発したので、帰らなくて正解だったのかも)。

小川武『競犬合宿訪問記(昭和12年)』より

 

しかし満洲国でも、グレイハウンドの出番はありませんでした。

ドッグレースの主催者が軍犬報国運動を担う満洲軍用犬協会だったため、関東軍には「あくまでシェパードを鍛錬するための競技であり、賭博が目的ではない」と弁明。結果、満州賽犬はシェパードの独壇場となっております。

満州国での成功に味を占めたシェパード関係者は、戦後にもドッグレース事業の公認化を推進。ギャンブラー大量発生を危惧したお上の拒絶により、日本のドッグレース事業は始まる前に終了しました。

 

【マスチフ】

 

 

土佐闘犬の作出に多大な影響を与えた筈のマスチフですが、明治期の記録は意外と見つかりません。

種々雑多な犬が用いられていた明治時代の闘犬に(土佐闘犬の作出前は、ポインターまで出場していました)、画像のマスチフが参加していたのかどうかも不明です。

臼井哲夫君飼育のマスチツフは年齢(去年)一年四箇年にして、体重廿八貫六百目、丈三十三吋、長さ七十六吋、實に稀代の大犬たるなり。

聞く所に依れば同犬は先年臼井氏が渡米の際携へ來りたる者にして同氏は今や日本一の物を獲たりとて喜び居るとなり(明治34年)。

 

土佐闘犬の交配作出にマスチフが利用された記録がこちら。「土佐犬其の他の犬に交配しより強き犬を求むる人の年來の望みを充たすものであろう」と書かれているとおり、繁殖用の種犬として用いられた模様です。

高価な希少犬であったマスチフを、闘犬で傷つけるワケにはいかなかったのでしょう。

 


日本犬界が大きく変化した明治時代。
和犬からカメへと交代したことで、大正のペット文化が花開く土壌は整いました。
(続く)