三河犬で問題になったチャウチャウと和犬の交雑犬。「あの騒動、なんでチャウチャウと交配したの?」と思っていたら、そういう理由だったのね~的なお話。

これが始まったのはいつ頃なのか。日本犬史と日本チャウチャウ史の繋がりを詳しく知りたいんですけど、戦前日本におけるチャウチャウの蕃殖・流通・販売記録があまりにも少な過ぎるんですよね。

 

 

日本犬が流行して來て以來、都會のコンクリートの上を、引綱で引かれて歩く日本犬を多く見る。ついぞ顧みられなかつた日本固有の犬が、流行と云ふ波に乗つて、酒屋へ三里の山奥から都會へと進出して來た。

これが良いか悪いかは識者の判断に任せるとして、近頃日本犬らしくない日本犬が急に殖へた事は悲しい。

何時かの日本犬展で、或る斯業者の一人が「この會場の中で、マアこの犬だけは日本犬の香ひがして居りませう」と云つたとて、この言葉に友人が感服?をして居た。

然り、この言はその間の實情を雄弁に物語り、事ほど左様に日本犬らしくない日本犬が殖へて來たのだ。

 

殊に最近、甚だしく目に附く事は、支那のチヤウの混血が多い事だ。何故この混血が多いのだらうか。

それは云ふ迄もない事だが、チヤウを交配すると一寸見には姿の良い犬が出來る。今多くの人が好むの胴詰りの、四角張つた張子の様な犬が出來る事である。

或る斯界の識者?は、チヤウの血が入つたら舌に斑點が現れるから、直ぐ判ると云ふけれども、あながちそれに限つた事ではない。中にはそれが全く現はれぬものが生れる事もある。

然してチヤウと日本犬は、外見に於てはやゝ酷似したるところありと雖も、その精神に於ては天地雲泥の相違がある。外の型を採つて、内を空虚なものにする策は、愚の骨頂だ。

 

兎も角、日本犬が流行するにつけ、賣れ口の良いと云ふ點から一寸見に姿の良い犬が盛に作出される様になつた事は、實に歎かはしい事である。金を儲けるためには、その手段を選ばぬと云ふ事は、ユダヤ人のみにして置き、苟くも吾が日本人たるものは、日本にたゞ一つの固有種日本犬にはもつと良心的な作出が望ましいものだ。犬と正面から向き合つた時、その氣魄に押されて、人が思はず後退する様な日本犬は、もう今の世に見る事が出來ぬであらうか。

筆者は、何時も日本犬展を見て歩くが、未だかつて、この犬なら何んとしても欲しいと思つた日本犬を見た事がない。だからと云つて、獣猟にそれ専門の猟師の所へ行くと、退化せりと雖も、まだ日本犬固有の面魄をもつて居る犬を時々見る。

 

夫れでそれ等の事から考へて見ると、現在の日本犬のヂヤツヂ連中は一先づ後退して、今度は田舎の歴代獣猟で飯を食つてる、山の猟師を連れて來て審査させるが良くはないかテナ感も起るのだ。犬の本當の魂は、その犬と共に真剣に仕事をしたものでなくては判らぬ。

日本犬を五頭や十頭飼ひ、それも廻りアンド式に、昨日買つた犬も今日よい買手があれば賣り、また明日儲けて賣れそうな犬を物色して求める様な精神のヂヤツヂ公に、何にが日本犬の魂が判るものかと云ひたくなる。

須らく、良心あれば現在の日本犬の審査員は一先づ交代すべし。然らば真の日本犬たる日本犬が、展覧會場に現はれるであらう。

 

日本犬狂「日本犬は何處へ行く」より