涙を流す父を、生まれて初めて見た。祖父は神棚に祈りをささげた。泣き虫の母だけが不思議に泣かなかった。

戦争は終わってしまった?!考えてもみなかったことが、とつぜんおこった。頭のなかが空っぽになった。眼の前が黒くなったり、赤くなったりした。

冗談じゃないと思った。

そんな馬鹿なことってあるか。この期におよんでなにごとだ。

陛下、なぜ降伏したのですか。このわたくしは、いったいどうなるのですか。

わたくしは、この汚名をどうしてぬぐったらよいのですか。

ここで戦争を止められては絶対に困る。もし罪滅ぼしができるとすれば、それは、敵兵と刺しちがえることしかない。

敵戦車が上陸したら、おれはまっさきに突撃し、体当たりしよう。そうして汚名をすすごうと思っていたのに、それができぬとは!

陛下、なぜ最後まで戦わないのですか。なぜ「朕のために死ね」とおっしゃらないのですか。

小熊宗克『死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記』より

 

まだ中学生の主人公が「戦争を止められては困る」だの「罪滅ぼし」だの「汚名をすすぐ」だのと素っ頓狂なことを喚いているのは、止むに止まれぬ事情があったからです(原作を読んでね)。

今までの価値観が一変した昭和20年8月15日。

戦時体制下で軍国教育を受けた児童たちは、それぞれの戦後を歩み始めました。

 

初等科圖畫より 昭和17年

 

【満州事変~】

満州事変、日支事変と戦争の続く中、軍歌を歌いながら大きくなった。日の丸の小旗をうちふって、入営兵士や出征兵士、軍用列車の見送りに行った。
出征兵士の武運長久を祈りながら、一針一針、真心こめて縫った千人針、慰問文書き、慰問袋つくりと愛国心は培われていった。

矢野ウメノ『思い出』より

 

 

・犬界

昭和6年の満洲事変当夜、関東軍の軍犬「那智」「金剛」「メリー」が戦死。以降、大陸での匪賊討伐作戦や鉄路警備への軍犬配備が拡大します。

この軍犬武勇伝を利用し、民間飼育者と軍部の軍犬購買を仲介する帝国軍用犬協会(KV)が発足。日本シェパード倶楽部(NSC)や青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)を併呑し、外地を巻き込んでの軍犬報国運動(軍用犬宣伝・シェパード飼育普及)が始まります。

満州事変の軍犬運用を失敗と総括した関東軍も、ハンドラーの教育機関である「関東軍軍犬育成所」を設置。将来の対ソ戦を見据え、満洲軍用犬協会(MK)をハブとした巨大な満州国犬界が誕生しました。

NSC消滅におけるKVの横暴に、激怒したNSCメンバーは雌伏の時期を経て日本シェパード犬協会(JSV)を新設し、元皇族にして愛犬家の筑波藤麿を会長に据えて社団法人化。更には本家ドイツのシェパード犬協会(SV)と特別契約を締結し、日本初の国際畜犬団体へと変身してしまいます。

KVが慌てた時は既に遅しで、筑波会長には陸軍の威光も通用せず(筑波藤麿はお飾りの宮様ではなく、防波堤となってJSVを護り抜きました)、戦時を通しての仁義なき抗争がスタート。結果、戦後シェパード界へ禍根を殘すこととなりました。

軍犬報国運動と時を同じくして、日本犬への再評価も始まります。天然記念物指定された「日本列島の在来犬」という概念により、相対的に東洋犬界やオホーツク犬界との繋がりを俯瞰する視点も生まれました(在野の日本産オオカミ研究という余禄も含め)。世界各国の畜犬団体には日本犬の宣伝パンフレットが送付され、狆以外に日本固有の品種が存在する事を知らしめます。

世界犬界の序列へ加わった日本犬界に、更なる好影響を与えたのが東京オリンピックです。

昭和4年のオリンピック誘致運動スタートを機に、「野蛮な駆除方法は外国人に恥ずかしい」という理由で街頭での野犬撲殺駆除も捕殺方式へと変更。昭和7年の忠犬ハチ公ブームは人々の愛犬精神を高め、動物愛護運動や日本犬保存活動にも大いに貢献しています。

国家と犬、ペットと飼主など、日本人と犬との関係が緊密化した時期でした。

 

・教育界

国際情勢の緊迫化にともない、教育現場からはリベラルな気風が退潮。火災などから御真影を守るため、各校では奉安殿の設置が進みました。

昭和10年、忠犬ハチ公物語「オンヲ忘レルナ」と那智・金剛の武勇伝「犬のてがら」が教科書に掲載されます。それまで情操教育の教材だったイヌは、皇民化教育や軍国教育に利用されるようになったのです。

 

 

 

いずれも国民学校教材より。「戦時中はモノトーンだった」とかいう通説とは違い、カラフルな教材が使われていました。

 

初期の防空演習で用いられた 聴音機、狙塞気球、対空銃架に載せた機関銃、防毒マスク。当時想定されていた「幾重もの防空網を突破してきた少数の中国軍機が、1~2発の爆弾を投下する」戦術爆撃では、この程度の装備で十分でした。

しかし後年の本土空襲では、B29戦略爆撃機の大編隊が本土上空に現れます。

 

第1次上海事変で戦死した「爆弾三勇士」の美談も、教科書に掲載されました。

 

 

【日中戦争勃発】

 

小学校の高等科二年生になって、卒業を間近に控えて、それぞれ目指す目標に向かって進んでいきました。
圧倒的に軍人志望が多く、陸海軍の少年兵を目指していきました。
クラスからも飛行兵・通信兵・戦車兵となっていきました。
満蒙開拓義勇軍となって、満州(現在の中国東北部)に渡っていった人も数名いました。担任は、家庭訪問を繰り返して、勧誘に熱心でした。クラスに割り当てがあったらしいのです。
開拓義勇軍は、終戦の前後、旧ソ連軍の参戦で開拓地は孤立・分断されて、辛酸を嘗めることになりますが、遂に帰らぬ犠牲者もクラスの中から出ました。

 

黒木竹光『開戦から敗戦まで』 より

 

 

・犬界

大陸の治安は急速に悪化し、上海や青島の在留邦人はペットを置き去りにして一斉退去します。半年後に青島が奪還された時、街から犬の姿は消えていました(餓死していたのは猫ばかりだったそうです)。

昭和12年の日中戦争勃発により、内地の軍犬班は続々と出征。南京侵攻へと戦線が急拡大したことで、訓練を積んだ軍犬班はあっという間に払底し、不足分を補うため民間シェパードの購買調達(いわゆる民間犬の出征)が加速します。

内地犬界はシェパード購買拡大によって却って隆盛し、ペット業界もその恩恵にあずかりました。動物愛護運動は軍用動物愛護運動へと変質し、国家の役に立つ犬が重要視されるようになります。

昭和13年に米国盲導犬オルティが来日すると、感銘を受けた陸軍省医務局は失明軍人誘導犬事業をスタート。日本シェパード犬協会と親交のポツダム盲導犬学校から4頭の盲導犬を輸入しました。

その一方、昭和13年には商工省が犬皮を統制下に置き、昭和14年の節米運動を機に政治家や農林省の官僚も犬皮の軍需原皮化に便乗。

軍部や政治家の無能無策は、ペットへと責任転嫁されたのです。

 

・教育界

まだ戦争は海の向こうの出来事であり、内地の暮らしは戦前からの流れを維持していました。

しかし、日常生活は徐々に戦時体制下へ移行。昭和13年には国家総動員法が施行され、教育現場でも国のため尽くす事が教えられました。学校は戦争支援の尖兵と化していったのです。

 

 

水アソビ 思想的表現

要旨

夏休みに兒童の経験した水遊びを畫かせて、思想の發表をさせ、表現への興味を喚起する。夏休み中に兒童の見聞し經驗した水遊びを想ひ起させて畫かせる教材で、兒童生活を中心としたものである。從つて前に出た「タイサウ」「アメガフル」「ブランコ」等の教材と連絡してゐるものである。

本教材は國民科「ヨミカタ」の魚とりや、理數科「自然の觀察」の水遊び等と關聯して授ける(教員用指導要領より)。

 

援農訓練に励む小学生たち(昭和15年)

 

 

 

 

『コトバノオケイコ』より、ジョジョのスタンドみたいなのがいます(昭和16年)

 

【昭和16年・尋常小学校から国民学校へ】

今まで小学校といっていたのが、国民学校と改称されたのは、私が五年生の、一九四○(昭和十五)年のことであった。
そのときの担任の先生は、「国民学校になって、今までの義務教育六年制がこれからは、八年制になったんだ。それで君たちは必ず高等科二年まで進まなければならなくなった」と説明した。

しかし、国民学校と名称が変わっても、周囲で何かが急に変わった訳ではなかった。
私は、こうしてあまり変化のない、刺激には乏しい農村の国民学校の高等科に進んだ。
初等科六年から中等学校を目指して進学した者もいたが、私の家は、父が早くに亡くなり、母親が農家の手伝いをしたりして働いている貧乏世帯であったから、進学など思いもよらなかった(黒木竹光)

 

国民学校への移行と共に、サクラ読本からアサヒ読本へ。

 

・犬界

大陸の戦争が泥沼化する中、昭和16年を最後に海外からの洋犬輸入ルートが途絶。以降、国内繁殖個体のみが流通するようになります。

政治家や官僚は自らの無策をペットに責任転嫁し、犬への敵視を国民へ浸透させる役目はマスコミが担いました。新聞やラジオは「畜犬撲滅」を叫び、扇動された一般市民は隣近所の愛犬家を非国民と罵ります(自らの行爲を戦後に総括した報道機関は、寡聞にして知りません)。

食糧事情の悪化により、太平洋戦争突入前後から捨て犬の数が急増。飼育者の減少は、軍犬調達にも影響を及ぼすようになりました。

軍需原皮の減産から、一部ではペットの毛皮供出に踏み切る自治体も出現。『犬の研究』『月刊ドッグ』といったペット雑誌も紙資源不足で次々と休刊し、日本ペット業界は衰退の一途をたどります。

状況は戦地へ送る軍犬優先となり、陸軍省医務局は戰盲軍人誘導犬事業を断念。「日本国家が盲導犬事業の責任を持つ」というドイツ側との約束を反故にされ、訓練にあたる日本シェパード犬協会は事業撤退を表明します。以降、東京第一陸軍病院では、失明軍人たちが独力で盲導犬訓練を続けることとなりました。

戦地へ向かう軍犬達も、輸送船もろとも撃沈されるか、過酷な環境や飢餓に倒れるか、米軍との交戦で戦死するかの運命が待っていました。いっぽう、米軍K9部隊は集中運用と各兵科連繋で日本軍の動きを効果的に封じます。

 

・教育界

昭和16年の時点では、海外文化を紹介する豊富な教材が教科書に掲載されていました。それも太平洋戦争以降は影をひそめ、やがては敵性語の自粛や英語教材への墨塗りなどへ至ります。

尋常小学校も「国民学校」へと名称を変更。 「國民學校ハ皇國ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ爲スヲ以テ目的トス (國民學校令第一條)」とあるように、 授業内容も戦時一色へと塗り替えられていきました。

学科が国民科・理数科・体練科・芸能科と実業科(高等科のみ)へ再編されると共に初等科教科書も改訂され、修身は「ヨイコドモ」、国語読本は「コトバノオケイコ」、算数は「カズノホン」、図画は「ヱノホン」、唱歌は「ウタノホン」となります。

太平洋戦争へ突入後は、毎月8日が大詔奉戴日に定められました。

 

 

國民學校施行規則

第一條 國民學校に於ては、國民學校令第一條の旨趣に基き、左記事項に留意して兒童を教育すべし。

一、教育に關する勅語の旨趣を奉體して教育の全般に亙り皇國の道を修練せしめ、特に國體に對する信念を深からしむべし。

二、國民生活に必須なる普通の知識技能を體得せしめ、情操を醇化し健全なる心身の育成に力むべし。

三、我が國文化の特質を明ならしむると共に 東亜及世界の大勢に付て知らしめ、皇國の地位と使命との自覺に導き、大國民たるの資質を啓培するに力むべし。

四、心身を一體として教育し、教授、訓練、養護の分離を避くべし。

五、各教科竝に科目は、其の特色を發揮せしむると共に、相互の關聯を緊密ならしめ、之を國民錬成の一途に歸せしむべし。

六、儀式、學校行事等を重んじ、之を教科と併せ一體として、教育の實を擧ぐるに力むべし。

七、家庭及社會との聯絡を緊密にし、兒童の教育を全からしむるに力むべし。

八、教育を國民の生活に即して具體的實際的ならしむべし。高等科に於ては尚將來の職業生活に對し適切なる指導を行ふべし。

九、兒童心身の發達に留意し、男女の特性、個性、環境等を顧慮して適切なる教育を施すべし。

十、兒童の興味を喚起し、自修の習慣を養ふに力むべし。

 

『エノホン』より(昭和16年)

 

国民学校では「體操」が「體練科」へ変更され、授業数の増加と軍隊式教練の導入が進みます(昭和18年)

 

 

中学校からは軍事教練も強化されました。

 

集団登校する国民学校生徒(昭和19年)

 

『初等科圖畫』より(昭和17年)

 

【戦争後期】

戦争がはげしくなるにつれ、物も食糧も乏しくなっていった。
学用品もなくなり、鉛筆やノートが買えなくなった。
鉛筆は短くなったものに竹をさして長くして使い、紙は帳簿の古いものの裏を使い、消しゴム等はなく、指先をつばでぬらして消しゴムの代わりにしていたが、古い紙はすぐにやぶれるので困っていた。
履物はズックもなくなり、藁ぞうりかはだし、冬でも靴下はなく、ズボンは半ズボン、女の子は親の着物をといて作ったモンペだった。
子ども達だけでなく、先生の使う白墨も配給で、低学年の受持程よけいもらえた。
その頃は、カタカナ語は敵国語だから使うことは出来なかった。
チョークは白墨、バレーは排球、テニスは庭球といい、唱歌(音楽)の発声練習はドレミファではなくハニホヘトイロハと発声練習をしていた。
そして、唱歌は殆ど軍歌だった。
「肩を並べて兄さんと、今日も学校へ行けるのは兵隊さんのお蔭です……」
「若い血潮の予科練の七つ釦は……」
「みたか銀翼この勇士……」
出征兵士を送る歌等々、次から次へと新しい歌が……
その頃「勝ち抜く僕等少国民」という歌の中に「天皇陛下のおん為に死ねと教えた父母の……」という一節があった。
二年生の男の子だった。
急に前に出てきて「うちの父ちゃんや母ちゃんはそげんこつは言わんよ」、と目をくりくりさせて、真剣な顔をして見つめた(矢野ウメノ『思い出』より)

 

戦前の授業では生物の保護色について教えていたのですが、戦争末期は兵器の迷彩色が取り上げられます(軍艦の縞模様は眩惑を目的としたダズル迷彩)。米軍機の目を逃れるため校舎の屋根や壁をコールタールで迷彩塗装した学校もありました。

『初等科圖畫(昭和17年)』より

 

・犬界

メンバーの出征や物資不足により、各地の畜犬団体は次々と解散。帝国軍用犬協会、満洲軍用犬協会、日本犬保存会、日本シェパード犬協会といった大規模な社団法人だけが、辛うじて活動を維持している状態となります。

組織的防衛手段を失ったものの、愛犬家たちは犬を飼い続けました。餌が少なくて済む小型犬やシェパードなどの軍用犬であれば、まだ飼育継続の言い訳もできたのです。

国家の意向を汲んだマスコミがペットの毛皮供出を叫び始める中、愛犬家にとって最後の砦となったのが、外交関係者や廣井辰太郎率いる動物愛護会でした。「国民からペットを奪うような行為は、戦争終結後に審判を下されるぞ」「欧米が忌み嫌う動物虐待をすれば、日本国の外交的地位を貶めてしまう」という彼らの主張は、しかし一億玉砕へ突き進む総力戦下では誰の耳にも届きませんでした。

この情況下で唯一元気だった畜犬商が「日本犬柴犬研究所」であり、謎のカラクリによって敗戦半年前まで精力的にペット販売広告を打っていました。

 

・教育界

昭和17年以降、連合軍の反攻により戦況は激化。出征で働き手を失った農村への勤労奉仕など、教育現場への影響も拡大します。

昭和18年、戦線の拡大と戦死者の激増により、高等教育委機関の文系学生から学徒出陣が始まりました。

昭和16年に結成された学校報国隊の機能は強化され、学徒勤労動員も拡大します。昭和19年には中等学校生徒に対して学徒勤労令と女子挺身勤労令が出され、軍需工場への労働力動員がおこなわれました。

 

 

 

 

 

ニフエイ(入営)

 

 

スヰヘイサン 思想的表現

要旨

水兵を畫かせて海軍に對する關心を持たせ、且人物描寫の初歩的練習をさせる。本教材は前教材と共に、海軍記念日に關聯して採用したのである(教員用指導要領より)。

 

兒童等は軍人や戰爭には多大の興味を持つて居り、戰爭畫は陸戰も海戰も好んで畫くものであるが、軍人は、陸軍は全國的に多く畫かれてゐるが、海軍は全國的に畫かれてゐるとは言ひ難ひ。これは地域的に見て、海軍々人に接する機會の少い地方が少なくないからである。

 

併し陸軍も海軍も共に帝國々防の重責に任ずるものであるから、陸軍の兵士に關心を持たせると同様に、海軍の水兵にも關心をもたせなければならない。此の意味に於て本教材を選んだのである(教員用指導要領より)。

 

伸びきった戦線を維持するために大量の兵力が投じられ、連合軍の反攻がはじまると戦死者も激増します。

 

ハタ 模作的表現

要旨

紙で日の丸の旗を作らせて、手指の初歩的な練磨をなし、國民的情操を養ひ、製作への興味を喚起する。

本教材は次の「ハタヲアゲル」と共に天長節の前後に配當し、「ウタノホン上」の「ヒノマル」、國民科「ヨイコドモ」「ヨミカタ」の日の丸の旗に關する教材と相俟つて、國旗に對する認識を深め、國旗を尊重し、國民的情操を涵養するために採用したのである(教員用指導要領より)。

 

本教材の題目を単に「ハタ」としたのは、我が國と最も深い關係にある滿洲國の國旗を参考としてのせた爲で、主旨は他の旗を作らせるのではなくて、日の丸の旗を作らせるにある(教員用指導要領より)。
 

【戦争末期】

放課後、受持ちの川村先生が、朝礼で校長が話した「学徒勤労動員」の説明をした。

川村先生は、黒板に大きく「緊急学徒勤労動員方策」と書いた。

数学より書道を担当すればいいのに、とかげぐちをたたかれるだけあって、どうどうとしていてうまい字を書く。

政府は、さしせまった決戦体制を早くかためるため、昨一八日、軍事動員だけでなく、国民動員も徹底しておこなうことにし、中等学校上級生も、戦闘配置につけることを決定したのだ。

もっとも、今回の動員令は、三年生以上が対象で、おれたち一年坊主は関係ない。動員令がくだると、学業をすてて社会に出、軍需工場で兵器をつくったり、飛行機場で飛行機の整備をしたりして、直接、戦争に役立つしごとをすることになる。

「上級生め、早く動員されればいい」と神戸がいう。おれもうなずいた。

じっさい、敬礼を忘れたの、帽子をあみだにかぶってるのと、すぐ制裁をくわえたがる上級生がいなくなれば、ずいぶんさっぱりするにちがいない。

 

小熊宗克『死の影に生きて・太平洋戦争下の中学生勤労動員日記』より

 

やがて日々の節約も限界に達し、増産しようにも資源がなく、B29爆撃機は高射砲が届かない成層圏から悠々と侵入してきました。

『初等科圖畫・男子用(昭和18年)』より

 

・犬界

サイパンが陥落する昭和19年夏まで、陸軍は種牡犬を民間へ貸与して必死の繁殖活動が続けられました。犬猫病院の診察記録から、同時期まではペットへの狂犬病予防注射も継続されていたことが判明してます。

しかし同年末、軍需省(旧商工省)と厚生省は全国の知事にペット献納運動を通達。これにより、膨大な数の犬猫が軍需原皮として殺処分されます。東亜の盟主を気取っていた日本は、国民からペットを奪う野蛮国へと落ちぶれました。

この殺戮に何らかの成果を求めるとすれば、戦時下で後手に回っていた狂犬病対策に貢献したこと位でしょうか(犬が減ったことで、戦争末期には発症件数が激減しています)。

毛皮供出を逃れたシェパードも、本土決戦に備えた民間義勇部隊「国防犬隊」への参加が待っていました。敗戦を待たずして、近代日本犬界は終焉を迎えたのです。

日本犬界の惨状を対岸の火事と眺めていた満州国犬界も、ソ連軍侵攻によって崩壊。関東軍や満鉄の警備犬たちは一部が中国八路軍へ接収されたものの、大部分は消息を絶ちます。

そのような状況下でも、日本犬保存会や日本犬協会メンバーは必死の保護活動を展開していました。山梨県では、官民あげて甲斐犬保護を貫き通します。食糧難や空襲に晒されながら、国の宝である日本犬は戦争を生き延びました。

敗戦時、戦地から帰国できた軍犬は一頭もいません。内地に残留していた軍犬のうち、飼主のもとへ返却された事例もごく僅かです。

 

・教育界

サイパン陥落によって本土空襲が激化すると、都市部の児童は各地へ集団疎開。地方の児童は農家への勤労奉仕に駆り出され、満足な授業も行えなくなりました。

中等学校生の軍需工場勤労動員は、3月になると全学年が対象の学徒勤労総動員へ拡大されます。学校からは生徒の姿が消えていきました。

高学年の男子は、少年飛行兵や満蒙開拓軍の進路を選択。 男性教師も次々に出征し、教壇に立つのは高齢者や女性ばかりといった状態に。本土決戦部隊の宿舎に利用された教育施設も無差別爆撃され、多くの教師や児童が犠牲となりました。

 

 

 

日本海軍の誇る連合艦隊もレイテ沖海戦で壊滅。制空権と制海権は米軍に奪われつつありました。

 

 

戦況悪化からの現実逃避か、何だか凄そうな地下要塞やSFっぽい超兵器が教材に載るようになります。 アンブロシーニSS4みたいなのもいますね。 こんなのを量産できる資源と技術と工業力と経済力があれば、そもそも戦争をしなくて済んだワケですが。

『初等科圖畫・男子用(昭和18年)』より

 

保土ヶ谷の化学工場に勤労動員された学生たち(昭和20年)

 

学生たちも、軍需工場や生産農家への勤労奉仕に駆り出されます。

 

【敗戦】

もう一時前だったと思う。地元出身の年老いた先生が職員室から出てきた。
「日本は最後には神風が吹くから必ず勝つ」とよく言っていた先生だった。
「みんな、集まれ」

みんなと言っても二、三十人だけだった。
「みんな、良く聞けよ」

泣き腫らした目がまだ赤かった。
「戦争は終わった。天皇陛下のお言葉があった。お前たちはすぐ帰って家の人達にも報告しなさい。これから、どうするかはまだ分からない」
切り出しの言葉以外は今、一つ一つの言葉を覚えていない。まだたくさんのことを告げられたように思う。

私たちは呆然と聞いているだけだった。
私は戦争が終わったという意味が飲み込めなかった。六年生になっていた私がそうだから、一、二年生など何のことか分からなかったはずである。
五、六年生の中には日本が負けたつよ、米英に負けたつよ、と説明するものもいた。私は帰りながらいろいろ考えた。
「日本が負けた。そっでん、神風はどしたつよ(※それで、神風はどうしたのですか)。最後にゃ神風が吹いて日本が勝つとじゃねかったつか(※最後には神風が吹いて、日本が勝つのではなかったのですか)」

佐藤聿夫『敗戦前後』より

 

敗戦の報に呆然とするもの、涙を流すもの、激怒するもの、徹底抗戦を叫ぶもの、流言飛語に惑わされるもの、安堵するもの、開放感に浸るもの。

教師と生徒は、それぞれの気持ちを抱いたまま昭和20年8月15日を過ごしました。

 

国民学校教材「紀元節」より

 

 

【戦後】

何もかもない物資不足の中でも、子ども達の顔に、明るさがもどってきたのは嬉しかった。
復員された若い男の先生も何人か着任され、学校に活気が出てきた頃、進駐軍がジープで多勢やって来た。
何事だろうかと恐ろしかった。校長室にはいっていった。通訳がいて何かはなし合っていたが、六年生の女子級をえらび、受持ちの先生は教室から出されて一時間位自分達が占領した。
はじめにおとぎ話をしたらしかった。
次にアンケート用紙をくばり、いろいろ調査があったらしく、先生にも親にも言うなと口どめされたようだったが、進駐軍が引きあげると子ども達は内容をみんな話してくれた。
好きな先生やきらいな先生の名前、そしてどこかに兵器がかくされているところはないか、アメリカ兵の墓はないか等が主目的だったらしい。
二、三日おきにはやって来て、学校で遊んでいたが、何年か後の新聞記事によると、落下傘で降りた一人の兵士(※撃墜されたB29の搭乗員)の名前がわからなかったらしいとかで、日の谷の松の木にひっかかって、重傷を負っていた兵士が死んだのだそうで、その兵士の名前をさがしに来ていたとの事だった。
来校したたびにオルガンを弾く兵士がいた。
青い眼の兵士は弾くなり、今日もまた、スコットランドの曲「故郷の空」
青い眼の兵士は故国を偲びてか、来るたび弾くは「故郷の空」

矢野ウメノ『思い出』より

 

・犬界

8月15日以降、どこに隠れていたのか、殺戮を逃れたペットたちが姿を現し始めます。戦災の少なかった北海道では纏まった数のシェパードや日本犬が残っており、戦後犬界の復興に貢献しました。

出征していた愛犬家が復員してくると、休眠状態だった愛犬団体も各地で再スタート。昭和23年頃から進駐軍兵士などを介したペット輸入ルートも復活し、日本犬界は急速に復興を遂げました(日本シェパード界は戦後僅か数年で全国の支部を再開)。

昭和25年前後から、『犬の研究』『ドッグワールド』『愛犬の友』といった新世代のペット雑誌も創刊。人々に犬を飼う余裕も生まれてきました。

昭和26年の狂犬病予防法施行により、畜犬行政や狂犬病対策は警察から保健所へ移管。警察は、犯罪捜査用の警察犬のみを取り扱うことになりました。

国家地方警察体制のもとでは全国計21県警が敗戦直後から警察犬の運用を再開、復興期の治安回復に貢献します。警察予備隊や保安隊でも軍用犬の再配備に取り組んでいました。

いっぽう、生産・流通ラインがズタズタに破壊されたところへ海外からの引揚者が殺到、食糧難は悪化します。日々の食すら覚束ない時代、犬の肉も密かに流通していました。

 

・教育界

敗戦後の教育現場では、まず戦時体制から通常授業への回帰が促されました。

9月末には、文部省が戦時教材の排除を通達。教科書の墨塗り作業が始まります。

10月11日、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示で、「参政権付与による婦人の開放」 「労働組合の組織推奨」 「教育の自由主義化」 「秘密警察の廃止」 「経済制度の民主主義化」の五大改革が実施されました。

教育現場にはGHQの担当官が入り込み、皇国史観・軍国教育の排除が徹底されます。進駐軍の指導は絶対であり、教職員に対しては戦時思想の是正も図られました。

21年1月1日、「天皇が神である」ことが否定され、その月のうちに修身や国史の廃止、奉安殿の撤去などが完了します。

昭和22年、戦後教育の指針となる「教育基本法」と教育制度を定めた「学校教育法」が施行。新時代への対応と共に、各種学校がごちゃごちゃ混在していた状況も整理されました。

それまでは、「過渡期」の授業が続けられます。

 

敗戦のショックに呆然としていた教師や生徒も、それぞれが新しい時代に何とか対応しようとします。

価値観は180度反転し、戦時体制からの脱却が始まりました。やがて進駐軍は教育現場へ介入。教材から皇国史観や軍国主義を徹底排除します。

 

戦時教育との決別を象徴するのが、進駐軍の指導による「墨塗り教科書」でしょう。修身や国史のように教科書ごと廃棄されたものから、該当部分の切除や墨塗りで対応した部分まで、その方法は多岐に亘ります。

墨塗り教科書の一例を取り上げてみました。

 

明治43年から文部省唱歌となった「我は海の子」。敗戦を経て、現代まで歌い継がれました。画像は「初等科國語七」掲載分。教師用のものらしく、指導要領が細かく書き込まれています。

 

敗戦直後の初等科國語七では、軍事色の強い7番の歌詞が墨塗りされています。

 

同じく初等科國語にて、八「日本海海戦」と九「鎮西八郎爲朝」をカットし、 七「姉」と十「晴れ間」を器用に繋ぎ合わせた例。 修正部分が何ページにもわたる場合、墨塗りではなく丸ごと切除されました。


pp.115-124の「いけ花(戦地の兵隊も生け花を楽しんでいるという話)」「ゆかしい心(戦地の通信班が傍受した東京放送、兵士のペットの猫、戦地で詠んだ俳句の短編集)」を切除し、残りは墨塗りが面倒くさかったのか×印で抹消した例。ページがカットされまくった結果、元の3分の2くらいの厚みになっています。

 

裁縫の教材も、軍国的なデザイン(日の丸の意匠など)は墨塗りに。なぜか防空頭巾の作例はOKでした。「初等科裁縫」より

 

戦時中には、進路として軍人を志願した生徒も少なくありません。少年飛行兵から特攻隊へ配属された場合、ある者は出撃して戦死し、ある者は出撃前に敗戦を迎え、「自分だけ死に損なった」という負い目を抱えたまま復学しました。そして、所謂「特攻くずれ」として母校へ鬱憤をぶつけたのです。

教え子に軍国教育を施した教師は、それに黙って耐えるしかありませんでした。

 

入学式から二・三日後のことであった。その日から授業が始まると言うことで、我々新入生は、不安と期待で緊張して先生の来られるのを待っていた。

その時である。

「黙想」と言う、われ鐘のようなどなり声が聞こえて来た。そして、教室の戸を荒々しく開けて特攻帰りの先輩達が入って来た。

飛行服、飛行靴、首には真っ白なラッカサンのマフラーをまきつけていた。

その中の一人が教壇にあがり、「貴様等は、この伝統ある小林中学校に入学してきた。しかし、貴様等の態度はたるんでいる。いまから気合を入れてやる。目をつぶれ」とどなられ、持っていた青竹で教卓を激しくたたいた。

我々新入生は生きたここちもしなかった。

そして「我々は祖国を護るために戦場におもむいた。しかし、戦いに敗れ、いま、このように生き恥をさらしている」「」貴様等は、戦争に敗けてくやしくないのか」等の説教が終わると、「よーし、これから一人一人に聞くからはっきり答え、いいか」と言って、前列の方から個人尋問が始まった。

「おい、こら立て」「お前には姉がいるか」

「います」と答えると

「名前は、住所は、姉の名は、年齢は」と聞かれる。

「よし、坐れ。明日姉さんの写真を持って来い。分かったか」

「はい、分かりました」といった具合である。

いよいよ私の番が来た。必死に目をつぶっている体に緊張が走った。

「立て、名前は」

「柊山です」

「出身学校は」

「飯野国民学校であります」

「姉はいるのか」

「いません」

「馬鹿もん、何でおらんのか」と言ってほっぺたをたたかれた。自分の番が終わると全身の力がぬけていくのを感じた。

この説教が終わる長い間、教科担の先生は廊下の入り口の外に立って教科書をかかえ待っていたのである。

柊山富弘『特攻生き残りの先輩たち』より

 

戦時中に「予備兵力」を育成していた教職員たちは、その反省を踏まえて「教え子を戦場へ送るな」をスローガンに戦後教育に取り組みます。

イヌを使った教材も、本来の情操教育用途に戻されたのでしょう。動物愛護精神を育む上で、たいへん喜ばしいことです。

 

センセイ 寫生的表現

要旨

先生を寫生させて、人物描寫の練習をさせ、寫生の趣味を養ふ。圖畫教育に於て寫生の重要であることは言を俟たない。故に初等科五・六年にもなれば、寫生は圖畫教育の中心となつて來るのである。併しまだ此の時代の兒童にとつては、寫生と言つても真の寫生は出來なくて、思想的表現と相去ること遠くないものとなるがそれでよいのである。只かう言ふ混沌たる時代から徐々に寫生的態度に導くために、一年から寫生的表現をさせて行くのである。

『エノホン 一(昭和16年)』の指導要領より

 

戦後の教育現場からは徹底的に軍事色が排除されました。しかし、その残滓は本当に拭い去れたのかどうか。

何だかキナ臭くなりつつある昨今は愛国心教育(?)なるものが復活するそうで、生徒より先生のほうがザワザワしていらっしゃいます。まあ、そんなことはどうでもいいとして、ワタシ的に問題なのはイヌが利用されることです。

さすがに軍犬武勇伝が教科書に載ることはないとしても、対抗手段としての平和教育のテーマに「戦争と犬」を用いるセンセイも出てくる筈。

 

犬が戦争の犠牲となったことを授業で教えること自体は、とても大事です。

しかし、その目的が日本犬界史(日本史のサイドストーリーとしての)を学ぶためではなく、「都合の良い平和教育ネタ」と勘違いされているのは残念ですね。

日本犬界史は愛犬家が次世代へ託す遺産であり、ミギやヒダリのセンセイがたの思想闘争の道具では断じてありません。犬を道具扱いしている時点で、軍国教育をやっていた教師と同レベルです。

そもそも、日本人と犬の1万年にわたる歴史のうち、何で戦時の15年間ばっかり切り取りたがるワケ?

縄文時代、弥生時代、中世、近世、近代、現代に至る日本犬界史を知らない者が、どうやったら犬の戦時史を教えられるんですかね?

 

そんなに「戦時中の犬」にこだわりたければ、次の質問に答えてください。

あなたが住んでいる地域の戦時犬界はどういう状況だったの?そして47都道府県別の戦時犬界は?各地域で飼われていた犬種は?それらの飼育法は?飼育用具の変遷は?飼糧の内容や配給制度は?畜犬行政や狂犬病対策?畜犬商や動物病院の数は?日本犬保存運動史と軍犬報国運動と猟犬報国運動の違いは?畜犬献納運動を主導した官公庁と、犬皮の製革と流通と配給のルートは?軍犬調達システムは?

近代日本を俯瞰し、南樺太犬界や台湾犬界や朝鮮半島犬界や満州国犬界の実態について解説できますか?

それすら調べていない教師に、ハチ公=軍国教育などと生徒に教える資格はありません。

 

押し付けと反発がせめぎ合う21世紀の教育現場で、双方が忠犬ハチ公や軍用犬を「再利用」しないよう、切に祈るのみです。

 

このような歩みをたどってきた日本を、これからどうもりたてていけばいいでしょうか。

それは、民主主義ということばをほんとうに生かしていくよりほかに道はありません。

ことばを生かすということは、身に行うということです。

こうして、みんなの歩調がそろったときに、はじめて、日本が正しい、美しい國となることができましょう。

『國語 第五学年(昭和23年)』より