舊臘の事、一丁目の通で荷馬が一歩も動かなくなつて、躍起となつた馬子は次第に憤怒を募らせて居た。
すると物見高い人集りの蔭から一人の若者が見兼ねたように出て来て、
「君ツ。其れジヤア馬は動かないぜ」と云ひ乍ら馬に近付くと首の辺りを輕く叩いてやつたり身體のアチコチを撫でてやるやうな事をして居たが、やがて手綱を取ると馬はスナホに歩き出した。
其時振り向いた若者の顔を見た此間野砲の聯隊から現役を終つて除隊になつた計りの、軍人會で顔見知りのK君だつた。
愛撫を受けて足も輕ろげに車を引き出した馬の姿は、モウこの横町を曲つて行つた。

狸兵衛『スケツチ』より 昭和二、一、三〇

帝國ノ犬達-過積載

牛馬に過重の荷を曳かせることを嚴重に禁じたい。それには青年團が重量檢査器(ロードメーター)を用意してほしいものだ

荷馬車の過積載を戒めるイラス(昭和2年)

 

在日外国人による動物愛護運動と共に、日本人による動物愛護運動が始まったのも明治時代のことでした。発端は同じく、牛馬の苛酷な取り扱いや街頭での野犬駆除といった動物虐待行為への批判です。

何百年にも亘って「荒れ馬こそが良馬」などと勘違いしてきた日本人は、幕末の開国によって外国産馬と出会います。

小柄で粗暴な日本産馬と、大柄で温順な外国産馬。ほぼ原初の姿を残す日本馬と、家畜として品種改良を重ねられてきた外国馬とでは、資質の差が歴然としていました。

国力向上の為、明治政府は馬匹改良事業に膨大な国費と労力を投じます。しかし日露戦争もあって去勢法はなかなか普及せず、施行は遅々として進みませんでした。

 

もうひとつ改善すべきだったのは、日本人の動物愛護精神です。

日本にモータリゼーションが訪れるのは昭和30年になってからのこと。明治時代には運送トラックもありませんし、陸上物流は鉄道、大八車、荷馬車、荷役馬、自転車、そして人力のボッカに頼っていました。

特に、大量の荷を運べる牛馬は労働力として重宝されたのです。問題は、その労働環境にありました。

 

戦前の荷役馬。蹄鉄がなかった時代は、馬の蹄を守るため草鞋を履かせていました。

 

家族同然に可愛がられた農耕馬と違い、荷役馬は「鞭打って従わせる」モノとして扱われることが多かったそうです。

酷暑期の作業でも水すら与えられず、日々殴られ続ける荷役馬は、従順になるどころか狂暴化。鞭で乱打された馬が荷役人に襲い掛かる「人食い馬事件」も頻発していました。

陸軍の軍馬補充部でも、農耕馬の扱いに慣れた東北地方では温順な馬が育つのに、馬をモノ扱いする者が多い西日本では粗暴な馬に育つという問題に直面。飼料改善による体格向上策と共に、「愛情をもって接するように」との指導がなされています。

その殺伐とした光景が、「美しき明治時代」のありふれた日常だったのです。

 

【廣井辰太郎の問題提起】

 

明治32年の東京に、廣井辰太郎というユニテリアン派の牧師が住んでいました。

苛酷な扱いをうける牛馬を憐れんだ彼は、雑誌「太陽」誌上にて動物虐待の是非を問いかけます。

 

『誰か牛馬の爲に涙を濺ぐ者ぞ』 

廣井辰太郎


社會の生存、治安に関する諸種の現象、問題を攻究して、社會的共同生存の幸福を増進せんと期するは、正に社會問題研究の目的及責任に属す。
現今我國内に於ても、徐々萌芽し來りたる勞働者保護問題の如きは、該問題中最も重大なる物の一として數ふるを得べし。
世勞働者の保護を熱唱するや久し。その意眞に欽すべし。然かも此意を推し、以て彼の最も憫むべき牛馬の保護に就て云爲する者なきは、余の解する能はざる所なり。
惟ふに牛馬問題も亦社會問題の一なり。すでに勞働者の保護に就て云爲するあらば、亦牛馬保護に就ても云爲する所なかるべからず。
及(すなわ)ち茲に卑見を陳べて、世の識者に訴へんとする所以なり。

 

長くなるので、広井さんの主張をカンタンに纏めてみます。


「人間は、紛れもなき万物の霊長である。だが、その持てる知恵と力を動物虐待に発揮することが「万物の霊長」としての権能だろうか?
否、 暴力をもって君臨するからではない。 品性の高潔さ、心情の豊かさが人間を万物の霊長たらしめているのだ。
もちろん人間が生きていく上で、動物を殺生するのは仕方がない。しかし、理由のない殺生や度を過ぎた動物虐待は人道として許されない行為である。

その考えのもと、世の中に非殺生の精神を広めることは喜ばしいが、個人主義を基礎として成立している現代社会とは相容れないであろう。
極端な動物愛護は実践困難であり、その強要は厭世家の反発を生んでしまう。
いっぽうで、醜悪なる動物虐待行為に道理はない。
そこで私は、両者の中間的立場を選びたい。
利益と慈悲心が釣り合うことを第一の心得とし、無益の殺生を廃絶し、感情をもつ相手として動物を扱いたい。理由があって動物を殺める場合も、可能な限り苦痛を減らす手段をとるべきなのだ。
「弱者にそんな情けは無用である」と主張する、絶対的生存競争論者もいるであろう。かのニーチェも「社会の進歩は生存競争の結果である」と説いているが、そんな社会は終局的目標たりえない。論者自身、そんな殺伐とした世界の実現を望んでいるのだろうか?
現実世界では、文明社会の進歩に伴って野蛮な習慣は薄れ、人智や人情は下等動物にも及ぶようになる。動物全般だと話が大きくなるので、ここでは家畜の保護について意見を述べよう。
現に、人道主義が発達した欧米諸国に於ては、牛馬使役に関する刑法上の規定があるではないか。そうやって牛馬を保護しているのだ。
君たちも、車両を曳いて日夜東京市中を走り回る幾千頭もの牛馬を見ているだろう。彼らが酷使される様子の言語道断ぶりを知っているはずだ。

なぜ私が牛馬保護を主張するに至ったのか、言わずともお分かりだろう」

 

これを前提に、廣井さんは動物愛護について意見を述べています。

 

一、牛馬酷役は人情に反す
人に惻隠の心あり。故に病者を憫み、弱者を扶く。是人情の自然なり。而して慈善、救極の事業は皆此に因す。
蓋し人は己自ら苦痛を欲せざるが如く、又他人の苦痛を傍觀座視する能はざるなり。もし世に他人の苦痛を見て快とする者あらば、そは全く病的變質なり。
大なる人物、大なる意識は皆な人情の化身なり。人情の誠を度外視する者は人を害し、世を賊し、而して又己を傷ふ者なり。

以上は素より人と人との關係なるも、又以て人と獸との關係に及すを得べし。
野蛮國に在ては、獸類に對する情操甚だ乏しく、彼等は禽獸を望めば、直にその肉と皮を連想す。彼等は毫も之に依て創造の絶美、意匠の絶妙を知覺するの官能を有せざるなり。
彼等の心中には、只だ筋骨を鍛ひ獸情を充すの外一物もあらざるなり。
然れども文明人には智識、意力の昂進すると同時に情操又自ら發育し、之より起る一切の要求及滿足も決して抑制する能はざるに至る。
言ふ勿れ、無智蒙昧なる牛馬豈顧慮するの遑(いとま)あらんやと。況んやその無智蒙昧なるは反つて吾人の同情を促すものたるに於てをや。
試みに彼等に一塊の智、一片の識ありと假定せよ。
彼等豈に罪なきに、苛酷非道の勞役を甘受せんや。
彼等は無智なり。然れども無罪なり。彼等は決して人に酷役せらるるべきの科なし。
彼等を酷役するは暴力にして權利にあらず。人權の濫用なり。
惟ふに彼等は人に勝れたるの体力を有す。
然かもその無智なるが故に涙を呑んで暴權に服從す。その情豈憫ならずや。嗚呼智は非を遂げ文は道を毀つの器たらんには、吾人は所謂文化なるものゝ支配を欲せざるなり。
東京市は日本の中心なり。帝室の在る所なり。
然るに此の大都の街道に沿ふて幾多の牛馬は過度の重荷と苛酷の苦役とに堪へずして、血氣消耗、吹泡、流汗体を支ふるの力なくして空しく路上に眩暈卒倒するもの多々是あるに有らずや。特に夏時炎熱燬くが如き日に在ては、此事至處に之あり。
此の惨状を目撃して良心の刺撃なく、心情又氷の如きは是天晴れ文明人士の心事?
然らば文明は人道の敵なり。
「一寸の虫に五分の魂あり」とは我國人の普く知れる所の言なり。

 

二、牛馬酷役は人間の品位に矛盾す
人を以て萬物の霊長となすは空言にあらず、飾辞にあらずして、精神的實在、倫理的自覺意識なり。
實際に於ては必しも然らずとするも、是れ吾人々間の思想及行動を規定すべき所の主義なり。耶蘇教徒は之を名けて神子的自覺心と名く。
素より異語同義に外ならず。兎に角これは偉大なる自覺心なり。進取的理想なり。
此の意識は人をして輕薄非道、奸倭邪惡の行あるを誡め、又世に接するに謹慎、自ら處するに重厚ならしむ。
是れ人性の徳操なり。品位なり。無益の殺生は人の權外にして又非道の醜行なり。
斯る暴行は全然人の人たる所以の品性を毀損す。夫れ暴利、暴益、非道の慾望に\\られて彼等可憐の牛馬を使役するに、一定の時間と適度の休養を以てせず。
恬然自若彼等を死苦の悶絶に陥れて毫も介意せず。世又怪まざるに至りては、その醜態殆んど言外に逸すと言ふも、未だ書さゞるの感あり。人に良心あり。良心なくんば是れ死者なり。
然かり良心去るも食慾は依然として存せん。故に食慾を有する動物的の生命は最早有るとなし。
世若し良心なく、人道なくんば、是れ社會にあらずして、犬猫の群と何んぞ擇んや。

 

三、牛馬酷役は社會の秩序を・・\乱す
孟母その子の爲に居を轉ず。是れ志士の以て鑑とすべき所なり。
(※動物とは関係ないお説教が続くので中略)
境遇時潮は知らず〃の間に人心を變造す。
曰く東京市人には肺患多しと。是れ東京市街は塵芥深く黴菌の媒介に適合するが故なり。凡そ有形無形を問はず人は到底處的の制限を脱する能はざるなり。然らば社會は人を生殺するの能力ある者と云ふべし。
境遇は眞に人を造るの工匠なりといふべし。
吾人は時に社會の事物に對して、奇異怪訝の念を抱くことあり。然りと雖も、吾人の耳目次第に之に慣るゝに從て、吾人は終に善惡醜美の感覺を混同して良心の刺激を感ぜざるに至る。
社會の個人に及ぼすの勢力豈に夫れ大いならずとせんや。
東京市に於ける牛馬の酷役は如何。市人は目慣れ居るを以て敢て怪まざるが如し。
野犬撲殺さらるれば兒女群をなして之に尾行し、牛馬苦役に堪へずして路頭に倒るれば、人群れ囲んで之を笑觀す。
是れ何たる怪事ぞ。此に至て人情の美全く地に落ちたりと言ふべし。
然りと雖も是れ単に個人の罪のみに歸する能はざるなり。
然るに警視總監は曩日官令を發して晝間野犬の撲殺を禁ぜりと。吾人は總監の美擧を慾す。希くは警視總監たる者更らに一歩を進めて牛馬取締を嚴行せよ。社會の治安を妨害する物、豈只だ強激の政談演説のみならんや。


四、牛馬酷役は經濟上必ずしも利ならず
經濟とは金錢の取扱に限るものに非ず。その廣義に於ては百般事物の節用を云ふなり。
故に吾人は腦力にも勞力にも經濟の語義を應用するを得るなり。
例へば腦の經濟とは一定の時間と方處(即ち範圍)とを以て腦力活動を制限し、可成的にその運動をして敏活ならしめ、又長久ならしめんと計るものなり。
勞力の經濟も又如此し。
勞力は人躰に寓し、人躰は有機組織に依て常に運動す。故に其勞力は有限なり。有限なる勞力を有する者は休養を要す。
而して又生命即ち活動要素を保存する爲めには食物を要す。休養と食物是れ實に有機躰存續の二大條件なり。
此の條件は自然なり、天律なり。
故に之を犯す者は即ち天則を犯すなり。
社會を傷ふなり。
勞働者保護問題とは所詮此の天則的二大條件即ち人類平等の權利を要求するに外ならず。
牛馬若し智あり弁あらんか、彼等も又隊を組み、黨を結んで籏鼓堂々、天與の權利を主張し、人類の暴慢に向て、一大血戰を挑發せざらんや。
需要供給は天下の通則なり。牛馬は勞力を給す故に彼等は勞力の繼續を支持する爲めに一種の要求を有す。要するに勞力は製造品の如し。
製造品は原料を要す。原料なくんば豈に製造品なからん。然かり牛馬は勞力を供給す。然らば彼等はみの勞力を保存持續する爲めに始終休養と食物とを要するや必せり。
余牛馬を飼ふ者敢て食物を給せずとは言はず。又休養を與へずとも言はず。
唯だ彼等が食物を給し休養を與ふるに、度を顧みざるを言ふ而己、換言せば酷役の結果たる勞力の損耗を回復する丈の休養と食物とを與ふることをせずんば、有限なる彼等の勞力は速やかに朽ちん。彼等は未だ命至らずして斃れん。
然らば反て得失相償はざるはあらざるか。小慾大損とは古より這般の事柄を言へるなり。


五、牛馬酷役は國家の體面を瀆す
内地雑居は目前に迫れり。而して道路修理、監獄改築等内地雑居準備問題は、過般來當局者の心事を惱殺しつゝありしにあらずや。
四海交通は天下の大勢なり。所謂鎖國主義なるものは今や狂 人の\\語となり畢りぬ。
此の秋に當て吾人は最早その瘡痕、腐爛を掩ふ能はざるなり。
吾人の社會は白晝の裸躰にして頭毛の尖端より足趾の爪頭に至る迄毫も秘する所なく、醜態惡貌終に装ふ能はざるに至らん。
異色の人種來て我と雑居するの暁に當ては、我國躰の各部に殘留する病痕罪惡は一々彼等の摘發する所となりて、世界各國の評壇に登らん。
加之彼等が我國に與ふる評價は世界史壇に置ける我國民の位置と運命とを確定するに至らん、當局者たる者、否な國民たる者猛省一番持國の策を攻究すべきなり。
余思ふに我國に於ける牛馬酷役の現状は必らず彼等外人の視圏に映ず事物の一ならん。
讀者は知らずや、嘗て横濱在留(?)の一外人は萬朝報の英文欄上に関する評論を寄せたり。而して之を言ふ者豈に只だ萬朝の英文のみならんや。
況んや彼等外人は屢々日本人が性殘忍にして毫も下等動物を憫むの美性を有せずと極言するに於てをや。
若し彼等外人にして我國民が這般の情緒を缼損せる人種たることを信ずるに於ては、是れ吾人を蛮視したると同一なり。
以上は我國民の爲めに利なるか。彼等は我國を以て其器械的文明に於てこそ僅か三十有餘の短年月に於て習得し得たるも、是れ直ちに泰西文明の眞髄依處を同化したるものにあらず。
只だ其形骸を模倣したるに過ぎずして、その實体に於ては、未だ依然として三十年前の舊套を脱せずとなさん。
彼等の言葉より棒大の誹を免れずとするも、又豈に些少の據處なしとせんや。
讀者或は事の細小にして意に介するに足らずと言はん。
然りと雖もそが我國の體面を瀆かし、加ふるに外人の感情も傷ひ、延ゐて施政上幾多の妨障を醸成するに至ては、決して不問に付する能はず。
(以上は余が一片の赤心を具陳して、識者の猛省を促したるものに過ぎず。若し夫れ牛馬取扱の現状に至ては讀者の既に熟知せらるゝ所なるべきも、他日再び精密なる統計的調査を遂げて、天下有情の士に訴んことを期す)

 

【反響と動物愛護論争】

 

この投書は、大きな反響を呼びました。

真っ先に「牛肉を喰っている人類が、動物虐待を非難するのは辻褄が合わない」と主張したのが宋襄さん(太陽の編集者)。博愛主義者の名を借りた割に、無慈悲な反論を複数回にわたって展開しております。

なぜか「貴誌掲載する所の……」などと自分の雑誌に投書しているのは、この問題を煽るための自作自演だったのかもしれません。

 

太陽記者足下、貴誌掲載する所の廣井辰太郎君の「誰か牛馬の爲に涙を濺ぐ者ぞ」と題する一文感讀仕候。

牛馬虐待は人道に背ける非行とは萬々承知仕候得共、吾々は現に彼等の肉を食ひ居る事實をば如何に解釈可致候や。虐待も殺戮も人類より見れば均しく主我の行爲には候はずや、且夫れ人類にして牛馬の感覺を有せざる以上は、所謂虐待とは主觀上の想像に外ならずとも考へ得らるべく候。

小生は牛馬虐待を人情に背けりとは存候得共、是れ一片の感情にして道理上よりは迷妄なるべきかと被考候まゝ、牛馬虐待を是認する者にては無之候得共、是等の疑問に関する明瞭なる解答を得たる後、是の問題に對する賛否を決し度き存年に御座候。不一。

 

宋㐮生『牛馬虐待に就きて』より 

 

この炎上商法批判に対し、廣井さんは「食習慣とは無関係な虐待行為を止めろといっているのだ」と真っ向から受けて立ちます。

 

余は宋㐮生君が動物保護に關する余の提説に確たる道義上の據處なきを摘發して、余をして明かに動物厚遇の理由と殺戮食肉の現状との間に横はれる論理的自家撞着を解明すべきの自覺せしめたるを多謝す。

然れども余は又君に反問せん。

君は殺戮も罪惡なり、虐待も罪惡なれば、一罪を犯すも罪、二罪を犯すも罪、故に一罪を公許して他の一罪のみを禁制するの理由を見ずとの無條件敵翻案を眞とする者なるか。それ吾人が肉を食ふは、先代の遺習生存の必要に駆られたるものなれば、妄りに社會の風紀秩序を紊乱する殘忍なる虐待とは、自らその撰を異にす。苟も社會が肉食を以て活溌有爲なる生活々動の必要條件となす間は、下等動物が天地間に於ける最高の使命を有する人類生存の犠牲となるも又實に止むを得ざるの悲劇にあらずや。若し夫れ異日植物が肉類と同等の衛養を含有するとの學説が、理論と経験とに由て愈ゝ明かに證明されたるの暁に於ては、吾人は肉食を全廃して断然ブエヂタリヤン(※ベジタリアン)たらんとを約す。

然り肉食は一種のNecessary evilにして、今日は猶ほ生存上是を必要と認むるなり。然れども虐待は啻に不必要とするのならず、社會の風紀を紊乱する一大逆行なり。その理知何となれば殺戮(虐殺と混ずる勿れ)は、多く周密なる人家を離れたる場に於て、極めて巧みに、又極めて迅速に執行せらるゝも、虐待は多く通行織るが如き市街の中心より、寒村僻地の偏端に至る迄、人目の最も触れ易き處に於て遂げらる。

故に二者を以て同一に論ずるは非也。且つ苦悶の程度よりするも、科學的智識を應用した老熟なる殺戮は、殘忍なる虐待よりも苦痛の度大ひに短小なり。

君は牛馬の爲めには熟練なる屠手の鋭刀が、血涙なき半獸的惡漢の虐役暴打よりも、遥かに忍び易きを思はずや。

次に君は余の説が必しも道理上の根據を有せざるが故に、又客觀的の實在なき主觀的の感情と看做すも差支あるまじと言はるれど、普遍的感情は道理上の根據を有する客觀的實在と見て可ならずや。君は輕視して道理を偏重するの論者と見ゆ。

然れども直覺自證を以てその本質となす感情は、抽象的寫象を以てその本性となす道理よりも、反て實在に酷似するものには非ざるか。

然れども余思ふに、動物保護問題は其性質上、論戰の題案たるに適せず。

明白に言へば感情問題の圏内に属す。君が惻隠の情を以て萬人の通性に歸し、又己れ自身にもこの心を以て擬したるは、深く余の意を得たるものなり。

さりながら君は又地方に於て是に充足なる道理的説明を得るにあらずんば、是の問題に對しまだ決然たる去就賛否の答案を與へ難しと云へり。然れども是れ反て君が自性と人情とを信憑するに吝なるの結果、強ゐてこの昭乎たる人世問題の事實を覆掩せんとする者なりとの疑を招くものにはあらざるか。

君よ、余は冗言慢語徒に編輯者の怨を買んとを懼る。若し夫れ精細なる解答は、是を他日に譲るの外なし。粗漏の答弁君諒之。

廣井生『宋㐮生君の質問に答ふ』より

 

納得しなかった宋㐮さんは、更に(牛馬の待遇改善そっちのけで)食い下がります。

 

拝啓、牛馬虐待に関し小生如き者に對し御弁明の勞を取られ候御厚意御熱心の程は、不淺感悃能在候。尚ほ愚昧の性とて腑に落ち兼候左の條々、再度の御教示に與り得べく候や、悃願此事に御座候。

一、「普遍的感情は道理上の根據を有する客觀的實在と見て可ならずや」との御高論、小生いさゝか異存を申立度候。げに感情は實在なれば普遍的感情が客觀的實在として見るべきこと異存無之候へ共、是の如き意味の客觀的實在が道理上の根據を有すとは如何の義に御座候哉。感情が普遍的なるからには普遍的なるに十分なる理由は有之候事勿論の儀には御座候へ共、是の如き理由は理性が認めて當然とする所の理由に無之候。

感情にして實在ならば理性も亦實在也。感情の要求にのみ執着して、理性の發言を無視すると、理性にのみ拘泥して感情を蔑如すると、其の偏ずる所以に於て同一ならずや。

小生を以て理性をのみ重しとする論者なりと速斷せられむは、廣井君の誤解なるべく候。小生は感情理性兩者の調和點に於て安心の實行を求め度しとの存念に御座候。

二、食肉は先代の遺習生存上の必要なれば已むを得ざる罪惡なりとの廣井君の御説、是れ亦如何はしく被存候。

食人俗(原文ママ)は先代の遺習として許容せらるべきにて候や。又人類が自家生存の必要の爲には如何なる事を爲すも已むを得ずとして許容せらるべきにて候哉。

是種の道徳觀にして是認せらるべくむば、牛馬虐待の如きは實に論ずるに足らざる些末の問題と可成被存候。

小生は斯の如き論據に立てる廣井君が、如何にして牛馬の虐待すら否認せられたる博愛論者となり得べしかを怪み候。

三、動物保護問題は至極の所、道理問題に非ずして感情問題なりとの御説は、或は是問題の實相かとも被存候。乍併既に感情問題となれば同時に個人問題と可相成事、前以て御承知可有之候。

何となれば感情の普遍とは形式上の概括に有之、如何に普遍なるかの問題に入れば、理性の牽制力如何の程度によりて到底個人的となるを免れざるべければ也、况してや、単に憐憫と云ふが如き感情より、虐待防止と云ふが如き活動、行動に出でむが爲には、主觀の側に於て各職能間の如何の關係を須要とすべきかを一考すれば、個人的たるを免れざる理由も亦明瞭なるべきかと被存候。

右の條々に關して廣井君并に牛馬虐待防止論者は如何の御意見を有せられ候哉。

小生は先づ純然たる批評家の位置に立ち御質問申上候。不宣。

 

宋㐮生『再び牛馬虐待問題に關して(廣井君に問ふ)』より 

 

「純然たる批評家の位置に立ち」などと、議論のための議論であることを白状した宋㐮さん。廣井さんも呆れたのか、それとも出来レースだったのか、ディベートを中止しました。

以降は中央公論などに主張の場を移した廣井さんですが、 その間にも動物虐待行為は続けられています。

 

言葉ではなく、行動による動物愛護を始めなければ。

そう決意した廣井さんの元へ、キリスト教のみならず仏教・神道界からも賛同者が集まりました。

こうして明治35年に結成されたのが、動物虐待防止會(後の動物愛護會)。

日本の宗教界による、日本人の手による動物愛護運動がスタートしたのです。

 

(次回へ続く)