「児童教育と犬」について、最も適したテーマが忠犬ハチ公でしょう。情操教育や日本犬界史の教材として、ハチ公を大いに活用すべきだと私も思います。

その一方で散見されるのが、「忠犬ハチ公は軍国教育に利用された」という批判。

 

「侵略戦争へ突き進む日本は、忠犬ハチ公の教材で軍国主義を児童へ植えつけたのだ!!」

などと叫んでいる人々は、モチロン対象の教材に目を通し、当時の指導要領も精査し、「文章表現や指導方針のこの部分が軍国教育のガイドラインに該当する」という考証を……、誰もやって無いんですよねえ。

 

小難しい言葉で飾り立てた彼らの論拠を眺めると、「自分は調べていないけど、新聞やネット上で誰かがそう言っていた」という無責任な伝言ゲームばかり。

なぜかハチ公教材『オンヲ忘レルナ』の内容に一切触れない、そもそも対象の教材を読んでいるかすら怪しいセンセイも少なくありません。

「ハチ公軍国教育論」の正体とは、教育を論じるに値しない思考放棄の産物なのです。

 

戦争の時代、犬はどのように利用されたのか。その究明を、犬への興味がない教育者やジャーナリストに押し付けるのは筋違いです。

犬の歴史を編纂するのはワレワレ愛犬家の責務。近代日本犬界の記録をもとに、実際のハチ公教材『オンヲ忘レルナ』を検証していきましょう。

※『恩を忘れるな』というタイトルの教材は複数存在しますが(迷子の少女が道案内してくれた人への感謝を忘れない昭和2年度版とか)、今回は昭和10年度のハチ公教材を対象とします。

 

帝國ノ犬達-ハチ

「オンヲ忘レルナ」が教材化された年、ハチ公は世を去りました(昭和10年)

 

【前提その1・軍国教育とは何か?】

 

ハチ公の話へ移る前に確認しておきたいのですが、彼らが連呼している「軍国教育(今回は小学校教育限定)」とは何なのでしょうか?

「国定教科書による洗脳教育的なイメージ」ではなく、具体的に何の基準を充たせば軍国教育に該当するの?

 

軍人や武将、戦場や兵器が登場するミリタリー系の教材は、まさしく軍国教育。皇国史観、愛国心、満州国や大東亜共栄圏の意義をゴリ押しする教材もそうでしょう。軍歌や桃太郎の唱歌など、戦意高揚をはかる教材も同じこと。

しかし、軍事技術の基礎にもなる算数や理科や地理を「軍国教育」とするのは暴論ですし、音楽や図工や体育の授業は軍人を養成するためでもありません。情操教育を目的とした修身の教材は……、どうなんですかね?

 

そして「制度としての軍国教育」がスタートした年は?

文部省が設置された明治4年からですか?国定教科書制度が採用された明治36年?軍事教練が導入(小学校は対象外ですけど)された大正14年?満州事変が起きた昭和6年?戦時体制へ移行した昭和12年?尋常小学校が国民学校になってから?

懸命に西洋文化を学ぼうとしたかと思えば「鬼畜米英」と叫び始める。迷走しまくった近代教育界において、どの時期のどの教材を見ればそれを比較検討できるの?

要するに、ハチ公物語が教材化された昭和10年度の軍国教育制度とはどのようなものだったのですか?

 

素人には何が何だかサッパリわからないので、まずは軍国教育を論じている者たちが「軍国教育とは何か」の共通ガイドラインを定義してください(つまり、GHQの黒塗り教科書みたいなルールの視覚化です)。その上で、ハチ公教材が該当するかどうかを確認すればよいでしょう。

責任を担うべき教育現場、学術機関、マスメディアすら、その基本作業を怠っているのですよ。

戦時期の教材(昭和6年~昭和20年)に目を通すと、児童の脳ミソを軍国主義に染めるための教材は枝葉の部分。中心を占めるのは現代と同じ普通教育です。

しかも、ハチ公が教材化されたのは満州事変の4年後・日中戦争の2年前という中途半端な時期でした。

 

昭和10年度の尋常小学校用教材は、現代と同じ普通教育(国語・算数・理科・社会)、国内外の歴史や地理、図工や音楽や保健体育や家庭科、社会・家庭・個人としての立場を教える修身まで幅広い分野にわたっています。

それらの中には軍国主義や国家主義を児童へ植え付けたり、戦意高揚を煽る教材も混在していました。

「広範な児童教育の分野に軍国教育が含まれていた」と考える私は、「近代日本の教育=すべて軍国教育」という乱暴な意見には同意できません。

軍国教育の事例だけ集めた歴史研究書とか出版されていますが、あれを読んだ人は「全体がそうであった」と錯覚してしまうんですかね?

 

【前提その2・秋田犬とシェパードの違いについて】

 

ハチ公物語が掲載された教材は、尋常小学校の修身書。現在の道徳教育に該当します。だったら軍国主義ではなく、身近な家族主義・地域社会のルールやマナーを教える情操教育が目的じゃないの?

そんな疑問すら思いつけない理由は、批判の対象を間違えているからです。

皆さん、「忠犬ハチ公」と「軍犬那智号」を区別できていますか?

 

昭和10年度の教科書には、二つの犬の教材が掲載されました。

ひとつが尋常小学2年生用修身書の『オンヲ忘レルナ』で、亡き主人を渋谷駅で待ち続けた忠犬ハチ公の物語。

もうひとつが尋常小学5年生用国語読本の『犬のてがら』で、満州事変勃発当夜に戦死した軍犬那智・金剛姉弟の武勇伝。

国粋主義の象徴たる秋田犬(天然記念物)と軍国主義の象徴たるジャーマン・シェパード・ドッグ(名前のとおりドイツの牧羊犬ですが、日本では軍用犬あつかい)が、それぞれ教材化されたのです。

 

犬のてがら1

小學國語讀本五・二十二『犬のてがら』より

 

『犬のてがら』は、まさしくシェパードを利用した軍国教育です。

登場するのは、昭和6年9月18日の満州事変勃発当夜に戦死した関東軍所属の那智・金剛姉弟(一緒に戦死したメリー号は文部省の教科書で削除され、満州国の教科書のみに登場)。同年11月27日には飼主の板倉至大尉も戦死したことで「国家に命を捧げた板倉大尉と愛犬たち」は大々的に報道され、昭和10年度の教材化へ至りました。

『オンヲ忘レルナ』と『犬のてがら』を混同すると、「張学良軍がたてこもる渋谷駅へ突撃した忠犬ハチ公が戦死体で発見された」とかいう意味不明のストーリーになってしまうワケです。ダメでしょう、そういうのは。

 
戦後のハチ公批評において、『オンヲ忘レルナ』と『犬のてがら』が明確に区別されなかった理由。

もしかしたら、これらの教材で学んだ児童が大人になった後、記憶の中でふたつの物語が混じってしまったのかも知れません。アヤフヤな思い出話をもとにハチ公軍国教育論が生まれ、後の世代が思考停止の劣化コピーを繰り返してきたのならば、仕切り直しが必要でしょう。

「渋谷駅の秋田犬」と「関東軍のシェパード」を区別できないまま、軍国教育と犬を論じられても困りますから。

 

教育現場での軍犬デモンストレーションは、図画工作や作文の題材にもなりました。民間にシェパードを普及させるため、陸軍や帝国軍用犬協会も積極的に協力しています。

 

日本が戦争へ向かっていた時代、教育現場では皇国史観や軍国主義を是とする教育がなされていました。
モチロン教える相手は小学生。難解なキョウイクチョクゴとか理解できるはずがありません。

そこで、児童にもわかりやすい題材が選ばれたのです。たとえば、尋常小学2年生の教材には忠犬ハチ公とか。

 

……という風に、『オンヲ忘レルナ』は軍国主義的な内容だったかの如く喧伝されてきました。受け取る側も「忠犬ハチ公は軍国日本を象徴する犬であったのだろう」などと想像を飛躍させるワケです。

すべて間違っているんですけどね。

下の画像に明記されているとおり、日本軍が軍用犬(軍用に適する犬種。軍用適種犬の略称)に規定していたのはシェパード、ドーベルマン、エアデールテリアの三品種でした。

それらの中心となったのがシェパード界であり、つまり「軍国日本を象徴する犬」「侵略戦争の走狗」はジャーマン・シェパードです。

 

帝國ノ犬達-購買

軍犬調達システムの基幹であった軍犬購買会の開催告知。民間シェパードの戦地出征とは、「犬を買いたい陸軍」「犬を売りたい飼主」「両者を仲介する帝国軍用犬協会」の三者で成り立つ売買契約です。

画像の購買エリアに「東京都」とあるとおり、東京府制が東京都制へ移行した戦争後期にも品種別調達が維持されていました。

 

何でドイツの牧羊犬が日本軍のシンボルなんだよ?などと文句を言われましても、当時の日本ではジャーマン・シェパードが大流行していたので仕方ありません。ドイツ製を信奉する国民性は昔からなのです。

しかも「昭和6年の満州事変によるファシズム台頭」とは一切関係なく、シェパードの流行が始まったのは昭和3~5年のこと(日本シェパード倶楽部の中根榮理事によると、副業でひと儲けを目論む素人ブリーダーから問い合わせが殺到する騒ぎだったとか)。

ハチ公ブーム下においてもシェパード優位は変わらず、昭和10年度に東京で飼育登録された秋田犬335頭に対し、シェパードは2902頭となっています。

そして日中戦争が始まった昭和12年、シェパードの国内飼育頭数は累計22000頭に達しました。何でそんなことが分かるのかといいますと、陸軍省の意向で民間シェパード犬籍簿が整備されていたからです。

 

犬

 

こちらが社団法人帝国軍用犬協会の『帝國軍用犬犬籍簿(略称はKZ。ちなみにシェパード種犬種簿はSKZ、ドーベルマン種犬籍簿はDKZ、エアデール種犬籍簿はAKZと表記されます)』。陸軍省が民間シェパードを資源母体化するための登録リストです。

このKZを基本データとして、飼主と軍部を結ぶ軍犬購買会は成立していました。

いっぽう、秋田犬を登録していたのは日本犬保存会(東京)・日本犬協会(大阪)・秋田犬保存会(大舘町)・秋田犬保存協会(秋田県全域)といった和犬団体です。たとえば日本犬保存会が陸軍へ犬籍簿データを提供し、軍犬調達業務に協力した記録はあるのでしょうか?

……実はあるんですけど、東北地方の陸軍部隊が郷土愛的趣味に走った特異なケースなので原則論には含めません。

戦時中の教育現場では軍犬の実演会が披露されましたが、そこに出演したのもシェパードばかり。軍国教育に秋田犬は用いられなかったのです。

 

犬
日本犬保存会が世界各国の畜犬団体へ送付した日本犬の宣伝資料。郷土愛と絡めた日本犬の天然記念物指定を進める文部省と共に、世界犬界の序列へ日本犬を加えるための「日本オリジナル」という国粋主義も利用されました(昭和11年)

 

帝國ノ犬達-貴志

昭和7年、関東軍のジョン、ドル、エスが鉄道破壊工作員を捕えた際の宣伝写真。軍犬専門家の貴志重光大尉(後列の将校)は、満州事変直後から軍犬武勇伝を内地メディアへ発信し続けました。満州国防衛のため、更なるシェパードの配備拡大が必要だったのです。

関東軍と呼応し、陸軍省は帝国軍用犬協会の設立と軍犬報国運動を支援しました。

 

帝國ノ犬達-軍用毛皮
仏教的殺生観から皮革業界が発展しなかった日本では、皮革の最大輸出国だった中国との戦争で需給バランスが崩れます。

皮革不足を補うため、狩猟法を管轄する農林省は各地の猟友会へ野生鳥獣の毛皮献納を要請。この狩猟報国運動において猟犬は国家の保護対象となります。

国策協力という大義名分により、戦時下のハンターは敵国イギリス産のポインターやセッターを堂々と飼うことができました(内閣情報局『寫眞週報』より)

 

犬に関する国家的施策は、文部省の日本犬・陸軍省の軍用犬・農林省の猟犬でそれぞれ異なりました。

内務省の警察犬制度や狂犬病対策、商工省の犬革統制といった行政上の区分も同様です。

「国家と犬を論じる上で、品種の区別なんか些末事だ!」などという乱暴な主張を見かけますが、「国家と犬」を論じたければ秋田犬とシェパードとポインターくらいは区別しましょう。

 

【ハチ公軍国教育論のはじまり】

 

満州事変の翌年からハチ公ブームが始まったのは事実ですが、だからといって秋田犬と軍国主義を結びつけてはいけません。

秋田犬の歴史で軸とすべきは、日本犬保存運動の分野。

それを無視するのは、牧羊犬史の知識がないゆえシェパードをナチス発祥にしたがる軍事オタクと同レベルです(ちなみにジャーマン・シェパードが作出された1899年、アドルフ・ヒトラーは10歳の少年でした)。

 

満州事変から日中開戦へ至る6年間において、秋田犬は文部省の日本犬保存運動(秋田犬天然記念物指定・昭和6年)、シェパードは陸軍省の軍犬報国運動(帝国軍用犬協会の設立とシェパード普及活動・昭和7年スタート)の文脈で語るべきでしょう。

日本犬保存運動を象徴するハチ公と、軍犬報国運動のシンボルである那智号が教材化されたのは10年度。しかし『オンヲ忘レルナ』は、昭和11年度に『永田佐吉の恩返し』と交代して教科書から退場します。

意外にも、ごく短期間だけ採用された教材だったのですね。

もしも軍国教育が目的であれば、昭和12年に始まった日中戦争でこそハチ公を活用する筈。ハナシの辻褄が合いません。

 

いっぽう、軍国教育の『犬のてがら』は『軍犬利根』へ交代。銃後国民にシェパードを飼わせ、戦場へ送り出すための物語へ変化します。

戦況が悪化するとハチ公物語どころではなくなり、昭和19年には渋谷のハチ公像も金属供出へ。銅像どころか、厚生省と軍需省のペット毛皮献納通達によって全国規模でペットが殺戮され、日本犬界は壊滅します。

国家の保護対象だった軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物(日本犬)は辛うじて生き残り、戦後犬界の復興へ寄与することとなりました。

 

昭和20年の敗戦を経て、昭和23年には渋谷ハチ公像の再建が決定されました。軍国主義排除を徹底したGHQも忠犬ハチ公復活を問題視せず、銅像除幕式にはアメリカ、イギリス、中華民国、韓国の外交・動物愛護関係者も参列しています。

再び日本人に愛されるようになった忠犬ハチ公。しかし、戦後日本ではハチ公を批判する声も目立つようになりました。

これら戦後版ハチ公批判の発祥はドコなのでしょう?

……などと疑問に思って記録を辿ったところ、敗戦の翌年に始まっていました。

 

「戦前のハチ公批判」は過熱するハチ公ブームへの嘲笑や日本犬保存会へのアンチ活動などでしたが、「戦後のハチ公批判」は天皇制や戦前教育の否定がテーマとなっています。

※ハチ公批判がはじまった戦後復興期、児童文学界では北野道彦らによる愛犬精神の涵養が図られていました。

 

昭和21年4月に発足した民主主義教育研究会(※現在の全民教とは別の組織)の資料より。

 

我々は、何氣なく忠犬八公を感心な犬だと思つてゐるが、よく考へて見ると、八公と日本人の精神と、どれほど異つてゐるであらうか。一般日本人は、日本には日本獨特の精神文化があると思つてゐる。それは歐米の理知的科學文化に對して、何か精神性の勝つたものであり、感情の美しさがあると思つてゐる。それは一体何であるか。

多くの人々が口を揃へて自讃するところは、詮じつめると、家族主義と皇室に對する忠誠心といふことに歸着する様だ。この家族主義と皇室中心主義とは、小家族と大家族との関係として説明され、家族的感情が私生活と公生活とを一貫する指導理念であるとされてゐる。即ち忠孝一致とか、義は君臣にして情は父子とかいふ様に宣傳され、これを基礎付ける爲めに、祖先崇拝や神道やらが背景に採用されてゐる。然し、現實の生活に於て、家族主義と忠君主義とは一致してゐたであらうか。否、日本ほど家庭生活と忠君との矛盾した國は無いだらう。天皇の命令に従ふことによつて、如何に日本の家庭生活が破壊され、家族が悲惨な目にあつたか。それはこの戰爭が、何よりも雄弁に物語つてゐるであらう。

 

まさき・ひろし『忠犬『八公』と日本人(昭和21年)』より

 

それから10年後の昭和31年、「ハチ公はヤキトリ目当てに渋谷へ通っていた」というハチ公駄犬論も登場。

『週刊新潮』に掲載された戸川幸夫の「忠犬像紳士録」、続いて『週刊朝日』掲載記事の「銅像は何も云はないけれど」では「動物の愛情をねじ曲げて行った、当時の日本の世相が浮かび上がってきはしまいか」とするハチ公批判が展開されました。

いっぽう「それ(ハチ公駄犬論)が真実かどうかはハチ公しか知りませんから……」という反論も週刊朝日に投書され、同年末にはペット雑誌も「最近各誌に忠犬ハチ公の真相についてと題して、故意に真相をワイ曲し、また忠犬の純忠(純心でもよい)を嘲笑する様な記事が一般社会に流布され、犬を愛する人々の心を傷つけ、その胸に暗い影を投げかけた」「最近になって、三十年も前のハチ公を駄犬だ、野良犬だと罵る人の気が知れない」というハチ公擁護の論陣を張ります。

※当時のハチ公批判派・擁護派とも、上野八重子氏については「先生の奥さんはハチ公に関心がないので、引越の時にハチ公を植木屋さんにやってしまった(「忠犬の真相」)」と中傷していました。戦後世代は、反論の術を持たない弱者へのイジメ行為まで受け継いでしまったのです。

ハチ公だけが忠犬であった訳ではない。時の流れとジャーナリズムの動きによって現在のハチ公にまつりあげられた事は確かであるが、報酬も、名声も望まぬ犬と、今や伝説化した魂の故郷を何のために今更、真夏の夜の話題等と取り上げたり、ハチ公とやきとり論とピックアップして荒さなければ気が済まないのだろうか―心すべきはあくなき人間の優越感―この場合素直ならざるのは人間の方だとハチ公にきめつけられても仕様がない事だと思う。

 

「忠犬ハチ公総決算(昭和31年)」より

 

ハチ公批判が再燃した頃から「ハチ公は軍国教育にも利用された」という主張が新聞などに登場。マスコミが権威だった時代、ハチ公軍国教育論は無批判に受け入れられてしまいます。

これを次世代が受け継ぎ、更にインターネットの普及が劣化コピーを拡散させました。

……時間は何十年もあった筈なのに、ハチ公軍国教育論の継承者たちが『オンヲ忘レルナ』の内容を検証した形跡はありません。歴史をナナメに斬る自分をアピールしたいだけで、歴史の考証作業は面倒くさかったのでしょう。

 

軍国教育は批判すべきですが、対象を読まずに批判するとかふざけんなと。その愚行を教育者がやらかしていた場合、とても腹が立つワケです。

日本史の授業をいきなり満州事変からスタートしますか?石器時代から時系列で教え、近代に入ってから軍国主義をテーマにするのが原則ですよね?

犬の歴史も同じですよ。ハチ公と満州事変を語る前に、児童には縄文時代から始まる「犬の日本史」を先に教えてください。

それが教育というものでしょう。

 

そもそも犬の歴史を語る皆さんは、何でハチ公の話しかできないの?

まさか、近代日本犬界で語るに値する犬がハチ公だけと勘違いしていませんか?同時代に暮らした名もなき犬たちを、「無価値な存在」と切り捨てるのが教育なのでしょうか?

「インテリ学生の声ばっかり集めやがって」と三島由紀夫に批判された『きけ わだつみのこえ』と同じく、名犬や忠犬ばかり集めた犬の歴史も批判されるべきです。
 

昭和9年の渋谷驛記念スタンプ。駅舎、ハチ公、明治神宮、代々木練兵場(現在の代々木公園)などがデザインされています。

 

私もネットや新聞を観察してきましたが、ハチ公と軍国主義を絡める人は主語がでかいんですよね。足許の地域犬界史すら調べていない癖に天下国家を論じたがるのです。

ハチ公と国家の関わりは文部省による教材化のみ。文部省が、ハチ公の行動を「忠義」「報恩」の教育へこじつけたのも事実です。

しかしソレは、軍国主義と関係ありません。

軍国教育の目指す場所、つまり日本軍では忠犬ハチ公物語を用いなかったのです。

 

陸軍省の軍犬報国運動、陸軍歩兵学校軍犬育成所や関東軍501部隊のハンドラー教育課程においては、科学的な「シェパードの資質である親和性・稟性・作業意欲・警戒心」のマニュアル化、広報としての「満州国を護る軍犬武勇伝」が必要とされました。

軍部が満州国防衛の教材としたのは、渋谷駅のハチ公ではなく満州事変の那智だったのです。

 

犬 

滿洲第501部隊(関東軍軍犬育成所の平時通称号)のハンドラー訓練課程で用いられた那智・金剛の教材。

満州事変の戦訓をもとに創設された501部隊は、「満州国の犬物語」を必要としました。大陸国家において、日本列島の秋田犬を教材化する意味は無かったのです(千葉県の陸軍歩兵学校軍犬育成所はドイツ式のシェパード訓練理論を重視。秋田犬もテストしましたが、軍務不適格となっています)。

 

それら諸々を「国家」というアヤフヤな概念でまとめれば、胡乱な論評でも重箱の隅をつつかれずにとっても便利。槍玉にあげられた秋田犬も同じで、いちいちニンゲンの言葉で反論してきませんし。

その便利さゆえに、渋谷駅の老犬物語を「国家と犬論」へ仕立て直したがるセンセイが次から次へと出現するワケです。

あげく、某最高学府のハチ公本に至っては「犬に踊らされるアカデミズム」などと自嘲する始末。犬の研究は恥ずべき行為なんですかそうですか。

研究対象に敬意を払えない奴が犬を語るなと思う次第であります。

 

そういう思考回路のまま島国根性的な視野狭窄に陥ると、「日本犬界(47都道府県別の地域犬界)」と「外地犬界(南樺太、朝鮮半島、台湾など)」、さらに日本犬界の双生児である「満州国犬界」という巨大な犬界ネットワークを俯瞰できなくなります。

鳥瞰・虫瞰的な視点がどちらも薄っぺらゆえに、国家だのファシズムだのという薄っぺらなキーワード満載の薄っぺらな主張をやらかしてしまうのです。

日本地図を見たことがないのか、東京の国会図書館で調べた東京の視点で「日本の犬界史」を語ってしまう乱暴な解説者も少なくありません。ソレはただの単なる「東京エリアの犬界史」でしょう。

 

モチロン、東京で暮らしたハチ公については東京視点でOK。

だったら「国家」ではなく「東京犬界とハチ公」という視点をもちましょう。

有名になる前から放し飼い状態でウロウロできた警視庁畜犬取締規則上の根拠とか、野犬狩りを免れた飼育登録制度とか、フィラリアに罹っても狂犬病に罹らなかったペット防疫システムといった、東京エリアの犬界事情を掘り下げられませんかね。その過程で秋田犬と軍国主義の関わりが見つかれば、遠慮なくハチ公軍国教育論を主張してください。

できない理由は、やりたくないからでしょう?

 

調べるのが面倒ゆえに凡百のハチ公批評をリサイクルする省力化と、売文のため小難しい文章表現で差別化せざるを得ないご事情はお察しします。

しかしですね。

血統交配や獣医学の分野を除き、犬の歴史解説に難解な言葉や思想は必要ないのです。反知性主義ではなく、犬の歴史ってそういうものですよ?

このブログも、バイブルかつ道標にしているのは『学研まんが 犬のひみつ』ですし。

秋田犬の歴史を調べ、『オンヲ忘レルナ』に目を通し、その上で難解な批評ができるなら大したものです(小学校二年生の教材に対し、大仰な文章でイカメシク論じる姿は甚だ滑稽ですよねとか、そういう意味ではありません)。

 

【ハチ公の生涯と時代背景】

 

戦前に暮していた何十万頭もの犬の中で、戦後にまで語り継がれたのが忠犬ハチ公です。もちろんハチ公が「俺を有名にしてくれ」と新聞へ売り込んだ訳ではなく、周囲の人間が「忠犬」に祭り上げただけの話。
あの時代の社会現象と化した結果、虚像の忠犬は各方面で利用されました。

そういうのはまったくの要らぬお世話。我々が求めているのは「感動の物語」なのですから。しかし物語と化したことで、等身大のハチ公も見えなくなってしまいました。

犬を擬人化するのも大概にしないとね。本当は焼き鳥目当てで渋谷駅に通ってたんじゃないの?

……などと、忠犬ハチ公への視点はさまざまです。

ハチ公自身は最初から最後まで普通の秋田犬でした。駅へ通い続けた行動理由を彼から訊きだせた人はいません。

物語性を排除した、ハチ公に関する記録を時系列で並べてみましょう。

 

闘犬が盛んだった秋田県では、土佐闘犬の大量移入によって秋田犬の交雑化がすすみます。

それを憂いた地元愛犬家たちは、闘犬型秋田犬とは別に在来型秋田犬の復活に着手。内務省の秋田犬天然記念物指定を得るべく、活動を拡大させていきました。

やがて、秋田犬の名声は関東エリアでも高まります。

秋田県の斎藤義一氏宅で仔犬が生れたのは、関東大震災があった大正12年のこと。その中の一頭は、秋田県庁の世間瀬耕地課長から恩師である上野英三郎帝大教授へ寄贈されました。

上野博士は、秋田犬の仔犬を「ハチ公」と名付けて愛育します。

しかし大正14年、上野博士は急逝。家庭の事情で転々と預けられたハチは、出入りの植木職人だった小林菊三郎氏に引き取られます。

小林宅から渋谷駅へ通うのが日課となったハチ公は、そのまま静かな一生を送るはずでした。

 

上野博士の死から二年後のこと。

秋田県大館町(現在の大館市)の「秋田犬保存会」を訪問した斎藤弘は、秋保の泉会長より日本犬全体が消滅しつつあることを知らされます。

これに危機感を抱いた斎藤弘は「日本保存会」の設立を決意。まずは東京エリアに存在する日本犬を調査しようと、かつて駒場で見かけた秋田犬の行方を尋ね回りました。

ようやく発見した犬を煎餅片手に追いかけ(餌で釣ろうと)、逃げ込んだ小林菊三郎氏宅で「経歴」を知ったのがハチ公だったのです。昭和3年6月に日本犬保存会が発足すると、ハチは第一回犬籍簿にも登録されました。

 

当時のハチ公は無名の存在でしたが、日本犬保存会登録の畜犬(ペット)扱いとなったことで、放し飼い状態であっても野犬狩りを免れることができました。

それから三年後。柳条湖事件で関東軍独立守備隊のシェパード「那智」「金剛」「メリー」が戦死した昭和6年9月18日の夜も、ハチ公は平和な東京で寝ていました。

同年には文部省が秋田犬を天然記念物指定し(内務省から指定業務を引き継ぎ)、日本犬保存会に大きなチャンスが訪れます。

満州事変から一年後の昭和7年9月、斎藤弘は東京朝日新聞へ「いとしや老犬物語」という一文を投書しました。

 

名称 ハチ號
年齢 十歳
性別 牡
毛色 白、肩高二尺一寸三分、體重十一貫匁、尾左巻
産地 秋田縣
以上のことを日本犬誌に描くと共に、當時犬殺しにおそはれた等のことを聞いたり、いくらよい首輪胴輪をさしても、何時の間にか取りはづして盗んで行く人間がある等の事を聞いて居つたので、廣く世人に事情を知つて貰つて愛護して貰ひたく、東京朝日新聞に投書したところ、早速大きく報導して下れたのはハチのために嬉しいことであつたが、現在の耳垂れの状態を見た記者氏が、秋田雑種と書いてしまつたため、折角の記事が誠に殘念なものになつた。

直に抗議を申込んだところ、社の方には諸方から抗議あり申譯ありませんと早速數度に渡つて訂正して下れたので、ハチも冤罪がぬぐはれたわけである(日本犬保存会理事 斎藤弘)

 

渋谷駅で邪魔者扱いされていた秋田犬は、この日から「忠犬ハチ公」へと変身。やがてハチ公ブームは社会現象へと発展してゆくのです。

忠犬ハチ公がデビューするより半年以上も前、すでにマスコミにおいては那智・金剛・メリーを「軍国日本を象徴する犬」に祭り上げる報道がなされていました。

 

この3頭が「軍国の犬」となったキッカケは、昭和6年11月27日の白旗堡装甲列車戦で飼主の板倉至大尉が戦死したことに始まります。

大尉の戦死は同行していた従軍記者によって詳細に報じられ(まだ戦死者が少ない時期でした)、そこから彼の愛犬たちが2カ月前に戦死していた話も掘り起こされました。

軍犬の配備拡大を目論む関東軍も、板倉大尉の死を格好の宣伝材料としました。「大尉の愛犬たちは中国兵の軍服を噛みちぎったまま戦死していた」などと尾ヒレをつけて。

「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」で教材化された陸軍ラッパ手の木口小平や爆弾三勇士のようなイメージに脚色したかったのでしょう。

 

板倉大尉がメンバーだった日本シェパード倶楽部(NSC)でも、親軍路線への方針転換を巡って保守派と改革派の内部抗争が勃発。NSCを脱退した改革派メンバーは、陸軍省の後援で民間シェパード調達窓口の帝国軍用犬協会を設立します。

いわゆる軍犬報国運動のはじまりでした。

過熱する忠犬ハチ公ブームを統括するため、ハチ公銅像建設会が発足したのも同じ頃。こちらは完全な民間主導で、文部省が関与した形跡はありません。

昭和9年には渋谷駅のハチ公銅像が完成。この偶像化戦略は大成功し、ハチ公像は渋谷の人気スポットとなりました。

 

いっぽう、秋田犬界と軍用犬界の歩み寄りは難航。

昭和10年2月16日には日本犬保存会と帝国軍用犬協会が日本犬軍用化の共同研究をスタートするものの、双方が日本犬とシェパードの優位性を主張し合う物別れに終りました。

まあ、貴重な天然記念物を戦地へ投入されても困りますし。結論からいうと失敗してよかったのです。

 

犬 

「日本軍は国産の日本犬を採用しろ」と無茶苦茶なクレームをねじ込む和犬愛好家を、軍部や帝国軍用犬協会はテキトーにあしらっていました。だって、シェパードがいれば充分でしたから(社団法人帝国軍用犬協会・昭和11年)

 

忠犬ブームが盛んとなる中、老いたハチ公は次第に衰弱していきました。

路上に横たわるハチ公の遺骸が発見されたのは、 昭和10年3月8日のこと。何千もの人々が渋谷駅へ押しかけ、ハチとの別れを惜しんだそうです。

世を去ったハチ公は、渋谷駅のささやかなエピソードとして語り継がれるはずでした。

しかし同年4月、尋常科第二学年小学修身書に『オン ヲ 忘レルナ』が掲載されたことで、忠犬ハチ公は全国の児童が学ぶべき教養と化します。

 

もちろん、戦前・戦中にも動物を用いた教材はたくさんありました。

当時の教科書には、馬、熊、象、虎、鳩、狼、狐、犬、猫、猿、オランウータン、フクロウ、燕、カタツムリなど、多種多様な生物が登場。「自然科学への興味や動物愛護精神を育む」「道徳や教訓を学ぶ」など、各教材の指導目的は様々です。

ハチ公教材はこれらと毛色が違い、「報恩」がテーマに据えられました。
同じ年、軍犬の活躍を描いた『犬のてがら』も小学五年生用国語読本に掲載されます。

小学二年生と五年生、秋田犬とシェパードの違いはあれど、同じ年度に犬を教材化した文部省の意図は何だったのでしょうか。

 

これらの教材が教科書に掲載されてから2年後、大陸での軍事衝突は日中戦争へと拡大。

やがて物資不足が深刻化した戦争末期、渋谷の忠犬ハチ公像は金属供出で撤去されます。いくら教科書で持て囃そうと、日本人の犬に対する扱いはその程度でした。

 

以上のように、名犬や忠犬が周知されるには詳細なキャラクター設定と脚色されたストーリーが必要です。

無名の犬たちが当時の人々に感銘を与えたのは、「亡き上野博士を慕って渋谷駅へ通い続けた忠犬」や「滿洲建国に殉じた板倉大尉と三頭の軍犬」というストーリーがあったからこそ。

その裏には、日本犬保存会や陸軍省の意図が隠されていたのかも知れませんね。……みたいな感じで、虚像の忠犬や偽りの軍犬武勇伝を批判するのは無問題。

 

そこで止めておけばよいものを、「忠犬ハチ公はファシズムにおいて重要な役割を果たした」とか調子に乗るからダメなのです。ハチ公とファシズムのどこがどう結びついたのかも提示せず、「満州事変後の世相」みたいなボンヤリしたイメージを語られても困るんですよね。

「ハチ公ブームは官主導で生み出され、国民の思想を画一化するための国家的陰謀だった!」などという阿呆な陰謀論を唱えたいならともかく、とりあえず「ファシズム」って言いたいだけだろ。ファシズムは用法と用量を守りましょう。

 

帝國ノ犬達-あるぷす大将 

映画『あるぷす大將』スチルより、渋谷駅前で焼き鳥を食すハチ公(本犬役で出演・昭和9年)

 

【ハチ公軍国教育論の不誠実さ】

 

人々が俎上に載せる忠犬ハチ公教材『オン ヲ 忘レル ナ』は、どう評価されるべきなのでしょうか?

ネット上では「児童に軍国主義を植え付けた教材」と批判されていますよね。

皆んなが怒っている相手は叩いても大丈夫。だったらワタシも怒りの声を上げなければ!
「何て酷いことを!」
「子供を洗脳するなんて虫酸が走る!」
「利用されたハチ公がカワイソウ!」
……などと叫んでいる人を見かけますけど、それはご自身が当時の教科書を読んだ上での怒りなのですか?
まさか、『オンヲ忘レルナ』を読みもせずに批判していませんよね?


疑うようで申し訳ないのですが、対象の教材を一行すら読んでいない癖に「ハチ公は軍国教育に利用された!ケシカラン!」と激怒している不思議な人たちが実在するのです。

そして『オンヲ忘レルナ』を一度でも読めば、「コレのどこが軍国教育なの?」と首をかしげたくなります。少なくとも、「軍国教育」という表現には慎重になるはず。

教材化されたのも盧溝橋事件の2年前、まだ15年戦争において満州事変に軸があった時期ですし。

犬界への影響力をもつ荒木貞夫陸軍大将が関与していたならともかく、彼が文部大臣として軍国化教育を推進するのは昭和14年。昭和10年のハチ公教材とは時期が合いません。

 

そうやってハチ公を粗末に扱う言論界隈に対し、膨大な一次史料を有する犬界側はどんどん反論すべきでしょう。彼らのポエムやアジテーションは、時系列に沿った史料ひとつで一蹴できるシロモノですから。

戦時体制に加担した負い目のある世代、その反省を踏まえた戦後世代の愛犬家には沈黙が必要だったのかも知れません。しかし現代のワレワレは、大切なイヌの歴史を踏み荒す狼藉に耐え忍ぶ義理はないのです。

ハチ公軍国教育論は、そういった連中を炙り出すリトマス試験紙として利用しましょう。


21世紀にも語り継がれ、愛され、批判され続けている忠犬ハチ公。
あなたが読まされたハチ公論は、あなたが受けたハチ公教育はどうでしたか?犬の歴史を学ぶための教育なのか、それとも犬を道具扱いして恥じない思想教育の産物か。

そしてこの惨状を招いた犯人は、歴史テキストの編纂作業を怠ってきたワレワレ愛犬家です。

連帯責任的な意味で、『オンヲ忘レルナ』の内容について検証しましょう(前置きが長くてスミマセンねえ)。

 

ハチ公死没直後に寄せられた上野八重子氏の回想録(昭和10年)。

社会的弱者の彼女に対しては、周囲からの心ない中傷が浴びせられました。戦後のハチ公批判は、そういった陰湿なイジメ行為まで継承したのです。

 

【ハチ公教材の検証】

 

教科書で忠犬ハチ公物語を学んだのは、当時の尋常小学二年生でした(『児童用尋常小學修身書 巻二(昭和10年)』 より)

 

以上の前置きを踏まえ、教材を読んでから批判している皆さんへお訊ねしましょう。
貴方の逆鱗に触れた箇所は『オンヲ忘レルナ』の何行目にあるのですか?

何回読んでも、私にはどこが怒りの点火スイッチなのかサッパリ分かりません。「ハチ公を見倣ってお国に尽くせ」なんて一言も書いてありませんし、現代日本の子供たちが読むハチ公物語と同じ内容ですよね。


あなたが批判しているのは「あの時代にこの物語を教科書に載せたこと」なのか、「それを利用した当時の教育方針」なのか、それとも、「恩を忘れるなという命令調のタイトルが気に食わない」のか。
「許せない!」と叫ぶなら、どの部分がどう許せないのかを説明してください。理由もなしに怒られるのは迷惑です。

くだらぬ先入観や他人の意見は捨て去り、尋常小学二年生になった心持ちで『オン ヲ 忘レルナ』を読んでみましょう。

 

犬

 

オン ヲ 忘レル ナ 
兒童用尋常小學修身書 巻二 二十六
文部省 昭和10年

ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 來ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル
年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ(以上全文)

 

再度お訊ねしますが、コレの何行目あたりが「軍国教育」に該当するのでしょうか?

私にはどうしても分らないのです。

 

【児童から見た忠犬ハチ公教材】

 

戦前犬界においては、二つのシンボルが存在しました。

ひとつが日本犬保存運動を象徴する、渋谷駅の「忠犬ハチ公像」。

もうひとつが軍犬報国運動を象徴する、逗子延命寺の「忠犬之碑」。

「市井の哀犬物語」と「日本軍犬のシンボル」を明確に区分するものです。
今も昔も、渋谷駅のハチ公像を見て「これは軍用犬の像だな」と考える人はいません。靖国神社の軍犬慰霊碑を見て「何でハチ公ではなくシェパードの像にしたんだろう?」と疑問に思う人もいません。

日本犬保存会や帝国軍用犬協会を知らずとも、それぞれの像の由来で理解できることです。
 ……などと、いい歳こいた大人に対してはネチネチ反論できるのですが、相手は幼い尋常小学生。「軍国の犬」に関して、児童の捉え方は二つに分かれていました。

 

帝國ノ犬達-ハチ公像

渋谷驛の忠犬ハチ公像。建立計画を推進したのは渋谷駅長や彫刻家で構成される「忠犬ハチ公銅像建設會」であり、文部省は関与していません。

 

その時の軍犬の有様はさながら戰場の敵をかみ殺し、自分も死ぬ覺悟でもつて戰ふ勇ましい有様であつた。丁度そこが戰場であるかのやうに。背中がスーツと冷たくなるを感じた。

軍犬がいかめしい服を着た兵隊さんと共に、壮烈な戰死を遂げようとする様がありありとうかんできた。其の軍犬は既に勲章を頂いてゐる。午後の日がピカリとほこらしげに輝かしている。軍犬は誇らしげに吠へた。軍犬は勇ましいばかりでなく、主人の体臭は何時までも覺えてゐて主に從ふものである。忠犬ハチ公もその通りである。

軍犬がこのやうに忠節をつくすのであるからこそ、好ましいのである。内では主人にやさしく慰められてゐる軍犬も、いざ戰場に向ふと勇氣一杯、元氣一杯で奮ひ立つのである。人間も少々ながら及ばぬといはねばならぬ。

 

尋常五年 安井恭子さん 『軍用犬(昭和12年)』より

 

ジュリー1

昭和8年の軍犬ジュリー慰霊像除幕式にて、功章を授与する陸軍省恩賞課の村山大尉。こちらが軍犬報国運動のシンボルとなった逗子延命寺の「忠犬之碑」です。

※平成4年に建立された靖国神社の軍犬慰霊碑は「戦後の軍犬慰霊」の範疇で論じましょう。

 

昭和6年9月18日の柳条湖事件で那智・金剛・メリーが戦死した後、板倉至大尉は軍犬ジュリー號を追加補充。しかし二ヶ月後の11月27日に板倉大尉も戦死したことで、仔犬だったジュリーは遺族と共に日本へ渡ります。

逗子で暮らし始めたジュリーは昭和7年春に病死。 「ジュリーの墓を建てよう」という逗子小学校児童の募金活動が新聞報道された結果、軍犬報国PRの機会と見た陸軍省が介入し、銅像まで建立される騒ぎとなりました。

後に関東軍から那智・金剛の遺骨とされるものが逗子に届き、ジュリーと共に納骨されます。

わずか一ヶ月程しか軍隊に所属していなかったジュリーも、宣伝素材としての利用価値があれば銅像を建ててもらえたワケですね。軍犬への功章制度は、かように歪なものでした。

 

午後の一時間目、先生が軍用犬の訓練を見せてあげるとおつしやつた。私は胸がどきどきした。あの勇ましい犬がすばらしい活躍をするのだと思ふと、嬉しくてたまらなかつた。私達は運動場へ出て犬を取りかこんだ。他の学校の生徒も來て居た。皆で四匹である。あの勇ましい颯爽たる姿が、今私達の前ですばらしい活躍をするのだ。其の時、三年生の讀方で習つた、金剛、那智の事が思ひ出されてならなかつた。

 

尋常五年 藤原美奈子さん 『軍用犬の訓練(昭和12年)』より

 

上に挙げたのは、大阪の東光尋常高等小学校で開催された軍犬実演会の感想文です。軍国教育の成果があらわれていますねえ。

……三年生も『犬のてがら』を教わってたの?

どちらかというと藤原さんのように軍用犬=那智を連想する子が多数派。安井さんのようにハチを思い出す子は、資料探しに苦労するほど少数でした。

 

尋常小学生と違って分別ある大人の皆さんは、モノゴトを時系列で整理しましょう。

しつこいようですが、この基本的な作業を怠っているハチ公論者の多いこと。

酷い部類になると「ハチ公が有名になったのは軍国教育の結果だ」という謎発言まで見かけます。「昭和10年の教材で昭和7年のハチ公ブームが起きた」と真顔で語る彼らの頭の中で、時間の流れはどうなっているのでしょうか?

 

ネットや書籍を見渡しても、当時の犬界事情や教育指導要領などを総合して『オンヲ忘レルナ』を論じているのはアーロン・スキャブランド氏くらいですか。しかし、氏の主張もページ数制限ゆえの強引な展開が鼻につきます。あげくファシズムとか言い出すし。

後出しジャンケンで「国粋主義に便乗した日本犬保存運動は悪だった」と断罪されても、そんな綺麗事で消えゆく日本犬を護れた筈がないでしょう。

 

愚かな国粋主義を利用しながら、日本犬は洋犬の交雑化と戦時の殺戮を生き延びました。アカデミズム界隈のお説教よりも、日本犬存続という成果のほうが文化的に何億倍も価値があるんですよ。

批判ばかりのセンセイがたは、たとえ日本犬が絶滅したところで自説の責任は負ってくれません。

学者の怠慢で記録が残されないまま研究対象が絶滅し、根無し草状態に陥って不毛な水掛け論を繰り広げる、ニホンオオカミ論争の醜態をご覧ください。

21世紀に日本犬をモフモフできるのは、愛犬家が苦闘を重ねた末に得られた幸せなのです。

 

【教師から見たハチ公物語】

 

話を巻き戻しますが、軍国教育の定義をどうしたものでしょうか(イメージとしては思い浮かぶのですが)。

定義が無理ならば、ハチ公教材がミリタリー分野に該当するかどうかを検証してみましょう。

手法としては、生徒用の『オンヲ忘レルナ』と教師用の指導要領に目を通すだけ。「教える側」と「教わる側」、2つの視点を比較できない教育批評は意味がありませんから。

これなら不毛な論争などせず「当時の教材の内容と指導方針はコレコレこうですよね?」の事実確認だけで済みますし。

 

ふざけんな、戦前の資料なんか図書館にも無えよ!と怒られそうなので、当時の小学修身指導書から『オンヲ忘レルナ』の部分を抜粋してみましょう。

 

小學修身指導書より、『オンヲ忘レルナ』の指導要領。これをもとに、教師が授業をおこないました(『鶴子が老人の恩をいつまでも忘れない話』との併記となっています)

 

小学2年修身書の大まかな指導方針は下記のとおり。

第二修身書の教材はその選擇についても尋一修身書の方針をそのまゝ踏襲した形である。即ちその方針の主なものは左の三項である。

一、兒童の徳性の情的方面竝びに意的方面の陶冶に一層重きを置くこと。

ニ、兒童の經驗に即し、兒童の心情に触るゝことに特に意を用ひたこと。

三、心得を授け實践を導くに共同生活觀念を基調とすること。

勿論修身書が教育に關する勅語の御趣旨を根底とする以上、國體観念を明徴にし、忠良なる臣民たるに適切なる道徳の要旨を授けその實践を指導するといふことが、是等を一貫する原理たるべきはいふまでもない。

 

『小學修身指導書尋常科第二學年』より

 

「忠良なる臣民」とかキナ臭い言葉が躍ってますね。

しかしながら、指導要領の内容は「脚色された教材」と「実際の記録」を比較しつつ忠犬ハチ公の虚実を客観的に分析しています。意外と現実的。

 

尋常小学校二年生の年間カリキュラムより。ハチ公物語は二年生の最後、三月の授業で教わりました。

 

目的

人から受けた恩は永く忘れないやうにすべきことを教へるのを本課の目的とする( 教師用書)

【廣義の恩】

廣義に解釈すれば、我等の生々發展を助くるものはすべて恩である(概略)

【狭義の恩】

善良なる意志を以て何等の行爲をしかけられることと、そのしかけられた事に對する自覺を必要とする(概略)

【天地自然の恩】

自然の力によって生存し、繁榮し、且つ楽しい日々を過してゐる。我等はこの自然の恩恵をあだに思つてはならない。どこまでも自然に親しみ、自然を愛し、自然の力の前に謙虚な態度をとらねばならぬ(概略)

【君父・師友・衆生の恩】

我等は自然の恩恵によつて生存し、君父・師友・衆生の恩によつて人としての生活を營む(概略)

【恩を知ることの必要】

恩を知らないものは自己を知らないものである。自己を知らないものは自己の本文を自覺することはない。「恩知らず」が屢々「不徳」と同義に用ひられるのも洵に意味のある事である(概略)

【恩についての指導】

・尋常科第一學年小學修身書では「おとうさん・おかあさん」で親の恩を説き、「きやうだい」では兄弟の恩、「せんせい」では先生の恩、「天長節」では天皇陛下の大御恩を説いた。

・二年になってもこの用意に何の變りもない。「二年生」では進級した喜びと、過去一年間を顧みて、親、先生、友達、その他の人々の直接・間接の恩恵について、深く考えさせようとした。

・「恩を忘れるな」は小學修身書巻二冒頭の「二年生」と照應するもので、続く三年への進學に当たつて一層深くこれらの人々への洪恩を考えしめようとするものである。

・第一學期ではこれらの恩について指導した。第二學期では社会・友人の恩について、第三學期には上皇室の御恩恵について謹話した。

・本課は今まで指導した是等の恩恵を考え、一層その意識を深め、長くこれを忘れないように指導するものである。

 

教材觀

一、恩をうけては之に報いなければならぬ。報恩は古來重要な道徳的動機とされて來た。但し報恩は感恩・記恩の次に來るべきもので、幼少の者には、ま づ自分の身の上を考へて、いかに多くの人々の恩恵に生きてゐるかを悟り、長く之を忘れないやうにさせるのを指導の第一歩とする。本課の中心使命もこゝに在 る。報恩を主とする指導は別に機會が豫定されることと思ふ。

二、こゝには二つの例話がとつてある。何れも一旦受けた恩を忘れなかつたといふことを中心とする材料ではあるが、鶴子のは實践の指導に便利が多く、ハチは感恩の念を深からしめるに適してゐる。

三、※鶴子さんの話につき省略

四、ハチは一般に深い感激を與へた忠犬である。たゞこの物語に對して、これを果して恩を知り、恩に感じた事例として扱ふことが妥當であらうか。本能的の行動を道徳的に取扱ふのは問題だといふ意見もある。
これも一つの考ではあるが、古人が「渓聲元(※便)是廣長舌(谷間のせせらぎからでも仏の教えを見いだせるという中国の詩)」と喝破したやうに、修養に志すものは、渓聲にも、山色にも、偉大な教訓を見出す。渓聲はもとより自然の響に過ぎないが、熱烈なる修行者の心はそこに自己を眺め、人生を見、更に新な世界を發見するのである。耳に響く渓聲は自己の修行によつて體得せる真理の聲であり、眼に映ずる山色は多年の修行によつて到達せる眞理の色である。ハチが十年一日の如く老躯を提げて、亡き主人を澁谷驛頭に待ち侘びたといふ話に感激した人人は、ハチに自己の心を見たのである。即ち生きたハチに限らない、銅像にも人には同様の感激をもつのである。かう考へて來ると、ハチの行動の道徳性―有意的かどうか―を餘り立ち入つて穿鑿する要はないと思ふ。

 

指導計畫

 

 

指導の實際

一、※鶴子さんの話なので省略

二、ハチの話

 

帝國ノ犬達-ハチ公

『オンヲ忘レルナ』挿絵用の参考に、石井柏亭が渋谷駅でスケッチしたハチ公(※指導要領には未掲載)

 

1.掛圖觀察

イ、この大きな犬はどういふ犬か知つてゐますか。

ロ、此處はどういふ場所ですか。

ハ、ハチはどうして此處に來てゐるのですか。

ニ、ハチは今どちらを向いてゐますか。何をしてゐるのでせう。

・筆者石井柏亭氏

 

「ハチはかはいゝ犬です。ハチは、秋田産の日本犬で、耳をぴんと立て、尾をきりつと巻いた全身淡茶色の堂々たる體格の犬です。ハチが路傍に佇んでゐると、其處を通る學校の生徒は、みんな「ハチ」「ハチ」と言つては其の頭を撫でて通つて行きます。それは、ハチが性質極めて温順で、殊に恩を忘れない、りつぱな評判の犬だからです」(教師用書)

 

三、ハチの生立―飼主の愛撫

「ハチは、北の國の田舎で、雪の降る寒い頃に生まれました。生まれて四十五日目に、東京の或家に引取られ、其の家の子のやうにして育てられることになりました」(教師用書)
※ハチの生年月日、上野教授宅への到着日、上野教授の詳細を添付(教師用の補足資料)


「其の頃、ハチはどういふものか體が弱く、よくおなかをこはしたり、かぜをひいたりして、獸醫からも「とても滿足には育つまい」と言はれた程でした。飼主は、それをあはれんで、一入ハチをかはいがり、ハチが病氣になる毎に、獸醫よ薬よと心配し、ふだんもハチを自分の居間に置いて大切にしました。さうして自分で毎日蚤をとつてやつたり、一週に一度は必ず入浴させてやつたりして、慈愛の限りを盡して養育しました。全く其のおかげで、半年ばかりたつてあらといふものは、ハチは以前と見違へる程健康になり、それからはずんずん成長して見事な體格の犬になりました」(教師用書)
・博士は犬小屋を作らず、廣い縁側の下にめいめいの箱を作り居場所を定めて飼つてゐた。
ハチは目方が四十五キログラムにも及ぶ。

 

四、ハチが朝晩主人の送り迎をしたこと

「飼主のかような一方ならぬ愛撫に對して、ハチが主人に深くなついて來たことは言ふまでもありません。主人は其の頃、お役所につとめてゐたので、毎日自宅から電車の驛まで歩いて行き、其處から電車に乗つて通勤してゐました。
それで、毎朝家を出る主人のお供をして、主人を護衛するかのやうに電車の驛まで見送つて行くのが、ハチの毎日の日課となりました。其の上、ハチは、いつしか主人の歸宅する時刻を覺え込み、夕方になると、きつとひとりで驛まで出迎へて、主人の歸りを待つやうになりました。
さうして、主人の姿を大勢の人ごみの中に見つけた時のハチの歡びやうといつたら、いつもながら大したもの。はげしく尾を振り、ぴんと両耳を立てて、いきなり主人に飛びついて行くのが常でした。それから、さも嬉しさうにして、主人の先に立つて勢よくわが家へ歸つて來るのでした。雨の降る日も風の吹く日も、その通りでありました」(教師用書)
・澁谷驛 東京市澁谷區上通り三丁目。一日の乗降客昭和八年度平均八萬人。

・大ていは青山口。澁谷驛の入口は青山口(裏口)と東横口と本屋口の三つある。

 

五、主人を失つたハチ
1 主人の急死
「ところが、ハチが主人に愛育されてから二年目の春のことです。ハチにとつては何よりの大切な主人が、ふとした病氣で急に亡くなりました」(教師用書)
・大正十四年五月二十一日、博士は駒場の學校で腦溢血で急死した。

 

2 ハチ亡き主人を探す
「さうして悲しいお葬式もすんで、主人の姿がもうどこにも見えなくなつてしまつてからの或日のこと。玄關の柱に繋がれてゐた筈のハチは、鎖を切り、急にどこかへ行つてしまつて姿を見せなくなりました。何處へ行つたものかと怪しんでゐると、其の日の午後、用事があつて驛の前を通りかゝつた家人が、いつもの驛の改札口の所にぼんやりと、悲しさうに佇んでゐるハチの姿を見つけました。
家人は「まあ、ハチ」と言つたきり、ハチが亡き主人の歸りをいつものやうにそこに待受けてゐるのを見て、忽ち瞼の熱くなるのを感じました。

家人が「さあ、ハチ、歸りませうよ。いくらお前がお待ちしてゐても、御主人はもうお歸りにはならないのだよ」と言つて、無理に連れて歸らうとしまし たが、ハチはじつと改札口の方を見詰めたきり、身動き一つしようとはしませんでした。家人は、致し方なくハチを其處へ残して、用事をすましてから、もう一 度驛に立寄つて見ると、ハチはやはり同じ場所に、悲しさうな瞳をまたたかせてゐるのでした。「さあ、ハチ。私と一緒に歸りませう」と言つて促しても、いつもの素直なハチと違つて、いつかな家人の聲を耳に入れようとはしませんでした」( 教師用書)

 

3 毎朝毎夕驛脇に亡き主をまつ。

「其の夜、遅くなつてから、ハチは首をうなだれて、すごすごと我が家にもどつて來ました。しかし、如何に利口だといつても、そこは犬の悲しさ、再び歸らぬ主人とは知る由もなく、それから毎日毎朝いつもの驛に出掛けて行きました。さうして夜遅くなつて、すご〃と、さも失望したやうな顔をして歸つて來るのでした」(教師用書)

・いつも午前九時頃送りに行き、夕方の六時頃にはまた迎へにいつてゐる。

 

5(原文ママ)、十年不歸の主人を待つ

「家人も、かうした毎日悲しさうに空しくもどつて來るハチが、氣の毒で〃たまりません。色々と考へた末、手離すのもかはいさうだけれど、いつそ別の人に飼つてもらつたならば、元の飼主の事も忘れて、ハチの仕合はせにもならうといふので、かねてハチをかはいがつてゐた出入りの者にハチをあづけてしまひ ました。しかし、此の折角の心遣ひもむだでした。ハチは、新しい飼主の家に飼はれるやうになつてからも、毎日きつと驛に出かけて行つては夜になつて家にもどつて來るのでした」(教師用書)

・植木屋小林菊三郎氏。代々木富ケ谷の驛から十二三町。

・或人の歌に「亡き主の歸りますかと夕な夕な澁谷の驛に老い犬のまつ」

※ハチとジョンが堀越家、高橋家を轉々とし、二年後に上野家へ戻されるも轉居後で、最後は小林菊三郎氏へ預けられるまでの経緯を詳述(教師用の補足資料)

 

「かやうにして、ハチはそれから毎日、もとの主人を探しに驛に行き、電車の着く度に、出て來る大勢の人の中に主人はゐないかと探しました。一年たち、二年たち、三年たち、やがて十年もたちましたのに、しかし、まだ昔の主人を忘れずに探してゐる年をとつたハチの姿が、毎日其の驛の前に見られて、道行く人々のあはれをそそりました」(教師用書)

 

 

かくて昭和九年四月二十一日にはその除幕式が盛大に行はれた。この時には多數の参會者があり、多くの祝辞も多く述べられたが、この盛況は外國にまで傳はつて新聞紙に掲げられた。中華民國の「時報第二報」に東京府近有一義犬、候其故主於車站門口十年、未嘗或離、死後、好事者爲立一銅像、以資記念、圖爲銅像行掲幕禮時之盛況。と註して其の寫眞を掲げた。

銅像は前期安藤照氏の原型により、臺石の正面には「忠犬ハチ公」、右側には前掲山本博士「忠狗行」が彫られてゐる。


六、教科書の取扱
ハチは人々から非常に愛された。澁谷驛にハチの姿を見ないと一種の物足りなさを感ずる程になつた。わざ〃驛長を訪ねたり、遠くから書き寄せたりして、ハチの老軀をねぎらはうとするものが引きもきらずといふ有様であつた。

ボク ハ キノフ、センセイ ニ、ハチ ノ オハナシ ヲ キキ マシタ。
ハチハ エライト オモヒ マシタ。コレ ハ ボク ノ モラツタ オコヅカヒ ヲ タメタ オカネ デス。
カハイゝ デスカラ、ハチ ニ アツタカイ モノヲ カツテ ヤツテ クダサイ。
※これは一年生の手紙。


某校四年生女兒三名は
「先生がハチ公のお話をして下さいましたので、私たちは涙が出ました。それで、私たちはおこづかいをいたゞくとその半分を貯金して、これだけになりました。どうぞこれで、ハチ公のすきなものを買つてやつて下さい」


ハチが老いて大分弱くなつたといふ知らせは一層人々の同情をそゝつた。周囲の人からも手厚く手當をされて、それで一時は健康に復したが、年は既に十三、人間でいへば百歳をも越える年なので、昭和十年三月八日、櫻の花も待たないで散つてしまつた。幾多の話題と教訓を遺して。

※最後に、ハチの死をつたえる新聞記事の内容を掲載。

 

【結論と愚痴】
 

教材にも指導要領にも、「軍」の文字すら出てきませんね。

ハチ公物語が軍国教育か否かは、皆さんそれぞれのご判断にお任せしましょう。……などと逃げたくなる程、漠然とし過ぎてどう結論づけたものやら。
確かに「報恩」がテーマの教材ですが、動物愛護精神を涵養する情操教育でもあり、しかし将来の皇軍兵士を育てるための軍国教育なのでしょうか?
教科書で語られるのは、 渋谷駅の雑踏の中でひたすら座り続けていた老犬の姿だけ。

だから「幾多の話題と教訓を遺して」逝ったハチは様々な論じられ方をしているのでしょう、的なオチにするしかありません。

 

ハチ公の教材が評価に困るのは、その立ち位置がアヤフヤな点にあります。

切り口次第でいかようにもアレンジできる便利さから、ハチ公は格好の歴史ネタとなっているワケです。誤解やデマの温床とならないよう、教材を含めた「忠犬ハチ公の歴史」を整理することから仕切り直しですね。

その方法は、時系列にそって当時の記録を年表化すればよいだけ。カンタンでしょう?
しかし、実際は上手くいっておりません。ハチ公を巡る議論はナゼにこうも混乱し続けているのか。

 

結局は人間側に問題があるのです。
人々は駅に佇む老犬の姿を見て感動したり、焼き鳥を与えては「そらみろ餌目当てだった」などと中傷したり、ただの秋田犬に愛国や武士道精神を押しつけたり、「ハチを有名にしたのは俺だ」と吹聴したり、「日本犬保存会は宣伝上手だな(ライバル関係にあった日本犬協会より)」と嘲ったり、勢い余って銅像を建てたり、そんな有象無象が「虚像の忠犬」を作り上げました。

戦前の文部省は忠犬ハチ公を教材化し、児童に臣民根性を植え付けました。

戦時下においては犬を敵視する同調圧力が高まり、ハチ公像も金属資源と見做されました。

戦後世代はハチ公をイデオロギーの道具として利用しました。

そんな彼らに何を期待しているの?

「犬の日本史」を編纂するのは、ワレワレ愛犬家であるべきなのです。

……何の話をしてたんだっけ?ああ、軍国教育と犬の関わりでしたか。

戦時中、イヌが軍国教育に利用された?

軍国主義の暗黒時代だから当り前でしょう。全く酷い話です。ワレワレ愛犬家には、満腔の怒りをもって「軍国教育と犬」の実態を暴く責務もあります。
ただし、利用されたのは「忠犬ハチ」ではなく「軍犬那智」ですけどね。

次回は軍国教育『犬のてがら』について取り上げます。

 

(続く)