今夏以來北見の津別東活汲奥の山林に仔を連れた熊が出没、畑作を荒して山中に消えると云ふことを聞いた津別村の西村鶴馬さん、雪が來て山の調子がよくなるのを待つて、去る十一月二十六日仲間一人と愛犬四頭と……これがいづれも日本犬黨が見たら涎ものゝアイヌ犬で、熊獵にかけては主人以上の千軍萬馬……でない萬熊の中を駈廻つての勇者揃ひ。
愛用の村田銃を肩に東活汲の山林に入り込んだ、さすがは名犬群。それから二日経つた二十八日の津見幌町古梅と云ふ處の奥で、首尾よく仔熊二頭を連れた熊を追ひ出した。待つて居ましたとばかり、親仔諸共天國送り。その時逃げた三歳仔も翌日發見射止めて引揚げたが、熊獵には矢張りアイヌ犬でなければ……と自慢したと云ふことである。

 

唯是日出彦『アイヌ犬今年の初手柄(昭和11年)』より

 

西村氏らが古梅で射殺したヒグマの親仔。前列は駆除チームと猟犬たち。

 

【これまでの北海道犬論】

 

某通信会社のCMで愛嬌を振りまいていた北海道犬。本来はヒグマにすら立ち向かうアイヌ民族の猟犬であり、古い姿を残す在来犬です。

しかし、そのルーツについては「弥生犬との交雑を免れた縄文犬の生き残りである」「アイヌ民族と共にどこからか渡来してきた犬である」「鎌倉時代あたりに蝦夷地へ持ち込まれた和犬の子孫である」などと諸説紛々状態。

DNA解析によると、北海道犬には西日本や朝鮮半島在来犬との共通点が少ないとのこと。つまり弥生犬の影響は受けていないワケです。

北海道という地域にぽつんと孤立した中型の在来犬。朝鮮半島経由でないとしたら、彼らはどこからやって来たのでしょうか?

 

島国視点の日本犬ルーツ論は、中国大陸と朝鮮半島を重視。樺太、千島列島、ロシア沿海州方面の犬界を無視してきました。

ゆえに、北海道犬についても「大陸から渡来した縄文犬」のイメージに縛られ続けています。

「北海道犬が縄文犬の直系であれば柴犬サイズの筈だろ?何で中型犬なの?」とか、「隣り合って分布する北海道犬とカラフト犬が交雑しなかったのは何で?オホーツク文化時代の北海道沿岸部にはカラフト犬の先祖が上陸していたのに」といった議論はなされてきませんでした。

 

北海道犬が縄文犬の直系であるならば、長い年月の間にカラフト犬の影響を受けた筈。和犬の姿を保ち続けた理由は何でしょう?縄文犬やカラフト犬とは別途に北海道へ渡来した犬である可能性も否定できません。

いや本当に、蝦夷地と樺太の犬が交雑しなかった理由は何なんですかね?樺太アイヌと北海道アイヌの交易で、彼らの犬たちも交流していた筈なのですが。

ちなみに、樺太と北海道の間で犬の移動が禁じられたのは明治中期以降のこと。

検疫所がないことを理由に拓殖局がカラフト犬の移出を禁じており「公獣医の狂犬病予防証明書があっても宗谷海峡を渡ることが許可されなかった(漁船に乗ったカラフト犬が北海道へ大量流入していたのは秘密)」という理由だったそうです。

何千年も野放し状態だったのに、内陸部の北海道犬は独自の系統を維持していました。縄文~明治時代に亘り、外来犬との交雑化を沿岸部で阻止し続けたのです。

どうやってソレを可能としたのでしょう?

 

日本犬のルーツは、ベースである縄文犬、朝鮮半島経由で渡来した弥生犬、古墳時代に渡来し始めた大陸犬などを考慮するのが定石です。

しかし北海道犬の歴史のみは、樺太地域を含めた「北方犬界」視点も採り入れるべきでしょう。

縄文時代、続縄文時代、オホーツク文化時代、擦文時代、アイヌ文化時代の犬骨発掘データをもとに、縄文犬と弥生犬と北方犬の三勢力が現生北海道犬へ与えた影響は?……などと考えると、ナカナカ複雑そうです。

 

 

昭和2年、三重県で飼育されていたカラフト犬のクマ號。

樺太犬が日本へ広まるのは明治後期になってからです。それより前の時代、樺太犬が北海道へ渡来しなかった理由は不明。

 

世の日本犬論の中には、日本史の基礎知識に乏しいケースが散見されます。外地や満州国を無視して近代日本犬界を語ったり、古代~中世~近世~近代の何千年間を華麗にワープし、縄文時代と現代の日本犬を直結するような解説がソレですね。

DNA解析などによる考古学上のデータが更新されても、犬界側がアップデート作業を放棄すれば連携がとれません。

朝鮮半島ルートや大陸ルートを論じていればよい日本犬史と違い、北海道犬史の場合は樺太と本州との地理的な繋がりを再考すべきなのです。

 

【縄文犬と北海道】

 

縄文人と共に日本列島へ渡来し、定着した猟犬が「縄文犬」です。

最終氷期前から棲息していたオオカミと違い、彼らは海面上昇で日本列島が大陸から分離された後に出現しました。

東日本を中心に栄えた縄文犬ですが、大規模集落が形成されていた青森県側では丁寧に埋葬された犬骨が出土するのに対し、津軽海峡を挟んだ北海道側での発掘事例はごく僅か。

縄文晩期なると九州北部へ稲作が持ち込まれ、弥生時代が始まります。同時期から大型・中型・小型の渡来犬群である「弥生犬」が西日本に出現。東日本へ勢力を拡大しました。
農耕社会への移行により、狩猟採集文化を担ってきた猟犬たちは用済みとなります。そして、古墳時代までに縄文犬は交雑・消滅してしまいました。
 
しかし弥生文化が伝わらなかった北海道地域では、続縄文時代、オホーツク文化時代、擦文文化時代へと異なる時間が流れています。青森まで到達していた弥生犬が、津軽海峡を渡れたのかどうかすら不明。日本犬界史においても謎の多いエリアだったワケですね。
奈良時代から鎌倉時代にかけて和人が蝦夷へ進出し、明治維新以降も北海道として日本の領土となり、明治38年には南樺太も併合されました。
昭和6年の満州事変以降は「南樺太、朝鮮半島、台湾、満州国」を包括する近代日本犬界が誕生。日本列島と周辺地域を俯瞰しながら、北海道犬のルーツが論じられていたワケです。
しかし、昭和20年8月の敗戦によって日本犬界は大幅に縮小。戦後犬界は「日本列島限定」の視野で犬の日本史を語り始めました。
台湾や朝鮮半島や中国大陸や樺太・千島列島との「国際交流」は無視され、偏狭な日本犬論が蔓延していったのです。
 
いっぽう、科学技術の進歩によって「DNA解析で日本犬のルーツを探る」という試みも始まりました。
これまで有力だったのが、1996年に唱えられた 「蝦夷地へ渡った縄文犬は弥生犬との交雑を免れ、その子孫が北海道犬である(岐阜大学・田名部雄一氏)」という説。

田名部説に対し、 2003年には「北海道で出土した犬骨をDNA解析した結果、渡来犬としてオホーツク文化時代の北方犬が存在し、在来犬では縄文犬と弥生犬との交雑も確認された(帯広畜産大学・石黒直隆氏)」とする説が登場しました。

このあたりから「北海道犬=縄文犬生残り説」の矛盾が露呈します。

 

 

『北蝦夷圖説(安政2年)』で描かれた樺太の犬たち

 

続く2014年、「オホーツク文化時代の北海道地域と樺太地域の犬骨を比較し、共通点を探る(東海大学・内山幸子氏)」という詳細な発掘データが公表されました。

北海道は「弥生犬の脅威から津軽海峡で護られた縄文犬の天国」などではなく、宗谷海峡と津軽海峡を挟んで北のオホーツク犬界と西の弥生犬界がせめぎ合う地域だったのです。

樺太から南下する大型の北方犬と本州から北上する中型の弥生犬に挟撃され、頭数と体格に劣る縄文犬が生き残れたのでしょうか?

そもそも北海道エリアでは、縄文時代の犬骨はあまり見つかっていないのです。

強靭な顎と幅広い吻部をもつ大型の北方犬と、中型日本犬である北海道犬は骨格や遺伝子が異なるため、樺太方面へ北海道犬のルーツを求めるのは無理筋でしょう。

それでは縄文犬生き残り説が正解かというと、古代から近代に至るまでカラフト犬と北海道犬との交雑が避けられた理由を説明できなくなります。「蝦夷地へ侵入してきた弥生犬や北方犬がとつぜん消滅した後、なぜか縄文犬の生き残りが復活し、しかも和犬やカラフト犬は二度と北海道へ渡って来なかった」という異世界ラノベみたいな話になってしまうのです。

もしも縄文犬の生き残りであれば、繰り返すように北海道犬は柴犬と同じ小型サイズであった筈ですよね?

 

帝國ノ犬達-m16 

樺太のウィルタ族と愛犬

 

進撃の巨人みたいに壁で囲まれていたワケでもなく、蝦夷地犬界は周辺地域犬界と交流し続けていました。重要なのは、結果的に最大勢力となった北海道犬の祖先が蝦夷へ現れた時期です。

野生動物ではないので、北海道犬に八田線が関係あるとも思えませんし。大陸沿岸部にいた弥生犬の先祖たちの一部が、北方ルートで北海道へ渡来した可能性はあるのでしょうか?

もしかしたら、続縄文時代やオホーツク文化時代や擦文文化時代の人々が飼っていた犬と、鎌倉時代以降にアイヌ民族が飼っていた北海道犬は、全く別種の犬なのかも。

「北海道犬は鎌倉時代あたりに本州から渡来した和犬の子孫である」という説もありますし(それはそれで貴重な存在なのですが)。

北海道犬と縄文犬の繋がりを探るには、まず「樺太渡来ルート」の可能性を否定しなければなりません。

 

犬 

翻訳家の秦一郎が南樺太で撮影したサモエド型カラフト犬。昭和10年

 

【サハリン犬界と北海道犬界のつながり】

 

「弥生犬が津軽海峡を渡れなかった」と仮定した場合、樺太や千島列島の北方犬たちが対抗勢力のいない北海道全域に定着したことでしょう。

しかし、それらオホーツク文化時代の犬たちが分布したのは沿岸部のみ。勢力を拡大できないまま、やがて北海道から姿を消してしまいます。

不思議なことに、彼らのDNAすらも北海道犬には受け継がれませんでした。当時の北海道に縄文犬や弥生犬がいれば、北方犬との交雑もなされた筈。

もしかしたら、「交雑相手の犬」すら当時の北海道には存在しなかったのかもしれません。

宗谷海峡を挟んで、本州から渡来した北海道犬と、オホーツク方面の系統であるカラフト犬が住み分けていた理由は何なのでしょうか?

樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタ民族間の交易が北海道犬界に与えた影響も興味深いのですが、その辺に触れた資料はナカナカ見つかりません。

 

ちなみに、カラフト犬のルーツもよく分からないんですよね。

日本人がイメージする「一般的なカラフト犬像」は南極観測隊のタロ・ジロ兄弟でしょう。しかし、本来のカラフト犬とは単一の品種ではなく、「樺太・千島地域で飼育されてきた様々な使役犬群」の総称です。

戦前のカラフト犬は、ガッシリした長毛や短毛の橇犬タイプ、サモエドに酷似したタイプ、細身の猟犬タイプなどが混在していました。当時は「この猟犬型カラフト犬こそ、樺太犬界と北海道犬界が交わる系統だった」という説も唱えられましたが、現在では確認のしようがありません。

南樺太が日本領だった時代の記録を参照してみましょう。

 

それから等しく長毛種ではあるが、前者ほどには長くなく、毛質も密で比較的軟かく、吻はやゝ長目で従つてストツプも浅い、耳の先はやゝ尖り、虹彩は褐色もしくは淡黄色を呈し、顔面角張り、尾は緊張した時は背上に巻上げる。毛色は黑褐、ゴマ、斑、枯草色多く、殊に眼の廻りに隈(眼鏡)をつけたもの、所謂四ツ目のもの等もこの種に多い。體型、風貌共にエスキモオ犬に酷似してゐる。
最後にやはり長毛種で第二型よりももつと房々としてをり、殊に尾端の房状を爲した毛は、恰度ハタキを真倒まにでもしたやうに背上に垂れかゝり、顔型稍々長く、吻尖り、サモイエド種そつくりの犬がある。
毛色はやはり白かクリームだが、顔面其他に斑を散らしたものも見かける。
これらの長毛種は何れも體高六五糎前後で、體重も大抵三五瓩内外の、前記二つの型の短毛種の中間に位する。
以上、短長毛併せて五種別の他に、明らかに是等が互に交雑して出來たと思へる中間雑種もかなり見かけるが、それらは大概左のどれかに還元されるやうである。
(A) 短毛枝毛種 大型・中型
(B) 長毛枝毛種 第一型・最長毛系、第二型・エスキモオ系、第三型・サモイエド系

秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より

 

明治38年に南樺太が日本領となって以降、現地へ渡った日本人はカラフト犬と遭遇。犬橇(ヌソ)の文化を北海道や東北へと傳播していきました。この犬橇文化と共に、カラフト犬も日本列島へ移入されます。

カラフト犬の多様性については、作家の生田花世も南樺太旅行をした際の目撃談を残しています。

 

オホツク海を東に、車走すること十何里、眞縫山道(昔、間宮林蔵も、岡本監輔も、十八年まへ、私の先輩の詩人、三石勝五郎もこの道をこえた)へ入る地點の白浦を見、突阻山の山麓をすぎ、有名な小沼の養狐場町を左に、知取につき、私たちは、又、ここの犬を見た。

何れも毛の長く深い、獅子のやうな犬たちであつた。

氷下魚のすむ幌内川の濁流を見て私たちはソ聯カラフトの空をのぞんだ。何と近い事であらう。そこなので、飛行機を要しない。それなのに、ソ聯でも、飛行機が居るらしい。

オタスの森は皇恩に浴するギリヤーク族、オロツコ族のすみどころである。そこが、平らかな河水の上に、はるかに眺められた。私たちは、河を渡つた。ソ聯に、水源のあるこの幌内川と、隣りのチヨロナイ川とは、馴鹿が水をのむのだ。

オタスの森の○人たちの飼つてゐる犬は、狐のやうな犬であつた。私は、これを意外に思つた。もはや、川一つへだてただけで、犬の族まで事かはつてゐたのである。バケツ位の顔をした大犬は、一頭もゐなかつたのである。

狐のやうなオタスの森の犬たちは可愛げでなかつたので、○人の子の頭はなでたが、犬の頭をなでる氣がしなかつた。これらの犬は、木の下につながれてゐる馴鹿たちの番犬の役をしてゐるのであつた。

 

生田花世『樺太犬族(昭和15年)』より

 

しかし、樺太犬界との交流も、昭和20年夏の敗戦で断絶してしまいました。同時に、カラフト犬に関する知見も失われます。

サハリンがソ連領となって以降も、北海道や東北には橇犬タイプのカラフト犬が残存していました。それを見た日本人は「この橇犬こそがカラフト犬だな」と勘違いしてしまったのです。

イロイロな可能性が検討できた筈なのに、敗戦によって多くの物証が失われてしまいました。

そういうワケで、北海道犬界と南樺太犬界・本州犬界の歴史はどうにもこうにも絡めにくい。もちろんアイヌ民族史の基礎知識も必要なのですが、その辺は犬のブログなので深く掘り下げません。

 

北海道犬とカラフト犬のルーツは違うみたいだけど、隣接する地域で双方が交雑化を免れていた理由も分からない。北海道犬の先祖は、オホーツク文化時代以降に北海道へ渡来したのかも。

……という、結論にならない結論しか出てこないのです。困りましたねえ。

 

【アイヌ民族と北海道犬】

 

謎だらけの北海道犬ですが、アイヌ民族の歴史と共に歩んできたことだけは事実です。

古来、アイヌ民族は自らの先祖が犬であると信じていました。山の幸をもたらしてくれる猟犬として可愛がり、死した後は毛皮としても利用したのです。

この件に関する江戸時代の記録は下記の通り(原著にはセタの図2点も掲載されて居ますが、私が所有している写本では残念ながら欠落)。

 

犬

夷人のいい伝ふに蝦夷の初は幾千年以前の事にや、何国より流れ来るともなく、官女とおぼしき婦人、うつろ船に乗りて流れ来るなり。犬と(傍線部分:蝦夷にては犬を セタと称す)夫婦になりて子を産みしより、この国はじまるというなり。

今に手も松前人蝦夷の地に行きて戯れ言に、この国は男子の先祖は犬にて、婦人の先祖 は官女と承りしが、さように候やと尋ね聞かば、男夷はさも恥じ入りし体にて婦夷はここぞと思ふ気色見えて、この国の婦人は皆みな官女のながれを得しものと 答ゆるよし。

古川古松軒『東遊雑記』より 天明7年

 

「アイヌ女性は海外から渡来した高貴な血筋で、アイヌ男性は犬を祖先とする」という伝承は、やがて民族全体への蔑視にもつながっていきました。

アイヌの伝承となった犬の祖先が北海道犬だったのか、それとも別種の北方犬だったのかは判然としません。

 

鎌倉時代から始まった安東氏の蝦夷交易は、コシャマインの戦い(1457年)を経て蠣崎氏の支配へ移行。商人を含めて多数の和人が訪れ、蝦夷と呼ばれたアイヌ民族との交易を拡大します。

アイヌ民族も、明国との北方交易から松前藩との交易重視へ移行していきました。両者の交流が拡大する過程で、蝦夷地の猟犬が知られるようになります。

この犬のルーツが、鎌倉時代の交易で本州から移入された和犬なのか、それ以前に明との交易でもたらされた大陸犬なのかは不明。

コシャマインの戦いから300年後、アイヌ民族の犬を記録した和人が現れます。それが、岡田藩の地理学者であった古川古松軒。

天明7年(1787年)に蝦夷地を訪れた彼は、下記のように伝えました。

蝦夷地にて犬をセタと称す。日本の犬よりは小にして、少し違いてあり。
松前の地にても蝦夷の堺の浦には、セタの落しとて蝦夷の犬の子もあり。夷人狩に出るにセタを連れて行きて、かの羆に懸くるに、迯げ走ることの早き犬にて、 羆の迯ぐるより先へ廻りてははげしく吠え懸るに、羆怒りて犬を見て飛び懸るを、岩間木陰に迯げ廻りて羆に近づくことをせず、夷人の追い来るまでは、とやか くして羆の迯げのびぬようにかしこく邪魔となりて、羆をあやかすものなり。
日本の犬は肉を喰えば毛のぬけて見苦しくなるものなるに、蝦夷犬は生まるるより肉を以て飼い立てしものゆえに毛のぬけることなくて、毛に光ありて美しき犬 なりといえり、これも図にあるを見て写しをとるものなり。毛色はさまざまあり。形は日本の犬に同じくして、声は異なるなり。

東洋文庫27・『東遊雑記』より 大藤時彦翻訳版より

 

北海道犬

旭川にて、アイヌの漁師と愛犬

 

【近代日本と北海道犬界】

 

近世から近代へ移り、北海道犬界の特異性は日本で広く知られるようになりました。

在来の北海道犬や開国で渡来した洋犬に加え、殖産興業で開設された種畜場には早期から牧羊犬が導入され、日露戦争で南樺太が割譲されると橇犬文化も移入。北海道犬界は独自の発展を遂げます。

 

アイヌ犬のシーズンに於ける活躍は見事なもので、小獸は云ふに及ばず熊の様な大物に至る迄、各其體型に應じ、良く働く事は全く涙ぐましき程であります。マタギは和人の獵人に比しはるかに巧みで、特に熊獵に於ては天才的な處があります。特に勇敢にして沈着なのは熊獵の時で、獵人は彼等の主要武器たる鐡砲と山刀を持ち、又之にも勝る犬を從へ、或る時は生命の楯に、又或る時は己が唯一の慰安と致します。

獵人は犬と共に熊の足跡を追つて深山幽谷へ分け入り、何日もの間露營し、熊野居處を追ひます。幸ひにも射止めれば早速剥皮して肉を喰ひ、犬にも與へ、膽嚢はキモと云つて居ますが、貴重な消化剤と成ります。賣薬で熊の胆嚢製剤を「熊の胃」と称して賣買して居ると同様に、彼等も之を熊のキモと云つて居ります。

村田典行『アイヌ人とその犬』より 昭和12年

 

北海道犬

アイヌの民家にて飼育される猟犬。周囲に飾られているのはヒグマの頭骨

 

オホーツク文化時代の遺跡から出土する犬骨は、その多くに解体跡が刻まれています。要するに北海道へ渡来した北方犬は食用だったワケですね。

アイヌ民族が北海道に定着する過程で、犬は猟の友とみなされるようになりました。猟の最中、瀕死の重傷を負った猟犬を見棄てるようなこともしていません(和人の猟師も犬の扱いが地域によって違い、狩猟中に事故死した猟犬を山中へ葬る東日本、狩猟神コウザキ様として神事で弔う九州南部など実に多様化していました。和人の狩猟文化は山岳信仰と密接に絡んでおり、西洋式スポーツ・ハンティングの歴史とは区別すべきでしょう)。

中・近世にかけて、大陸、サハリン、本州方面からの影響がゆるやかであったことは、北海道犬にとって幸いでした。

 

それも、幕末の開国によって激変します。

明治時代から洋犬が大量流入し、各地の和犬は交雑化により消滅。しかし、洋犬が入り込めない山間部の和犬やアイヌ民族の犬だけは「西洋化」を免れました。
昭和に入ると、日本在来犬の再評価がスタート。文部省も、郷土性と関連した和犬の天然記念物指定を推進します。

それまで東京視点で論じられてきた犬の世界は、各地域の愛犬家によって研究されるようになりました。

 

しかし、北海道犬に関するレポートだけは「和人による東京視点の北海道犬論」ばかり。よそ者が北海道犬を論じ、スタンダードを定め、商品として称賛したり繁殖したり販売したりしてきたのです。

そのような流れを変えるべく、北海道地域でも内田亨教授らを中心とした北海道犬界ネットワークが構築されます。

北海道犬へ全国標準化を押し付けてくる日本犬保存会に対しては、現地のアイヌ犬保存会が猛反発。両者の板挟みとなった北海道庁を困らせるという事件もありました。

 

非常時局を反映して軍用犬熱が昂まつた折柄、純粋日本犬保存の趣旨から北海道にては舊土着に飼育されて居たアイヌ犬を、北海道犬と命名して本年一月天然記念物として指定、種族保存に努めることゝなつたが、日本犬保存會北海道支部(北大新庄教授主催)とアイヌ犬保存會(傳法貫一氏主催)の二團體が互に張合つて指定犬臺帳製作その他で抗争、關係當局では手を燒き、近く兩團體を解消、新に北海道犬協會として統一的團體を設立せしめようとして居るが、右につき當局は語る。

―同一目的の團體が二つあつて、互に主張を固持することは困つたことです。道廳では取敢ず二百五十五頭を指定したが、その記念物の性質上、臺帳を作らねばならぬのに、兩團體で互に其の所属犬の指定を主張して譲らず、非常に迷惑を感じるので、これを一團體に統一出來ぬものかと思つてをります。

と、斯う東京日日の北海道樺太版に載つて居ます。

札幌・十八公子『犬界の動向・日本犬』より 昭和13年

 

この北海道犬論争には日本犬協会も参戦。こちらは「アイヌ犬は日本犬ではない。あのボンヤリした風貌は大陸の犬である」などとぶち上げてしまいます。

全国標準化を進める日本犬保存会、地域性を重視するアイヌ犬保存会、北海道犬全否定の日本犬協会の抗争は昭和13年~15年頃に時間差で展開されましたが、アイヌ保存会や日本犬協会の解散によって日本犬保存会的北海道論が結果的に勝利することとなりました。

 

北海道犬を巡る、和人同士のイガミ合い。実に不毛ですよね。

北海道犬の話は、学者先生ではなく本来の飼主であるアイヌ民族によって語られるべきでしょう。

それでは日中開戦の前年、近代化が進んだ時代のアイヌ猟師座談会をご覧ください。彼らが北海道犬に求めたのは「天然記念物」だの「縄文犬の生き残り」だのという箔付けではなく、あくまで現場の猟芸だったことが分かります。

 

傳法貫一
千歳で熊獵で第一と云つたら、菊次郎さんの阿久だらうな。
小田喜代作
しかし阿加とはどうだらうな。良い勝負でないかな。
傳法
阿加と云うたら阿久の父だね。あの足曲りの隠居かい。
小山田菊次郎
そうですよ。あの隠居と阿久ならどつちもどつちだが。
中本幸平
阿久、隠居阿加、今泉吉之助さんのプル(※アイヌ語でムク毛の意味)に阿久の仔の第三阿久と云ふ順でなからうか。
小山田
吉之助君のプルはマア二番かも知らんな。あいつも良く働いた犬だ。
傳法
プルも十三、四だらうが年順では隠居が十五で、次がプル、次が阿久の十一歳か。それに吉さんのことろのもう一頭居るアカも良く働くだらうな。
中本
あれもよく働きます。うちの小狼(ゴロウ)も五、六頭の熊にはかかつて居ませう。
山川幸太郎
折角丹精した犬がイザ山に入つて、三文價もないのがあるが、實際そんな時は泣きたくなるからな。
傳法
犬が熊のため、ひどい目に遭ふこともあるだらうな。
今泉柴吉
ありますよ。穴に飛込んで熊を外に出したり、又は、しつこく咬みついたりするんだからやられますよ。僕と小山田亀次郎君と二人で支笏湖畔の不風死岳に行つ た時は、黑とルウ(※虎毛の意味)を連れて行つたが、穴を見つけて二匹でワン〃吠えるが、黑は前に穴でひどい目に遭つたことがあるから絶對入らないが、ルウの奴、たまりかねて入つて熊を外に出したから一發喰はして斃したが、ルウの奴がどうしたものかいくら呼んでも出て來ない。私がもぐつてやつと引きずり出し たところ、肋の肉もろとも割かれて肺臓が見えてるんだからね。歩けないからおぶつて歸つたが、背中でシン〃鳴く聲が可哀想で〃、俺達も泣き泣き歸りましたよ。
傳法
ルウは助かつたかね?
今泉
いや不思議なもんで、熊にやられた傷は治り易いと見えますね。ルウには薬もつけないが自分で舐つて治したが、平素仲の惡い黑迄舐めるのを見ては、又泣かされたもんです。
小山田
俺も隠居阿加が足腰立たない程負傷し、阿久が齒茎もろとも牙を取られた時ばかりは泣かされたからな。
中本
兄貴でも涙が出るのか……(爆笑)
小山田
お前と違ふよ(爆笑)

アイヌ犬保存會『アイヌ熊狩座談會』より抜粋 昭和11年1月6日

 

獣医師もいない山奥で過酷な猟に従事していた北海道犬ですが、戦前から長寿の個体が多かったようです。当時の北海道や台湾ではフィラリア症が極端に少なく(獣医師の野犬解剖データでそのような結果が出ています)、衛生面では恵まれていたのでしょう。

アイヌ民族が大切に飼育していた北海道犬。しかし和人や外国人からは顧みられる事もなく、その辺を徘徊する駄犬扱いでした。

アイヌ民族への同化政策が進んだ結果、北海道犬をとりまく環境も変化します。それは戦前の段階から顕著化していました。

アイヌ人は犬を神の使ひ、即ちアペプチカムイの使者として信じ、家族の一員として愛し、山に入るにも川に獵するにも、影の如くつきまとふ彼等の護身犬である。

単純なる過去の生活は、山に獵し川に漁し、春秋秋冬の食糧は凡べて人里離れた山岳森林に求め、從つて犬を伴つて身の安全を期したものであるが、文明は生活を複雑化し、かゝる生活方法のみでは生きて行けないと同時に、犬の必要が省かれ、一方畜犬税の負擔、又は野犬狩り等時代の變遷が、彼等から犬を急速に引き離して了つたのである。

アイヌ犬保存會 傳法貫一 昭和11年

 

【和人と北海道犬】


江戸末期、外国船から持ち込まれたジステンパーによって北海道の犬はバタバタと死んでいきます。明治になると本州から上陸した犬が狂犬病を伝播し、北海道全域へ拡大していきました。

幕末に蝦夷地へ来航したブラキストンは、当時の惨状を下記のように伝えています。

 

街の通りで、オオカミのような犬がたくさん目につく。この犬どもは外国人に対してひどい敵意を抱いているが、私が函館に着いたころは、やたらに吠えてもその声は弱々しかった。というのは、恐ろしいジステンパーが猛威をふるっていて、何百頭もの犬がそれにかかり、死体となって道路に倒れていたり、至る所で死にかけていたりしていたから、そのせいであろう。この病気の特別な徴候は、腰や後肢の力がまったく失われて、鼻汁や目やにが多量に出ることである。したがってこれにかかると、犬の多くは気持ちの悪い面つきになる。日本人は始め、ヨーロッパ人やアメリカ人居留者がこの犬を憎悪しているのを知っていたので、彼らかその召使いの中国人が毒を盛ったのだと思った。

この勘ぐりは当を得ていないとしても、街を横行する因業な犬どもに対して抱いている嫌悪感から、外国人たちは犬の数が一挙に減ったことに大して惜しがる気持ちも起きなかった。そのジステンパーの猛威のために約九十パーセントの犬が死んだと算定された。

トーマス・W・ブラキストン『蝦夷地の中の日本』より 近藤唯一訳・高倉新一郎校訂校訂

 

その後、北海道を再調査したブラキストンや日本旅行記を書いたイザベラ・バードによって(ブラキストン氏は虚言を弄するバード女史を嫌っていた様ですが)、蝦夷地の犬は「アイヌ・ドッグ」と命名されます。

このアイヌ・ドッグが初めて和人の注目を浴びたのは、明治35年のこと。同年一月に起きた八甲田山遭難事件では、青森歩兵第5連隊210名が遭難(うち199名が死亡)する大惨事となりました。

深雪と猛吹雪に阻まれて救出作業は難航し、東京から連れてきたセント・バーナードも役に立ちません(アルプスの救助犬は明治初期の日本でも知られていましたが、さすがに無訓練では活躍できませんでした)。

レスキュー犬の活用は諦められず、続いて陸軍第8師団からの要請を受けたアイヌの猟犬が青森県へ派遣されます。

第四、實施第三期 
自二月九日 至二月十八日。

此日(2月10日)北海道土人辨開凧次郎以下七名各獵犬一匹を携え來着す
是より先、津川聯隊長は土人の雪國に生長し其經験の多からんことを思ひ、之を雇用して捜索に使用せんと慾し第八師團参謀長林大佐に語る。
大佐其言を然りとし函館要塞司令官谷澤砲兵少佐に計る。
司令官斡旋即ち七名を得て派遣す。由て翌日より捜索に從事せしむ。
(中略)
司令官因を北海道膽振國茅部郡森村醫師村岡格に嘱す。
村岡格斡旋の結果同郡落部村辨開凧次郎、同勇吉、有櫛力蔵、板坂是松、碇宇三郎、板木力松、明日見米蔵を得たり。
由て直に之の聯隊に報じ二月十日を以て屯営に到着し翌十一日より捜索業務に従事することなれり(歩兵第5連隊『遭難始末』より)

辨開捜索隊は愛犬と共に深雪い八甲田山中を歩き廻り、遺体や遺留品を次々と発見。感謝の言葉を贈られ、北海道へ帰還しました。

これは、公的機関がレスキュー犬を使用した日本最初の事例と思われます。

其の被服たる襦袢、袴下に綿入一枚を着し股引を穿ち麻製脚絆を用ゆ。而して其上所謂「アツシ」なるものを被ひ足には鮭皮鹿皮若くは馬皮製の靴を穿ち、而して各人悉く懐に狐の頭骨を携ふ。曰く護身の神なりと。
斯の如くして身體軽捷、其働や敏活山野を跋渉する平地を行くが如し。
此一行は四月十九日に至るまで六十七日間連續捜索に從事し得る所死體十一、其他行軍隊の遺棄せる武器装具等を得たるは蓋し枚擧に遑あらず。
其賃金は一日の額辨開凧次郎、有櫛力蔵は二圓他は一圓五十錢宛を支給し、且つ三月上旬賞與として金圓を與え歸還に際しては聯隊長の名を以て各人に感謝状を附與し添ゆるに同じく金圓を以てす。
而して猶彼等の志願により三神少尉報告の爲め、弘前師団司令部に赴くの便を以て該所に誘導せしめ、市内を一巡して師團司令部並に官衙兵営の状況市街の光景を觀覧せしめたり
(『遭難始末』より)

明治時代に鉄道網が整備されると、日本犬界は僅か20年で洋犬に席巻されました。

当時の日本人が珍重したのは、舶来の洋犬、座敷犬の狆や日本テリア、闘犬用の秋田や土佐だけ。立耳巻尾の日本犬は「無価値な駄犬」に過ぎず、大正末期になるとペット商にすら入荷されなくなります。

全国各地で独自に形成されていた和犬の系統は、洋犬との交雑や野犬駆除で次々と消滅。やがて、古老の昔話や山間部の旅行記に登場する存在へおちぶれてしまいました。

北海道でも、和人とアイヌの生活圏が重なる沿岸部の犬はあっというまに洋犬と交雑化します。そして、内陸部の猟犬だけが細々と生き延びる状況に陥りました。

アイヌ民族が、文化の波の餘波を受けて滅びつゝあるならば、アイヌ犬も又滅びなければならないが、近年日本犬熱勃興と共に其優秀さが認められ、年々名犬を出す様に成つて來ました。一方アイヌ人の方は、遅々たる進展を續け、如何に和人が彼等との間に親密さを増したとは云へ、一段と區別され、和人との結婚者は出來る限りアイヌ人なるを秘し、和人として認められるのを欲する等は、誠に悲痛なものがあります。

幸にしてアイヌ犬が犬界に頭角を現はさなかつたならば何うでせうか。彼の主人が和人と混じ、文明の惡質病の爲めに彼等民族が減少しつゝあると同様に、彼アイヌ犬も、又文化と共に押寄せた洋犬種との混血と、洋犬種に附随するテムパー等の疾病被害の影響を受けて、必然其の姿を没すべきであります。

現在優秀なる犬は都會に集中して、其の聲價を高める一方、アイヌ人は彼等の犬に對する形態の如何には無關心に、只狩獵成績如何に依つて其優劣を定める爲め、比較的蕃殖等にも無關心で、狩獵季を過ぎると、飼養管理も粗末と成り、現在の様に洋犬種の盛んに入り込んだ時には、すぐ交雑するのは當然の結果であります。従つて交通の比較的行届かぬコタンの犬には、優秀なるものが多いのであります。

又アイヌ人が敏捷精悍なるに比して、アイヌ犬も又山野、斷崖絶壁を馳駆するに他種に見ざる神技を演ずるものであります。

又アイヌ人のポンチヨ(男の子)、オペロ(女の子)が容易に我々に親しまぬと同様に、幼犬の或るものを除けば一般に新しい飼主に親しまぬ様であります。しかし一面反つて之が番犬や作業犬に適する所以で、體質の頑健な處も相一致するのです。

只アイヌ犬には前記の如く、恐る可き疾病の爲めに、衛生施設の少ない彼等は、今も尚ほ其死亡率を高めつゝあるのであります。

(中略)

海中に居る内は比較的温かでも、一旦砂上に上つて來るとさあ大變。衣類はパン〃に凍つて終ひ、歩く度にガサ〃音がする様に成ります。しかし陸には真赤な焚火がある爲め、彼等にとつては之がオアシスであり、又原動力となるのであります。子供や犬は、彼等の飯場で遊び廻つて居りますが、犬の食物は彼等アイヌ人と同じで、米に味噌汁、稀に魚と云つた物で、北海道根室地方の移住民は、米の採れぬ爲め麦食でありますが、此の人達に比すれば、アイヌ人やアイヌ犬は幸せであると思ひます。

これは積取作業の時に於ける飯場の食物ですが、平素は米食とは限られて居らぬのは勿論です。

冬季吹雪の日の海濱作業は、我々にとつて驚異を感ぜさせますが、やはり彼等の労働は、和人の容易に爲し得ない過激な處にで無ければ、存在せぬ様でもあります。前述の(材木)積取作業は、海岸に存在する(和人の)村落から村落へと轉々移動する爲め、従つて彼等の犬も之に付随し、いきほひ他犬種と交雑するのは當然です。それ故純粋犬は奥地でなければ尠ない事と成ります(村田典行 昭和12年)。

 

北海道犬

上の写真の北海道犬は、洋犬と交雑したのか垂れ耳ですね。

 

近代化へ邁進する日本で、北海道犬が暮す環境も変化していきました。

法律上の規制で猟具はアマッポ(毒矢)から散弾銃となり、自然破壊や異常気象によって獲物のヒグマやエゾシカも激減しました。

※もちろん、狩猟法や狩猟規則の適用は和人のハンターも平等であり、古来の猟法を奪われたのはアイヌ民族だけではありません。

 

近代化に伴い、洋犬の普及も北海道全域にも及びます。

猟犬としての需要が減り、洋犬との交雑化は拡大し、そのまま放置していれば、北海道犬はエゾオオカミのように絶滅したことでしょう。

幸いにも、日本犬の消滅はギリギリセーフで回避されました。

昭和3年に日本犬保存会が発足したことで、組織的な保護活動がスタート。続いて日本犬ブームが到来し、北海道犬も「貴重な国犬」として再評価されます。

日本犬保存会には北海道各地からデータが集められ、北海道犬の現状分析やスタンダードも確立されていきました。アイヌ犬保存會の設立により、北海道エリアでも系統的な犬の保護・繁殖活動が始まります。
 

アイヌ犬の現存地、雪の北海道として面白いことは各系統の群集するところ、凡べて餘り雪の多からぬ地方に限られて居るところである。千歳然り、日高一帯然り、阿寒系統然り、内浦湾一帯に至る迄、雪の不足な地方に、原始の姿を止めて居ることである。又一方から見れば太平洋沿岸の山岳地帯にのみ一線をなしてその姿を殘してゐるとも言へる。

此處に地方的三系統別にしたハンデーの重なる點を擧ぐれば、千歳系統に比して日高系統の被毛粗剛にして稍々長く、體のバランスから見る前胸部並に頭部小さく耳開き氣味にして厚く、體全體のサイズ小さく筋肉にしまりなく、一言すれば千歳系統より、日高系統やや重き感がある。

數が多いだけに獵に使用する率も不足で、斑又は短尾多く、ルーズも多い。しかし又太き感あるだけに、體高も千歳系統より優れてゐるものがある。阿寒系統は以上の點に更にハンデーがあり、稍々胴長にして兎脚の犬が多く、氣格の乏しい感がある。之等各系統の體高は一尺七、八寸が最高の部である(アイヌ犬保存會 傳法貫一 昭和11年)

 

北海道特有のアイヌ犬は先に道廳で調査したところに依れば、全道で二百五十五頭に過ぎず、他に調査洩れも多少はある見込だが、史蹟名勝天然記念物保存法に依つて今の内に保存を計ることが緊要であるとして、道廳では近く天然記念物として指定申請を行ふ豫定。

なほ優良アイヌ犬の保存方法、蕃殖方法、飼育奨励對策、販路開拓の方法等に就て協議し、アイヌ犬保存會を設置して積極的にアイヌ犬保存に乗出すことになつた。

『北海道にアイヌ犬タツタ二百五十五頭』より 昭和11年

 

しかし、北海道犬の保護活動がスタートした頃にはアイヌ文化も破壊されていました。

国家や行政が和人との同化策を押し付けるいっぽう、北海道を訪れる学者や観光客は「古来のアイヌ像」を求めてカメラを向け、狩猟ツアーに訪れた和人ハンターたちはカムイへの畏敬などお構いなしに山々を荒らし回ります。

そのはざまで、アイヌ民族は差別や貧困に苦しみました。専業の猟師は銃を手放して転職し、北海道犬も猟犬としての役割を終えつつあったのです。

「アイヌ民族と猟犬」としての文化的保護活動は絶たれ、北海道犬は品種として維持をはかる保存運動へ移行していきました。

 

時勢の流れに乗つて、アイヌ人達の生活にも文化が訪れ、土間に變るに板が張られ、木窓に變るにガラスが使はれる様に成り、或る者は畳を敷き、ストーヴを設ける等、行届いた家を見受ける様に成りました。

彼等の子女の中にはアイヌ語を一向知らぬ者も澤山出來、アイヌを知る者は必ず知る盛大な熊祭りも、今では其祝宴も形式と成り、熊をブシ矢(毒矢)で射止める代りに鐡砲を用ひたり、又丸たん棒で咽喉絞めを喰はすかして屠り、享楽のドブ酒に代るに強烈な焼酎が、彼等の咽喉を焼いて精魂を奪ひ、一種奇妙な蕃歌に代るに、譯の解らぬ流行歌を唸る様に、時勢が遷つて仕舞ひました。

唯一の切抜き模様の衣裳も採繍の晴着も、今では酋長等がカムイの時に少數着るのみと成り、往年捕獲した熊の數が數百を算したのに、現在は全道にて四十頭にも滿たず、従つてマタギ犬の必要も減少して行く一方で、優秀犬はドシ〃都會に集中されて行く。その今一つの原因は、アイヌコタンの住民に保護財産の自由處分が認められ、奨學資金が運用される故、他地へ轉業する者も出來、部落の文化が進展したゝめで、アイヌ犬の優秀犬は勿論、純粋犬は彼等コタンから姿を消すことになつたのです(村田典行 昭和12年)。

 

北夷 

昭和14年の広告より

 

昭和12年、「アイヌ犬の呼称は民族差別を助長する」との請願を受けて「北海道犬」へ改称されると同時に、文部省による天然記念物指定も決定。アイヌ犬保存会も「北海道犬保存會」へ再編されます。

北海道庁の指導による組織的な保護対策と愛犬団体による蕃殖活動によって、北海道犬の命脈は保たれたのです。

 

日本犬熱が昂りアイヌ犬の聲價が上つた今日では、アイヌ以外の人達も、競つてこのアイヌ犬を飼育し、近來は「北海道犬」の名で呼ばれるやうになつた。元來アイヌ犬と云ふ名称は、ごく最近にうまれたもの(中略)

かつて中野秀人氏との問題のフエリシタ夫人が室蘭に身を寄せる途次、白老コタンを見物し、仔犬を一匹買ひとりアイヌドツグ、アイヌドツグと叫んで頬ずりしたと、當時の新聞は話題の中心をアイヌドツグに於いて書き立てたものだが、本道の代表新聞「北海タイムス」紙の見出しには「アイヌ犬」と大書されて居た如く、本會設立前からの通稱であつた。昭和の初年迄は此の犬を振り向くものもなく、勿論名などのあらう筈がなかつた。アイヌ犬と云ふ呼び名は、日本犬の再興と同時に内地人の口から逆流して來て、誰言ふとなく名稱づけられたものである(白木正光『世界犬種大觀』より、昭和12年)

北海道犬の評価が高まると、本土のペット商がどっと押し寄せました。

「無価値な北海道の地犬」は、高値で取引される商品と化したのです。

自己の犬の形態等に對する優秀さを認めて、和人が譲渡を申出た時、往時は焼酎一本で容易く手に入れ得たが、現在では中々それ相當の代償を要求される様に成りました。この事は、アイヌ人が彼等の犬の日本犬として優秀なることを知つたのでありませうが、一面都會地からの買手がドンドン訪れる爲め、急に打算的に成つたのかと思はれます。

生活程度の低い彼等は、又一つ純朴さを有し、ニシパ(和人の親方)等には大いに敬意を表して居ります。最後にアイヌ民族が、當局の保護の下に辛うじて餘命を保つて居る今日乍ら、今後彼等の仲間から偉人を生む事も、必ず在るであらうし、彼等の數百年來の良き友たる犬が、北海道犬として益々其聲價を高める事を、私も又祈るものであります(村田典行 昭和12年)。

 

【戦時の北海道犬】

 

同年、日中戦争が勃発。戦線拡大による軍需原皮確保に走る商工省は、野犬毛皮も統制対象とします。

昭和14年の節米運動を機に、政治家や官僚は戦時食糧不足問題を犬へ責任転嫁。議会の場で「無駄飯を食む駄犬を駆逐せよ」と公言するようになりました。

これに乗じたマスコミ各社も「畜犬撲滅」を叫び、扇動された一般市民は隣近所の愛犬家を非国民と罵ります。

昭和16年、商工省に追随した農林省(狩猟法を管轄)も犬皮統制と猟犬報国運動を展開。太平洋戦争突入以降、会員の出征などで各地の愛犬団体が次々と活動を休止する中、組織的防衛手段を失った愛犬家達は各個撃破されていきました。

 

戦況が悪化した昭和19年末、厚生省と軍需省は全国の知事宛に「畜犬献納」を指示。それから昭和20年3月にかけて、夥しい数のペットが毛皮目的で殺処分されてしまいます。

「軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物指定の日本犬」は保護対象でしたが、集団ヒステリーに陥った戦時体制下に「私が飼っているのは天然記念物の日本犬です」という理屈は通用しません。近隣住民の白眼視に耐えかね、貴重な日本犬も毛皮にされてしまいました。

 

そのような状況下、日本犬を護り抜いた人々がいました。戦時下の山梨県では官民一体となって甲斐犬を保護。北海道でも、多くの愛犬家が日本犬殺処分に抵抗します。

空襲や食糧難の被害が比較的少なかった北海道には、纏まった数のシェパード、コリー、日本犬が残存。戦後犬界の復興に多大な貢献をしました。

 

近代化、戦時体制、戦後復興期、高度経済成長を生き延びた北海道犬は、21世紀の現在でも確固たる「国犬」の地位を維持しております。戦前の愛犬家たちも胸を撫でおろされている事でしょう。

しかし少子高齢化で日本犬界が衰退へ向かいつつある現在、北海道犬の将来がどうなるかは……誰にも分りませんよね。