筆者が小學校の尋常科へ入學した當時は、軍歌の三千餘萬、兄弟共よと歌つたものである。變つて現在の日本を見るに、躍進又躍進、國内の人口増加は元より、朝鮮、滿洲、蒙古、北支を合せて二億に垂んとする世界の強國となつたのである。
三千萬時代には今は我々が見る日本犬とは雲泥の相違もあるものが、全國の津々浦々にまで居たのであるが、國力の増進とは反對に、日本犬は數も極めて少なく、且つ體型素質共に劣つて居る事は議論の餘地は無いのである。

我々日本犬愛好家は果して現状に甘んず可きか。
少し眼を開いたならば、此の強國に相應しき國犬になすべき義務が有りはしまいかと思はれる。或る地方の團體の會誌に「我々は現在の犬を以て滿足して居るので、其れを改良とか何とか云ふ人があれど、人には各々考へが違つて居るので、何も滿足して居る者に向つて、其愛犬の缺點を指摘して斯様にしなければならんと、自分の考を他人に強ゆる必要はない」、大體以上の如き論旨で筆を進めて、現状維持を主張強して居たものがあつた。成る程犬を飼ふのは一つの趣味で、他人が容喙すべき所では無い。本人が滿足すればよいのであると云ふ事になる。
 

日本犬協會 高久兵四郎『日本犬觀察(昭和12年)』より

 

このあと、高久さんによる「日本犬団体に籍を置く者は個人の趣味など捨て去れ!日本犬のため各自のベストを尽くせ!最新情報に目を通し、万事に精通せよ!現状維持に陥った地方犬界を我々畜犬団体が指導改革せずしてどうするのだ!喝!!!!!」というお説教が続きますけど割愛。
 

当時の日本犬関係者は、お世辞拔きで真摯に活動していたのです。
郷土愛と結び付けた天然記念物指定をはかる内務省や文部省。

日本犬の復活と普及をはかる保守派の日本犬保存会。
日本犬の可能性を追究した革新派の日本犬協会。

しかし一般の愛好家が、意識高い系の日協についていける筈もありません。
てなワケで、この記事では日保関係の記録を中心に取り上げます。

 

日本犬協会が登録していた甲斐犬(昭和11年)

洋犬との交雑化や畜犬税取締によって、在来犬が姿を消していった大正時代。
それでもまだ、山間部には地犬が残っていました。昭和になって日本犬保存運動が始まると、彼らにも目が向けられます。

しかし戦争の時代を経て、更に幾つもの在来犬たちが絶滅しました。
戦後になると、地域など構わずに日本犬復興が優先されました。
全国各地へ移入された「三河雑犬(チャウチャウとの交雑犬)」が戦時の混乱で在来犬と勘違いされ、戦後に「ニセモノの地犬」として定着したことも混乱に拍車をかけました。
 
消滅した近代日本の和犬たちは、当時の記録に姿を残すのみです。日中開戦前、「地犬の世界」が辛うじて残存していた時代の状況をどうぞ。


山に日本犬を探る座談會

 
【開催】 

昭和8年

【出席者】
伊藤彌六
北村勝成
小松眞一
齋藤弘
中元銀弘
白木正光

白木
登山シーズンになりました。登山の快味は今更云ふまでもありませんが、私共犬の趣味者は、この登山に更に新しい趣味を加へたいと思ひます。それが「山に日本犬を探る」今晩の座談會の主旨で、日本犬保存會の皆様や、アルピニストの中元さんからいろ〃御經驗や御注意を伺ひたいのです。
日本犬の流行に伴ひ、日本犬を手に入れたいと望む人達の好参考であるばかりでなく、一般登山家にも非常な興味を唆ることゝ信じます。
齋藤

私の属してゐる日本犬保存會では、全國の日本犬分布圖を作るのを一つの事業としてゐます。どんな體型の犬がどんな地方に飼はれてゐるかといふことを調べるのですが、何しろ、日本全國をしらみつぶしにやらねばならぬので、人、時間、費用の點で、却々思ふように進まないので困つてゐます。
そこでお願ひがありますが、山へ行かれる折は、必ず獵師がどういふ犬を連れてゐたか、毛色、體型、大きさ等出來る丈け詳しく報告下さつて、この分布圖の完成に協力して戴き度いのです。別にこちらでいゝ犬を獲得しようといふ肚は決してありません(笑聲)

白木
それでは山へ行く人達に豫備知識を與へるため、現在判つてゐる日本犬の所在地に就いてお話下すつては。

【樺太・千島・北海道の在来犬】

犬

齋藤
では先づ、北から南へと下りませう。最北の樺太は小松さんの領域だ。
小松
樺太犬は大型の橇犬で、渡瀬庄三郎博士のいはれる北方系統です。長毛と短毛の二種あります。獵師のつかつてゐるのは小形で、これは北海道から渡つたものらしい。橇犬は日本の犬ではあるが、日本犬と云ふよりも、むしろアラスカ犬に近い。
齋藤
日本の領土内の犬、必ずしも現在云つてゐる日本犬とは云へない。樺太犬はカムチヤツカ、アラスカなどの系統で、民俗的にも違ふ。小型の獵犬はアイヌ移住の副産物らしい。次に千島に移つて北千島はカムチヤツカ系で樺太犬に近い。
小松
樺太ではどし〃犬を喰ひますが、喰はれるのは、橇を曳けぬ力の弱い奴です。ところが北海道へ行くと、樺太犬とは全然違つて大型はなく、むしろ紀州犬に似て居り、小形のものは柴犬に一見似てゐますが矢張り違ひます。岐阜あたりの(柴犬)はストツプが強く、顔がつまつてゐる感がありますが、之はどこかのびてゐると云ふ形です。
北村
のびてゐると云ふより、おだやかと云ふ顔付ではないですか。
小松
アイヌは非常に犬を可愛がるせいか、性質も至極おだやかで、誰にも吠えない。
齋藤
アイヌ研究家の八田三郎博士が云はれて居たが、或年アイヌが非常に困窮した時があつても飼犬丈けは放さない。贅澤だと云ふと、かくして飼ふといふ愛着振りだつた相です。この八田さんは犬を見る名人でもありますが、尾を巻くのは嘘で、差尾のものが本當のアイヌ犬だとも云はれた。又他犬に對しては温順しいが、熊には強いと云ふ性質があり、狩獵好きのアイヌ人の愛犬だから、却々譲受けることが出來ない。
小松
然しこちらに牡犬を持つてゐて、牝犬が欲しいと云ふと喜んで探してくれます。室蘭から釧路に行く山脈の南東側、日高方面には割合に小型な犬が居り、旭川方面の北西側、日本海方面に中型のものが多く、猟の仕方などにもいろ〃相違のあるのは、人類学的にも面白い研究資料です。それから日高には尾の短いものをよく見かけます。
中元
北海道には橇犬はゐませんか。
小松
ないですね。漁民など樺太から渡つて來た奴を持つてゐることがありますが、土着のものはありません。
齋藤

かつて南次郎大將が北海道から取寄せた犬は、熊獵系の中型犬だつた。私が北海道へ行つたのはもう十七八年も前のことですが、アイヌ部落で有名な白老の酋長は、立派なアイヌ犬を持つてゐました。離婚問題で有名になつた、フエリシタさんが持つて來たのもそこの産です。今では犬ブローカーが出來た程名高くなりました。


【東北地方の在来犬】

犬

齋藤
それから南に下つて青森。そこの弘前から十和田湖に抜ける黑石といふ所に行きましたが失敗しました。一匹十里許り先の温泉地にゐると聞いて出掛けたが、既に賣られた後でした。岩木山の鰺澤に暫く軍隊でいつてゐたが、餘り見掛けませんでした。
北村
友人が青森縣の牧野で、よく吠えられたと云つて來たが、ゐるらしいですよ。
伊東
私の友人も最近津軽半島へ縣廳の人に案内されていつたが、日本犬の赤い奴がゐたといつてゐた。

犬

齋藤
前に津軽産の山犬を飼つたことがあるが、これは家犬が山犬化したもので、毛の巻いた長いのでした。こゝの半島を調べてアイヌ系の犬を發見したら、アイヌ移動の經路も明瞭になつて、學術上おもしろいでせう。下つて秋田、こゝの十和田湖寄りは最早殆んどゐない。大舘奥のアニマタギは獵師の意味で、この地方の熊獵に使ふ犬は有名です。かつて北村さんが飼つたが、大変いゝ中型で、落つて悠々迫らざる感がありました。
北村
大舘から送つて來たのです。氣に入らねば返せと云ふ手紙付だつたので、早速滿足の電報を打つた程でしたが死にました。その後見せてくれと訪ねて來られて、皮になつたのを見せたことがあります。
 

犬


齋藤

岩手寄りの縣境か、縣南のマタギ獵師がいゝ犬を持つてゐます。山形縣境の鳥海山の麓にも相當居ます。次に岩手縣は秋田縣より有望で、なぜ有望かといふと、秋田縣は秋田犬の産地として有名なので、猫も杓子も行くが、お隣の岩手は存外閑却されてゐるからです。
岩手縣はこのほか太平洋寄りにもゐるが、如何せん不便で誰も踏み込んでゐない。大きさは大體中型の小で、秋田境で獵犬が一尺八寸から九寸位のいゝのを連れてゐたのを見たことがあります。宮城縣は山形縣境にゐるのを聞きました。岩手境にもゐるかも知れません。

北村
中尊寺の境内にゐたといふ寫眞をみたがよくない。
齋藤
秋田より鳴子の奥に大型がゐたが、現在はゐません。山形にも今は餘りゐないが、米澤附近の高安犬は有名で、こゝの犬の宮で犬を保護したが、今は餘り残つてゐない。
私の弟がそこらの仔犬を調査したが、白い犬で中型よりは少し大きい。その他山形では朝日連峰を中心として探したらまだゐるかも知れぬ。

犬

北村
福島縣で、たまに日本犬が出るが、登山家のよく行く旭岳、山形、越後境の飯豊連邦にも殆んど見かけないと云ひます。
齋藤
新潟の境、尾瀬沼に出る檜枝岐の方の獵師が飼つてゐました。中型で熊獵に使ふのです。
伊東
私は尾瀬沼奥へ近い内行きますから、一つ競争で捜して見ませう。
北村
こゝから新潟の小出島にぬけるコースは、日本でも山の深いところで、熊獵師が澤山ゐますから、自然犬も飼はれてゐます。

犬


【関東地方の在来犬】
伊東
その方面から日光へ抜ける豫定です。
齋藤
日光の奥、塩原の奥の獵師はまだ大部分飼つてゐるやうです。また福島縣境に老犬だがいゝのを見たことがあります。
中元
尾瀬の會といふのがある。時々皆でそちらへ出かけるのです。その會員の人達によく話して置いて調べて貰ひませう。
 

犬


齋藤
茨城も福島境にゐる。千葉はつい近年までゐたが今はゐない。群馬縣赤城の裏も人が捜し盡してしまつた。群馬では十石峠の近く、上野、信濃、武蔵に跨り、甲斐にも近い三國山の奥の山獵師が大分持つてゐます。
伊東
私が行つたのは餘程以前だが、まるで部落なぞなかつた様です。
齋藤
最後の部落の中の澤、あの邊は徳川時代の猪犬の産地で、徳川時代の猪獵、鹿獵の文献にも出てゐます。

犬

伊東
大きさは。
齋藤
三貫から四貫五六百でせう。東京は秩父の奥にゐます。
小松
秩父は埼玉ですよ。
齋藤
ああそうです。そこも猪犬の産地。神奈川縣は津久井郡で見たことがありますが、柴犬で猪獵に使つてゐたが、他には見當りません。
小松
新潟も捜し盡されていゝ犬がゐなくなつた。ゐれば群馬との境あたりでせう。

 
【中部地方の在来犬】
 

犬

北村
今度は長野縣を。
白木
いよ〃アルプスですね。
齋藤

南アルプス赤石連峰でつい近頃五六十の部落が發見されたが、そこなど有望でせう。もとは南佐久郡の梓川上流にいゝ犬がゐた。かつてその甲州境ひの川上村最後の部落で生れた柴犬を持つて來たが、評判がよく、川上村へ川上村へと押掛けたので、一ぺんに犬價が高くなつたことがある。
天龍川奥には熊獵の名犬がゐたし、木曽福島の柴犬を見たこともある。古い話では山案内人の開祖とも云はれる嘉門次の犬は有名でした。

中元
上高地には熊、羚羊、眞鹿などがゐて、昔は獵が盛んに行はれた。
伊東
嘉門次は大正六年十一月に死んだ。私が行つたとき、これも有名な山案内人の類蔵が一世一代のおつとめといつてついて來て呉れたが、その時嘉門次の小屋を訪づれると嘉門次は死病の腎臓で熊の皮をひいて寝てゐたが、特に頼んで二人を橋の上に立たせて撮つた。嘉門爺は百頭の熊を取りたい念願で、既に九十九頭とつたがもうとれぬと悲觀してゐた。
齋藤
今は甲州境よりかへつて長野から西の水内地方に柴犬がゐます。
北村
中尾といふところを通ると、よく吠えられると聞いたが、大町街道に出る邊で獵師が二三頭の柴犬を持つてゐた。
中元
大町から杓子へ出る道での山案内人の話ですが、耳の立つた日本犬が熊獵に用ひられて居た。この犬は剽悍で、ある時など山に入つた儘終日歸らない。翌日心配して探しに行くと、ある崖縁で盛んに吠えてゐるのを發見したが、よく見ると鹿を岩に追ひ上げて居るので、スグさまヅドンとやつて仕とめた。そしていつもの習慣上、獵師が獲物の腹を割つて腸をやつても食べない。不思議に思つて口をひらいて見ると、崖をよぢ登らうとしたのであらう、歯の間に、はひ松の枝や蔓が一杯つまつてゐた。この勇敢な行動には流石の獵師も舌を巻いて、日本犬に限ると云つてゐたさうです。
 

犬


齋藤
甲斐には愛護會があり、虎毛が特色です。南アルプスの麓奈良田、芦安あたりは昔から鹿獵に使つた犬がのこつてゐますが、此の地方は脆い岩で出來てゐるので、身體が軽く、足の運びが軽快で、さうした犬が渓流の岩伝ひにとび歩いてゐる姿など、背景もよいのでせうが、實に感じのよいものです。
小松
だが連れて來ると案外よくないのもある。
齋藤
山から山を飛び廻つたり、渓流の岩上に立ち止つて主人を顧り見る時の姿など、山猫がうづくまつたやうな、たまらないよさがある。
北村
さうした場所に見るには、どうしても差尾がよいですね。

犬

伊東
虎毛は信州にも入つてゐますか。
齋藤
静岡の報に却つて見かける。甲斐は不思議に赤毛より虎毛を好いて、虎毛の一能と云ふ俚言まである位です。何もいゝ所がなくても虎毛には一能があると云ふ意味で、又この虎毛は保護色となつて、山に放すと恰度岩の色に似て、柴犬より一層野獸を追ふのに都合がよい。
北村
静岡では昔は天城犬が有名だつた。今は甲斐境ひの梅ヶ島、大井川上流、天龍の奥、三河境等に柴犬が殘つてゐる。
小松
愛知では知多半島で鼬をとるのに柴犬を使つてゐる。

犬

伊東
農作物を荒すのですか。
小松
いや、鼬の皮が値がある爲めです(※昭和初期は鼬も乱獲されていました)
齋藤
岐阜縣も非常に日本犬熱が高く、地元でも調査してゐますが、揖斐の奥や飛騨、美濃の郡上郡の富山縣境等からよい犬が出ます。
北村

富山は飛騨境、石川は福井境に見込みがある位。石川、滋賀も餘り聞かぬが、滋賀縣は岐阜縣よりにいゝものがゐると云ひます。三重縣では紀州方面が一番有望です。
 

【近畿地方の在来犬】

犬

齋藤
左様。紀州の日本犬は有名で、昔から熊野犬、那智犬、太地犬等の名があり、新宮には今回紀州犬愛護會が出來ました。この和歌山、奈良、三重にはまだ相當にゐる。
小松
奈良縣は十津川の奥、和歌山縣境にいゝ犬がゐます。
中元
高野の導びき犬も有名ですね。

犬

齋藤
今度は大阪。こゝにもゐるから面白い。河内に紀州系の割合いゝ犬がゐるのです。
北村
京都府はゐさうであまりゐない。昔は雲ヶ畑の猪獵に和犬を澤山飼つたものだが、御獵場が廃止されたので、其の後雑化してしまつた。

犬


【中国地方の在来犬】

 
齋藤

兵庫縣は京都寄りで有望。鳥取にも柴犬がをり、岡山、島根、山口、廣島等の山中にも却々いゝ犬がゐる。

(※石州犬で重要な地域だった中国地方ですが、内容はたったこれだけです)

犬

犬

【四国の在来犬】

 
齋藤

四國は交通不便の爲め處女地に近く、最も有名な土地だが、山が嶮岨でそこまで捜しに行くのが容易でない。
小松
四國には中型のほか小型もいゝものがある。

(※四国はこれだけです)
 

犬


【九州の在来犬】

 
齋藤

更に九州に渡ると、こゝはまだ殆んど調査がとゞいてゐない。たゞ大分、日向境にゐることが判つてゐる位。鹿兒島犬は昔から有名だが、今は殆んどゐない。大島では鹿狩りに日本犬を使つてゐた。臺湾には生番犬がゐる。

犬
これは日向地犬か椎葉犬でしょう(※明治時代の『後狩詞記』によると、ルーツは日向細島港経由で鹿児島から移入された猟犬です)。

小松
朝鮮にも日本犬の中型犬がゐるといふが調査されてゐません。又朝鮮の鷹狩の犬は日本犬と酷似し、耳は小さく立つて巻尾ですが、これ等の比較研究を行つたら、民俗的にも面白い結果が得られやう。
白木
これで全國一周したわけです。

 
してねえよ!
沖縄を飛び抜かしていますので、3年後に日本犬保存会理事の板垣教授が沖縄を訪れた際のレポートを。


【沖縄の在来犬】
宴會と講演ぜめに合つてゐる中に早くも豫定の滞在日數は經過し、同好の九大の久保教授などは二十八日に私を残して歸つて行つたが、せめて琉球を訪れた以上 は宿望の琉球犬などを調査したい念願も働いて、私は先づ滞在の日數を延し、嫌なロクでもない名刺交換や初對面挨拶などは極力お断はりした上で、ニ三師弟關係にある者等と犬探しに乗出したものです。
十錢の人力車から自動車なんかの乗物で那覇市内を至るところ乗り廻し、鵜の目になつていはゆる「琉球犬」を探しあぐねた。
日本犬らしいのが眼につく。中には耳のキリツと立つた尾の巻いた標準型なのにブツツかつて、さてそれのゐた付近の家に車をとめて「犬をみせて下さい」と談じ込むと、家人は一向に知らぬ顔をする。
それ程にあちらでは愛犬熱に乏しいのであつて、一例をとつて言へば、私が那覇市に於ける獸醫師會の總會席上で東京附近の犬界状勢を政談演説のゼスチユア宜 しくまくしたてたり、あるひはかうして車がけで犬を探してゐるのに、市民間では一つのアフエイヤを捲き起してデマにデマられた話の末として、私のところへ 「地犬が一匹千三百圓に賣れるといふが本當か?」なんて話を持ち込む者さへ現はれる程の幼稚さだつた。
餘談は兎も角、琉球全島を通じて私のみた犬は體高一尺五六寸どころの赤毛の一枚と虎毛のものが多かつたが、果してそれ等が琉球の地犬であるか何うかは頗る疑問で、例のチヤオ(※チャウチャウ)の多數入り込んでゐる事實に照合すると、更に疑はしいものとなつてくる。

現に那覇市に於ける私の友人の所有犬―臺湾犬だといつたが―を調べてみると舌が眞黑に近く、明らかにチヤオの系統を示してゐた。そんな譯で、那覇市に於ける犬探しは不成功に終つたが、沖縄本島を更に車を駆つて二十一里の延べ里數を犬探しに探してみた(帝大農学部教授 板垣四郎『琉球紀行(昭和11年)』より)。
 
話を座談会へ戻します。


齋藤
次に犬を探しに行く秘訣など放されたら面白くはないですか。
北村
日本犬を探すのに、只尾の巻いた、耳の立つてゐると云ふ考へ丈けでは充分でない。
小松
耳の大きさは大體拇指と人差指とのまたを開いて、その中に耳がすつぽり入る位が標準となつてゐる。
齋藤
それは耳に毛がある關係上、却つて素人に誤られるかも知れぬ。それにそんな事をすると喰ひつかれる心配がある。一體山へ探しに行くには相當時間のかゝるもので、目的の土地に午前中いたとしても、部落の人は山畑に出てゐて日暮でなければ歸つて來ない。そこでどうしても一泊することになる。
北村
それからお役人風を吹かすのは禁物で、お役人などゝ思はれたら絶對に犬は得られない。ところが犬を集めて見たいなどゝ云ふと、とかく役人と思はれ勝ですが、役人が何故いけないかと云ふと、犬の税金(※狂犬病対策で導入された畜犬税のこと。未納税の飼犬は野犬と見做され、駆除対象となります)など殆んど拂つてゐないので恐れるのです。
小松
アイヌは「又殺すのか」と心配します。
齋藤
犬も洋服者を見ると恐がつて縁の下へもぐり込んだりするので、つないでもらつて見ます。この時巻尾のものでも恐がつて尾を垂れてゐるもので、巻尾か差尾か見分け難いが、たとへ垂れてゐても尾の先端が、上に巻き上つてゐるものは巻尾、薙刀状は差尾です。背丈けを見るにもの差しなど使ふと嚙まれるので、立つてゐる姿が飼主の脛のどの位の高さにあるかを覺へておいて、あとで計ります。連れて歸るには、厳重な鎖、シエパード訓練用に用ひる頑丈な頸輪を用意されるとよい。
伊東
値段の交渉などは?
齋藤
獵師の犬は熊一頭取つても二百圓の儲けになるので、却々譲り受けるのは困難だ。然し小さな仔犬なら、酒でも付けてやれば、近所にやるより獵場を荒される心配がないので譯なくくれます。
小松
アイヌでは東京の人に貰はれると、自分達より先に犬が東京見物をすると云つて、すつかり喜んでゐます。
齋藤
日本犬のことの判つてゐる地方では非常に高い。それから日本犬を持つて來る時は、乗物の場所まで飼主が、一緒につれて來るのを條件に入れた方がよい。
小松
ある地方では盗まれて皮を剥がれる虞れがあるので、大事な毛を部分的に切りとつて賣物にならぬやうにしてあるが、あれには弱ります。
北村
先達奥多摩へ甲斐日本犬をつれて行きましたが、鳥を追つたり、山道をかけるのに、いかにも軽快で面白かつた。
小松
都會育ちは登山は駄目ですね。足の裏がすぐ参つてしまふ。
中元
昨年エアデールの會で富士登山を計畫しましたが、飲水などがなく可哀相と思ひ、上高地に變へて、それも都合惡く止めてしまひました。
小松
山から持つて來る犬の寄生蟲には弱りますね。
北村
來て數日すると、今迄元氣だつたのが突然食物を食べなくなつて、驚くことがあります。
小松
急に環境が變るからですよ。この際の注意が一番必要ですね。
齋藤
素人は急に食べなくなるから心配するが、犬は絶食の自然療法をしてゐるので、さう驚くことはありません。
北村
しかし環境が變り、運動不足などの結果、山では別に影響のなかつた寄生蟲が急にこたえるのではありませんか。
齋藤
都會につれて來ると、自動車、電車、大砲などもこわがる。
北村
散歩などの折、花火の音を聞くとおびえてすぐ家に歸りたがります。
伊東
雷はどうです。
小松
恐れますね。
伊東
近来、日本犬がめつきり減つてしまつたのは、どう云ふ譯です。
齋藤
全く三四十年前の寫眞を見ると獵師達が日本犬を何頭も持つてゐたが、その後洋犬流行から日本犬は獵師以外顧られなくなつたので、段々雑種化したのです。私は山に犬を探すばかりではなく、登山に犬を連れてゆくとよいと思ふ。迷つた時など、犬が道を發見してくれる。
白木
ではこの位で。有難う御座いました。

 
座談会の中で南樺太・朝鮮・台湾の犬を「広義の日本犬」視しているように、戦前の日本犬研究家は、内地・外地という幅広いエリアで「日本犬」を俯瞰していました。日本列島限定の現代日本犬論と、視点の差異を比べて見るのも面白いでしょう。
 
「山間部に残存する和犬を探す」という試みは、この座談会から2年後にも実施されました。
こちらは昭和9年の東北大凶作によるもので、困窮する東北の農村から関西地方へ犬を救出するためのものです。
和犬の産地移動には、ペット商による買い漁りのほか地域経済事情も影響していたワケですね。
 
大阪、神戸、京都の日本犬の有力愛好家が中心となつて舊臘組織され、既に幹事格の中村泰啓氏は秋田、山形、青森地方の山間部四十餘所の凶作地の犬の飢餓状態を具に觀察して帰つたが、同會の趣旨は窮乏山村の良犬を出来得る限りの高値で買求めて、阪神地方に招來。
十分な榮養と訓練を與へ、買主相互に聯絡をとつて純良種の保存繁殖を計り、やがて苦艱の東北に花咲く春も來れば、昔のよしみを辿つて良い子孫を賣戻し、この名犬の危機を避けようといふのである(『秋田犬愛護會設立(昭和10年)』より)
 
都市部の愛犬家だけではなく、山奥深く分け入る登山家への情報収集はナカナカ興味深いものがあります。
しかし、東京で開催された座談会ゆえ「東高西低」の内容で何だか物足りません。
詳細に語られる東日本の北海道犬、秋田犬、甲斐犬と比べ、西日本の紀州犬、四国犬、石州犬、薩摩犬は触れる程度。あげく琉球犬はスルーされるという、なかなか偏った地域観が披露されております。
 
例えるならば、日保は東京に本社をおく全国紙のようなもの。そればかり眺めていると、地方紙による地域密着型の情報を見過ごしてしまいます。
「地方の名を冠した日本犬」について語る以上、地域犬界を無視することはできません。
東京目線が生んだ団体間の軋轢は、次回の黒歴史編にて詳しく述べましょう。
 
(続く)