かぶがしら(※獲物の頭部)をもっては、天大しょうごん殿に祀って参らせ申す。
かぶふた(※獲物の尾)をもっては奥山三郎殿に祀って参らせ申す。
こひつぎあばら(※獲物の腰骨と肋骨)をもっては中山次郎殿に祀って参らせ申す。
奥山三郎殿の三百三十三人、中山次郎殿の三百三十三人、山口太郎殿の三百三十三人併せて九百九十九人の御山の御神様にも祀って参らせ申す。
下のコウザキ、上のコウザキ、中頃のコウザキ、只今のコウザキ殿まで祀って参らせ申す。
オザサ山のコウザキ、上ノ小屋山、雷カドワリのコウザキ殿にも祀って参らせ申す。
アロウ谷からフルコエの間まで木の根かやの根の下にマツリアラシのコウザキ殿まで、小猟師のまつりて(※獲物の内臓)を差し上げ申するによって、三丸五丸 七丸十三丸三十三丸百六丸までのやくごんを奉り申するによって、その上はのされ次第、御授け下さりゅうところを一重に御願い奉り申す。
永松敦著『狩猟民族研究』より 椎葉村のシシマツリにおける狩猟神コウザキ殿への唱文
怪異と化した犬、怪異と戦った犬。
毎年1月は鷽替え神事で賑わう亀戸天神。春には藤の花が咲き乱れ、周囲を散策するだけで楽しめる場所です。
日本神道の祭祀施設でありながら、境内中央の池は無数のミシシッピアカミミガメ(ミドリガメの成体)に占拠されており、ここだけアメリカン。……などという外来種問題の話は置いといて。
日本人のテキトーな宗教観に苦言を呈する向きもありますが、信仰との距離は亀戸のミドリガメ程度でよいのかもしれません。
亀戸天神の傍らに、全身塩まみれの像「おいぬさま」が設置されているのをご存知でしょうか?このおいぬさまに塩を塗ると、病気治癒・商売繁昌の御利益があると書かれています。
仕事で亀戸を訪れるたび、塩漬けのおいぬさまを見て「何だこれ?」とか思っていたのですが、あるとき塩を落とした姿に遭遇しました。
……何だこれ?
おいぬさまの由来は、大正の大震災か昭和の空襲において、焼け跡から掘り出された狛犬だったようです。それがいつしか、信仰の対象となったのでしょう。
狛犬は近代犬界史の範疇外なので、話もここまで。元を辿ればライオンですし。
【信仰とカラフト犬】
狛犬には犬型タイプも存在します。
有名なのが、東京都青梅市にある武蔵御嶽神社や埼玉県の三峯神社。これらの神社は、「大口真神(おおぐちのまがみ)」を祀っています。
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに(舎人妹子)
と万葉集でも詠われる大口真神とはニホンオオカミのこと。
大自然は人間に恵みをもたらす一方、人智の及ばぬ異世界でもありました。自然崇拝から始まった山岳信仰では、そこに棲む動物たちが神の使い、山の眷族、神聖な獣と考えられるようになります。
「神の使い」とされた獣としては稲荷の狐や春日の神鹿などが知られていますが、「神そのもの」であったのが、かしこき(賢き・畏き)獣であるクマとオオカミ。高い知能と攻撃力を有し、人間に幸と災いをもたらす獣です。
御嶽神社の狼護符アレコレ。時代によって幾つかのタイプがあるようですね。
護符の新旧比較。デザインのリニューアルによってヒゲが短くなり尻尾がふさふさ化しています。
例えばアイヌ民族のイオマンテ(神送り)は、ヒグマの姿をしたカムイ(神)を人里へ迎え、一定期間もてなした熊を殺すことでカムイシモリ(神の世界)へ送り返すための儀式。オオセカムイと呼ばれたエゾオオカミも神獣として扱われ、近文アイヌおよび北見國ビボロコタンではオオカミやフクロウのイオマンテも行っていました。
樺太先住民集住地「オタスの杜」で撮影されたニヴフの夏用住居(カウラ)。たくさんのカラフト犬が写っています。
アイヌ民族と同じく、熊送りの信仰をもっていたのが樺太先住民族のニヴフ(ロシア語ではギリヤーク)。オホーツク文化を継承する彼らは、犬と強く結びついた民族でもありました。
多民族が住み分けていた樺太島において、海の民であるニヴフは大陸からアムール川流域の犬橇文化を導入。冬季の輸送手段として活用します。
牛馬がいない樺太島で、豊富な海の幸を飼料にできる犬を荷役動物として選んだワケです。
いっぽう山の民であったウィルタ族は、山中の遊牧で飼育できるトナカイ橇を選択。彼らはトナカイを脅えさせる犬を敬遠し、ニヴフとは全く異なる文化を構築しました。
こうして作出されたのが北方犬をルーツとするカラフト犬。橇を曳くのに適した幅広い胸部と頑強な四肢、酷寒に耐え得る分厚いアンダーコートをもつ「樺太産ハスキー」でした。
ニヴフの犬橇文化は、同じく漁労文化の樺太アイヌも採用。海産物を運ぶ「ヌソ」として普及させます。
いっぽう狩猟採集文化であった北海道アイヌは、狩猟に適した北海道犬を選択。宗谷海峡を挟んで、同じアイヌ民族が別種の犬を飼育する状況へ至りました。
※ロシアによるキリスト教布教や日本による移住策で独自文化を失った千島アイヌについては、どのような犬を飼っていたのか判然としません。
江戸時代に樺太探索が拡大すると、和人とニヴフの接触もはじまります。「樺太北部の民族は恐ろしい」と制止する樺太アイヌを振り切ってスメレンクル(ニヴフ)を調査したのが間宮林蔵。
去勢手術による犬の淘汰改良、チームとしての犬橇運用法など、和人が知らない先進的な飼育訓練技術に目を見張った彼は、ニヴフの犬橇文化を記録して江戸幕府へと伝えました。
間宮宗倫の樺太探索記『北蝦夷圖説(安政2年)』で描かれたニヴフの犬橇。彼らの犬橇文化は樺太アイヌへ伝播していきました。
犬と共に暮らすニヴフは(各家庭で10~20頭単位)、犬橇以外に食肉や毛皮としてもカラフト犬を利用していました。
もちろん食肉獣として飼っていたワケではなく、宗教的に必要とされた場合に犬を生贄としたのです。
葬儀、病の治癒祈願、家屋新築の際の魔除け、不吉な行為をした際の清めとして愛犬を神に捧げる。その副産物として肉や毛皮が利用されていました。
南カラフトのわが領土に住んでいたギリヤークのなかでも、敷香附近の者は、死者があると火葬にしないで埋葬していたが、そのときは死体のそばに犬を殺して副葬した。
この犬は死者の家族でない他人が撲殺することになっていた。また家人が重い病気になると、その平癒のまじないとして犬を殺すことがあった。
ギリヤークは北方の諸民族と同様に熊祭りをする。これはアイヌとおなじく生けどった子熊を飼育しておき、明け三歳になって盛大な祭をしてこれを殺す。
殺した熊には神の国へ帰る土産物として犬を殺して供える。このとき熊に対して祈りの言葉をささげる。
「今までに行届いた飼い方もしなかったがいよいよお前を神様のもとに送りかえすのだ。この後もギリヤークのところに熊を沢山つかわしてもらいたい。
お前には贈り物として犬を持たせてやる。神様のもとに行ったら、この犬は自分たちからもらってきたと伝えてほしい」というのである。この贈り物にする犬は多くは黒犬を用いるが、熊祭りをする主家の犬ではなくて、隣人の飼った犬か、あるいは来客がくれる犬に限られている。
この犬を殺すのには、熊祭りで熊を殺してからその熊の頭を東に向けて寝かせ、そこで皮ひもで犬を絞殺する習慣になっている。
殺した犬には柳で作った削りかけの幣(ナウ)をつけてていねいに取扱い、熊祭りの後に神々に満足をあたえるため一定の方式にしたがって解体する。犬飼哲夫『カラフト犬の起源と習俗(昭和57年)』より
南樺太が日本領になると、樺太先住民族は敷香近郊に建設されたコロニー「オタスの杜」へ集住させられます。
ここでニヴフの犬橇文化とウィルタのトナカイ橇文化は混じり合い、敷香への鉄道開通とともに犬橇は衰退。馬車やトナカイ橇が輸送手段の主力となりました。
和人の近代化策とともにニヴフの宗教観も大きく変化。「神の使い」「生活の糧」であったカラフト犬は「犬橇以外には役立たない、無駄飯を食んで家計を圧迫する厄介者」となります。
そして昭和20年夏のソ連軍樺太侵攻作戦にともない、敷香市街は炎上。ロシア人もカラフト犬保護に興味はなく、ニヴフの犬橇文化は消滅してしまいました。
いっぽう北海道には移入されたカラフト犬が1000頭ほど残存していたものの、和人にとってのカラフト犬は「寒さに強いリヤカー運搬犬」扱い。モチロン、ニヴフの信仰は忘れ去られます。
第一次南極観測隊が犬橇の使用を決定した際、犬橇のノウハウは失われていました。稚内に集められたカラフト犬たちの訓練は、北海道へ移住したニヴフ出身者の指導を受けつつゼロからの再出発となったのです。
【山岳信仰とオオカミ】
話をカラフト犬からオオカミへ戻しましょう。
武蔵御嶽神社や三峯神社の「おいぬ様」は、オオカミ信仰が元となっています。昔の人々にとって、オオカミは畏怖の対象でした。
人や家畜を襲う狼への恐怖心から、「送り犬」という怪異を生み出した地域がありました。
田畑を荒す鹿や猪を駆逐してくれる、神の眷属として崇めた地域もありました。
神と妖怪という、相反するイメージとなったのは興味深いですね。
また、狼は安産の象徴でもありました。狼の出産を祝って赤飯や塩を山に供え、安産にあやかる地域もあったのです
お使者の遠吠
今から七十年も前の話。山犬がお産すると赤飯を炊いて持つて行つたものだ。十位の時、イシネコ山の山の神に晝間村の人達と一緒に赤飯をあげに行つたが、オーと遠くで吠えるのでそのまま置いて歸つて來た。
金子總平『上州草津の狼談(昭和10年)』より
大口真神社のオオカミ型狛犬。
武蔵御嶽神社に鎮座する山犬の像。現在は山腹までケーブルカーで登ることが出来ます。
かつてオオカミが棲んでいた山の雰囲気を味わうには、歩いて下山するのもよいでしょう(雪道で三回くらいコケましたけど)。
三峯神社(埼玉県)の護符。こちらもオオカミを御眷属とする神社です。三峯神社のお犬様は一対のデザインが多いですね。
三峯神社のオオカミ護符あれこれ
野生の狼とは別に、家畜である犬も信仰と関わっていました。
有名なのが、空海を高野山へ導いた白黒の猟犬。このとき出遭った猟師と猟犬は、狩野明神とその使いであったと信じられています。
人皇十代崇神天皇の御宇、天道根命の御子阿牟太首、丹生高野の二神(天野明神なり)を祭りて、紀伊国の黒犬一疋、淡路国の白犬一疋を献じて、神の役使(つかはしめ)とし給ふ。爾後十六代應神天皇の御宇、神使御犬の口飼の料の田地を賜ひ、且(そのうえ)犬飼人を添て、鎮守天野明神に寄付し給ふ。さるほどに犬を以て明神の使隷と称す。
又五十二代嵯峨天皇弘仁七年孟夏の頃、弘法大師京畿(みやこ)を立て霊地を尋ね給ふ時、大和国宇智郡にて、一個の猟夫に遇給へり。其身長八尺ばかりにて、筋骨逞しく、面に赤髭あり。青色の衣を着し、弓箭を帯し、黒白の両犬を牽けり。
大師この猟師に對つて霊地を尋ね給ふに、猟師くはしく語りて、従へる所の犬をして大師を導かしめ、高野山の霊場を教へしむ。此猟師といふは即ち高野明神の化現なり。されば大師請來の律にも、防守として犬を養ふと見えたりとぞ(野山冥霊集)
その高野山では、上記の故事から「神犬」が飼育されていました。
犬猫を飼う宗教施設は多いものの、神格化していたケースは珍しいかもしれません。
建長三年(1251年)明神御託宣記にも、種々の表示ある事を載せ、尚後世にては織田右府高野山を攻伐んとせし時、黒白の両犬彼軍中に走り入てより、山徒の軍威熾盛にして、終に敵陣に變ありて、山家忽ち静治せしも、全く霊犬の助によれり。今壇場に神犬ありて、是を養ふに糧三石あり。是なん上古の口代の遺意なるべし。
尤も山上に諸々の禽獣を養ふ事を禁ずといへども、犬は斯かる古例によつて、一山に許多養たり。但し牝犬は結界に入る事を忌む。若たま〃牝犬來れば、遠く山下に放たしむとなり。
野山冥霊集『紀州名所圖會』より
大猟の場合は山の神が力添えをして下さったのであると一般には信じられている。又山の神は山が滅びてしまわないように山を守る働きもなされるという
さあ、居ると云えば居られるかもしれないし、居らぬと云えば居られぬようでもある。居らぬと思っていても不敵な真似をするのは気持ちが悪くて出来ない。山の神として祀ったり拝んだり、昔からのしきたりに従っているまでだ。『日向民俗・狩猟資料』より
その結びつきを物語るのが、秋田県にある老犬神社。ここでは、戦前の資料から神社建立の由来を引用してみましょう。
時は三百年前の昔の事だ。みちのくは鹿角の國に草木と云ふ處がある。豪い権力を握つてる國主はその臣下の又佐多鬼六が先祖から功労があると云ふので、天下御免の證文を授けた。其の證文は尊いもので、他領他國どこの寺社に入るも差支へなしと記されてゐる。
佐多六は求むる處甚だ薄い。草木の片田舎の木深い山の麓に茅屋を結び、喰ふ丈の田畑に鋤を入れ、暇さへあれば獵に出で、獲物の珍しいものは君公に献じたり市にひさいだしりて妻と一匹の白犬と三人暮しの頗る平和な月日を送つて居る。
二月は寒い吹雪がつゞく。朝が晴れたので、カンヂキを履き獵銃を肩にして、伴として白が影の如くつきそうて居るは勿論の事だ。其の日は獲物も見當らぬ。日はトツプリ暮れて行く。漸く一頭のカモシカを認め之を追ひつゝ南部領の三戸の境を越えて辛ふじて射とめた。遂にそのあたりの山小屋に一夜を明かした。
夜はしら〃と明けた。
ドヤ〃と人の氣配ひがする。五六人の人が杣小屋を圍む。
「お前はどこのものだ」
「鹿角は草木のもの」
「他領に無斷に入るとは」
「國主の御免るしを得てゐるもので」
「然らば明しのものを」を此處に於て國主よりの免状を今日に限り懐中せざりしを覺り、之を辯訴したが、聞き容れられず遂に捕はれの身となる。白はこの一分始終を知つて一目散に主家に歸る。免状の巻物を口に咬へて捕はれの主人の後を追ふたが、萬事了つてゐた。秋田犬保存会長 泉茂家『老犬物語(昭和12年)』より
この物語と同じく、獲物を追って盛岡藩から秋田藩の領地へ侵入したマタギが死罪となった記録は実在します。マタギは現代人がイメージするような自由人ではなく、領主へ獲物の一部を献上する事で狩猟を許されていた人々でした。
長く地域に親しまれていた老犬神社ですが、昭和11年に不審火で焼失。翌年再建されました。下の画像は焼失前の老犬神社です。
鬼左多八と忠犬の哀話に絡む秋田縣北秋田郡十二ヶ所町葛原(大舘町より四里)の老犬神社は、昨年春祭典の夜焼失。
全國にも稀らしい三百年の由緒を懐しむ地方から惜しまれて居たが、同部落や犬に親しむ人々の篤志が寄つて再建計畫が進み、五月二十六日落成式を兼ね再建最初の祭典が行はれた。
上は社殿で上段右寄の白犬が即ち御神體であり、其前の澤山の犬は部落の人達が願掛の供へたものが積り積つたものである。
ドツグニユース『秋田縣の老犬神社(昭和12年)』
優れた嗅覚と聴覚、狩猟本能を備えた彼らは、獲物の所在を探り出し、追い立て、主人がトドメの一撃を加えるまで足止めする重要なサポート役。それゆえ、猟を生業とする人々は犬を大切にしました。
縄文時代の遺跡からは、欠けた歯牙や骨折の治癒跡がある犬骨も出土しています。猟で怪我をした犬も大切に飼われていたのでしょう。
不慮の事故やイノシシやクマとの格闘で傷つき、命を落とした猟犬も少なくありません。愛犬の死を悼む心は、いつしか山岳信仰と結びつきました。
猟の最中に犬が死んだ場合、遺骸はその場に安置し、関係者で弔う・現場に神職を招いて供養・遺骸を山中に埋葬する・土葬せず朽ちるに任せるなど、慰霊のかたちは地域によって様々です。
柳田國男が民俗学研究をスタートした椎葉村一帯では、猟犬の遺骸を安置した場所へ神職を呼んで「ミタマシズメ」という鎮魂の儀式を行い、塚に備えた石や用意した幣に「ミタマウツシ」をして持ち帰り、山の神とは別に狩猟神「コウザキ様」として祀る習しがありました。これは猟犬の肉体と霊魂を山の神へ返し、その一部を里へ分祀するもの。
山の神様とコウザキ様に、猟師達は日々の豊猟と安全を祈願してきました。
解禁になると「犬」たちの出番になるが、猟師に撃たれた傷負いの猪や、元気のよい猪を犬が数頭で追いつめて格闘になると、猪は唯一つの武器である「牙」で、犬を切り大怪我をさせたり、時には、犬が牙で切り殺されたりすることがある。
山床で切られて死んだ犬は、其処にある立ち木の四本に、短く切った木を井桁に組んで結え、その上に短木を切って横に並べ柴を敷いて低い掛け棚を作り、犬の死体を棚の上に置いて弔い、お神酒と塩を供えて葬るのが仕来たりと言われる。こうして葬った犬の「塚」を、こうざき様と呼び、山の神とともに祀られている。北郷村郷土史『いにしえ』より
猟師と猟犬の関係が変化したのは、やはり明治時代のことです。近世までは、武家と専業猟師が鷹狩犬や猟犬を用いる程度でした。
それが明治に入ると一変、西洋式のレジャーハンティングが普及します。欧米からは高性能の猟銃と共にポインター、セッター、ビーグルといった洋犬が続々と輸入され、明治中期までに和犬を駆逐してしまいました。
日露戦争以降は仏教的殺生観が薄れ、近代化による開発が進む中、都市部のハンターたちは猟場を求めて山間部へと押し寄せます。地方遠征してくる彼らは、自然への畏怖や地域の信仰に関心などありませんでした。
ガイドとして土地の猟師に要求されるのは、大猟のためのお膳立てだけ。「買い換えのきく猟具」となった猟犬を、粗末に扱うハンターも目立ちはじめました。
神通力を失い、「家畜を襲う害獣」へ格下げされた狼たちも、駆除、自然破壊、狂犬病、そして開国と共に侵入したジステンパー等によって姿を消します。
それで熊狩には何んな用意をしたらばよいかと云ふと、先づ口径の割合に大きい長距離にきく連發銃が必要です。ダム〃彈を使ふもよいでしよう。次には双眼鏡が必要です。
それから犬のよいのが無くては駄目です。これには多年訓らされたアイヌ犬が一番よいでしようが、獵者自身の愛犬をこの壮擧に試みると云ふことも亦面白いことでしよう。
アイヌの犬も近來は大分雑犬ができて、それらの雑種犬もアイヌ犬に劣らず使はれてゐますから、熊に經驗のない犬でも獵者の愛犬であつたならば、万一の場合には必ず忠勤を捧ぐることゝ思ひます。
それから防寒のよういですが 、そう云ふものは割合に多くは入用ではありません。
雪はあつても春三四月頃になると北海道でも大分暖かで、殊に高山の上を跋渉する時にはシヤツ一枚になつても汗が出ます。併し夜間は無論寒いですから、手輕な寝具として毛皮の外套などは最も適當なものでしよう。それから毛布の二三枚も用意して行くことは必要です。次には履物ですが、これは北海道で用ひてゐる鮭の皮で造つたケリと云ふものが輕くて丈夫で、雪の山野を渡渉するには一番よいものです。それらは向ふへ頼んで用意させて置くことです。又雪の上では色眼鏡が必要です。
白樺の林に蔽はれた山腹からは、時々兎が飛び出します。トゞ松の密林には蝦夷山鳥が群をしてゐることがあります。そして氷の急斜面を雪履を穿いて辷り下りる時の痛快さは又たとふるにものがありません。
殊に不慣れな人が途中で轉んで銃を擔いだまゝごろ〃と雪達磨のやうに急斜面を転がつて行く所を見て、思はず手を拍いて、山の静寂を破つてアイヌに叱られなどするのも面白いです。
都築省三『熊狩の面白さと其の方法(大正7年)』より
案内役のマタギにとっては、山の神へ敬意も払わぬ連中など面白くも何ともなかったことでしょう。
近代に入り、日本人と自然の関係は大きく変化しました。
食肉や皮革の調達も、畜産業の拡大、毛皮獣の養殖、輸入毛皮の流通などで狩猟に頼る必要はなくなりました。狩猟規則の厳格化もあって、山間部でも狩猟を生業とする人は減少します。
更に、明治期から狂犬病対策で導入された畜犬税によって、貧しい猟師は犬を飼うこともできなくなりました。脱税の取締りが厳しい地域では、村落の猟犬がまとめて殺処分されることもありました。
戦後になると、猟師たちの世代交代によって古来の風習も薄れてゆきます。
開発による猟場の縮小、山里の過疎化や猟友会員の高齢化、猟犬訓練所の減少は加速するいっぽう。
人口減少へ向かう日本で、地域に根付いていた山岳信仰も消えゆく運命なのでしょうか。
【出産と犬】
今は昔都に住める男、嵯峨の邊に用ありて行きけるが、一條大路達智門の前を過ぎけるに、門の下に生れて僅十日餘りにもなるらんと見えたる清げなる男子を、莚の上に捨置きたり。
頻 りに泣けば甚(いと)あはれに覚ゆれど、爲方(せんすべ)なく見すぐしつゝ、嵯峨にいにたり。其夜宿して、翌る朝帰るときに又此所を通り見るに、其子未だ 同じやうにて有りける。昨日見し時定めし狗にや喰れなんと思ひしに、爾もなきは奇異なりと思ひつゝも家に帰りけるが、如何とも不審晴やらねば、次の朝行き て見るに、尚有りしに變ず。
餘に怪しみ思へば、又夜に入りて暗(ひそか)に行きて、達智門の築垣の崩れに隠れて是を窺ふに、彼門の邊に狗多くあれ ども、兒が臥したる傍には寄らず。さればこそ故ある事なりと思ふに、夜更けて後いづくより來るともしらず、大いなる犬來りければ、他の狗これを見て直ちに 逃げさりける。頓て此犬彼兒が臥したる所によるを見て、扨は今夜こそ此犬に喰殺さるゝよと見るに、さはなくて犬は兒の傍に寄添臥して、兒に乳を吸せける。兒も人の乳を飲む如く、最よく呑んで臥したり。
男是を見て、さればこそ此兒が斯生て有る事は、此狗の乳をのむ故なりと、始めて悟りつゝ家に帰りぬ。
夫より後夜〃行きて見るに、尚同じ如くなりしが、人の窺ひ見る事を知りて、外へ連行きけるにや、兒も狗もいづくへ行きけん。其先をしらざりけり。
是を思ふに其犬たゞものにはあらじ、衆〃の狗の迯去りけるも、佛菩薩の變化して、利益し給ひけるにや、定めて其兒恙なく養ひ立てられけん。心得がたき事なり。此事は彼男の語りけるをかくしるし傳へふるとなり(今昔物語より)」
我が子を捨てる薄情な人間より、犬の方がマシだったんですね。
極端な動物愛護を全国規模で強制したのが、徳川綱吉による「生類憐みの令」です。戦乱の時代を経てようやく巡り来た太平の世。しかし、人心は荒んだままでした。為政者は捨て子の横行を諌めるためのお触れを出すも、皆が守ろうとしません。
そこで「生き物すべての殺生を慎むように」へ規制強化→それでも守らない→更なる締め付け、の悪循環が135回も続いた結果、とんでもない状況になってしまいます。
これは「天下の悪法」として後世に伝えられ、江戸期の動物愛護に最悪のイメージを植え付けました。過激な動物愛護運動に日本人が冷淡なのは、「そんな極論を受け入れたら酷い目に遭う」という先入観があるからでしょう。
中には「将軍様が世継ぎの誕生を祈願して始めた極端な施策」とかいう説もあるそうです。しかし、犬に対する一般の信仰心は、もっとマイルドなものでした。
それを象徴するのが、出産と育児に関わる犬玩具たちです。
産科の技術が整っていなかった昔、出産はそれこそ一大事です。
当時の人々は「少しでもお産が軽くなるように」との願いを、多産・安産の犬にあやかろうとしました。「犬筥」などの玩具や「犬卒塔婆」といった風習がそれですね。「犬張子」や「犬の子」のように、子の成長を犬に託したものもあります。
「小兒を抱きて夜中他行するに、紅脂を以て小兒の額に犬の字を書くと、之を『いんの子』と云ふ。犬の子と云ふ事なり。此の如くすれば魔除けになり、狐狸の類小兒を脅かす事なし。神道類集名目抄に山州祇園社赭を以て小兒の額に犬の字を印す。是を「いぬの子」と云ふ」
貞丈雑記より
妊婦の元に置かれたのが犬筥。見た目は人面犬みたいで気持ち悪いのですが、大切な想いが込められた玩具なのです。
御伽犬筥
顔と頭髪が小兒であるのが特徴です。これは大和の法隆寺の尼さんが作つたと傳へられてゐますが、今は他で人形師が作つてゐます。左右一對あつて、右を向くのが牝、左を向くのが牡です。現在でも宮様、華族のお婚禮には必ずこれをお嫁入道具として持込まれます。
昔大名の用ひたものは、それ〃の定紋を描き入れたもので、それにいろ〃の模様が配してあります。そして無事に婚礼儀式が済んだといふ印を、この筥の中に入れて、翌朝里方に届けたものです。お子さんが出來ると産室にこれを飾り、牡の方には安産のお守などを入れ、牝には産所に用ふる白粉、畳紙等を入れ、子供が生れる時は、産衣を先づこの犬筥に着せると魔除になるとか、生れた子供が丈夫に育つとかいふ因縁があります。
赤ちゃんと犬張子(明治39年撮影)
で、無事出産となれば、赤ちゃんには元気に育ってほしいもの。犬の御守りも、犬筥から犬張子へバトンタッチとなります。
京都の犬筥は各地へ伝わり、江戸時代には犬張子が作られるようになりました。犬張子とは、初宮参りから七五三までの三年間、子供の身代わりとして災厄を引き受けるための玩具。
三年間も子供に弄り回されたら壊れると思いますが、親は「オモチャを壊すほど元気に育った証」と前向きに捉えていました。
七五三のあとに犬張子は神社へ戻され、その役目を終えます。
犬張子
これ(犬筥)の立ち上つたのが御宮参りの犬張子です。徳川時代から流行つたものです。今では張子の上にニスが塗られたりして雅味を傷つけたものもありますが、昔は顔つきなども今と違ひ、顔が尖り、面白味のあるものでした。この形は今でも静岡濵松地方に殘つてゐます。
歐州大戰の好況時代に、成金の贈物として作られた犬張子には大きな物があつて、私の宅では玄關に衝立代りに置き、その陰から女中が挨拶をした状景などが思ひ出されます。景氣を擔ぐ人は、今でも宮詣りの時、自動車の屋根に澤山積み重ねて走らせてゐます。又犬張子にはでんでん太鼓や扇子などを麻で背に結び付けたものがあります。
犬張子は全国各地へ広がり、様々なバリエーションを生み出していきました。
東京笊冠りの犬
淺草邊に賣つてゐるもので、形といひ、誠に洗練されたものです。これを天井裏に吊るすと、子供の鼻が詰らないと云ふ。若し詰まつたら、この張子の鼻孔に焼火箸を通すと忽ちに鼻が通ると云ふ。効力極めてあらたかだと云はれます。又竹冠に犬は笑の字で、子供の機嫌がよいまぢないとも云ひます
斯様に列べみると、信仰のお蔭で、割合に之等の玩具は昔からの型をくづしてゐないことが判ります。そして尤も興味の深いことは、女の嫁入りにお伽犬筥を伴 ひ、嫁入人形に鯛狆などを配り、戌の日に岩田帶を結び、産室に犬筥を飾り、魔除けの犬張子に被せたる産衣を着せ、目笊冠つた犬張子に子供の機嫌を取り、夜 泣止の呪に法華寺のお守犬を柱に貼し、蟲除け蟲封じとて吉備津の犬や伏見の一文犬などを神棚に飾り、宮参りには扇子やでん〃太鼓を麻もて結びたる犬張子を 贈り、悪夢に怯えたる時はいんの子〃と唱へ、夜の外出には額に犬の字を書く等、母性と育兒に深い關係のあることで、又、稍々長じて祖父母の膝に桃太郎や花 咲爺の話を聞き、犬を伴として遊び、成長してからも番犬獵犬として養ひ、多くの愛犬家の如く一日も犬なしには生きて居られぬ、こんなに密接な關係を有する 動物は犬以外には決してないと云ふことです。
若し此世の中から、犬の玩具を去り、犬を去るとしたら、人生は如何に寂寞たるものでありませう。して見れば、ワンと云つても犬は幸福です。
いずれも高橋狗佛『傳説と信仰から見た犬の玩具の諸相(昭和8年)』より
母体の安全を願い、我が子の成長を願う、その想いを託した犬筥と犬張子。これも人と犬の関係が純朴な信仰へ結びついた結果であるのでしょう。
近來摂津天王寺の邊、壽法寺といへる浄土宗の寺院に、年來養はれし犬あり。平生に朝夕役僧出て鐘を撞くに、経を誦し念佛を唱ふる事、其法にして怠る事なし。
然るに此犬、其時に及べば、役僧に従い來つて讀経称名の聲につれて吠る事、宛も人の経文を誦が如し。
尤も他に出る事ありとも、必ず其時刻には帰りて如此(かくのごとく)勤むる事、一日も闕くる事なかしりとぞ。是等も必ず佛縁に依て、人間界に生をうくるなるべし」
暁鐘成『寺院の犬経を讀む(嘉永7年)』より