何に!猫の墓なんチウものがあるのかい。
なんて誰でも不思議がるが、こゝ東京にだけでも墓地が三ケ所もあると言ふから驚ろかさざるを得ない。
その中でも一番大仕掛けなのは犬猫の寺として有名な大塚の西信寺が持つてゐる大泉の墓地で、こゝには約一萬五千體のニヤン公の霊が祀つてある。
大抵は棒切れ一本立てゝ「××家愛猫くろ之墓」なんて風にしてあるが、仕合せな奴は立派な石碑まで立てゝ貰つてゐる。
猫も人間とご同様に暑さ寒さにはやられるらしく、この時が一番死亡者が多いとお寺の話。

『猫のお墓参り(昭和11年)』より

ペットはいつか死にます。AIBOみたいなロボット犬は壊れても動かなくなるだけですが、動物の遺骸はどうにかして処分しなければなりません。
昔の人も、ペットを飼っていた以上は彼らへの愛情をもっていました。その死を悼み、遺骸を処理し、慰霊をしていたのです。
ペットたちが存在した証は、「個々の家庭の思い出」としていつかは消えてしまいます。
それゆえペット慰霊は公の記録に残りにくく、結果として「昔の日本人は動物愛護精神に欠けていた」とか勘違いする人も現れる訳ですね。
今回はペット慰霊史のお話を。

犬

このような施設に需要があった通り、多くの愛犬家たちがペットの死を悼んでいたのです(昭和11年の広告より)

【近世日本のペット慰霊】

ペットを慈しむ心は、今も昔も一緒。
西洋式の動物愛護が普及する以前は、当時の日本なりの愛護というものもありました。
「昔の日本人には動物愛護精神が欠けていた」などと実しやかに語る人もいますが、時代や社会環境の移り変わりも考慮せず、現代目線でモノゴトを決めつけられても困ります。
「昔の日本人は~」などと極論を喚く前に、日本全国に残された近世~近代の犬の墓碑でも調べて見たら如何でしょう?
ああ、調べるのが面倒くさい?それは失礼しました。

まず、武家階級が残した犬の墓の記録を。
当時の犬としては大変恵まれた生涯を送った彼らは、死後も手厚く葬られました。

犬

画像は、佐土原藩主島津忠徹の夫人である随真院(随姫)が江戸から日向佐土原へ移り住んだ際、一緒に連れて来た愛犬「福」の墓。「香林女轉性慈福霊」の文字と生前の福に関する説明文が刻まれています。
安政5年頃に武蔵国で生まれ、明治2年に日向の佐土原県(廃藩置県で宮崎県となるのは明治6年)で死んだ福は、犬でありながら佐土原藩主の墓域に葬られました。
※佐土原というのはアレです、「妖怪首おいてけ」こと島津豊久が治政していた場所です。

明治己己二年
香林女轉性慈福霊
十月二十一日


藩知事島津公母夫人嘗有所畜小狆
藩知事島津公母夫人 嘗て畜(やしな)ふ所の小狆有り
本武州糀街生世也
本 武州(武蔵の国)糀街の生れなり
自従地召育側馴致異他也

自ら地に行きて召し 側に育み 馴致すること他に異れり
然彼狆漸六歳而具日州佐土原日月鍾愛尤篤

然して彼の狆 漸く六歳にして日州佐土原(日向の佐土原)に具し 日月鍾愛すること尤も篤し
焉平日抱襟懐臥衣裾夜則護寝室
平日は襟懐に抱き 衣裾臥せしめ 夜は則ち寝室に護る
凡見異色人雖白昼吠之
凡そ異色の人に見ゆ 白昼と雖も之に吠ゆ
曩致鹿府此時亦具乗與須臾不去
曩に鹿府(江戸)に到る 此の時も亦具して與に乗り 須臾(僅かの間)も去らず
我側馴致浴恩為日久矣
我が側に馴致し 恩に浴すること為に日久し
明治二年自己初夏老躬漸痺麻鼈躄 
明治二年自己初夏 老躬(老いた体)漸く痺麻し 鼈躄(足が弱ること)たり 
医薬無験如睡十月廿一日終歿
医薬験無く 睡るが如く十月二十一日終に没す
我囲鳴乎痛哉

我囲(狆の檻)に鳴けり 痛(いたまし)いかな
享年十有二也
享年十有二なり
是以追慕之情乞僧埋葬大池山
是に追慕の情を以て僧に乞ひ 大池山に埋葬す
嘗聴昔仲尼之畜狆歿 
嘗て聴く 昔仲尼(孔子)の畜狆没す
使門人子貢埋之曰
門人子貢をして之を埋めしめて曰く 
吾聞之弊旧帷不棄為埋馬

吾之を聞く 弊旧帷(破れて古くなった帷)棄てざるは 馬を埋めんが為なり
弊古蓋不棄為埋犬也

弊古蓋(古くなった馬車の屋根)棄てざるは 犬を埋めんが為なりと(※禮記掲載の、愛馬や愛犬を埋葬する際、その上に帷や屋根を載せて覆いにするという故事)
夫人亦慣之託佛子受経馬蓋
夫人も亦之に慣ひ 仏子(仏門の人)に託し 経を受け 馬蓋して埋葬す
十二年間以馴致吾側

十二年間 以に我側に馴致す
故欲使後人建一小碑
故に後人(後世の人)をして一小碑を建て 
以傳無躬而己矣
以て無躬(永遠)に傳へしめんと欲するのみ
※翻訳は、高橋論氏「お犬さま」より

特権階級のペットだから、それこそ特殊な事例じゃないか!極論喚いてるのはどっちだよ!
とかお怒りのかたもいらっしゃる筈。
では、庶民が残した犬の墓の記録をどうぞ。

帝國ノ犬達-暁鐘成
江戸時代の絵師、暁鐘成の愛犬「皓(しろ)」の墓。その身を犠牲に盗賊の襲撃から守ってくれた皓を、鐘成さんは天保山に埋葬。後に暗峠へ墓碑を移設しました。
「闇上峠犬墳」より 嘉永7年

河内國暗嶺の半腹街道の傍に犬塚あり
犬塚の前は山口屋といへる旅店なり
此墳は予が建てるところにして始め外方(※天保山)にありしかども故ありてこゝに移し
塚の傍に櫻楓数株を植へ置きしが今は頗る盛木して春秋の眺めを増せり
碑の形は硯屏の如くつくり前に犬の形を刻して臺石上にある石面に鐫して曰く

館皓寶獣之碑
暁鐘成子 曾有所愛畜之狗名皓 是歳秋八月廿一日曉天 踰墻露臥 乍為狗賊所害矣 主人不堪悲愛
既獲其骸於郊外 既収磁甕以痊諸于□□山下請僧追悼 竝将慰他衆狗所害之霊友人浦高積為述之
銘曰
嗚呼霊獣 生愛死惜 埋封建碑 其魂茲宅
天保六歳乙未九月廿一日 暁鐘成 立

身分を問わず、いつの時代にも犬嫌いがいました。
身分を問わず、いつの時代にも愛犬家がいました。
そんな当たり前の事すら理解できず、「昔の日本人は~」で十把一絡げに断じるのは、大変乱暴な話です。

動物愛護精神が顕著に表れるのは、動物の死に際してでしょう。
文明開化で牛鍋が流行した際、牛肉の供給源は農耕牛に頼っていました。肉牛や豚の大規模飼育は始まっておらず、馬肉や焼き鳥が普及するのもしばらく後の話。
不足する牛肉を調達するには農耕牛を使うしかなかったのです。
肉牛の調達に農家を廻る食肉業者は「この牛は養老院へ入れるんですよ」と嘘をついていました。一緒に働いて来た牛馬を鍋の具にするなど、農家にとってはとんでもない話だったのです。
牛肉不足の影響により、馬や犬の肉で増量した「偽装牛肉」も出現。治安当局が抜き打ち検査までする事態となっています。


犬
昭和10年の広告より

【近代日本とペット慰霊】

食用となる家畜と共に、カメ(洋犬)の渡来によって庶民が飼うペットの数も激増。
やがて、家畜やペットの慰霊行事も広まっていきます。愛馬・愛犬・愛猫の葬儀を挙げた人の記録も古くからありますよね。
これら多数のペット達を埋葬する為、明治時代には動物霊園が出現しました。


犬
通常、斃死した家畜やペットの遺骸処分はこのような施設に委託されていました(画像を一部処理しています)。
昭和10年の広告より


動物の墓や供養碑の話は珍しくもありませんが、動物墓地が出現するのは明治時代あたりから。
練馬区にある西信寺別院大泉動物霊園が開設されたのは明治41年、現在地に移ったのは昭和6年とのことです。

愛犬の死について、埋葬場所が幾らでもあった地方はともかく、都市部の愛犬家は結構困っていたのでしょう。
宗教・道徳的な理由や愛護精神は勿論、何よりも衛生上の問題がありました。
遺骸を道端へ捨てる訳にもいきませんからね。

戦前、犬猫が死んだ場合の処置は3通りありました。
1.所有する土地(自宅の庭など)に埋葬する
2.最寄の化成所に持ち込み、資源(皮革・肥料)として処理して貰う
3.ペット葬儀社や動物霊園への依頼


このような集団墓地が、現在のペット霊園へと繋がっていくのです。


帝國ノ犬達-西信寺

「犬を可愛がる気持、猫を寵玩する心持は我が愛児を慈しむと少しも変りません。
番犬、猟犬、軍用犬等は人間と同じやうにめざましい働きをするではありませんか。
動物愛護運動の中心は馬と犬になつたことも説明するまでもありません。
それらの愛用してゐた犬(又は猫)が病気其他で死亡した場合は、その霊を慰め、埋葬供養することは人として當然の至情であります。
そして生存中の労を追弔し、死後の転生菩提を祈ることは徳禽獣に及ぶの金言に則る、まことに麗はしい美風、慈悲、博愛の極致であります。
死んだから捨てゝしまへ、死んだからどこへでも処分しろでは余りにも惨酷な仕打ちです。
『犬猫にも寺を持たせよ』といふ運動は廿余年前に仏教徒の仲間から起り、唯一のその寺として本院が出来てから既に廿五年を経て来ました。
唯埋めるだけでしたら死後の慰霊にはなりますまい。
宗教的精神で、犬猫の寺で、犬猫の墓へ埋葬弔祭塔婆供養することが何よりも大切であります」
西信寺 昭和9年

昭和11年、西信寺ペット霊園は都市計画法の対象として公園化されました。
個人レベルで行われていた動物慰霊が、公的にも受け入れられるようになったのです。

犬猫の寺として創業参拾年の古い歴史をもつ東京小石川大塚上町西信寺では、社会風致(※都市における自然美の維持保存)都市衛生上の好施設として、犬猫動物の埋葬供養を営んでゐるが、専属の動物墓地は板橋區北大泉の景勝の地にあり、大泉風致地區に隣接してゐるので、今回警視廳の慫慂と許可を受けて、動物墓地の公園化を行ひ、世界に於けるこの種施設としては最初の設備を完全にすることゝなつた。
先づ場内に、無煙無臭の完全なる火葬爐(人體同様の重油電気爐)を藻王家、斎場、禮拝堂、納骨堂、動物慰霊供養塔等を建て、本殿、庫裡、展墓者休息所等も完備して、六百萬市民行楽の風致區に一點景を添へる。
第一期工事の総経費は約弐萬五千圓で、火葬設備は五月中に、其他は今秋までに完成の豫定である。

「西信寺の犬猫墓地公園化」より

帝國ノ犬達-大泉霊園
昭和11年頃の大泉霊園。このように無数の犬猫たちが埋葬されていました。
犬猫、牛馬や鳥あたりならまだしも、金魚や爬虫類まで埋葬していた墓地も大正時代に現れています。


帝國ノ犬達-大泉霊園
愛猫美位公のお墓を訪れた入江さん。卒塔婆ばかりではなく、このように立派なお墓もありました。
因みに、猫を埋葬する人は下町の芸者さんが多かったとか。

帝國ノ犬達-大泉霊園
霊園に埋葬したらオシマイではなく、春秋のお彼岸には供養がおこなわれていました。
毎回欠かさず通う愛犬家、愛猫家も少なくなかったそうです。

ペット霊園も土地の限界があるので、土葬から火葬へと移行していきました。
この動きは昭和10年前後のことだとされています。上記の公園化もそうですが、行政と霊園の間で何かしらの交渉でもあったのでしょうか?ペットだけではなく、行政側としては野良犬や野良猫の遺骸も供養する必要がありましたから。
その辺の記録を載せておきましょう。ペット霊園の将来を含め、興味深い内容となっています。

東京府下志村動物墓地では去る一月、従来行はれてゐた生態のまゝの動物埋葬を取止め、金一萬圓を投じて電気炉を設け、人間並みに死屍を焼却することを始めた。
遺骨はこれを納骨堂に入れる筈で、禮拝所の設備もすることになり、目下工事を急いでゐる。
多摩動物墓地でも、近く電気焼却とする筈で、既に許可済みとなり、電気爐設備の準備中である。
該埋葬所は畜犬の死屍を取扱ふばかりでなく、街頭に行倒れとなる野良犬、猫の共同墓地ともなつてゐるが、この行倒れの仲間も相當多く、市域だけでも犬猫を合して年に二千頭から三千頭の数に上つてゐる。
行倒れ犬猫の救済者は東京市で、市清掃課では一頭につき七十五銭を負担し、これを葬つて霊を慰めてゐるが、動物墓地改装を機に、一つ犬猫その他の綜合墓地、引いてはこれを美化して公園たらしめ、動物の霊を祀ると共に、漫遊外客に我が國動物愛護の精神を知らしむる大霊場にまで進めたらどうだらうか。
まだ我國には競馬に出場する名馬等を祀る所もない様な次第であるから、競馬協會あたりと結びついてこの計畫を進めたらよくはないか。
といふ意見が一部の人の間に唱えられてゐる。

白木正光「動物墓地の美化」より 昭和11年

犬


帝國ノ犬達-葬祭
このように、ペット葬儀会社も既に登場していました。
昭和10年の広告より


家畜やペットはいつか死を迎えます。その他、夥しい数の野良犬や野良猫も存在しました。
動物愛護や都市衛生を含めた観点からも、最後に辿りつく場として動物墓地の整備は喜ばしい流れでした。
しかし翌年、日中戦争が勃発。戦況が激化するにつれ、愛犬家や愛猫家の出征、飼料不足、ペット飼育への白眼視等により飼育者は激減。ペット霊園の情報も見かけなくなります。
やがて、日本の動物愛護運動は軍用動物愛護へと変貌していきました。

(次回に続く)