「悪夢のような光景は、現実だった。ガスマスクと少女たち」
とかいうタイトルの記事が、ハフィントンポスト日本語版(2015年4月6日付)に掲載されておりました。
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/06/gasmask-schoolgirl_n_7009590.html?utm_hp_ref=japan
●当時の民間用防毒マスクには、面体へのキャニスター(吸収缶)直結型と、ホースを介して接続する分離型が存在しました。
「これはコラージュではない。戦前の日本で実際にあった光景だ。写真家の堀野正雄さん(故人)が1936年に撮影した。二・二六事件直後の戒厳令下で、旧東京市内で実施された防空演習の模様と見られており、時事新報の報道でも使われている。
戦争の足音が近づく中、ガスマスクを身につけて行進する少女たちは、何を思ったのだろうか」
該当記事より
こういう、中身や考証が薄っぺらなくせに大仰な文章って大嫌い。
モノモノしいタイトルの割に、「化学戦と防空演習との関連」や「ガスマスク行進に学生が動員された理由」すら一切の説明ナシ。
「少女たちは何を思ったのだろうか」って?「暑い~」「戒厳令とかダルい~」程度でしょう。まだ日中戦争が始まる前ですし(226事件の戒厳令が解除されたのは、ガスマスク行進の翌週でした)。
各家庭に防空用ガスマスクが配布された戦争後期と違い、昭和11年の段階でガスマスク行進が実施された理由は何だったのか。
●自宅の書庫を漁るとイロイロ出てきました。
●これらはガスマスク行進の翌年、昭和12年7月に開催された関西の防空演習チラシ。同じ月には盧溝橋事件が起き、第二次上海事変、南京侵略へと衝突は拡大して行きます。
仮想敵との軍事衝突が杞憂に終わればよかったのですが、日本は化学戦へと突っ走っていきました。
ガスマスク行進から2年後、日中戦争が勃発します。
生物化学兵器を実戦投入する日本軍に対し、中国軍の化学兵器生産や化学戦遂行能力は貧弱なものでした(日本側の記録でも、「塩素ガスらしき化学剤の攻撃を受けた」や「撤退する中国軍が井戸に細菌入りアンプルを投入した」といった内容程度。実際に中国側が化学戦を仕掛けたのか、日本側のプロパガンダだったのかすら不明です)。
しかし満ソ国境で対峙するソ連軍は大規模な化学戦部隊を擁しており、日本側も警戒する理由はあったのです。ゆえに、関東軍を中心として防毒装備の開発研究・生産支給には多大な労力が投じられていました。
●レーダーの黎明期は、目視と通信による防空警戒網が主流でした。
現代日本の感覚では理解しにくいのですが(理解したくもないんですけど)、防空演習でガスマスクを使用するのは特に珍しくもありません。第一次大戦における大規模化学戦の惨禍から、枢軸側・連合国側を問わず大量のガスマスクを製造・支給しています(戦争映画ではドイツ軍兵士が腰に金属製コンテナを掛けていますけど、アレがガスマスク収納容器です)。
第二次大戦では各国とも化学兵器の実戦投入を躊躇し、兵士が携行するガスマスクは出番ナシ。せいぜい防寒や防炎(携行ロケット砲の発射炎が顔に直撃するのを防ぐ)目的くらいにしか使わなかったとか。
サリンジャーの『エズミに捧ぐ』では、主人公の兵士が邪魔になったガスマスクを海へ放り込んでいましたね。
●第一次世界大戦時のツェッペリン飛行船団などによる空襲は、やがて大型爆撃機へバトンタッチ。民間への被害も拡大していきました。
そのような国際情勢を鑑みることなく、大量の化学兵器を投入していた日本軍。
張鼓峰事件ではソ連軍兵士がガスマスクを携行しているので、日本が「化学兵器を使いかねない危険な国」と見做されていたことも分かります。
日本本土決戦では、米軍側も化学兵器の使用を計画。お互いが化学兵器の使用を牽制し合っていた欧州各国と違い、日本の戦争は恐怖の応酬へと発展する可能性があったのです(遥かに凶悪な核兵器を使われたんですけどね)。
●軍事的な防空演習と併行して、銃後国民への啓発を目的とした防空運動もなされました。これが冒頭のガスマスク行進です。
第一次大戦で地上のボンベからプシューッと散布していた頃は、風まかせの低速で襲来する毒ガスへ対処する時間的余裕もありました。
しかしその後、航空機の時代が到来。「高速で飛来する敵機が化学兵器を都市部に投下する」という恐怖が現実化します。防毒装備の行き届いた戦場の兵士ではなく、後方地域の無力な一般市民が狙われるようになったのです。
その危機意識を国民に持たせようとしたのが、冒頭のガスマスク行進。
本土空襲や外国軍隊に占領された経験のある国、臨戦態勢の国ではその傾向も顕著でした。イギリス、ソビエト、イスラエルあたりの市民用・児童用防空ガスマスクは、昔から日本のサープラス市場でもよく見かけます。
他にも「アゴヒゲを生やしていたら、マスクに隙間ができて毒ガスが侵入する(イラン・イラク戦争での死亡例あり)」とか、「着用中に居眠りすると、無意識のうちにマスクを脱いでしまったりする」とか、「暑いと蒸れる」とか、「眼鏡着用者は予備レンズが必要」とか、「専用の水筒とチューブが無いと水分補給できない」とか、未訓練ではなかなか扱いにくいシロモノなのです。
【実際のガスマスク行進について】
で、ガスマスク行進なんですけど、調べれば当時の記録は残っております。
参考までに写真を載せておきますね。
日本女子體育専門學校のガスマスク少女隊。ハフィントンポスト記事とは別アングルからの撮影。
この夏大々的に帝都を中心に行はれる防空演習の意義を強調する爲め、六月二十七、八兩日東京市に於て、東京市聯合防護團の主催の許に擧行されたが、そのメインイヴエントとしての防空宣傳行進には我が東京支部(※帝國軍用犬協會東京支部)も参加して、都下五百萬の市民の腦裡に「備へよ、空に」のスローガンを叩き込んだ。
嚠喨と吹き鳴らす三〇人の喇叭隊を先頭に續く、我等が軍用犬隊三〇頭、犬も指導手もいづれもマスクに武装して、我等が支部長坂本閣下(坂本健吉騎兵少将)のマスク姿を先頭に、第一班長大橋道夫氏、第二班長永田春人氏、第三班長中田喜八郎氏に指導され乍ら整々と進む。
日本騎道少年団のガスマスク騎馬隊は何を思ったのだろうか(なお、馬の鼻先に装着してある袋状の物体は馬匹用ガスマスクです)。
ガスマスク少年団は何を(以下略)
その次が少年團一〇〇名、愛國婦人會五〇名、日本女子體育専門學校學生の一〇〇名、青年團一〇〇名、三〇〇名の防護團、三〇騎の日本騎道少年團、人も馬も犬も、蒸し暑い梅雨空の下、瀧なす汗もいとはず防毒マスクに面を包み、京橋小學校―三原橋―尾張町―新橋―日比谷公園と二八〇〇米の都大路を行進した。日比谷公園では一同整列、宮城遥拝、國歌斉唱、萬歳を三度唱へて解散した。
『空襲!備へよ空に(昭和11年)』より
【防空演習とレスキュー犬】
ここは犬のブログなので、少女ではなくワンコを中心に述べます。
レスキュー犬や直轄警察犬制度が空白だったこの時代、それらの任務は陸軍負傷兵捜索犬や在郷軍用犬が担っていました。
ガスマスク行進に参加した帝国軍用犬協会(KV)義勇軍犬隊第三班のメンバーと愛犬がこちら。
写真の男性、軍服ではなく背広姿ですね。
実は彼、軍人ではなく一般市民。ワンコも日本軍所属犬(軍犬)ではなく、民間のペット(在郷軍用犬)なのです(犬用ガスマスクのみ軍用品)。
ガスマスク行進が行政や民間主導であった証拠ともいえるでしょう。
KV義勇軍犬隊とは、空襲被災地で救助活動などを支援する民間ボランティア組織でした。参加する犬は、すべて日本軍レベルの負傷兵捜索訓練や伝令訓練を受けています。
ちなみに、ワンコが装着している犬用防毒面は製造企業(たぶん藤倉工業)からのレンタル品。同時期には、関西で開催された防空演習にも貸し出されています。
当ブログでは女学生ではなく、この演習に参加したヒトやイヌやウマが被っていたガスマスクに注目しましょう。
女学生たちが着用していたのは、マスクにフィルターを直結するタイプでしたね。
重量が分散できるホース型はかさばる反面、マスク部分の軽量化とフィルターの大型化ができるので長時間の着用も容易です。
全重量が頭部にかかる直結型は、コンパクトな反面フィルターも小型化せざるを得ません。まあ、双方の差異は携帯性と濾過能力くらいですか。
いずれも呼吸器系に作用するガスや火災の煙には効果があるものの、皮膚から浸透するびらん性ガスや神経ガス、一酸化炭素中毒には無力でした。
兵士用、児童用、馬用、犬用の各種ガスマスクがこちら(馬は鼻呼吸なので、防毒マスクも上アゴに噛ませる袋状となっています)。
活性炭フィルターを備えたニンゲン用ガスマスクと比べ、馬用やワンコ用ガスマスクはどう見てもタダの布袋です。
フィルター部分が無いのは、動物用マスク自体が濾過能力を持っていたから。
汚染された外気は、マスクの面体を通して吸い込まれます。その過程で、マスクの生地に含ませた中和剤によって毒ガスの成分を浄化する構造になっていました。
●日本軍馬用の防毒覆(糜爛性ガスから馬を護るガスシート)です。モチロン馬サイズなので、これを撮影するのも大変だったんですよ。
ちなみに軍犬の防毒装備はガスマスクと防毒脚絆で構成、軍鳩はガス襲来とともに放鳥して退避する手段がとられます。
本土空襲に晒された戦争後期になると、民間人にも簡易型防空ガスマスクが配給されます。
私の祖母の遺品からも、経年劣化でボロボロになった防空ガスマスクが出てきました。どう見ても「無いよりマシ」な程度のシロモノでしたが、国民を安心させるためのアイテムとしては効果的だったのでしょう。
その時期になると、牧歌的だったKV義勇軍犬隊も本土決戦に備えたペットの動員へと変貌していきました。
昭和19年末、帝国軍用犬協会は陸軍の指揮下で活動する準軍事組織「国防犬隊」の設立を発表。会員へ参加を呼びかけた直後、活動を停止します。
戦争末期の郷土防衛は、民間のペット頼りに陥っていたのです。
同時期には厚生省と軍需省の指導による畜犬献納運動もスタート。国防犬隊へ動員されるシェパード、治安維持にあたる警察犬、鳥獣の毛皮を供給する猟犬、天然記念物指定の日本犬以外のペットは、警察の管轄下で毛皮にされてしまいました。
破局へ突き進む戦時日本は、国民の生命財産(ペットを含む)をイケニエとし、国体護持を叫んだのです。
●戦争後期の防空運動は、ガスマスク行進から実際の消火訓練へ移行しました。
画像は防空頭巾、保護眼鏡、手袋、マスクという貧弱な装備で訓練中の婦人会。腹部に装着しているのは消火弾を収納するチェストリグです。
ガスマスク行進から8年経っても、国民は消火剤やバケツリレーで空襲に立ち向かおうとしていました。
※焼夷弾の脅威自体は第一次世界大戦時から叫ばれていましたが、その対策は建屋単位での消火作業に終始しています。都市ごと炎上させる米軍の戦略を、日本側は甘く見積もっていたワケですね。
まだ本土上空を敵機が飛び交う逼迫した状況でもなく、満州事変と日中戦争の合間に開催されたガスマスク行進。それを切り口として日本の防空史を掘り下げることもできたのに、ハフィントンポストの記事が昭和11年6月で思考停止するのは勿体ないですね。
メディアとして何かしらの歴史批評をしたいのであれば、「戦前のガスマスク少女」ではなく「太平洋戦争突入後の防空演習」を取り上げるべきでしょう。
つまり、絶対国防圏を突破されても迫りくる本土空襲の危機から目をそらし、戦略上の無能無策を精神論で糊塗し、そのツケを国民の血で贖った時期のことです。
しかしまあ、もんぺ姿の国防婦人会員よりガスマスク女学生の方が読者にはウケますよね。ご事情はお察しいたします。
●ガスマスク行進中のKV義勇軍犬隊。彼らの任務は、爆風で倒壊した家屋での被災者レスキュー、電話線断絶に備えた伝令支援、敵スパイの追跡などでした。
●沿道の人気をさらつて堂々と示威行進する帝國軍用犬協會義勇軍犬隊。
さすがに先頭のブラスバンドはガスマスク無しです。
日中開戦前ですから、この頃想定されていたのは「防空網を突破した敵機による空襲」でした。無敵の日本軍機から撃墜されまくり(想定)、日本上空に到達できる敵機はごく少数の筈(願望)。
10年も経たずにB29戦略爆撃機の大編隊が頭上に現れるなど、誰も想像すらしていなかったのです。