(イヌ)
いぬる也 
主人になつきてはなれぬ物也
故に他所に引よせてよき食を飼へども もとの主人の所へいぬる也
久志くつなぎ於けばその主人になつきてかへらず


(オホカミ)
大咬也
口ひろくして大にかむ也


貝原益軒『日本釈名(元禄12年)』より

帝國ノ犬達-はにわ
ハニハニ。

【日本の犬たち】

大晦日に急な仕事で呼び出され、ヘトヘトになって事務所へ戻った元旦の朝。帰宅前に、近所の代々木八幡宮へ立ち寄りました。
早朝にもかかわらず初詣客で賑わう境内の一隅には、 発掘された縄文時代の住居が復元展示してあります(当時はこの一帯に集落が形成されていたとのこと)。
5000年前、この丘で暮らしていた一家はどのような正月を迎えたのでしょうか?その頃は「正月」なんて概念はありませんし、明けましてオメデタイどころか厳しい冬を生き延びるので精一杯だった筈。
それから長い年月を経て、子孫である我々は同じ地で平和なお正月を迎えているのです。

この丘で縄文人が暮らしていた頃すでに、日本列島へ犬が渡来して何千年もが過ぎていました。もしかしたら、この家でも犬を飼っていたのかもしれませんね。

帝國ノ犬達-山犬

イヌはオオカミを祖先とする動物です。
日本列島にも古くからイヌとオオカミが棲んでいました。大陸のどこかでオオカミ(ニホンオオカミの祖先)から分岐したイヌは、縄文人とともに日本列島へ渡来したのです。
日本各地へ定着した犬達は、大陸からの渡来犬と交雑しつつ「地犬」の系統を形成していきました(日本犬の多くが地域名を冠するのは、そういう由来からです)。

縄文から現代へ至る一万年間には、様々な出来事がありました。狩猟採集社会から農耕社会への移行で耕作地の収奪戦はクニを誕生させ、権力層は次々と入れ替わり、様々な宗教が混在し、社会構造は複雑化し、多様な文化が生れては消えてゆきました。海外との交流、繰返される戦乱や自然災害、飢饉や疫病によって人々の生活も大きな影響を受けました。
日本に暮らす犬達もまた同じ。海外へ逃げられない彼らは、日本社会の変化に翻弄されつつ生きてきたのです。
近代に入ると「日本のエリア」は海外へと膨張。日本犬界も、南樺太、朝鮮半島、台湾、そして満州国の犬界とネットワークを形成していきました。
それらも全て、昭和20年の敗戦を待たずに戦時体制下で崩壊します。

日本列島および外地(南樺太、朝鮮半島、台湾など、画像のオレンジ色の部分)が近代日本犬界。これに満州国犬界が加わります。
戦前の犬について調べる場合、それらの地域性も考慮しましょう。

【戦前否定のはじまり】

戦後復興期から高度経済成長期にかけ、日本犬界は再起しました。
そして21世紀の現在、日本では保健所へ登録すれば普通に犬を飼うことができます。
多種多様な品種が流通しており、それぞれの飼育法も本やネットで調べることができます。
ペット店へ行けば、犬に関する飼育用具やフードが豊富に揃っています。
愛犬が病気になれば、かかりつけの獣医さんに診て貰うこともできます。狂犬病は撲滅され、ジステンパーやフィラリアへの予防手段も確立されました。
宗教的な理由や行政の介入による飼育上の制約もありません。狩られて食用にされる心配もありません。
死んだ愛犬を動物霊園で弔うこともできます。行政機関へ殺処分を押し付ける飼育放棄も合法で、そんな犬を救うための里親制度もあります。
当たり前のように犬を飼えるこの社会は、どのようにして構築されたのでしょうか?

よく見かけるのが「日本のペット文化は、戦後にアメリカから持ち込まれた」とかいう回答。
これを軽々しく用いる解説者は、戦前の記録を真面目に調べていません。調べていれば、イヤでもその表現には慎重になるハズ。
「戦前の記録を調べるのは面倒だから、戦後にアメリカから持ち込まれたことにしよう」と誤魔化しているだけです。
戦時体制に協力した世代の愛犬家は沈黙を守りますし、質問した側も「なんだ、戦前のことは調べなくていいのか」と思考停止するのでウソがバレる心配もありません。タチが悪いことに、犬の歴史を教える側が学びの機会を奪ってきたのです。
誰も調べ方を教えてくれないので、「戦前犬界を研究したレポートの参考文献が、戦後に出版された書籍ばかりだった」という笑い話も珍しくありません。
ウソをついてもバレないんだから無駄な努力はおやめなさい。すべてアメリカ合衆国が与えてくれたことにすればいいでしょう?
そのような「進駐軍論者」の主張は、下記のような戦前否定が中心です。

曰く、「戦前の日本人には犬の知識など無かった」

へえ、そうですか。知識もないのに、明治時代のハンターたちはポインターやセッターのような鳥猟犬をどうやって使いこなしていたの?

明治34年、河井氏とポインターによる猟果。明治20年代にはスポーツ・ハンティングが普及し、欧米からは高性能の猟銃、ガンドッグ、そして飼育訓練のノウハウが導入されました。


大正時代、佐竹義春侯爵と愛犬リーム(セッター)の猟果。各地の猟友会を介して西洋式の猟犬訓練法が情報共有され、そのレベルは飛躍的に向上していきます。

明治時代にはお金持ちのステータスシンボルだったポインターも、大正時代までに全国へ普及。鳥猟界から和犬を駆逐してしまいました。

 曰く、「戦前には犬の専門書など無く、知識も得られなかった」

犬の飼育訓練マニュアルなんて、明治時代からたくさん出版されています。海外書籍で智識を吸収した愛犬家たちは、それを基礎に国内向けの飼育訓練法を広めました。
ちなみに、日本陸軍が招聘したアウギュスト・アンゴーの『獵犬訓練説』が邦訳されたのは明治15年です。

犬
戦前に発行された軍部や民間の飼育訓練マニュアル。これのテキストによって、犬の飼育知識は急速に普及しました。

曰く、「一般庶民が愛玩犬を飼うようになったのは戦後からである」

愛玩犬なんか江戸時代から飼っていますし、戦前の日本では『月刊ドッグ』『犬の研究』などといったペット雑誌も人気でした。
明治時代から「畜犬取締規則」や「畜犬税」の制度が施行されたのは、当然ながら「畜犬(ペット)」と「野犬」が区別されていたからです。

畜犬行政は、明治初期から全国各府県で確立されていました(画像は滋賀県における畜犬取締規則『布達明治9年3月甲第145號』)。

犬
ペットのグリフォンと遊ぶ小野少年(大正6年撮影)

軍事利用されたシェパードも、子供たちにとっては家族の一員でした(昭和13年撮影)

曰く、「犬専門のペット商は、戦後にアメリカから持ち込まれた業種である」

ナルホド。それでは、明治時代に創業したペットショップのカタログをご覧ください。
当時におけるカメ(洋犬)の流行も、輸入・繁殖・流通を担う畜犬商が可能とした訳です(鉄道や海路の整備により、明治中期には犬の通販もスタートしています)。

犬
明治30年創業の畜犬商「大日本獵犬商會」。大正時代に洋犬の輸入が拡大すると、ペットショップも激増していきます。

犬
新橋にあったペットショップ「國際ケンネルス」。各種サイズのハウス、仔犬通販用の柳行李やオートバイ、大型のグレート・デーンから小型の日本テリアまで揃っています(昭和10年撮影)

帝國ノ犬達-大東京畜犬商組合
詐欺行為をはたらく悪徳ペット業者を排除するため、全国各地で畜犬商組合が結成されました(昭和9年)

曰く、「日本の犬猫病院は、戦後に登場したのである」

では、明治時代に開業した犬猫病院の広告をどうぞ。当時の愛犬家にも、かかりつけの獣医さんが必要でしたからね。
西洋式の教育を受けた新時代の獣医師たちが、ペット医療の先駆者となったのです。
日本の獣医学史は畜産医療の分野だけではありません。

明治20年代には須貝獣医の中央犬病院、明治30年代には窪野家畜病院、桑名家畜病院、須永家畜病院などの犬猫病院が開業。
もともと牛が専門だった窪野獣医師は、都市開発によって牧場が郊外へ移転していった日露戦争前後からペット医療への転向をはかりました(明治39年の広告より)

犬
大正時代の東京エリアだけ見ても犬猫病院はたくさんありますね。それらが支える、多くの顧客(愛犬家)がいたワケです。

関東大震災から1週間後の大正12年9月9日、被災地の東葛家畜病院亀戸分院で狂犬病予防注射を受けたポチ。「戦前に犬猫病院は存在しなかった」という妄言は、このような獣医師たちの努力を否定する行為です。

曰く、「戦前の日本人は犬への愛護精神など持たなかった」

在日外国人が西洋的動物愛護観を啓発した日本人道会、宗教家が虐待防止を訴えた動物愛護会など、皇族、軍部、行政、教育機関、警察などを巻き込んだ動物愛護運動は明治時代からスタートしています。
昭和4年の東京オリンピック誘致運動を機に「国際的地位向上のため、犬への虐待を改めよう」という声もあがりました。
しかし戦争が激化すると、従来の「動物愛護運動」は「軍用動物愛護」へ変貌。戦地へ軍馬・軍鳩・軍犬を送り込むための免罪符となってしまいます。

犬
飼育放棄されたペットの収容施設運営、警察官や児童への動物虐待防止教育を展開した「日本人道会」は、バーネット大佐夫人ら在日外国人が主導する西洋的動物愛護団体でした。

犬
動物虐待防止会など、宗教家主導の愛護団体もありました。日本で初出版された『フランダースの犬』は、明治時代の子供たちに動物愛護精神を伝える目的で宗教家の日高柿軒が邦訳したものです(明治41年)

犬
ペットを埋葬する土地がない都市部では、愛犬家や愛猫家のため宗教施設が動物霊園を提供していました(その他、行政のペット遺骸処理施設として化成所も存在)。

曰く、「日本初のドッグフードは、戦後に進駐軍が持ち込んだ」

それでは戦前のドッグフード広告をご覧ください。日米貿易は幕末から始まっているのに、「戦後まで輸入されなかった」と考える方がおかしいのです。
舶来品のみならず国産のウェットフード、ドライフード、各種サプリメントも戦前から販売されていました。

帝國ノ犬達-スプラッツ
昭和8年に輸入されていた英国製ドッグフード。残飯を与えていた飼主もいれば、愛犬の食餌に気を遣う飼主もいました。

帝國ノ犬達-ドッグフード
ちなみに昭和13年(日中開戦の翌年)、国産ドッグフードも発売されております。

曰く、「ポメラニアンやパグやプードルは戦後に来日した品種」

来日したのは大正時代。マルチーズやボルゾイやアフガンハウンド、チワワやアイリッシュ・ウルフハウンドも戦前に輸入されています。
大正元年の東京朝日新聞には来日したパグとボルゾイの写真が載っているので、国会図書館などでお確かめください(幕末の開国後、日本人は多種多様な洋犬を輸入しまくっていました)。

帝國ノ犬達-ポメラニアン
戦前の日本で飼育されていたポメラニアン(昭和9年の広告より)

犬
大正12年開催の大日本愛犬保護會第一回畜犬共進會(静岡県)に出陳されたプードル「ブヤン」。

大正初期に煙草王・村田吉兵衛が輸入したボルゾイ。既に国内繁殖も始まっていました。

曰く、「忠犬ハチ公は軍国主義教育に利用されたのである」

それでは『オンヲ忘レルナ』の何行目が軍国教育に該当するのか、具体的に説明してください。当時の教師用指導要領にも「国民・社会人・学友・家族としての礼節を教える教材」としか書いてませんけど。
「封建的な家族主義とか、情操教育用の教材じゃないの?」という疑問すら持たないのは何で?
……まさかとは思いますが、読みもせずに批判していませんか?

帝國ノ犬達-恩を忘れるな
忠犬ハチ公教材『尋常小學修身書 巻二 二十六 オン ヲ 忘レル ナ』。ハチが渋谷駅へ通っていた事実を伝えるだけの内容であり、「ハチ公を見倣ってお国に尽くせ」などとは一文字も書いてありません。

犬
ちなみに、軍国教育の教材に該当するのは『小學國語讀本 巻五 二十二 犬のてがら』の方です。『オンヲ忘レルナ』の秋田犬と、『犬のてがら』のシェパードを混同していませんか?
軍国教育を論じる場合、画像のような教師用指導要領にも目を通しておきましょう(そもそも「軍国教育の定義」は存在するの?)。

曰く、「狂犬病対策は戦時中に始まった」

狂犬病対策としての野犬駆除は、明治初期からはじまっています。
ただし、警察の野犬駆除と農商務省の狂犬病対策は境界が曖昧でした。
転機となったのが、明治26年の長崎県における狂犬病大流行です。非常事態へ追い込まれた長崎病院では、明治29年にパスツール式予防注射を導入。人体実験に等しい強行策でしたが、犠牲者は激減しました。
これを機に、畜産防疫を管轄する農商務省は狂犬病を家畜伝染病に指定。更には内務省が「農商務省には公衆衛生のノウハウがない」と狂犬病対策の移管を要求し、昭和4年度から警察の畜犬行政と統合した狂犬病対策をはかります。

神奈川県の子安農園から山梨県へやってきたラフコリーたち。狂犬病発生地の場合、地域間の家畜移動が制限されることもありました(昭和9年)

狂犬病
「廃犬(飼育放棄されたペットのこと)」は、三日間の猶予期間に引き取り手が現れない場合、化成所で皮革に処理されるか、実験動物として大学や研究機関へ払い下げられました。

曰く、「戦時中、軍部がシェパードを強奪したのである」

強奪なんかしていたら、誰もシェパードを飼わなくなってしまいます。
陸軍による民間シェパードの調達業務は、軍部と飼主による売買契約が原則。民間資源母体を長期維持するには、強奪と購買のどちらが良いかくらい日本軍も理解していました(「シェパードを売りたい飼主」と、「シェパードを買いたい陸軍」の仲介窓口として設立されたのが帝国軍用犬協会です)。
こちらが「軍犬購買会」の開催通知。昭和8~19年度の記録が大量に残っているので、根拠のない強奪説は否定できるのです。

帝國ノ犬達-軍犬購買
帝国軍用犬協会による軍犬購買会公告。「希望者」とある通り、犬を売りたい飼主を事前に募っていました。

犬
こちらが帝国軍用犬協会の登録犬籍簿。シェパードはSKZ、ドーベルマンはDKZ、エアデールはAKZの頭文字で管理区分されていました。
大正3年に来日したシェパードは、昭和3年頃から飼育頭数が増加。昭和12年の日中開戦時点でSKZの登録総数が2万2千頭に達していたことも分かります。強奪などしなくても、これだけ多くの飼主が、「大手就職先である陸軍」へ愛犬の売却を希望していたワケですね(敗戦までの累計登録数は6万数千頭)。

曰く、「戦時中のペット強奪なんて嘘だ!日本人はそんな事しない!」

軍犬の購買調達と違い、ペットの毛皮供出は強奪に等しい行為でした。
皮革資源の最大輸出国である中国と交戦状態に入ったことで、軍需皮革の確保を急ぐ商工省は「皮革配給統制規則」を制定。昭和14年の規則改正で、三味線の革(野犬の加工革のみ)も統制対象とします。
食糧難の到来を予測した農林省も、「犬に回す食料はない」として国民精神総動員運動を利用したペットの殺処分を提唱。耐乏生活を強いられた一般市民も「ペットを飼うのは贅沢だ」と同調圧力を高めます。
さらに物資不足が深刻化した昭和19年末、厚生省と軍需省(旧商工省)は全国の知事宛てにペットの毛皮献納を通達。それに従って各地の警察署はペットを殺処分しました。

帝國ノ犬達-犬の特攻隊
警察署からペット供出を呼びかける隣組回覧板(当時の畜犬行政は警察が管轄)。これは、従来の野犬駆除を利用して遂行されました。
警察が殺処分したペットの遺骸を皮革業界が製革・集荷し、皮革統制機関を通じて軍部へ配給する社会的分業システムが確立されていたのです。
しかし、多くの論者が取り上げるのは「犬を奪われた国民」と「犬皮の消費者である軍部」の両端部分のみ。両者をつなぐ「中央省庁・地方行政機関・皮革業界・皮革配給システムを俯瞰する視点」が欠落した結果、ペットの毛皮供出は妄想や憶測で語られる惨状へ陥りました。

曰く、「出征した軍犬は、一頭も帰国しなかった」

15年に亘る戦争の間、満州事変から日中戦争前期にかけては何頭もの軍犬が戦地から帰国しています。彼らが一頭も帰国できなかったのは敗戦時のお話。
帰国した軍犬に対し「悲劇のストーリーに都合が悪いから、お前たちの存在は認めない」と言い放つ現代人の思考回路は、帰還した特攻隊員に死ぬまで再出撃を命じた軍部と同レベルです。

犬
第二次上海事変を戦い抜き、凱旋部隊と共に帰国。故郷仙台の飼主宅へ戻った軍犬フリーダ(昭和14年の功労犬表彰より)

国内部隊に残留していた軍犬は、戦後に飼主宅へ戻れたケースもありました。

曰く、「日本のレスキュー犬や麻薬探知犬は戦後に誕生した」

明治35年の八甲田山遭難事件では既に救助犬が投入されていますし、日本陸軍の負傷兵捜索犬が誕生したのは大正時代のことです。
また、青島公安局や満州国税関では、港湾や国境線の密輸対策に阿片探知犬を訓練していました。

犬
日本陸軍歩兵学校による赤倉山麓での雪中レスキュー訓練

満州国税関では青島公安局阿片探知犬のノウハウを導入、満朝国境での阿片密輸取締りで運用しました。

曰く、「日本初の国産民間盲導犬は戦後に誕生した」

戦時中には陸軍省医務局がドイツから輸入した失明軍人誘導犬の他に、アルフやエルダーなど何頭もの民間盲導犬が活動していました。
示路(北海道犬)や勝利(紀州犬)といった、盲導日本犬もいたのです。

帝國ノ犬達-誘導犬記
昭和14年、ドイツから輸入された戦盲軍人誘導犬「ボド」と「リタ」(陸軍省医務局『戰盲勇士の誘導犬記』より)

盲導犬
北海道犬の示路号による誘導実演。主人の三上氏に寄り添い、日々の通勤を支えていました(昭和15年)

勝利
大阪府で主人の大味氏を誘導していた紀州犬の勝利號(昭和15年)

 以上、犬の近代史に関する通説や常識は間違いだらけですね。「戦後から~」「進駐軍が~」で全てを誤魔化してきた、これが近代日本犬界史の惨状です。
自国の犬の歴史すら知らないのです、ワレワレ日本人は。
古代から現代まで、犬の歴史はひと続きのもの。「敗戦でリセットされた」と思い込むあまり、人々は戦前を断絶してしまうのでしょう。

過去の教訓を忘れた時、この先同じ間違いや失敗を繰返したり、余計な回り道をする派目になるかもしれません。その犠牲となるのは犬たちです。
「より良い将来」へ向かう為に、日本人と犬が今まで辿って来た一万年を早送りで振返ってみましょう。

【戦後の日本犬界】

帝國ノ犬達-戦後
昭和20年代より、かつての「敵国」からの犬の輸入も再開されました(昭和34年の広告より)

昭和20年、日本は総力戦の末に敗北します。それから始まる混乱と物資不足の時代、人々に犬を飼う余裕などありませんでした。頭数回復と共に狂犬病も復活し、犬への敵視は続きました。
日本犬は辛うじて生き延びたものの、孤立の果てに迫害された闘犬界はほぼ壊滅状態。畜犬団体やペットショップが活動を再開するのは、出征していた愛犬家たちが復員する昭和23~25年頃からです。
特にシェパード界の復興スピードは驚異的で、戦後数年で全国の支部を復活させてしまいました。昭和25年以降は海外からのペット輸入も再開され、続く昭和30年代の高度成長経済期になると、日本犬界は完全復活。昭和31年には狂犬病の撲滅にも成功し、動物愛護精神の普及、飼育マナーの向上も「犬への敵視」を減らす効果がありました。
やがてテレビやインターネットの時代を経て、「犬のネットワーク」は飛躍的に広域化。こうやって現代日本犬界は形成されたのです。
いっぽうで戦中世代の愛犬家は軍部へ全責任を押しつけたまま沈黙し、次世代への記録継承には失敗。戦後犬界は自ら記憶喪失へと陥りました。
それでは、戦時中の状況はどうだったのでしょうか?

【戦時の日本犬界】

帝國ノ犬達-軍用犬班
満州方面に展開していた関東軍の軍犬班(昭和16年)

昭和6年満州事変以降、日本犬界では軍犬報国運動が拡大されていきます。
昭和12年の第二次上海事変で、日本軍犬班は大損害を被ります。新たに購買調達された民間の軍用犬が続々と戦地へ出征し(巨大な民間ペット界を支えに)日本は東洋最大の軍犬運用国へ成長を遂げました。
いっぽうで「国家の役に立たない犬」は厳しい冬の時代が到来します。昭和13年には駆除野犬の革が商工省の統制下に置かれ、国家の資源として配給され始めました。
太平洋戦争へ突入すると、海外からの畜犬輸入ルートも途絶。「贅沢は敵だ!」をスローガンとする国民精神総動員運動により「ペットの飼育も贅沢である」という同調圧力も高まります。
戦況が悪化した昭和19年末、厚生省と軍需省は飼犬の毛皮供出を全国の知事へ通達。それに従い、ペットが大量殺処分されました。
昭和20年、空襲によって国内各地は焼け野原となり、日本犬界は終戦を待たずに崩壊したのです。

戦時中がこのような状況なら、戦前の日本犬界もひたすら暗鬱な時代だったのでしょうか?
実は、そうではありません。

【戦前の日本犬界】

帝國ノ犬達-ワイヤー展覧会
昭和8年10月8日、大阪難波高島屋屋上で開催されたワイヤーヘアードフォックステリア鑑賞會。戦前、このような品評会は全国各地で開催されていました。

関東大震災の傷跡、昭和恐慌などにも関わらず、日本犬界は飛躍的な発展を遂げます。
昭和3年には日本犬保存会と日本シェパード倶楽部(NSC)が発足。続いて、各種テリア、ドーベルマン、グレートデーン、ボルゾイ、狆、コリーといった犬の愛好団体も続々と設立されました。我が国に、純粋な意味での愛犬団体が生れたのです。
日本犬保存会は、消滅しかけていた日本犬の保護活動を展開。文部省も、日本在来犬種を次々と天然記念物に指定しました(日本犬復活の決定打となったのが忠犬ハチ公ブームですね)。
また、牧羊業界が小規模な日本でのシェパード普及策として、NSCは陸軍に接近。この方針はドイツ式訓練ノウハウを欲していた陸軍側とも合致し、日本のシェパードは軍用適種犬としての途を歩み始めました。
満州事変が勃発した昭和6年9月18日、日本陸軍の犬が初めて実戦投入されます。翌年には日本海軍も軍犬を採用し、満州国では関東軍、満州国軍、満鉄、税関、国境警察がそれぞれ警備犬チームを配備。満洲国防衛のため、犬の軍事利用は拡大していきました。

昭和犬界が飛躍するための足掛かりとなったのが大正時代です。

【大正の日本犬界】

帝國ノ犬達-ダックスフント
大正2年に撮影されたダックスフントとフォックステリア

輸入される洋犬の種類が激増した大正時代。ボルゾイやパグ、続いてパピヨン、ボストンテリア、ポメラニアンなども来日し始めます。
犬の品評会も盛んに開催されていますが、大部分は愛犬団体ではなく畜犬商の主催によるもの。要するに顧客への接待が目的だった訳です(入賞を巡って袖の下も横行していました)。
また、大正元年には警視庁が直轄警察犬制度を採用。続いて大正8年には日本陸軍が軍用犬研究に着手しています。こうして、「公的機関の犬」も登場したのでした。
ようやく花開いた関東犬界も、大正12年の関東大震災によって壊滅。以降、大正犬界の中心地は国際港神戸を有する関西へと移りました。
これを形成する基礎となったのが、近代化へ歩み始めた明治時代です。

【明治の日本犬界】

帝國ノ犬達-犬

幕末の開国によって、日本には多数の洋犬が渡来しました。それまで武家や豪商のステータスシンボルだった唐犬や南蛮犬を、一般庶民が飼育できるようになったのです。
カメと呼ばれた洋犬は、珍しい舶来の犬として、優秀な猟犬として、僅か20年ほどで全国へ勢力を拡大。殖産興業による牧羊の推進で、種畜場では牧羊犬も導入されました。
各地に根付いていた和犬は、洋犬と交雑することで急速に姿を消していきます(いっぽうで、土佐闘犬のような品種も作出されていますね)。
カメの普及は、日本人の犬へ対する価値観も変えました。「その辺をうろつく獣」は対価を払って入手するペットとなり、その飼育技術や訓練法にも西洋のノウハウが導入されます。西洋式の教育を受けた獣医師がデビューし、畜犬輸入ルートが確立し、そして纏まった「顧客」の出現によって、ペット商や犬猫病院の市場が確立。
いっぽう、野犬による被害や狂犬病を阻止する為、行政機関は畜犬取締りへ踏み切りました。警察署への飼育登録、畜犬税の徴収、野犬駆除、狂犬病豫防注射の施行、飼育マナー向上の啓発。それに伴って動物愛護団体が設立されたのも明治時代です。
また、海外犬界と接触する機会も増えました。極端な例が明治37年の日露戦争で、軍馬の知識しかない日本軍は、馬と鳩と犬を駆使するロシア軍に驚愕します。
近代化へ邁進する明治日本では、日本人と犬の関係も大きく変化したのです。

西洋文明を導入する前の日本犬界は、一体どのような姿だったのでしょう?

【中・近世の日本犬界】

帝國ノ犬達-暁鐘成
「予若かりしより、犬の野井戸に陥りて既に死せんとし、又池に陥りて上り得ず、田圃の肥溜の土坪に落て、苦むものを助くる事五六箇度に及べり。尤も犬は各〃異にして自他の差別なし」
こうやって犬を可愛がれば恩に報いてくれることもあるのよ、という江戸時代の説話。
絵と文・暁鐘成『犬、火難を告る』より 嘉永7年

中世から戦国時代にかけては、権力層が次々と入れ替わり、相次ぐ戦乱や飢饉で人心は荒れていました。
そのような時代にも、日本人と犬は共に暮らし続けます。愛犬家が多かったことは、「花咲か爺さん」など犬の昔話がたくさんある事からもわかりますよね。
大名は外国から輸入される唐犬や南蛮犬や狆を愛好しましたし、庶民にとっても猟犬や番犬は身近な存在でした。
しかし、多くの人にとっての犬は、何の價値もない不快な獣に過ぎません。仏教の制約にもかかわらず、犬肉食も全国各地で見られました。
これを引っ繰り返した出来事が、将軍徳川綱吉の発した「生類憐の令」です。トップのワガママで人々を苦しめたこの法令ですが、日本に犬の登録制度や野犬保護施設、獣医師などを生んだという功績もありました(犬公方様が亡くなると共に、犬への報復が始まる訳ですが)。
唐犬や南蛮犬が「高価な希少犬」だったことで、和犬の交雑化が避けられたのも幸いでした。

それが崩壊したのは開国へ踏み切った幕末期のこと。江戸末期から明治20年代にかけて、海外から大量の洋犬が渡来しました。
近代化へ邁進する明治日本では、犬の世界も大きく変化していったのです。

前置きが長くなりました。
次回より、犬の日本史を辿っていきます。