「諸君、犬は猛獣である。馬を斃し、たまさかには獅子と戦つてさへし之を征服するとかいふではないか。さもありなむと私はひとり淋しく首肯してゐるのだ。
あの犬の、鋭い牙を見るがよい。ただものでは無い。いまは、あのやうに街路で無心のふうを装ひ、とるにも足らぬものの如く自ら卑下して、芥箱を覗きまはつたりなどして見せてゐるが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂ひ、その本性を曝露するか、わかつたものでは無い。
犬は必ず鎖に固くしばりつけて置くべきである。少しの油断もあつてはならぬ。
世の多くの飼ひ主は、自ら恐ろしき猛獣を養ひ、之に日々わづかの残飯を與へてゐるといふ理由だけにて、全くこの猛獣に心をゆるし、エスや、エスやなど、氣楽に呼んで、さながら家族のい狆の如く身邊に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引つぱらせて大笑ひしてゐる圖にいたつては、戦慄、眼を蓋はざるを得ないのである。
不意に、わんと言つて喰ひついたら、どうする氣だらう。氣をつけなければならぬ。飼ひ主でさへ、噛みつかれぬとは保證でき難い猛獣を、(飼ひ主だから、絶對に喰ひつかれぬといふことは愚かな氣のいい迷信に過ぎない。あの恐ろしい牙のある以上、必ず噛む。決して噛まないといふことを、科學的に證明できる筈は無いのである。)その猛獣を 、放し飼ひにして、往來をうろうろ徘徊させて置くとは、どんなものであらうか。
昨年の晩秋、私の友人が、ついに之の被害を受けた。いたましい犠牲者である。
友人の話に依ると、友人は何もせず横丁を懐手してぶらぶら歩いてゐると、犬が道路上にちやんと坐つてゐた。友人は、やはり何もせず、その犬の傍を通つた。
犬はその時、いやな横目を使つたといふ。何事もなく通りすぎた、とたん、わんと言つて右の脚に喰ひついたといふ。
災難である。一瞬のことである。友人は、茫然自失したといふ。
ややあつて、くやし涙が沸いて出た。さもありなむ、と私は、やはり淋しく首肯してゐる。
さうなつてしまつたら、ほんとうに、どうしようも、無いではないか。友人は、痛む足をひきずつて病院へ行き、手當を受けた。それから二十一日間、病院へ通つたのである。三週間である。脚の傷がなほつても、體内に狂水病(原文ママ)といふいまはしい病氣の毒が、あるひは注入されて在るかも知れぬといふ懸念から、その防毒の注射をしてもらはなねばならぬのである。飼ひ主に談判するなど、その友人の弱氣を以てしては、とてもできぬことである。ぢつと堪へて、おのれの不運に溜息ついてゐるだけなのである。
しかも、注射代など決して安いものでなく、そのやうな餘分の貯へは失禮ながら友人に在る筈もなく、いづれは苦しい算段をしたにちがひないので、とにかく之は、ひどい災難である。大災難である。
また、うつかり注射でも怠たらうものなら、狂水病といつて、發熱悩乱の苦しみ在つて、果ては貌が犬に似て來て、四つ這いになり、只わんわんと吠ゆるばかりだといふ、そんな凄惨な病氣になるかも知れないといふことなのである。注射を受けながらの、友人の憂慮、不安は、どんなだつたらう。友人は苦労人で、ちやんとできた人であるから、醜く取り乱すことも無く、三七、二十一日病院に通ひ、注射を受けて、いまは元氣に立ち働いてゐるが、もし之が私だつたら、その犬、生かして置かないだらう」

太宰
画像と文は、「文學者」初掲載時の太宰治『畜犬談』より。内容とは全く関係ない挿絵が素敵です。

太宰
ついでに当時の書評を。いずれも昭和14年

太宰治の短編「畜犬談」では、戦時中における野犬の横行、飼主のマナー、狂犬病への恐怖感を知ることができます。

その後太宰さんは甲府へ転居し、なぜか大嫌いな野犬たちに馴つかれてしまい、更には仔犬のポチを飼う派目になってしまいました。
犬嫌いの小説家と卑屈な飼い犬が展開する、間抜けな心理戦。いますよね、拗ねたり媚びたり甘えたりと飼い主の顔色を窺うのが上手い犬。直球勝負で生きている「犬らしい犬」と違い、こちらの心を見透かしているような、人間じみた仕草の犬。

「私は仕方なく、この犬を、ポチなどと呼んでゐるのであるが、半年もともに住んでゐながら、いまだに私は、このポチを、一家のものとは思へない。他人の氣がするのである。しつくり行かない。不和である。お互ひ心理の讀み合ひに火花を散らして戰つてゐる。さうしてお互ひ、どうしても釈然と笑ひ合ふことができないのである(『畜犬談』より)」

厭だなあ、こんな主従関係。
犬への恐怖から太宰さんが編み出した必死の自衛策。それが裏目に出てポチとの共同生活が始まり、ポチへの嫌悪が皮膚病×酷暑×蚤の伝播によって殺意へと変貌していく様を楽しく読み終えて、「こんな話も書ける人だったのか」と感心しました。
メロスではなく畜犬談を小学校の教科書に載せていてくれたら、もっと早くこの小説家が好きになれたのに。

自分が如何に犬が嫌いであるかという事をクドクドと述べたこの作品ですが、太宰さんは本当に犬が嫌いだったのでしょうか?
彼の小説「正義と微笑」で、小犬が可愛くてタマラン状態となった芹川君の場面を読み返しながら、そんな疑問を感じました。

【戦前・戦中の狂犬病史】

狂犬病は、日本人に死の恐怖と犬への敵意を植え付けました。
たとえ咬んだのが感染犬ではなくても、犬の外見からは判断できない場合もあります。感染犬の判定は、「捕獲犬をしばらく繋留しての経過観察」か「殺処分した犬から脳を摘出、ウサギへの注射で発症を判断する検査方法」しかありません。咬んだ犬が逃げてしまった場合、被害者は発症の恐怖に怯え続けることとなりました。

「犬の狂犬病のため被害者が七十三名もあつたといふお話です。大正十年十月一日午後のことで、小石川區富坂警察署管内に起つたことです。同區氷川町野口某といふ會社員の無届犬(警察への未登録犬。当然予防注射もナシ)が突然狂犬病となり、自家の妻君を噛んでその儘外へ飛び出しました。
恰度往来が混雑し、砲兵工廠の職工が帰宅する時刻なので、犬は行き當りバツタリに喰ひつき、富阪署管内から駒込、巣鴨、大塚と四ケ署の警察管區を荒し廻り、被害者實に七十三名にも達しました。
この為め街は大混乱を呈し、通行人は姿を消す、電車は止る、決死の青年團が犬を追つてくり出すといふ騒ぎでありましたが、大塚署の君塚巡査部長外二名の警官が抜剣で漸く狂犬を退治し、さしもの騒ぎもやつと治つたのでした。
この退治された狂犬は素々野犬で、附近に徘徊するのを野口某氏が可哀相に思つて自分の畜犬にしたもので、それがこの様な騒動を惹き起し、主人公の恐縮たるや見るも気の毒であつたと云ひます。
早速七十三名の被害者に對して治療代や日當迄支拂つてそれが積り積つて二千数百圓に上り、貯金や金策では未だ金が足りず、全財産を抛つてやつと支拂が出来た始末。近所の人にも顔向けが出來ないとあつて、ある日夜逃げしてしまひました。其頃狂犬病に對しては比較的無関心であつた一般民衆に、一大騒動を與へましたことは申す迄もなく、狂犬病流行史上特筆大書するの値あるものであります」
警視廳衛生部 荒木芳蔵『狂犬病奇談』より

犬に嚙まれた場合、狂犬病の恐怖に慄く被害者の怒りは凄まじいものがありました。飼主への治療費請求を巡ってイザコザに発展する事もザラ。
咬まれた被害者が複数の場合、上記のように夜逃げに至った飼主もいたそうです。
それを調査する警察も、「どこの犬が噛んだのか」「狂犬病に感染しているのか」などを調べるのに大変な苦労を強いられました。


宮城縣の狂犬病予防ポスター 昭和6年

全国規模での必死の防疫活動、大正時代から大量に設立され始めた愛犬団体による飼育マナーの啓蒙、軍用犬飼育者に対する狂犬病注射の徹底(豫防注射證明の無い犬は軍用犬失格となります)など、昭和に入ると狂犬病発生件数も減少。「あと一歩で撲滅に成功するかも」と関係者に期待を抱かせるまでに至りました。
そのまま行政・獣医界・畜犬団体・飼育者が一丸となった取り組みを続けていれば、昭和10年代に狂犬病を根絶できたかもしれません。

「現在東京府下の畜犬は約五萬頭で、外に無届犬と野犬で五萬頭位、合はせて約十萬頭の犬族が東京市街から府下を俣に掛けて徘徊、横行して居るのである。
其れは警視庁で行つてゐる一箇年の野犬捕獲と買上犬が約三萬頭に上り、毎年之れを繰返してゐる統計を見ても明かである。日本内地の畜犬に近來大なる改良を施されて年々増加してゐるから、既に百數十萬頭となつてゐる事であらう。又あらゆる動物と人間にまで伝染し一旦發病すると百パーセントあの世に行かねばならぬと云ふ恐るべき狂犬病は、大正十三年に東京だけで七百二十六頭發生 し、全國では三千二百七十七頭に及んで居り、同年東京で狂犬病に罹つて死亡した患者二十名、全國では七百二十三名の患者(全部死亡)を出したが、愛犬家の 理解と官民一致の協力で漸次減少し、昨年と本年は東京で僅か三頭、人間の患者は一名もなく、地方では數年來、人間も犬も更に発生してないと云ふ好成績を現 はしてゐるのは真に同慶の次第である」
警視庁獣医課 犬の相談所主任 荒木芳蔵 昭和12年

犬
戦前の狂犬病ポスター。農林省の時代だから昭和18年以前ですね(大雑把な)。

しかし、時代は戦時下へと移行。昭和12年に日中戦争が始まると、軍用動物の健康管理を担うため獣医師たちも続々と出征します。
やがて物資不足は深刻化し、配給制度が始まり、太平洋戦争突入前後から犬の餌すら確保するのが難しくなると、人々はペットを手離しはじめました。「殺処分するのは忍びない」と、捨て犬にした人も多かったのです。
警視庁の記録では、昭和16年前後から犬の飼育登録数が激減するのと反比例して野犬の数が激増。それは、狂犬病の再燃を意味していました。

敗色濃厚となった戦争後期の状況はよく分かりません。幸いにも、昭和19年の狂犬病に関する記録が残されていました。

「最近帝都附近の軍犬人に取つて容易ならぬ嵐が訪れた。それは云ふまでもなく狂犬病の猛襲であつたのだ。既に帝都だけでも今年二月から九月末までに被害者七百十四名、内死亡十三名となつてゐる。此他千葉神奈川等を合する時は更に驚くべき數字に上り、實に近來にない大流行の厄年となつたのである。
勿論此數字の内には単なる咬傷によるものも多數含まれてゐるが、兎に角恐るべき状況にしていやしくも犬を飼育するものはたゞちに豫防注射は勿論、あらゆる對策を講じて一日も早く之れが終息を期さねばならないのは云ふまでもない事である。今や時局は愈々急。帝都空襲が必至を叫ばれてゐる折から之れが益々猖獗を極めんか、實に想像するに戦慄を禁じ得ないのである。
そこで當局者は遂に去る一日より都令を以て犬の移動禁止の挙に出たのである。之れが爲め俄かに恐慌を感じたのは先づ我々帝都の會員であつた。軍用犬と雖も犬である以上、一應此範疇に入らない譯には行かないのである。都としては急を要する法令に一々軍用犬、普通犬などの區別は到底不可能。且つ軍用犬が今や重要なる活兵器として軍が要望しつゝある事實は深く知る由もないのである。故にかく一律に犬と規制したのは止を得ない事と云へよう。
然し乍ら最近軍用犬は単なる犬と同一視は絶對許されないのである。かゝる主要戰力に繋がる軍用犬をいつまでも罐詰にする時は、最早活兵器の補充は望めないのである。何ともなればこれ等の交配分譲等の為め移行する事が、即ち其増産を促す所以であるからである。
しかも我々會員犬には未だ一頭の該病の事實は聞かないのである。言はんや輸送全體の數に於ても尚ほ微々たるもの。一寸常識的にも軍用犬の移動がたゞちに狂犬病に重要関係ありとは考へ難いのである。かく観じ來れば吾人は一日も早く之れが是正を當局者に切に望んで止まないのである」
武蔵野生『軍用犬と狂犬病(附輸送問題)』より 昭和19年

この訴えに対する帝國軍用犬協會の回答は下記の通り。

「御同感です。目下東京支部としても當局と折衝中です。しばらく御辛抱願ひます」

ちなみに交渉の結果は不明です。本土空襲が始まると、東京都側も狂犬病対策どころではなくなってしまったのでしょう。
同年末、帝國軍用犬協會は活動を停止。日本が敗北したのは、それから半年後のことでした。


(次回に続く)