日本犬を飼へとの宣傳が行届いたためか仔犬が無闇に賣れて、豊橋、濱松あたりの仔犬生産地へは關西、東京方面の犬屋さんから「仔犬送れ」の電報が乱れとぶ盛況である。此頃では流石の地元でも、註文に間に合はず、電報とにらめつくらで青息吐息とは嘘のやうな話である。

この日本犬流行に就いて大阪南海鳥獸店の廣瀬氏は「磯貝さんがあらゆる大衆雑誌や婦人雑誌に大々的に日本犬を飼へと宣傳して呉れるから、それを見て飼ふ氣になつた人が手近で買へる私共の店へ買ひに來るのです」と、さう云はれれば田舎ならともかく、大都會では手紙や爲替を送るよりデパートなどで實物を見て買つた方がどれ丈け手つ取り早く安心か知れない。
磯貝氏を商賣かたきとせず、ほめる廣瀬氏もえらい。關西地方の日本犬大型熱は愈よ熾烈で、裏日本を通つて秋田大舘と殆んど隣りつき合ひの有様である。今月はもうこれで何回大舘へ行つた人が尠ない程、往來も頻繁である。このところ東京は全くおいてけぼりの態である。
 
白木正光『犬界放送(昭和15年)』より

 

意外や意外、戦時中の昭和15年にも日本犬ブームは続いていたんですね。しかし翌年には太平洋戦争へ突入し、日本犬界にも暗雲が立ち込めていきます。

昭和6年の満州事変を機に日本犬界は親軍路線へ方針転換。昭和12年に日中戦争が始まると、日本ペット界は「国家の役に立つ有能犬(軍用犬、警察犬、猟犬、天然記念物)」と「非常時に無駄飯を食む無能犬(愛玩犬や闘犬)の集団」に二分されます。
 
これに拍車をかけたのが、「贅沢は敵だ!」を標語に掲げる国民精神総動員運動。

日中戦争が泥沼化すると華美な服装や電髪(パーマ)が白眼視され、太平洋戦争突入後はジャズや敵性語の自粛などへ拡大していきます。

誰が命じた訳でもないのに「この非常時にペットを飼うのは贅沢だ」という同調圧力も生れ、一般市民は犬の迫害に加担しました。
聖戦遂行という大義名分のもと、日本はペットの飼育すら許されない三流国へとおちぶれたのです。
 


昭和12年7月に撮影されたワンコ。ちょうどこの夏、大陸では盧溝橋事件が勃発していました。

【日本犬を軍用犬へ!】

戦争という愚行によって、せっかく復活した日本犬は多大な被害を受けました。
現代の日本犬関係者は、この悲劇を強く批判しています。

憤る気持ちは理解できますが、もう少し慎重になってください。批判はブーメランとなって自分たちへ跳ね返ってくるかもしれないのです。

日本犬界は「純粋な被害者サイド」なのでしょうか?
あの時代、戦時体制から逃れ得た畜犬団体など存在しないというのに(例えば、日本シェパード犬協会を「陸軍派の帝国軍用犬協会と対立していた純粋な愛犬団体」と捉える向きもありますが、実際のJSVは日本海軍に犬を供給していました。一事が万事、戦時犬界はそのような感じです)。

これまでの犬の戦時史は「善と悪の構図」という幼稚な視点で語られてきました。戦時犬界の実情を探るのではなく、歴史裁判ゴッコが目的だったワケです。

歴史解説と感想文を混同した結果、脚色された「善と悪の物語」が広まってしまいました。
 

帝国軍用犬協会と対峙した日本シェパード犬協会の淺田理事も、海軍へシェパ―ドを寄贈しています。戦時犬界は複雑な構図にありました(横須賀海軍軍需部資料より)。

 

日本犬愛好家は、本当に「国家の殺戮から日本犬を護った」のですか?「戦時体制へ迎合することで日本犬を護ろうとしたら、戦況悪化で流れ弾が飛んできた」の間違いではありませんか?

そもそも、彼らが言う「国家」とはどの中央省庁のこと?文部省の許可も得ずに、他省が勝手に天然記念物を殺戮できたの?
次々と愛犬団体が消えて行った戦時体制下で、シェパード団体や日本犬団体だけが活動を許されていた理由を考えたことがありますか?
国粋主義の時流を利用した、当時の日本犬保護活動について思い出してみましょう。
 

戦争の時代、日本犬界は陸軍省の「軍犬報国運動」や農林省の「猟犬報国運動」への協調路線をとります。
軍犬報国運動の対象はシェパード、ドーベルマン、エアデール界。猟犬報国運動はポインター、セタ、ビーグルあたり。だから他の犬種団体は我関せずを決め込んでいました。

そのような中、戦時体制への歩み寄りをはかったのが日本犬関係者だったのです。満州事変以降、チャンス到来とばかりに「日本犬を軍事利用しよう!」などと吹き上がっていたんですよ。
消滅の危機から救い出し、ようやく天然記念物指定へこぎつけた国の宝を、戦争へ巻き込もうとした犯人は愛犬家自身だったのです。
……連載初回で述べたとおり、日本犬の歴史は自省の心で振り返りましょう。下記のような主張を復活させないためにも。
 
從來日本犬の缺點は忠犬二君に仕へずで、日本獨特の武士道が犬にまで染みこんでゐる點だといはれた。これは日本人として嬉しいところだが、軍用犬としては犬係兵が入退營で交代する關係上、その點で缺點とされてゐるのだ。
帝國軍用犬協會の研究部が陸軍の指導を受けて昨年來研究實驗した結果は、その缺點とされた點まで杞憂であつたことが明らかにされ、日本犬の上に萬歳が叫ばれた。私の實驗によれば、生後七、八ヶ月から適當な方法で訓練を始めれば、立派に軍用犬になる。一生涯一人の主人の身に忠義を盡すといふ從來の通説を忽ちにして破り、私自身も實は驚いてゐる次第である。
現在世界各國で軍用犬として採用して居る主なものは、ドイツ・シエパード、エヤデール・テリヤ、ドウベルマンピンシエル、ロツトワイラー、ボクサーなどで、わが國であシエパード、エヤデール、ドーベルマンの三種を公認して居るが、兵員、經費などの關係で殘念ながら、必要なだけの犬を飼ひ得ない。世間では軍用犬といへばシエパードだと思つて居る人があるが、シエパードだつて訓練を施されなければ役には立たぬ。
訓練を施せば日本犬でも立派に役に立つことが判つた以上、今後の問題は優生學的に體高五十五センチ乃至六十センチのものを多く産ませるやう改良し、これを訓練する事である。
生きた兵器として馬と鳩と犬とが人氣ものになることを意識して犬をうまく改良訓練することは、愛犬家に課せられた一つの仕事である。まづ公認三犬種に日本犬を加へるやう運動をつゞけ、進んでは日本犬一種でも足るやうに、愛犬家の皆さんの努力を得たいものである。
 
某日本犬研究部員談『軍用犬としての日本犬(昭和11年)』より
 
イヌに武士道精神を押し付ける、愚かな思考が蔓延していた時代。
戦時体制へ加担したのは、一部の「急進派」ではありません。日本犬保存会の指導者たる斎藤弘吉ですら、このように主張していたのです。
 
よく訓練された日本犬なら、他の軍用適種犬に比して決して遜色のない働きをすると思ひます。が、日本犬の一番間違ひのない仕事は警戒であると思ひます。日本犬は警戒心が強く、且つ無暗に鳴かぬので敵に感知される憂も尠く、警戒、監視に使つてよいでせう。捜索も日本犬は元來が獵犬に使はれた犬ですから鼻がよくきゝ、殊に赤十字犬(※負傷兵捜索犬)として日本犬を使用したらば屹度好結果をあげると思ひます。しかし前記の警戒、赤十字犬に最も適任です。日本犬は一犬一主と云つても同じ軍服姿の軍人になれないと云ふことはなく、濫りに誰にも親しまないのは、却つて軍用犬として望ましいことではないかと思ひます。

斎藤弘談『日本犬に向く任務(昭和12年)』より

 

「国家に犬を奪われた」どころか、「国家の戦争に犬を役立てよう」と唱えていた日本犬愛好家たち。

それを一方的に批判することはできません。

すべては日本犬を護るための手段でした。当時の状況を考えると、国粋主義や軍国主義への迎合も仕方なかったのでしょう。

 

秋田犬
戦時体制への迎合は、日本犬協会などのライバル団体でも同じことでした(昭和15年)

【日本犬軍用化計画】

いくら日本犬愛好家や国粋主義者が「日本軍は日本犬を配備しろ!」とか喚いても、それは無理なハナシでした。

数年前まで無価値な駄犬扱いのうえ消滅寸前まで追いやっていた和犬を、どうやって増殖・資源母体化しろと?しかも、純血個体は天然記念物ですし。


日本陸軍が国産の土佐闘犬ではなく、わざわざドイツの牧羊犬種を選んだ理由を考えてみましょう。

シェパードが各国で主力軍用犬種となったのは、20世紀初頭から血統や訓練法が整備され(管理面のメリット)、その基盤を元に世界中で繁殖飼育され(調達面でのメリット)、第一次世界大戦でバトルプルーフされ(運用面でのメリット)ていたから。
復活に向けてようやく保存運動が軌道に乗ったばかりの日本犬は、血統が未整備で、飼育繁殖規模が貧弱で、近代戦の経験皆無で、訓練法すら確立されていない、「一人の主人にしか仕えないブシドー精神」とやらで軍犬兵との親和性すら欠如した、調達・管理・運用の条件をひとつも満たさない軍用不適格犬でした。
 
「満州事変が起きたから日本犬も軍用化しろ」などと行き当たりばったりの思いつきを叫ぶ日本犬団体と違い、日本シェパード界は大正時代から陸軍歩兵学校の軍用犬研究を支援し続け、歩校の軍人も日本シェパード倶楽部へ入会するなどの関係を構築していました。
長期的な展望や本気度が月とスッポンだったのです。
 
犬
軍犬報国運動への参入をはかる日本犬愛好家たちを、日本陸軍や帝国軍用犬協会はテキトーにあしらっていました。だって、シェパードがいれば充分でしたから(昭和11年)
 
日本犬の軍用化を疑問視した上で「敢えてそちらにチャレンジしよう!」と前向きに考えていた日保の幹部もいました。
こちらの谷川主事もその一人。
 

事單に軍用犬のみならず、凡ゆる軍用資源の充實は、國内産業に俟つてこそ、國家これにまさる強味はない。かく觀、かく言ふに及び、何故日本國陸軍が日本犬を軍用適種犬として公認しないのかの疑問に逢着するのである。この事に就て、最近帝國軍用犬協會「軍用犬」誌上に、陸軍の意を忖度憶測して、端的に次の如き理由からではなからうかと述べてゐるのである。
(原文のまゝ)
一、日本犬と一概に云つても、土着の各地方に依つて各形質を異にして、統一されたる一犬種を形作つてゐない事。
二、純粋種の數量が甚だ不足し、急激に増加する事が不可能なる事。
三、能力が實際的に研究せられてゐない事。
これ等は奇しくも正鵠を射た言である。さが國畜犬界一部の層の日本犬に對する認識程度に關する限りに於ては。然し、現在の日本犬の實状に關する限りは、寧ろこれ等は誹謗に等しい程の認識の不足でしかあり得ない(谷川三郎・昭和12年)」

犬

 

日本犬が軍用犬として適さない理由として、巷間日本犬の一代一主論を語るものがあるを聞く。若し本氣にさう信じ込んでゐる人があるとすれば、それは餘程のロマンチストである。
犬の一代一主など、よきと惡きと、好むと好まざるを問はず眞正な嘘である。日本犬と雖も所詮犬は犬以外の何ものでもなく、伯夷叔斉の傳説の眞似は出來ない。試みに僅かに身を屈する許りの窮屈な檻の中に閉ぢ込めて置いて、朝夕索運動に連れ出すことを數日繼續したら、その節操堅固も容易に篭絡する事が出來よう。日本犬が比較的容易に他人に馴れ難いといふのならば正しい。
確に八面玲瓏ではなく萬遍なく愛嬌を振りまく事も肯じない。この點朝に呉客を迎へ夕に越人を送る洋犬種とは聊か性情を異にするが、さりとて決して盛遠の妻たり得るものではない。純情な忠僕は常に第二の主家にも矢張りさうである。

兎に角、日本犬のワンマンドツグなど絶對に信ぜられない。あり得べからざる事で、たとへ修辞にせよ、事實を極端に誇張し、美化することによつて、厳粛なるものに祭り上げることは、詩の世界では許さるゝとしても現實では拒否す可きである(〃)」

 
 
仰るとおり。

……ここまで正しく日本犬を認識していながら、なぜか谷川さんはやる気マンマンでした。

 

今やわれ〃の環境は、刻々恐る可き擾乱のルツボの中に引き込まれんとしてゐる。此秋、眼を擴げ軍用日本犬の養成に眞劔に力を致す者はあるまいか(〃)

 

そして彼らは、日本犬軍用化研究に着手したのです。

犬
中山競馬場で持久走中のシェパードと日本犬

日中開戦前から、日本犬保存会は軍用犬界と交流していました。帝国軍用犬協会vs.日本犬保存会による耐久力競技会などもそのひとつ。

犬
 

この度、帝國軍用犬協會が耐久力試驗を行ふに當つて、率先して日本犬の参加を申出れたことは、計劃者の一人として感激もし、また新しいものに對する興味もあつて、非常に意義深いものに感ずる次第でありますが、こゝには只、耐久力試驗の意義と日本犬といふことに就いて一、二の實驗例を挙げて、お話したいと思ひます。
こんどの耐久力試驗では使役犬は競馬とか競犬と違つて、競争的意味を持たず、又競技的な意味も排撃する、といふ建前の下に行ふのであつて、獨逸のSVの耐久試験に於ても、五十粁の道程を一定時間内に一定の速度で走らせ、之を科學的に測定して、厳密に疲勞の度を調べてゐますが、使役犬の耐久力、速度判定についての徹底的な報告も、實驗もありません。


帝國軍用犬協會 関谷昌四郎『日本犬と耐久力テスト』より 


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中山競馬場へ集結した日本犬保存会および帝国軍用犬協会メンバーたち。なかなか燃えるイベントです。

犬

犬
タイム測定 一周一六〇○米の馬場を十三周するのであるが、この出發並到着點でその回數と時間を測つてゐる。

犬
ちなみに日保側の発表資料もあります。

犬
完備を誇る陸軍獣醫學校試験自動車

犬
第一検査場 検査は二十キロ走破直前、直後、十五分後、三十分後、四十分後の五回行つたが、此處では體温、脈搏、呼吸、血圧を同時に測定した。

犬
第二検査場 此處では體重の測定。不安そうなシェパード。
 

犬

第三検査場 筋力の測定は筋力計に依り、指導主の招呼にて跳び出す時の瞬間筋力を測つた。

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第四検査場 愈々血液検査に移る。先づ犬を手術臺上に載せ、前肢の静脈より採血した。次に屋外で訓練餘力と趾球傷の検査を行つた。

犬
 

犬

血液検査中の陸軍獣醫學校要員。

犬
途中で棄権したエアデールって、今田荘一大佐の愛犬だったんですね。

 
「競争的意味を持たず、又競技的な意味も排撃する、といふ建前の下に行ふ」はずだった持久走試験。しかし、結果発表はくだらないドングリの背比べとなってしまいます。
優れた耐久能力を発揮した甲斐犬の「チイ」と「ピン」がその悪しき事例。これが『昭和日本犬の檢討』をはじめとする媒体で報道されまくった結果、「甲斐犬はシェパードより優れた軍用適種犬」という迷信を生み出してしまったのです。
あげく「戦地に送られた甲斐は兵士に服従せず、脱走してしまった」というエピソード(出典不明)が武勇伝扱いされる始末。
ハンドラーの命令無視とか、コントロール不能の軍用失格犬じゃないですか。
各国の軍用動物を研究していたシェパード界と違い、和犬界には軍事知識の欠如からくる幼稚な精神論が目立ちます。
 

もっとも、甲斐犬の軍用化を叫んでいたのは民間の愛犬家だけ。陸軍は大量調達ができない甲斐犬を完全無視していました。

その証拠に、地元山梨の甲府連隊軍用犬班はシェパードのみで編成されています(同連隊で甲斐犬と関わったのは、愛犬「剣」を歩兵学校で訓練した大橋少佐くらいでしょうか。その剣も甲斐犬愛護會員へ預けられ、民間のペットとして一生を過ごしました)。
甲斐犬保護のためには、このような偽りの武勇伝も役に立ったのでしょう。行政機関もその価値を認め、甲斐犬は戦時毛皮供出の被害を免れました。
 
いっぽう第三席に甘んじたKVですが、「スピード面ではシェパードが圧倒した」という負け惜しみを発表。要するに、KV・日保はそれぞれ自分に都合のよい結果を宣伝していた訳ですね。
それを見た周囲は、シェパードと日本犬それぞれの特性ではなく、「どちらが優れているか」の優劣論として捉えてしまったのです。

そもそもドーベルマンは欠場、エアデールは途中棄権、ガチンコ勝負はシェパードと日本犬のみという歪な競技会だったんですけど。

耐久力競技は単発のイベントに過ぎませんでしたが、日本犬の軍用化研究は継続されました。本格的な事例として、秋田犬軍用化計画があげられます。
日保とKVは、耐久力競技の開催前から接近していました。

 

日本犬の軍用適種能力に關して研究する事は此際緊急を要する問題であるので、既報の通り研究部内に日本犬研究係を置く事となつたが、今回日本犬保存會側に於ても軍用犬研究委員の人選も左記の通り決定を見たので、最初の打合せ會を二月十六日午後五時、銀座の明菓楼上に於て開催した。
日本犬保存會軍用犬研究委員
板垣四郎、平岩米吉、北村勝哉、高野兵右衛門、小松真一、間庭秀信、齋藤弘、以上各氏


帝国軍用犬協会『愈々日本犬研究の第一歩踏出さる(昭和10年)』より

 

日保は研究を重ね、翌年には実地訓練まで漕ぎつけました。

犬
KV研究部による日本犬訓練視察。向って左端KV永田秀吉委員、右端日保の板垣四郎博士(昭和11年)

 

日本犬保存會の招きに依り、十二月二十一日午前三時から本協會研究部委員永田秀吉氏は世田谷區梅ケ丘の日本犬保存會附属訓練所に出張。日本犬の訓練状況を詳細に観察した。
保存會側は齋藤氏(斎藤弘吉)病氣の爲め、板垣博士、其他が出席した。先づ訓練犬は和賀號(岩手系、昭和八年五月生、牡)に依り、高飛、攀壁、編技障碍、休止、据座及び招呼、伏臥、匍匐、持來等を實演し、小島訓練士は赤號(岩手産、昭和九年二月生、牡)に依り、襲撃、犯人の護送、捜索等々を供覧した。
いづれも模範訓練犬なる事とて軍用三犬種に劣らぬ鮮かさを示し、薄暮終了した。尚協會からは永田氏の外に澤田博士、佐々木四郎氏が参觀した。


帝国軍用犬協会『日本犬訓練視察(昭和11年)』より

 

日保の軍事路線は、結局のところ何の成果も残していません。日本犬が帝国軍用犬協会の登録対象に追加されることもありませんでした。

これで日本犬軍用化計画が終わったワケではなく、日本陸軍も何頭かの日本犬をテストしています。
最初は(大正編で述べた通りの)歩兵学校軍用犬研究で、秋田犬や土佐闘犬が試験されたものの、シェパードに対抗するどころかポインターやカラフト犬以下の低評価であえなく失格。

昭和に入って戦争が始まると、前線でシェパードの調達が滞った場合を想定し、「その辺の雑種犬を代用できるか否か」の研究も進められました。

それらのテスト対象にも、何頭かの日本犬が用いられています。
 

犬
陸軍歩兵学校『雑犬の軍用的價値に就て(昭和11年)』より、研究対象となったテスト犬リスト。シナ、アソ、カサギが柴犬の雑種でした。

 

軍用日本犬は、国内の研究だけで終わったワケではありません。

昭和14年には秋田犬保存会から地元西田部隊が購買した「十和田」、日本犬保存会から弘前第8師団が購買した秋田犬「工(たくみ)」「勇」「四つ車」「晴」などが戦地へ出征しました。

しかし、日本軍が主力としたのは「武士道精神」「一人の主人に尽くす」とかいう窮屈な世界に縛られた日本犬ではなく、伝令・運搬・レスキュー・捜索・警戒までオールマイティに請け負えるドイツの牧羊犬でした。

天然記念物の日本犬は、せいぜい国威発揚に貢献してくれれば良かったのです。

軍用秋田犬の出征も、ごく少数のみで立ち消えとなりました。

 

当時の日本犬ブリーダーの中には、軍事訓練を売りにする人もいました。

 

【戦争と日本犬】

 

陸軍の暴走によって始まった日中戦争は泥沼状態へ陥ります。国民生活も次第に困窮し、ペットを飼う余裕も失われました。
これには、中央省庁の施策が影響しています。
昭和13年、軍需皮革の確保を急ぐ商工省は「皮革配給統制規則」を施行。翌年の規則改正で犬革(加工革のみ)を統制対象に含めました。
食糧難の到来を予測する農林省も「ペットに回す食料はない。駄犬は毛皮にすべき」と主張し、昭和14年の節米運動を機にマスコミもこれに加担。
同時期には「贅沢は敵だ!」を標語に掲げる国民精神総動員運動がスタートし、耐乏生活を強いられた一般市民は「ペットの飼育は贅沢である」という同調圧力を生み出しました。
戦時下で犬を迫害した最大勢力は、新聞やラジオで扇動された一般市民だったのです。
 

それでも気兼ねなく犬を飼えたのは昭和15年頃まで。太平洋戦争突入を境に、状況は悪化の一途を辿ります。

海外からの畜犬輸入ルートが途絶する中、日本列島に残留していた犬のみで繁殖・飼育が続けられました。物資や食料の不足は深刻化し、愛犬家たちは続々と戦地へ出征し、畜犬団体やペット雑誌も次々と活動を休止していきます。
 
たとえば警視庁の記録では、昭和16年を境に東京エリアの飼育登録数は激減(逆に野犬の数は増加)。物資不足や戦地出征によって、飼育を断念する愛犬家が続出したのです。
地方の愛好家へ疎開させようにも、受け入れ側の事情だって似たり寄ったり。

こうして飼育放棄された個体は、廃犬届によって殺処分されるか、野犬として駆除されていきました。

 

昭和15年、商工省は犬革(加工革)」から犬皮(原料皮)への皮革統制拡大を提唱。畜犬行政を主管する警察側の抱き込みをはかりました。

皮革業界を統制すれば犬革は確保できる筈ですが、そこへ至る前に野犬駆除業者から闇市場へ犬皮が流出していたのです(商工省の決めた皮革販売公定価格が不当に安かったので)。

「この協力体制が成立すれば、警察が所管するペットの飼育登録簿も皮革統制に利用できる」と考えた商工省は、駆除野犬だけではなくペットの資源化も画策しました。


再び訪れた日本犬消滅の危機。当時の状況については、僅かな記録しか残されていません。
その苦心談のひとつをどうぞ。

 

私は暫く犬を飼つては居りませんでしたが、關心を持つていることは、今もなお變りはありません。暫く振りで、昭和十七年に東洋號を手に入れてから、又犬に興味を持ち始め、翌十八年の秋田犬保存會大舘本部展の春の大會で、總一席の榮冠を得ました。翌十九年の春、一寸離した間に心なき者の爲め盗られたのであります。その中に食糧は愈よ窮屈となりましたので、以後ワン公と縁が遠くなつたのであります。元來、犬が好きである為、秋田犬即ち大型らしい犬が眼につくと、何時、何處で見てもすぐ眼をむけ、次第に足が鈍るといつた調子でした。
栗森信吉『昔の犬の鑑別法』より

 

飼うには飼えたけれど、毛皮目的で盗まれたり餌が確保できなかったりで大変だった様ですね。人々が犬の飼育を諦める中、日本犬保存会や日本犬協会のメンバーは必死で日本犬を守り通そうとします。

しかし、その努力にも限界がありました。

 

【戦時の畜犬供出】

 

米軍の反攻に伴い、南太平洋の拠点は次々と陥落。劣勢に陥った軍部が「絶対国防圏」を決定した昭和18年、上野動物園では猛獣が殺処分されるなど、内地でも不穏な空気が漂い始めます。
そして同年11月、ついに日本犬保存会も活動休止へ追い込まれました。組織的な日本犬保護の手段は断たれてしまったのです。

 

平林家畜病院『狂犬病予防注射控簿 昭和十三年十月廿七日以降』より、昭和18年12月の診察記録を抜粋

 
犬界が崩壊しても、まだ個々の飼主は残っていました。日保が活動を休止した年、東京の亀戸で開業していた犬猫病院の狂犬病予防注射記録をご覧ください。

柴犬、秋田犬、シェパード(セフ=セファード)はもちろん、「無能犬」呼ばわりされていたマルチーズや雑種犬も普通に飼われていますね。敵性語の自粛もどこ吹く風で、洋風の犬名も健在でした。

 

しかし、昭和19年夏にはサイパンが陥落。日本本土もB29爆撃機の攻撃圏内となりました。

国家消滅の危機において、イヌの都合など二の次です。
物資不足が深刻化した同年秋、厚生省と軍需省(旧商工省)はペットの毛皮献納を全国の知事へ通達。全国規模で犬猫が殺戮されました。

天然記念物指定の日本犬は供出対象から除外されたものの、愛するペットを毛皮にされた近隣の人々に対し「私が飼っているのは天然記念物です」などという正論が通じたのかどうか。「お前の犬だけ特別扱いが許されるのか?」という同調圧力により、泣く泣く毛皮にされた日本犬もいた筈です。

必死の生き残り策の中で、秋田犬とシェパードを交配したケースもあったのだとか(当時の記事を見ると、秋田犬保護というより軍用犬増産が目的だったと思われます)。

 

先ほど例に挙げた平林家畜病院では、昭和19年5月16日を最後に診察記載が中断しています。あの控簿に記されたペットたちも、多くが毛皮として献納されたのでしょう。

戦時下における獣医師の奮闘も、飼主の努力も、すべては無駄となりました。

日保の一線から退いた斉藤弘も20年5月の空襲で被災し、京都へ疎開。彼が収集した貴重な日本犬史料も灰と化します。

分散・孤立した日本犬愛好家たちは、空襲や官憲の影響が及ばぬ山間部に犬を疎開させながら、日々を生き延びていきました。

 

そんな時代の空気を全く読まず、我が道を邁進していた日本犬愛好家も存在します。

記事冒頭にも登場した、売名目的だと日本犬保存会から嫌われつつも日本犬を販売しまくっていた「日本犬柴犬研究所」。あの磯貝晴雄氏が戦争末期にも孤軍奮闘を続けていたのです。

全国でペットが殺戮されていた昭和20年3月の『週刊朝日』には、何と磯貝広告が載っているんですよね。

 

犬

……この非常時に「日本犬のお奨め」「粗食で節米でも安心」とか言われてもですね。「兎皮献納倍加運動」の一文がブラックジョークにしか見えません。

ちなみに、兎毛皮統制にあたった農林省も「都市衛生上の観点」を理由に野犬毛皮統制を実施しています。

 

地域によってペットの毛皮供出がザル状態だったのは知っています。しかし、あの状況下でペットを購入する顧客がいたのでしょうか?

前年11月から空襲を受けていた千駄ヶ谷で、どうやって犬舎を維持していたのでしょうか?そもそも、毛皮献納の行政指導をどうやって回避したのでしょうか?反抗し得る軍人や権力者どころか、磯貝さんは普通の薬剤師なのに。

空襲で被災した筈の日本犬柴犬研究所が、敗戦直後の昭和23年から広告を再開しているのにも驚かされます。なんというバイタリティ。

このような個々人の努力によって、我が国の宝である日本犬は戦時下を生き延びました。日本犬を護り抜いた愛犬家たちには、ただただ感謝しかありません。
 
アーロン・スキャブランド氏が著書で批判しているように、かつての日本犬保存運動は国粋主義を利用してきました。現代視点からすれば、甘んじて批判を受けるべき黒歴史なのでしょう。
しかし、それによって日本犬が生き残れたのも事実。
裁判官気取りの高尚な歴史批評よりも、日本犬存続という事実の方が文化的に百億万倍くらい価値があるんですよね。
センセイがたのご高説に従った歴史のifとして、戦時期に日本犬が絶滅したと仮定しましょう。
そのような日本犬界はアイデンティティを喪失した根無し草状態と化し、不毛な「幻の日本犬論争」を繰り広げていた筈です(実際、オノレの拠り所を失ったニホンオオカミ論争の惨状を見てください)。
柴犬をモフモフすることすら不可能な「日本犬が存在しない日本犬界」は、随分つまらないモノになったことでしょう。
 
戦争の時代を経て、日本犬が生き延びたことは幸運でした。
そして愛犬家自身が戦時を総括しないかぎり、日本犬は再び危機を迎えるかもしれません。
大規模災害時に「ペット連れで避難するのは非常識だ」と罵られたら?
狂犬病が再侵入した際に「犬は全部駆除してしまえ」と同調圧力をかけられたら?
非常時において犬を迫害する最大勢力は「正論をふりかざす一般市民」です。彼らを敵に回さないため、過去から学ぶべき教訓は何でしょうか?
何度でも繰返しますが、被害者ぶることなく、美化することなく、日本犬の歴史は自省の心で振り返るべきなのです。
 
(次回に続く)