秀吉公大坂の城に虎を飼せ給ふ時、其餌に近國の村里より犬をめされしに、津の國府丹生の山田より、白黒斑の犬頬(つら)長く眼大きに、脚ふとく逞しきを曳來る。實(げに)も尋常(よのつね)の形には異なり。件の犬、虎の籠に入とひとしく、隅をかたどり毛を逆に立て、虎を睨む。
虎日來は犬を見て尾をふり、跳上つて喜びいさみけるが、此犬を見て日月の如くかゞやく眼を見はり、尾を立て、左右なく噬(かみ)かゝらんともせず、嗔(いか)りをなせし氣色、恐しなんと言ふばかりなし。人ゝすはや珍しき事の有ば、あれ見よとて走りあつまり、息を詰めて見る所に、虎は遉に猛きものにて飛かゝりしが、犬は飛違へて虎の咽に齩きし所を離さずして、共に死にけり。
此事御所に聞召されて、其犬の出所を尋ねさせ給ふに、丹生の山田に夫婦の猟師あり。朝毎に能物を喰せて、早く帰れよといえば、尾をふりて疾山(とくやま)にゆく。主は犬の帰るべき時をはかりて、鐵砲を提行くに、近き邊まで猪鹿を追廻して、主に渡して打たせける

犬
暁鐘成『猛犬死を窮めて虎を噛む(嘉永7年)』より、丹生の猟師と猟犬(右側ページは後に対峙した秀吉の虎です)。
鐘成さんが想像で描いた虎の縞模様は魚のウロコみたいになっていますが、実見していた和犬の斑模様は濃淡含めて忠実に描写されていますね。
 
上記は、安土桃山時代から伝わる日本犬の話。
丹生(現在の神戸附近)に住む猟師夫婦は「犬を譲ってくれ」という荘官の依頼を断ったために反感を買い、豊臣秀吉が飼っていた虎の餌として愛犬を奪われてしまいました。
虎と相討ちになった犬の勇猛さに驚いた秀吉が出自の調査を命じたところ、荘官の横暴が露見。その全財産を没収し、夫婦へ与えたという結末となっています。
話の真偽はともかく、これは関西犬界史についての貴重な記録。「尋常の形には異なり」とあるように、大阪と兵庫では異なるタイプの地犬がいたのかもしれません。
 
ポインターと交雑したマタギ犬。斑模様の和犬は、このような和洋交雑犬と勘違いされ、ひとまとめに「雑種」扱いとなりました。
 
現代のワレワレが目にする日本犬の毛色は、茶、白、黒、ゴマなどが一般的です。変り種として、甲斐犬のような虎毛もいますね。

洋犬との交雑によって大部分が姿を消し、辛うじて山間部に残存していた個体から復活した日本犬。

文部省が公認した中で、現代まで犬種として生き延びたのは北海道犬、秋田犬、甲斐犬、紀州犬、四国犬、柴犬のみです。

幕末の開国から日本犬保存運動がスタートするまでの約70年間に、各地で失われた和犬の系統がどれだけあったのかは知る術もありません。

果して、甲斐犬は「変り種の和犬」だったのでしょうか?

消滅した地犬群の中には、甲斐犬のようにさまざまな毛色をした系統が普通に存在したのではないでしょうか?

その可能性を示すのが、中・近世の古文書や浮世絵に描かれた「斑模様の和犬」です。

 

犬
 
  1. 江戸や明治の犬について知りたい場合、当時の文献を調べるのが筋でしょう。
  2. その時代、わざわざ犬に関する本を著す人はよほどの愛犬家か犬嫌いのはず。
  3. 参考資料にするならば、愛犬家の本を選びたいですよね。
という三段論法で度々とりあげているのが、江戸後期の熱烈な愛犬家であった暁鐘成の著書『犬狗養畜傳(内容は獣医薬パンフレット)』と『和漢今昔 犬の草紙(内容は義犬・名犬談)』。『犬の草紙』の表紙は斑模様の犬毛を模したデザインとなっています。
200年に亘る鎖国政策の終末期、前年のペリー来航から15年後の神戸開港へ至る、古き和犬の姿が残されていた最後の時代。
彼が暮らした関西地方では、それだけ斑模様の和犬が一般的だったのでしょう。
 

「立耳で巻尾、茶・黒・白一枚の体毛」という日本犬のイメージは、文部省や日本犬保存会が昭和の時代に定着させた新しい概念。それ以前、洋犬が渡来する前の「古来の和犬」は、斑模様の個体も多かったのです。

消滅しかけた和犬を復活させるため、日本犬保存会は大・中・小サイズに標準化した日本犬繁殖活動を推進。これにより日本犬は頭数を回復したものの、いっぽうでスタンダードから外れた個体は「規格外の雑種」として淘汰されました。

日本犬を生き残らせるため、多様性は犠牲にするしかなかったのです。

つまり「昭和期における日本犬復活のための選択肢」と「古代~近世の和犬の姿」は別のテーマとして論じるべきですが、和犬愛好家はふたつを意図的に混同。前時代の多様性すら否定する、昭和的日本犬観が広まってしまいました。

……昭和に生れた価値観って底が浅いんですよね(暴論ですけど)。

 

【日本犬標準と斑模様の淘汰】

 
海面上昇によって日本列島が形成された後、縄文人の先祖とともに大陸から渡来した縄文犬。
各地から出土した骨格から見て、縄文犬はほぼ単一の犬種でした。毛色については想像するしかありませんが、列島内で近親交配を繰り返したことによりバリエーションは少なかった筈。
そして現生の日本犬は、縄文犬の純粋な子孫ではありません。弥生時代から古代にかけて朝鮮半島、中国大陸、オホーツク方面などから渡来してきた犬と各地で混じり合った、「ハイブリッドの系統」でした。
大陸の犬たちも地域間の民族移動にともなって交雑化が進み、様々な姿となっています。それらの一部は古墳時代に日本列島へ渡り、現地の縄文犬や弥生犬と交雑。地域ごとにさまざまな特色をもつ地犬群が形成されたのでしょう。
島国という地理的条件に加えて鎖国政策中の200年間は南蛮犬の流入が抑制され、明治初期まで中世の地犬群がタイムカプセル的に保存されたことも幸いでした。
 
中でも注目すべきエリアが北海道です。
稲作が普及しなかった北海道は、縄文時代から続縄文時代へ、さらにオホーツク文化時代や擦文文化時代へと移行しました。稲作文化と共に勢力を広げた弥生犬ですが、津軽海峡を挟んだ北海道への進出規模はどの程度だったのでしょうか?
いっぽう、オホーツク文化時代には北海道沿岸部へ北方犬(カラフト犬の先祖?)の集団が上陸。奥尻島周辺で発掘されるのは、強靭な顎をもつ大型犬の骨が中心です。
しかし彼らは、体格に劣る縄文犬や弥生犬を駆逐することなく北海道から姿を消しました。
 
オホーツク文化人の流れを汲むニヴフ族は、豊富な海の幸を餌にできる犬橇文化を構築。いっぽう山の民であるウィルタは草食のトナカイ橇文化を形成します。
おなじく漁労生活を主とする樺太アイヌはニヴフの犬橇文化を採用。狩猟採集生活の北海道アイヌとは異なり、橇犬であるカラフト犬を選びました。
同じ民族でありながら、樺太アイヌ、北海道アイヌ、千島アイヌでは飼育する犬種が違っていたのです。
 
明治38年に南樺太が日本領となると、宗谷海峡を渡ってカラフト犬が北海道へ上陸(狂犬病対策により、樺太庁は移入を禁じていましたが)。以降は北海道犬との交雑も拡大した模様です。
 
「猟犬を求めた北海道アイヌ」「橇犬を求めた樺太アイヌ」という文化の違いにより、カラフト犬と北海道犬が大規模交雑することはありませんでした。
それでは、北海道犬は外界からの影響を免れた縄文犬の直系なのでしょうか?
だとすれば、彼らは柴犬サイズの小型犬になっていた筈。しかし北海道犬と縄文犬の骨格に共通点は見られませんし、「柴犬の原産地は北海道である」なんて説を唱える人もいませんよね。
もしかしたら、アイヌ民族が定住する13世紀以前の北海道に「北海道犬の先祖」は存在しなかったのかもしれません。
 
アイヌと和人の生活圏が重なると、洋犬と交雑した垂れ耳の北海道犬も現れます。
 
歴史の空白はともかく、北海道犬は古来の姿を現代に伝える貴重な和犬です。そして戦前の北海道犬には、斑模様の個体も珍しくありませんでした。
弥生犬や南蛮犬や唐犬やカラフト犬との交雑を免れた北海道犬が、多様な毛色をもっていたのは興味深いですね。
そして「地犬の多様性」と「日本犬のスタンダード」が衝突した地も北海道でした。
 
家畜の運命は飼主に左右されます。そして飼主たる日本人には、時代の流行に飛びつきやすい傾向がありました。
昭和に入ると、日本犬保存会が定めた日本犬標準によって「斑模様の犬は純粋な和犬ではない」という価値観が蔓延。商品価値を失った斑模様の和犬は、ブリーダーや畜犬商から取り扱いを敬遠され、やがて消滅してしまいました。
以上は日本犬保存運動のサイドストーリーとして説明すれば済むお話。しかし「縄文直系」にこだわる日保は、斑犬排除の正当化をはかりました。
 
日本犬保存会の功績は多大なものがあります。古文書に描かれる和犬に垂れ耳や斑模様の個体が混じっていることを指摘したのも、ほかならぬ日本犬保存会の平岩米吉氏でした。
そこを丹念に掘り下げれば、日本犬の世界はもっと広がりを見せたかもしれません。しかし、圧倒的勢力を誇った当時の日本犬保存会は「我こそがルールブックだ」的な態度に走ってしまいます。
 
日本犬のスタンダードは全国へ普及させなければ意味がありません。しかし、北海道、東北、関西方面の犬界では日保の方針に反発。
「日本犬とは何か?」を巡る両者の論争によって、幸か不幸か「日保視点の日本犬史」から外れた傍流の記録が残ったのです。
独善的な歴史観は思考停止を招きますし、そうやって多事争論できる方が健全でしょう(実態は品性の欠片もない罵倒合戦でしたけど)。
 
犬界関係者が内ゲバを演じていた頃、日本は戦時体制下へ突入。「贅沢は敵だ」を標語に掲げる国民精神総動員運動によって、耐乏生活を強いられた一般国民は犬の飼育自体を敵視し始めます。
戦争末期の北海道や山梨県では愛犬家が団結して在来犬の殺処分に抵抗。北海道犬や甲斐犬は戦後に血脈をつなぐことができました。
繰り返しますが、日本犬は多様性を犠牲にしながら綱渡りで生き延びてきたのです。
 
【斑模様の日本犬とは】
 
帝國ノ犬達-犬の草紙
 
〇狗ハ腹中常に熱するもの故に、暑さの頃に至れバ舌を出して喘ぎ苦しめり。然れども是ハ病にあらず。暑に苦むなれバ鉢などに冷たる水をたゝへおきて飲しむべし。
尤四時ともに水を絶さず、鉢にたゝへ置くべし。
魚類を食せし跡にてハ、冬にても水をのむものなり。必らず喉をかわかしむることなかれ。
市中に於てハ暑に至れバ軒に施水を出す事専らなり。然れども犬の施水をなす者ハなし。
故に暑に堪かね溝の泥水をのみ、霤(あまだれ)の腐水をのむ事最(もっとも)いたまし。
苦しきこと樂しきこと、人畜なんぞ其隔あらん哉。
苦しみハ救ひ、樂みハ與へたき者にこそ(暁鐘成)
 
犬を愛した暁鐘成は、江戸後期における関西地方の和犬の姿を忠実に描写しました。後世の人間が何を言おうと、黒犬、赤犬、白犬、斑犬は昔からきちんと区分されています。
「白犬に斑点を描き加えた」などという主張は、江戸時代の愛犬家を否定するに等しいのです。
 
滅びゆく日本犬を救うための緊急措置として導入された日本犬標準。
しかし時代を経るにつれ、ソレはいつしか「スタンダードに合致しない犬は日本犬に非ず」という権威主義に化けてしまいます。
※斎藤氏の主張を受け継いだ戦後世代(日保メンバーではありません)も「江戸時代に描かれた斑模様の犬は南蛮犬との交雑犬。現代の日本犬こそが純血種である」などという時系列無視・優生思想的な主張を繰り広げました。
 
日本犬保存会のスタンダードに反発する和犬団体も、それぞれの理想とする日本犬の交配作出に取り組みます。
理想の日本犬を追い求める過程で、スタンダードに合致しない個体は淘汰されました。
……「淘汰」というと聞こえはいいのですが、要するに捨て犬や殺処分にされたワケです。
 
当時のヨーロッパのブリーダーは、スタンダードにそぐわない仔犬は土に埋めて殺処分するよう指導しています。その教えに従い、似たような方法で犬を選別する日本のブリーダーもいたそうです。
下の画像はその一例。
 
戦時中における日本犬淘汰の一例(東北地方のマタギ犬ブリーダーによるもの)
 
高邁な理想のためには犠牲が必要なんですかね。
……ブリーダーの暗部を追及する記事ではないので、話を元へ戻しましょう。
 
【高久兵四郎の斑犬論】
 
それでは「日本犬保存会史観」から離れ、ケンカ相手である日本犬協会の主張をご紹介しましょう。
彼らの立場は「もともとあった斑模様は認めるべき」というものでした。
 

我が日本犬協會は設立以來日本犬の毛色は古來色々のものがあつたのであるから、アルビノとか或は日本犬に無いリヴア色のものは排斥したけれど、他の毛色は問題としなかつた。

勿論柴犬は赤を標準とし、多少の斑點は是れ又不問として居た。

處が吾人の意に反し日本犬は總赤、總爪黑を理想とすると云ふ説が誤解されて、日本犬は總赤、總爪黑でなければ純粋でないやうに思はれるやうになつた。先般筆者は静岡縣に行き、古老から東海道筋の地犬の話や獸獵犬の話を聞いた。

地犬は筆者が既に述べた通りであるが、十五六年前水兵が短毛のチヤウ〃を連れて來たものがあつた。これと土地の柴犬の雑種が出來て居た所、日本犬復活の時代となり、自分天狗の犬通が日本犬は耳が小さく巻尾で總赤、總爪黑のが理想であると言ひ振らした。註文にピツタリ合うのが、今のチヤウ〃と柴犬の混血犬だ。

 

日本犬協會理事・高久兵四郎『日本犬觀察・各地中型犬を語る(昭和13年)』より

 

文中で問題視されているチャウチャウ交雑犬騒動も、日本犬の姿を過度に単純化したのが原因。チャウチャウと交配した雑種犬のほうが日本犬らしい姿に近いとなれば、そちらが「純粋な和犬」に変身してしまうのです。

高久氏は「單純なる外觀的觀察や、又は故渡瀬博士が斑は雑種から出たものと云ふ一般家畜の概論を曲解して、日本犬の斑を排斥するに至つた」過程、飼主によって犬の毛色が淘汰されていたことを記しました。

 

元來犬の毛色は、公平な立場から眺めて、能力實力を第一義とする人に取ては大した問題ではない。勿論毛色が其犬種に無いものである場合は別であるが、昔から有り來つたものなれば深く追及する必要は無い。

それにも拘らず最近、斑は駄目と云ふ事になつたそうな。

狆やトーイ・テリアの如く、珍奇な體型或は美しい毛色を生命とする犬種は、或は斑一つでも賣買價格に影響が有るかも知れないが、日本犬、特にその中型犬は、實用犬でなければならないので、重要點は智力と頑健な體軀とである。

此の理想的のものが充滿した暁は別であるが、今日の如く數最も尠なき中型犬の毛色を統一するため斑を排斥することは、益々優良な犬の撰擇の範圍を狭めるので甚だ遺憾千萬の事と思ふ。

斑犬は一枚色の犬より能力劣ると云ふ確證が有ればイザ知らず、單純なる外觀的觀察や、又は故渡瀬博士が斑は雑種から出たものと云ふ一般家畜の概論を曲解して、日本犬の斑を排斥するに至つた事は、角を矯めて牛を殺す愚擧と同一であると考へるのである。
今より十數年前は毛色の事を着物と云ふて居た。此れは眞に穿つた表現である。

人間が着物の好し惡しで評定さる可きものではない。寝衣を着た時はあの人間は下等と評せられ、同一人が美服を着た時は大人物と評せらる可きものでは無い。又着物を任意に取り替へる事が出來るので、犬の毛色の事を着物と呼んでゐるのである。

犬の改良で一番容易なのは毛色である。

それは勿論困難ではあれど、仔犬の毛色は配合の際種牡の選擇で他のものより比較的に樂なものである。

故渡瀬博士が云ふたブチは雑種から出たと云ふ説は、一般家畜に對する普通の場合を指して云ふたに過ぎないので、犬の斑は雑種から出たとはよも云はなかつたと思ふのである。

成程鶏では白色レグホンと黑色ミノルカを交配すると其雛は白と黑の中間である鼠色が生れ、又その雛からは白、黑及び斑が生れる。

此れは鼠や兎も同じか、又は鶏以上に判然と其仔に中間色の斑が出るものである。

然るに犬は大いに趣きが異つて居る。

誰れでも經驗の有る事と思ふが、白犬と黑犬の間に生れる仔犬は決して白黑の斑が生れるので無く、大概一方に片寄り白とか黑とかが生れ、斑は出ない。白と赤との間の仔も同じである。

犬の毛色の原色は、恐らく、赤かゴマであると推察される。野生當時は此れ以外の毛は保護色として不適當である爲め、往々突發的に他の色のものが生れても、自然淘汰されて仕舞ふ。

然るに家畜となつてからは、人間の保護が有る爲め、自然淘汰を免れて種々な色が出て來たのである。

原色であるゴマ、赤が追々色素を増して來た其積極が黑となり、反對に褪色して來た其消極が白となつたものである。

日本犬のブチは、他の家畜類の如く兩極色の交雑から出たものでは無く、白黑又はゴマ斑は黑が再び還元的褪色の過程中に生じ、赤白斑は白が還元的増色の過程中に生じたものでは無いか。前述の如く、黑白の仔には中間のブチは生れないが、黑とゴマ又は黑とリバーの中間には往々虎毛が生れるものである(リバーは日本犬には無いが)。

何れにしても日本犬の毛色が多種多様であるのは、原種が種々有つた爲めで無く、日本の氣候や地勢に變化が多い爲めであると考へるのである。

一部の人の説の如く、日本犬構成の原種が多數であつた爲めでも何んでもない。

動物が氣候や地勢に對して第一に變化するのは、羽毛とか毛色である。雪の多い北極に棲む鳥獸は白である。其中に移動する狐や鳥類は時節や移動地の状況で體色を替へる。稲の害蟲であるイナゴは、稲が青々として居る夏の間は青い體色をして居るが、秋に至りて稲が結實し葉が黄金色をして來ると、イナゴの體色も黄味を帶びて來る。

雲雀は砂原に棲むのと田圃のとで羽毛の斑が違つて居る。

玄人は一見してその區別を見出す。滿蒙に居る狼は平原のと森林のと又夏と冬では何れも毛色が異つて居る。

春夏秋冬と云ふ文字は支那から來たのであるが、支那全體を通じて見ると、我々が想像する様に順序よく四季は循環して居らない。南支は夏永く冬短く、春秋は僅かに夏と冬のツナギに一寸と來る位の程度である。

北支は冬永く夏短く、春秋は南支同様である。

此れに比べると、日本は春夏秋冬の變化に富み、地勢も亦山あり河あり平原森林と實に變化極まりない。斯の如き環境に於ては、家畜の羽毛色が多様になるのは進化の法則に據るので不思議は無いのである。

それは日本固有の家畜家禽に就て見ても判る。

牛馬は人爲の淘汰を受けるから、毛色も大した程では無いが、鶏猫の如く自由放任のものは何れも體毛は多數多様です。

外國の鶏は、レグホンと云へば大體白とか褐色であるし、ミノルカと云へば黑と決つて居るが、日本在來の地鶏は現在殆んど絶滅して仕舞つたが、尚ほ日本の鶏種と看做されるチヤボの如き白、黑は勿論ゴ石、カツラ、シヨウジヨウ、サザナミ、其他シヤモも同様で、金ザ、笹、白黑同じ黑でも油墨とかイヤ何墨とか、専門家に云はせると實に多いものである。

外國の鶏は混血改良のものが大いに不拘、其羽色に變化が尠く、日本固有鶏は純血が多いに不拘、羽色が多種多様である。

猫でも三毛、トラ、キジ、ブチ、黑、白等同様に變化が多い。犬も多分に漏れず變化の多いのは、一つに氣候地勢の關係と思はれるのである。

お隣の支那の如く、氣候も日本と反對に變化尠く、地勢も大陸で平原と言ふと一望千里、山と云ふと山ばかりの極で變化が尠い所では家畜類の體色も大した變化は無いものである。

揚子江以南の犬は大體體型も一定して、貴州雲南の犬はシエパード風の體型で毛色もゴマとか黑が多い。廣東の田舎方面は體軀の小振な赤が多い。

揚子江の北から萬里の長城の間は古來支邦文化發祥の地で、各地との交通も開けて居り、字引を見ても判るが、犬と云ふ字が種々有る所から見ると、各地の犬が集まつたらしいのである。

現在此地方に居る犬はそれ等の子孫である。

放任された結果、雑多な混血をなして來たので、其地方の犬の體型を聞かれても一寸と答へるに困る位である。そこには狆の雑種と思はれるのが有るかと思ふと、西蔵犬の雑種の様な大きなもの、或はコリー、或はシエパード、或はグレーハウンド等の雑種かと思はれるものがある。若し混血が毛色を多様にする第一の原因ならば、此等の犬の毛色は多數多様で、ブチも形の變た數〃のものが有りそうであるが、實は毛色には大した變化が無く、殊にブチは極めて尠いのである。

私は支那ではブチ犬は指を折る程しか見なかつた。支那の都會に隣接した郊外では、朝なぞは無數のルンペン犬が集つて居るのを見るが、ブチは殆んど無い。

此等の實例に徴しても、自然の儘にして置て多數多様の毛色の有るのは、氣候と地勢の變化が多い爲めであると云ふて差支へ無いのである。日本で一番毛色をやかましく言ふたのは獵師で、自分の方の山の中の連中(※当時の高久氏は足利市在住、後に日協本部のある関西へ転居)は獵犬は赤が一番であるといふ。

其理由は、野獸の目に付き難いから接近するのに都合がよいと云ふて居たものである。

其れなれば白なぞは野獸の目に觸れ易いから大禁物の筈であるが、紀州では山の中で獵師の目に附き易く、何處に犬が居るかゞよく判るから白がよいと云ふ。

結局毛色は解釋の仕方に過ぎない事となる。

自分は思ふに、恐らく、以前名犬が居て、其名犬が赤の場合は其毛色が多く希望され、白の時は白がよいと云はれたに過ぎないと推察して居る。ツマリ能力第一主義から、赤の名犬が居れば獵犬は赤に限るが如くなる。

白に名犬が居れば白に限るが如くされたのである。

斯の如く獵犬には赤とか白とかゞ多かつたが、町方は何でも強い犬が持てたので、弱い犬の仔は貰ひ手が無く、毛色は何んでもよかつたので、實に雑多でブチでも、ゴマ、赤、トラ、白、黑、四ツ目のブチ等が有り、人に聞かれても日本犬の昔のものは何毛が一番多かつたと連答は出來ない。シヤモを飼ふて、賭博で生活して居るものが田舎には多數有る。

私は常に感心して居るのは、競馬師とシヤモ師の目の肥へて居る事で、二、三羽のシヤモの蹴合で生活するだけで有りて、其研究は眞劔である。老練なシヤモ師の説は博士以上の名論である。斯の如き研究をして居るが、其目的はシヤモの實力以外には何も無いので、羽毛なぞは問題にしてゐない。

羽毛を問題にするのは同じ鶏でもチヤボを飼ふ人である。チヤボは愛玩的のものであるからだ。

斯く論じて見ると日本犬を實用的に見る人は毛色は深く追及せず、愛玩的に取扱ふ側に斑を氣にする人の多い傾向を肯かずには置けないのである。此れは日本犬の堕落を意味するもので、日本犬は徹頭徹尾一技一能主義を以て進まなければならん事を力説するものである。

日本犬協会・高久兵四郎『日本犬のブチ(昭和10年)』より

 

洋犬が勢力を拡大した時代、日本犬保存運動に古来の姿や猟犬としての能力を求める余裕などありません。とにかく消滅しかけた個体の数を増やすことが先決でした。

日保の「サイズ別の繁殖による日本犬再興」と日協の「日本犬の能力追究」が相容れる筈もないのですが、両団体がもう少し仲良くしていたら、イロイロな成果も戦後へ残せたことでしょう。

 

……みたいな感じで、自説に都合のよい引用ばかり羅列するとそれっぽい文章ができて便利だな。

「現代の日本犬こそ純血種であり、斑模様の和犬は雑種である」説を唱える場合は、南蛮犬の渡来史を調査して「この時代のこの地域の和犬は南蛮犬の影響を受けているのだ」的なお話をしましょう。

 
伊香保神社の境内で撮影された垂れ耳・斑模様・巻尾の犬。
明治以降に撮影された「斑模様の和犬」については、古来の姿なのか、それとも洋犬との交雑個体なのかは判別困難となります。
 
【チャウチャウ交雑犬問題】
 
日本犬の姿について大混乱をひきおこしたのが、チャウチャウと和犬の交雑犬です。
日本犬ブームが訪れた時、肝心の日本犬は消滅寸前でした。ペット商にとって一攫千金のチャンスだというのに、「商品」が不足していたのです。
需要に応じるため供給側がやらかした水増し工作。それが、チャウチャウと交配させた「偽装日本犬」の作出でした。
和犬界の信用を失墜させた、いわゆる「三河雑犬騒動」です。
 
元來三河地方の地犬は昔の事はよく判らんが、最近迄殘つて居たものは赤白斑か、又は赤でも前肢の白いものとか、面黑の赤胡麻のものであつた。
此の手の犬は體格は地犬だけあつて大きかつたけれど、尾を巻かないものが多い事と、毛色に斑點が有る。これは今でも殘つて居るが、これでは時代の要求に適しないとて、滅茶苦茶にチヤウチヤウ雑種と掛合せて仕舞つた。
出來上つた犬は總赤、總爪黑で尾巻きのよい、耳は小さく丸顔なので一時は飛ぶ鳥を落す程の人氣を得たものである。
然し此の犬は第一性能上に一大缺陥を見出された。
即ち極度の臆病とか剛情とか、或は爭鬪性のみ強いと云ふ日本犬らしく無いものであるといふ評判が立ち、續いて血統がチヤウ〃の混血なることも判明したので、今迄の人氣は立消えとなり、反對に非常の不評を買ふやうに立ち到つたのである。
(中略)
體型性能は將來の日本犬を作るべき素材として立派なものであつたので、筆に口に世に紹介したのである。所がこれを利用して金儲けをなさんとするものが生じて、本當の三河犬でないものを三河犬として世に賣り出して、反つて聲價を墜して仕舞つたのである。
三河犬の本來のものは決して總赤、總爪黑でなく、赤でも前肢は白であること、又首にも往々白斑が出る。此外赤の斑等が三河犬の毛色であることを強調して置く(高久兵四郎・昭和13年)
 
もともと愛知県では、在来犬(三河犬)が狩猟に使われていました。そこにチャウチャウやヌンロイなどを交配した三河雑犬(三州犬)が登場。
チャウチャウ交雑犬は姿勢がよくなるため、たちまち人気品種となります。
地味で野暮ったい在来の地犬と、スマートな外見のチャウチャウ交雑犬。どちらに「商品価値」があるのかは言うまでもありません。
全国へ散った三河雑犬たちは繁殖を繰り返し、戦前の段階で「理想的な姿の和犬」として各地に定着。地元の愛知県に至っては、在来の三河犬がほぼ壊滅状態に陥ります。
こうして悪貨が良貨を駆逐し、三河雑犬は洋犬に続く脅威と化したのです。
 
チャウチャウとの交雑は大正時代あたりに始まったらしく、愛知の犬界関係者ですら状況を把握できていません。
その混乱状態について、戦時中の調査記事をどうぞ。
 
犬
三河日本犬愛好会第二回展より、入賞したハチ號
 
地元の人達から三河犬を訊く座談會
主催

中部日本犬愛好會
會長
高澤彦七、山崎隆春
副會長
山本恵造
相談役 
荒川眞澄、浦川重右衛門、加藤丸一、後藤臺治
幹事
河村延吉
會計
杉下孝一
その他十數氏
記者
白木正光

高澤
これから座談會を始めますに當つて、簡単に御挨拶を申上げます。本會は杉下さん始め皆様の並々ならぬ御盡力によつて成立を見まして、既に會員も百七十餘名を算し、なほ續々入會の申込があります。會報も目下校正中で近々發行致します。
今夕は東京犬の研究社の白木氏も御列席になりましたから、同氏から御職業柄明るい各地の犬界の状況や、本會の今後の進路に就いての御意見等も伺ひたいと思ひ、座談會を催した次第です。なほ進行掛りに杉下さんをお願ひします。
白木
只今高澤さんからご紹介いたゞきました白木で御座います。よろしくお願ひいたします。只今高澤さんから私に何か話をせよとのことでありましたが、實は私が今夕参りましたのは、皆様から當地方の日本犬のお話を伺つて、それを誌上に發表したいと思つたからです。御存知とは存じますが、今日の日本犬界では三河犬のことがいろ〃と噂に上つて、最も問題視されてゐますが、それを地元の皆様はどうお考へになつてゐるか、定めし地元としてはいろいろ云ひ分もありませうし、又誤傳されてゐる點も多々あると存じます。さうした話を承つて誌上に發表し、一般犬界に三河犬の正しい認識を與へたいと存じます。
杉下
有難ふ存じます。實は私共も常々左様に思つてゐることで、御親切を感謝します。私共も追々腹蔵ないことを申上げますが、まづ最初に白木さんから三河犬のことを世間では一體どんな風に噂してゐるか、遠慮なさらずにありま儘をお話下さい。
白木
サア!なんと云つてよろしいか、一概に云ひますと、三河犬即ちチヤウチヤウの雑種と云ふ風に簡單に片づけてゐます。そしてその證據に舌に黑點がある、氣性がどうのと、餘りかんばしい噂ではありません。
杉下
いやその噂は私共も屢々聞いてゐます。何時頃からさう云はれたかハツキリしませんが、私の調べたところでは、既に七、八年前からあつたらしく、又そのチヤウチヤウの血の混入した經路に就いて、日露戰爭後に支那からチヤウチヤウを連れて來たのだと某書に書いてありましたので、いろ〃調べましたが、その確證はどこにも見當りません。
白木
實際問題として、現在の三河犬には舌の黑いものが多いのですか。
山本
澤山ゐます。
白木
それは何時頃からです。
杉下
それでは三河犬の歴史に就いて、一番古くから飼つて居られる加藤さんにお願ひします。
加藤
私共の子供の時分、明治初年のことですが、その頃の日本犬には舌の黑いものはなかつた。毛色は主に茶と灰、黒等で、口吻は尖つてゐて、今日見るやうに襞のだぶついたものはゐませんでした。
白木
矢張り獵に使つたのですか。
加藤
さうです。猪獵、鹿獵などに使つてゐました。
杉下
三河犬を語るには、まづその定義から申上げなければなりませんが、それがまだ殘念ながら定まつてゐないのです。古い記録では今昔物語に絹糸を吐いた白犬の物語があります。
白木
かうして話してゐる間に段々輪郭が判つて來やしませんか。
浦川
昔の三河犬と今日のそれとでは相當開きがあると思ひますが、昔の犬が殆んど保存されてゐないので何んとも云ふことが出来ません。
氣魄の點でも、二十年前は獵以外にこの土地は犬の喧嘩が流行つて、私の父などもさうした犬を飼つてゐましたが、自然氣魄も勝つてゐました。
加藤
昔も口の黑いのは悧巧と云はれてゐました。しかし舌の黑いものはなかつた。
後藤
私共は四つ白の黑爪と云つて、以前の犬は足先の白いのが普通でした。そして眼は三角眼で葡萄色がよいと云はれ、耳は小さく、獅子のやうに前にかゞめ、よく乾燥してゐた。
杉下
その當時も三河犬と云ひましたか。
後藤
三河犬と云ふのはごく最近のことで、昔は地犬と云つてゐた。
白木
その時分の犬の大きさは。
後藤
普通一尺七寸位、大きいもので一尺八寸位ありました。よく乾燥して細く、今の犬のやうにだぶ〃したものはなかつた。氣魄は先程のお話のやうに猪や鹿に使つてゐたから非常によかつた。
杉下
獵犬のお話が出ましたが、高澤さんは古くから狩獵をおやりになつて、澤山犬をお飼ひのやうですが、日本犬は如何でした。
高澤
犬は澤山飼ひましたが、日本犬は今日までに三四頭使つたに過ぎません。それも雑種犬で本當に純粋と思はれるものは、後に古屋千秋氏に讓つた犬丈けでした。
白木
その頃の犬の舌の色は如何でしたか。
後藤
舌は赤かつた。舌の黑いものはごく最近です。
杉下
被毛の長さは?
後藤
比較的短いやうでしたが、綿毛は十分ありました。毛ぶきのよいと云ふ點から見れば、その頃の犬は餘りよいとは云へない。
杉下
Oさんは商買で犬を澤山あつかつて居られますが、一般人のうけは短毛と長毛と何れがよろしいか。
O
一番一般人にうけのよいのは赤一枚です。私は子供の時分から犬狂ひと云はれまして、澤山犬を飼ひましたが、その子供の時分の十七八年前の地犬は、赤一枚か白茶斑のものが多く、立耳、巻尾で、尾は必ず左巻でないと地犬とは云はれなかつたものです。又地犬は五こくでなければならぬと云はれました。
この五こくと云ふのは爪が黑、尾が黑、耳の裏も黑と云ふ風に、五カ所黑の揃つたものゝことで、その中に舌の奥に黑點が一つあることも條件になつてゐました。
加藤
それは昔もありました。
O
毛色では赤胡麻、黑胡麻の犬もよく見かけました。大きさは一尺七寸か八寸位。前がとても張つてゐましたが、これは現在の土佐犬のやうに喧嘩が流行つてゐたゝめでせう。
尤もその當時でも四五貫の犬は獵師が兎追ひに使つてゐました。それから今から約十年程前になりますが、私が初めて東京へ行つて日本犬の盛んに賣れて行るのを見て、田舎で仔犬を二十頭程集めて、夜店で賣りましたが、二十圓位で平氣で賣れるのに驚きました。
その時お客が最初に目をつけるのは赤一枚の仔犬でした。これはよい商賣と思つて、その後もセツセと仔犬を東京に運びましたが、一番お客に歓迎される赤一枚の犬は豊橋地方になく、西三河から買つて行つたものでした。西三河の犬は所謂口黑、爪黑、赤一枚の時流にしつくり合つてゐましたが、その頃にはもう舌に黒點を見かけました。
白木
偶然に發見したのですか。
O
當時は別に大して氣にもしませんでした。一體東三河と西三河では犬飼ひの氣性も大分違つてゐて、今から考へますとその當時から既に西三河では相當野心的に犬を作つてゐたやうです。東三河の犬はどちらかと云へば獵に使はれてゐて乾燥してゐました。
山本
小鳥の流行つた時分、大正末になりますか、あの頃にもう舌は黑くなければならぬと云ふ説がありました。
加藤
今から四十年も前のことでsが、信州方面の地犬も大抵雑種になつてゐた。それは獵師が耳の垂れた洋犬の血を入れると、追鳴きをよくすると云ふので好んで雑種を使つたからです。
で、地犬に近い耳の垂れた犬が澤山ゐました。尤も中には赤一枚の二尺近い立派なものも稀れには見かけました。四ツ目の犬は主に黑でした。それから十匹の犬の中に一頭位はむく毛の犬がゐました。
山本
十年、十五年前の地犬は耳が小さく厚耳だつたやうに記憶します。氣性も此頃のやうに人なつこい犬はなく、他人に尾を振るやうな犬はゐなかつたやうに思ひます。
O
吻はたしかにしまつてゐた。毛は短くこわ毛で、所謂蓑毛でした。
後藤
一もく、二もく、三もくと云ふことも云はれ、二もくは兄弟の尠ない時に出て、この犬は利口できつく、三もくは兄弟の多い時に出ると云はれたものでした。
杉下
段々お話を伺ひましたが、昔の三河犬は、先程後藤さんのお話のあつたやうな犬、そして舌の奥には豆粒位の黑點のあるものもあつた。毛色は灰系統で毛先が黒く、毛質はこわく比較的短か目であつたと、大體こんな風に云はれませんか。
三河犬の歴史はこの程度にして、次は日本犬の作出の目標をどこに置くかと云ふことを考へて見たいと思ひます。
その前に京都の帝犬審査員N氏から只今激励のお手紙を頂きましたが、その中にこの事変下に軍犬として三河犬の眞價を發揮せよとの意味が述べてありましたが如何でせう。
荒川
結構なことですが、Nさんは果して三河犬をご存知でせうか。まだ三河犬そのものがはつきりしてゐないのに、簡單に決めてかゝる譯にはゆかぬと思ひます。私は目下研究中と云ふよりほかありません。
白木
さうです。何もさうお急ぎになることはありますまい。追々に決めて行かれたらよくはありませんか。
 
チャウチャウ交雑問題により、在来種の「三河犬」と交雑犬の「三州犬」も判別が困難となってしまいます(昭和10年)
 
而して筆者は眞の三河犬復活に對して愚見を述べて見る。
中型日本犬は總赤、總爪黑でなければ純粋でないなぞと云ふ説を固執するものは、我が日本犬協會の趣旨の徹底して居る所には最早一人も居らないのであるから、蕃殖用には寧ろ斑點のある牡牝を特に用ゆること、尾も根元から急角度で巻くものは避け、反つて太鼓巻きを撰ぶこと、オデコを避けること、三河犬本來のものは一尺八寸以上あつたのであるから、成る可く大きなものを撰ぶ事、斯の如くして還元蕃殖を行つたならば、再びタチ號の如き三河犬が續々世に出ることゝ思ふ。
由來良藥は口に苦く、忠言耳に逆ふものであるが、老生の言を聞いて反省せられ、本當の三河犬復活に邁進せられん事を敢て愛知縣下の日本犬黨に進言する次第である。
而して改良の素材となるものは、未だに殘つて居るのである(高久兵四郎・昭和13年)
 
事態の悪化を危惧した日本犬保存会や日本犬協会は警鐘を鳴らしたものの、各地の和犬ブリーダーは三河雑犬の繁殖を継続(商品として売りやすいので)。
そして戦時中になっても、チャウチャウ交雑犬の子孫が絶えることはありませんでした。
 
日本犬が流行して來て以來、都會のコンクリートの上を、引綱で引かれて歩く日本犬を多く見る。ついぞ顧みられなかつた日本固有の犬が、流行と云ふ波に乗つて、酒屋へ三里の山奥から都會へと進出して來た。

これが良いか惡いかは識者の判断に任せるとして、近頃日本犬らしくない日本犬が急に殖へた事は悲しい。

何時かの日本犬展で、或る斯業者の一人が「この會場の中で、マアこの犬だけは日本犬の香ひがして居りませう」と云つたとて、この言葉に友人が感服?をして居た。然り、この言はその間の實情を雄辯に物語り、事ほど左様に日本犬らしくない日本犬が殖へて來たのだ。

殊に最近、甚だしく目に附く事は、支那のチヤウの混血が多い事だ。何故この混血が多いのだらうか。

それは云ふ迄もない事だが、チヤウを交配すると一寸見には姿の良い犬が出來る。今多くの人が好むの胴詰りの、四角張つた張子の様な犬が出來る事である。

或る斯界の識者?は、チヤウの血が入つたら舌に斑點が現れるから、直ぐ判ると云ふけれども、あながちそれに限つた事ではない。中にはそれが全く現はれぬものが生れる事もある。

然してチヤウと日本犬は、外見に於てはやゝ酷似したるところありと雖も、その精神に於ては天地雲泥の相違がある。外の型を採つて、内を空虚なものにする策は、愚の骨頂だ。

兎も角、日本犬が流行するにつけ、賣れ口の良いと云ふ點から一寸見に姿の良い犬が盛に作出される様になつた事は、實に歎かはしい事である。金を儲けるためには、その手段を選ばぬと云ふ事は、ユダヤ人のみにして置き、苟くも吾が日本人たるものは、日本にたゞ一つの固有種日本犬にはもつと良心的な作出が望ましいものだ。犬と正面から向き合つた時、その氣魄に押されて、人が思はず後退する様な日本犬は、もう今の世に見る事が出來ぬであらうか。

筆者は、何時も日本犬展を見て歩くが、未だかつて、この犬なら何んとしても欲しいと思つた日本犬を見た事がない。だからと云つて、獸獵にそれ専門の獵師の所へ行くと、退化せりと雖も、まだ日本犬固有の面魄をもつて居る犬を時々見る。

夫れでそれ等の事から考へて見ると、現在の日本犬のヂヤツヂ連中は一先づ後退して、今度は田舎の歴代獸獵で飯を食つてる、山の獵師を連れて來て審査させるが良くはないかテナ感も起るのだ。犬の本當の魂は、その犬と共に眞劔に仕事をしたものでなくては判らぬ。

日本犬を五頭や十頭飼ひ、それも廻りアンド式に、昨日買つた犬も今日よい買手があれば賣り、また明日儲けて賣れそうな犬を物色して求める様な精神のヂヤツヂ公に、何にが日本犬の魂が判るものかと云ひたくなる。

須らく、良心あれば現在の日本犬の審査員は一先づ交代すべし。然らば真の日本犬たる日本犬が、展覧會場に現はれるであらう。

 

日本犬狂『日本犬は何處へ行く(昭和14年)』より

 
戦争末期に日本犬界は壊滅し、続く戦後復興期の混乱において戦前犬界の記憶は忘れ去られます。
「わが県には戦争を生き延びた和犬がいる!郷土の誇りだ!」と興奮する戦後世代の愛犬家に対し、「アレは戦前に移入された三河雑犬の子孫だぞ」と戦前世代からツッコミが入る悲喜劇も展開されました。
 
三河犬というのがありますね。三河柴犬の。二十年前(昭和初期)には、三河に行つても犬なんていないんです。信州から岐阜の方の地犬を、ほんとうの柴犬を引つぱり出して来て、支那から来た広東犬、チヤウチヤウというのがありましたね。これと柴犬をかけたりして出來たものが儲かるというので、あの辺の農家が副業にやり出して十五年くらいで出來たんです。今の三河あたりの犬のことを考えると、犬の改良というものは簡単なものですよ。そういう機運が出来ればいいんですね。

三河は犬の前は十姉妹が盛んでしたが(※小鳥ブームのこと)、今度は犬になつて、あの犬は鼠色が舌に出て来るのはチヤウチヤウの系統だというんです。が、今は固定したようですね。我々だつて(祖先の源流は)朝鮮だか南洋だか、しかしとにかく日本人じやないかということになつて納得したんですよ(笑い聲)

 

坂本保『三河犬の由来(昭和28年)』より
 
昭和20年代に犬界を騒がせた三河雑犬の生き残り問題ですが、それも高度経済成長期を経て曖昧となり、「文部省から天然記念物指定されない正体不明の地犬」だけが各地に散在する現状へ至りました。
チャウチャウや三河雑犬に罪はなく、犬を商品とする人間の業に巻き込まれた被害者に過ぎません。
日本におけるチャウチャウの歴史も、ナカナカ酷いものがあるのです。
チャウチャウをペットとして飼う日本人は少なく、昭和10年度に飼育登録された東京エリアのチャウチャウは2頭のみ。輸入されたチャウチャウたちの多くは、偽装和犬の種犬として消費されたのでしょうか。
 
日本犬復活のために多様性は失われ、日本犬の商品化によって偽装和犬が混在していった時代。
「理想の日本犬」のイメージに惑わされ、在来犬よりチャウチャウ交雑犬に飛びつく日本人の価値観。
南蛮犬や唐犬が和犬へ与えた打撃は、中・近世ではなく近・現代に拡大したことを銘記しましょう。江戸時代の絵画に文句をつける前にね。
 
(次回に続く)