「ゐるかね」。私は言葉をかけた。
真黒な足にすり切れた藁草履。白髪交じりの鬚茫々たる襤褸を纏つた親爺が曲つた腰を竹の杖に支へて、庭で日向ボツコをしてゐた。
「親爺さん、オ家には犬がゐるさうだが、一つ見せてもらひたいと思つてわざ〃來た」。私は云つた。
親爺は重い口を開いた。「ウン〃生田家からもろて來た犬か、アレは良エ犬コだつたがナア、賣つた」
「金持の野良犬の話ではない!!オ親爺さんの家に昔からゐた地犬の話だよ。それあの虎斑のね」
親爺は犬の毛色まで指されて白状した。「虎斑かね。ありやオ前え様、此頃殺されたさうで歸つて來ネエ」
―この親爺、可愛想に。私を犬の税金調べ(※畜犬税の取締り)と考へ違いをしたのだ。
無理もない。この東北の山村では早くも食ふべき米はなくなつてゐる。粟、稗、ソバの雑炊に僅かに命をつないてゐる有様ではないか。私達なら一日でへたばる様な激しい労働は、金四十錢の賃金にしか報ひられない。その四十錢の仕事すらないのだ。
この家族に、八圓の獵犬税は死よりも辛いにちがひない。私の頭の中に、先日、子供の様な可愛い飼犬が、苛税のために撲殺者に引かれて行くことをどうすることも出來ず、大男がオイ〃聲を挙げて泣いてゐた、そして二人の幼い青洟垂した子供も一緒に「シロが殺される」と泣いていた〇〇村の一家族を思ひ出した。
私はたとへこの苛税吏と間違はれても、「俺は役人じやない」とさへ口に出して云ふことが出來なかつた。それ程、私にはあの記憶が辛かつた。
「オヤ〃惜しいことをしたね、モウ〃此頃は一向に歸つて來ないのか」
ところが問ひも終らず、死んだ筈のこの老爺の飼犬には、いとも朗らかに尾を振り〃ノコ〃歸つて來た。
私と犬とはオ互に親しく挨拶を交し、オ互に語るに一生懸命で、私も至極きまりの惡い老爺を責むることはとうに忘れてゐた。耳は半立ち、半洋犬の尾の、この虎斑の犬の風貌のうちには、此の山中に昔飼はれてゐた勇猛聡明で
「惜しいことをしたね、みんな雑種にしてしまつて」
「ウンニヤ、生田家からもらつた西洋犬がとても賢い奴で、皆に讃められたデナア。息子が先代の地犬のモクにその洋犬をかけてこれが生れたヨ」

 

宮本翠夢庵『やり切れない話(昭和7年)』より
 
垂耳で巻尾、斑模様の犬。近代日本では和犬の雑種化が進みました。
戦前の和歌山にて
 
大正時代になると、輸入される洋犬の数は爆発的に増加。冒頭の虎斑の犬のように、各地の和犬たちは交雑によって姿を消していきました。
当時の日本人がイメージする「日本産の犬」といえば、秋田犬・狆・土佐闘犬・樺太犬くらいですか(同時期には、日本テリアも品種固定されつつありました)。人々が気が付いた時、「立耳巻尾の地犬」は都市部から姿を消していたのです。
日本犬保存運動とは「たくさんいた和犬を繁殖しました」ではなく、「辛うじて洋犬との交雑化を免れた個体の救出作業」と捉えるべきでしょう。
たとえば秋田犬の歴史についても、古来の猟犬である「マタギ犬」を軸にすべきではありません。
秋田エリアの犬界史とは闘犬の歴史でした。明治36年の「農閑期の園遊会(と称した大舘の闘犬大会)」からはじまる土佐闘犬の移入、大正中期の湯沢星華園による雷電系や久保系の大量繁殖、それらの土佐闘犬が大舘闘犬界まで席巻した結果、秋田在来の和犬は壊滅。
そのような闘犬界から脱却するための取り組みこそが、秋田犬保護活動でした。
 
つまり、和犬の再評価と保護活動が始まったのも明治末期~大正時代。
その先駆者は、内務省と秋田県の愛犬家たちでした。昭和3年スタートの日本犬保存会史に隠れてしまいがちなので、今回は大正期の和犬保護活動を取り上げてみましょう。
 

【消えた地犬】

 
大正時代の日本犬は、昔話や地方旅行記の中にだけ登場する「希少犬」と化していました。一般の和犬はおろか、飼育者が多かった秋田犬すらも惨憺たる有様だったのです。
 
鬪犬といふことが廃れて、此のやうな犬の使ひ途が無いからでもあらうか、犬と云へば、大抵は雑種にしてしまつて、純粋の國犬は無い。
成る程、雑種の犬は毛並みも美しく、其の習性もよく人に慣れて、可愛らしい。併し野武士的な質朴な、露骨な點が少い、天真爛漫といふやうな味に乏しい、此點はどうしても純粋の日本犬で無くては見られぬ。

あの尾をクルリと巻いた、口先の尖つた日本犬は、明治維新までは、澤山居つたさうである。併し之は、今日では丸橋忠彌の濠端の芝居ででも無くては見られぬやうになつてしまつた。
土佐犬の飼育にせよ、鬪犬が廃れたからは、大抵は雑種にしてしまひ、餘程風變りの人ででもなくては、之を飼ふ人がないといふやうな有様になつてしまつたのである。成る程鬪犬といふことは、現代から見れば、如何にも野蛮で、惨酷で、到底文明人の爲すべきものではあるまい。

況んや金品を賭けて、之を争ふに至つては其の弊害が極めて甚しいから禁止されるのも無理は無いが、夫れに鬪犬其物に弊害があるので、犬其物は與り知らぬ筈 である。鬪犬が惡いからとて土佐犬の種類まで絶やすのは、理由のないことであるし、學術上の見地から見ても惜しいことと思ふ。
内務省が秋田犬の保存に着目したのは喜ぶべきことである。
闘犬にして、番犬でないからといふ理由で、土佐犬の飼育に反對する人がある。此の種の人に向つては、犬の習性が變りさへすればよいかと反問したくなる。併し土佐犬で愛すべき點が澤山ある。番犬の役をしないといふのは、させぬやうにした人の方に罪がある。
探偵(※犯罪捜査)にも犬を用ゐる。軍用犬も研究され、獵に於ては益々犬の利用が上手になる。
此時に當つて一の土佐犬の利用法のないわけは無い。鬪犬の外に能なしといふのは、之を利用し得ぬ人の能なしを表白するものでは無からうか。
聞く處に依れば、歐洲では、何處の國にも、國犬といふものがあつて、其國獨特の犬があり、國家は非常に大切に之を飼育せしめて居るとの事である。倫敦市中のあんな交通機關の行届いた處に、尚三百年前の歴史を語るガタ馬車があるといふ話と同じである。之は實は床しい話しである。
翻つて日本の現状はどうか。
三百年の昔を語る唯一のお濠を埋めて、貸長屋を作れといふ論者が東京市の参事會員にあるとの事だ。
此の手合には恐らく國犬の話も譯(わか)るまい。内務省の此の擧が、どの位の効果あるかは未だ解らぬが、此の點に留意されたことは感謝に堪へぬ。願くは我が國犬をして、絶滅の悲運から一刻も早く救ひ出したいものである。
 
金井紫薫『國犬を保存せよ(大正9年)』より
 
犬
ペット商の田中千禄は、自らが主宰する『犬の雑誌』上で和犬改造論を唱えました。英ポ、獨ポに続く「日本ポインター」なる国犬作出も計画されています。
 
大正時代にも「狆に続く国犬が必要である」という議論は盛んでした。しかしソレは、和犬保護を掲げた国犬論とは完全に異質のもの。
土佐闘犬のように、「我が国で交配作出された和洋折衷犬こそ国犬に相応しい」とされていたのです。
ジミな和犬は棄て去り、外国に自慢できる見栄えの良い大型犬を新たに作りだそう。ベースにするのは洋犬でもいいじゃないか。
……せっかく内務省史蹟名勝天然記念物調査會の保存要目に秋田犬が含まれたというのに、飛び交っていたのはそのような意見ばかりでした。
輸入した外車に富士山を描いて「国産車でござい」と披露するようなものですが、関係者は恥じ入るどころか自信マンマン。
 
改造、改造、改造の標語は流行語となれり。吾人は眞に心から犬の改造を力説せざるを得ず。獵犬にせよ、番犬にせよ、改造に改造を重ね遂に世界一優良なる多くの善良種を作り出せる英國の例にも見よ。また欧米各國それ〃他國より或る種を輸入し来り夫れに改造を加へて自國の氣候風土に適応する「國犬」とも稱すべき各種の畜犬を産み出せり。
東洋に於ても支那には九龍犬あり、蒙古犬あり。然るに、東洋を代表し世界五大國の一に數へらるゝ我が日本に於ては如何。土佐犬、秋田犬ありと雖もこれ單に無用有害なる鬪犬用に止まり。而も今や此種の良犬は年々減少しつゝあるに非ずや。殊に獵用、番用、愛玩用、其他の畜犬に至つては日を逐ひ月を逐ふて犬種の堕落、退嬰しつゝあるのみ。茲に於てか畜犬改造の最も急務なるを思はしむ。
 
田中千禄『畜犬を改造せよ(大正9年)』より
 
田中千禄自身は大の闘犬嫌いであり、自分の店でも扱っていませんでした。しかし日本犬の用途が狩猟と闘犬だけという現実も認識しており、「それ以外の活用法を模索しない限り日本犬は絶えてしまう」と危惧していたのでしょう。
危惧するあまり、なぜか「洋犬と和犬の折衷犬」へ飛躍してしまったというワケです。
いっぽう、再び盛んになった闘犬熱も和犬交雑化に拍車をかけました。大きくてケンカに強い犬ならば、在来犬でなくともお構いなし。「日本犬保護」など眼中にない闘犬家たちは無節操な交配に励み、当然ながら壊滅的な状況へと至ります。
 
犬
大正8年、秋田犬を調査中の渡瀬庄三郎博士。日本犬が天然記念物指定されたのは、彼が世を去った後でした。
 
【秋田犬保存活動の先駆者たち】
 
山間部で交雑を免れていた中型日本犬と違い、都市部で闘犬に用いられた秋田犬の雑化は深刻なものがありました。
本場である秋田県には、各地から土佐闘犬が集結。大正時代になるとそのスピードが加速されていきます。
この旗振り役となったのが、後に日本犬保存会で活躍する京野兵右衛門。意外や意外、日本犬保存運動とは正反対の立場にある、闘犬界の出身だったんですねえ。
 
遠く我が東北の斯界を回顧するに、昔から大舘鬪技場に於て年中行事將又東北名物として爾來數十年地犬の猛技に親んで居りましたが、大正の中期に至り湯澤町星華園主人京野兵右衛門氏が、鬪技犬と鬪技の改良を叫び、巨額の私費を投じて本場土佐より古今の名犬横綱雷電を初めとして、吉良小、高陵館、久保、次郎丸等の逸物を續々移入し、日夜鬪技の改良名犬の作出に盡瘁せられ、其の結果幾年ならずして土佐種として東北を代表する大部分は雷電系久保系に覆はれ、數百金を以て縣外へ移出せるもの實に數十頭。

本場土崎にまで逆輸出するの勢力を確保し、改良犬としては不世出の名犬ブラツクを始め、多數の名犬を作出し、中央東京を始め遠く四國、北海道からも斯界の大家が雲集し、其の統制された盛會振りは言語に絶するものがありました(土崎愛犬會會長・岩間政之助 昭和10年)

 

秋田県における闘犬風景(大正12年以前の撮影)
 

洋犬や土佐闘犬の大量流入は、地犬の姿も変貌させました。

大型化の流れには誰も逆らうことができず、旧来のマタギ犬は現代の秋田犬へ移行していったのです。
明治~大正中期は、ちょうどその過渡期にあたりました。
 
現代、犬の種類として秋田犬を語る場合は、原産地秋田に於て蕃殖に関心のはらわれた大正末~昭和初期(栃二号、ババゴマ号等の犬史に残る名犬の活躍した時代)。或は文部省が天然記念物に指定した、昭和六年七月を以って創設期とするのが普通である。なぜならば、犬種としての大正中期以前の姿が確立されていないし、特に明治中期~大正中期にかけて多くの秋田犬が闘犬に使われていた為、体型も大きくせねばならなかった。
昔ながらの国犬としての秋田犬を保存する人も殆どおらず、土佐闘犬の血を入れたり、其の他、洋犬の交雑により純日本犬として動揺が著しかったからである。
大正八年、我が国に初めて史跡名勝天然記念物保存法が施行され、故渡瀬庄三郎博士により第一回目の秋田犬調査が行われた。当時は体型もくずれた犬多く、垂耳、半立の耳力のない立耳、耳の縁が乱れている犬、前傾度のない直立、そり耳、毛の短い犬、綿毛のない犬、口吻の箱口が著しく、口ビル、ノド肉の垂れ下がった犬、尻尾の完全でないもの、胴の著しく長い犬、或は樺太犬の本州移入の影響とも思われる長毛の犬等、此の時代に於ける不純化した悪影響として、相当後々迄にこれが現れている。
 
長島繁『秋田犬を飼う予備知識(昭和31年)』より
 
大正時代の秋田犬は、立耳巻尾の在来個体と闘犬目的で改良された戦闘用個体が混在中。後年の秋田犬保護活動も、在來犬重視の「秋田犬保存会」と闘犬重視の「愛犬協會」へ分裂していきます。
 
 
輓近秋田犬と称するものは概略二種に分つ事が出來る。即ちブルドツグの血を混じたる雑種と在來の純日本種の二種であつて、ブルの血液を受けて進化して來たものは在來種に比して手足割合に短く胴は狭長である。又習性も甚だ落着いて容易に吠えないかはりに人に喰ひつく恐れがある。
在來種は未知の人を見ると盛んに吠えつくが人を襲ふ如き場合は稀であるから番犬には適當してゐる。秋田犬の鬪争に際しての強みとでも云ふものは、體重が重く―雄で十一、二貫、雌で九貫位に成育する―随つて體力が強壮である。且又風土の影響上皮膚厚く被毛は濃密で擧動頗る敏捷である。
 
写真と文・大舘町在住 舘資次『秋田犬(大正11年)』より
 
波瀾に満ちた秋田犬の歴史は、美談化するのに打ってつけの素材です。
現代に伝えられるのも、「行き過ぎた闘犬化に対抗して秋田犬保存運動が始まった」という戦後の回顧録ばかり。
しかし、実際は違いました。
大正期の記録に目を通すと、「闘犬禁止令の撤回を目論んだ、大義名分としての秋田犬保護活動」も存在したことが分かります。
純粋な和犬保護活動などは幻想に過ぎず、関係者それぞれの思惑があったのですね。
 
鬪犬が全く禁止せられてから龍虎相撃つ壮觀は再び見られなくなつたが、髀肉の嘆に堪へぬ人々の中には禁を犯して「合はせる」ものが未だ中々絶へぬらしい。時折り町の奈邊から凄じい吠聲が起つて來ると、云ひ合した様に人々はニツコリと笑ふ。
其の苦笑の影には「禁止だなんて野暮な事を云つたつて」と云ふ様な小さな反抗と皮肉とがある。
秋田の人は就中闘犬の中心地であつた大館の人々は、禁止令などと云ふ毛唐じみた御布令もなく、鬪犬の快を心ゆく迄飽喫し得る土佐人士を羨んでゐる。

「このままにして於いたら近き將來に於て秋田犬も滅亡ですよ。御覧なさい好い犬は皆んな他國へ出て行つて碌なものは殘つてゐませんよ。それに斯うなつちやあ眞面目に育成しようとする人もありませんからね」と。又「純粋の秋田犬と云ふものは極く少なくなりましたよ。土佐やブルドツグの血が大分混つて今から注意しないと種なしになりますよ」と秋田犬の長い歴史に通じてゐる人は斯う云つて痛嘆する。

赤や黄布の飾り帶をした黑斑や虎斑の猛犬がニ、三の若衆に引かれて大館の町を無聊げに歩んでゐるのを見ると一種の哀愁を覺へる。斯る催しに附帶する賭博などは絶對に無いさうであるから、我が國唯一の純和犬(※当時の認識はこんなものです)を保護する上から云つても何んとか規則を設けて是非鬪犬を復活させたいものだ。
一日或る人が「御参考に大館中の名犬を集めて見ましよう」と誘つて呉れたので、雨もよいの空もなんのそのとばかり早速尻端しをつて見物にと出かけた。
其處は町端れの八幡社で社殿のかげや杉小立の下にはもう十數の猛犬が集まつてウーウーワンワンと方を怒らせ尾を振り立てたりして虚勢を張り合つてゐる。噛み破られたらしい大禿が肩に殘つてゐる赤白の猛犬や、片方の耳がつけ根からぶらぶらしてゐる虎斑の老犬が昔の戰跡を誇り得顔に一段と物凄い格好をしてゐる。
「わざわざ東京からいらつしつたのだから合はせる事は出來ません迄も其の形だけでも」と世話人はあつちへ行つたりこつちへ行つたりして漸々絶好の取り組みが定まつた。
 
文と写真: KS生『秋田にて闘犬を見るの記(大正11年)』より
 
大正11年、秋田県大館町の八幡社境内で対峙する「金藤」號と「稲の花」號。これは観光客向けの闘犬デモンストレーションだった筈なのですが、なぜか実戦突入のあげく判定を巡って人間同士の殴り合いへ発展しております(その地獄絵図については闘犬史編をどうぞ)。
いくら賭博行爲を控えたところで、ヒートアップした出場者が乱暴狼藉を働く闘犬界の悪癖は改善されませんでした。
 
【関東大震災と犬】
 
「このままにして於いたら近き將來に於て秋田犬も滅亡ですよ。御覧なさい好い犬は皆んな他國へ出て行つて碌なものは殘つてゐませんよ」と秋田県で嘆かれていた頃、闘犬としての秋田犬は価値も高まり、関東方面でも盛んに流通していました。

 

しかし大正12年9月1日、10万5千人もの犠牲者を出した関東大震災が発生。
家畜の被害も夥しく、東京府畜産課の調査記録では府下被害総額544万圓、焼死した馬は1万4千頭、非常食として殺処分された牛2500頭(避難住民の復帰で牛乳需要が回復するまで、乳牛も食肉となりました)、養鶏は126万円、震災前後の豚コレラ流行による殺処分もあって、養豚は2万8千円の被害となっています。関東全域では被害も更に拡大しました。
震災によりペットを失った飼主、主人を喪った犬も多かったのですが、犬についての被害状況は不明。当然ながら日本犬限定の分析も不可能です。
 
関東犬界は玄関口の横濱港もろとも壊滅し、以降は国際港神戸を有する関西犬界が日本の中心となっていきました。

 

大正12年8月20日に東京亀戸の犬猫病院を受診し、9月1日の関東大震災を生き延び、9月26、27日に再来院していた仔犬。被災した飼主のため、獣医師も奮闘を続けていました。
秋田県で忠犬ハチ公が生誕するのは、これから一ヶ月ちょっと後のことです。
 
関東エリアで暮らす犬は、震災によって大打撃を受けました。
各地の避難所へ集まったペットのうち、幸運なものは避難生活を終えた飼主に引き取られます。しかし、大部分の犬猫は野良化していったのでしょう。
震災を生き延びたペットには、更に過酷な運命が待っていました。
被災によって畜犬行政が停滞した結果、震災前に126頭だった警視庁管内の狂犬病発生件数は、翌年になると726頭へ激増します。
危機感を募らせた警視庁は、大正14年1月14日~2月末にかけて警官と家畜防疫員によるローラー作戦で管轄下畜犬登録状況を調査。無届飼犬4153頭を摘発し、うち飼育届が出されなかった1046頭を殺処分としました。
続いて7月1日からの第二回調査では1150頭、8月15日からの第三回調査でも3727頭が摘発され、うち564頭が野犬として殺処分されます。
震災によって飼い主を失った日本犬たちも、その犠牲となったのでしょう。
 
被害の一方で、関東犬界は迅速に復興。東北犬界や西日本犬界から犬を供給されつつ、日本犬の流通も再開されました。
震災直後に生れた秋田犬の仔犬が、年明けには秋田県から東京へ寄贈された記録もあります。ちょうど震災の余震(犠牲者8名)が重なって上野への到着は遅れたものの、新天地での飼育は滞りなくスタートしました。
この仔犬が、後の忠犬ハチ公。震災によって人口の移動が見れらたのと同じように、北から南へ、西から東へと日本犬の移動も拡大していったのでしょう。
 
消えゆく秋田犬を憂い、大正時代が終わるとともに保護活動がスタートしました。
それが昭和2年に秋田犬保存会を設立する泉茂家と、闘犬団体「愛犬協會」を率いる田山彌一郎でした。
 
何れ動物相手の仕事は、その動物を愛し親しむ根本精神に源泉を發し、犬を中心とした郷土愛に甲乙の區別がないものであります。若し夫れ、明治中頃からの愛犬協會がなかつたならば、秋田犬も恐らく今日の如く、盛名を馳せ得なかつたものでありませう。此の愛犬協會は、元ケンネルクラブ、又は遠遊會等の前身を持ち、明治三十年代を最盛期とします。
そして當時は、優良秋田犬も尚ほ多かつた時代であります。
然るに、明治四十年代。當時の知事森正隆氏時代に、闘犬に對し、大鐵槌を加へられ、随つて愛犬熱も低下し、同時に優良秋田犬をして影を潜めしめる結果をもたらし、當地の愛犬達に、暗いかげを投げたもので、此の時代を以て、我が秋田犬の暗黒時代とします。
「闘犬なくして秋田犬なし」との信條は、かゝるデリケートな事實によつて、うなづかれるものであります。此の間、泉氏は終始一貫秋田犬保存の愛犬家として立ち、田山氏は闘犬を主に秋田犬を従に、共に秋田犬保存史上の功績は没すべからざるものであります。
現在愛犬協會員百五十人闘犬種八十頭、秋田犬保存會員十人、秋田犬八頭を數へる狀況にあり、犬の町の名に背かぬものであります(小山勝)
 
 
神奈川県で撮影された、やや交雑化した垂れ耳の秋田犬(大正11年)
 
明治時代の秋田犬保存運動を目にしていた、秋田縣史蹟名勝天然記念物調査会委員の証言をどうぞ。
 
明治三十三年、東宮殿下御慶事記念として、時の知事武田千代三郎氏の發案により大舘中學校より献納の節は、御嘉納の上「殊ノ外御満足ニ思召サル」との御沙汰を拝しました。閑院宮殿下、赤十字支部總會への御台臨と、本縣下御通過に當り、再度の光榮を擔ひ、「本犬種属ハ常ニ宜シク保護ヲ加ヘ發達ヲ計ルベシ」との御詞を賜はりました。
大正三年、大正博覧會に牡牝二頭出陳、銀牌及銅牌を得ました。斯様に、當地方人が、秋田犬の聲價を保存して來た事は、愛犬熱によりよく犬に對して協調的努力を發揮した結果に考へられます。かゝる間に、故徳川頼倫候を中心として、朝野の學者名士により、史蹟名勝天然記念物保存の興論が起り、大正八年の法律發布、直に實施され、就中動物に就きては、故渡瀬博士起草の保存要目(一から區分さる)その八に、「日本特有なる畜養動物」として、土佐の尾長鶏・鶉尾ちやぼ・狆・土佐犬・秋田犬・隠岐馬・土佐駒・種ケ島うしうま等をあげられ、何れも早急保存の途を講ずべき必要なる動物と認められたものであります。
 
大正九年、保存法實施の劈頭に於て、多大の期待を以て渡瀬博士は、大舘町へ出張されました。悲しいかな、恵まれざる秋田犬は、最衰退期に當り、「秋田犬とはこんなものか?!」と失望され、爾來秋田犬の保存は立消の状態になりました。しかし博士の激励により、當地の愛犬家に秋田犬保存の氣運をもたらし得た事は忘るべからざる事實で、泉氏等の率先奮起となつたものであります。
大正十三年牛込の博士のお宅で、當時の模様を拝聴する事を得、次いで博士の御指導により、昭和二年、拙著「自然の國寶と日本人」に「トチ一號」を紹介し、いさゝか愚見を述べる機會を得ました。昭和四年に博士の逝去されたことは、國家學界のためにも、保存事業のためにも、殊には秋田犬保存指定を見るを得ず誠に痛惜い堪えなかつた次第であります。次いで一斑秋田犬が指定を見ました。越えて八月十九日、大館停車場構内で、優良犬八頭、澄殿下の御臺覧を仰ぎました」
小野進『犬の町大舘の犬風景を語る(昭和6年)』より
 
犬
秋田犬保護に尽力した泉茂家町長と、天然記念物指定の先陣となったトチ2號(の皮)。
 
天然記念物指定を進める内務省(昭和3年以降は文部省へ移管)や秋田県だけではなく、全国規模での和犬保護運動もスタートします。
先駆者となったのが、後に日本犬保存会を設立する斎藤弘吉(ペンネームは斎藤弘)と日本犬協会理事長となる高久兵四郎。敵対関係にあった二人も、消えゆく日本犬を護るという目的だけは同じでした。
 
昭和三年四月、齋藤弘氏が大舘町へ秋田犬探査に来られた時、「當時大舘町は闘犬飼育者ばかりで、自分の探し求める秋田犬を飼つてたのは同町々長であつた泉茂家氏と、畜犬商の越前新吉君だけであつた。それから二井田村の一関氏よりなかつた」と云はれて居ります。越前氏は養鶏と薬草を本業とし、もともと好きだつた秋田犬を、薬草蒐集に縣内は勿論岩手、青森方面に出掛けて、そのついでに認めたものを買ひ求めて連れて帰つた事もあつた様だつた。或る時には山で木陰に犬と寝宿りした事もあると話されたものでした(秋田犬保存会長 平泉栄吉)
 
大正時代から努力を続けた結果、秋田犬の姿はようやく固定化されました。しかし、日本犬の用途は猟犬や闘犬、せいぜい番犬程度。
人間の友として品種改良が重ねられてきた洋犬と比べ、どうしても見劣りします。
「無価値な地犬」を再評価させるには、是が非でも「国犬」「天然記念物」「スター性」という箔付けが必要でした。
 
昭和2年、設立されたばかりの秋田犬保存会に一人の青年が訪ねてきます。
彼の名は斎藤弘吉。東京美術学校の出身で、もともとは洋画家を目指していました。
この訪問で、「秋田犬どころか日本犬全体が消滅の危機にある」と知らされた彼は、全国規模で保護運動を展開するため「日本犬保存会」の設立を決意。
第一回犬籍簿へ登録するため、いつぞや東京の駒場で見かけた秋田犬を探し出しました。飼主の小林菊三郎氏に出自を聞いたところ「前の主人である上野英三郎博士を亡くした後、毎日渋谷駅へ通っている」と判明。
それから3年後、文部省は秋田犬を天然記念物指定します。翌年、斎藤弘吉はハチ公のエピソードを新聞へ投書。震災直後に生れたこの秋田犬は、8年間の東京暮らしを経て「忠犬ハチ公」としてデビューしました。
こうして「消滅しかけていた無価値な地犬」は、「国犬」として「天然記念物」となり、ハチ公のような「スター性」も獲得したのです。
大正期のブルドッグ、昭和初期のシェパードに続き、日本犬の飼育ブームが到来しました。
秋田県からは続々と犬が出荷され、昭和11年度に東京エリアで飼育登録された秋田犬は335頭にのぼります。同じく柴犬600頭、土佐闘犬570頭と比べて見劣りしますが、和犬界はシェパード界、猟犬界、愛玩犬界に匹敵する勢力へと成長していきました。
 
秋田犬の賣買相場としては壱頭八百圓と云ふものが最高値であつたが、普通は二、三才の雄で百圓、雌で七八十圓、將來見込みのある仔犬であれば雄が三十圓、雌で二十圓位の見當である。然し此も云はば仲間同志の取引相場であつて、最近は東京方面から盛んに需用があつて價格も頗る昂騰した様に思はれる(舘資次 昭和11年)

 

【使役犬としての日本犬】
 

大正時代は使役犬の分野が大きく発展した時代。警視庁でも大正元年から直轄警察犬制度を採用しています。
ここで日本在来犬が候補に挙げられたのかといいますと、実は見向きもされていません。
 

元來犬と云ふ動物は性質が怜悧で躰躯が敏捷であるから疾駆追跡には極めて妙である。特に鼻は極めて鋭敏であるから人間の智識技能に依りて犬の本能的特性を利用すると人間の探知すべからざる秘密や證跡を探ることが出來るのである。

然らば犬はドレでも容易に犯罪捜査に利用する事が出來るかと云ふに、決して左様ではない。殊に日本の在来種は殆んど役に立たない。蓋し日本犬は性質餘り剽悍で容易に人の調教に馴れないのと、動もすれば成功を急ぐ爲に折角の労苦を水泡に歸せしむるの弱點がある。之を例令ば鋭敏なる鼻覺に依りて一歩一歩を辿り行く際、如何に證跡が數歩の外に歴然たりとするも尚ほ從來の歩調を紊るゝなく一歩一歩に行かざるべからざるに、日本犬は證跡の抑ふべきものあるや直ちに五歩も十歩も飛び行くが故にトモすれば其の効を空くするのである。

警視廳鑑識課長談『犬の犯罪捜査に就て(大正2年)』より

 

……散々な評価ですねえ。

結局、警視廳が採用したのはラフコリーのバフレー號、レトリヴァー・英セッター雑種のリリー號、グレートデーンのスター號、エアデールのリキ號たちでした(当時、シェパードやドーベルマンは来日していません)。

 

同時期に「使役犬として日本在来犬をテストしよう」と試みた公的機関が、日本陸軍歩兵学校です。

日露戦争で遭遇したロシア軍用犬部隊に着目した歩兵學校は、大正2年の設立直後から外国軍用犬の調査をスタート。続く第一次世界大戦における欧州軍犬レポートを邦訳した上で、大正8年度から実地研究に着手します。

さまざまな洋犬に混じって秋田犬、土佐犬、カラフト犬もテスト候補となりましたが、その評価は散々なものでした。

 
帝國ノ犬達-運搬犬
大正11年に撮影された、陸軍歩兵学校のテスト犬たち(画像はカラフト犬でしょうか)。来日し始めたシェパードやドーベルマンと共に、土佐闘犬と秋田犬も参加していました。
 

現時迄に研究し得たる事項
軍用犬研究の目的は、前述の如く三期(※大正8年度~10年度)に分ち詳細に規定したるも、経費僅少にして所定の犬を得る能はざる爲、充分に其目的を達するを得ずして、功労相伴はざるものありしも、左記事項に就ては概ね研究する事を得たり。
1.所要訓練日數
軍用犬の所要の訓練日數は、犬の性質及能力に大なる關係を有するを以て、一定する能はざるも、能力中等の犬なれば、傳令用として概ね三ヶ月、輓曳用としてニ、三ケ月を要す。
2.犬の役務の適不適
内地各地に飼養せらるる雑種犬(本邦に飼養せらるゝ犬の大部分)は、輓曳用として使用し得るも傳令勤務に服せしむるを得ず。優良なる獵犬として賞揚せらるゝセッター種、ポインター種及秋田犬は軍用に適せず。獨逸番羊犬(※大正期におけるシェパードの呼称)は軍用犬として良好なる種族と認む。樺太犬は傳令勤務に使用し得ざるも、輓曳用として最も適當なり。
3.犬の能力
獨逸番羊犬は傳令勤務に服し、一吉米を三乃至五分の速度を以て、四吉米内外の距離を確實に往復通信し得。樺太犬並雑種犬の強健なるものは、平坦堅硬なる道路に於て、概ね十一、ニ貫の貨物を搬送し、日々十里内外の行軍に連續耐ゆる事を得。
將來に關する意見
當校に於ける研究の経過、成績前述の如く外國犬種中優良なるものは軍用として諸般の役務に堪ゆる事は、歐洲各國之を有利に使用せる事例を裏書せるの外、本邦に於て求め得べき犬は、其大多數を占むる雑種なると、純血日本種たるとを問はず能力不十分にして、軍用に適せざるを経験せり。
故に將來軍用犬を帝國軍隊に採用するの能否は、一に懸りて能力十分なる外國犬種の蒐集、補充並に本邦に於ける犬種の改良増殖の問題に歸着すべく軍用犬研究の必要の有無は國軍に軍用犬を採用すべきや、否やに關するを以て、國軍として、先づ此根本問題を解決する必要ありと認む(陸軍歩兵学校のレポートより)

 

こうして、日本在来犬は「大手就職先」である警察や日本軍から不合格を通知されてしまいます。活用の道が断たれた日本犬に、消滅の危機が迫っていました。
 

交雑化が深刻化していった時期の秋田犬(大正2年撮影)
 
私は、この地方の生田と称する豪農の若旦那がポイントらしいことさへ出來ぬ、得體の知れぬ獨ポと称するものに、雑犬をかけて、毎年ジヤン〃仔を生まして、其の仔を出入りの小作人の獵を好きな連中に三拜九拜せしめてバラ撒いてゐるのを知つてゐた。
さすがに、職獵師の頭領連は、彼等の長い間の經験が彼等をしてこんな犬に三拜九拜はせしめなかつたが、生な獵師連は「生田家の犬……」と云つて、金持の犬はたとへその金持が犬にも獵にもピンボケであつても、頭から名犬―と定めて、この仔犬の拝領を鼻高々と近村にふれ廻した。

それは、この山村の和犬の名系の數々が、近來全く絶滅して、見るに不快な洋犬の雑種の、また雑種と云ふな化物となつた一つの近因であつた。金ある有閑階級の人達こそ、獵も犬ももつと研究と理解を以てくれたなら……。私は口惜しい努力を續けながら何時も考へてゐた(宮本翠夢庵)