犬の飼育環境は、長い時代に変化を遂げながら現代へ至りました。
それでは、昔の日本人はどのように犬を飼ってきたのでしょうか?
縄文時代や弥生時代の記録は残っていませんが、発掘された情報から想像することはできます。
古墳時代には朝鮮半島から猟犬訓練法が伝わり、やがて特権階級の犬の飼育に関しても記されるようになりました。
しかし中世あたりまでは断片的な記録ばかり。文献で犬の飼育法について知ることができるのは、近世になってからです。
近世から近代へ移ると西洋式の飼育訓練法やペット医療が導入され、犬の飼育法は劇的に変化していきました。

江戸時代のペット事情としてよく見かけるのが「江戸時代の庶民は犬を飼わなかった」「個人ではなく地域で飼っていた」という解説。
実はアレ、正確ではありません。おそらく柳田国男による「村有犬」の概念を鵜呑みにし、個々人の愛犬家心理や地域性を無視して拡散されたものです。
たとえ江戸の庶民がそうだったとしても、上方の庶民はどうだったの?蝦夷地のアイヌ民族は?

当たり前ですが、江戸時代の日本を「江戸エリア」だけで語るのは間違いです。
江戸時代には好き勝手にペットを飼育していた地域もあれば、厳しい規則が定められていた地域までイロイロありました。
そろそろ「東京の地域犬界史」に過ぎないシロモノを「日本の犬界史」と詐称するのは止めにしましょう。日本犬界とは、全国地域犬界の集合体なのです。
日本全体を俯瞰できないのであれば、せめて「江戸時代のどのあたりでは、どこそこ地方の庶民はどうだった」とか、時系列やエリア限定で江戸時代を語るのが無難だと思います。

犬

上の画像は、九州の片隅に建てられたペットの墓です。
葬られているのは、安政5年頃に武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県近郊)で生まれ、明治2年に日向の佐土原(現在の宮崎県宮崎市)で死んだ「福」。佐土原藩主島津忠徹夫人である随真院が飼っていた狆で、犬でありながら藩主の墓域に埋葬された特異なケースでした。
個人の感情を無視し、江戸時代のペット観を一面的に語る事は正しいのでしょうか?

特権階級のペットは論外だと言われるならば、花咲爺さんなどの昔話はどうでしょうか?
昔の人も犬を飼っていたからこそ、あのような愛犬談が生れたワケです。

帝國ノ犬達-暁鐘成
天保6年に大坂の暗峠で建立され、現存する「犬墳の碑」。庶民のペット慰霊碑です(曉鐘成画・嘉永7年)

よくある「江戸エリアの犬界史」ではなく、今回は「江戸時代の西日本ペット事情」を解説しましょう。
まずは「福」の墓がある宮崎県の隣、鹿児島県におけるペットの飼育法について。
「薩摩の犬」といえばエノコロ飯の話ばかりが吹聴されていますが、史料を繙けばさまざまなペットが登場します。
天明2年(1772年)、薩摩藩に招かれて九州南部を訪ねた大坂の医師・橘南谿は、薩摩犬の飼育法について書き記しました。

「薩摩は武國にて若き人々は山野に出て、鳥獸を獵る事、他國よりも多し。すべて山野に獵するには、よき犬を得ざれば不叶事なり。
彼邊の犬、常の人家に養ひ飼ものは長が低く、上方の犬よりも少し小なり。常に座敷の上にて養ふて上方の猫を飼ふが如し。
至極行儀よく上方の犬よりは柔和なり。異品といふべし。
又獵に用る犬は格別に長が高く、猛勢にて座敷に養ふことなく、上方の犬を飼ふ通りなり。猛勢なる事は上方の犬に十倍せり」
橘南谿『西遊記』より 

薩摩犬には中型の猟犬と小型の柴犬タイプ(通称「兎犬」)がいて、小型犬は屋内飼育だったと記されていますね。
続いて江戸時代の大阪で、一般庶民向けに発行されたペット飼育マニュアルがこちら。「犬墳の碑」を建立した暁鐘成の著作です。

犬狗養畜傳
浪華の戯作者暁鐘成の著、天保年間の版行と推定される。
今日の所謂犬の飼ひ方、病氣手當の方法を述べたもので、表紙は奈良の法華寺の犬守りの圖に「見も知らぬ人にもなるる犬の子に、なぜか佛の心なからん」と村上潔雄の歌をのせて居る。
見返しには徒然草の生き物憐みの文をのせ、口絵には母犬に戯ふる仔犬を畫き、「主しらぬ岡部の里を来てとへば こたへぬ先に犬ぞとがむる」の京極の歌がのせてある。

帝國ノ犬達-犬狗養畜傳

「序文には和漢今古の文を引いて犬狗 養慈悲を施す可きをのべ、本書を著すの意を記し、本文には中毒、皮膚病、負傷等の手當から平常の食事、寝床、犬殺しへ の諸注意に至るまで事細かに書き、奥書として瘈狗良方、犬の病を治す薬、病気診断の法、大阪心斎橋通博労町清水谷滄海堂精製の犬薬、瘈犬快生散、猘犬潤和 散、閉犬速開散、柔狗強壮散、瘈犬唆傷救愈散等の賣薬の廣告をのせて居る。
著者暁鐘成は又の名鶏鳴舎晴翁、性は木村氏、通称彌四郎、諱の明啓、著述は諸國の圖會や、芝居に関したもの、其他有名な雲錦随筆、蒹葭堂雑録等五十種にあまり、犬を愛すること類なく、他にも古今和漢の忠犬義犬談を編集した「犬の草紙」、別名古今霊獸談奇六巻の著がある」
齋藤弘『犬の古文書(昭和8年)』より


ほらね。江戸時代の大坂庶民は犬を飼っていたのですよ。

【日本犬界とペット事情】

近世の日本犬界は、蝦夷・江戸・上方・長崎に大別されます(日本が多数の領地に分れていた時代ですから、東西で区切るのが適切かどうかはよく分かりません)。

とりあえず江戸の話から。
当時の江戸の人々は犬を食用にしていたとの記述が『落穂集』に書かれてあるそうですし、当時の図譜をみても、珍重されたのは狆や唐犬やムク犬だけ。和犬は食用動物扱いでした。
生類憐令という極端な動物愛護運動もありましたが、その揺り戻しも大きかった様です。
江戸後期には犬肉食も廃れたそうですが(「最近の若者は飢饉時に犬を食べることも知らない」と苦言を呈されるほどに)、あまり楽しそうな話は見つかりませんね。

帝國ノ犬達-名呉町
大坂の名呉町(現在のでんでんタウン付近)で愛犬と暮らす一家(暁鐘成画・嘉永7年)

江戸犬界に対して上方犬界はどのような状況だったのか。
幸いにも、当時の大坂には多くの犬物語を記した愛犬家がいました。それが、戯作者にして浮世絵師の暁鐘成です。
江戸時代の愛犬家はいましたから、ペットの飼育指南書がありました。
有名なのが、上流階級のペットであった狆の飼育本。その他、武家の鷹飼部屋では鷹狩犬(鷹の獲物を草叢から追い出す猟犬)を飼う作法や飼育用具などが図解入りでマニュアル化されていました。

モチロン、一般庶民向けのペット本も出版されています。
それが、鐘成さんの著した『犬狗養畜傳』と『古今霊獸談奇 犬の草紙』。
ごく僅かしか現存していない稀覯本の『犬狗養畜傳』と違い、『犬の草紙』はある程度の数が市場に出回っています。
飼育法に関する部分の内容は二冊とも同じなので、今回は『犬の草紙』から引用してみましょう

暁鐘成
「犬の草紙」は全6巻。各巻の表紙は、犬の体毛(斑模様)を描いたユニークな意匠になっています。
内容は、1~5巻が日本と中国の犬物語集で、6巻が鐘成さん自身の愛犬談と犬の飼育マニュアル。
何故か知りませんが、私が所有しているモノは最終巻の最終ページ(「犬の怪異」のラスト部分)だけが破り棄てられていました。
……犬に変化したイラストが不気味なだけで、そんなに怖い話じゃないんだけどな。

鐘成が何で二つの作品に分けたのかというと、それぞれの出版目的が違ったからでした。
『犬狗養畜傳』の内容はペット医薬品カタログとなっています。製薬業者がいたのか?と思ったら「瘈犬良法」として「予常に此事を憂るにより、今般其治療の薬を製し、世に弘くなさんことを希ふ」などと、鐘成さん自作の薬みたいな書き方をしていますけど。
もっともらしい効能も並べてあるのですが、薬の成分を含め効果の程は一切不明。

・瘈犬快生散
時気不正の外邪(外的要因)で病気となった犬に与える薬。
・猘犬潤和散
短気で興奮性の犬へ与え、その性質を穏やかにし、後の患苦から救う薬。
・閉犬速開散
ふさぎ込んで食欲がない犬に与え、鬱状態を開放する薬。
・柔狗強壮散
虚弱な犬を健康にし、痩せ犬を肥らせ、毛並みをよくする薬。ただし、狂犬には与えないこと。
・瘈犬咬傷救癒散
狂犬に噛まれた時、狂犬病を予防するための薬(食事療法と併用のこと)。

いっぽうの『犬の草紙』は、唐土や日本に伝わる忠犬・義犬談、愛犬物語、犬にまつわる奇譚や怪談、闘犬や動物虐待への戒め、犬の遺骸処理法が変貌していく世相といった説話集でした。
これだけ多様な犬物語が江戸時代の日本に存在したという事は、当時の人々が犬について大きな関心を持っていた証でもあります。
そして関西地方においては、この種の本に需要があるレベルで愛犬家の数も揃っていたのでしょう。

『犬の草紙』の中で最も心打たれたのは愛犬「皓(シロ)」への愛情でした。
鐘成さんはどのようにしてシロを飼っていたのか。
それを知る手がかりが、第六巻の付録に記されています。

帝國ノ犬達-暁鐘成
 
犬狗をやしなひ育つる慈愛の心得

〇犬馬銭(まちん)の毒に中(あた)るときハ、急に冷たる水を呑しむべし。其毒を解す。又平生に冷たる茶を飲ませをけバ、毒の中り少しといふ。
予が知人餘りて捨べき茶を日毎に食にかけて喰せり。いまだ試ミざれども、茶ハ冷すものなれバ、腹中の熱をさまして、最彼には薬なるべし。
〇狗病を発する時ハ桃の木の葉を搗爛らし、其皮毛にすりつけ、少時して是をあらひ去るべし。斯のごとく数回すれバ終には治するなり。
〇癬疥を生ずるときハ好(よき)茶を煎じ、一夜冷して後是を洗ふべし。
〇創(きず)を受る時ハ、急に小豆を煮て喰しむべし。多くハ粒を嫌ふものなれバ、能すりつぶして喰しむべし。
若きらひて喰ざれバ、魚の汁などをかけて喰すべし。且灼傷(やけど)打傷等にもよし。
凡そ小疵ハ自ら舐りて癒ゆるといへども、所によりてハ舌とどかずして舐ることあたハざることあり。
何れにもあれ、創をうけなバいそぎ小豆を煮て食せしめ、早く痛苦を救ふべし。
〇凡そ犬の煩ふにハ、小豆を煮て喰しむれバ大概ハ治する者なり。若治し難き時ハ唐の烏薬(※漢方薬。乾燥したテンダイウヤクの根です)を細末し食用の物に交ゆるか、又ハ米粉の團子などに和し、丸薬の如く製へ、魚類の汁などに漬し服しむべし。
予年來用ひて其験(しるし)を識れり。
〇壁虱(ダニ)皮に入て血を吸ふこと常にあり。多くハ指の股に喰つく故に、必ず脚をかゞむる事あり。
其歩むに珍跛のごとくなるハ怪我にあらざれば、指の股を穿鑿して、是をとりて助くべし。
又耳の中耳のふちなどにも喰つきをれば、時〃見て遣すべし。
其余(そのほか)蚤虱をも取るべし。
〇狗蠅は多く老たる狗にわくものにして、凡そ頸のひとりに群り、毛の中を潜りて血を吸ふものなり。狗蠅ハたばこの脂を禁ふゆゑに、何れも煙草のぢくを編みて、首環に作り掛るあり。此趣向もつともよし。
又燈油を総身の皮毛にぬり付れば、忽ち蠅さり死するなり。
蚤の多くわくことハ豫て知るところなれども、虱の多くわきたると知ざりしが、近年予が愛せし牝犬の子ども産みて後煩ひたりしが、種〃に心を盡し遣しかども、畜齢の盡る所にや、産後二十日ばかりにして死せり。
さる程にいまだ乳の放れざる児なれバ、白粥を煮て魚の味噌汁に和し、掌に盛りて行手(かたて)にて抱きかゝへて養ひしが、食する事をよく覚へし程に、世話なる事ハ言ふばかりも有ざれども、育つるにハ難からず見えたり。
然るに何の故もなく、二三疋も続きて死するにより、其病根を試みれども更に知れず。
屡〃を惜しみて抱きつゝ撫さすりたるに、豈料らんや身体一面に虱を生ぜり。背のみかハ眼のふち鼻の際、聊にても毛のある所にハ悉くわきて、見るに身毛もよだつばかりなり。
按るに是ハ正しく母犬の病によりてわきたるを、晝夜身辺にありて傳りしなるべし。
さる程に何の故もなく前に死したるハ、此蟲ゆゑに死せしなり。甚不便(不憫)の事どもにこそ。
其虱の形人に生する者と異にして、丸く色白く足多く大きさ芥子或は粟のごとし。
壁虱といへるものとハ別なり。
斯て生残るもの既に二疋に及べり。

帝國ノ犬達-犬の草紙
仔犬のノミ退治をする鐘成さん夫婦。座敷では仔犬が「浴衣に包みて暫時蒸」されております。

夫よりして即時に煙草のぢくを求めて煎じ出し程よき湯加減となして、全身及び面までも、眼の中に湯の入らざる様に浴ミさせ、頓(やが)て浴衣に包みて暫時蒸し、其後よく拭ひ櫛にてすき取るに、狗児も心よげに、吾〃が膝の上にて、前後もしらず熟睡たり。
二疋なれバ一ハ妻なるものいだきて斯の如くし、一疋ハ予が膝に置きて介抱す。
斯て日毎に浴みさせ、凡そ半月ばかり怠る事なく手を盡せしが、終に親虱は勿論、蟲子といへる卵までも殺し盡し、二児とも壮健に成長しけるぞ歓ばしかりし。
斯る事ハ思ひよらざる事ゆへ、彼が痛苦を知ずして終にハ死に及べるを、不便なる事なり。
慈愛のある人〃ハよく心得たまひて、若これらの如き事あらバ、右の通りにはからひ得させたまへかし。
尤(もっとも)犬の大小にハ拘るべからず。
彼成長の犬に蠅の多くわきたるにも、右にひとしく浴ミさせなバ、可ならんと覚ゆ。
〇生餅の和(やはら)かなるを喰はすべからず。口中に粘著き、あるひハ咽喉に詰て苦しむ者なり。又堅く乾びたるハ、咬砕きて食するゆゑ苦しからず。
〇河蝦(えび)海蝦ともに喰はすべからず。蝦類を食すれバ、脚かゞミて弱くなりて、腰抜の如く成るものなり。堅く禁(いむ)べし。
若誤つて蝦を喰ひ、其毒に中らバ黒豆の煮汁を冷して多く飲ましむべし。又鯡(にしん)を喰すもよし。
〇咽喉に魚の骨などたてゝ苦しむにハ、飯の塊を喰すべし。
〇総じて辛き物ハ熱物多し、與ふべからず。又酒の糟など宜しからず。
〇凡そ犬の諸病にハ唐の烏薬を末にして、食物にまぜ飲すべし。是に過ぎたる薬なし。然れども薬の香気するゆゑ、嫌ひて喰ざるものなり。
鰹の粉にまぜ飲すもよし、又鰹の末にまぜて丸薬の如くして飲すもよし。此烏薬は猫の病気にも用ひてよし。
〇常に臥(ふす)所にハ、莚、藁薦(わらごも)、明俵の類を敷て寝さすべし。犬ハ至つて湿気を嫌ふものなれバ、心をつけて得さすべし。止事を得ずして常に湿気の地に眠る時ハ、必らず病を生ずる事あり。
春秋冬ハ米の明俵、夏ハ炭の明俵をしきてよし。

帝國ノ犬達-犬の草紙

〇狗ハ腹中常に熱するもの故に、暑さの頃に至れバ舌を出して喘ぎ苦しめり。然れども是ハ病にあらず。暑に苦むなれバ鉢などに冷たる水をたゝへおきて飲しむべし。
尤四時ともに水を絶さず、鉢にたゝへ置くべし。
魚類を食せし跡にてハ、冬にても水をのむものなり。必らず喉をかわかしむることなかれ。
市中に於てハ暑に至れバ軒に施水を出す事専らなり。然れども犬の施水をなす者ハなし。
故に暑に堪かね溝の泥水をのみ、霤(あまだれ)の腐水をのみ事最(もっとも)いたまし。
苦しきこと楽しきこと、人畜なんぞ其隔あらん哉。
苦しみハ救ひ、楽みハ与へたき者にこそ。
〇犬ハ畜るゝ家の四壁のあひだに糞をする事を慎む、故に時によりてハ夜中外面に出んと、頻に戸などを掻くこと有。
市中に於てハ夜中外面に出せバ狗賊(犬盗り)の難あり。
裏廣き所あれバ其所に出し遣るべし。尤も斯る事ハ稀なり。
〇秋より末に至り雨日などにハ、能馴たる犬ハ、兎角席上(たたみのうへ)に上らんと為す事あり。是狗ハ湿気を嫌ふがゆゑに、床の上に居らんとするなれバ、此時は湿気のなき筵をしきて與ふれバ、其上に臥すなり。
必ず怪しミ禁むることなかれ。
〇常に食物の器を洗ひて更(あらた)むべし。夏ハ殊更のことなり。腐しものゝある上に、又痛ミかゝりし物を入て與ふるゆゑ、忽ち共に腐りていかなる犬も食しがたく成行くものなり。
斯れバあたら食物を空しく費すなれバ、其人の冥加もよろしからず。少しの心得にて腐りし食の、彌が上にならざる様に成るものなり。
然れバ犬も食して喜び、食物も廃らず、是則ち天地への勤と思ふべし。
〇人過て彼が尾を踏み、又ハ罪なきに打として却つて咬まれ創を被ふるハ、人の悪しきにて犬に科はあらず。
然るを咬狗よ病犬よと罵しるハ非なり。たとへ聊の科ありとも打擲すべきにあらず。
人ハ万物の長たり。上たる者下を憐むハ人倫の道なり。
我意にほこりて無慈悲に痛めくるしむるハ、畜生残害の類にして人とハ言べからず。
若罪あらば杖を掲て打つさまをすべし。
何ぞ厳く打擲して幾許の益かあらん。所謂無益の殺生なり。
唐土の聖代にハ罪人を打鞭を蒲にて作り、打擲けども音のミして、身を痛めずとぞ。斯る仁心深き君なりし程に、國民感じ服して悪事をなさず、益〃泰平にして、彼刑罰の蒲の鞭さへも打べき罪人もあらざりしかバ、終にハ朽たりしとなん。
故に刑鞭蒲朽て蛍となると詩にも作れり。
仁道にハ人さへも斯のごとし、況や愚痴なる畜生に於てをや、寛宥の計らひ有ずんバあるべからず。
〇都(すべ)て主なき犬ハ、終夜路頭に臥すゆゑ、夜氣風寒に冒され、時候の外邪に感じ、病を発することあり。
且狗賊の為に悉く害せらるれバ、若主なくして臥所定めぬ狗あらバ、慈悲を加へて夜は晩刻より内に入れて、庭の隅にも臥しめ、朝ハ心をつけて遅く出して、狗賊の難を救ふべし。
居家必用云、生を貪り死を畏る事、人と物と同じ。親属を憂へ恋ふこと人と物と同じ、殺戮に當つて痛苦すること、人と物と同じ。

帝國ノ犬達-夢

〇犬睡るとき夢を見ておそるゝ事常にあり。是なん人に打たゝかれ、怖しき目にあひしを忘れずして、夢に見ておそはれるなるべし。斯る思ひ聊も人にかはる事なし。是等の事を想像りて、必らず打擲きすべからず。



江戸時代の動物愛護とは、生類憐の令のような極端なモノばかりではありません。
投獄の果ての死という、不幸な晩年を迎えた暁鐘成。
しかし、彼が遺した著作と愛犬シロの墓碑は、「庶民による動物愛護」を現代に伝え続けているのです。