余は、應擧のかける犬の子の軸をもてり。一日、之を出して、床間い掛けたるに、長女澄子見て、いたく怪む。その故を問へば、犬の子にしてはあまり、ふとり過ぎたりといふ。
思へば、維新このかた、人は洋犬のみ愛して、和犬を愛せず。志たがひて、洋犬のみ跋扈して、和犬は全くそのあとを絶つにいたれり。故に、犬の子といへば、狐の如く、猫の如く、狆の如く、痩せたるもののみなり。今、長女の應擧の犬の子を見て、怪みたるも、理なきにはあらざるべし。犬種は、かくてもよし、人種にしてかくならむにはいかゞあらむ。おそろうしうこそ。おそろしうこそ。長女は本年、七歳。


落合直文『犬の子(明治32年)』より

 

 

円山応挙が描く江戸時代の仔犬の画風は明治時代にも継承されますが、洋犬が普及していくと共にその姿もスリム化していきました。

落合さんがいくら嘆こうと、愛犬家の懐古趣味のために時間を巻き戻すことなどできません。明治日本は外国文化を貪欲に吸収しながら近代化へ邁進します。
国際競争に生き残るため避けて通れない道でしたが、その中で失われたものも数多くありました。

犬の世界も同じです。洋犬の大量流入は、日本在来犬にとって最悪の状況を生み出しました。各地の和犬たちは、「舶来品」に駆逐されてしまったのです。

 

犬

 

明治期にスポーツハンティングが流行すると、乱獲や事故防止のため狩猟法や狩猟規則が施行されました。高性能の猟銃とともにポインターやセッターが輸入され、和犬を駆逐していきます。

北海道犬も同じ運命を辿り、和人が押し付けた狩猟規則によってアイヌ古来の猟法は棄て去られます。北海道に洋犬が持ち込まれると、沿岸部では在来犬の交雑化も進みました。

明治時代、舶来モノが大好きな日本人は「カメ(洋犬)」に飛び付き、和犬を見棄てました。
鉄路と海路の発達により、明治20年代までに洋犬は全国を席巻。地域に根付いてきた地犬は、洋犬との交雑であっという間に姿を消していきます。
地域住民の咬傷被害や狂犬病感染が問題化すると、犬の飼育に行政が介入。畜犬取締規則の施行により、畜犬(ペット)と野犬の区分が明確化されました。
 
行政当局は畜犬税導入で飼育頭数の抑制をはかり、「未納税犬=野犬」と見做します。
経済的に貧しい地域では、犬税を納めることすらままなりません。「地域に根付いてきた」のが仇となり、犬税取締や狂犬病対策で地域の在来犬が根こそぎ駆除されるケースも少なくなかったのです。
 
惨亦酷なる哉、如何に横暴の横の字に縁ある横濱の事なればとて聞くが如くんば、飼犬は門外へ出るを禁ぜられ、其出るや外國種の犬丈けは一週間は留置くも、日本種犬は見當るや否や撲殺すと言へり。
待遇犬に及ぶと言ふべきか、或人聞て曰く「之れ治外法犬なるか故なるかと」我を賤しめて奴僕の如くし他を尊んで主公の如くならしむるは、其弊寒心すべきものあり」
『横濱の犬殺し(明治24年)』より
 
猟犬としての価値しかなかった和犬にとって、ポインターやセッターの来日はリストラの宣告に等しいものでした。
ハンターにとっては「猟芸」「猟果」が全てであり、和犬の保護活動など興味ナシ。頑固に和犬を使い続けていた人も、同行者が使うポインターやセッターの能力を見せ付けられては「俺もそろそろ洋犬に乗り換えようかな」と思うのが普通でしょう。何せ、獲物の数が違うのですから。
 
猟犬商も「旦那、これからはポインターの時代ですぜ」と顧客を煽りましたから、高性能の猟銃と舶来の猟犬を所有することがステータスとなるのも無理はありません。明治20年代以降、鳥猟の分野から和犬は駆逐されてしまいます。
和犬が生き残ったのは、洋犬や役人が入り込まない山間部のみ。絶滅した日本産オオカミのように、日本在来犬たちも姿を消そうとしていました。

和犬にとって試練の時代となった、明治のお話をしましょう。

犬

秋田県湯沢市愛宕神社にて、明治32年に撮影された秋田犬。雪の中で何やってんだこの人たち?


【明治の犬とは?】

洋犬が全国制覇を遂げた明治時代、和犬は駆逐されてしまいました。当時は詳細な調査もされておらず、現存個体からその姿を知るのは困難です。
拠り所となるのは、古老や重鎮の証言に頼ったアヤフヤな「いにしえの和犬像」のみ。しかも、昭和3年以降に記録されたものが大部分です。

21世紀になっても、いにしえの和犬の姿を追い求める人がいます。

いっぽうで、日本犬のスタンダードを追求する人もいます。偶に両者が対立したりするんですけど、目指している場所が違うので仕方ありません。
で、そもそも昔の日本犬の姿ってどうだったんですかね?
 
明治34年に撮影された四国犬と洋犬による雉猟。既に地方においても洋犬が普及していたんですね。
※「昭和期になって日本犬保存会が発掘した四国犬の写真」と言われていますが、実際の出典は明治時代の猟友会報掲載記事です。
 
世の中には様々な和犬論が飛び交っています。しかし、現代日本に江戸時代の和犬を目撃した人など存在しません。発掘された遺骸や遺された絵画から想像するのが精一杯。
「昔の日本犬」とかのキーワードも主語がでか過ぎて、ナニ時代でドコ地方の犬が基準なのかサッパリわかんないんですよ。日本も結構広いので、東北や関東の和犬のスタンダードを四国や山陰や九州で押しつけられても困りますし。
何度も繰返しますが、ワレワレが知る日本犬なんて、ここ100年くらいの姿だけです。大正時代の日本犬像を「これがイニシエの和犬である」と掲げられたところで、何の基準にもなりません。
 
日本犬保存会の平岩米吉氏が生み出した「町の犬」「山の犬」という謎の概念も、所詮は海外の文献を意訳しただけのもの。それを黄門様の印籠のごとく振りかざされたところで、「いにしえの和犬」からは遠ざかるだけです。
昭和の時代には日本犬そのものが消滅しつつあったワケで、「消滅期以前の和犬」の姿はどうだったのでしょうか?
 
こちらも明治34年に撮影された滋賀の鹿狩犬。黒毛や斑模様など5頭の猟犬のうち、仕留められた鹿の両側に和犬2頭が写っています(分かりにくいので画像を拡大してね)。
狩猟界においても和犬と洋犬の交配が拡大し、その姿は急速に変化していきました。
 
80年間に亘る近代日本犬界において、犬の語り部も世代交代を重ねます。その過程で忘却や事実誤認が紛れ込むこともありました。

昭和9年に「九州の山奥で和犬が発見された」と騒ぎになった事例を取り上げましょう。

 
明治時代から鉄道網が整備されたことで、犬の移動範囲も飛躍的に広がります(既にペットの通信販売もされていました)。流通の中心は洋犬だったのですが、幾らかの和犬も混じっていました。
そういったワンコ大移動時代を失念し、「山深い地域で飼われている和犬は、疑いも無く土着の犬である」というイメージが独り歩きし始めます。
宮崎県の椎葉村で和犬が発見されたのは、そのような時代でした。
 
宮崎高等農林學校教授北尾淳一郎博士は、さきに西臼杵郡椎葉村を研究旅行の際、はからずも純粋の日本犬が多數飼育されてゐる驚異的事實を發見した。
椎葉村は九州のセンターにあたり、平家の殘党が隠れてゐたといふ深山で、面積は香川縣と等しいが交通不便なため往時不作の年は食糧問題に悩まされ、徳川幕府から飢饉の非常時に備へるための木の實、木の音など食物の代用になるものはあらかじめ調査しておくやうに御達しがあつたと記録にあつたほど、他町村との往來は絶縁してゐたため、正真正銘混じり氣のない日本犬が飼育されてゐる。
花咲爺の童話に登場する「そこ掘れワン〃」のやうに中肉中背、耳を立て尾を巻いた代表的な形體を備へ、忠實で精悍健康、猪獵などでは倒れて屈せず、三日飼はれて主の恩を忘れない、彈丸つきて猪にせめられた主人を危機一髪で救つた話、三十里餘はなれたところへ貰はれていつたが元の主人恋しさにかけ戻つた話など、椎葉犬の美談、佳話は名犬ハチ公を凌駕するものが多い。
最近日本犬が流行し俄に相場が出てきたので、ブローカーが買ひ出しに出るが、吼え廻つて山を去るのを拒むといひ、村當局では、混交を防止するため将來は研究所を設置する計畫を立てゝゐる。この地が絶對に血の濁らぬ日本馬をはめ、かもしかの一種の「にた」など動物學上貴重な土産をもつて歸つた。

『九州で純日本犬多數發見さる 宮崎縣の日本犬(昭和9年)』より
 
おお、甲斐犬に続く大発見ではありませんか!なぜ文部省は椎葉犬を天然記念物指定しなかったのでしょう?民俗学の宝庫、椎葉村の和犬なら古来の生き残りに決まっています!柳田國男先生のお墨付きですよ!
……で、その柳田國男が明治42年に著した『後狩詞記』には、椎葉村の猟犬についてこう記してあります。
 
猪の犬は昔より細島(※現在の日向市細島港)にて買ふ。兒犬の時にても二十圓もする也。狩に使ふには牝犬の方優れり。牝犬が行けば外の牡犬も追ひ行きて捕られぬ猪も捕らるゝなり。されど牝犬を飼へば秋の比に三里四方の牡犬悉く集り來て、玉蜀黍の畑を荒し村人に惡まるゝ故に、飼ふことを憚かるなり。
犬は近來鹿兒島の種交りて形小さくなれり。
 
宮崎県産の純和犬どころか、海路運ばれてきた鹿児島県産の犬でした、というオチ。
……昭和9年に明治42年の名著を忘れて大騒ぎしていたってコトは、たかだか25年前の文献ですら昔話扱いだったんですかね?
 
椎葉村と日向市を結ぶ道路が開通したのは昭和8年のこと。
現代でも椎葉村へ辿り着くのは大変ですが、明治時代から山間部と沿岸部を猟犬が往来していた訳です。日向地犬・椎葉犬と呼ばれた和犬たちは、広範囲で繋がる「西日本犬界ネットワーク」の一部でした。
それはそれで地域の形質を残していれば貴重な事例となったことでしょう。しかしながら椎葉村にも洋犬の侵入が進み、上椎葉ダムの建設記録映像(昭和25年頃)では垂れ耳の個体も散見されます。
「犬のネットワーク」が拡大した結果、洋犬は山間部にも進出。各地の和犬は交雑化で次々と姿を消していったのです(椎葉犬騒動があった九州南部でも、鹿児島系コリーやサツマビーグルが作出されるほど洋犬種が普及していました)。
 
先の言葉を繰り返しましょう。
現代の和犬論が拠り所としている「戦前の証言」は、もしかしたら「明治・大正以降に現れた新説」かもしれませんよ?椎葉犬みたいな事例もありますから、その辺の見極めは慎重に。
 

犬

【明治の犬の姿】

江戸から明治にかけて記録された和犬は、古川古松軒やブラキストンなどが見出したアイヌ犬(北海道犬)、秩父や信州方面の柴犬、大舘犬、紀州や四国の犬などがあります。
明治時代の記憶が薄れた昭和初期になると、「柴犬は最近になって付けられた名称。展覧会に連れて来た小型犬をシバと呼んでいたのが発祥である」などとデマを流す人が現れました。

 
この人はおそらく、明治26年の書籍に「芝犬」の記事が掲載されているのを知らなかったのでしょう。そういった事実誤認もいつしか「戦前からの伝承」と化し、戦後の柴犬論を混乱させる一因となっております。
まあ、アレですね。昭和初期の時点で、明治は遠くなりにけり状態ですからね。
21世紀の我々としては「昭和の古老が語る明治の思い出話」というアヤフヤなネタにすがるしかないのです。
 
時差問題の解決策として、「明治生れの愛犬家による明治犬の証言」を記載しましょう。「戦後の日本人が唱える明治犬論」よりは何万倍も信頼できます(地域的にかなり偏ってますけど)。
まずは明治20年代の柴犬の記録からどうぞ。
 
洋犬の輸入と云ひ飛切打の流行と云ひ、一として日本固有の犬を窘逐せざるなしと雖も、獵と場所とに依りては一概に擯斥し得ざる可し。余ハ今、芝犬に付き見聞する所を畧叙し以て廣く養犬家に教を乞はんと慾す。世の好獵愛犬の士教る所あれば幸甚なり。
芝犬とは和犬属中体躯矮小のものなれど、頗る壮健にして其の擧動活發なり。毛被は短きを要し狐色と鹿毛色の弐様あれど、優劣あるなし。顔は尖りて狐の如く耳ハ直立して三角形をなし尾ハ長刀(なぎなた)に似たり。
忠實にして勇敢なるを以て主人の命を聞くや斷崖絶壁と雖も回避せず但時として鷙拗制し難きものあり。
其之を獵に用ゆるには生後廿五日乃至卅日にて乳離しせざれば体躯粗大に過ぎ宜しからずと云へど、普通六十日位なり。其乳を哺ふとき他兒を排して乳に啗へ付くものは健兒なりと云ふ。而して其食料は別に記載する程のことなし。
乳離れしよりは鐵鎖を以て繋ぎ置かざる可からず。又他犬と馴れしむ可からず。然かせざれはまゝ驕傲難制に至る。斯くて生后五六月を経て体躯の生長するに随ひモテコイ杯を教へ、其十分上達せしとき最も能く熟練せる老犬と共に原野に牽き打落せる獲物を嗅せば直に知得し終身忘るゝなし。
總て芝犬は鼻を上げて嗅ぐを特質を有す。揚雉子ならば獵士より五六十間先きを追ひ廻し、四本の足を四本に用ゆる老犬に附ければ最もよし。飛切打ならば温良恭謙にして唯命是從ふ老犬に附すべし。
穴裏の狸を嚙殺し、兎を元巣に追廻し來るは勿論、猪鹿を追廻すに至りては芝犬獨特の長所なり。世人が徒に其の疾走狂奔せるを惡み用ゆる所なしと絶叫するは芝犬其の物の爲め非常の冤罪と謂ざる可らず。
其惡癖殊に疾走狂奔するは幼時の訓練を怠たりし結果にして、此惡癖は總ての獵犬にあるにあらずや。又揚雉子には間に合ふも飛切打には役立たざる可しと云へど、當地にては年來飛切打に使用し好結果あり。
芝犬は各地に流布せるを以て其原産地は得て知る可からずと雖も、其の最も純良なるものは武州秩父郡大瀧村の産に若くはなかる可しと聞く。
該村にては芝犬の純血の交はるを憂ひ、毎戸申合せ他の犬属を入るゝ者あれば誰れ彼れの所有たるを論せず見當り次第撲殺すと云ふ。今日にして此風習あるは斯の道の爲め喜ぶ可きの至なり。
余先年當地の獵士と熊谷川原に出猟せるとき、獵士の引連れし芝犬、芝生地より雉子を追出し之を射撃せしに、半矢にて二三丁さきへ落けるが、會々堤防普請の人夫之を見付拾取んとせしを芝犬追跡し至り、人夫に嚙み附き奪ひ還れり。以て芝犬の忠勇敢爲たるを知る可し。

烟波生『芝犬に就きて(明治26年)』より
 
以上、「シバイヌ」の呼称は明治中期から存在していました。おそらく発祥はそれ以前に遡ります。
洋犬が席巻した明治時代、和犬の保護や調査に取り組んだ人はごく僅か。わざわざシバの記録を残してくれただけでも有難いことなのです。
 
続いては明治初期の秋田犬について(これは幕末から残存していた「大館犬」の証言でもあります)。
こちらも「昭和初期に語られた明治の思い出話」に過ぎない事に留意してください。
当時の日本犬保存会が主張し始めた「町の犬」「山の犬」も登場しています。
 
今日秋田犬の歴史を考へるとき、最も遺憾に感ずることは、名犬として名を傳へられるものも、何等の記録も、寫眞も残さぬ事であります。凡そ、大館人の犬を語るもの、先づ、通称「中の寺」といふ浄應寺なるお寺のモクといふものをあげます。昭和六年十月十日、古老座談會を開いたとき、安政年間生れの御老人達が、口を揃えてモク禮讃をいたしました。六十五歳から七十五歳迄の人々の幼記憶は、よく、この英雄犬の俤を再現させたものであります。出生地は秋田縣北秋田郡早口村岩野目で、一疋者ツマリ一人息子と生れました。衆議の推定は高肩丈二尺八寸位と決定しました。力の强い事は無頼で、米袋二十入りを左右にかけ、子供なら二人は乗せ、青年を乗せて一里位歩いた。大人が乗つてもつぶれなかつた。從つて鬪志滿々たるものがあり、しかも、二三頭を相手としても、決して劣けることがなかつた、等、口々に語られました。
安政から明治に生きのび、四年頃(?)士族某のために鎗で突き殺されたそうであります。モクの仔は、大きさは到底親には及ばないが、毛色と型は同じであつたと言はれます。
明治二十年代から三十年代にかけては、尚純和犬の鬪犬があり、モクに次いで、勇名を傳へて居るものは、新澤(村名)のサク(白黒交りのこと)、弁蔵様のゴマ、麻當(村名)のジク(臆病の方言)、味噌内(村名)の赤等をあげます。
明治初年から一方、洋犬雑りの鬪犬が臺頭して來ました。阿仁銅山の外人技師のつれて來た犬から、同地方に雑種が出來、専ら鬪争を目的に、大きくて強くといふ目標のもとに、純和犬もどし〃混血しました。
當時は、和犬も放し飼ひの状態でありました。大館の高臺で、牝犬の兩耳を三ツに折ると、言ひ知れぬ悲鳴をあげる。それを川を隔てた半里又は一里位の村落から、牡が馳せつけたといふことであります。
明治三十年前後に、純秋田犬の種族保存を講じたならば、今日の如き、衰退を見なかつたことゝ考へられます。
 
秋田縣史蹟名勝天然記念物調査會委員 小野進(昭和6年)
 
証言者が「以上は秋田地方に於ける日本犬についての話である」と断ってあるとおり、秋田県内の局地的なお話に過ぎません。
時期的に、この辺の証言が「日本全国そうであった」的な日本犬観へ拡大解釈されたのでしょうか?
 
過去に於ける日本犬熱、といつても日本犬の多い地方では普通の犬熱に過ぎないけれど、それでも随分消長と變化のあつたことは、當然だとして、私の祖父の 話では郷里について云ふならば、(日本犬は)明治廿二、三年頃に非常に多く、里猪の別名を付けられて犬の肉を賣り歩く〇〇夫が群をなしてゐたといふ。
尤も私達小學校時分にも、二、三人さうした肉賣があつて、私も父母に内密にしてあつたが、友人のうちで、一箸ぐらゐつゝかせられた記憶がある。
明治三十年前後には日清戰爭の關係から、また盛になり、明治卅八年には私は小學校に這入つた頃で、それから後の土地の犬の消長は大概記憶してゐるつもりだ。日露戰爭の戰勝氣分と犬が結びついて、實に發展したことは確かである。
あまり犬が仔を産むので、牝犬は誰にも嫌はれ、仔の貰手がないので、産まれると米俵へつめて、夜になつてから、川へ放り込みに出掛ける人達がざらにあつたものである。
この時代の日本犬(特に秋田犬として置く)よりも昨今のものは、質が低下してゐるやうに私には思へてならない。これは大體論であるが、われ〃が過去に於て駄犬として取るに足らない程度のものまでが、此頃いゝ犬として押つけられるからで、その犬に讃辞を呈することを忘れると、「君は犬がわからない」ときめつけられる事が多い。
私に取つては日本犬である以上、當然然々斯々あるべき顔、普通の耳眼尾である犬は、みな良いといふ形容詞を強付して突き出される感じだ。かう云ふ現象も流行の初期にあり勝なことで、恰度洋食のはやりかけ當時、豚カツを最高の洋食と思つたやうなものとよく似てゐる。
殊に今頃周章てゝ方々を駆けずり廻つて、わづか四百か五百頭の犬をみた程度で「日本犬のことなら……」と鼻を動かして歩く人達も都會生れの人に多いやうだ。何しろ日本犬をみたのが近々二三年であつてみれば、これも止むを得ない事だとして、或はかう云ふ手合がふへることも、優秀日本犬作出の大きな流れには 必要な小舟かも知れない。
やがてちよつといゝものをみせてやつたら、豚カツを笑ひたくなるだらう。
かう云つたら、あげ足取りの好きな人が出て來て、「お前が生れた時分の日本犬を、どんな眼でみたのか。われ〃は科學的な標準體型によつて犬を論じてゐる。われ〃のいゝといふ犬は間違ひない。現在の日本犬も邊化はしてゐるけれども、決して劣るものぢやない。お前は唯物辨証法つてやつを知つてゐるかツ!」と叱られさうである。
日本犬の顔とタイプと云つても千差萬別であることに於て、他の生物と何等變りはないが、私は大體四系統に分類してゐる。これは私だけの便宜で、決して他に强ひるものではない。

若しそのうちの一系統が純血であるならば、他は不純だとするやうなセンサクは別の問題である。

A……町方の犬。主として町場で發達進化せる系統。
B……村落の犬。村落山間で發達したといふより、寧ろ自然放置のため著しく退化したといふ感じの犬。

AとBとは地理的關係及び飼養目的相違のため、別箇になつたものと推思される。即ち、Aは番犬、鬪犬、單なる犬自慢等が飼養價値であり、Bは番犬が主なるため、タイプなど殆どかへりみなかつた。
C……所謂、地犬。これも村落地方に多かつたが、この系統には退化の跡が見えない。
D……獵犬系。これは特殊な目的を持つたために發達したるもの。


以上の四系統も原種に遡れば同一のものかも知れないが、私の生れた時分には、それぞれ區分したる系統になつてゐた。以上は秋田地方に於ける日本犬についての話であるが、B、Cは體躯の大小は別として、この系統は他地方でも、相當澤山みられたが、AとDは秋田地方獨特のものであつたと思ふ。
就中、A(町方の犬)こそは長年の間はBCDのエツセンスを抜き取つて作りあげたるもの。つまり人間の努力の加つて進化せるものであることは、土地の竹村老人、佐尾老人(共に故人であるが、この人達が私の小学生時分B町で犬競争をやつた人々)の話から總合判断して、間違のないところである。
日本犬は各地方別に如何なる發達をしてゐやうが、兎に角、其の地方の先人(犬好き)の努力の結晶たる遺産を起點として、今後の日本犬作出にスタートを切りたいものだと思つてゐる。私などこの系統を探したのであるが、今年四月郷里に帰つてみると、大半の人々が、B、C、D(Aの血も混じつてゐるだらうが)から再び出發せんとしてゐる有様だつた。

A……町方の犬
一體、私のいふ町方の犬とは何ぞや?
體躯の方面から云へば大型犬であり、胸は廣く深く特に首の太いことと前後肢の頑丈さは驚異に價するものだつた。肩高二尺五寸の黒毛の犬……、この持主は現在生存してゐるが、そんなものさへあつた。いまだ小馬のやうな犬といふ形容詞が残つてゐるぐらゐである。
額の素朴で頬の張りなぞに特殊なよさがあつて、現在のマタギ系などと称するタイプの粗雑さとはその犬品に於て到底同日の談ではない。この系統は普通二尺から十二寸の大きさだつた。毅然としたる眼、耳を絞つて躯をすり寄せて來る時の親睦な表情、頬と吻との絞り具合の美的調和、實に上々だつた。何よりも沈着、果敢なこの系統はB、C、Dを斷然壓倒したものだつた。
B……村落の犬
この系統を町場の人は「在郷犬」といつて駄犬の代名詞に使用したものだが、肢や首の細いひよろ〃した感じのものだつた。何よりも狐顔で、俗に謂ふ「泣き追ひ犬」である。
C……地犬
中型犬が多く、耳が厚く小さく額も大きいのだから、純不純を論ずる場合では、最も理想的な日本犬かも知れないが、何處か間の抜けた豚を想はす犬で、慧といふか敏なるものが缺けてゐた。純白が多かつたやうに思へる。
D……獵師の犬
マタギ犬である。私の地方では十中八九までが黑か黑斑だつたマタギ犬には、絶對に大型はない。
きつちりと胴のつまつた感じは特徴で、そのために實際より小さく見えるものが多かつた。いづれも沈着だつた。
これは特にさう云ふ風に仕込まれた爲かも知れない。耳は割合に薄く見えるものがほんもので、これは毛の関係で實質は普通の日本犬と變りがない。現在のマタギ系は果してほんものなりや否や、私は疑ひをもつてゐる。純血の探求と、名犬の探求とは、果して一致するものなりや?

日本犬作出研究會 高橋誠一郎『日本犬作出の心得(昭和9年12月7日会合)』より
 
「お前が生れた時分の日本犬を、どんな眼でみたのか。われ〃は科學的な標準體型によつて犬を論じてゐる」とある通り、明治と昭和の人では和犬への視点も違っていたのでしょう。
上記には古来のマタギ犬にも斑模様の個体がいたことが記されており、現代の「沿岸部の斑模様の犬は南蛮犬との雑種」「山間部の猟犬こそが純粋な日本犬である」論にとっては困る内容となっております。
 

もうひとつ、明治30年代に足立美堅が遺した秋田犬の記録をどうぞ(昭和になって斎藤弘が定着させた「日本犬」の呼称は、既に明治20年代の新聞あたりで登場しています)。

 

日本犬(Japanese dog)
 

我國は經濟發達の沿革歐洲大陸と異なりて、狩獵時代なるものを經過せず、又遊牧の民なく神代に於て一部の人民弓箭によりて鳥獸を捕獲したりしの事實ありと 雖も、狩獵を以て生活をなすの手段となせしにあらずして、農業の傍ら山澤に獵し、或は單に遊樂として之を試みたりしに過ぎず、故に獸獵又は家畜保護の爲に 犬の必要を見ざりしなり。
史を按ずるに仁徳天皇四十三年(西暦紀元後三百五十五年)百済酒君鷹を献ず。是れより鷹甘部なるものを置き飼鷹を掌らしめ玉ひ鳥獸の獵漸く盛に行はれたりしかども、未だ犬を使用するに至らず。
鷹獵以外の獵法としては重に陥穿張網又は弓箭によりしなり。其後二百年を經て欽明天皇十三年佛教の傳來以後其教旨の肉食を禁斷せるよりして佛教の漸く廣まるに從ひて狩獵も亦衰頽を來せり。然るに桓武天皇の朝に至り天皇狩獵し玉ふこと廿年間に百四十回の多きに及べり。
而して平安朝時代の武人の娯楽中走狗放鷹の擧ありしを見れば此時代に於いて既に飼養犬のありしは明にして、又多少狩獵にも用ひられたりしものゝ如し。宇多天皇の朝に至りては盛に犬を用ひて狩獵をなし、又婦人の犬猫を愛玩飼育するものあるに至れり。
然れでも此等の狗が果して日本在來のものなりしや、将た三韓より輸入せられしものなりしやは明晰ならず。加之これが飼養とても敢て改良淘汰を行ふことなく只自然の繁殖に放任したりしなり。

犬

然れども我國の版圖たる南北に長きを以て、南部の温暖、北部の寒冷を包有し、又東西兩地の其温度を異にせるあり。
長き年月の間、犬の形態に彼此の相違を生じ、各地特有のものを産するに至り、又地方によりては近世に於て多少の人爲的淘汰を行ひ、其特性を遺傳せしめ、天城地方の楊木犬、秋田の猪犬、或は鹿兒島の兎犬、高知の鬪犬の如きものを生ずるに至れり。
一方に於ては徳川時代の中世慶長年間、和蘭(オランダ)、葡萄牙(ポルトガル)等との貿易互市により外國種犬の長崎に入りしものあり。之を唐犬と唱へて漸く各地に廣まり、遂に日本犬に外國種の血を混ずるものを生ずるに至り、明治の年代に及びては外人の我國に居住するもの漸く多く、從ひて其伴ひ來る所の犬は其子孫を汎く各地に分布し、又一時盛なりし西洋崇拝の狂熱は畜犬にまで之を及ぼし、洋犬を愛育して日本犬を斥けしめ、之に加ふるに輓近銃獵の盛なるよりして、貴紳豪商の特に外國より各種の獵犬を輸入するもの漸く多く、是等の関係相總合して結果を生じ、僅々四十年の星霜を閲たる今日に於ては純粋の日本犬は纔に山間僻陬の地に之を飼養せらるゝのみにして、都市近郊には之を見ること殆ど稀にして、稍日本犬に近き形貌骨格を有するものにありても幾分外國種の血を混ぜざるものなきに至れり。
 

犬


形態は頭部扁たく幅廣くして眼邊に至るに從ひて狭まり、顴骨重大に、顎は先端頗る尖り、鼻梁短く鼻端及口唇は黑色なり。
耳朶は小にV字をなして頭頂に兩耳相離れて直立せり。頸は短くして太く、肩は稍斜にして肥大に、胸部は圓くして幅廣く、尾は太くして背上に巻揚ぐ。
前肢は垂直に、後肢は股骨湾曲し、踵は地に近くあり、跗は圓く厚くして其體に比して小に、趾は高まりて穹状をなさず、體毛は地方により長短の差あるも概して顔面四肢及耳朶を除くの他は粗硬に稍長くして密生し、尾部の毛は密に厚く生ぜるを以て太き尾をして一層太く見せしむ。
毛色は多くは黑白斑なるも、或は黄褐色亦は黑毛を混ずるものあり。體高は小なるものにて十四吋、大なるものは二十吋を超ゆるものあり。
性質勇邁にして少しく粗暴の風あり。率ね争鬪を好み又能く家を保護すれども之を訓練すること困難なり。
鹿兒島の兎犬、秋田、山形の猪鹿犬は有名なるも、其養主の命により動作すると云はんよりは寧ろ己れの慾望を充さんが爲に働くものゝ如し爲に、屢大なる失錯を致すことあれども、其労役に從事する間の執念は他種に優るも劣らざるなり。故に適當なる訓練を施せば、最良なる狩獵犬となるべく又適法なる人爲淘汰を行はゞ形容華麗なる愛玩犬を得らるべきなり。殊に古來風土に馴化し感受し得たるの特性に至つては他洋種の及ばざる所なり。余は他日進みて此研究をなさむことを期す。

 

足立美堅『いぬ(明治40年)』より

 

洋犬の知識をもつ彼の調査であれば、固有種としての和犬、洋犬と和犬の比較など多様な研究結果が残されたことでしょう。
しかし残念ながら、足立さんの日本犬研究は実現しませんでした。

 

日露戦争が勃発した明治37年、足立美堅少尉は6月18日に見習士官として旅順へ出征。第三軍後備歩兵第十五聯隊第四中隊に配属されます。

そして5ヶ月後、あの二百三高地攻略戦で戦死しました(彼の死後、その遺稿は有志によって明治40年に出版されます)。
 
陸軍歩兵少尉正八位勲五等功五級 足立美堅氏は學士の身を以て明治三十七年征露の役に從ひ、旅順攻圍軍に属して、屢戰闘に参加し、十一月廿八日、二百三高地攻撃の際、奮闘戰死せらる。洵に痛惜に堪へず、然れども、其忠勇義烈、身を君國に効し、以て皇威を宇内に宣揚し、芳名を千載に留められしは、士人の面目、何を以てか之に加へん。茲に薄賻を贈り、弔慰の意を表す。

侯爵 池田仲博
 
足立美堅の死により、日本犬史にとって貴重なデータとなる筈だった明治の調査は幻に終わりました。
返す返すも残念なことです。
続く大正期の和犬有能論は「洋犬と和犬を交配したら優秀な猟犬が出来る」というものばかり。秋田犬は天然記念物指定の動きが始まったものの、大部分の和犬は放置されました。

明治38年に絶滅したニホンオオカミに続き、日本在来犬にも消滅の危機が迫ります。

(第5回へ続く)