上記映畫は池永浩永氏の製作にかかり、畫伯の萬國博出品畫「霜猿」の揮毫に際し、その構成より完成に至る運筆の實況を中心に畫伯の行往座臥の一端を映畫化したもので、紐育萬國博に送られるが、近く日本でも封切される筈です。白木正光『橋本關雪畫伯邸の犬陣(昭和14年)』より
橋本関雪と犬について有名なのが、『唐犬圖』のボルゾイ。上掲の「橋本関雪と愛犬の写真」も知られていますが、こちらの犬種はグレート・デーンで名前は「ルイ」でした。
橋本画伯は「唐犬」と記しているだけで、題材となった犬種名は記載されていません。「日本の洋犬史は昭和20年8月15日から始まった」などというウソ解説を鵜呑みにしていると、「戦前の日本にボルゾイがいたのか?」「洋書のボルゾイ写真を模写したのでは?」と疑問に思われるかもしれません。
しかし、幕末の開国から『唐犬圖』が描かれるまでの80年間には、さまざまな洋犬が渡来していました。近代化へ邁進する日本において、愛犬家だけが洋犬を飼わず、海外のペット雑誌にも目を通さず、頑なに鎖国を続けていたワケがないでしょう。
戦前の日本にボルゾイやグレート・デーンが存在したことは、絵画や写真で知ることができます。
ボルゾイやグレート・デーンの輸入が始まったのは、明治後期から大正初期にかけてのこと。公的な資料としては、大正元年の東京朝日新聞に来日したボルゾイやパグの写真が載っていますし、大正時代の警視庁はグレート・デーンを警察犬として配備(まだシェパード来日前なので、デーン、コリー、エアデール等を採用)していました。
「煙草王」こと村井吉兵衛氏が輸入・繁殖していたボルゾイ(大正2年撮影)
大正時代に撮影された警視庁警察犬係の荻原警部補(向かって左から二番目の人物)とグレート・デーンのスター号。「スター」は、向かって左端の星加警部から名前をとったものです。
戦前犬界は、毎年のように帝展をチェック。犬の出展作品を並べて「題材の犬種は何であるか」「どのような状況の犬を描いたのか」「この出品者は犬の本質を理解している」「絵が上手いだけで、この出品者は犬の知識が無いな」などと好き勝手に評論していました。
橋本画伯に関しても同じことで、昭和11年の帝展に『唐犬図』が出展された際の紹介記事がこちら。
改組最初の帝展ではあるが、秋のシーズンでないせいか、一向パツとせず仕舞ひになつたのは遺憾である。
出品も日本畫と工藝品と、木彫丈けで、若い人達に人氣のある洋畫のないのは淋しい。
犬の畫としては橋本關雪氏の「唐犬圖」がピカ一的存在である。右は牡丹の花を配したボルゾイ。左にはグレーハウンドが二頭描かれてゐる。
素晴しい大作で、熱意のこもつたものであるが、畫伯が何時も云はれるやうに、氏の想念の結晶であつて、寫實でないから愛犬家には多少もの足りぬものがあるかも知らぬ。
この他高野の導犬の古事を描いた矢野橋村氏の「高野草創」に白、黑の二犬が描かれて居り、西岡聖鵑氏の「海潮音」に四五人の漁師に伍して一頭の黑の日本犬?、眞繼慎一氏の「下鴨風景」にシエパードらしい黑犬、田中一望氏の「松林」に褐色のデンらしい犬の坐つてゐるのが描かれてゐる。
S生「帝展の犬の畫(昭和11年)」より
その他にもさまざまな犬を描いていた橋本画伯。しかし美術評論家には犬の知識がなかったらしく、彫刻家の藤井浩祐によると微妙な批評をされたことがあったそうです。
※その騒ぎから10年後には白い狐(『夏夕(1941)』)も描いています。
今度の帝展に橋本關雪氏が唐犬圖の力作を出品したが、これに就いて思ひ起すのは、數年前關雪氏が矢張り犬の繪をある展覧會へ出した時のことです。
なんでも春の野に白い犬がゐた圖だつたと思ひますが、そゝつかしい批評家がそれを狐として某新聞に發表して仕舞つたのです。
そして何時の間にか皆が狐の繪と云つて、關雪氏に向つてもさう云ふ不心得ものがあつた程でした。
藤井浩祐「犬が狐に化ける(昭和11年)」より
芸術界における犬は「作品の題材」に過ぎないのでしょう。いっぽうの犬界には愛犬家とペットに関する膨大なレポートが残されてきました(著名人のペット自慢記事は戦前から存在するのですよ)。
戦前の愛犬家レポートをながめると、「橋本画伯が飼育するグレートデン(戦前はグレート・デーンをこう呼んでいました)」の近況が載っていたりもします。関連する資料を辿れば、ボルゾイへの愛情を吐露したインタビュー記事が見つかったりもします。
普段は気難しい政治家や軍人や芸術家が、愛犬や愛猫の話になると饒舌に語り始めるのも読んでいて楽しいですねえ。
芸術家の橋本関雪にも、普通の愛犬家という一面がありました。彼の証言は、日本ボルゾイ史や西日本犬界(特に関西犬界と九州犬界のネットワーク)を知る上でも貴重な資料となっています。
「東京視点」で語られがちな犬の日本史において、「西日本視点」は意外と重要なんですよね。
他にいゝ寫眞がないので、近く寫します
犬はうごくので却々うまくいかぬやうです
犬名はかゝぬ方 賣るのでないからいゝと思ひます
愛猫も一興と存じ添えました(橋本関雪の私信より)
画伯がモデルとした(かもしれない)ボルゾイの一頭が上の個体。体の模様は「唐犬圖」とは似ていませんけど。
これらのボルゾイは、宝塚の別邸「冬花庵」近くにある犬舎で委託飼育されていたのだとか。
犬を飼ひ出したのはこの二月頃からです、最初は犬の繪を描きたいと思ひ、その畫材にする積りで飼つたので、別に好きで飼つた譯ではないのですが、何事も中途半端なことの嫌ひな私は、飼つてゐる中に、段々凝り出して、近頃は私がジステンパーの状態で、繪を描くどころか、一日犬の世話で過ごすやうになりました。
今日までの約半年の間に、もう三十頭も犬を手に入れました。ボルゾイは成犬六頭、仔犬七頭まで集めました。仔犬は何れも丈夫に育つてゐますが、親犬の方は三頭まで殺して仕舞ひました(※病死させてしまった、の意味)。
その死んだ方がよい犬で、惜しくて堪らず、それに代る更によい犬を手に入れたいと思つてゐますが、何分ボルゾイは御承知のやうな犬で、さうざらにゐると云ふものでないので、却々氣に入つたものが見つかりません。ボルゾイのゐると云ふところは、もう殆んど全部見て廻りました。遠くは長崎まで行きました。この上は海外から輸入するよりほかありませんが、寫眞では安心が出來ないので、なんとかして今一度洋行したいと考へてゐます。或は來年邊り印度に行く機會があるかも知れませんが、印度まで行けばもう五十歩百歩ですから、歐洲へも廻つて來やうかと考へてゐます。この前歐米へ行つた時、今日の様に犬に興味があれば、屹度いゝものを見付けたでせうが、あの頃は全然無關心だつたので犬の記憶は何も殘つてゐません。
犬は矢張りボルゾイのやうな大型の犬が好きです。繪になるやうに思ひます。これは無論その人の好み、性格、又畫風と云うたものにもよるでせうが、私は大型の犬が好きです。そして折角飼ふなら素晴しい犬、尠くも私の制作慾を唆るやうなものが飼ひたいと思つて苦勞してゐるのですが、未だ殘念ながらこれぞと思ふものに出合せません。
グレートデンも大型で却々いゝものです。これも素敵な奴を揃へたいと探してゐますが、容易に見當らないものです。
何分短期間に三十頭も飼ひましたから、その中にはいろいろのものがゐます。小型の愛玩犬も飼ひました。日本犬では柴犬を飼ひましたが、これがどうもテンパーを持つて來たらしく、間もなくボルゾイが次々と死にました。又變つた犬ではダツクスフンドも飼ひました。
今日ではもう犬が傍にいないと、なんとなく手持無沙汰のやうな物淋しさを感じて、成るべくそばに置くやうにしてゐますが、澤山の犬をさう一緒に置く譯にも参りませんし、彼等の健康のためにも相當の場所が入用なので、一部は京都に殘してありますが、他は大阪郊外のいたみの別邸の方に置いてあります。そして、そこへも時々出掛けて犬と親しんでゐます。京都では自分で犬の世話をやります。どうも人まかせでは思ふ通りになりません。朝は自分で曳き運動もやります。
かく犬を語る畫伯の顔には、最早往年の畫壇の反逆兒の面影は全然なく、帝室技藝員、帝院會員に相應しい溫容が溢れるのみであつた。
橋本関雪『ボルゾイがぞつこん好き(昭和10年)』より
当時の日本でボルゾイ13頭飼育ってのも凄いですね。
長崎県までボルゾイを買い求めに行ったとか証言にありますけど、ドロンジャー夫妻 と関係あるのでしょうか?兵庫の橋本画伯のボルゾイと長崎の麻生氏のドロンジャー、二頭は模様まで似ていますね。
……もしかして同じ犬なの?
戦前のボルゾイの記録がこんなトコロで繋がるとは。
こちらが橋本関雪の愛犬とよく似た模様の、長崎県のデビッド・オブ・ドロンジャー号(昭和9年)。彼はたくさんの子孫を残し、西日本へとボルゾイの勢力を拡大させました。
国際港神戸を有する関西犬界と同様、国際港長崎を有する九州犬界も独自の勢力を構築しています。
それを象徴するのが「長崎のボルゾイ」「鹿児島のラフコリー」「サツマビーグル」。特に「鹿児島鴻池系コリー」は東日本の「子安農園系コリー」と東西を二分する国内ブリード系統となっていました。
南国の九州と北国のボルゾイはイメージ的に合致しませんが、長崎の出島は江戸時代から西洋文明の玄関口でしたからね。近代以前から多種多様な南蛮犬や唐犬が渡来する地域だったのです。
橋本さんがボルゾイを預けていた宝塚の犬舎。ドロンジャーとそっくりの個体がいますね。
大正元年の来日時は相当な希少犬だったボルゾイも、これが撮影された昭和14年には国内蕃殖個体も流通し、普通に飼える犬となっております(但し、お金持ちに限りますけど)。
ソ連と対峙していた戦前の日本において、「謎の国のボルゾイへの憧れ」というのは度を越したものがありました。志賀直哉や川端康成なんかもボルゾイ愛好家として知られていますが、一種のステイタスシンボルだったのでしょう。
大正期のシベリア出兵時など、パルチザン掃討で共闘するザバイカル軍団まで出向いて「セミョーノフ将軍、どうかボルゾイをください」とおねだりした日本陸軍将校もいました。流石にロシア軍もボルゾイは配備しておらず、「ボルゾーイの代わりにコレあげる」と軍用エアデールテリアを譲りうけたとか。
それが後のエアデールテリアの権威、今田荘一歩兵大佐だったりします。
東京ではボルゾイ愛好団体も設立されましたが、関西の橋本さんが入会したかどうかは不明(昭和9年)。
大正12年の関東大震災で、国際港横浜を有する関東犬界は壊滅。洋犬の輸入窓口は国際港神戸を有する関西犬界へと移行します。
関西犬界や九州犬界には、海外から続々と名犬が上陸しました。
関東犬界が震災から復興しても、「関東の人間が審査し、関西の犬が受賞する」と揶揄された状況は続きます。関西在住の橋本画伯が九州のボルゾイを大量入手できたのも、西日本犬界の発展という事情があったのでしょう。
ペットたちが虐殺されていた昭和20年2月、愛犬家・橋本関雪は世を去りました。