猟犬種の将来の見透しは、先ず楽観してよいと思う。その理由は、猟犬は實用的價値に於て他犬種と全然趣を異にしていること、狩猟文化が進展向上するに従つて、射撃技術の發達と、猟犬の復興と改良向上が期待できるからである。
たゞここで考えなければならないことは、シエパード犬等に比して猟犬の蕃殖専門家が採算上不利な一事である。採算的に有利でなければ優秀な猟犬は作出の可能性が少ないことになる。
シエパードよりも使用上價値の高い猟犬が安いというのは、不合理なことである。
蕃殖作出の上に實績の著るしいものにはその努力と精進に對する報酬としても、或る程度の高額な代償をする必要がある。
一體猟犬には價格差が少いが、これでは優秀犬を苦心して作出する者が次第に減ずるであろうと思うから、今後は姿態性能等を品評會と競技會によつて審査を行い、優秀な入賞犬の蕃殖者と訓練者に對しては、相當多額な奨励金を贈ることと、入賞犬の價格を評價公表する等の方法を講ずべきだと思う。
この様な方法で奨励すれば、現存犬間の蕃殖で必ず優秀なものが作出されるに相違ない。
その上講和会議(※サンフランシスコ講和条約)が終り、國際貿易が自由になれば、外國から優秀血統の素材犬の輸入も可能になるから、各系血の交流によつて改良蕃殖が行われて、國内の需要に充てられることになり、尚且生産が過剰するようになれば、國外への輸出に振向けることができよう。
仕向先は、朝鮮、中華、南方諸國等廣範囲に販路を開拓することも亦容易である。
斯く観る時、日本の鳥猟犬の興隆は期して待つべく、前途まことに洋々たるものがある。乞う、世の猟犬愛好の諸彦興起一番して精進せられんことを。至嘱々々。


水越隆平『鳥猟犬の現勢と将來』より 昭和25年


犬
撮影年代不明のアイヌの猟師と猟犬。やけにズングリしてますが、カラフト犬の雑種でしょうか?
戦後日本ではマタギたちが姿を消し、ハンターの減少や高齢化が進みます。

【戦後へ受け継がれたもの】

進駐軍は、日本の武装解除を徹底的に推し進めました。
日本軍の兵器はもちろん、自治体関係者に命じて民間所有の日本刀まで廃棄させます。「日本刀を隠し持っていると、アメリカ兵が金属探知機で捜しにくる」というデマが流れ、先祖伝来の名刀を泣く泣くクズ鉄にした人も多かったとか。
しかし不思議なことに、猟銃だけは「刀狩り」から除外されていました。

さっそく狩猟に励もうと思ったハンターたちは、大きな問題に直面します。
戦争末期の食糧難やペット毛皮供出により、大部分の猟犬が姿を消していたのです。

「先づ占領軍は、猟銃類は供出させて各警察に保管を命じ、當分の間は銃猟は許されるということなく、有害鳥獣駆除の對策として網猟や罠猟だけが許される程度であろう。
おそかれ早かれ内地に遺送される日が來るであろうが、そうなつたら網や罠の猟をしてせめてもの猟慾を満すほかはあるまい。
そのうちに講和會議が終れば、再び銃猟が許される時も來るだろうという見方をしていたものだつた。
然るに引揚げて帰つて見て案外だつた。というのは、日本は終戦のその年から銃猟が許されていたことであつた。
占領軍當局の寛大な措置を先ず感謝してよいであろう。しかしながらよく考えて見れば、僅か十二三萬人の人に銃猟を許可したために、それが占領政策に微塵の 影響も與えぬだろうし、銃猟を許して野生の鳥獣を捕獲させるということは、食糧對策の上からも必要であるばかりでなく、狩猟をスポーツ的に見て許可したと いうことも考えられたのである。
遺送日数四十餘日、僕は栄養失調になつて帰還したが、その恢復も待たずして銃と猟犬の準備にかゝつたことは勿論である。
幸にして銃の方は猟友の好意によつて、自分名義に所持許可が認められ、續いて狩猟免状の下附も受けたが、必須條件であるところの鳥用の猟犬で直ぐに間に合 うものは諸方面に連絡して捜したが、なか〃見當らない。その頃自宅で穴物(小獣類)の系統だという小型の日本犬の牝の、生後一年位のものを、番犬として飼 つてはいたけれども、その日本犬を鳥猟に訓練する気にはなれなかつた。
銃と免状は揃つたが猟犬がない。汽船は目的の港口まで着いたが、パイロツトがないので入港することができないような形になつた。将に開店休業であつた(水越隆平)」

戦後の狩猟界は、僅かに生き残っていた猟犬をもとに再スタートします。
戦時中は開店休業状態だった狩猟団体も、敗戦直後から活動を再開させていました。

「この僕の窮状を見兼ねて一先輩は同情され、愛養して居た二頭の英 セタの若牝の中の一頭を、無事に引揚て来た祝いだと言つて贈與してくれるというので、僕は感激してその好意に甘えてその犬を迎え、十二月の末には勇躍して 再び猟野に起ち上ることができた。将に盲亀が浮木を得たるの喜びであつた。
猟を始めてから四十年の間、終戦の年の一期だけ休みはしたものゝ、大正 の末期近く郷関を辞して放浪的な猟生活をつゞけていた僕が、二十餘年ぶりに懐かしい故郷であり想出の深い猟場に再起したことは、寔に感慨無量であつたと同 時に、大自然の中に溶け込んで趣味的陶酔に浸り得たことに至上の幸福を感じたのである。
パイロツト的存在のセタの若牝は、日を経るにつれて猟技が磨かれた。捜索ぶりも巧妙の度が加わつた。認度の態度も好ましい。
認定から寄りついての抑え込のポイントも確實で、迫力のあるものを發現した。撃ち落した獲物は忠實に運搬するようになつた。
こうして、彼女の猟技の向上して行く過程と射技とに真の銃猟の醍醐味を満喫しつゝ、昭和二十一年狩猟年度を終つた。
それから間もない六月の末に、僕は全猟に復帰することになり、再び猟犬部を担當してその運営に乗り出したが、幸にも引揚げ後の約八ヶ月餘を悠々自適の生活に親しんだために、身心ともに健やかさを取戻したので、捲土重来の意気に張切つて、老骨に鞭打つことになつた。
何を措いても、先ず第一番に猟犬の復興をしなければならぬことに着想したのである。
猟犬を復興するには、戦時中撲殺されたり、撲殺は免れても蕃殖の方は殆ど行われなかつたので、現存する純血のセタやポインタの数は極めて少ないことが想像される。
先づ全國を通じてどの位の数が保存されているかということを調査する必要があると考えた。
そこで猟犬部の常任委員會を開いて、現存犬調査の方針を決定して、九月發行の機関誌「全猟」に調査報告の用紙を刷り込んで、調査に着手したが、宣傳不徹底と會員中協力を缺いた向もあつたために、報告のの締切期日を本年(※昭和25年)の一月末迄延期したが、遺憾ながらこの調査は不成功に終つた感があつた。
この現在犬調査によつて報告されたセタとポインタは合計数は二百七十七頭で、この内訳は
セタ牡 四八
同牝 五六
ポインタ牡 七九
同牝 九四
となつたが、會員中の未報告のもの、會員外の飼養しているもの等を合わせたならば、或は純血犬が千頭位は残存しているのではあるまいかと憶測されるのである。
兎に角この現存犬調査は不成功に終わつたけれども、これによつてのみ猟犬の復興が左右されるものでもなく、他に適當なる方法がない筈もないので、その後委員會で協議を重ねたその結果として、社團法人に改組されたのを契機として、全猟の各事業部門の運営を積極化する方針が決定したのに伴つて、猟犬部は先ずその諸規定を改正して、優性繁殖の指導奨励、蕃殖者訓練者等の保護奨励、犬籍事務の刷新、品評會競技會等の行事の實施、研究的な會合等を盛んに行うことによつて、セタ・ポインタを始め、各種猟犬の復興と改良發達を圖るのが、全猟猟犬部に課せられたる使命であるという結論に到達した。
優性繁殖に就ては、現存犬中から純血種中の姿態と性能の優秀なるものの長短相違う配合を行うことで、その結果は品評會と競技會によつて品騰することによつて、理想的な實績を上げ得られるのであり、かくすることは當分外國からの素材犬の輸入が不可能であつても、或る程度目的を達成し得るものと確信する
(〃)」

敗戦により、日本人の狩猟観も一変します。
銃刀法により猟銃の所持条件は厳格化され、徴兵制度の廃止で銃に触れる機会も激減。日本社会における銃は異物化しました。
銃の排除により治安が改善したいっぽう、高度経済成長に伴う大規模な国土開発によって自然環境は狭まり、餌場を失った野生動物と人間との衝突も増加していきます。
都会はともかく、地方における猟友会の害獣駆除活動は依然として必要とされました。スポーツハンティングも一定の人気を有し続け、猟犬は廃れることなく用いられました。

そして、古の風習も戦後の猟師へ受け継がれます。
高性能の猟銃が普及し、猟具もハイテク化するいっぽうで、近年までは「猟犬だけで猪を仕留めさせるか、 または犬が足止めした猪を猟師が棒や石や刃物で撲殺・刺殺する」という、銃や罠を使わない原始的な追い込み猟も一部地域で残っていたそうです。

「北郷町板谷は鰐塚山麓の裾野、開拓集落で一峠越すと北諸県郡三股町である。ここにはインガリ(犬狩り)があり、女猟師新谷さんが今はひとりとなった。
古老によると附近の集落では女性によるインガリも伝統的に行われた狩法のひとつであったという。いわゆる犬ヤマの猟法である。
武 者小路実篤の「新しき村」で知られる児湯郡木城町石河内には、アイクチ(短刀)の犬ヤマ猟があり、南部の霊山霧島山麓には猪に飛び乗って仕留める犬ヤマ猟 があったが、いずれも男性の業であった。インガリは名目の通り犬によってケリをつける猟法であるが、大猪になるとそうはいかず、犬がやられてしまう。しか も板谷の場合は、女性による犬ヤマである。犬はそれぞれ特技をもつ十匹ほどを率い、狩仕度は農作業用の軽装、用具は腰ナタ一丁、リュックには握り飯と菜、 普段の山入仕度と変りない。要は「のさる」(山の神による分配)ことを祈り、獲物と対する気概である」
山口保明『女猪狩りと猟犬の葬送儀礼』より 1999年

山の神への信仰も、21世紀にまで受け継がれたもののひとつ。「猟師」と「ハンター」を区分するものは、地域の習わしや山岳信仰の有無だという人もいます。
地域の生活者であった猟師と、よそ者として猟場を訪れるハンターとでは、宮澤賢治が「注文の多い料理店」で皮肉ったように、猟犬への扱いすら感覚的に違っていたのでしょう。

古来、猟師たちは猟期の安全と豊猟を山の神に祈り、猟の終りに収穫への感謝を捧げてきました。
獲物をもたらす猟犬は山岳信仰と結びつき、「猟犬は山の神の使いである」という古くからの教えも一部地域に残されました。その種の神である「コウザキ様」などは、今現在も信仰され続けられています。

帝國ノ犬達-イノシシ
丹波で狩られたイノシシと神戸のハンター達。前列向かって右より三原さん、上田さん、大岩さん。
後列は西村さんと橋本さん。ワンコの名前は不明。大正14年

もともと生活手段であった狩猟は、レジャーや害獣駆除へと変貌してきました。
生活に溶け込んでいた狩猟も、戦後になると状況が一変。魚釣りなどとは違い、現代の狩猟に関しては白眼視される事も少なくありません。
モチロン、戦前から「狩猟は無益な殺生」と宗教家や動物愛護家から批判されてきましたが、銃が異質な存在となった戦後日本においては尚更でしょう。

人類が肉や毛皮を得られず、裸のまま飢餓や寒さで死滅していたら現在の繁栄は無かったかもしれません。日本の場合も、縄文時代にはコンビニやユニクロなんか無かったんですよ。
エアコンの利いた都会の一室で暖かい服を着て美味しい料理を食べつつ、「狩猟は野蛮だ!廃止しろ!」なんて思っているアナタも、シカやイノシシを必死で追い回していた御先祖さまのお蔭で存在している訳です。
過酷なサバイバルに勝ち残った人類は、生活上の餘裕を得て、発展を遂げました。
今日の夕食や冬物コートを確保するため、イノシシ狩りをしなくて済むだけでも有難いことですねえ。
人類の生存に不可欠だった「狩猟」を全否定する事はできません。それを支えてきた猟犬史も、人類史にとって重要なのです。

犬
大正14年