サモイエド種の最初のブリダアとして名高い英吉利のキルバーン・スコツト夫人等の提唱のお蔭で、今日でこそ英吉利初め、亜米利加にもこの種の立派なケヌルが出來、シヨオ・ドツグとしての素晴らしい人氣を博してはゐるが、原産地は東部西比利亜、オビ河とエニセ河との間に跨がるチユンドラ地帶で、北氷洋から白海に達してゐる。所謂サモイエド族の飼育にかゝるため、この名称(我國ではサモイデ、サモエードなどと發音してゐるやうだが、何れも正しくない)がある。
元來、馴鹿(トナカイ)を狩出すために使役されてゐた犬だが、橇を曳くにも適し、又、肉は民の食糧ともなり、毛は羊毛の代用になり、皮は衣類となる。

 

秦一郎『樺太犬私見(昭和11年)』より
 
犬
サモエドは戦前の日本でも販売されていました(昭和8年のペット商カタログより)

 

シベリア生れの白くてふわふわでニッコニコの犬であるサモエドは、もともとトナカイの遊牧に用いられた犬で、積雪期には犬橇にも活用されていた使役犬です。紀元前から存在していたらしく、民族抗争に敗れてツンドラ地帯へ追いやられたサモエード族とともに暮らしてきました。
ヨーロッパから北極探検隊が訪れるようになると、サモエード族の犬たちは橇犬として提供されます。それらの一部が探検隊と共にオーストラリアへ持ち帰られ、更にその子孫がイギリスへ渡りました。
 
イギリスにおいて、サモエドの人気は大爆発。ロシアからイギリスへの輸入も拡大しました。
やがて茶色や黒毛の系統はブリーダーによって淘汰され、純白の愛玩犬へとして固定されたのが現在の「サモエド」です。
日本との関係も深く、「日本スピッツはサモエドとジャーマンスピッツとの交配で生れた」とも云われていますよね。現在の姿に改良された経緯などを含めて、「西洋のサモエド史」はネット上で詳しく解説されています。
 
それに比べて、「日本のサモエド史」は粗末な扱いのまま。
戦前の日本に暮らしていたサモエドは、サモエド愛好家を自称する者たちから「お前たちは存在しなかった」と切り捨てられてきました。ヨーロッパを盲拝する日本人の島国根性によって、北海道の真上まで南下していたサモエド型カラフト犬たちの存在も忘れ去られました(もともと南樺太で国境を接していたロシアの犬なのにね)。

当ブログでは「近代日本のサモエド史」について解説しましょう。

 
大正時代のサモエド・ブリーダーであった秋月養犬部(昭和2年のカタログより)
 
サモエド来日の記録が現れるのは大正時代あたりから。大正15年10月2日に開催された中央畜犬協会第10回全国畜犬共進会では、東京の秋月養犬部がサモエドのスノー號を出陳しています。
昭和初期には国内蕃殖もスタートし、品評会でその姿を目にすることも多くなっていきました。
 
ポーツマス条約において日本領となった南樺太では、それ以前からシベリアから渡来したと思われる「サモエド型カラフト犬」が確認されています。

おそらくは原産地の北極海沿岸から航路伝い、もしくは長い年月をかけて陸路で南下した原種に近い犬だったのでしょう。

樺太エリアで古くから犬橇文化をもつのはニヴフ族ですが、彼らのカラフト犬は中型で黒色のものが多かったとか。サモエド型カラフト犬を持ち込んだのが先住民族だったのかロシア人だったのか、今となっては知る術もありません。


地図
近代におけるシベリアと樺太と北海道の位置関係。ちなみにオレンジとグリーンの部分が旧日本領。
当時の樺太島は、明治38年のポーツマス条約で日本へ割譲された「南樺太」と、ロシア領であった「北樺太」に分れていました。
北海道の隣りに、サモエドと酷似した犬たちが分布していた訳です。

 

映画『南極物語』の影響で単一品種と勘違いされているカラフト犬ですが(映画に出演したのもカラフト犬ではなく、撮影地カナダのエスキモー犬)、実際は樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタといった民族ごとに異なるタイプの犬を飼育していました。

犬橇文化のニヴフや樺太アイヌはガッシリした橇犬タイプ、トナカイ橇文化のウィルタは細身の猟犬タイプなど、それぞれの使役犬文化を形成していたのです。

つまり、カラフト犬とは樺太地域の多種多様な使役犬群の総称。サモエド型カラフト犬もその中に含まれていました。

各種カラフト犬の特徴については下記のとおり。

 

それから等しく長毛種ではあるが、前者ほどには長くなく、毛質も密で比較的軟かく、吻はやゝ長目で従つてストツプも浅い、耳の先はやゝ尖り、虹彩は褐色もしくは淡黄色を呈し、顔面角張り、尾は緊張した時は背上に巻上げる。毛色は黑褐、ゴマ、斑、枯草色多く、殊に眼の廻りに隈(眼鏡)をつけたもの、所謂四ツ目のもの等もこの種に多い。體型、風貌共にエスキモオ犬に酷似してゐる。
最後にやはり長毛種で第二型よりももつと房々としてをり、殊に尾端の房状を爲した毛は、恰度ハタキを真倒まにでもしたやうに背上に垂れかゝり、顔型稍々長く、吻尖り、サモイエド種そつくりの犬がある。
毛色はやはり白かクリームだが、顔面其他に斑を散らしたものも見かける。
これらの長毛種は何れも體高六五糎前後で、體重も大抵三五瓩内外の、前記二つの型の短毛種の中間に位する。
以上、短長毛併せて五種別の他に、明らかに是等が互に交雑して出來たと思へる中間雑種もかなり見かけるが、それらは大概左のどれかに還元されるやうである。
(A) 短毛枝毛種 大型・中型
(B) 長毛枝毛種 第一型・最長毛系、第二型・エスキモオ系、第三型・サモイエド系


秦一郎『樺太犬私見』より

 

幸いにも、「樺太のサモエド」については、翻訳家の秦一郎が詳しい現地報告を残してくれました。
彼が樺太を訪れた時代には多種多様なカラフト犬が存在しており、長毛・短毛の区別以外に大型・エスキモードッグ型・サモエド型・ライカ型などのタイプが記録されています。
このサモエド型カラフト犬は、やがて北海道にも渡来しました。

犬
秦一郎が昭和10年に撮影した南樺太のサモエド型カラフト犬

 

明らかにこの種の犬の系統と思はれるもの―否、純粋のサモイエド種と思しきものを私が樺太で見たのは、川村氏(※オタスのギリヤーク教育所教員・カラフト犬の研究者だった川村秀弥氏)の案内で敷香町の鈴木氏の愛犬二頭ぐらゐのものであつたが、この系統の雑種らしいものなら、やはりかなり多く散在してゐた。

敷香町の犬は全身やゝクリーム色で、頭部に黑の斑があつたが、これは今日でも原産のものは多くさうであり、現に英吉利のケヌル・クラブでもこの毛色は認めてゐる位だから、立派にサモイエド種として通るであらう。
實際、何處から見ても立派なサモイエド種なので、初めてこの犬を引見した時は、一寸奇異な感じに打たれた事を白状する。樺太にサモイエドがゐるなんてことは、内地では一寸想像もしなかつたからである
 

犬
秦一郎が撮影したサモエド型カラフト犬
 

犬

同上

 

しかし、これもエスキモオ種と同じく、その犬の分布區域及び民族南下の跡を辿つて見れば、決して不思議な事もないので、さう云へば、私が樺太に渡る直前、薄暮、北海道の最北端宗谷岬の燈臺から稚内への歸途、長い海岸線を村長初め、案内役の人々と一緒にハイヤアを駆つて馳走してゆくと、巨大な眞白なサモイエド種そつくりの犬が、半哩も私の車の後を追つかけて來た。
私はその純白な、房々した見事な被毛と、堂々たる體躯にまぎれもないサモイエド種を見出し、どうしてこんな過僻な寒村にこんな見事な犬がゐるのか、近處に西洋人でも住んでゐるのかと一瞬間、不思議に思つたが、今日考へれば、これは樺太から渡つて來たものであらう(『樺太犬私見』より)

 

樺太庁で狂犬病対策を管轄する拓務省は、検疫所の不備を理由に南樺太から北海道への犬の移動を禁じていました。
しかし、宗谷海峡を行き来する漁船に乗ったカラフト犬が北海道や東北へ上陸。いつの間にやら日本でも勢力を拡大していったのです。
その中に「サモエド型カラフト犬」も混じっていたのでしょう。

もちろん、真正な「サモエド」の来日は欧州ルート中心でした。シベリアから西洋へ渡ったサモエドは、国際都市上海を経由して来日したと思われます(わざわざ購入目的で上海へ渡航した日本の愛好家もいたとか)。

そういう訳で、ソ連が犬の輸出を禁じた後も少なからぬサモエドが日本国内で飼育されていました。
熱心な愛好家も多く、昭和12年には「サモエド倶楽部」が設立されています。
 
本邦に於けるサモエド界の泰斗、大阪東淀川區十三西之町加納繁一氏は、純ロシヤ産のサモエドを十數年來飼育し、日本國中は云に及ばず上海迄もサモエドを飼育して居ると聞いて出掛けて行つて見られたが、純血サモエドは極少なく大抵スピツツでガツカリして歸られる事が多かつた。
最も該当種は原産地であるロシヤに於ては輸出禁止となつて居るので、本邦には極少數飼育して居るが、使役犬としてのサモエドの繁殖及び同犬種の向上發達をはかる爲め、加納氏が發起人となり近々内にサモエド倶樂部を創立することゝなつた。
同好者が意外に多く、相當な倶樂部が結成されるだらうと注目されて居る。

『サモエド倶樂部の創立(昭和12年)』より 
 
因みに、サモエド倶楽部の発起人はチビー號の飼主である加納さんでした↓

帝國ノ犬達-サモエド
小学生の頃、隣家の老夫婦が飼っていたサモエドも「チビ」という名前だったなあ。この記録を見付けた時、ふと思い出しました(昭和12年の広告より)
 
昭和に入るとサモエドは頭数を増やし、昭和11年に警視庁が飼育登録した東京エリアのサモエドは96頭。マルチーズ53頭ややポメラニアン20頭よりも多いという、意外な勢力となっています。
しかし戦時下においてその数を減らし、太平洋戦争突入前後からペット商のカタログにも載らなくなってしまいました。
戦後には白いふわふわ犬の座をスピッツと交代し、現在へ至っています。
 
15年間の戦争と10年間の戦後復興期が終った昭和30年代、日本人は戦前のサモエドたちを忘れていました。
語られるのも「ヨーロッパから来日した舶来のサモエド」ばかりで、樺太のサモエド型カラフト犬たちは無視されたまま。ボルゾイにしろサモエドにしろ、ロシアの犬が日本へ渡来するには欧州経由でないと箔が付かないのでしょう。
この現状を覆すには、南樺太や満州国ハルビンというロシア犬の来日ルートを再調査する必要があります。
それを成し遂げられたら、「原種にちかいサモエドが極東エリアまで拡散した一方、ヨーロッパへ渡ったものが現在の姿に改良された」という視点でサモエド史を見直せる筈。
 

しかし南樺太犬界史すら編纂されていない以上、何をどうすればよいのか。
昭和の敗戦によって樺太全土がロシア領となり、日露両国のカラフト犬も消滅してしまいました。検証の機会は失われたのです。
せめてサモエドを本当に愛する者が、極東におけるサモエドの移動ルートを見直して「日本のサモエド史」を発掘してくださる事を願うだけです。
西洋のサモエド史ばっかり眺めてないでね。