著者が小説中の傑作を『フランダァスの犬』と爲す。即ち本書なり。
世の弱きもの、貧しきもの、蔑けらるゝものに灌ぐ著者の熱血は、凝ツて此の一篇となる。其の小冊子を以て能く『世界最良圖書百巻』に數へらるゝも洵に故なきに非ざるなり。
殊に忠犬が孱弱き(かよわき)主人を慕ひつゝ、榮華を余所にして死地に就くの健氣さ、一讀不知不識(しらずしらず)動物に對する愛護の念自から禁じ能はざるものあり。
是れ、獨少年子女の読物として優れたるのみに非ざるべきを信ず。


不忍池畔にて
明治四十一年九月 譯者記す


明治時代の日本人に、動物愛護をわかりやすく説きたい。
イロイロ考えた宗教家の日高柿軒は、外国小説を翻訳する際に登場人物の名を日本名へ改称しました。そういった訳者の意図も知らず、あげく一行すら読んだことも無い現代日本人から嘲笑される悲しい小説。
ソレが日高柿軒訳の「フランダースの犬」です。

犬

帝國ノ犬達-フランダースの犬
明治時代の「日高版フランダースの犬」2冊。
このように幾つもの装丁で出版されたようです。

金魚や昆虫まで愛でる心を持ちながら、日本人の動物愛護精神というのは歪なものであり続けました。
大事な働き手であった農家の牛馬はともかく、荷役馬や犬に対する粗末な扱いは明治時代に来日した外国人の目に余る程だった様です。
当時の新聞を読んでいても、鞭で乱打された荷役馬が主人を襲って大怪我をさせる「人食い馬事件」が幾つも登場ますし、
横濱に荷揚げされた温和な馬が、道中に鞭打たれ続けて箱根へ着く頃には暴れ馬に豹変していた
なんて話もありました。

横浜の馬車道には牛馬の飲用水槽が保存されていますよね(裏通りにあるのが本物)。
「馬車道」という響きにはロマンがありますが
わざわざ動物愛護団体によって水槽が設置されたという事は、炎天下で酷使される荷役馬たちが少なくなかった証でもあります。

近代に入って、国力を支える馬に関しては、国家を挙げての「馬匹改良事業」が推進されました。
畜産や牧畜も、明治政府の富国強兵政策に組み込まれます。
それら膨大な数の家畜を育てる為、日本の獣医学も飛躍的に発展していきました。
家畜は、国家の重要な基盤だったのです。

いっぽうで、ペットの在り方についても真剣に考えられるようになりました。
野犬の増加を阻止する為、行政側も畜犬登録や放し飼いの規制、狂犬病予防注射や畜犬税といった対策に取り掛かっています。
しかし、飼育マナーが確立されておらず、人と犬の主従関係もそれ程緊密ではなく、「不要犬は飼い主が責任をとって安楽死させる」という考え方もなかった日本で、放し飼いや捨て犬の横行を絶やす事はできませんでした。

そんな状況下で導入されたのが、西洋式の動物愛護運動です。
日本人に動物愛護精神を普及させるにはどうすればよいか。
捨て犬を止めさせるにはどうすればよいか。
犬の飼主に最後まで責任を負わせるにはどうすればよいか。
街頭で撲殺駆除される野犬を、少しでも安楽に死なせるにはどうすればよいか。
廣井辰太郎らが設立した動物虐待防止会(後の動物愛護會)や日本人道會では、2つの結論を出しました。
それが、当時の動物愛護運動を牽引していた在日外国人の持ち込んだ概念である「不要犬の里親探し・ドッグスホームの設置」と「廃犬の安楽死処分」です。

犬
日本人道會のシール。戦前の古本を買ったら、見返しのところに貼ってありました。

外国の動物愛護論が日本人に対して語られたのは明治20年代のこと。

「明治二十三年八月来朝の印度人シロツク(氏はボムベイにて一新聞紙の主筆にて、兼て動物保護會の會長なり)氏、三週間日本に滞在したる感を、横濱メールに投書して
「日本人、もし萬事にて欧人に倣はんとせば、市中の慈仁なる紳士諸君は、何故彼の動物保護會を設立し、以て見るが如き野蛮なる處遇を制止せざるか、此土多 くの佛教徒あり、而し佛教は動物にも親切なるべきことを屢々教へ居るに、其信徒は、目前に之を見て何故に冷視放任するや」と云へり」

それから十年後、日本初の動物愛護団体が設立されます。
これは、キリスト教の牧師であった廣井辰太郎を中心とする団体でした。
動物虐待防止への取り組みは、宗教界から始まったのです。


「明治三十二年八月発行の太陽に、廣井辰太郎の「誰か牛馬の為に涙をそゝぐものぞ」の論、同年十二月発行の中央公論に「動物愛護論ありしに刺激せられ、大 内青巒、廣井辰太郎、桜井義肇、島地黙雷、高楠順次郎、前田慧雲、梅原融、厳本善治諸氏首唱し、同三十五年五月いよ〃動物虐待防止會成立す」
石井研堂「明治事物起源」大正15年

動物虐待防止會に続いて設立されたのが、新渡戸万里子らを中心とした日本人道會やポチクラブ。
これらは、日本の動物虐待行為に心を痛める在日外国人が牽引する組織でした。

宗教家による動物愛護と在日外国人による動物愛護。
これを源流として、日本の動物愛護運動は各方面へと広まっていきました。
昭和に入ると様々な愛馬団体や畜犬団体、教育機関、マスコミ、軍部や警察も動物愛護運動に関わるようになります。

帝國ノ犬達-人道會

「日本人道會では有志の寄付金で憐れな無告の動物を救護する方法を論じ、麻布區新掘町十一、麻布獣医畜産学校教頭中村道三郎氏と共同して路傍に棄てられた 犬猫(屍骸でも)を日本人道會の費用で学校に収容することになりました。宿なし動物見ぬ振りして通り過ぎずに、獣医学校へ電話をかけておやりなさい。学校まで届ければ約一圓位の届け賃を拂ふさうです」
「宿なし犬や捨てられた猫への福音」より 昭和2年


やがて行政・軍部・警察・獣医・動物愛護団体の利害は一致し、昭和に入ると「野犬マーケット」と称する里親探し会が各地で開かれるようになります。
日本人道會では、警官や児童へ動物愛護教育を広めると共に警視庁へ野犬安楽死用の炭酸ガスチャンバーを寄贈しました。
帝國軍用犬協會では、イギリスで頻発していた犬への虐待行為事例と、それに対処する為に設立されたRSPCA(英国王立動物虐待防止協會)の活動内容を詳しく紹介しました。

軍馬・軍犬・軍鳩の配備拡大を図る軍部も、人道會と歩調を合わせて軍用動物愛護運動を展開しました。
様々な思惑はあれど、こうして日本の動物愛護運動は発展していったのです。

また、昭和15年の東京オリンピック開催へ向けた動きの中では、野犬の駆除方法への改善も提案されました。
それまでは野犬駆除員が街頭で犬を撲殺していたのですが、「オリンピック開催国として恥ずかしい」「子供の教育に悪い」などという意見が出て来ます。

「成る程鑑札のついて居る犬を、連れて行くのは不作法である。敢然としてその不法を攻むべきであるが、飼犬を無闇矢鱈に戸外へ出して置くのもよろしくない事である。
僕は仮令飼犬と雖も、決して戸外へ放畜すべからずとの、畜犬規則の規定を希望するものである。
かくして飼犬の放畜を厳禁する。そうして片ツ端から野犬を駆逐する時において、初めて日本の犬害に對する安全と云ふものを期待しうる。
愛犬家を以て自任する僕に此言のある事を以て、甚だ不可解なりと言ふ人があらう。
僕もそれは覚悟をして居る。併し徒に犬を殺戮するのでない。
今日の状態をもつてしては、根本的に野犬を撲滅してしまふより、外に途がないのである。
即ち犬と人との間の危険状態を全く除去して、犬と人との親和を全からしめんがために、此説を為すものである。
野犬がかあいそうだなどゝ叫ぶ愛犬家は、犬を盲愛し、動物愛を安売りするものであつて、僕らとは大分生き方が違ふ」
中根榮

現代の日本で行政当局が採用している二酸化炭素による不要犬の殺処分方式。
これが我が国に導入されたのも戦前のことでした。
「残酷だ」と批判されている炭酸ガス方式も、元々は安楽死させる目的で在日アメリカ人がイギリスから輸入したのが始まりなのです。

「併し、僕も今警視廳がやつて居る、野犬狩りの方法に對しては、大に異議がある。
警視廳は数年以前に在つては、犬を棍棒をもつて撲殺したものだ。如何にも惨忍な方法を、子供らの見て居る前で、堂々とやつてのけたものだ。
あの撲殺方法がどんなに東京人に殺伐感を植付けたかわからぬ。世界中最も惨忍であると言はれる支那人、露西亜人ですら、やり得ない事が、文明國を以て誇るわが日本の首都において、平気で行はれて居たのである。
果然これに對してはいろんな方面より攻撃が起つた。警視廳もその非を悟つて、今はもうあの棍棒撲殺法は取らず針金で犬の頸を引つかけて、それをトラツクの中に打ち込み、それをどこかへ連れて行つて、殺してしまふ事にした。
前のよりは余程改善されたが、然し依然として犬の命をとるのに撲殺方法をとつて居るとの事である。
それは惨酷である。
嘗つて日本に居た米國大使館付武官バーネツト大佐夫人が、犬の撲殺は余りに気の毒であるとして、英國のドツグス・ホームで使用して居る、炭酸ガスによる犬の致命室を、警視廳に寄付したことがある。
之を使用する犬は楽に死ぬ。
併し之を設備するには大分金がかかる。そのためにか、折角の建策も實行されずに居る。
金の要る事であるから、如何に良策であるとて、直に之を實行する事も困難であらう。併し漸次之に近接する方法をとる様にして貰い度い。
野犬が絶滅し、犬の放畜が禁止されたら犬により受ける危険は、絶對にないと言つえいい。
ここに初めて愛犬家の理想郷が出来るわけである」
中根榮「野犬狩と犬の放畜禁止」より 昭和9年


帝國ノ犬達-動物愛護
鳩を可愛がる人々の傍らで無視される関東大震災の被災者。
昭和2年の時事漫画より

それと同時に、誤った動物愛護を批判する声も高まっていきます。
中には言い掛かりに近いものもありましたが、それだけ目に余るものがあったのでしょう。

「東京にも動物愛護會といふのがあるさうだ。
最も此動物愛護會の幹部會員中には、毎日猿や、犬や、鶏や鳩や、鼠や、種々の動物を何匹となく殺したり、斬つたり、突いたりする医学博士もある。
動物愛護會の開かれる極寒の夜十二時近くまで、火の気もロクにない倶楽部の車夫待小舎へ長時間車夫を待たせて、自分は温かい部屋で美食しながら小田原評議を続けてゐる名士會員もある。
昔、新吉原の勝山といふ遊女が、高貴な容から、朝鮮の名鳥シマヒヨドリを貰つた。
然し金銀を鏤めた籠に入れられて寵愛を受けるとも汝は大空恋しかるべし、と籠の内から空に放つてやつたといふ愛護女がある。
但し其夜の内に其鳥は寒さと食糧のない為めに死んでしまつたことだらう。
米國の帰還者製造業者コーリスが、工事の為大岩石を破壊せんとした時、岩石の裂目に駝鳥の巣を見出した。
そして其巣に孵化したばかりの雛鳥の居たのを見て、其巣立つまで工事を延期したといふ。
これなどが真の愛護者だ。
日本國中、最も自然的高恩の愛護を受けて居るのは宮城外の濠の水鳥である。あれは鴨猟の網にも合はぬ。
愛は口先で足らず、心の底よりでも足らず、財嚢の底から出せと外人は言つた」

帝國ノ犬達-バーネット夫人
書斎に於けるバーネット大佐夫人 大正10年

「先年米國へ帰任したバーネツト大佐夫人は、日本における動物愛護の恩人であつた。
わざ〃ロンドンのドツグス・ホームからエーサーで犬を薬殺する道具などを取寄せて、警視廳へ寄附などして、日本の野犬撲殺廃止運動の一手段としたものだ。
併しあんなまどろこしい薬殺よりも、棍棒で一撃喰はす方が手つ取り早いとあつて、警視廳では折角のリサル・チヤムバーをどこかへ片付けてしまつて、相変らず棍棒主義を用ひと居るが
兎に角日本の愛犬家にとりては夫人は恩人であつた。
あの夫人は本當にやさしい質で、お別れの放送を日本語でやつたものだが、おろ〃と泣き乍らの放送であつた。折れ釘の様な字であつたが必ず、三十一文字でもつて、新年勅題を綴つた。米國へ帰つてからも、我皇室へ敬慕と至上を献けて居る。
米國の婦人らしからぬ婦人であつた。
ミセス・バーネツト記念館とまでは行かずとも、ミセス・バーネツト記念水槽(神奈川に残る馬用飲用水槽のこと)位は、動物愛護會の手で作つてもいいのである。
そうしてそれは立派に犬ものがたりの材料になる」
中根榮「犬ものがたり」より 昭和9年

戦前の動物愛護運動も、指導者であった新渡戸万里子氏の死去やバーネット夫人の帰国、そして戦時体制への突入と共に失速。
戦時食糧不足が顕著になると共に飼育犬登録数は激減し、逆に捨て犬が激増します。
獣医師の出征によって狂犬病対策も不備となり、「貴重な食料を食む駄犬」「狂犬病を撒き散らす獣」への敵意は昭和19年の犬猫献納運動へと至るのでした。

こうして、戦争によって日本の動物愛護運動は振り出しに戻ります。
畜犬行政や動物愛護運動は、紆余曲折を経て現在に至っているのです。

21世紀になろうと人の心は簡単に変りません。
悲しい事に、ペットとゴミの区別が出来ない人もたくさんいます。

「日本人には動物愛護精神が欠けているのだ」などと言う前に、どのような経緯で現状に至ったのかを知る必要があります。
日本の動物愛護運動が今まで辿って来た道程を振り返り、
現在の立ち位置を確認し、
より良き将来を模索する。
先人たちがそうしてきたように、一歩一歩改善して行くしかないのでしょう。

帝國ノ犬達-動物愛護