空山子曰く「外國に於て家畜改良の着々進歩の域に達せるものは、一は科學思想の發達に因ると雖もまた金滿家數寄者の賜なり」と、成程さうかも知れない。
由來我國民は牧畜の思想には極めて乏しいのである。即ち畜産の事業に至ては遠く支那・朝鮮にさへ劣る如き有様である。
故に金滿家若くは數寄者中偶ま犬の改良蕃殖を企つるものがあるにしても、殘念なことにはこれが改良を施すの術に熟達して居ないために、改良の好果を収むることが出來ない許りでなく、却つて種類を退化するやうなことがある。
之を以て空山子にして改良の必要を認むるのなら、序にその改良の手段まで明示されたいものと思ふ。今日狩獵界において急要なる問題は、如何にして獵犬を改良播殖すべきかと云ふその手段方法なのだ。
子は改良説の第一段において、我國の犬は悉く雑種ならざるなきを説き、第二段に於て純粋和種の漸く減滅に近づきつゝあるを慨歎し、第三段に改良の必要に論及されて居るが、子の所謂改良と云はるゝのは果して和犬の秩序的改良を意味せられるゝのである歟。
子はまた我國の一書生が十五頭の和犬(狆のことでしょうか?)を米國紐育に携へ行き二千餘弗に糶賣りせりと云ふの一例を擧げ、以て純種の貴重すべきを證せられて居るが、然しそは恐らくは博物學的スペシメンとして珍重されたのであつて、和犬の特性若くは外貌の優美なるを以て、かゝる高價に賣れたのではあるまいかと思ふ。
若し和犬の特性を珍重されたものと假定せば、その特能とは果して何であらうか。
 
大阪 樂天獵夫『空山子の犬の改良説を讀む(明治36年)』より
 
真偽は不明ですが、明治時代のお話。パリ万国博覧会に出陳した松方正義(後の総理大臣)自慢の愛馬に、金杯が授与されたことがあるそうです。
てっきり馬の優秀さが認められたのかと思いきや「今世紀に見ることができない原始的な馬」を保存していた功績が学術的に評価されたのだとか。
当時の日本産馬は、シーラカンス並みの扱いだったのです。
日本の馬匹改良政策にとっては恥ずべき黒歴史かもしれません。しかし、「生きた化石」の比類なき価値を示すエピソードとも言えますね。
 
宮崎県都井岬の御埼馬。高鍋藩の軍馬をルーツとし、小柄で頑強な日本在来馬の姿を残しています。背景にみえる山(行けばわかりますが、人間でも滑落しそうな急傾斜地)も平気で登り降りする、サラブレッドとは全く異質の馬たちです。
家畜でありながら天然記念物指定されたという意味で、日本犬の価値を考える一助にもなるでしょう。
 
明治~大正期にかけて、洋犬との交雑によって姿を消した日本在来犬。
都市部においては日露戦争前ですら悲惨な状況に陥っていました。
犬でも純粋種と云つたら、殆んど見ることが出來ない。西洋種のみではない、和犬でも左様です。今假りに本當の和犬が欲しいと思つても容易に手に入れることが出來ない。東京などでは殆んど見ることも出來ないであらうと思ふ。
 
空山『犬の改良に就て(明治35年)』より
 
畜犬税の導入や狂犬病対策が強化された明治中期以降、各地の地犬群は次々と駆除されてしまいます。
続く大正時代になると状況は更に悪化。昭和へ移行した頃、在来の和犬は山間部に残存するのみとなっていました。
それを救おうとしたのが文部省と日本犬保存会です。
文部省の「天然記念物指定による保護」と、日本犬保存会の「大中小のスタンダードにのっとった繁殖推進」によって、辛うじて6種類の日本犬が生き残りました(天然記念物指定後に絶滅した越の犬を除く)。
なので、「昭和以降の日本犬史」を語るには日本犬保存会史が最適なテキストなのです。
 
日本犬保存会設立時の雑報草稿より(昭和3年11月)
 
日本犬保存会を設立したのが齋藤弘(ペンネームは斎藤弘吉)。文部省のような公的機関ではなく、ひとりの民間人が日本犬を護るために立ち上がったのです。
日本犬といえば秋田犬や土佐闘犬のイメージしかなかった時代。無価値な駄犬と見なされていた地域在来の和犬を調査し、犬籍簿に登録し、血統書を整備する。
日本犬のルーツを探るために発掘された犬骨を時代別に精査し、ニホンオオカミとの違いを見出し、オオカミ(狼)とヤマイヌ(豺)とイヌの正体を探る。
世界犬界の序列に日本犬界を加えるため、国際的な宣伝活動を展開する。
齋藤さんが切り拓いた道には、志を同じくする愛犬家が続々と参加。文部省に先駆け、全国規模での日本犬保存運動へと発展しました。
犬とは縁もゆかりもなかった齋藤さんを、犬の世界へ導いたのが秋田犬保存会です。
 
上の画像は、昭和2年に秋田県大館市で撮影された秋田犬。辛うじて残存していた「立耳・巻尾」の猟犬タイプです。
同年には秋田犬保存会が発足し、闘犬目的で雑化していた秋田犬の復興がスタートしました。
 
【齊藤弘吉と日本犬保存会】

 

山形県で生れた齋藤弘吉は、洋画家を志して東京美術学校に入学。趣味の乗馬にも熱中し、充実した東京ライフを送っていました。

 

美術学生だった頃、齊藤さんは一頭の秋田犬と遭遇しています。それは後に「忠犬ハチ公」と呼ばれることになる犬でした。
 
私が最初ハチ公を見たのは大正十三年秋頃であつて、當時學生で乗馬に凝つて居つた私は、一日駒場農大の中を散歩して正門の處に出るとばつたりとハチ公に遭つた。實に均整のとれたすばらしい犬と見とれたのであつたが、馬上且つ數人連行であつたので、飼育主も聞かず其のまゝ行き過ぎてしまつたのであつた(斎藤弘『ハチ公のことども』より)
 
大正14年12月に休学した彼は日本陸軍弘前野砲第八連隊へ入営。ここでも乗馬に明け暮れる軍隊生活を送りました(砲兵隊には大砲を牽引するための輓馬が配備されていました)。
美術学校は大正15年3月に卒業となり、卒業式出席のため一週間の上京を許された齊藤さんは発病して入院(卒業制作は未完成のまま提出)。体を壊したことで画家の道を閉ざされ、長期療養中に陸軍からも除隊を勧告されてしまいます。
 
學校の發表は、卒業生の姓名の五十音順である。別に通信簿などもなければ、卒業證書に番號を附してるわけでもない。私は不幸にして卒業式に出席も出來ず、同展(※卒業制作展)も見るを得なかつた。
實は卒業式のため聯隊長から一週間の休暇を貰つて上京したのだが(軍隊で入營したばかりの者に一週間の休みは中々下れるものでない。第一期は乗馬練習が殆んどであり、乗馬は學生初期時代から、陸軍士官學校の馬術教官部に通つて習つて居つたし、東京宅でも友人の出資で華陽馬術倶樂部の經營に手傳つて、毎日、半日以上馬の上で過して居つたので、志願兵中、成績は最優秀であつた。入營の次の火から拍車、その他一切を許され、中隊中どの馬にのつてもよろしいの優遇を受け、練習中の教導を仰付かつたので、特別の休暇を貰つたのである)。
卒業式にと上京すると、汽車中鼻の下に癤(※めんちょう・毛嚢炎)を出して、直に慶應病院入院。遂に危篤の打電で郷里の父が上京の騒ぎとなり、半ヶ月後は陸軍衛戍病院に移されて又半ヶ月の入院で卒業式どころでなかつた。
同展を見た同級の友人西田正秋君(現・美校藝術解剖學教授)に制咳嗽を尋ねたら、丁度中位だつたと云ふ。
 
齊藤弘『アイヌ犬の全貌を讀んで(昭和12年)』より
 
秋田犬保存会と日本犬保存会は、協同路線を歩みつつ勢力を拡大していきました(昭和14年)
 
芸術家にも軍人にもなれず、失意の日々を送る齋藤弘吉。
彼のライバルであった高久兵四郎は、「齊藤は、美校最劣等で卒業したので致方なく犬に入つた。犬の方もうまく行かぬので目下ヒステリーで寝て居る」と誹謗中傷。
近親憎悪といいますか、高久さんの口撃は度を越したものがあり、コトあるごとに齋藤さんを罵りまくっていました。
かつての盟友・高久氏の暴言に対し、齊藤弘も黙っていません。「足利の人(当時の高久さんは足利市在住)はウソばっかりついて困る」と反論します。
 
月末退院して歸隊すると、宮殿下の特命檢閲がせまり猛訓練である。
私は一ヶ月餘の入院生活で體力が回復せなかつたが、殿下より志願兵に馬術の御所望の時は先頭を勤めなければならぬと云ふので無理の練習をやつた爲、それまで經験なかつた右肺尖炎にかかつてしまひ、六月末からぶら〃して、七月八月九月と三ヶ月位弘前衛戍病院入院となり、遂に現役免除を宣せられた。
東京宅に歸宅の後、多少馬乗り等したが結果惡しく、遂に右肩を用ひることを醫師に禁じられてしまつたので、繪も描けなくなつてしまつた。洋畫は右肩を伸して、常に動すので、中々右肩は疲勞さすものである。
ぶらぶら散歩等がよろしいと云ふので、番犬がてら散歩相手にと探したのが日本犬である。
探して見て日本犬のあまり僅少なのに驚いて、保存會を作り、どうせ醫師に禁じられた繪ならと繪の道具は友人に差上げ、繪の本は弟に呉れて、日本犬の研究に没頭したと云ふのが私の今日までの正直な成行きである。
私がヒステリーで寝てると書かれた時は、軍隊時代の右尖肺炎が再發、主治醫に絶對安靜を命ぜられて就床して居つた時である。
係りの醫者は、當時、東大、菌園内科外來部長瀬田修平氏(昨年ベルリンでのオリンピツクに東大クルーのコーチとして遠征。毛現柿沼内科助教授)と、遠縁の小出策郎軍醫(現陸軍第一衛戍病院勤務)の二氏であつて、誰がきいても病態は判ることである。
私はまだヒステリー等と云ふ病氣はしたことがない。そんな病氣をする様な人間かどうか、顔を見ればさう云ふ病氣には縁遠い人間だと云ふことが判るだらう(齋藤弘吉)
 
散歩のお供を探すため、齋藤さんは軽い気持ちで日本犬団体への問い合せを試みたのでしょう。それが、昭和2年に設立されたばかりの秋田犬保存会でした。
調査のため秋田犬保存会に接触した齊藤さんは、泉茂家会長から日本犬全体が消滅の危機にあることを知らされます。驚いた彼は、昭和3年に日本犬の復興を目指して「日本犬保存会」を設立。第一回の犬籍簿登録に着手しました。
その過程で見出された秋田犬が、あの忠犬ハチ公だったのです。
 
昭和三年六月犬籍簿作製の際は、一日ハチ公の跡をつけて歩いて、漸く預り主の小林(菊三郎)君を探し出した時「半年以上もつないで牽運動させましたがどうにも居つきません。今でも放せば澁谷驛に飛んで行つてあの通りですが、夜は歸つて寝る様になりました」と云つて居つた。主人を送つて行つては歸りを待つて居つたなつかしい澁谷驛に、毎日〃雨の日も雪の日も日参する様になつたのであつた。
私はあまりの不憫さに引きとつて愛育し様と色々交渉したが、あの犬は亡くなつた博士が非常に可愛がり、犬が死んだら自分の墓側に埋めよと云ふ遺言までしてある程で、お譲りすることは出來ぬとの小林君の言であつた(斎藤弘)
 
昭和3年に設立された日本犬保存会と日本シェパード倶楽部は、それぞれ文部省の「日本犬天然記念物指定」と陸軍省の「軍犬報国運動」への流れをつくりました。
こうして「軍国主義のシンボルであるシェパード」と「国粋主義的な威信である日本犬」が確立したのです。
 
【日本犬保存会と国粋主義批判】
 
戦前の日本犬保存会は、国粋主義を利用して勢力拡大をはかりました。まさしく戦時体制の加担者であったワケです。
アーロン・スキャブランド氏のようにそれを批判する向きもありますが、日保は純粋に日本犬復興を目指した団体。ナショナリストの集団ではなく、日本犬を護る目的で国粋主義の時流に乗っただけでした。
イデオロギーをこねくり回す机上の論評に、滅びゆく日本犬を救う力はありません。日本犬を救うために行動した齋藤さんのほうが、日本文化に何億倍も貢献しています。
戦前の日本犬保存運動は、文部省の天然記念物指定によって結実。消滅しかけていた「無価値な地犬」は、「国家の威信たる天然記念物」となったのです。
 
しかし、利用した筈の国粋主義はやがて日本犬界へ牙を剥きました。
昭和12年の日中戦争勃発を機に、日本は総力戦へ向けた戦時体制へ移行。軍需物資確保にあたる商工省は、皮革配給統制規則を根拠に犬革の軍需統制をはかります。
戦時食糧難の到来を予測した農林省も「ペットに回す食料はない。毛皮にすべき」と提唱。
同時期には「贅沢は敵だ」を標語に掲げる国民精神総動員運動もスタートし、ペットの飼育が白眼視されるようになりました。
「お国のためペットは毛皮にしろ」という同調圧力の中、愛犬家の努力によって日本犬は生き延びることができたのです。
 
国粋主義を利用することで日本犬の再興をはかった日保。
そして戦時体制下で迫害された日本犬保存運動。
日本犬保存会の歴史については、複数の視点で検討する必要があります。以前も述べたとおり、被害者ぶることなく自省の心で振り返りましょう。
 
日本犬保存会会報の草稿(昭和4年度)。保存会の設立に向け、メンバーの情報共有媒体として会報の出版作業も進められました。
 
しかし、日本犬保存会史は過去に何度も編纂・出版されてきたので、改めて解説する意味がないんですよね。それで困る事といえば、「日本犬の歴史は日本犬保存会の資料を調べれば充分」と勘違いされてしまう危険くらいですか。
主流ではなく傍流や支流の日本犬史を拾い集める方が、「日本犬とは何ぞや」を俯瞰するのに有効なのです。
 
「近代日本の犬界史」は、どうしても視野狭窄になりがちです。戦災で失われた記録、世代交代で忘れ去られた記憶が多すぎて、個人のオーラルヒストリーに頼りがちなところも一因でしょう。
一次史料の調査においても、「地域性」を無視する傾向が顕著です。
東京の国会図書館で調べた「東京エリアの犬界史」に過ぎないシロモノを、まるで日本全体がそうであったかのように語る解説者の多いこと。
近代日本犬界を論じる場合、地図上で「近代日本のエリア」を確認してください。
日本列島、南樺太、台湾、朝鮮半島、南洋諸島、さらに満州国へと広がる巨大なパズルを完成させようにも、散逸・消失したピースが多すぎて途方に暮れるばかりです。ピースの断片を掲げて「これがパズルの完成品です」と叫ぶ者は、失われたモノの多さを知らないのでしょう。
 
日本犬保存会史にも、そういった傾向が見られます。
自団体の歴史ゆえ当然なのですが、「傍流の日本犬史」への視点は皆無。各地域支部の活動を拾い集めているのは素晴らしいのですが、内輪の話ばかりで犬界全体の流れを把握するには向いていません。
帝国軍用犬協会とのバトルを俯瞰した日本シェパード犬登録協会史のような視点は望むべくもないのです。
国産の在来犬ゆえ、独逸SVのような海外の提携組織もナシ。
犬界のハブ的役割を担うどころか、洋犬種に圧倒されて目先の和犬復興活動で精一杯。
日本シェパード界のように軍部や皇族まで巻き込んだ正面戦争を繰り広げるどころか、日本犬協会や猟犬系秋田犬協会やアイヌ犬保存会のような地域団体が仕掛けた局地戦に翻弄される始末。
 
他団体との醜悪なバトルは勝ち残った日本犬保存会によって抹消され、清く正しい日保史観だけが現代へ伝えられました。

その辺の黒歴史も記事にしてみましたが、傍流の日本犬史には戦後に伝えられた遺産もなく、プロレス観戦的にはやし立てるにも中途半端です。

保存会誌のバックナンバーに目を通しつつ、この回をどう纏めるか思案中。
 

犬
日本犬天然記念物指定を巡って斎藤さんと意見が対立していた鏑木博士は、日保の相談役でもあります。

 

【天然記念物か保存活動か】

大正8年、文部省は「天然記念物指定法」を制定。これが秋田犬に適用されたのは昭和6年のことでした。
以降、国家による「日本犬の国犬化」が推進されます。

しかし日本犬保護活動は集約されるどころか、文部省、日保、日協、その他団体に分裂していきました。
持論を譲らないマウント合戦という、日本犬愛好家の悪い面が露呈したのです。


昭和8年、日本犬保存会は「日本犬標準」を制定します。これは昭和3年に日保が設立された際、「日本犬の一般的体型」として斎藤弘吉が発表した内容を改訂したものでした。

その後もしっかりした日本犬標準を制定して海外にも宣伝したいと考え、昭和八年三月私が主になって日保の中に平岩米吉君など八名の委員をこのために定め、同年八月には更にこの委員の中から小委員に北村勝成、小林真一両君と私の三名を選んだが、事実上は私が殆んど全文作製した。
この標準作製にあたっては最初に、日保に反対の立場にある団体の役員なぞ一切差別なく国中の日本犬研究者三十一名にその意見を問い合わせたのであったが、真面目な返事を寄せられたのは紀州犬の研究者の大阪の故塩原均氏等三名に過ぎなかった。私が最初に作った基礎案に対して懇意な意見を下すったのは、寧ろ外国犬の研究者側であり、且又私と友人関係の人々、即ち当時陸軍現役に居られて軍用犬の指導にあたって居た当時の有坂光威大尉、間庭一等獣医や、シェパード犬研究の相馬安雄君、エアデール犬研究の今田荘一大佐等であった。日本犬の研究者と云うものは唯古老の云い伝えとか、猟に対する能力の具合とか、闘争の強固とか耳の大小、尾巻きの方向等にだけを論じ合っていて、案外この標準の制定というような犬種として最も重大なことには知識も関心も薄いものであることを知った。
私にプラスになる意見も与えたのはみんな外国犬の権威者達のみであった。
この日保の日本犬標準が決定して正式に発表されたのは、国内的には昭和九年九月十八日で、上野の緑風荘に書く畜犬団体各界の代表者を招待して盛大に披露をし、国外に対しては當時世界畜犬連盟加盟の九ヶ国十三畜犬団体に英訳の標準とその制定に至る経緯とを発送したのであった。英米伊佛等の畜犬団体は最も好意を寄せ、その各々のケネルクラブの機関誌にも掲載された。
これより先き、私が昭和三年に「日本犬の一般的体型」を作ったとき、従来大館犬、鹿角犬、秋田犬、南部犬、和犬、地犬、猪犬、鹿犬、兎先き、柴犬その他各地方の地域名を冠した雑多な無数の名で呼ばれていた名称を日本犬の名に統一し、又体格上これを大、中、小の三型に分けてその各地犬の共通的体型による標準を作った。

 

斎藤弘『秋田犬標準制定についての感想(昭和31年)』より
 
斎藤さんが「独力で作った」という草案作成を支えたのが、帝国軍用犬協会出身の蟻川定俊氏(東京第一陸軍病院の盲導犬ハンドラーとして有名です)。帝犬の体質に悩んでいた彼を、日本シェパード犬協会へ紹介したのが斎藤弘吉だったのです。
その恩もあって、JSVの蟻川氏は日保の斉藤氏に協力を申し出ました。
有能なパートナーを得て(帝国軍用犬協会としては、有坂光威大尉に続いて有能な人材を流出させたワケですが)、出来上がったのが下の日本犬標準でした。


犬
日本犬保存会が昭和9年に公表した日本犬の標準

 

今顧みると昭和三年日保創立当時の私の不十分な研究がこれに反映していて、この区分に既に適当でない部分のあることを感んずる。昭和九年日保制定の標準起草した当時は全国各地の調査も相当手元に蒐集出来ていて、これ等の資料を主とし、外国犬種中、日本犬に体型近似の犬種の標準を参照して、一、要領的確、ニ、文字簡潔、三、細部に亘らず大綱を示すの三項を要旨として起草した(〃)

 

同時期、文部省は「郷土愛と結び付けた地犬の天然記念物指定」をスタート。
こうして、地域名を冠する秋田犬、甲斐犬、越の犬、北海道犬、紀州犬、四国犬および柴犬が「国家の認めた日本犬」となります。一般愛犬家も、文部省の方針を受け入れました。

いっぽう、「日本犬は大中小の3タイプに標準化すべし」という日本犬保存会や「地域性や体格などで縛らず、日本犬を革新すべし」という日本犬協会は、文部省と真っ向から対立しました。
さらに、保守派の日本犬保存会と改革派の日本犬協会も抗争を激化。昭和10年以降、日本犬保存運動は四分五裂していきます。
 

昭和三年十一月二日、群馬縣藤岡町原徳人氏、堤百川氏等同地愛犬家の招待を受け、本會より高久兵四郎氏、齋藤弘氏参り大いに犬談致しました。

同三日より原氏と齋藤、同道信州、上野、武蔵の國境の群馬県多野郡上野村字中の澤部落方面に入り、柴犬を研究し(※「翌四日」追加)やゝ純血に近いもの牡六才一頭を黒川村に於て見出し連れ歸りました(※「十號と改名」追加)。現在、齋藤飼養中、今年夏、再び信州に入り牝を見出すつもりであります。

本年二月一日、本會顧問高久兵四郎氏の上京を機とし、齋藤宅に於て愛犬家を會し大いに日本犬の特質を論じ、又高久氏の犬相の話を傾聴しました。來會者十三名(昭和4年2月14日 日本犬保存会会報の草稿より)

 
戦時を通じて激しい抗争を繰り広げた日保と日協。しかし、両団体の指導者である斎藤弘吉と高久兵四郎は、もともと日本犬復興を目指す同志だったんですよ。
ソレがどうしてああなった?といいますと、日本犬標準を巡る二人の対立が、やがて組織同士のバトルへ延焼したワケです。
 
この標準は単に古い犬はこのようなものであったというだけでなく、徐々に蕃殖淘汰して行って、大中小各型を各一犬種として独立した畜犬に固定させようと云う目標に進む目当にしたものである。当時天然記念物指定の審査はこの日保の標準とは異った観点から審査されて居るとその責任者が言明していた等はこの証拠になろう。
但し天紀(天然紀念物)が鏑木君などによってどんな観点から審査されていたか、私は寡聞にして知らないが、天紀の報告書を見ると審査の観点を定めるほどの研究がなされていないのが実状であったと思う。終戦後私が責任者として作ったこの天紀的意途を持ってない日保の標準を天紀の審査に用いているのはその証といえる。この古い体型に基準を発し乍ら、畜犬的に進歩固定する目的のために作った日保の標準がそのままに天紀の審査に利用されているのを見て、実は私は心中唖然と眺め、天紀係官の無知識に憐びんの情を禁じ得なかった。畜犬展で最良のものが天紀として最良のもとのは限らない(斎藤弘吉)
 
日本犬保存会は、全国各地で審査会や展覧会を開催。その積極的な活動は、日本犬の復活・普及に大きく貢献しました。
まさしく「昭和の日本犬史」の本流と言っても差し支えないでしょう。
……「明治や大正の日本犬史」は話が違いますけどね。
 
昭和3年の設立以来、日本犬の復興活動に尽力してきた日本犬保存会。その功績は称賛に値しますし、21世紀に柴犬をモフモフできるのは彼らのおかげなのです。
ワレワレ愛犬家は、駿河台に足を向けて寝られませんよね。
日本犬の歴史解説も、それゆえ日本犬保存会を中心に語られてきました。
「和犬とは何か?」ではなく「消滅しかけていた日本犬を復活させた過程」を論じる上で、それは間違っていません。
しかし、たった一つの「最適なテキスト」に依拠すると視野を狭める危険があります。「正解はひとつだけ」みたいな考えを犬の歴史に持込まない方がよいでしょう。
 
日保的史観にツッコミどころがあるとすれば、縄文犬と現生日本犬を必要以上に重視してしまったこと。
ふたつを繋ぐ時代のさまざまな和犬たちが、相対的に軽視されているのです。
日本犬が消滅した原因は「明治以降の洋犬やチャウチャウとの交雑化」でした。それを解決するため純血主義に邁進した結果、古代~中世における大陸犬界との交流までが黒歴史認定されてしまったのです。

現生日本犬のスタンダードに合わない和犬の記録を「南蛮犬との雑種」で片付けると、偏狭な日本犬観を生みかねません。

 
島国である日本も中国大陸や朝鮮半島や台湾やオホーツク方面との交流があり、人の移動に伴って犬も渡来し続けてきました。
日本各地にさまざまな系統の地犬群が形成されたことで、和犬の多様性を生み出していたのです。
それらを雑種と切り捨てることは、「縄文人の家系こそが純粋な日本人。それ以外は日本国籍を認めない」と主張するようなもの。
……縄文犬や弥生犬にしても、大陸から日本列島へ渡って来た「海外の犬」なんですけどね。
 
「イニシエの和犬論」は洋犬流入が始まる幕末の開国前後、「和犬の交雑化と消滅」は明治~大正時代、「日本犬保存運動史のスタート」は日保設立の昭和3年以降でそれぞれを整理区分すべきでしょう。この3つを混ぜるとハナシが混乱します。
……だから、この記事をどういう内容にしようか困っているんですよね。
「日本犬の復興運動」と「いにしえの和犬論」を意図的に混同し、「復活した天然記念物指定犬こそが和犬のスタンダードである」という日保史観と、明治~大正期に失われた和犬の多様性を発掘する拙ブログは正反対の立場にありますし。
近代日本シェパード史を帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会の対立軸で解説するように、日本犬保存会と傍流団体のバトルを対比したほうが良いのかもしれません。
 
 
繰り返しますが、これらは日保単独で成し得た功績ではありません。日本犬保存会設立以前の歴史を軸に、文部省や他の日本犬団体も評価に加えるべきなのです。
幕末の開国から昭和の時代まで地犬を飼い続けた人々。
我が国独自の天然記念物として国際アピールした国粋主義。
在来犬を地域の宝とした郷土愛。
降って湧いた忠犬ハチ公ブームとマスコミの宣伝。
日本犬を愛する無名の人々の努力。
それらが渾然となって、日本犬の復活へと繋がったのですから。
 
(現在作成中)