熱烈な愛犬家にして絵師の暁鐘成は、江戸時代の日本犬の姿(関西地方中心ですが)を克明に記しました。
條々
赤間関 小倉 門司のわたりちんの事
一、せきと小倉との間 三文
一、せきともじの間 一文
一、せきと赤坂との間 二文
一、よろひからびつ 十五文
一、長からびつ 十五文
一、馬一疋 十五文
一、こし一ちやう 十五文
一、犬一疋 十文
以上八箇條
右わたりちんの事前々より定めおかるるといへどお、舟かたども御法をやぶり、ふちよくをかまへ、上下往来の人にわづらひをなすと云々。
鷹狩りに参加した猟犬。鳥を追い出す勢子の役目を担っていました。
「徳川十三代将軍御鷹野之圖(明治2年)」より
【中世~近世の犬】
鎌倉時代以降も多様な犬種が渡来し、武家階級も「官の犬」を飼い始めます。武家には鷹部屋や犬部屋が設けられ、鷹狩犬や闘犬が盛んに飼育されました。
人々から珍重されていたのは唐犬や南蛮犬や狆であり、和犬の扱いがどうだったかは分りません。
その一方、「民の犬」は粗末な扱いを受けていました。
モチロン愛犬家もいたのですが、多くの人々にとっての犬は、戦乱や疫病や飢饉のたび死體を喰い荒し、街角でゴミや汚物を漁り、病人や弱者を襲撃する薄汚い獣に過ぎなかったのです。
江戸時代、唐犬と和犬の扱いについて記した興味深い図譜が残されています。
こちらは、江戸時代に出版された頭書増補訓蒙圖彙大成という図鑑です。その第六巻「畜獣」に描かれているのは、当時の日本にいた犬の姿。
土着の犬(けん:和犬) 、外国産の獒犬(ごうけん:唐犬)、農犬(のうけん:ムク犬※農はけものへん)に区別されています。
昔の日本の犬=現在の日本犬というイメージが誤りであることが分りますね。
この時代に姿を消した犬種もいるのですが、彼らもかつての日本に暮らしていた犬でした。
近代の日本犬と、中世・近世の人々が見ていた日本犬と、古代の日本犬の姿は同じではありません。
繰返しますが、21世紀の我々が知る日本犬は、ここ百年ちょっとの姿。その辺を基準に日本犬論が語られている訳ですね。
それでは、江戸時代の犬種について解説しましょう。
【和犬(けん・いぬ)】
獣医薬のパンフレットである『犬狗養蓄傳』。表紙には、奈良市にある法華寺の御守犬が描かれています。市場流通している『犬の草紙』と違い、現存するのは一册のみとのこと(ちなみに、飼育マニュアルの内容は両方共通です)。
「序文には和漢今古の文を引いて犬狗養慈悲を施す可きをのべ、本書を著すの意を記し、本文には中毒、皮膚病、負傷等の手當から平常の食事、寝床、犬殺しへ
の諸注意に至るまで事細かに書き、奥書として瘈狗良方、犬の病を治す薬、病気診断の法、大阪心斎橋通博労町清水谷滄海堂精製の犬薬、瘈犬快生散、猘犬潤和
散、閉犬速開散、柔狗強壮散、瘈犬唆傷救愈散等の賣薬の廣告をのせて居る。
著者暁鐘成は又の名鶏鳴舎晴翁、性は木村氏、通称彌四郎、諱の明啓、著述は諸國の圖會や、芝居に關したもの、其他有名な雲錦随筆、蒹葭堂雑録等五十種にあまり、犬を愛すること類なく、他にも古今和漢の忠犬義犬談を編集した「犬の草紙」、別名古今霊獸談奇六巻の著がある」
斎藤弘『犬の古文書(昭和8年)』より
犬塚の前は山口屋といへる旅店なり
此墳は予が建てるところにして始め外方(※天保山)にありしかども故ありてこゝに移し
塚の傍に櫻楓数株を植へ置きしが今は頗る盛木して春秋の眺めを増せり
碑の形は硯屏の如くつくり前に犬の形を刻して臺石上にある石面に鐫して曰く
館皓寶獣之碑
暁鐘成子 曾有所愛畜之狗名皓 是歳秋八月廿一日曉天 踰墻露臥 乍為狗賊所害矣 主人不堪悲愛
既獲其骸於郊外 既収磁甕以痊諸于□□山下請僧追悼 竝将慰他衆狗所害之霊友人浦高積為述之
銘曰
嗚呼霊獣 生愛死惜 埋封建碑 其魂茲宅
天保六歳乙未九月廿一日 暁鐘成 立
【唐犬(からいぬ・ごうけん)】
こちらは獒犬(「大きな犬」の意味・唐犬)。江戸の全期にわたって様々な書物に掲載されていますが、正体は不明。
いずれも「体高四尺もある垂れ耳の大型犬」として描かれています。「九州の大宰府あたりにいた犬」との説もあるので、長崎の出島あたりから持ち込まれたグレイハウンドやグレートデーンでしょうか?
原爆の被災を免れた長崎の料亭には、出島の洋犬を描いた掛け軸があったりしますし。
【ムク犬(のうけん・むくげいぬ)】
江戸時代に描かれた農犬(のうけん・むくげいぬ。農はケモノ偏)。
彼邊の犬、常の人家に養ひ飼ものは長が低く、上方の犬よりも少し小なり。常に座敷の上にて養ふて上方の猫を飼ふが如し。
至極行儀よく上方の犬よりは柔和なり。異品といふべし。
又獵に用る犬は格別に長が高く、猛勢にて座敷に養ふことなく、上方の犬を飼ふ通りなり。猛勢なる事は上方の犬に十倍せり。
先年虎の餌の爲に彼國の犬を入れしに、其犬虎の咽(のど)に咬み付て虎を殺せし事、世間の人の物語りにあることなり。
かゝる猛勢の犬ゆへに常々は二三匹寄り集れば早必咬合て喧(かまびす)しきに、大勢獵に出る時などは諸方の犬を皆々各繋ぎて牽行事なるに、町を出るまでは側近く寄れば必咬合騒(さわがし)けれ共、既に山に入ると其犬ども常々はいかやうに仲惡敷(なかあしく)よく咬合ふ犬にても、其仲よく成りて、綱を解き離して犬の心のまかせに馳廻らすれども、犬同士咬合ふ事無く、互に助合て出で山を働くなり。
是向ふに猪鹿といふ敵あるゆへに犬ども皆一致の味方に成りて、相互に助け合ひ至極親しかりしとぞ」
『西遊記』抄訳
【蝦夷地の在来犬】
九州南部の反対側、蝦夷地の犬も書物に記されています。
和人が見慣れていた地犬とは異質な、アイヌ民族の猟犬。のちの「北海道犬」です。
鎌倉時代から始まった安東氏の蝦夷交易は、コシャマインの戦いを経て蠣崎氏(後の松前藩)の支配へ移行。松前藩は、蝦夷地に対ロシア防衛および交易の拠点である和人地を設けました。
同時に商人を含めて多数の和人が蝦夷地へ渡り、蝦夷と呼ばれたアイヌ民族との交易を拡大します。
その過程で、アイヌの人々が飼育するセタ(猟犬)が知られるようになりました。
「夷人のいい伝ふに蝦夷の初は幾千年以前の事にや、何国より流れ来るともなく、官女とおぼしき婦人、うつろ船に乗りて流れ来るなり。犬と(蝦夷にては犬を セタと称す)夫婦になりて子を産みしより、この国はじまるというなり。今に手も松前人蝦夷の地に行きて戯れ言に、この国は男子の先祖は犬にて、婦人の先祖 は官女と承りしが、さように候やと尋ね聞かば、男夷(アイヌ男性)はさも恥じ入りし体にて婦夷(アイヌ女性)はここぞと思ふ気色見えて、この国の婦人は皆みな官女のながれを得しものと 答ゆるよし」
これを書いたのが、岡田藩の地理学者であった古川古松軒。天明7年(1787年)に蝦夷地を視察した彼は、目撃したセタについて記しています。
セタを使ったヒグマ猟の記述もありますが、実際に古川一行はヒグマの襲撃に遭遇。一度目は宿泊先の厩舎を襲われ、銃を持ち出す大騒ぎとなり(馬二頭が喰われたとか)、二度目は山道を移動中、荷役馬の存在を嗅ぎつけたヒグマが続々と集まってくるサファリパーク状態に。昔の北海道旅行は命がけだったんですねえ。
古川古松軒の蝦夷地視察旅行「東遊雑記」より、アイヌ民族誕生の伝説。赤線の部分には「蝦夷にては犬をセタと称す」と記してありますね。
原書にはセタの図2点も掲載されていますが、私が所有している写本では残念ながら欠落。
在日外国人によって明治時代に「アイヌドッグ」と命名され、“民族差別を助長する”として戦前には「北海道犬」と改称されたセタ。
古川古松軒による解説は下記の通りです。
「蝦夷地にて犬をセタと称す。日本の犬よりは小にして、少し違いてあり。松前の地にても蝦夷の堺の浦には、セタの落しとて蝦夷の犬の子もあり。夷人狩に出るにセタを連れて行きて、かの羆に懸くるに、迯げ走ることの早き犬にて、羆の迯ぐるより先へ廻りてははげしく吠え懸るに、羆怒りて犬を見て飛び懸るを、岩間木陰に迯げ廻りて羆に近づくことをせず、夷人の追い来るまでは、とやかくして羆の迯げのびぬようにかしこく邪魔となりて、羆をあやかすものなり。
日本の犬は肉を喰えば毛のぬけて見苦しくなるものなるに、蝦夷犬は生まるるより肉を以て飼い立てしものゆえに毛のぬけることなくて、毛に光ありて美しき犬なりといえり、これも図にあるを見て写しをとるものなり。毛色はさまざまあり。形は日本の犬に同じくして、声は異なるなり」
東洋文庫27・大藤時彦翻訳版より
和犬の中でも、早期に「独立した犬種」として認識されていたのが北海道犬だったのですね。
1854年(嘉永7年)にペリーが来航した際、描かれた函館の街並み。当時の蝦夷地にも、たくさんの犬が暮らしていました。
アメリカ海軍編『Perry's Expedition to Japan(1854年)』より
「翁の經歴を問ふに及んで、徐に答て曰く、予の醫官より出でゝ箱館奉行支配組頭となり、其奉行所に赴くや、時は文久二年(1862年)歳四十一の時なり。
北蝦夷唐太(カラフト)の地、魯西亜國と境を接するを以て、事端漸く稠く、時々重役の臨檢を要するに因り、同年七月箱館を發して北渡東西を巡視し、北緯五十度前人未だ見ざる所の使犬部属アイノ人住地の極端タライカ湖に至り、還て久春古丹(クシンコタン)に駐る。
翌年三月任滿るを以て南渡し、北岸を東行して恵戸路府(エトロフ)久奈志利(クナシリ)の二島を巡り、九月箱館に還る。
その唐太に在りて冬を渉るや久春古丹に居る、時に狗に橇を牽かしめて、冨内に至れるの日は、積雪皚々天地一色、更に路形無し。及(すなわ)ち崖を攀ぢ氷河を渡り、唯一直線に疾駆すれば、一日三十六里を走る。事に熟せし○人これに騎りて先きに立ち、嚮導をなし暮るれば途に泊り、明るれば出づ。
狗の忠實なる終宵主人の身邊を囲繞して、守護頗る力む。〇人も狗兒を愛育すること、恰も子弟に於けるが如し。
冬は橇を牽かしめ、夏は岸に沿ふて舟を牽かしめ、或は獣猟に伴ひ、老ふれば屠りて其肉を食し、皮は衣となして寒威を凌げり。
その狗車(くしゃ)に題する詩及引に
雪深盈尺、○人及入穴居、干時、少壮調雪車、撃狗牽之、靷端必懸一鐸、其響各異、夷細心心聴別、以指其主、雖百里外人必不誤、到々進也、喈々止也、其調車之號語「海豹 暖穴居初、到々喈々調狗車、可怜于顕閑不得、稜々鐸響遞公書」と」
乙羽生『日本戰艦の母(明治28年)』よりその他、樺太探索にあたった間宮林蔵はニヴフ族の犬橇文化を詳しく記録しました。
【幕末とカメの渡来】
反対に、内地の和犬たちは交雑により様々な姿へ変化していました。
それらは各地で独自の系統を形成し、地犬として定着します。
地域によっては南蛮犬や唐犬との交流があったものの、地犬たちの系統は保たれました。
1639年以降は海外交流も制限され、当時の日本に輸入される唐犬も減少したことでしょう。外国犬の大量流入が阻止されたお蔭で、和犬は消滅を免れたのです。
開国から6年後の1860年(万延元年)、園芸学者ロバート・フォーチュンは日清両国へ植物採集旅行に訪れます。幕府の役人(攘夷志士の襲撃に対する護衛も兼ねていました)が同行する窮屈な旅の中で、彼はさまざまな日本の風俗を記しました。
幕末の犬については下記のとおり。
「われわれに敵意を示した唯一の動物は犬であった。これは言ってみれば、犬の慣用手段であった。
彼らは家から飛び出して、猛烈な勢いでほえ立てたが、反面、概して臆病で用心深く少し離れていた。これらの犬は、普通のシナ犬と同じ種類であるらしいが、どちらも恐らく、本来は同じ血統から出たものだろう。
奇妙なことには、犬は、外国人に対して、彼らの主人とに、反感を持っていることだ。なぜならば、日本やシナの人びとは、たとえ丁寧で親切に見えても、彼らの大部分は今なお、われわれを憎しみ、軽蔑していることは間違いない。明らかに、そのような感情は生来のもので、彼ら自身で直せるものではない。われわれがこれらの国で生活や、旅行や、商売ができるのは、ある階級の者がわれわれから金を儲けたり、また他の上層部がわれわれの力を恐れているからに過ぎない。たとえ不本意ながらも、東洋人がやむをえず辛抱して、われわれに礼儀を守っているのは、こうした動機によるという結論に達する。
あわれな犬どもも生れながらに、人間と同じ感情を持っているが、偽善は持っていない。だから犬どもの憎しみは、はっきりしている。彼らは番犬としては感服すべきもので、それが犬に当てはまる、ほとんど唯一の利用法である。
昔、オランダの記者が、飼犬でない野良犬のことを次のように発表している。
「野良犬は特定のある町の市民―いわば公共の所有物である。そして野犬どもは土地の人びとから、一種の迷信的感覚(元禄時代の「生類憐みの令」の名ごり)で大切にされている。だから野犬は「この国唯一の怠けものだ」
このオランダ人の記事を疑わしいと思うかも知れないが、真実の一面もある。これらの若干の野犬は、飼い主も犬小屋も持っていないとはいえ、大部分の犬どもは、飼主と小屋と両方持っている。もしも住民が何らかの迷信的感情で、犬どもを神聖な動物として敬ったならば、彼らはきっと「お犬さま」といった思い上がった不礼な素振を示すだろう。
暑い夏の午後、犬が大道で長々と寝そべって、眠り込んでいるのを見ると、われわれの従者は容赦なく足蹴にしたり、鞭で打ったりして、道から追いはらうことが常習になっていた。多くの犬には役人の鋭い刀痕が、はっきりついていた。
また犬を見世物にするために世話をしたり、犬を神聖なものとして大切にする者がいても、一般の人びとはひどく虐待して、彼らを保護していやる気持が欠けている」
ロバート・フォーチュン著 三宅馨訳『江戸と北京―英国園芸学者の極東紀行―』より
意外なことに、生類憐みの令の影響は幕末まで残っていたんですね。
ついでに、狆についての観察も。
「日本産のチンは、日本人にも外国人にも非常に珍重されている。チンは小柄で、身丈が九 一○インチ以下のものもいる。彼らはひどい獅子ツ鼻で凹目で、たしかに可愛いらしいというより珍妙である。彼らは大切に飼育されて、日本でさえも高値を呼んでいる。
飼主が特に好む酒をチンに飲ませて、いわゆる「一寸法師」に育てるということである。チンの仲間も前述の大きい犬と同様に、外国人に示す、はげしい憎悪が目立つ(〃)」
「街の通りで、オオカミのような犬がたくさん目につく。この犬どもは外国人に対してひどい敵意を抱いているが、私が函館に着いたころは、やたらに吠えてもその声は弱々しかった。というのは、恐ろしいジステンパーが猛威をふるっていて、何百頭もの犬がそれにかかり、死体となって道路に倒れていたり、至る所で死にかけていたりしていたから、そのせいであろう。この病気の特別な徴候は、腰や後肢の力がまったく失われて、鼻汁や目やにが多量に出ることである。したがってこれにかかると、犬の多くは気持ちの悪い面つきになる。日本人は始め、ヨーロッパ人やアメリカ人居留者がこの犬を憎悪しているのを知っていたので、彼らかその召使いの中国人が毒を盛ったのだと思った。この勘ぐりはは当を得ていないとしても、街を横行する因業な犬どもに対して抱いている嫌悪感から、外国人たちは犬の数が一挙に減ったことに大して惜しがる気持ちも起きなかった。
そのジステンパーの猛威のために約九十パーセントの犬が死んだと算定された」
トーマス・W・ブラキストン『蝦夷地の中の日本』より(近藤唯一訳・高倉新一郎校訂校訂)
幕末の開国とともに、大量の洋犬が渡来し始めました。日本在来犬にとって、試練の時代が訪れたのです。