大正13年、秋田県庁の世間瀬課長より恩師の上野英三郎帝大教授へ贈られた秋田犬ハチ公。

東京の地で大切に育てられたハチ公ですが、英三郎氏は翌14年に亡くなります。ご家庭の事情や当時の法律もあって、八重子夫人は愛犬たちを手放さざるを得ませんでした。

ハチ公は知人宅を転々とした後、植木職人の小林菊三郎氏が引き取ります。

 

上野教授が亡くなってから8年後。昭和7年の新聞報道によってハチ公が「忠犬」になった途端、八重子氏は「ハチを捨てた犯人」の如くバッシングされ始めました。

ハチ公を登録していた日本犬保存会へのライバル心から、関西を拠点とする日本犬協会も組織的にハチ公批判を展開。その攻撃の矛先は日保だけではなく、ハチ公の飼主にも向けられます。

〇〇未亡人(※上野八重子氏のこと)は恐らく八公にオマンマを與へなかつたに違いないですよ。犬が好きでない婦人が、大型犬に滿足出來る程オマンマを與へる筈がないですからね。
〇〇未亡人のケチンボーが(ケチンボーは一寸皮肉ですが、果してケチンボーであつたか犬嫌ひであつたか、將又轉居であつたか、何れにしても犬に對して愛情が淡き爲め犬を捨てたか、或は犬の方で主人を捨てたかどちらかでせう)八公をして日本一の忠犬にした分ですね(註釈:忠犬にしたのは〇〇未亡人ではなく、日本犬保存會が宣傳の材料とした分です。何しろ宣傳博士がゐるからね)

 

日本犬協會 有漏烏木「雑記帳 古市さんよりの近信(昭和11年)」

控え目にいってゴミクズのような思考回路ですね。

社会的立場が弱い彼女は、黙ってそれに堪えるしかありませんでした。

 

このイジメ行為は終わることなく、戦後世代も嬉々として継承します。

戦後のハチ公批判は早くも昭和21年に登場し(当初は天皇制批判の材料として)、大きく再燃したのは昭和31年のことでした。同年の『週刊新潮』に掲載された「忠犬像紳士録」をキッカケに、『週刊朝日』もハチ公批判を展開。これに対してハチ公擁護論も出される中、すべての責任を八重子氏へ押し付けるような言説が現れております。

マスメディアやインテリ層によるハチ公批判論には、「反論の術をもたない弱者への攻撃性」が潜んでいることも覚えておきましょう。

 

本日3月7日はハチが過した最後の夜。
追悼の意味で、上野八重子氏の回想をご紹介しましょう。

虚像である「渋谷駅の忠犬ハチ公」に祭り上げられてからのエピソードはたくさんあります。しかし、普通のペットであった「上野家のハチ」時代に関する、飼い主本人による証言も貴重だと思いますよ。

この記事を読む貴方が八重子氏の発言を知らないということは、ハチ公を論じる者たちが彼女を黙殺してきた証でもあるのです。

 
帝國ノ犬達-ハチ公
上野八重子氏と再会したハチ公
 
上野八重子『忠犬ハチ公を悼む ハチ公の思ひ出』より 
昭和10年3月、ハチ公の死を受けて
 

1
まるで自分の子供の様に育てゝ來たハチが逝つてしまつたのかと思ふと、本當に淋しい氣が致します。
けれども、あの世の主人の傍らで安らかに暮してゐるのかと思ふと、ハチは幸せなのではないかとも存じます。
静かに眠つたハチを見送つて、何となく重荷の下りた様な氣持を感じると同時に、一脈の物足らなさが胸に迫つて來るのを、どうすることも出來ません。
ハチは氣立の優しい犬でした。それに仔犬のうちから病身なので、かうして死んでみると、愛としさが泌々湧き上つて参ります。
ハチがまだ一歳の頃、私共の長男が生れましたが、ハチは赤ン坊にまで馴染み、その頃は家の中に飼つてゐたものですから、長男の寝てゐる座敷へはいつては、嬉しさうに自分も長々と寝てゐたりしました。あまり長男に親しむので、赤ん坊とハチを一緒に寝かしたりした様なこともあつて、ハチは大喜びでした。
その頃は一時座敷に飼つたこともあるのでございます。
私共もこれまで色々の犬を飼ひましたが、ハチ位人間の氣分をよく覺る犬はをりませんでした。
こちらも人間の子供並みに扱つたせいか、随分と人間臭い犬に育つたのでござゐます。みながよく「ハチは人間臭い」と云つては笑つたことでした。

2
病身なので、手數のかゝることも一通りでなく、主人の存命の頃は、主人が面倒な食事の世話を焼き、肉は上肉を撰び、脂身を一筋づつ抜くやうな手數をかけ、牛乳は二合づつ日に三回、御飯はお粥の様なものをあてがつてをりました。
病氣は胃腸でござゐます。
肉は生まのをやつてをりましたが、寄生蟲の心配がありますので、御飯に交ぜてセメン(※現在の駆虫薬「サントニン」、当時の商品名「セメンエン」のことです)を月二回、人間の赤ン坊にやる位與へました。

宅へハチが來る前、私共では四頭の秋田犬を飼ひましたが、いづれも短命で、一番長命なので九ヶ月といふレコードでした(※上野宅の歴代飼犬は、フリッツ第一、フリッツ第二、フリッツ第三、タマ、ワイ、マル、ジャック、五郎、エス、太郎第二、シロ、デコ、チビ、ケル、チイ、六、ジョン、エス、そしてハチ公)。
ですからハチの健康には出來るだけの注意を拂ひ、これだけは長生きさせたいと主人も骨を折つたのでござゐます。

病が進んで生死の境をさまよつたことも幾度か、その度に膽を冷やしましたが、主人の丹精でやつとそれも突破し、二歳の頃ハチも丈夫になつたと喜んだのもつかのま、突然主人が亡くなつてしまつたのでござゐます。
まるでハチの健康と入れ代りに逝つてしまつた様な形になりました。
しかしハチの健康はその後また惡くなつて(※昭和4年頃、重度の皮膚病に感染しています)、他家へ預けても、これが唯一の心配でござゐましたが、そのハチが計らずも十三歳まで生き伸びたのは、私にとつて大きな喜びと申す外はありません。

3
ハチは前申す通り、温和しい犬でしたが、内には勇猛心を藏してをりました。

子供が惡戯し様が、耳を引つ張り廻さうが、いゝ氣持で身を任すハチでしたが、一面喧嘩となれば負けたことは一度もない鬪士でした。あの澁谷驛にノツソリしてゐたハチが……、と思はれる位の勇猛さなのでござゐます。

喧嘩と云つても、ハチは自分から仕掛けたことは一度もなく、賣られた喧嘩を已むなく買ふといつた形です。
ハチの武勇傳にはこんなのがあります―。
三歳の頃でした。
綱をつけてハチを散歩させてゐると、ブルが一頭かかつて参りました。ブルは盛んに挑戰して來ますが、ハチは五月蠅いとばかり、テンで相手にしません。その内あまり執拗に挑んで來るので、ハチも堪り兼ねて「ウワツ」と一聲恐ろしい聲を擧げたかと思ふと、相手のブルは悲鳴をあげて逃げて行きました。
一寸とした威嚇だとばかり思つてゐましたが、ハチはモク〃口を動かしてゐるのでございます。何をしてゐるかと見てゐるうち、やがてハチの口から落ちたのは逃げ出したブルの片耳でした―。
かういふ喧嘩の際など、ハチの力といふものは大變なもので、そんな時私など綱を引つ張りきれるものではござゐません。
ウンと踏ん張つた拍子にハチに倒されたことがある位です。
どうしても追ふんだと云つて承知しない時の力の強さといふものは、大の男が三人も掛らねば止めることが出來ませんでした。
只今宅に土佐とカメ(※洋犬のこと)の雑種で、今年十四歳になるエスといふ老犬がゐますが、これが又生來大變氣の弱い犬でござゐます。
ところが意氣地のないこのエスも、ハチが一緒だと氣が強くなつて、散歩の時など堂々喧嘩を買つて出るやうなことがあるのですが、かういふ時のハチの態度は全く變つてをりました。
相手の犬を攻撃する代り、いきなりエスの側へ寄るなり、エスの上に乗掛つて、これを自分のお腹の下へ掻い込んでしまふのです。そして歳上のエスをかばひながら、盛んに相手を威嚇するのでした。

4
ハチの嫌ひなものは雨。
雪は大好きで、スロープを見つけては珍妙なスキーをして獨り樂しむのでござゐます。
スロープのハチはいきなり雪の上に仰向けに寝てしまひ、四足を空へ向け、背を雪につけ、首をチヨコ〃左右に振つて、これを舵とし、巧みにスロープを滑り下りるのです。
とても珍藝で、笑はずにはをられませんでした。
それからハチは不思議と雷を豫知し、雷の鳴る一二時間前になると、必ず變つた行ひを始めました。
それは妙に人を懐しがることで、子供でも誰でも家の者の傍へ行つては頻りに甘へる様な格構をします。いつもこの雷豫報は、はづれたことがないので、「ハチの天氣豫報」と私共は呼んでをりました。

5
ハチにはまたこんな受難話もござゐます。
私共がまだ澁谷に住んでゐた頃、ハチを七百圓で譲つてくれ、千圓で渡してくれないか、といふ話が折々出たことがありましたが、この犬を一つ誘拐してやれといふ者が時々現はれて、これには惱まされました。
ハチの首に針を植へた綱をつけ、ステツキの先などに食物をつけて誘拐するのでござゐます。ハチはウツカリ誘拐者の手にのつて、綱をつけられ、曳いて行かれますが、道玄坂乃至は宮益坂、でなければ富ケ谷まで曳かれて來ると、ピタリと止まつて動かなくなつてしまふのです。
力があるので、止まつたら最後、一人や二人の力ではビクともするものぢやありません。
その内、犬が大きいものですから、一人立ち二人立ち、段々人が集まつて参りますと、その中にはハチを知つてゐる方があつて「やあ、上野さんのハチ公だ。君は何をしてゐる。何處へ引つ張つて行かうとするんだ」と詰問するといふ譯で、誘拐者がタヂ〃となるうち、宅へ電話で顛末を知らせて下さる方がある。交番へ訴へて下さる方があるといふ騒ぎになつて「すは、一大事!」と私共で駈けつけ、難なく取戻したことが幾度もござゐました。
ハチが道玄坂や宮益坂や富ヶ谷あたりで止まつてしまふのは、驛から遠く離れたくなかつたからでせう。
面白いのは豫防注射の時で、巡査が見えて「お宅の犬は一番大きいから、眞つ先に注射をやりませう。集まらない内早く連れて來て下さい」といふ御註文です(※昭和26年に狂犬病予防法が施行される以前、飼育登録や狂犬病対策などは保健所ではなく警察署の管轄でした。ちなみに日本でパスツール式狂犬病予防注射が導入されたのは明治28年のことです)。
こちらは左様云ふものかと思つて、早くからハチを連れて出向くと、係りの方がニコ〃笑つて「どうもハチ公がゐないと淋しいからね。その邊の見える所へ繋いで行つて下さい。一番大きいから後でやりませう……」には、こちらも笑つてしまひ、程よい所へ繋いで置く始末。
注射はやつぱり終りに近く行はれ、豫防注射といふと、いつも一日掛りでした。

6
私にとつて、すべてが忘れられぬハチですが、一番深く印象に殘つたハチは、主人の亡くなつた時の悄げ方でした。
主人の遺骸には防腐劑の注射を施しましたが、その夜具に血でも多少附いてゐたものか、夜具を物置へ藏ふと、ハチも夜具を慕つて物置へはいつてしまひ、どうしても出て來ないのです。蒲團をなつかしがるハチの姿は本當に哀れでした。
初七日の夜、棺を祀つて御通夜を營んでゐる時でした。
庭をシヨボ〃歩いてゐたハチが急に縁側のガラス戸を押しあけ、座敷へスタスタ上つて参りました。そして棺の方へ歩いて行つたかと思ふと、棺を安置した台の下へドシドシ這入り込んで行くのです。
ハチは其處で肢を伸ばして腹這ひとなり、さも安住の地でも見出したかの様に、グツタリ首うなだれ、呼ばうが、追はうが、どうしても棺の下から出て來ないのです。
かうして一晩ハチは頑張つてゐましたが、その根強い思慕の情には、誰も彼も思はず泣かされてしまひました。

―何も彼も今は懐しい思ひ出となりました。澁谷驛へ行つても、あのハチの姿の見えないことは堪らなく淋しいことです。
いつも喜んで迎へてくれたハチでござゐました―(以上全文)

 

帝國ノ犬達-ハチ