日本犬のルーツは大陸経由なのか、はたまた南方や北方から渡来したのか。
戦前から唱えられてきた「ディンゴ先祖説」は、近年の発掘データやDNA解析で否定されています。中国において軽視されていた古代犬研究が見直されたことで、新石器時代に縄文犬と似通った形質の大陸犬が存在していたことも明らかとなりました。

最終氷期の終りで海面が上昇、大陸から切り離された頃の日本列島に犬は存在しませんでした。
東アジアの犬は、何万年も前にニホンオオカミの先祖から分岐します。
孤立した日本列島に取り残されたオオカミは、やがてニホンオオカミへと進化。それから長い年月を経て、大陸の犬の中の一群が「縄文犬」として日本列島へ渡来しました。
弥生時代や古墳時代に渡来した犬たちと交雑しつつ、北から南までの各地域に適応していったのが現生日本犬のルーツです。
大陸の犬は地域間で交雑を繰り返し、飼主たる諸民族ごとに品種改良を施されますが、辺境の日本列島には古い姿のままの犬が残存できたのでしょう。

大陸の牧畜文化や犬橇文化は牧羊犬や輓曳犬の作出につながりましたが、古代~近世にかけての日本には狩猟以外の使役犬文化が存在しません。
たとえばドイツの農耕牧畜文化を感覚的に理解できない日本では「ジャーマン・シェパード・ドッグ」という名称の意味も理解できず、「シェパードは狩猟民族たるドイツ人が作出した軍用犬」などという間違いだらけの主張が生れたりするワケです。
樺太のニヴフ族が使ってきた犬橇も、隣の北海道へ伝わったのは明治38年以降のこと。
四方を海で囲まれていたことで、外部からの影響は最小限に抑えられたのです。

「犬の品種改良」という概念がなかった日本において、和犬は明治初期まで古来の姿を保ち続けました。だから現生の日本犬を基準にすればよいかといいますと、話はそうカンタンではありません。
何度でも繰り返しますが、そもそも「日本犬」って何なんですかね?
日本犬のルーツを縄文犬に限定すべきなのか、後の時代に渡来した犬たちも加味すべきなのか。
「縄文人の直系以外は日本人と認めない」などと主張しても笑われるだけですが、和犬の話になると同じ暴論がまかり通ってしまうのも不思議ですね。

近代になって洋犬との交雑化や狂犬病対策により数を減らし、産地から買い漁られて地域性を失い、復活の過程で平準化された姿が現代の日本犬。
加えて弥生犬や唐犬や南蛮犬が渡来し続けた歳月を考えた場合、そのルーツを辿るには「ハイブリッド型である現生の日本犬」ではなく「プロトタイプである縄文犬」に限定すべきなのかもしれません。
しかし縄文犬に執着すると、「渡来犬と交雑した地犬の多様性」を無視した視野狭窄に陥ってしまいますし。
日本犬の歴史は、ことほど左様に面倒なテーマなのです。

日本犬にも金魚にも、それなりの歴史があるのです。

日本犬のルーツを解説する側も微妙なんですよね。
縄文時代と21世紀を直結する乱暴な歴史観、考古学のデータを何年も更新しない思考停止、武士道を犬に押し付ける精神論などが幅を利かせてきました。

歴史どころか、「日本犬とは何か」の定義すらもアヤフヤです。
47都道府県別の地域性、海外との交流、縄文・弥生から古代・中世・近世・近代の流れを踏まえた上で、現代の日本犬を「縄文時代から日本列島内で純粋培養された固有種」と見做すべきなのでしょうか?
日本史の授業で習ったとおり、まずはスタート時点の話から。

【縄文時代の犬】

「現時点で発見された日本最古の犬」は、愛媛県上黒岩岩陰遺跡(7300~7200年前)や佐賀県東名遺跡(7000年前)のモノ。同時期の犬骨は神奈川県の夏島貝塚からも出土していますが、これらの貴重な資料は一時期所在不明となったこともありました。
各地で出土した骨格を総合した結果、縄文初期の犬は「体高45センチ程度、ストップ(額の段差)が浅く、立尾の犬」と推測されています。体格などに地域差は見られるものの、おそらくは一つの系統だったのでしょう。
宮城県や福島県で出土した中型犬を除き、大部分は柴犬サイズの小型犬。しかしその姿は、現代の柴犬とは違っていたのです(「縄文柴犬」と称される個体もいますが、あれは顔が細いだけでストップの点が異なります)。
犬の頭数が増加した中期から後期にかけ、その姿は「立耳巻尾で体高40センチ程度」となりました。小型化の原因が島嶼化によるものか、気象条件や食生活などが影響したものかは不明。

帝國ノ犬達-縄文犬
国立科学博物館で展示されている縄文犬の復元モデル

「縄文犬」の祖先は、ユーラシア大陸のどこかで誕生しました。そして氷期が終って大陸と分断されていた日本列島へ、犬を飼う文化をもつ縄文人の先祖と共に船に乗って渡来したワケです。
東日本を中心に日本各地へと拡散した彼らは、何千年にも亘って縄文人と暮し続けました。
粗末に扱われた犬もいれば、大切に飼われた犬がいたのも現代日本と変わりません。
ゴミと一緒に散乱状態で出土した犬骨がある一方、人と犬が一緒に埋葬された前浜貝塚などの事例、人間の墓域へ犬も埋葬された田柄貝塚や竪穴住居に三頭が合葬された高根木戸貝塚のような事例を見ると、縄文人と犬との関係がうかがい知れます。
「猟師と猟犬」の関係だけではなかったらしく、青森県の二ツ森貝塚では女性と一緒に埋葬された犬骨も発掘されました。愛玩犬的な概念も存在したのでしょうか?
もちろん、縄文時代の犬の飼育法については知る術もありません(人間と共に暮していたのは確実で、滋賀県の福満寺遺跡では住居内から犬の足跡も発見されています)。
肋骨や脛骨はおろか、頸骨骨折の治癒痕がある犬骨も出土しているので、獲物との格闘で重傷を負った「役立たずの猟犬」も殺処分されなかったと思われます。
また、祭司的な意味と思われますが、縄文人は犬の頭骨や牙は装飾として用いていました。それだけ近しい関係であったのは事実でしょう。

単一犬種が局地的に近親交配を繰り返した結果、縄文犬には疾病が多発していたようです。
発掘された縄文犬と現代の犬を比較した直良信夫は、その骨格に明らかな差異があることを発見しました。

「然るに、どう云ふわけか、當時の家犬には、非常に病犬が多いのであつて、この事實は私共としては細心の注意を拂ふ必要があるわけである。今日私共が檢出し得る疾病は、主に顎骨や齒牙の上に殘されてゐるもののみであるが、之等の口腔病が全身に及ぼす惡影響を考へてみると、外科的に又内科的に、それらから誘導せられた疾病が、どんなに澤山であつたらうかは、思ひもよらぬ程多かつただらうといふ事を想像する。
實際、日本内地の貝塚での事實を拾つてみると、今假りに一遺跡で十頭分犬骨が出たとすると、その中の四頭、即ち四割は、どこかに患部をもつた犬骨であるともいひ得やう。
私は今日迄東京近傍を舞台として、雑種犬の頭骨を調査する必要から解剖に附して來たのであつたが(特に解剖しないで口腔を調査した例も亦多い)、確實に細菌性口腔疾患をもつた例に澤山遭遇してゐないのである。
之は一面に於て私の採材法が斃死犬を對照としてゐるのと、また數に於て缺けてゐる事に基因してゐるのかもしれないが、それにしても、あまりにその例の貧少であるのは、現生雑種犬に細菌性口腔疾患を有するものが非常に尠ないのではあるまいか。といふ事を現はしめるに役立つたのである。
口腔疾患の種類には、種々なものがあつたらうが、今日私共が知り得るものは、僅かに齒科醫學的な疾患のみである。之には畸形性なものと細菌性のものとがあり、その疾患は先天的のものと後天的のものがある。
(中略)
而して之等の劣性遺傳の發生は、當時の犬が不自然な人爲環境のもとに、無制限な蕃殖生活をなし、且つ又犬を飼育する風習が無批判に急激に傳播し、それに乗じて不良體質の家犬が根強く隅々にまで分布擴延した事にはじまつてゐると見る事が出來やう。
今の家犬が史前の日本犬程劣惡な口腔病をもつてゐないといふ理由は、野犬狩その他によつて、不良犬の淘汰が逐年に亘つて合理的に斷行せられて來たからに外ならない」
直良信夫『古代日本犬に疾患の多いのは何故か(昭和13年)』より

日本列島に封じ込まれ、袋小路へ向かいつつあった縄文犬に、やがて大きな転機が訪れました。
大陸各地から稲作が伝来し始めると共に、朝鮮半島の犬たちが日本列島に現れます。東日本の「縄文犬」と西日本の「弥生犬」が何百年にも亘って交雑化する、弥生時代がやって来たのです。
日本犬が多様性を獲得していった過程も、北から南まで見渡すとナカナカ複雑でした。

【オホーツク文化時代の犬】

本州、四国、九州エリアはともかく、蝦夷地や琉球方面と縄文犬のつながりはよく分かっていません。
本州最北端の青森県には二ツ森貝塚や三内丸山遺跡などの大規模集落が存在していました。その周辺地域ではシカやイノシシが狩り尽くされており、おそらく多数の猟犬が用いられていたと思われます。
同時期には津軽海峡を隔てた北海道にも大規模集落が形成されていたのですが、縄文時代の犬骨はあまり出土しないとのこと。不思議ですねえ。

現在、北海道地域の在来犬は北海道犬のみです。
彼らのDNAは西日本や朝鮮半島の犬と異なっており、むしろ中国の犬と似ています。少なくとも弥生犬の子孫ではありません。
ならば、北海道犬は縄文犬の子孫なのでしょうか?

北海道エリアに縄文犬が現れたのは、縄文後期から続縄文時代にかけてのこと(稲作文化が伝わらなかった北海道では、弥生時代ではなく続縄文時代へ移行しました)。
弥生時代後期にあたるオホーツク文化時代になると、幅の広い吻部と強靭な下顎をもつ大型犬が樺太方面から南下してきます。
これら北方犬の骨は、肉や毛皮を切除した解体跡が目立つ若犬のものばかり。つまり、成長する前に食用となっていたのです。
しかもそれら北方の犬たちは、北海道に定着することなく姿を消しました。オホーツク文化の犬は樺太島でニヴフ族に受け継がれ、それらカラフト犬は樺太アイヌにも伝播していきます。
「橇犬を求めた樺太アイヌ」と「猟犬を求めた北海道アイヌ」によって、カラフト犬と北海道犬は棲み分けられたのです。

弥生犬や北方犬や樺太犬と交雑しなかった、北海道犬の祖先とはいったい何でしょうか?
中型の北海道犬が小型の縄文犬をルーツとするならば、北海道に柴犬が存在しなかった理由は何でしょうか?
より新しい時代に蝦夷地へ持ち込まれた和犬が、アイヌ民族の猟犬となったのでしょうか?
「縄文犬が進出しなかった蝦夷地に樺太方面から北方犬が南下し、それら全てが消滅した後に北海道犬の先祖が現れた」という謎のストーリーを、どう解釈したものか。家畜の飼育には人の手が介在する以上、民族間の勢力図も考慮しなければなりません。
謎が多すぎて何が何やら。

犬
アイヌの猟師と猟犬

【弥生時代の犬】

縄文犬に続いて日本列島へやってきたのが「弥生犬」でした。弥生時代の遺跡から出土する犬骨は、柴犬くらいの小型犬から中型犬、さらには大型犬まで種々雑多。
つまり多様な渡来犬たちの総称であり、「弥生犬」なる単一犬種が存在したワケではありません。
弥生犬の出現によって、縄文犬の時代は終わります。縄文犬と弥生犬は全国各地で混じり合い、やがて「現生日本犬」の基盤を形成していきました。
しかし、その過程にも長い年月が必要だったのです。

朝鮮半島経由で渡来した弥生犬たちは、西日本から勢力を拡大。それに呑み込まれ、縄文犬は姿を消していきました。
更に、北部九州へ伝わった稲作文化も縄文犬の地位を揺るがすこととなります。収穫量が多く栄養価が高く保存のきくコメを確保できたことで、猟犬の役割は大きく低下。
豚や鶏といった食用獣も渡来したことで、狩猟に頼る必要もなくなります。弥生犬は「人家の周囲をうろつく食用獣」と見做されました。弥生中期以降の犬骨はいずれも散乱状態で出土し、毛皮や肉を切り離した解体跡が目立ちます。
稲作文化は東北地方まで広がったものの、縄文犬と弥生犬が完全に交雑するまでには時間がかかったのでしょう。原の辻遺跡(長崎県壱岐)や亀井遺跡(大阪府)のように大量の犬骨が出土した弥生遺跡は少数派であり、「縄文犬がいきなり弥生犬へバトンタッチした」というイメージは誤りのようです。

倭国が形成された弥生中期まで、一部地域では「縄文的な狩猟文化」も維持されていたようです。
袈裟襷文銅鐸には猪を追い詰める狩人と猟犬の姿が記されていますし、亀井遺跡の犬骨には折れた牙の治癒跡があります。同遺跡では解体された犬骨と共に全身骨格も出土しており、食用犬と猟犬では扱いが違っていたのかもしれません。

帝國ノ犬達-弥生犬
国立科学博物館で展示されている弥生犬の復元モデル

縄文犬と弥生犬は交雑しつつ、各地域で独自の系統を形成。いわゆる「地犬」の誕生でした。
古代、中世、近世を生き延びた地犬群のうち、柴犬、紀州犬、四国犬、甲斐犬、北海道犬などが保護対象となったのです(洋犬と交配された秋田犬は、その辺の事情が違います)。
地犬が生き残ったことで、それぞれのルーツを探る試みもスタートしました。
出土した犬骨のDNAを解析した結果、岐阜大学の田名部雄一氏は「縄文犬は南方から渡来し、後に朝鮮半島から渡来した弥生犬と交雑化。その影響を免れた琉球と蝦夷では、それぞれ縄文犬のDNAを受け継ぐ琉球犬と北海道犬が残った」との説を唱えます。
日本犬界も「田名部説が正しい!」と思い込み、そのまま考古学方面の情報更新を怠ってしまいました。
いっぽう、帯広畜産大学の石黒直隆氏は「東日本の縄文犬と、西日本から勢力を拡大した弥生犬と、樺太から南下した北方犬が存在し、さらには北海道の縄文犬も弥生犬の影響を受けていた」との解析結果を発表。

古墳時代には大陸方面との交流が続きましたし、その時代に大規模移住してきた人々が新たな犬を連れて来た可能性もあります。日本犬界のルーツを縄文時代や弥生時代に限定する方がおかしいのでしょう。
要するに研究は途上にあるワケで、解析技術の向上や新たな発掘データによって通説や常識が覆されるかもしれません。楽しみですねえ。

【古墳時代の犬】

農耕社会になって富が蓄積された弥生時代中期、大規模な耕作地を維持するための「クニ」が誕生。さらにそれらが連合したヤマト王権の発足によって古墳時代が始まりました。
おそらくこの時期、中国大陸からの移住者と共に新たな渡来犬がやってきたのでしょう。
縄文犬や弥生犬は様々なタイプの大陸犬と交雑し、体格や体毛もさまざまな「ハイブリッド型の日本犬」へと変貌していきました。
古墳時代も猟犬としての評価は変わらず、イノシシの埴輪と並んでイヌの埴輪が出土したケースもあります。当時の支配層にとって、猟犬は何らかのステータス・シンボルだったのかもしれません。
社会の階級化に伴い、日本の犬も「官の犬」と「民の犬」に分れていきました。

犬埴輪のレプリカ

西暦300年頃の仁徳天皇の時代には鷹甘部(たかかいべ)が制定され、狩猟用の鷹や犬の飼育が始まりました。
538年には、安閑天皇が屯倉(みやけ)を設置。そこに犬養部(いぬかひべ)が置かれます。
屯倉は天皇の猟場であると共に穀倉でもあり、犬養部の犬は狩猟、警備、捕鼠などの目的で用いられたと思われます。

これら「公的機関の犬」が出現した事によって「御犬飼」という犬の専門家も生れ、鷹甘部や犬養部では当時最先端の飼育訓練技術が研究されたのでしょう。
海外の知識も導入されており、百済から渡来した袖光という人物なども犬飼に関わっていたそうです。
長屋王の屋敷では「仔を産んだ母犬に米の餌を与える」との木簡が発掘されたり、675年には天武天皇が牛、馬、犬、鶏、猿、鶏の食用を一定期間禁じる通達を出したりしました。
様々な理由によって、犬は「保護される対象」にもなったのです。

帝國ノ犬達-犬頭糸
『今昔物語』には「犬頭糸」のように間抜けな怪奇現象、人間を妻に娶った白犬と討伐部隊が対峙する怪異譚、大蛇の襲撃から主人を護った義犬談まで、「怪異としての犬」「怪異から人間を護る犬」という複雑な関係が記されています。

しかし、古代の犬と日本人は殺伐とした関係にありました。
繰り返される戦乱、飢饉、疫病で多数の犠牲者が出る中、犬は遺体を喰い荒らすスカベンジャーと見做されます。
平安末期の『今昔物語』にも、隣家の白犬と険悪な関係にあった少女が、病の身でその犬と噛みあって死亡した惨劇が掲載されています(前世で敵同士だったのかも、的な内容)。
仏教の末法思想が一般民衆にも普及した厭世の時代、死と犬を結び付けるイメージも強かったのでしょう。
一方で、空海を高野山へ導いた白犬・黒犬のように、宗教と犬を絡めた話も登場。主人に忠誠を尽くす忠犬・義犬談も人気だったようです。

やがて平安時代は終り、時代区分は古代から中世へと移行。
戦乱がますます拡大する中、襲ったり追い払われたり、食ったり喰われたり、可愛がられたり虐待されたりと、日本人と犬との奇妙な共生関係も変わることはありませんでした。
必要とされる犬の用途も軍用犬や猟犬くらいで、人為的な品種改良もなされませんでした。
大陸犬界と切り離された島国という地理的条件に加え、人間との微妙な距離を保った結果、和犬は古来の姿を維持することができたのでしょう。

犬

「今は昔都に住める男、嵯峨の邊に用ありて行きけるが、一條大路達智門の前を過ぎけるに、門の下に生れて僅十日餘りにもなるらんと見えたる清げなる男子を、莚の上に捨置きたり。
頻 りに泣けば甚(いと)あはれに覚ゆれど、爲方(せんすべ)なく見すぐしつゝ、嵯峨にいにたり。其夜宿して、翌る朝帰るときに又此所を通り見るに、其子未だ 同じやうにて有りける。昨日見し時定めし狗にや喰れなんと思ひしに、爾もなきは奇異なりと思ひつゝも家に帰りけるが、如何とも不審晴やらねば、次の朝行き て見るに、尚有りしに變ず。
餘に怪しみ思へば、又夜に入りて暗(ひそか)に行きて、達智門の築垣の崩れに隠れて是を窺ふに、彼門の邊に狗多くあれ ども、兒が臥したる傍には寄らず。さればこそ故ある事なりと思ふに、夜更けて後いづくより來るともしらず、大いなる犬來りければ、他の狗これを見て直ちに 逃げさりける。頓て此犬彼兒が臥したる所によるを見て、扨は今夜こそ此犬に喰殺さるゝよと見るに、さはなくて犬は兒の傍に寄添臥して、兒に乳を吸せける。兒も人の乳を飲む如く、最よく呑んで臥したり。
男是を見て、さればこそ此兒が斯生て有る事は、此狗の乳をのむ故なりと、始めて悟りつゝ家に帰りぬ。
夫より後夜〃行きて見るに、尚同じ如くなりしが、人の窺ひ見る事を知りて、外へ連行きけるにや、兒も狗もいづくへ行きけん。其先をしらざりけり。
是を思ふに其犬たゞものにはあらじ、衆〃の狗の迯去りけるも、佛菩薩の變化して、利益し給ひけるにや、定めて其兒恙なく養ひ立てられけん。心得がたき事なり。此事は彼男の語りけるをかくしるし傳へふるとなり(今昔物語より)」

(次回に続く)