地道な日本犬保護活動は功を奏し、日本犬は狆に続いて海外へ渡りはじめます。
下の画像は昭和12年、京野兵右衛門氏からブラウン氏へ託された日本犬たち。

犬
「銀座二ノ三ブラウン商會のリチヤード・ブラウン氏は大の日本犬黨ですが、去る十二月二十三日、英本國に帰還に際し、日本犬保存會京野氏飼育の日本犬二頭を懇願して同伴、英犬界に日本犬が初お目見得することになりました(昭和12年)」

イギリスヘ渡った彼らは子孫を残し……、とはならなかった様です。

「舊臘日本犬二頭を連れて英國に帰つたブラウン氏から、最近永い永い手紙が届いたが、その一節に
「牝の梅子の方は丈夫であるが、牡の勇は檢疫の収容所で死に、時々會ひに行くと梅子が如何にも淋し相である故、代りを一頭送つてほしい。それも犬に親切な佛蘭西か獨逸の船を選んでくれ」とあつた」
『人の噂・犬の噂(昭和13年)』より

洋犬ブームの陰で蔑ろにされてきた日本在来犬。ようやく日本犬の再評価が始まったのは、日本犬保存会が発足した昭和3年のことでした。
日本犬消滅は寸前で回避されたのです。
保存運動に取り組む人々は「世界に日本犬の価値を認めて貰う」という対外的なアピールも展開。世界の犬種リストに日本の犬を加えるのは、「日本犬という在来犬種」の独自性を確立するために避けて通れない道でした。

いっぽうで、国粋主義の時流に乗った内向きの宣伝活動も行われます。当時の日本人に「在来犬種の素晴らしさ」を再認識して貰うには、島国根性的自画自賛も避けて通れない道でした。
その内輪ウケに興じる過程で、お山の大将を巡る不毛な混乱も生じた訳です。それを象徴するのが日本犬保存会と日本犬協会の抗争ですね。
海外に目を向けますと、そちらでも混乱が生じつつありました。

【海外での混乱】

帝國ノ犬達-柴
イギリスとドイツにて Shiba-inu (Akita-breed) of Korea(Japan) と紹介された謎のシバイヌ写真。
昭和10年に上の画像が邦訳されたところ、困惑する人々が続出します。

海外に伝えられた日本犬の情報は、たびたび誤解と混乱を惹き起こしました。
例えばジャーマン・シェパードを作出したシュテファニッツの著作に掲載された「柴犬の写真」では、Shiba-inu, [Akita-breed] of Korea などと解説されており、「何でシバイヌが朝鮮在住の秋田犬になってんだよ?」などと騒動に発展した事もあります。

「日本犬が日本内地に次第に流行し、其眞價が認められるにつれ、外國人の間にも次第に、其の性能を認める者が出來て來たのは同慶至極です。
現に近くKV(※帝国軍用犬協会)から翻譯されるといふ獨逸シエパード研究の大家、フオン・シユテフアニツツ氏の大著「獨逸シエパード犬」(改訂版)第一篇「シエパード犬及び牧羊犬の由來と關係」中にも、日本犬に關する記事が掲載されて居ります。
但、これには秋田犬の寫眞が掲載され、「秋田産柴犬」との傍注があります。この惜しむべき誤譯は同著にとつては白玉の微瑕に過ぎぬでせうが、我々日本犬黨にとつては由々しき大事で、これは嘗て齋藤弘氏の談話を誤記した日本の著名な某「犬の大家」が、ロンドン・ガゼツト並びにアメリカン・ケヌル・ガゼツトの兩誌に早計にも齋藤氏の内覧を乞はずに公表したのを、シユテフアニツツがそのまゝ轉記した結果で、本會からはKVの其の係宛に訂正方を依頼したので、何れ原文をも訂正される日が來る事でせうが、某氏紹介の労を假に考慮に入れても斯う云ふ學術的失態は一種の國辱で、其功罪相償はぬ氣さへします。
日本人の、しかも相當畜犬界には名の知られてゐる人すら堂々と斯う云ふ過誤否無知を示すのですから、日本犬に對する智識が一般にはまだまだ甚だ淺いことを痛感します。これによつても我々は本會の使命や、責任の重且つ大なるを意識するのです(『日本犬保存會月報』より 昭和7年)」

謎のシバイヌの正体はあっけなく判明。
帝国軍用犬協会ドーベルマン部の古屋千秋氏の愛犬だったそうです。

和田慶介
「では今晩はドーベルマンの権威、古屋さんに御出席願つた事は非常に我々の喜びとする所です。古屋さんは遙か昔にエアデールをお飼ひになつた御經驗がおありの様ですから、昔と今の犬を比較して御感想をお聞かせ願ひ度いと思ひます」
古屋千秋
「私がエアデールを飼つたのは今から十年も前ですから、現在の様に使役犬としての認識をもつて飼つたのではありませんから、一寸お話してもどうかと思ひますが……。私はエアデールを最初に飼つた時、先づ獣猟犬として使つて見ようと考へたからです。朝鮮で猪獵に之を使つて見たのです。犬は朝鮮の國境警備に使つてゐた犬の子孫で、その方面の警官が持つてゐた犬ですが、それを羅南の向ふの會寧で買つたのですが、それと木下豊次郎氏がヴアンクーヴアーから買つた犬も買ひまして、此の二頭で猪獵をやつて見ようと云ふわけでした。
實はその前、アメリカン・ハンテイング・ドツグと云ふ雑誌で、アメリカライオンを獲るにエアデールを使つた記事を見たからで、併し實際使つて見るとエアデールには聲が多過ぎて止まつた時吠え過ぎるのですね。これは鐵砲の經驗のない方はお判りにならないかも知れませんが、現在流行つてゐる日本犬は七、八貫位の猪を獲る犬は聲が少い。
で、日本犬とエアデールと一頭宛ペア(揃ひ)にして始めて一犬前の働きをする事を經驗しました。これは餘談ですが、シユテフアニツツの獨逸シエパード犬に掲載されてゐる日本犬の寫眞は、あれは實は私の犬で、あの寫眞がどこをどうしてあれに掲載されたのかよくは判りませんが、齋藤さんがケンネルガゼツトに投書せられたのではないかと思つてゐます。
あの犬は猪と闘つて討死した、馬鹿にきつい、稟性のよい犬でしたが、猪獵などは面白いもので、餘り稟性の強い犬はこの様な失敗をするもので、猪が向つて來ると逃げる位の犬の方が狩獵が上手です」
『エアデール談話室(昭和14年3月10日)』より抜粋

シバの海外進出時における、珍事件でありました。

【日本犬、海外へ】

犬
日本犬保存会が世界各国の畜犬団体へ送付したパンフレットの写真(板垣四郎 昭和11年)

昭和に降って湧いた日本犬ブームは、異様な熱気を帯びはじめました。熱に浮かれた人々は「立耳巻尾の犬なら何でも買うぞ!」と大騒ぎ。
日本犬が金になると見るやペット商たちは山間部へ押しかけ、片っ端から猟犬を買い漁りはじめます。こうして大量の日本犬が都市部へ流出し、それまで棲息していた産地で姿を消すという逆転現象が発生。
自分たちの活動によって地域の特色ある犬が消えていくことは、日保にとっても意外の結果でした。

兎にも角にも、この日本犬ブームは日本犬復活にとって最後のチャンス。ブームが過ぎ去る迄に、飽きっぽい日本人へ日本犬の価値を植え付ける必要があったのです(事実、大正時代に大流行したブルドッグなどは、昭和に入ると飽きられて姿を消していました)。
それに失敗すれば、今度こそ本当に日本犬は消滅することになるでしょう。
日本犬保存会は、日本犬復活の為に「時代」を利用しました。国粋主義の流れへと急速に傾いていく戦時日本で、日本犬こそが日本国を代表する犬だとPRしたのです。
それには国内だけではなく、対外的にも「日本代表」のお墨付きをもらう必要がありました。

昭和10年、日保は世界中の畜犬団体へ向けて日本犬の宣伝パンフレット送付を開始。その結果、カナダ、フランス、ドイツ、イタリアの犬界から大きな反響が寄せられます。

「日本犬の眞價と獨自な性能とを汎く海外諸國に紹介する必要上、諸外國の著名な畜犬團體及び一流の畜犬雑誌と交渉を開始して、其の第一歩として先づ會報の交換を行ふ手筈に決定した事は既に先々月月報誌上で報告しましたが、愈々その準備も整つたので左記の畜犬團體及び雑誌と交渉を開始することになりました。既に掲載したものもありますが、大分ミスプリントがあつたり、其後名稱の變更されたもの、追加したもの等もありますで、改めて全部掲載します。

畜犬團體
一、ロンドンケヌル・クラブ(英吉利)
二、アメリカン・ケヌル・クラブ(亜米利加)
三、ライヒスフエアバント・フユウル・ダス・ドイツチエ・フント・ヴエーゼン(獨逸)
四、ソシエテ・サントラル・カニイヌ(佛蘭西)
五、ユニオン・シノロヂツク・サン・ユベニエル(白耳義)
六、カナデイアン・ケヌル・クラブ(加奈陀)
七、イタリヤン・ケヌル・クラブ(伊太利)
八、ニユウヂー・ランド・ケヌル・クラブ(新西蘭)
九、チヤイナ・ケヌル・クラブ(上海)
畜犬雑誌
一、アワー・ドツグ(英吉利)
二、ドツグワールド(英吉利)
三、ポピユラアドツグ(亜米利加)
四、ドツグダム(亜米利加)
以上の畜犬團體及び雑誌と今後會報寫眞等を交換し、狆以外にも支那のチヤウチヤウやノオルウエイのエルクハウンド、エスキモオ犬などに酷似した、しかも立派に一種別を爲す日本獨特の性能と姿態とを兼ね備へた古い犬種のあることを、正しく彼等に認識させるつもりです」
日本犬保存會『外國部ニユウス(昭和9年)』より

広報活動の結果、同年のケンネルガジェット誌では、日本在来犬をShishi Inu(ボーアハウンド)、Shika Inu(ディアハウンド)、Shiba Inu(ターフドッグ)に分類して紹介しました。
昭和13年には、ドイツSVが日保に対して資料送付を要請。海外でも正式な研究対象と見做されるようになりました。
無価値な駄犬と蔑まれてきた和犬は、こうして世界に公認されたのです。

【国粋主義と日本犬】

「日本独自の犬」という相対的な立場を俯瞰するには、国際的な視点と、国粋主義的な視点を両立させる必要があります。矛盾していますが、その辺のバランスをとらなければ目も当てられぬ惨状へ陥ってしまうのです。
実際、戦前犬界では目眩がするような悲喜劇が展開されていました。

日本犬が復活を遂げた頃、日保と日協の仁義なき抗争に加え、更なる混沌が生れます。
この時期になると、「日本犬原理主義者」と呼びたくなるような人々が出現。
「日本犬の素晴しさを広く知ってもらい、世界犬界の序列に加わり、日本犬界を更に発展させていこう!!」
……という前向きな姿勢ではなく
国粋主義の時流に乗って、日本犬に武士道精神とやらを押し付け、閉鎖的なコミュニティで内輪の馴れ合いと外部へのヘイトと承認欲求のアジテーションに熱中し、「洋犬を貶めれば相対的に日本犬の地位は上がる筈だ!」などと盛大に勘違いしている、たいへん幼稚で偏狭な思考回路の持ち主でした。

犬に武士道精神もヘッタクレもあるか、というのは現代人の思考回路。
何かの例えやウケ狙いではなく、戦前には真顔でこんな妄言を唱える人が少なくなかったのです。その動機も科学的に研究した結果ではなく、単なる手前の好き嫌い。洋犬への嫌悪、西洋文化やインテリ層への劣等感が丸出しなんですよね。
オノレのルサンチマンを日本犬へ託しただけの連中が「日本犬とは何か」を語っていたワケで、悲劇というか喜劇というか。

幸いにも、日本犬保護運動は洋犬・和犬両方に精通した人々が率いていました。日本犬協会だって、指導者の高久氏は立派な見識の持ち主でした(他のメンバーが酷過ぎたんですけど)。
彼らは、原理主義者とは正反対の方向で活動を展開していきます。

「日本犬も將來は必ず海外に進出する時代があるから、今日より其用意をして長所と共に短所も研究し、これを取り除く可く改良しなければ、後日必ず悔ゆる時が來ると思ふ。
アワー・ドツグスより私の知人の所へ日本犬の單行書出版の交渉も來て居り、且つ狩獵と畜犬社東京支局には、パリー、ニユーヨーク等から日本犬の紹介が來て居るが、今の儘のものでは輸出する譯には行かないので、今後幾年の後理想的のものを作出して輸出すべきであり、斯くしてこそ日本犬と共に日本の愛犬家の腕前が世界に認められる事となるのであるから、吾人は須らく視野を廣くし、十年の策を樹てねばならないのである。
然るに世の中には現在の日本犬を理想のものとし、又は山野の鳥獸と同一視して手を付けずに置けば保存されるものと考へ、天然紀念物として他縣への移出を禁ずといふ様な莫迦な事を運動して、反て誇りとして居るものが有る。
尤も山野の鳥獸は其種類の絶滅を防ぐ爲め記念物にするので有るが、此れは鳥獸は自營自活する故に、捕獲を禁ずるのであつて、夫れとこれを同一視する事は出來ない」
日本犬協會 高久兵四郎『日本犬に就いて(昭和8年)』より

狭い日本国内で内輪の活動に終始していれば、いずれは袋小路に入って失速することが目に見えています。折からの日本犬ブームが去るまでに基礎を固め、次の段階へ移行する準備を整えないと、今度こそ日本犬は消滅してしまうかもしれません。
彼らは必死でした。
そして、国粋主義と国際ネットワークの双方を利用しながら日本犬PR活動に努めます。

彼らが国粋主義の時流に乗ったことを、後出しジャンケンで批判するのはカンタンでしょう。しかしあの時代、無為無策のままだと日本犬は消滅していたかもしれません。
日本犬を絶滅から守るため、利用できるものは何でも利用しなければならなかったのです。
手段はどうであれ、日本犬が生き残ったのは事実。それは批判されるべきことなのでしょうか?
もっとも、批評家のセンセイは批評するのがお仕事。もしも日本犬が絶滅していたら、彼らは「なぜ手を尽くして保護しなかったのだ!」とか言い出すワケです。
日本犬の歴史に1ミクロンたりとも貢献しない「批判のための批判」は、傾聴する価値すらありません。

日本犬保存会の内外へ向けた広報活動によって、日本在来犬の評価は確立されます(この点に限っては、ライバルの日本犬協会も同調していました)。
しかし、視野の狭い日本犬原理主義者にはコレが理解できなかったんですよ。
世界犬界の序列に加わろうと一生懸命努力している所へ、偏狭な島国根性丸出しの「オレサマ国犬論」を垂れ流されては堪ったものではありません。
「迷惑だから黙ってろ」と其の界隈へツッコミを入れたことで、日本犬原理主義者と日本犬愛好家との間で仁義なきドッグファイトが勃発します。

犬
宮本翠夢庵氏の犬舎「アキタランド・ケネル」の……、柴犬?

特に面白い一戦が、昭和15年に勃発した吉村九一氏(自称名猟師)と宮本翠夢庵氏(宮本彰一郎・秋田犬ブリーダー)の国犬論争。実は元々この二人、猟犬座談会を企画するなど仲が良かったんですけどね。

吉村さんは、自著において下記の如く主張します。
曰く
「軟弱な外国人の作った洋犬は同じく憶病で軟弱である!」
「大型犬は気魄が無い、小型犬最高!」
「ジステンパーは栄養美食が原因、麻疹と同じで放っておけば自然に治る!」
「犬の治療には牛豚の胆汁とヨードチンキがあれば十分!」
「外国犬は金魚、日本犬は鮒(意味不明)!」
「日本軍用犬部隊は日本犬を使え!日本犬の天然記念物指定に欠陥あり!日本犬の基準は間違っている!」

……このような電波発言が延々と続くので、読んでいて目眩がしてきます。
で、吉村さんの主張をケチョンケチョンに叩いたのが宮本氏。

「近來和犬熱の勃興と共に、熱心な眞面目な研究者、愛育者も出ましたが、同時の己れの趣味を流行で左右する軽薄な人達も澤山例の如く―彌次馬群の様に輩出して來ました。
同時に彌次馬連は易々とイカモノ日本犬を掴まされ、或は良犬を手に入れても、其の性質、美點を見極め、發揮せしむること出來ずに、遂に「○○氏の和犬の怪氣焔を過信して目下幻滅の悲哀を感じて云々」と云ふ様なことを云つてゐる手紙を數通受けてゐます。
私は斯様な人達には、むしろ早々和犬を御止めになつて頂きたいと考へてゐます。そしてもとの如く洋犬の愛玩犬の安物にでも舞戻り下さいと申上げてゐます。斯様の人達の弄物となるには、和犬はあまりにも貴重であり、あまりにも高等であります。
同時に只今の和犬研究者は一様に、生れ出るものの悩み、先駆者の努力を多量に支拂はなければならぬのです。私は和犬のわからない人は、洋犬の研究の足りない爲である故にもう少々洋犬を研究して頂きたいと考へてゐます。洋犬がわかればわかる程、和犬の貴重さも判つて來ると考へてゐます。この一斑の澄の拠として、山中獵の一、ニの例外の獵師は別として、趣味として、職業として、和犬を手掛けてゐる人達の中で、たとへ其の手掛けた年月頭數は多くとも、どうも追々性質外貌共に卑化せしめて氣が付かずにゐる様子です」
宮本翠夢庵『熊猟と日本犬(昭和7年)』より

こう考える宮本さんにとって、吉村さんの素っ頓狂な和犬論は看過できないものでした。むしろ知人であるが故に、容赦ない攻撃をスタートします。

「氏の説は全然デタラメである」
「イゝ気持ちの罵倒をやつてゐるが、その夫子自身、内地で何頭の熊を狩り獲り、何頭の何々系統の日本犬を飼育、作出、訓練、使用したか」
「素人威しのテキヤの如き口を弄してゐるが、凡そ大狩猟家は斯様な放言を爲す筈はない」
「氏は、種々なる日本的なもの、日本刀などを引例してチンピラ日本犬の禮讃に有効に利用してゐる」
「吉村氏は口を極めてシエパードを罵倒してゐる。氏がイクラ一人でガンバつてもシエパードはそれとしてドシ〃人類に採用發達して行くであろう」
「氏は私に『日本犬は頭の幅の極めて狭いが良い』と語つた事があるが、私はこの一事で、この人の日本犬の認識に愛想をつかしてゐた」
などとこき下ろしたのでさあ大変。

和犬の専門家(自称)、名猟師(自称)としてのメンツを潰された吉村さんは当然ながら激怒。ターゲットを洋犬から宮本さんへ変更します。
「宮本氏は某私大の文科を出て居るから、その達者な筆に自己陶酔を起こし、誰れ彼れの見境もなく個人攻撃の筆を弄する惡癖が有つて、識者からは厄病神の如く顰蹙されて居る」
「宮本氏の本業は犬屋と犬殺しである。同氏は一見して其飼犬たるエスキモー犬に似て居ない犬は即時撲殺してしまい、其皮を剥いで庭内へ山と積まれて居る。また肉は食ってしまふ(※実際、若い頃に食べたことはあるそうです)のである」
と青筋立てて反撃開始。小学生か。

これに対し、宮本さんは更に挑発します。
「昭和10年10月8日、その“犬殺し”に叩頭幾度して獵犬を買っていったのはアナタだろう」
「東京の出版社から總スカンを喰った狩獵書の原稿を持ち込み、出版資本を貸してくれと私に哀願したのは何處の誰だ?」
「某書にて私の犬を賛美していたのは、あれは君の頭が變だったせいか?」
「犬も連れずに白頭山へハンティングに出かけ、9日間迷子になって手ぶらで歸って來た名獵師様は誰だっけ?」
「君は著書なぞを爲すべき資格が全然ないのに無理をするから、斯様な醜状を曝すのだ」
「獵のプロを自称しながら、氏の文章はシートンの著作の足元にも及ばない」
「氏は自分が狩獵法に違反している寫眞(※禁猟期間中に実弾を携帯)を某書に載せていたが、獵道の恥だ」
「私が犬を殺して毛皮を庭に積んでいる?毛皮の處理についての無知を曝すな」
「君の論を總合的に批判するならば、所謂原始人のトーテム崇拝の心理だ」
などと戦いはヒートアップ。「この○○○○(自主規制)!」「何だとヘボ猟師!」などと低レベルな罵詈雑言が飛び交い始めますが、喧嘩ついでに日本犬に関する体型・資質についての意見も述べられていますので、それなりに勉強にはなりました。

この時代、日保・日協だけではなく、全国各地で日本犬愛好団体が設立されていきました。それぞれの地域で、それぞれの日本犬を育てる動きが広まっていったのです。
様々な団体の努力により、日本犬保護活動にも明るい未来が見え始めました。

犬
この時代も、狆は相変わらずワールドワイドな活躍をつづけております。
昭和11年

昭和6年に満洲事変が勃発した後も、戦争は遠い海の向こうの出来事でした。
しかし、大陸での小競り合いは大規模な軍事衝突へと発展。昭和12年には日中戦争が始まります。
戦時体制下へ移行しつつも、まだ内地は平穏でした。
当時の愛犬家達も、日本犬界が崩壊するなどとは夢にも思っていなかったのです。

(次回へ続く)