帝國ノ犬達-中村天風
昭和11年のイベント告知より

明治35年、中村三郎少年(16歳)は日露の対立が深まる満洲へ渡ります。
彼は、日本軍のため後方攪乱任務をおこなう「軍事探偵」として敵地へ潜入したのでした。現在でいうところの特殊工作員やスパイみたいなものです。
中村少年を陸軍へ紹介したのは玄洋社の頭山満だったそうで。いろんな事をやってたんですねえ、あの人って。

明治37年、日露戦争が勃発すると共に日本の軍事探偵たちは行動を開始。
中村少年も、ロシア軍の背後で偵察・諜報・破壊工作を展開します。
戦いの日々を送る中村三郎には、一頭の犬が同行していました。

 

蒙古犬の生後八ヶ月許りのを私の親友の橋爪君から貰ひ受けて來て、今日から連れて行かうと云ふことになりました。
名前は最初蒙古名があつたのでせうが、この蒙古犬は恰度狛犬のやうに如何にもトボケタ顔で愛嬌があるので、友達の橋爪と『トボケ〃』と呼んで居りましたところ、自分の名が『トボケ』と云ふのだと思つてしまひまして『トボケ』と云つてもすぐとんで来る。
この犬のお蔭で夜の世界に安心して眠ることが出來ました。
犬が居なかったら安心して眠ることは出來ない世界であります(中村天風)

 

「トボケ」と名付けられたこの犬は、いつしかトボと縮めて呼ばれるようになります。
トボの品種については「西蔵蒙古犬」とされていますが、内蒙古犬かチベタンマスティフのことでしょうか?「狛犬のやう」とあるので、スマートな細狗ではなかったと思います。

※多種多様な在来犬が分布していた中国東北部~内モンゴル地域ですが、満州建国以降も科学的な調査がされた形跡はありません。

満州501部隊(関東軍軍犬育成所の平時通称号)による、在来犬の軍用化研究レポートが幾つか残されている程度です。

 


蒙古犬の仔犬と内モンゴルの少女。蒙古犬はガッシリとした体格の大型犬でした。

 

細狗

同じ蒙古犬でも、猟犬の細狗(シーゴー)はグレイハウンドのようにスマートな姿をしています。

 

野犬

最も恐れられた満洲犬の狗(ゴー)。獰猛な大型犬で、匪賊対策の番犬として集落で飼われていました。日露戦争では、戦場に取り残された負傷兵が狗に襲撃される事件も頻発しています。

画像は狗の群れに襲われる日露戦争従軍記者の図(蘆原緑子特派員・明治37年)

訓練すら受けていなかったトボですが、中村少年にとってはかけがえのない戦友となりました。
トボは露探(ロシア軍に雇われた軍事探偵)の待ち伏せを察知したり、病気で落伍した仲間を探し出すなど大活躍。
戦時を通じて軍事探偵たちをサポートし続けます。

ロシア軍は、背後に浸透した軍事探偵を徹底的に掃討しました(当時の報道では、捕虜となった軍事探偵たちの写真も公表されています)。
愛犬と共に幾度も死線を潜った中村少年は、辛くも戦争を生き延びます。
戦線へ赴いた軍事探偵113名のうち、生き残ったのは彼を含めて9名のみ。
戦争終結後、トボがどうなったのかは分かりません。

日本へ帰国した中村三郎ですが、30歳で結核を発症してしまいました。
治療のために欧米を転々とするも、医学では救いを得られなかった彼は、エジプトでヨガの聖人カリアッパと運命的な出会いをします。
以下、犬とは関係ないので割愛。
中村さんの人生についてはネットや書籍で調べてください。

中村天風と名乗るようになった彼は、後年に至るもトボの思い出を語り続けました。

 

書生を雇ふ時でも、夜番を雇ふときでも、第一番に犬が好きか嫌ひかと云ふことを訊きます。どんな人でも犬の好きでないひとは置きたくない(中村天風の愛犬座談会より・昭和11年)

 

……などと言い放った程ですから、犬への想いは強烈だったのでしょう。
たくさんの犬を飼っていた中村天風ですが、昭和に入ってトボと同じ西蔵犬を入手したそうです。



「日露戦争と犬」の語り部として、戦前の畜犬史料には中村天風が度々登場します。
近代犬界史を調べていた学生時代の私は、中村さんのことを単なる愛犬家だと思い込んでいました。だって、犬の話を熱心に語っている記録ばかりでしたから。
大人になって天風会の本を勧められるまで、彼が人々からの尊敬をあつめる偉人であったことを知らなかったのです。


中村天風をテーマにした講演を聞きにいったこともありますが、凡人の私には偉人の教えなど理解できませんでした。
「ただの愛犬家のオッサン」程度に思っていた相手が、世を去った後も多くの人々から讃えられているそのギャップに戸惑うしかなかったのです。
講演後の懇親会で「勉強になったか?」と訊かれたので「いやあ、高尚過ぎてよく分かりませんでした」と答えたところ、「初心者には理解もできんだろうな」と笑われました。
彼もまた、私と同じく中村天風の一面しか知らないのでしょう。

愛犬家・中村三郎は、私に満州国犬界史への視点を与えてくれた人物です。トボをはじめとする満蒙犬群の実態について、日本犬界も資料を整理すべきなのです。

蒙古犬、狗、細狗といった在来犬、満州軍用犬協会や満鉄を軸とする満州シェパード界、満州国による畜犬行政。

日本犬界の双生児たる満州国犬界には、まだまだ知られていない情報が眠っているのですから。