桑田變爲海(※桑田変じて海となる)、飛鳥川、昨日の淵は今日の瀬、げに頼み難きは世の習ひ、とは謂ひながら、別けて果敢なく、頼み少なきは日本犬種の前途にぞある。
近時は我獵界の新紀元―、銃獵の進歩ハ洋種獵犬の輸入を仰ぎ、次て雑種犬の驚くべき増加を致せり。
混血又混血、變形又變形、果して之れ進化なるや退化なるやを知らずと雖ども、而も純粋和犬種は次第に影を隠し今は故らに山村僻地に之を求めざれば、殆んど、得べあらざるに到りたるは疑もなき事實なりとす。
現在既に然り、將來果して如何、借問す。
吾人の子々孫々は、其祖先の時代に於て、果して如何なる形如何なる色如何なる鳴聲の犬が此島(※日本列島)に棲息したるものなるやを想像し得べきや否や。
吾人は知らず、今非常の時日と勞費とを擲て、和犬族を保存するは果して利益あるや否やを知らず。然れども吾人は信ず。人類の記録ハ歴史家の責=犬族の記録ハ獵者の責なることを。
吾人は今、大方同感の獵士に計る。余が今譯したるチ犬の相貌書に倣て(他に加ふべき點ハ固よりも之を加ふ)日本各地に散在する各種純粋和犬の模形は如何なるものなるやを詳細記述して獵友に投じ、獵友社は之を誌上に掲載し以て此種の記録を永遠に傳へられんことを切に望む!同感の諸士、以て如何となす。


空山 述『チェサピック・ペー犬の説・付言(明治25年)』より

 

これが書かれてから120年後の現在、子々孫々たる我々は日本犬を飼育し続けています。
「和犬が消えてしまうかもしれない」と心配していた空山さんも、草葉の陰でホッと胸を撫で下ろしていることでしょう。

犬

山村の路傍で談笑する人々と愛犬。
「日本人と和犬の原風景」とはこのような姿でした。わざわざ武士道精神とやらで箔付けしなくとも、素朴な美しさがあったのです。
 
しかし残念ながら、彼の懸念は現実のものとなりました。
組織的な保護活動がなされないまま、大正末期までに日本犬はほぼ消滅。立耳巻尾の地犬は、古老の昔話か山間部の旅行記に登場する存在と化します。
昭和に入って復活を遂げた日本犬も、国粋主義を利用したが故に「日本犬やシェパードの関係者は戦時体制へ加担した」という謗りを免れません。

日本犬を護った人々も一枚岩ではありませんでした。
地域と関連付けた7種の天然記念物指定を推進した文部省。
日本犬復活のため大中小3タイプへの標準化を主導した日本犬保存会。
文部省や日保の保守性を否定し、新たな日本犬への進化を唱えた革新派の日本犬協会。
全国に林立する地域団体。更には個々の自称専門家までが入り混じって、百家争鳴の状態を呈しています。
日本犬に商品価値が生れたことで、チャウチャウ交雑犬を純和犬として売り捌く「偽装和犬」やペット商の買い漁りも問題化しました。
収拾がつかぬまま戦時体制へ移行したことで、日本犬は再び消滅の危機に晒されます。
 
もうひとつの問題は、「近代以前にいた古来の和犬」と「近代になって文部省が定めた現在の日本犬」を混同する日本犬観。
明治・大正の消滅期において失われた在来犬の多様性を無視し、辛うじて残存した幾つかの系統こそが純血種であるという視点です。
もともと「江戸時代には町の地犬と山里の猟犬がいたが、明治の開国による洋犬との交雑を免れた猟犬が天然記念物指定された」という話が「猟犬こそが純血種であり、江戸時代に描かれた斑模様の地犬は南蛮犬との雑種だろう」などとテキトーな想像をもとに通説化された経緯もありますし(勿論、科学的な検証はされていません)。
体格の大小・垂れ耳や立耳・体毛の長短や毛色もさまざまな大陸犬群は古代から近世にかけて渡来し続け、それらが先住犬と交雑化しながら現生日本犬を形成してきたのです。「縄文犬直系」を重視するあまり、後世の犬たちを「南蛮犬との雑種」で切り捨てるのはあまりにも乱暴でしょう。
 
「純粋な和犬」とかいう偏狭なことを言い出すから話が迷走するのかなあ。「さまざまなルーツをもつ地犬が混在していた」ではダメなの?
失われた和犬の多様性を発掘したい私としては、「現代まで生き延びた鳥類こそが純粋な恐竜であって、絶滅したティラノサウルスやトリケラトプスは雑種」みたいな主張には賛同できないワケです。
……例え方を間違えましたか。
ムリヤリ白黒ハッキリさせようとすると、歴史の空白を陰謀論や妄想で埋め合わせるしかなくなるんですよ。
 
それら白・黒・灰色をひっくるめて、日本犬の歴史を辿ってみますね。
辛い歴史を声高に美化したり被害者ぶったりせず、日本人と日本犬の関係は自省の心で振り返りましょう。
 
静岡県大光寺の「お犬様」はヤマイヌながら斑模様です。

【日本の国犬とは】

私の住む町では、そろそろ桜も散り始めました。
桜の花はいいですよねえ、日本の春を実感できて。まあ、綺麗なのは一瞬だけで、後は毛虫退治と落ち葉掃除でウンザリするんですけど。

その国を象徴する風物として、「国花」「国鳥」「国石」というものがあります。
桜は日本の国花。
日本の国鳥は雉。国魚は錦鯉で国石は水晶。
では、日本の国犬は?
……と問われれば、誰もが「日本犬だ」と答えるでしょう。名前からして“日本”犬ですし。

帝國ノ犬達-日本犬
戦時中のペット広告より。日本犬保存運動は、当時の国粋主義を利用して展開された面もありました。

しかし、世界から見た「日本の国犬」と呼べる犬は狆なんですよね。日本犬が世界へ進出するよりもずっと前から、ジャパーニーズ・チンは各国の愛犬家によって「日本産の犬」として認知されていましたから。

狆はチベット辺りから渡来した犬を源流としますが、その経緯はハッキリとしません。奈良時代より、大陸の犬が天皇へ献上されていたとの記録があるだけです。
それがいつしか座敷犬として固定化され、上流階級の人々から寵愛されるようになりました。


嘉永7年にペリーが来航した際、入手した二頭の狆。
アメリカ海軍編『Perry's Expedition to Japan(1854年)』より
 

狆は外国でも人気が高く、黒船で来航したペリーも二頭の狆を持ち帰り、一頭はヴィクトリア女王へ献上しています。
明治28年にはイギリスで「ジャパニーズ・チン・クラブ」が発足。フランクフルトの展覧会でも狆が入賞しました。

狆

昭和14年、日本橋のペットショップで購入した狆を抱く米海軍アストリア號士官。
アストリアは3年後の第一次ソロモン海戦で日本海軍と交戦、沈没しました。

 

ペリーを真似た訳でもないのでしょうが、昭和14年にワシントンで死去した斎藤駐米大使の遺骨を護送してきた米海軍巡洋艦「アストリア」のターナー艦長は、日本で狆の「太郎」と「櫻」を購入しております。
こちらの狆はハリエット夫人へのプレゼント用でした(後に対日反攻作戦を指揮した“テリブル”ターナーが、敵国で購入した狆たちをどう思っていたのかは不明)。

海外進出を果たした日本最初の犬。それが「国犬」の狆だったのです。

帝國ノ犬達-狆
戦前にアメリカの展覧会へ遠征したクモチノ系、「きん子」「たい子」「ちい子」(昭和10年)

【日本犬とは何か?】

 
それはそれとして、今回は日本在来犬に限った話をします。

「狆や日本テリアだって日本の犬ではないか、何で除外するんだ」というのはご尤も。しかし、私はこの記事の流れを「日本在来犬とは何か?」に持っていきたいのでご勘弁ください。

では、改めまして
日本犬とは何でしょうか?

日本犬は日本犬だよ、その辺にいっぱい居るだろうが!とアホの子扱いされそうですが、「日本犬」という犬は実在しつつも存在しないのです。
柴犬とか秋田犬とか北海道犬とか甲斐犬とか紀州犬とか四国犬という品種はいますよ。それら日本在来犬種の総称が「日本犬」。
これは外来の「洋犬」との対比で生れた言葉でした(「洋犬とは何か?」の話もややこしいので、別の機会に)。
「和犬」や「日本種犬」などの雑多な呼称を「日本犬」に統一したのが、日本犬保存会の斎藤弘吉(ペンネームは斎藤弘)です。

 

私が昭和三年に「日本犬の一般的体型」を作ったとき、従来大館犬、鹿角犬、秋田犬、南部犬、和犬、地犬、猪犬、鹿犬、兎先き、柴犬その他各地方の地域名を冠した雑多な無数の名で呼ばれていた名称を日本犬の名に統一し、又体格上これを大、中、小の三型に分けてその各地犬の共通的体型による標準を作つた。今その標準の区分を見ると、頭、鼻、眼、耳、頸、前肢、後肢、腰、尾、毛、肛門、欠点等の項目に分けてあって、今顧ると昭和三年日保創立当時の私の不十分な研究がこれに反映していて、この区分に既に適当でない部分のあることを感んずる


斎藤弘『秋田犬標準制定についての感想(昭和31年)』より

 

しかし、「日本在来の犬」の定義にも困りますよね。
我が国で作出されたとはいえ、土佐闘犬や日本スピッツや日本テリアは日本犬ではありません。
そもそも、ナニ時代から在来していれば「日本在来種」と認められるのでしょうか?近・現代がダメなら中・近世あたりから?
日本犬が渡来したルーツを考えると、近隣地域との関係も無視はできません。

朝鮮半島から渡来した弥生犬はもちろん、古墳時代には中国大陸の犬との交流もあった筈です。軽視されてきた中国の古代犬研究が見直された結果、縄文犬と似通った犬の存在も明らかとなってきましたし。
蝦夷地の場合、樺太方面から南下していたオホーツク文化時代の犬との繋がりはどうだったんですかね。

南に転じて琉球犬は?南方から渡来した犬がいたとすれば、台湾の在来犬種も外せませんねえ。

近代日本犬界史のブログとしては、「近代日本」のエリアにも悩んでおります。
日本統治下にいた台湾の高山犬や朝鮮半島の珍島犬や南樺太のカラフト犬達をどう扱えばよいのでしょうか?彼らも、戦前の日本では「広義の日本の犬」だったのですから。
 

犬

古墳時代(6世紀頃)の犬埴輪レプリカ。立耳巻尾の体型が表現されています。既に犬用首輪も存在しました。

 
【日本犬のルーツ】


さて。
先程の話の続きです。「日本犬とは何か」について。

日本列島在来の生物は、ニンゲンを含めて沢山います。
しかし、我々は日本列島で発生した訳ではありません。イヤ、確かに近所の産婦人科で産まれたんですけど、そういう意味じゃなくて。
日本人はニホンザルから進化したのではなく、海外から渡来してきた人々を祖先としています。
日本犬もニホンオオカミから進化したのではなく、東アジアのどこかでニホンオオカミの先祖からイヌが分岐し、その中の一群が時代を経て日本列島へ渡来してきたと推測されています(DNA解析によると、ユーラシア大陸西部や極地でもオオカミと犬が分岐しました)。
日本犬=縄文・弥生時代に日本列島へ定着した犬の子孫、というのが妥当ですか。

犬
上の画像は、うちの書庫にあった江戸時代の図譜(タイトルと著者名が記されていない謎本)に描かれたニホンオオカミ。大咬(オホカメ)を語源とするように大きな口と鋭い歯が強調されています。
このように、イヌとオオカミは別種の動物と認識されていました。

オオカミといえば、和犬論の混乱に拍車をかけてきたのがオオカミ研究家です。
「ニホンオオカミとヤマイヌと和犬の違いとは何か?」というテーマに対し、オオカミ生存派と絶滅派が場外乱闘を持ち込む地獄絵図。

古代から近世にかけて和犬とオオカミが交雑し、「ヤマイヌ」なる存在に変化していた可能性を論じるのは構いません。
しかしそれを洋犬が普及した明治以降に重ね、島国視点で「現代までヤマイヌの子孫が生き残っている筈だ!」などと主張されても困るのです。ニホンオオカミとイヌの分岐はユーラシア大陸で起きたのですから。
 
オオカミと犬を混同しても、ロクでもない結果しか生れません。
「明治十七年頃岩手縣にて盛んに狼狩を行ひたれば、其頭蓋を斬り取り頸より上部のみを大學に送らしめたる事あり。右の狼を見たるに斑點の赤犬にして一同思はず哄笑したる畸談あり(『榛名山麓の狼に就て(明治41年)』)」とあるように、オオカミ、ヤマイヌ、ハシカ犬(山中の野犬)を混同したことで、明治時代の動物学者たちはオオカミ研究を放棄してしまいました。
碌な生態研究もされないまま絶滅した日本産狼。だから犬界側としては、不毛な水掛け論しかできないオオカミ論争とは距離を置くべきでしょう。
そもそも日本犬の歴史は、オオカミ研究家の道具ではありません。
 
【日本犬を見捨てた日本人】


忠誠心厚く、粗削りな美しさを持つ日本犬。彼らは日本の精神を体現した犬だと称賛されています。
しかし、我々日本人はこの犬達を二度に亘って消滅の淵へと追いやりました。
一度目は、舶来の洋犬に飛び付いて和犬を見棄てた明治~大正時代。

二度目は、総力戦の末の破局に向かって突き進んだ太平洋戦争末期。
二度あることは三度ある……、だけは避けてほしいものですが。


日本人には舶来モノが大好きで、流行に乗りやすい国民性があるようです。
それは悪い事ばかりではありません。明治時代に急速な近代化を成し遂げられたのも、外国の文化や技術を貪欲に吸収したからです。
しかしモノゴトには限度というのがありまして、無節操な西洋化への反発から台頭したのが国粋主義でした。コレが顕著化するのは鹿鳴館時代が終りを告げた明治20年前後のこと。
「外国文化は自国文化より優れている」という西洋盲拝への反発から「自国文化と外国文化は対等な價値がある」という国粋主義が生れ、そこから「自国文化は外国文化よりも優れている」というドングリの背比べに陥ってしまった訳です。

日本犬に関しても同じこと。
日本人は舶来モノ(洋犬)が大好きで、流行に飛び付いては飽きること(ペットブーム)を明治時代から繰り返してきました。
「洋犬は和犬より優れている」という西洋盲拝から「日本犬にも洋犬と等しい価値がある」という日本犬の再評価へ移り、その中から生まれたのが「日本犬は洋犬より優れている」「日本犬には武士道精神がある」という不寛容かつ非科学的な優劣論。
和犬は、薄っぺらな価値観に翻弄され続けてきました。

日本犬を消滅寸前へ追いやった過去を隠すため、ブシドー精神とやらを押し付ける浅ましさ。そのような和犬優越論は、無知と無恥の産物です。
日本犬史を辿るには、自賛ではなく自省の心から出発したほうがよいでしょう。それ程の仕打ちを、自国の犬に対しておこなってきたのですから。

【正しい日本犬史とは】

近代化へ邁進する明治の日本で、和犬たちは姿を消していきました。慌てて保護に取り組む過程でも、日本犬古来の姿が失われ続けました。
そのことを懸念する人々は当時からいましたが、許された時間は日本犬保存運動が始まった昭和3年からペット献納運動の殺戮が始まる昭和19年までの僅か十数年間。しかもその半分は戦時体制下で、為し得ることには限度がありました。
駄犬扱いの地犬を貴重な在来犬として再評価し、天然記念物にまで格上げした努力は称賛に値します。
彼らを守るために、犬が大量殺戮された戦時下においても多大な努力が払われてきました。戦時を生き延びた少数の犬から、日本犬は復興したのです。

以上の経緯を無視し、「今の日本犬には旧い形質が残っていない」と嘆く人もいます。
で、「旧い形質」っていつの時代・どこの地域の犬を指すのでしょうか?それはどういう経緯で日本犬界の同意を得たスタンダードなの?まさか、個人的な好き嫌いじゃないですよね?

それらのエリアと時代を明確にしない「古の和犬論」を唱えられても、アヤフヤ過ぎて話になりません。
一万年間の日本犬史を走り幅跳びして縄文犬と柴犬を直結する暴論も目立ちますが、現生の日本犬は縄文犬や弥生犬(多種多様な渡来犬の総称)や大陸の犬たちが交雑した「ハイブリッド型の地犬」なのです。
 

そもそも家畜である犬の姿など、100年も経たずに様変わりします。北海道から沖縄まで、地域による差異だってあります。
ロクに保護活動もされなかった時代の犬に至っては、「昔の姿」など消えてゆくしかなかったのです。

「昔の姿」を残す最後の世代であった幕末の和犬に関しては、「オーストラリアのディンゴに似ていた」という証言も残されています。
万延元年(1860年)生まれの動物学者、石川千代松の証言をどうぞ。
 
此處にヂンゴーと云ふ犬が居る。此の犬の大きさは元來の日本犬位で、全身は到つて丈夫に出來て居り、其の色は狐色で、頭は少し長く、額は平たく、耳は尖り、尾はふさ〃として居つて、其の端には白毛が少しある。
私が先年豪洲へ行つて、初めて此の犬を見た時には、御維新の前後に、東京の市中で多く見た日本犬を見たやうな氣持ちがした。此のヂンゴーは、其の位日本犬に似て居る
 
理學博士・石川千代松『犬の話・諸君と仲好しの動物(明治42年)』より
 
この石川千代松が「ヂンゴウは或は元來印度邊に居たものではないかと云ふ説もあり、日本の犬も何かヂンゴウと關係を持つては居まいかと云ふて居る外國の學者もある(〃)」と述べているとおり、ディンゴ=日本犬の祖先説は戦前から根強く唱えられていました。
現在ではこの説も否定されましたが、明治時代の人々にとっては野性的なディンゴこそ「いにしえの和犬の姿」であったのでしょう。
 
ディンゴ
明治時代の書籍で紹介されたディンゴ(足立美堅『いぬ(明治42年)』より)
 
しかし「江戸・明治生まれの古老の証言」については思い出補正の可能性があり、後年の愛犬家による反論もなされています。
 
二尺三寸の秋田犬なるものが、シエパードより小さいなどと云ふ事をよく見受けるが、大體シエパードは二尺一寸位なのだから、凡そその見當が付かうと云ふもの。
實測よりも大きく見えるのが普通だとなると、古老の記憶は愈々權威の無いものとなり、一つの説の論據とするには餘りに手薄である。
更に曰く、余等の少年時代には斯くの如き大型なものが存在し、實見して居る、と。
これはどうも仕様が無い。見たし居たと云ふのだから厄介だ。何しろ筆者如き若い者はまだ生れて居ないのだから、左様で御座いますかと引下がるより手が無いわけだが、此處にも前述の記憶の不正確さと、目測の不正確とが付いて廻る。
殊に少年の記憶である。少年の目測である。目測の場合、目の位置が問題である
 
日本犬保存會・未狂『作出漫論(昭和15年)』より
 
要するにそういうコト。
古老の追憶で語られる和犬論にも、現代の日本犬だけを眺めて考察する和犬論にも、科学的には大した価値などありません。

勘違いされやすいのですが、現代の和犬論は「昭和3年に始まった日本犬保存運動」を出発点としたもの。それ以前の和犬の姿は、保存運動のスタート時点で既に昔話となっていました。

昔話の犬には、体長や体高や骨格といったデータは載っていません。あくまで思い出レベルです。
そもそも、現代の日本犬論が拠りどころとしている「戦前の史料」「古老の証言」は、江戸や明治時代の記録なのでしょうか?もしかしたら、「大正・昭和期に登場した新しい証言」かもしれませんよ?
たとえば、「シバイヌの呼称は昭和初期に生まれた」という説は真っ赤なウソ。実際に「芝犬(後の柴犬)」の呼称が文献に登場するのは、明治20年代に遡ります。
 
このような「明治は遠くなりにけり」的なエピソードは、戦前犬界でも事欠きません。
例えば「九州の山奥に残存していた和犬を発見!」とか昭和初期に騒いでいたところ、明治時代の史料には「ここの猟犬は沿岸部の港から取り寄せている」と記されていたとかね。海路で持ち込まれた他県の犬というオチでした。
更に、各地の在来犬でも似たようなケースがあるのです。チャウチャウと交配した三河雑犬が全国規模で大量流通した結果、「後から侵入した三河雑犬が在来の地犬を駆逐する」という問題を発生させてしまいました。
それら三河雑犬の子孫たちは戦後復興期の混乱によって「戦前から存在していた在来犬」に化け、地域犬界史を攪乱し続けます。「文部省が天然記念物指定しない地犬」が存在するのには、そのような裏事情も影響しました。
アヤフヤな「戦前の証言」を参照するのはまだマシで、ひどい部類になると「戦前犬界に関するレポートの参考文献欄を見たら、戦後に出版された書籍ばかりだった」という笑い話もあります。
戦前の犬について調べる場合は、慎重な考証を前提として戦前の資料にあたりましょう。


こういう体たらくなので、「正しい日本犬の歴史」を自称するシロモノは信じないのが吉。日本犬界から失われたものの多さを知っていれば、「正しい歴史」という表現には慎重になる筈なんですけどね。

日本犬の歴史とは、大半のピースをなくしたジグソーパズル状態なのです。
日本犬のスタンダードを大・中・小で分けざるを得なかったのも、戦前の段階で「紀州犬と四国犬を交配させた犬を甲斐犬と掛け合わせて生れた日本犬は一体何と呼べばよいのか?」的な混沌状態にあったから。
交通網の発達により、「地犬」の概念も通用しなくなった時代でしたし(ちなみに、犬の通信販売は明治時代にスタートしています)。
日本犬保存会限定でもこんな感じ。文部省をはじめとする諸団体の記録まで網羅するのは、ナカナカ大変です。
 

忘れ去り、捨て去ったモノの残骸を後から慌てて拾い集め、何とかカタチにしたのが日本犬の歴史。

「正しい日本犬史」なんてモノは存在しないんですよ。
個々の記録を時系列・地域別に沿って整理する、地道な作業を続けるしかないのでしょう。


犬
ハニハニ。
これは古墳時代の犬ですが、さらに昔の縄文犬は、ストップ(額の段差)が浅くて立耳立尾の小型犬でした。日本犬保存会の斎藤理事は「ワイヤーヘアードテリアみたいな顔の犬」と表現しております。
弥生時代になると大小様々な犬種が渡来し始め、弥生犬との交雑化により古墳時代までに縄文犬は消滅。その後も交雑が重ねられた結果、現生日本犬の祖となるハイブリッド型日本犬が誕生しました。

帝國ノ犬達-秋田犬
上のハニワ犬から約1500年後の秋田犬(秋路號・2歳)。消滅の危機を回避するため、地犬の交雑化が進んだ時代の「日本犬」です(昭和10年撮影)

日本犬の姿、体型や毛色も時代によって大きく変化しています。加えて多数の領地に分断されていた時代は、地域によっても差異があった筈。

「日本犬のスタンダード」とやらを決めるのは、とても難しいのが分ります。江戸時代から21世紀までに期間を限定しても、同一基準で語るのは困難でしょう。

下の画像は江戸時代の和犬です。これこそが本来の姿なのに、現代視点では雑種にしか見えませんよね。

犬

 
江戸時代に描かれた和犬は、立耳や垂れ耳、巻尾や差し尾、さまざまな毛色をもつ地犬群でした。
しかし、日本犬標準の普及をはかる人々は「日本犬保存会の標準に合致した個体こそが純粋な日本犬で、江戸時代に描かれた斑模様の犬は南蛮犬との雑種である」などと時系列無視の主張を展開します。
「昭和3年以降にとられた日本犬復活のための選択肢」と「古代・中世・近世の和犬の姿」は区別して論じましょう。それらを混同するから混乱するのです。
 
「日本犬の消滅を回避するための緊急避難措置」で定められた筈のスタンダードは、いつの間にやら黄門さまの印籠的な権威と化してしまいました。
それが無闇やたらと振りかざされた場合、日本犬の歴史は再び袋小路へと迷い込みかねません。
 
繰り返しますが、日本の犬は日本列島の外から渡来してきました。
長い歴史の間には、弥生犬と縄文犬の交雑犬や、南蛮犬や唐犬と交雑した地犬もいたことでしょう。
それらを含めた「和犬」を俯瞰できない、窮屈で偏狭な価値観が「武士道精神を持つ犬」などという幻想を生み出しているのです。
 
科学的な検証ができない江戸時代の話をするなとか言われてもですね、明治時代になっても斑模様の和犬は珍しくなかったんですよ。

日本犬が姿を消す大正時代まで、辛うじて「昔の和犬」の姿は残されていたのです。
しかし、降ってわいた昭和の日本犬ブームによって、彼らは淘汰されてしまいました。

犬
昭和9年撮影の石州犬

 
日本犬保存会が発足した昭和3年以降、標準化に伴って「立耳・巻尾・単色の日本犬」のイメージが定着。
「斑模様の日本犬はイメージと違う」「もしかして雑種じゃないの?」「だから売り物にならない」という連鎖によって、繁殖・流通を断たれて消えた地犬もいたのでしょう。
日本犬保存運動の隆盛はペット商があってこそのモノ。畑で収穫される野菜の中から姿形が良いものだけがスーパーで流通するように、「規格外の商品」は廃棄されるのみです。

日本犬の歴史では、こういった部分にも目を向けてほしいものですね。

幕末に開国した時点で、和犬の運命は決定していました。日本列島から泳いで逃れられない彼らは、黒船来航で激変した日本社会に従うしかありません。
現代の日本犬達は、一万年間の荒波を生き延びた個体にアレコレ手を加えてどうにかこうにかした残存勢力なのです。

日本犬の源流、在りし日の姿を追求する事は大切でしょう。
それと同じくらい、「それで、このような現状に至った経緯は?」と振り返ることも大事なのです。

では、縄文時代から振り返ってみましょう。

(第二部へつづく)