凡銃獵者男兒無限之快楽也。
行之也。
起初更。食二更。三更爲装。肩銃牽狗。鼓勇躍進。
宛如卒兵向敵也。獵狗則我將校也。士卒也。
飛禽走獸即敵則敵軍也。慾襲之屠之。
先刻判斷地形之難易。考察攻守之利害。部署適法。
進退操縦指揮合其節者。則制勝矣。
如斯則何飛禽乎不落。何走獸乎不殪。
真是所向無敵也。豈不壮快哉。
嗚呼人間有此快楽。


明治二十九年一月初九
東山獵士峯雪生

帝國ノ犬達-ハンター
東京山ノ手猟友會の清水氏と愛犬ライト號の猟果。
当時の南葛飾あたりは、狩猟が出来る程の自然が残っていました。大正14年

ヒトとイヌが出遭ったのは何万年も昔のこと。人類の敵であるオオカミを祖先としながら、この動物はヒトと暮す道を選んだのです。
オオカミ側からすれば、敵に寝返った裏切り者ですね。

かくして奇妙な共生が始まった訳ですが、「最初の家畜」である犬の存在によって人類のサバイバル能力は大きく向上。外敵の襲来を察知する夜番として、獲物の場所を嗅ぎ当てる猟の友として、犬は人類の生活安定に貢献しました(まあ、それから数千年後に主役の座はウマに奪われる訳ですが)。
牧畜・荷役・愛玩・治安・軍事など、長い歴史の中で犬の用途は拡大しつつ、現代まで変らないのが狩猟に使われる犬。いわゆる「猟犬」です。

【縄文時代の猟犬】

遥か昔、我々のご先祖はドングリや山菜を中心に、貝や魚といった海産物や鳥獣の肉で蛋白源を補う狩猟採集生活を送っていました。縄文時代になると、栗、豆、稲、雑穀などの栽培が始まります。
しかし依然として、食料調達における狩猟は大きな位置を占めていました。
マンモスやナウマンゾウは旧石器時代に絶滅しましたが、クマから小鳥まで多種多様な生物を捕獲する為、さまざまな猟具や猟法が考案されていきます。
日本において、主な獲物となったのが低山に棲むシカとイノシシ。
旧石器時代後期には逆茂木を仕掛けた大型獣用落とし穴が登場し、晩ゴハン確保のための知恵と労力が投じられました。
しかし、世の中にいるのはカンタンに罠にかかってくれるマヌケ獣ばかりではありません。足りない分は獲物をヒーコラ追いかけ回すしかありませんでした。
縄文時代になると、狩猟の手助けをする存在が日本列島へ現れます。それが「縄文犬」でした。

野山で獲物を探し出し、追跡し、足止めするのが彼らの役目。縄文人にとって、猟犬は大切なパートナーだったのでしょう。
住居近くに眠るような姿で埋葬された犬。人間と共に埋葬された犬。中には骨折の治癒跡がある犬骨も発掘されており、獲物との格闘で重傷を負った「役立たずの猟犬」までもが飼育され続けていたことが推測できます。

【弥生時代の到来】

縄文晩期になると、九州北部で稲作が始まりました。栄養価が高く、保存が利いて、収穫量が多いコメを確保できたことにより、弥生時代が到来したのです。稲作と共にブタやニワトリといった家畜も大陸から持ち込まれ、食肉の確保を野生獣に頼ることもなくなりました。
耕作地の確保と富の蓄積はクニという集団を生み、激しい土地争奪戦の過程で倭国が誕生。犬を友とする狩猟採集生活は廃れていきました。
縄文犬の立場を一変させたのが、「弥生犬」の登場です。
これは大小さまざまな渡来犬の総称であり、「弥生犬」なる単一犬種がいたワケではありません。そして、弥生犬は食用獣と見做されていました。
縄文文化が途絶えた弥生中期以降、発掘される犬骨には肉や毛皮を切り離した解体痕が目立ち始めます。かつて大切に埋葬されていた犬の遺骸は、ブタの骨などに混じって貝塚へ投棄される「食品廃棄物」と化しました。
東日本を中心に繁栄していた縄文犬は、西日本の新興勢力である弥生犬に太刀打ちすることはできません。縄文犬は弥生犬と交雑化し、巻き添えを食って弥生人の食用にされ、頭数を減らしていきます。
いっぽう、抜けた牙(おそらく獲物と格闘した際の負傷)の治癒跡がある弥生犬の骨も出土していますので、縄文的な狩猟文化が維持された地域もあったのでしょう。
香川県で出土したとされる袈裟襷銅鐸(弥生中期)にも、イノシシを包囲する猟犬達と、それを弓で狙う狩人の姿が刻まれています。
しかしそれらの猟犬も、用済みとなれば結局は食肉扱いでした。

【北海道の場合】

北海道における縄文犬の出土事例は少なく、どのような扱いを受けていたのかは判然としません。
やがてオホーツク文化時代になると、樺太方面から北方犬が渡来してきます。彼らも食用獣であり、若犬のうちに殺処分され、解体跡のある犬骨が北海道沿岸部を中心に多数出土しています。
西と北から犬肉食文化が広まったことで、挟み撃ちにされた縄文犬は逃げ場を失いました。
これら北方犬たちも、オホーツク文化人が北海道から撤退すると同時に消滅。

ここで問題となるのが、北海道犬のルーツです。
「北海道犬は、弥生犬との交雑を免れた縄文犬の生き残りである(岐阜大学・田名部雄一)」という説が流布されているものの、オホーツク文化時代に渡来した北方犬と、青森まで進出していた弥生犬を、北海道の縄文犬だけが避けられた理由は?
そもそも北海道犬が縄文犬の子孫であれば、柴犬サイズの小型犬となっている筈です。しかし北海道犬は中型犬ですよね?

これら外来の犬と縄文犬は交雑化し、ハイブリッド型の日本犬へ変化していきました。
ヤマト政権が樹立された古墳時代になると、犬を象った埴輪がイノシシの埴輪と並んで出土するようになります。猟犬は、権力者のステイタスシンボルであったのかもしれません。
この時代も、狩猟は食料獲得手段であり続けたのでしょう。小丸山古墳や西宮山古墳から出土した須恵器には、シカやイノシシを仕留める猟犬たちの装飾が施されています。

大陸からは鷹狩の技術が持ち込まれ、上流階級の趣味として中世・近世へと受け継がれました。やがて鷹甘部や犬養部といった狩猟専門部署が現れ、勢子としての鷹狩犬も登場しています。

【中~近世の猟犬】

犬
猟犬を使った猪猟の図。
江戸期の猪猟犬については、三河の代官だった江川太郎左衛門も銃猟の様子を描き残していますね。

稲作や仏教が持ち込まれた後も肉食は続けられ、中・近世にも様々な狩猟方法が編み出されていきました。後に火縄銃が渡来したこと等も、日本の狩猟に大きな影響を与えたのでしょう。
その中で猟犬の役割がどう変化したのかは不明。生業として猟をする者達にとっては、かけがえのない存在だった筈なのですが。

通説として、江戸時代の日本人は肉食を忌避していたとされています。しかし実際は、農耕の友や軍事利用されていた牛馬を喰わなかっただけ。
軍勢を支える武具や馬具の素材として大量の皮革が流通していた史実を見ると、中近世においても、死んだ家畜や犬猫の遺骸は資源として「リサイクル」されていた訳ですね(生きた牛馬を殺して皮を剥ぐ行為は禁じられていたらしく、そのような不届き者が処罰を受けた記録もあるとか)。
野獣の肉は「山くじら」として賞味され、熊の胆は薬となり、兎や雉や山鳥の肉も大切な蛋白源でした。田畑を荒すイノシシやシカといった害獣の駆除も、為政者にお伺いを立てるかたちでおこなわれていました。
それらを得るため、猟師と猟犬は野山で獲物を追い続けたのです。

そういえば、山を渉り歩くマタギを自由人か何かと勘違いして礼賛する向きもありますよね。
しかし日本が多数の領地に分裂し、刀狩り(庶民の非武装化)が進められていた時代です。厳しい封建制度下に、現代人のロマンなど通用しません。
マタギや猟師は、為政者の許しを得て銃を所持し、領地内で狩りをしていた人々。領主に獲物の一部を献上する事で成り立っていた職業なのです。為政者としては、猟師たちが持つ何百梃もの銃を監視する必要もありました。モチロン、無許可での越境行為なんてとんでもない不祥事です。
事実、獲物を追って他領へ侵入したマタギが捕えられ、死罪となった記録も実在します。
お上がコントロールしていたからこそ、生類憐みの令(狩猟方面では猟銃回収の目的も)が施行されていた間も、猟師には害獣駆除が「許可」されていたんですよ。
現在の狩猟免許制度には、ちゃんとルーツがあるのです。

領主と猟師の結びつきは、現代人が想像する以上に緊密でした。津軽藩から人喰い熊退治を命じられたアイヌの猟師には、猟犬の餌としてコメが支給されていたとの記録もあります。
領主へ献上された毛皮や肉や熊の胆は、各藩にとっても収入源のひとつとなっていました。近世までの日本では、防寒着として毛皮を纏うのは武士や猟師くらいでしたから。
それも明治になって大きく変化し、女性向けのファッションとして毛皮が大流行。毛皮獣の価値も高まっていったのです。

猟の友であった犬ですが、当時の総数や地域別の頭数などは全くの不明。武家の猟犬と庶民の猟犬が同じ品種だったのか、別ルートで蕃殖・調達されていたかすらもわかりません。

庶民の猟犬はウサギやシカ、イノシシを相手とする獣猟犬。特製の餌にお膳や箸まで用意されていた武家の「御鷹犬」と違い、飼育訓練はテキトーです(それゆえ資料も少ないのでしょう)。
江戸時代の愛犬家にして浮世絵師の暁鐘成は、庶民の猟犬についても書き残しています。

帝國ノ犬達-猟師

丹生の山田に夫婦の獵師あり。朝毎に能物を喰せて、早く歸れよといえば、尾をふりて疾山(とくやま)にゆく。主は犬の歸るべき時をはかりて、鐵砲を提行くに、近き邊まで猪鹿を追廻して、主に渡して打たせける。
しかるを荘屋より頻に所望せしかと、此犬は我〃を養ひたれば、いかに申さるゝとも遣はす事なり難きとて、遣ざりしを深く妬みけるにや、此度の犬駆に、此犬の代りを出さんと頻に願ひしかと、此儀なりがたしとて聞届けざりし程に、夫婦もろとも犬に對(むか)ひ、涙を流していふやう、汝いかなる宿縁によりてや、今まで夫婦を養ひつらん。今般荘官が所爲(しわざ)にて、無理に虎の餌食になす事、口惜く思へども今更に力及ばず。我ゝをな恨みそ、敵(かたき)を取て死すべしと掻口説きしかば、能く言ことをや聞知りけん、凋ゝ(しおしお)としてして出行きしと。
絵と文『猛犬死を窮めて虎を噛む』より 暁鐘成 嘉永7年

これは、豊臣秀吉が飼っていた虎の餌として、愛犬を差出すことになった猟師夫婦のお話。
餌となる筈の猟犬は虎と相討ちで命を落し、その勇猛さに驚いた秀吉の調査で荘屋の心根不届が露見。罰として全財産を没収し、夫婦に与えたという結末になっております。
右側には虎の絵も描かれていますが、ネコ科のブログではないので割愛。

【将軍様の鷹狩犬】

日本猟犬史において重要なのが、鷹狩の存在です。
「鷹ヲ放テ鳥ヲ狩、弓ヲ射テ獣ヲ逐」とあるように鷹狩の起源は古く、我が国でも古墳時代から天皇家の重要な行事・娯楽でした。
それを支えたのが鷹狩の専門家集団。いわゆる放鷹司や主鷹司です。

「昔貞観年中二、清和御宇(※清和天皇の治める期間)高麗ヨリ秀逸ノ鷹ヲ献ズ。帝ノ御意ニ應ゼザレバ是ヲ左大臣源ノ信ニ賜加之遊猟ノ地ヲ摂津ノ國ニ賜トナリ。其頃、豊後ノ國ヨリ米光(べいこう)、田光(でんこう)トテ鷹犬ノ長人來テ異域ノ風ヲ傳シトゾ」

「代々ノ帝交野禁野ノ御狩、宇多芹川ノ逍遥絶事ナシ。就中寛平宮瀧ノ御幸勝負ノ御狩、其儀式北野天神之ヲ記給、末代放鷹ノ亀鏡タルヲヤ毎月左右近衛二十四御調ノ人鳥ヲ奉レリ。大内ノ鳥曹司ニ數聯ノ良鷹ヲ繋セ數牙ノ犬ヲ飼置ル母屋ノ大饗ニハ上客料理ヲタスケテ前庭ヲ渡レ諸國ノ狩ノ使ハ驛路ノ鈴ヲ鳴シテ羇粮ノ設ヲ催」

中世の戦国武将たちも鷹狩が大好きで、鷹の飼育・蕃殖に熱中していました。
近世になって、第五代将軍徳川綱吉は「生類憐の令」により鷹狩を禁止。一旦は途絶えた鷹狩が復活するのは、第八代将軍徳川吉宗の代になってからです。その間も、鷹匠によって様々な鷹の飼育訓練ノウハウが伝えられました。

鷹狩には猟犬も参加します。彼等は勢子と一緒になって獲物を追い出し、鷹のサポートをしていたのです。

帝國ノ犬達-鷹狩
「プライドの高いサムライは猟犬を使わなかった」とかいう解説もありますが、実際は画像の様に使いまくっております。

武家で使われていたのは、鷹狩でウズラやキジを追い出す鳥猟犬です。
それらの獲物を捕らえるのは鷹の役目。猟犬はあくまでサポート役であり、獲物や鷹に飛びかからないよう徹底的に調教されていました。

斎藤弘が蒐集した江戸期の史料でわかる通り、鷹狩用の猟犬に関する飼育訓練法や飼育用具の種類などは厳格に定められています。鷹狩は公の行事なので、服装から犬の取扱い方法、受け渡しの作法まできちんとルールが必要だったのです。将軍家の猟犬だけが付けられる、特別な首輪も規定されていました。

それを伝える資料が、出雲松江藩主・松平斉齋(まつだいらなりとき)が蒐集していた鷹狩書。徳川将軍家雑司谷御鷹部屋御犬牽・中田徳三郎による鷹狩犬の飼育・訓練・医療法が詳細に記されています。
この将軍様の鷹狩犬の名は「永富白(ながとみしろ・神田永富町で初めて繋がれた白毛の犬の意味)」といい、索綱から放されても獲物や鷹に飛びかからないよう高度に訓練された「放犬(はなしいぬ)・諸口止り」でした。
その他、通常訓練の猟犬は「平犬(ひらいぬ)」、獲物か鷹のどちらかに反応してしまう訓練途中の猟犬は「片口止り」、はじめて訓練を受ける猟犬は「荒犬(あらいぬ)」と呼称されています。

御放犬 永富白
一、年拾歳
一、毛色惣體ニ黄ばみ有之中毛ニ而つまり
一、貌頭面より額へ掛り開き
一、耳小さく前へかぶり
一、觜短く胴丸く足細
一、鼻黒ニ而有之候處近來少しく赤く相成候
一、尾はさし尾ニ而有之候處近來少しく後へ下り候
一、氣質至而温和ニ有之候
右 御放犬出來至而まれにて當中田英太郎曽祖父清五郎(明和~天保の頃の御犬方)仕込方功者ニ付拾両金頂戴(※毎年10両受領の意味)仕候處勤役中御放犬仕込 宜敷出來候分数疋有之候由古人見覚へ候者より承り罷在候處右永冨白中田徳三郎仕込ニ而古人之話傳へニ不違出來仕両組(※雑司谷・千駄谷の鷹匠・犬牽のこ と)一統感心仕候亦御犬絵圖誠ニ生寫ニ出來仕候

別格扱いであった将軍様の猟犬はもちろん、その他武家の鷹狩犬も平素からウズラや鷹に慣れさせつつ訓練を施し、犬牽の命令通りに動作するまで仕上げてから実際の猟場に投入されていました。

お犬様といえば、犬公方こと徳川綱吉は鷹狩をおこないませんでした。生類憐みの令が施行されている間、鷹狩犬たちも肩身の狭い思いをしたことでしょう。

鷹狩犬については、他にも記録が残されています。いくつかの流派があった猟犬ハンドラーたちが、共通のテキストとしていたのが下記の『武家弁略』。

「犬遣トハ犬飼ノ事、即犬牽也。装束ハ古來ヨリ公家方武家方差別アリテ鷹飼犬飼ノ品ヲモ分タリ。
今其沙汰ナシ。下部夫ノ業ト成テ私説而巳多シテ丁説ヲ挙ニ無紋ノ紺ニ赤革ノ袖ノ細ニ連錢ヲ五ツ付タル肩衣ヲ着シ、熏革ノ小袴ニ紫絹ニテ頭ヲ包浅キ笠着テ狩杖ヲツク也。
杖ノ長ハ我蒙リタル笠ノ端通ニ切事也。末ニ又アリ。是モ櫻木也。列卒ノ杖ハ四尺五寸、或笠ノ端ニ突較切是ヲ勢子ノ狩杖ト云リ。同櫻木ニテ末ニハ股ナシ。
鳥掛ハ鷹飼ノ杖計也。
或説ニ五十以上ノ人ハ力杖ト云也トゾ。
犬飼ハ姿ニ知ル裲襠ニ狩杖帽子行纏(はばき・脚絆のこと)前掛
鷹歌ノ注ニハ犬飼ノ帽子ヲ松皮帽子ト云トゾ」
『武家弁略(圖解)』より


犬
丹頂鶴を捕えた鷹と、それに駈けよる勢子と猟犬たち。錦絵の鷹狩図より

こうして、犬は長い時代に亘って猟師の友であり続けました。
ただし、狩猟用動物界は犬の独壇場ではありません。上記の鷹狩以外にも、ウサギ狩のフェレット、漁業でも鵜やカワウソなどが知られていますね。
品種改良を重ね、人為的に狩猟能力を特化させた動物は犬くらいですけど。

【ネコと猟師】

それでは猫は駄目なのか?といいますと、少なくとも日本の猟師からは全く信用されていませんでした。
全国各地には、「山中の猟師を襲う化け猫」の怪談が伝わっています。この怪談は近代の猟師にも受け継がれました。
地域によってバリエーションがあるものの、基本的なストーリーは下記のとおり。

「ある晩、山で獲物を待ち伏せしていた猟師の前に、大きな化け猫が出現。
驚いた猟師は銃弾を撃ち込んだものの、化け猫は被っていた鉄鍋でことごとく弾き返してしまう。弾を撃ち尽くすと、化け猫はまるで残弾数を知っていたかのように襲いかかってきた。
その瞬間、猟師は予備の隠し弾を装填して発砲。被弾した化け猫は悲鳴をあげて逃げ去った。
血痕は何と我が家へ続いており、自宅の床下からは銃弾を受けた愛猫の遺骸が発見された。
化け猫は何くわぬ顔をして囲炉裏端で主人が造る弾丸を数え、山中で弾切れになる瞬間を狙っていたのだ」

夜間の狩猟が違法となった時代も、この化け猫伝説はハンターの間で語り継がれました。
全国へ広まった怪談により、ネコは謂れなき風評被害を受けることとなります。

「ニタ撃ちに行くときは鹿の玉(※結石)、鹿の耳などお守りと隠し弾を所持し、そのことを絶対言わないし見せない。
ニタとは山中の水たまりとかジメジメした足場で、水飲みに小動物が来たり猪がドロ浴びに来たりする所である。ニタ撃ちとはそこに来る猪を待って狩ることである(※現在は夜間の発砲は違法行為)。
隠し弾はマタ猫に備えるもので、マタ猫は猟師の家の囲炉裏上にある四角い板から自在鉤を伝って下りてくる、鍋を触るという化け猫のことで、「ジゼカギをせせる」とか「鍋をせせる」と言って恐れる。
家長が座る横座の囲炉裏隅にはマタ猫に投げつけるためのコブシ大の丸い石つぶてが必ず置いてある」

「米良の猟師は部屋にいるネコを追い払ってから猟銃の弾丸を作った。現在は銃砲店から弾丸を購入するが、昔はイナベに鉛を削って入れ囲炉裏の火で鎔かし、ペンチ状の鋳型に流し込んで作った。
鉛ダマを火薬とともに薬莢に入れ信管を装填して弾丸として仕上げるが、弾丸は翌日の狩猟に必要な数ほど作る。しかしもう一発余分に作り、それを隠し弾(隠し矢という)とした」
前田博仁『米良の神楽と狩猟風俗』より

猫については、気が向いた時だけネズミ退治してくれたら充分だったのでしょう。
同じくハンターから忌み嫌われていたのがサル。地域によっては「猟の最中に猿という言葉を口にするな」と厳しく戒められていました。姿や仕草が人間と似ていることもあって、好んで獲物とする猟師も少なかった様です。

「猿と云う言葉は使ってならない。又不猟の話も禁物である。そう云う事を犯すとその日は猟がないばかりか、悪くするとけがをする。これは昔からの言い伝えであり習慣でもある」

「猟仲間では『さる』と云う言葉を非常に嫌う。それで猿のことを『やいん』『ぼうず』『大将』『とくまつ』などの別名で呼ぶ。理由ははっきりしたことはわからないが、猿はたゝるとか猿を怒らすと山を荒すとか、又はさるは去る(獲物が去る)に通ずると云うような意味合いがあるのではないか」
『日向民俗・狩猟資料』より

いっぽう、猟師の友である猟犬は「山の神の使い」として神格化されていきます。柳田國男が民俗学に着目した椎葉村一帯では、イノシシとの格闘や猟銃の誤射などで猟期中に死んだ犬を山中に安置し、神職を呼んでイヌの霊魂を山に帰す風習がありました。
山中に埋葬したり棚を組んで野晒しにしたりと、猟犬の遺骸の扱い方は地域それぞれ。ただ、現場に設置した犬塚の石を人里へ持ち帰って「コウザキさま」として祀るのは共通しています。
山の神とは違い、コウザキ様の正体はハッキリしません。主に狩猟神として扱われるようです。

「かぶがしら(※獲物の頭部)をもっては、天大しょうごん殿に祀って参らせ申す。
かぶふた(※獲物の尾)をもっては奥山三郎殿に祀って参らせ申す。
こひつぎあばら(※獲物の腰骨と肋骨)をもっては中山次郎殿に祀って参らせ申す。
奥山三郎殿の三百三十三人、中山次郎殿の三百三十三人、山口太郎殿の三百三十三人併せて九百九十九人の御山の御神様にも祀って参らせ申す。
下のコウザキ、上のコウザキ、中頃のコウザキ、只今のコウザキ殿まで祀って参らせ申す。
オザサ山のコウザキ、上ノ小屋山、雷カドワリのコウザキ殿にも祀って参らせ申す。
アロウ谷からフルコエの間まで木の根かやの根の下にマツリアラシのコウザキ殿まで、小猟師のまつりて(※獲物の内臓)を差し上げ申するによって、三丸五丸 七丸十三丸三十三丸百六丸までのやくごんを奉り申するによって、その上はのされ次第、御授け下さりゅうところを一重に御願い奉り申す」
永松敦著『狩猟民族研究』より 椎葉村のシシマツリにおけるコウザキ殿への唱文。



間宮宗倫『北蝦夷圖説』より 江戸時代における樺太地域の猟師

【蝦夷地と樺太の猟犬】

和人は蝦夷地へ勢力を広げ、更に樺太方面へ踏み入れます。
その過程で、従来の和犬とは異なる「北方の猟犬」に関する記録が残されました。
アイヌ民族の猟犬である「北海道犬」に関しては、1788年に蝦夷地を旅行した古川古松軒が「東遊雑記」中で記しています。

「蝦夷地にて犬をセタと称す。日本の犬よりは小にして、少し違いてあり。松前の地にても蝦夷の堺の浦には、セタの落しとて蝦夷の犬の子もあり。夷人狩に出るにセタを連れて行きて、かの羆に懸くるに、迯げ走ることの早き犬にて、 羆の迯ぐるより先へ廻りてははげしく吠え懸るに、羆怒りて犬を見て飛び懸るを、岩間木陰に迯げ廻りて羆に近づくことをせず、夷人の追い来るまでは、とやか くして羆の迯げのびぬようにかしこく邪魔となりて、羆をあやかすものなり。
日本の犬は肉を喰えば毛のぬけて見苦しくなるものなるに、蝦夷犬は生まるるより肉を以て飼い立てしものゆえに毛のぬけることなくて、毛に光ありて美しき犬 なりといえり、これも図にあるを見て写しをとるものなり。毛色はさまざまあり。形は日本の犬に同じくして、声は異なるなり」
東遊雑記(東洋文庫27・大藤時彦翻訳版より)

また、箱館奉行であった栗本鋤雲は1862年に樺太地域を巡視した際、カラフト犬を用いていました。


「翁の経歴を問ふに及んで、徐に答て曰く、予の醫官より出でゝ箱館奉行支配組頭となり、其奉行所に赴くや、時は文久二年(1862年)歳四十一の時なり。北蝦夷唐太(カラフト)の地、魯西亜國と境を接するを以て、事端漸く稠く、時々重役の臨検を要するに因り、同年七月箱館を發して北渡東西を巡視し、北緯五十度前人未だ見ざる所の使犬部属アイノ人住地の極端タライカ湖に至り、還て久春古丹(クシンコタン)に駐る。

翌年三月任満るを以て南渡し、北岸を東行して恵戸路府(エトロフ)久奈志利(クナシリ)の二島を巡り、九月箱館に還る。

その唐太に在りて冬を渉るや久春古丹に居る、時に狗に橇を牽かしめて、冨内に至れるの日は、積雪皚々天地一色、更に路形無し。及(すなわ)ち崖を攀ぢ氷河を渡り、唯一直線に疾駆すれば、一日三十六里を走る。事に熟せし○人これに騎りて先きに立ち、嚮導をなし暮るれば途に泊り、明るれば出づ。

狗の忠實なる終宵主人の身邊を囲繞して、守護頗る力む。〇人も狗兒を愛育すること、恰も子弟に於けるが如し。冬は橇を牽かしめ、夏は岸に沿ふて舟を牽かしめ、或は獣猟に伴ひ、老ふれば屠りて其肉を食し、皮は衣となして寒威を凌げり

乙羽生『日本軍艦の母』より 明治28年


樺太と蝦夷地の文化的交流にかかわらず北海道犬とカラフト犬が交雑しなかった理由は不明。それぞれ独自の用法をされていたのも興味深いですね。
汎用性の高い樺太犬は狩猟から離れる一方、明治から戦後に至るまで荷役犬として活用されました。南極観測隊の犬橇もそうですし、大正時代の日本陸軍も軍用候補犬として高く評価しています(暑さにに弱いことが判明して失格に)。
北海道犬は、昭和の時代もヒグマ狩りで大活躍。モータリゼーションの到来と共に消えていった樺太犬とは対照的に、天然記念物として現代まで生き残りました。

そういう訳で、古き時代も日本全国北から南までイヌは猟師の友でありました。
……琉球ではどうだったんですかね?

次回は近代日本の猟犬史を。