「或る諸侯の家來に生類(イキモノ)を好む人あり。鳥類猫狗何くれとなく畜ひをけり。狗は猫を見ればかならず齧みころすものなれども、同じ家にやしなわる故にや、つねに相たはぶれてむつまじく暮せり。
ある日この猫ほかの狗あまたにおひせまられ、のがれがたくなりし時、この狗遙かにこれを見て、飛が如くに走り來り。猫を己が腹の下にかこひ、眼をいからし尾をまきあげ、他の狗を寄つけず。
其のうち主人來りて他の狗をおひ退け、狗をほめて猫をいだきて皈りしとぞ。もの好きなるものある者なり」
  『公私雑報(慶應4年4月)』より

帝國ノ犬達-犬
『頭書増補訓蒙圖彙大成(寛政元年)』より、江戸時代の犬。江戸時代の犬は、土着の(けん:いぬ)、九州に帰化していた
獒犬(ごうけん:たうけん)、農犬(のうけん:むくいぬ。※農はけものへん)などに分類されていました。立耳巻尾の和犬、垂れ耳で体高が四尺以上もある唐犬、長毛で水浴を好むムク犬と、それぞれの特徴が解説されています(高価で取引されていた狆に関しては、「犬とは別の愛玩動物」という扱いだったとか)。

それでは第一部からの続き。

平安時代から鎌倉時代にかけて武家による支配が確立されると、娯楽としての狩猟も拡大。武家には鷹部屋や犬部屋が設けられ、鷹狩犬や猪狩犬が飼育されるようになりました。
犬種も多様化し、猟犬訓練法についてはそれぞれの流派も編み出されていった様です。

鎌倉時代にスタートした行事が「犬追物」。馬上から犬を騎射し、何本命中したかを競う一大イベントでした。
犬を射る矢(犬射引目)には鏃が付いておらず、命中しても殺傷能力はありません。ただし、犬追物が終ったあとの犬は食用として処理される場合もあったのだとか。
街中から百数十頭もの犬を調達し、開催日まで飼育し、催事中に運用管理するノウハウを持つ「河原ノ者」と呼ばれた人々も重用されました。

南北朝時代から戦国時代にかけては犬の軍事利用が始まります。畑時能が斥候犬、太田資正が伝令犬をそれぞれ実戦に用いた話が有名ですね。
西洋の軍用犬は戦闘犬から徐々に発展していったのですが、日本の軍用犬がいきなり高度な運用法からスタートできた理由は不明。
犬の能力を正確に見極め、それを正しく訓練して使役する。あの時代に、それだけの専門知識を有する者が存在したという証でもあります。

帝國ノ犬達-畑時能
敵陣へ潜入しようとする畑時能と犬獅子。
『犬の草紙(嘉永7年)』より

【日本犬界の国際化】

「中世鎌倉、足利の時代になりますと、初めて垂耳がぽつ〃出て参ります。之は當時の人々の生活を寫した繪巻物で判るのでありまして、例へば藤原末期の製作と云はれる傳鳥羽僧正筆の高山寺繪巻、信貴山縁起等に出て來る犬は立耳でありますが、足利初期の破來頓等繪巻等に出て來る犬は、立派な耳垂れの犬で有ります。勿論近世徳川時代等になりますと、所謂街犬には盛んに垂耳が出て参りますが、之等は支那との交通より、引いては犬に於てもその影響等を考へねばならぬ問題と思はれます(『ラヂオ犬談の夕べ(昭和12年)』より」

この時代の日本には、外国からさまざまな唐犬や南蛮犬が渡来してきます。732年(奈良時代)に朝鮮からの使節団が小型犬(スチァン・パイ・ドッグ)と猟犬、騾馬、鸚鵡などを連れてきたのが初期の記録。
この小型犬は上流階級の女性達から熱狂的に受け入れられ、後には値段も高騰したのだとか。

北条高時によって犬合せ(闘犬)が流行した鎌倉時代になると、錦で着飾った「お犬様」が籠で運ばれるようになりました。子牛のような大型犬も現れたそうですが、これは大陸から持ち込まれたチベタン・マスティフではないかという推測もあります。

更に時が過ぎると、ヨーロッパからも犬が渡来してきました。
17世紀、イギリスのサリス将軍が日本駐在員に宛てた手紙には、「壱岐、平戸といった大名にオッタースパニエルやマスチフ、グレイハウンドを贈るように」と書かれています。これら見栄えのする洋犬が、「献上品」として大名に喜ばれたのでしょうね。


『和漢三才図会』卅八・獸類よりヤマイヌ(豺)とオオカミの解説。 


『和漢三才図会』卅七・畜類よりイヌの解説。

日本でイヌ科動物をきちんと区別した書物は、正徳2年(1712年)にかけて寺島良安が著した『倭漢三才圖會』あたりからでしょうか。唐土の『三才図会(王圻編)』に強く影響されているものの、日本なりの動物観を知るうえで貴重な史料です。
この時代に犬、豺、狼、狐、狸はそれぞれ違う動物であることが明文化された結果、後年の文献では更なる細分化がはかられます。
島国ゆえ、在来種の「和犬」、中国大陸の「唐犬」、欧州からの「南蛮犬」、野生動物の「豺(山犬)」や「狼」という概念が明確に区別されたのは幸いでした(この価値観が定着したことで、近代に入って「和犬の保護」と「洋犬の普及」に繋がるワケですから)。
この時代の絵画には垂れ耳の地犬も描かれているので、唐犬や南蛮犬との交雑は避けられなかったと思われます。しかしその数は少なかったらしく、以降も和犬の勢力図を書き換えるには至っていません。
そもそも唐犬や南蛮犬は特権階層が飼育していたステータスシンボルで、一般庶民にとっては高嶺の花。さらには200年間にわたる鎖国政策によって、在来の地犬群が明治初期までタイムカプセル的に保存されたことも幸いしました。
幸いにも、この状況が日本在来犬種の維持につながったのです。

犬
歌川国貞「東海道五十三次之内 草津ノ圖」より

戦乱の時代へ突入した後も、犬は人間と共に暮し続けました。
しかしその関係は殺伐としていきます。相次ぐ戦や飢饉、疫病などによって打ち捨てられた遺体は、野犬やカラスの食糧と化しました。
スカベンジャーとしての役割も担っていた犬も、いっぽうでは「食べられる側」でした。人家の周囲をうろつき回る犬は、野山を駈ける猪や鹿と比べてカンタンに入手できる食肉だったのです。
実際、全国各地の武家屋敷や城跡からは解体された食用犬の骨が発掘されていますし、江戸時代に入ると町から犬の姿が消えていきます。「落穂集」には、「下々の食べものには犬に増りたる物はこれなく、各冬向になり候へば見掛次第に打殺して賞翫仕る」と記されているとか。
太平の世へ入っても、日本人と犬は喰ったり喰われたりの関係を続けていたんですね。

「天明三年諸國飢饉、奥羽諸國殊に甚しく、米麦は勿論雑穀野菜の収穫も無かりしが故に牛馬鶏犬の肉を始めとし雑草樹皮迄も食ひ、果ては親は子を棄て子は親を失ひ夫は妻に別れ或は他郷に赴くもあり。
又妻子手を携へて路頭に彷徨するものあり。而して亦道路に斃死するもの其數を知らず、初めは之を取りて處々に埋めたりしも、後には誰ありて之を顧みるのもの無く屍累々として、犬又は鴉の餌となれり。而して犬の如きはすでに其味を知り往來の人を咬殺しゝこと尠からず。然るに人を食ひし犬は後には又悉く人の食物となるに至り、此の如くにして數里の間人犬の白骨散乱して一として人影を見ざりしこと尠なからざりしと(天明年度凶歳記より)」

江戸町民の犬肉食も太平の200年間で次第に薄れ、「江戸にて飢饉の時狗を食ふ事を知らず、かゝる時にも狗食はれたる方がよし(紫野栗山)」と書かれるまでになります。

犬
江戸時代の絵画に描かれた斑模様の地犬。これこそが「古来の和犬の姿」でした。
現代人がイメージする「日本犬」とは、昭和3年以降に和犬の多様性を排除し、体型や毛色を平準化した姿です(ペットとしての商品価値や保護活動の基準統一のためには仕方ありませんでした)。
しかしその過程で、「古来の和犬の姿」と「日本犬復活のための選択肢」が混同されてしまいます。現生日本犬こそが純血種であるという時系列無視のスタートラインが設けられた結果、江戸時代に描かれた斑模様の犬は雑種扱いとして切り捨てられました。

【将軍の犬と民草の犬】

人と犬の関係がひっくり返ったのは貞享4年(1687年)のこと。所謂、「生類憐みの令」が施行されたのです。
宝永7年までの24年間に亘って続いたこの法令は、社会を混乱させました。庶民や猟師などは許可を得ての害獣駆除を継続できましたが、武士階級では鳥獣を殺めたことで死罪や遠島となった人もいます。
極端な動物愛護の強制は、人々に犬への反感を植え付けるだけの結果となりました。綱吉死去に伴って法令廃止となった途端、犬への虐待が再開されたとか何とか。

モチロン、この事例だけで260年に亘る近世犬史を語られては困ります。江戸時代には、犬を食った人も、犬を愛玩した人も、犬を虐待した人も、犬を使役した人もいました。
ただ、それだけのことです。

「将軍綱吉の犬愛護は、単なる生類御憐みの情より發した間違つた動物愛護、即ち家畜の一つである犬に對して一切の使役を與へず、狩獵迄禁じて只自己滿足的な愛隣の情のみによつた施設のために迷惑したのは人間と犬であり、結局野良犬充滿して幕府も手に負へぬ結果となつて、何等の畜犬的な優良蕃殖とか訓育法の發達と云ふものはなかつたのであります。
犬公方の施設で多少でも爲めになつたと考へるのは専門犬醫者が出來て、治療法發達の端を發したこと、毛附帳即ち犬の戸籍が今日に殘り、當時の犬の體格の大小、毛色、耳の立ち垂れ、尾の巻く巻かぬ點が判明する位のものでありませう。
畜犬的な發達を致しましたのは、犬公方没後、狩獵解禁となつて後でありまして、獵好きな吉宗あたりの時が絶頂であつたと考へられます(『ラヂオ犬談の夕べ』より)」

将軍家の鷹部屋は雑司ヶ谷、千駄木、吹上の三箇所にあり、そこには「犬牽頭」を長としたハンドラー集団が高度な飼育訓練法を編み出していました。
小禽から水鳥、獣猟まで対応可能な各種コマンドや飼育用具や作法が整備され、新犬(訓練中・紺色首輪)、平犬(訓練済み・紺色首輪)、御放犬(最高訓練会得・紅色に葵紋入り首輪と銀の鈴)といった「昇進制度」までありました。
選び抜かれた将軍家のお犬様は、何から何まで特別扱いだったのです。

獣医学関係も、東洋なりの発展を見ました。当時の犬用内服薬としては解熱剤、腹腫治療薬、眼薬、咽喉の薬、駆虫薬、堕胎薬、産後の栄養剤などが記録されています。
ただし、これらも漢方薬ならマシな方で、大部分はアヤシゲな材料を組み合わせたニセ薬。実際の効能は無かったのでしょう。
江戸時代に編み出された犬の治療法は、明治時代に至るまで民間療法として伝えられます。尤も、主たる療法は「小豆を煮て食わせる」「小豆を患部に塗る」「それでダメなら諦める」というシロモノでしたが。
傷病治療としては鍼灸も用いられ、犬体のツボ(灸所・針点)を記した図も存在します。

「公的な犬」の飼育訓練・医療技術や作法のマニュアルは各方面へ普及。獣医学を含めた初期の国内ペット界はこうして構築され、幕末まで続きました。

帝國ノ犬達-浮世絵2
●狆を抱く女性

【江戸の犬界と江戸時代の犬界】

武家や豪商のペットはともかく、「民の犬」はどうだったのでしょうか?
「江戸時代の庶民は犬を飼わなかった」とかいう乱暴な「江戸の畜犬史」も見かけますが、日本が多くの領地に分裂していた時代ですよ?
江戸エリア限定の話は、「東京犬界の歴史」に過ぎません。
近世であれば日本列島全体、古代や近代であれば樺太、朝鮮半島、台湾まで俯瞰する必要があるのです。

喰ったり喰われたりの関係は別として、猟師にとっての猟犬は大切な友でしたし、一般庶民の中にも多くの愛犬家がいました。その様子は当時の浮世絵にも描かれていますし、花咲爺さんみたいな愛犬物語もありますよね。
たとえ江戸の庶民が犬を飼わなくても、上方のペット事情はどうだったの?蝦夷地のアイヌ民族は?洋犬渡来の窓口だった長崎の出島は?
犬の日本史を語りたければ、地域性と時系列くらい考慮しましょう。「東京の犬の話」と、「北海道や東北や北陸や中部や近畿や中国や四国や九州や沖縄の犬の話」は違うのです。


アメリカ海軍『Perry's Expedition to Japan(1854年)』より

上の画像は、嘉永7年にペリーが来航した際に描かれた下田の街並み。人々と犬が共に暮らしていますね。
ちなみにアメリカ海軍は、このとき2頭の狆を日本から連れ帰っています。

江戸の庶民と違い、大坂の庶民は愛玩犬を飼育していました。黒船が来航した頃、関西では愛犬家へ向けた飼育マニュアル『犬狗養畜傳』が出版されています。

現代の日本人が何を言おうと、江戸時代の大阪で犬を飼っていた庶民の記録はあるんですよ。
『犬狗養畜伝』の著者である暁鐘成も、別著『犬の草紙』にて庶民の愛玩犬や飼育法について記しています。この手の本に需要がある程、関西地方には愛犬家も多かったのでしょう。
※一冊しか現存していないとされる『犬狗養畜傳(犬の治療薬パンフレット)』と、多数が現存している『犬の草紙(忠犬義犬談集)』の飼育マニュアル部分は同じ内容です。

帝國ノ犬達-名呉町
暁鐘成が母から聞いた忠犬談『義を守つて犬主の子を育む』より、大坂の名呉町でペットと暮す一家。 
貧困の中で妻に先立たれた夫は、残された赤ん坊の世話を愛犬に托します。母犬は仔犬たちを殺し、人間の子を育てるのでした。
「亭主はこれに仰天し、大聲を掲げて歎(なき)叫び、偖(さて)は吾子を頼みし故、恩愛の狗兒をころし、斯はからひし事よとて、犬の頸を撫擦り、屢々なみだにくれるとぞ。實に忠義なる事人をも及ばざる事どもなり(絵と文・暁鐘成 嘉永7年)」

しかし、大部分の人々にとっての犬は群をなして塵芥を漁り、遺体を食い荒らし、人に吠えつく薄汚い獣に過ぎませんでした。忠犬・義犬談が愛されたいっぽう、その辺にいる駄犬は粗末な扱いを受け続けたのでしょう。
長い太平の世では、動物愛護精神も変化していきました。暁鐘成は、犬の遺骸を回収する皮革業者「犬拾い」たちが、三味線ブームが到来した数十年後には生きた犬を片っ端から狩っていく「犬賊」へ変貌していくさまを記しています。
日本人なりのペット観に西洋式の動物愛護が導入されるのは、開国によって一般庶民が洋犬を飼育するようになった幕末以降。ただしそれ以前も、「異国の畜犬文化との遭遇」は長崎、横濱、琉球、蝦夷などで発生していました。

近世日本と外国との接触は、欧米ルートばかりではありません。
北方からはロシア帝国が日露通商を迫り、文化露寇やゴローニン事件などの軍事衝突も発生。北方警備のためカラフト探索へ赴いた役人たちは、アイヌ民族とは文化が異なるニヴフやウィルタという異民族に遭遇します。
そして、彼らが飼育するカラフト犬と、冬期移動手段である「犬橇(ヌソ)」に触れて大いに驚きました。
犬を群れで訓練し、集団行動で荷役や小舟の揚陸に活用し、去勢手術で交配や馴化をコントロールするカラフトの畜犬文化は、日本人にとって未知の世界だったのです(日本で荷役犬が普及したのは明治時代になってから)。

犬
幕末になると、樺太探索の和人がアイヌ、ウィルタ、ニヴフのヌソ(犬橇)を使用するようになります。

幕末の開国を機に、洋犬の飼育は庶民へと拡大。町人が住む町屋跡から大型犬の骨が出土したケースもあります。
外国人の持ち込む洋犬の数も増え、物珍しさから「カメ(外国人が Come in と愛犬を招呼するのを犬名と勘違いした説が一般的)」と呼ばれるようになりました。文久4年の「横浜奇談」では下記の様に記されていますが、古くから犬をカメ(咬む犬の意味)と呼んでいた地域もあるので、結局のところ語源の真相は不明です。

異國の犬をカメ〃といふ事と心得、其犬を見てカメ〃と呼ぶものあれども、左には非ず。彼方にて都て目下の者を呼招くの言葉にて、犬の惣名には非ず
『横濱奇談』より

帝國ノ犬達-カメ
小型犬と外国人女性。年代不明

幕府が開国へと踏み切ったことで、我が国にも西洋文化が流れ込んできます。日本に、「黒船」たる洋犬がやって来たのでした。
そして、日本の犬にとっても激動と変革の時代である明治が訪れます。

(第三部へ続く)