「夫レ狂犬ノ咬傷ヲ受ケタルモノハ、或ハ一ヶ月或ハ二ヶ月ノ間何等異状ナクシテ經過ス。故ニ被害者自ラハ漫然トシテ敢テ意ニ介セズ。醫モ亦咬傷部ノ一時治セルヲ見テ事了レリト爲スモノアリ。
何ゾ知ラン一朝突然病ヲ發スルヤ、何等施スベキノ術ナク、徒ラニ手ヲ拱シテ死ヲ待ツノミ。此時ニ及デ悔ユルモ何ゾ及バン」

田中丸治平『狂犬病説(大正6年)』より

帝國ノ犬達-狂犬病
京都府における野犬駆除告知ポスター(年代不明)。
イラストの犬は「京都〇〇町三十番地 飼愛子」と書かれた首輪をしています。これは飼犬を表したもので、「野犬と間違われないよう畜犬取締規則で規定された住所入りの首輪をしておくように」との意味。

【ロシアから来た猫】

2012年、東日本大震災の復興支援に対するお礼として、秋田県知事からロシアのプーチン大統領へ秋田犬が贈られました。
その返礼としてロシアが佐竹知事へ寄贈したのが一匹の猫(サイベリアン種)。ところがこのニャンコ「農林水産省の定める検疫期間を満たしていなかった」として、規定の180日間を成田に留め置かれることとなったそうです(狂犬病のない指定地域で12時間、狂犬病発生地域から持ち込まれる犬猫には潜伏期間である180日の経過観察を要します)。

この杓子定規なお役所仕事に対し、心優しい人々からは「猫がカワイソウ」「180日とは厳し過ぎる」「超法規的措置でさっさと入国させろ」との非難が浴びせられています。

厳し過ぎますよね。
カワイソウですよね。

では、たかが一匹の猫に対して何でこんなに厳しい措置をとらねばならないのか、感情論ではなく理屈で考えてみましょう
……念の為書いておきますが、「ロシア憎し」とか「ネコと引き換えに北方領土を返せ」というのが検疫の理由ではありませんよ。

日本は狂犬病の発生が途絶えた国。
そして、ロシアは狂犬病が発生し続けている国。
この差は犬の世界にとって天と地ほどに違うのです。
こと狂犬病に関して「グローバル化」などという概念はゴミ箱へ放り込んで結構。水際防御が最優先です。

狂犬病は、現代医学をもってしても治療することはできません。
動物に感染した狂犬病ウィルスは唾液の中にあふれ出し、興奮状態の動物が人間に噛みつくことで人体に侵入。神経伝いに脳へと到達し、激烈な症状を生じさせます。
神経症状で風や光に過敏となり、咽喉の痙攣と激痛で水を飲むことができなくなり、精神錯乱と麻痺を繰返しながら衰弱し、やがて呼吸困難で死に至る。外科手術や医薬品では治せない、まさしく死の病です。
もし、今回の件で「カワイソウだから入国させろ」と叫んだ人の中に愛犬家や愛猫家がいたとしたら、愛する犬猫を死の危険に晒そうとした犯人は、誰でもないその人自身。
ニセモノの愛犬家であり、口先だけの愛猫家であり、憎むべきペットの敵です。

ロシアからの猫を超法規的措置で入国させろ?
オノレの無知を晒している割に、難しい言葉をご存知なんですね。無知には変わりないですけど。
ロシアから狂犬病の侵入を許した結果、明治時代の犬たちがどんな目に遭ったのかを記しておきましょうか。
「心優しい人々」が無自覚なまま再現しようとしていたのは、下記のような犬のジェノサイドです。


戦前の狂犬病予防注射の様子。

「昨年三四月の頃より青森縣下に狂犬病流行し、今日に至るも尚ほ人畜の害を被るもの多く、現に被害者にして遥々上京し芝三光町の傳染病研究所にて治療を受けたるもの三名あり。
其一名は同縣太田清橘氏三男軍三郎(十一)にて、入院當時既に狂犬病を發して居たれば、終に手を下さん様なく入院後六七時間にして死亡したれば、清橘氏は悲嘆の中にも病理研究の資に供せんとて、愛兒の死體解剖を同所に託したるよし。
元來同縣下に於いて該病の流行し始めたる起源は日露の講和成りて滿洲軍の凱旋したる時、露犬を携へ歸りたる者あり。
然るに該犬は滿洲に於て既に狂犬病に感染し居たりと見え、到着後間もなく該病發作したるに始まれるなりといふ。
去る三十三年中、熊本縣下に於て同病の流行したる際には十九頭の狂犬發生した爲めに二十一頭の牛と三十四頭の馬に感染し、大分縣にては十八頭の狂犬より三頭の牛と二十三頭の馬體に傳染し、又翌三十四年にも七頭の狂犬より十一頭の馬と十九頭の牛に傳染したる事實あり。
左れば青森縣下の如き牧畜地方に於ける今般の狂犬病流行は最も注意すべき事ならんと云ふ」
「青森縣下の狂犬病(明治39年)」より

「狂犬病の流行地域に於ては日夜人心恟々として安逸なる能はず、其人畜共通の傳染病たると之が豫防制遏の難渋なる點に至つては諸種の悪疫中屈指の難物に属す。
數年前北海道小樽市に旅行したるとき、偶々本病の流行猖獗を極め、幾多の病犬は市井を狂奔して人畜を咬傷し、之が爲めに猛烈の病状を呈して鬼籍に登るもの續々相継ぎ、終に市街は人馬の往來を杜絶し、民心の不安は例ふるに物なく、所有者は窃かに畜犬を戸外に放つに至りたるを以て、無數の畜主なき犬族は恣に逸走して愈々病毒を傳播するの惨状を致せり。
爰に於て當局は小樽全市の畜犬を殆んど悉く撲殺し盡すの断乎たる處置に出で、之に依りしも凶暴を逞ふしたる狂犬病も唯一の傳播素を失ふて清隠に向ひ、漸くにして病毒の跡を断つに至れり。
時恰も放牧時期に際したるを以て、各牧場に於ける牛馬の被害亦莫大にして、感染動物が目前に劇烈なる病状の下に斃るゝの惨況を見るもの皆呆然自失復た爲す處を知らざるに似たり。
此場合に於ける病毒の侵入經路は遠く露領より室蘭に輸入せられたること明瞭にして、從て未だ侵襲區域比較的廣大ならず殆んど密集的なりしを以て、當局の断乎たる處置も之を施すの餘地ありしと雖も、現今東京府及其隣縣、又は九州地方に於けるが如く漸次流行區域を波及して、常在地の觀を示すに至りては如斯單純過劇なる手段を以て、豫防制遏の効を奏せんことは到底望む可らず。而して本病は明治初年より中年の頃に至る迄は僅に二、三重要の都市に局限したるも、交通の頻繁と愛犬熱の隆盛とは本病の瀰漫を輔け、今や都邑の別なく我國の大部を襲はんとするの情勢を示せり」
佐藤悠次郎『畜犬保護と狂犬病豫防制遏策如何(大正2年)』より

北海道へ侵入した狂犬病は、沿岸部の漁村を伝いながら急速に拡大。封じ込めに失敗したことで全道へ蔓延してしまいます。多数の犬と、そして道民の命が失われました。

今回のロシア猫の措置は確かに大袈裟ですが、そうするだけの十分すぎる理由はあるのです。
名称で勘違いされがちな「狂犬病」は、犬だけの病気ではありません。ハムスターのような小動物から犬猫、牛や馬といった家畜、イルカなどの海獣、そして人間まで含めた全ての哺乳類が感染する恐ろしい病気です。
「ネコと狂犬病は無関係」など勘違いしている愛猫家が混乱に拍車をかけているのでしょう。もしも一匹のネコが感染したら、地域すべてのネコが迫害される可能性すら想像できない。
「非常時にペットを飼うのは不謹慎だ」と戦時下で犬猫を迫害した一般市民の同調圧力は、現代日本にも受け継がれている筈。21世紀の日本に狂犬病が侵入したら、愛犬家や愛猫家は近隣住民から「非国民」として迫害されるのです。

我が国の獣医学史や畜産史を繙くと、多数の牛や馬が狂犬病に感染していたことが記録されています。
ネコの発症例が知られていないのも、野良猫の感染状況を把握する事が困難だっただけ。そちらの発症記録は幾つもありますから、実際の感染数はもっと多かったのでしょう。
まずは牛への感染事例。

「大分縣下毛郡下郷村に於てハ去年(八月)十八日より狂犬病を發生し、牛馬ニ拾頭該病に罹り内馬三頭牛十四頭斃死せり。
是より先本年六月頃より同村近傍に無主の牝犬あり。猫或は鶏等を見る毎に輙ち之を咬傷す。人皆奇異の思を爲せしが八月十八日頃牝牛一頭病に罹り獸醫の診察に依り狂犬病なるとを發見し狂犬を捜索せしめしに同村内に二頭の狂犬あり。直に之を撲殺し其他感染の疑ある犬ハ悉く撲殺せしめたり。依て病勢減退するを得たり云々」
『東京獸醫會報(明治25年)』より

続いて猫の狂犬病感染事例を。

「小林銀平さん方で飼つてゐたクロといふ五歳になる可愛い猫、どうしたか去る七月に呪符二日突然狂ひ出して暴れ廻り、果は日頃可愛いがつてくれる細君にかみついたので銀平さんが怒つて早速ぶち殺してしまつたが、氣になるので荏原署を通じて警視廳の細菌檢査所で檢鏡してもらつたところ、十二日まがひもなく狂犬病とは一寸珍だが、多分狂犬にまみつかれたか猫の身體に傾があるかして傳染したものらしく、かいいふ變つた病も東京では三年に一匹位は出るといふ話。かみつかれた細君は萬一と思つて狂犬病の豫防注射をしてゐたので危いところを助かつた」
東京朝日新聞より(昭和5年)

「三年に一匹位」という比率は本当らしく、昭和8年にもネコが感染しています。

「八月五日、牛込若松町の水野家畜病院へ、バスケツトに入れた一匹の猫が連れられて來た。持主は中野方面の人で、どうも猫の様子が只事でない、無やみと昂奮し、矢鱈に畳や柱に爪を立てゝ困るといふ。
水野さんがバスケツトの蓋をとると猫は目を爛々と光らせて、今にも飛び掛らん姿勢。これは困つたと思つた水野さんは、そのまゝ診察所の臺の上に置いたが、小一時間も經過して急に静かになつたので開いて見ると、既に猫はこと切れてゐた。
あんなに狂暴であつたものが、こんなに急激に死ぬなぞとはどうも在り來りの病氣らしくない。その症状が、そつくり狂犬病と似かよつて居るので、もしや狂犬病ではあるまいかと水野さんは考へた。猫にも稀には狂犬病がある。もし本物だつたら学術的にも面白いと水野さんは翌日警視廳細菌檢査所三河島派出所に勤務してゐる舊友梅本欽堂さんにその猫の屍骸を送つて檢査を乞うた。
それを受取つた梅本氏は、夏期のことで屍骸にも色んな雑菌が生じてゐるであらうとまづグリセリン液に〇・五プロセントの炭酸を入れた中に浸して、一晝夜氷室の中に入れ、雑菌の死滅を計り、かくて翌七日の日、猫の腦の成分をとつて兎の脳に植ゑつけた。狂犬病は一名恐水病、又は市街病といひ、兎の反応は二週間程を要するものであるが、植ゑつけてから十五日目、當の兎は狂暴なる狂犬病の症状を呈し、水野さんの推定は正しく的中した。
以下梅本さんのお話。

猫の狂犬病は他の牛馬の場合より多いと思はれますが、然し非常に稀で、私が取扱つたのは今度で二度目です。たしか大正六年頃ですか、戸山ケ原の草叢中に捨てられた小猫が人間を見ると飛びついて來て、これに手を出して噛まれたものがニ三人、あつたと聞きます。私が扱つた最初の場合は、震災前、深川扇橋付近で、狂犬病の被害者が四五人ありましたが、噛んだ犬は奇妙なことに猫から病氣が移つたのでした。即ち狂犬に噛まれた猫が、又他の犬に咬み返したのです。
猫が狂犬病になる經路は、一般に、食餌をやらなかつたり、或は發情の時期に性欲を滿足させなかつたりすると、起つて來ると考へられてゐますが、決してそんなことはなく、狂犬から噛傷を負ふか狂犬病にかゝつた他の動物から咬まれたりしなければ罹るものではありません。動物同志のことで、いつ噛まれてゐるか知れません。とにかく猫は屋内で飼はれる場合も多いので、狂犬病にかゝるやうなことがあれば犬以上に危険なわけです。少しでも食慾不振、擧動不安、神経興奮の状態など見えたら、速に専門醫に健康診斷を乞はれるやう常に注意されたいものです」
『愛猫家は御用心・猫の狂犬病今夏中野方面に發生(昭和8年)』より

プーチン大統領の猫はカワイソウでしたね。それもすべて、我が国に住む人々や犬や猫や家畜を、狂犬病の脅威から守るためだったのです。
ロシアの猫と、オノレの愛犬とどっちが大事ですか?
少なくとも愛犬家や愛猫家だけは、当局のガードの固さを誉めるべきだったのです。
もしかしたら「綱渡りの安定」を維持している日本列島を「絶対的な安全地帯」だと勘違いしている愛犬家や愛猫家が多過ぎるのかもしれません。
日本人の頭の中は、易々と突破された「絶對的國防圏」とやらを妄信していた戦時中から何も進歩していないのでしょう。
薄っぺらな動物愛護は、却って動物を不幸にするんですよ。

帝國ノ犬達-狂犬病
狂犬病との戦いでは、非感染犬も犠牲となります。
狂犬病を封じ込める有効策は、感染・非感染に関わらず発生地域の犬を殲滅する事でした。鳥インフルエンザや口蹄疫における鶏・牛・豚への対策と同じコト。放し飼い・捨て犬・豫防注射忌避といった無責任な飼主の多さから、当局の予防策でも犬の数を減らすことに重点が置かれています。

今回のニュースは、「日本人と犬」に関するとても深刻な話なのです。
検疫への意識が日本とロシアでこれだけ違うのは何故か?
日本へ輸入される膨大な数のペットに対する検疫体制はどうなっているのか?
日本にいる犬以外の動物については、本当に狂犬病が根絶したという保証はあるのか?
島国だから安心といっても、海を渡ってくる海獣の感染は大丈夫なのか?

それらを考え直す良い機会だったのですが、中にはピント外れの報道も目につきました。警鐘を鳴らすどころか、「狂犬病注射と獣医界の利権」などと事態を茶化すメディアまであったのです。
防疫は防疫、利権は利権の問題で切り離して論じればいいのにね。問題と真摯に向き合いもせず、何やってんだか。

海外から膨大な数のペットが輸入されている現在、「50年間発生していないから、この先も発生する可能性は限りなくゼロ」という保証はあるのですか?まさか、いまだに鎖国でもしているつもりなの?
こうまで堂々とトンチキな主張をする以上、「50年より以前」の日本人が払った多大な犠牲なんか調べてすらいないんでしょうね。
たとえ50年、いや100年間発生しなくても、101年目に発生したら大変なのです。それは日本という国が多大な犠牲と費用を払って得た教訓であり、万一への備えなのです。
畜産・獣医界と家畜伝染病との長きに亘る苦闘も知らず、2010年に口蹄疫の侵入を許した挙句にパンデミックへ発展した事実と、それが惹き起こした惨禍と経済的損失、いまだ感染経路すら解明できない体たらくすら忘れて、よくもまあ「可能性はゼロ」とか口に出来ますね。

この程度の認識で「狂犬病については心配ない」「発生の可能性はゼロに近い」「超法規的措置で入国させろ」などと主張されては、滑稽を通り越して恐怖です。
彼らは、下記のような「狂犬病の時代」を甦らせたいのでしょうか?

「故に本病は既に業に醫界の問題として盛んに研究せられ、未だ其病源體の検索は遂げられずと雖も、之が豫防注射法は彼の有名なるパストール氏の創設に基きて行はれつゝあり。抑も此パストール氏の注射法は狂犬病毒を接受し易き職務に在るものは勿論、一般の豫防として有力なると共に、既に病犬に咬傷せらるゝも速に之を施すときは、人命を救助し得べきものにして、世人は深くパ氏の恩恵の偉大なるに感謝せざるべからず。
然れども免疫を完結するには普通十八回の注射を施したる後なるを以て、幸ひ病毒の潜伏永きときは、被咬傷者の生命は注射の完結と共に救はれると雖も、不幸にし其の潜伏を短縮すべき諸種の事情、例へば脳脊髄に近き部位を咬傷せられ、或は毒量の多量、年齢の幼稚、甚しき暑熱、高調の喜怒哀楽樂により數日を経ずして早く神經中枢を侵すときは、未だ注射液が免疫力を賦與せざるに先ちて街上毒の爲めに發病し、終に該注射は無効に終ることあり。
又恙なく注射を完結したる後に在りても、稀有の例としては爾後二ヶ月を経過して突然恐水症状の發作を來し、終に本病の爲め斃死したる事實あり。蓋し此等は例外の例となすも被咬傷後約二旬完全に免疫注射を終る迄に發症したる場合は、パ氏の法又如何とも爲す能はざるが故に該法に信頼して狂犬の被咬を軽侮するが如きは誤まれるの甚だしきものにして、而も注射液の普及未だ一般的ならずして僅かに概要の部分に指定せらるゝは極めて遺憾となす。
翻て我家畜に就て見るに、偶々牛馬に此法を試みる場合なきにあらずと雖も、之に實用するは今日の事情到底之を容るゝ能はず。況んや犬族に對しては寧ろ甚だ危険の方法として未だ實際的に其應用を見ることなし」
佐藤悠次郎『畜犬保護と狂犬病豫防制遏策如何(大正2年)』より

(人口減で行政機能が縮小する将来はともかく)飼育マナーが向上した現在、過去のような大規模感染の可能性は確かに低いでしょう。
しかし、狂犬病犬病の恐ろしさは症状だけに限りません。見えない殺人ウィルスに対する恐怖心は、感染源である犬への敵意まで感染させてゆくのです。噂やデマや悪意による疑心暗鬼により、戦後半世紀以上をかけて築き上げた日本人と犬との関係が崩壊しかねないのです。

我々が忘れてしまった狂犬病の恐怖。それは幸福な時代を意味するのですが、偶には「不幸だった暗黒時代」を振り返ってみましょう。
こういうのは淡々と書いても仕方ないので、「ホラホラ怖いんだぞ~」的な内容にしております。

我が国の現状は平穏ですから、これが未来永劫続けばよい訳です。日本狂犬病史は、その安定を維持するための参考書として捉えましょう。
それを無意味だと切り捨てた時、日本は再び狂犬病の恐怖に晒されるのです。
※対象を哺乳類全般に広げると収拾がつかなくなるので、ここでは「日本に於けるイヌの狂犬病」を中心に解説します。

【近世日本の狂犬病史】

帝國ノ犬達-狂犬咬傷治方
東都医官 野呂元丈著『狂犬咬傷治方』 宝暦6年

日本は海に囲まれた島国であり、元々は狂犬病も存在しなかったと思われます。それにもかかわらず、狂犬病の発生は繰り返されていました。
日本で初めて狂犬の駆除について記されたのは「養老律令(717年)」。それから1000年の間、狂犬病は北海道を除く日本各地で発生し続けます。

帝國ノ犬達-狂犬咬傷治方

画像の『狂犬咬傷治方』の冒頭でも「それ狂犬乃人を咬(くふ)こと吾邦古来未だこれをきかず。近年異邦より此病わたりて西国にはじまり中国上方へ移りちかごろ東国にもあり」と、記されています。

鈴木俊民によると、野呂元丈が狂犬病治療について著述していた元文丙辰年(1736年)「其頃東國に狂犬流行してこれに咬傷さるゝ者多くは死す」とあり、 俊民自身も「余大坂に僑居すること十余年、今猶上方狂犬絶へずして死する者少からず(宝暦6年/1756年)」と関西地方での狂犬病流行について記しています。
鎖国政策によって海外からの侵入経路が絶たれていた筈の江戸時代、「狂犬」「癲犬」「風犬」「猘犬」「ハシカ犬」と恐れられた狂犬病感染犬がどこからやって来たのか。

記録では、長崎あたりで発生した狂犬病が関西へと伝播し、数年で関東へと達していたとあります。
長崎と言えば出島を通じて海外との窓口であった場所。そこへ上陸した病犬が、地域の野犬を通じて街道沿いに感染を広めていたのでしょう。



我が国は、どのように狂犬病対策へ取り組んできたのか。
病を駆逐するまでにどれ程の代償を払ったのか。
その90年間の闘いについて取り上げます。

(明治編へ続く)